2012年11月10日土曜日

廃校利用のものすごく斬新なアイデア

先日、廃校になっている笠沙高校の敷地に入る機会があった。

県立笠沙高校は2006年に廃校になってもう6年以上経つが、跡地利用がなされないまま放置されているようでもったいない。

市でも「笠沙高校跡地対策協議会」なるものを設置して有効利用できないかと検討してきたようだが、意見がまとまらないまま宙ぶらりんになっていたようだ。先日所有者である県から「グラウンドをメガソーラー設置の用地にしたい」という打診があったということでこれを受諾。あわせて、校舎等については既に痛みが激しいということで、委員会では撤去して更地にするよう県に要望することとしたという。

有効活用の良案もないので県の打診を受けたのだろうが、グラウンドへのメガソーラー設置には惹かれない。アクセスのよい広い土地をメガソーラー用地などにするのはもったいないし、そもそもメガソーラーなんて補助金が切れれば一発で赤字になる事業だ。ゴミになったソーラーの山で埋まらないとよいが…。

さらに、建物が傷んでいるから取り壊す、とのことだが、これだけの施設であり取り壊しにもかなりの金がかかる。外観からしか判断できないが、修繕した方が安上がりなのでは? というのが率直な感想だ。もちろん更地にした後の利用のめどがあるならいいのだが。

そんな中、先輩農家Kさんが、ものすごく斬新な跡地利用のアイデアを世間話で言っていた。曰く「納骨堂にしてしまえばいい」とのこと。大浦・笠沙は高度経済成長期に人口が非常に流出した地域であるが、今後10年程度で流出した団塊世代が一挙に老後を迎えることを考えると墓・納骨堂は意外に供給不足である。

都会に墓を作る人もいるだろうが、墓くらいは故郷に…という人も多いだろう。その際、古くからの集落の共同墓地・共同納骨堂に入れられればいいが、子や孫が定期的に管理することができない場合、寺や墓地会社の永代供養の方が好ましい。荒唐無稽なアイデアに見えて、実は経営的にいけるのではないか。

さらに、もし大規模な納骨堂ができれば定期的に法事があるので地元経済も潤う。花卉類、食事はもちろん、僻地なので宿泊にもお金が落ちるだろう。もちろんテナント利用や企業誘致など、経済効果の高い利用法の方が望ましいのはいうまでもないが、この過疎地域に高望みはできないことを思えば、納骨堂は悪くない。それに、かつて若者が歓声を上げた学舎が納骨堂となるとなれば、高齢化時代の最先端ということで廃校利用の極北として注目も集めそうである。

全国的にも、今後10年程度で団塊世代がどんどん鬼籍に入る時代が来る。つまりその前に、墓地需要は日本史上空前絶後の高まりを見せるのが明白である。今後20年くらいは、夥しい人間が死ぬ時代、そのために心のよりどころを求める宗教の時代になると思う。私がシキミに注目したのも、そういう背景がある。廃校利用の納骨堂はともかくとして、葬儀ビジネスは有望だと思うので、地方活性化の一つの方策になるかもしれない。実際に、静岡県新居町では商工会で葬儀ビジネスに取り組んで成功しているという。葬儀ビジネスというとなんだかアコギな印象もあるが、今の葬儀はなんだか味気なく形式的な感じがあるので、地域で暖かな葬儀や埋葬ができ、かつ経済的にもうまくいけばとてもいいことだ。

2012年11月6日火曜日

ぽんかんドレッシングのチラシをデザインしました

果樹農家の先輩が開発している農産加工品のチラシを作らせてもらった。

写真撮影、文面作成、デザインの全てが素人仕事なので、本職がつくるものに比べて詰めが甘い部分があるが、それなりのものが出来たと思う(自画自賛)。

商品の内容については下のチラシを見てもらいたいが、要は、廃園寸前のポンカン園で無農薬栽培したポンカンの果汁を、ふんだんに使って作ったドレッシング。味は、単体では「めちゃうまい!」というものではないが、独特な風味・酸味があり、これとマッチする料理にかけると本領発揮する。

個人的に一番のオススメは、(季節外れだけれど)冷やし中華にごまドレッシングと混ぜてかけることで、これは工夫すればご当地グルメとしてヒットするレベルだと思う。ごまの甘さとポンカンの酸味というのは、かつて組み合わされたことがなかったのではないか。意外だが非常にうまい。この他、唐揚げにかけるのもかなりイケる。ポンカンの香りと爽やかな酸味で、ありふれた普通の料理がかけるだけでいつもとは違うテイストになるのがいい。

なお、チラシに載せているドレッシングは去年制作されたもので、今年のドレッシングは現在制作途中。ちぎる時期や、搾汁方法が昨年と変更されており、順調に完成までこぎつけるか実は未知数であるが、農産加工は自分としても取り組みたい分野なのでぜひ成功してもらいたい。このチラシが、少しでもそのお役に立てればいいのだが。

ちなみに、まだ非売品なので、発売されたら改めてお知らせすることにしたい。

2012年11月1日木曜日

南さつま市定住化促進委員会(その4)

既に1週間ほど前になるが、第4回の「南さつま市定住化促進委員会」が開かれた。

あなたの移住トコトン! 応援事業」と「起業家支援事業」の2本立ての施策案をまとめ、その他いろいろな施策をパッケージにしたものを移住定住推進施策群とする方向だ。

この構造はこれまでの議論で大体決まった感じだったので、今回はやや細かい話となった。意見交換全体の内容は要約しないが、私が空き屋バンクについて発言した内容をちょっとだけ紹介したい。

空き屋バンクについては以前このブログでも取り上げたが、その利用は低調だ。その理由は次の2つが大きいと思う。第1に、法事などで時々使用するからということ。そして第2に、人に貸すにはまず片付けなければならないが、片付けるのが面倒だということ。実際、ほとんど倉庫的な利用がされている空き屋は多いと思われる。

しかし、倉庫とはいえ内実はガラクタの山というケースがほとんどだろう。つまり、処分するのが面倒だから事実上置きっぱなしにしているだけで、家財管理としての倉庫ではない。また、そうなっている場合は既に所有者は現地を離れており、さらに高齢化している場合も多い。持ち主側としても、結局いつかは身辺整理をしなくてはならない、という懸案をかかえたまま過ごしているのではないか。

そこで、「片付けて空き屋バンクに登録すれば補助金を出す」という制度があったらどうか、と発言した次第である。空き屋を貸して賃料をもらいたいという人は少ないと思うが、いつかはしなければならない片付けに補助金が出るとなれば、飛びつく人もいるかもしれない。

事実、「片付け補助金」というのは他の自治体で既にあり、ちょっと調べただけだが例えば島根県飯南町で実施されている。飯南町の場合は「経費の半額を助成」だが、定額でもいいと思うし、いっそのこと「役所が無料で片付けます」でもよい。

その代わり、片付け当日に置いてある家財は問答無用で全て回収することにして、廃校になった小学校の教室にでも置いておき、市民が少額で購入できるようにすると面白い。 古民家のようなところも多いので、見る人が見れば価値の高い民具や家具も集まるかもしれない。もちろんほとんどはガラクタだろうけど、その方が宝探しのようで楽しいと思う。

我が家の周りにも空き屋が数軒どころではなくあるが、有効利用されているとは言い難い。つまり、空き屋はあるのに入居可能な「物件」はない。いろいろと事情があるのはわかるが、この地域で家探しをしてもほとんど物件が見つからないのは、移住者を呼び込む以前に、住民にとっても困った問題である。

役所の方では、新築への補助金とか、市有地をデベロッパーに格安で払い下げてマンション等を開発するとかの案を出していて、新しく家を建てる方に熱心なようだ。しかし、空き屋問題はこれからどんどん加速していくことが予期されるので、そういう観点でも施策を検討してもらいたいと思う。空き屋をこのまま放置していると、この地域は廃屋だらけのゴーストタウンになってしまいそうである。

【参考リンク】
南さつま市定住化促進委員会(第1回)
南さつま市定住化促進委員会(第2回)
南さつま市定住化促進委員会(第3回)

2012年10月23日火曜日

「国産紅茶終焉の地」としての枕崎

鹿児島の枕崎市に、「紅茶碑」というのがある。また、インド アッサムから導入した紅茶の原木もある。

曰く「この地に於いて我が国で初めて紅茶栽培が成功した。当時、枕崎町長今給黎誠吾氏は昭和6年印度アッサム種の栽培に着目してこの地に育て…」とのこと。ともかく枕崎は「日本国産紅茶発祥の地」を誇っているのであるが、これは事実だろうか?

私はこれに違和感を感じ、いろいろと調べてみたが、結論を先に言えばこれは事実ではない。残念なことに、枕崎は国産紅茶発祥の地ではないのだ。では、国産紅茶の歴史において枕崎はどのように位置づけられるのだろうか? 非常にマニアックになるが、国産紅茶の歴史を繙き、枕崎における紅茶生産の持つ意味を探ってみたい。

日本紅茶の歴史は、殖産興業に邁進していた明治政府が「紅茶産業が有望では?」と目をつけたことに始まる。明治政府は、静岡に移住し茶栽培に取り組んでいた旧幕臣の多田元吉を役人に取り立て、中国、ついでインドに派遣し栽培・製造方法を習得させる。中国式の製造法はうまくいかなかったが、インド式の製造法で成功し、ここに日本紅茶の生産が開始する。

多田がインドから帰国したのが1877(明治10)年。同年、高知県安丸村に試験場を設けて自生茶を原料として紅茶が作られた。本当の日本紅茶発祥の地は、この高知県安丸村であると言うべきである。ただし、この紅茶はあくまで日本在来の緑茶の樹を使い、製法のみインド式紅茶にしたわけだから本格的な紅茶生産の開始ではない(緑茶の茶葉を紅茶に転用しただけ)。

ちなみに、多田元吉は「近代日本茶業の父」などと呼ばれ、日本の紅茶・緑茶産業の基礎をつくった人物である。多田はアッサムから持ち帰った紅茶の種子を自身の農場である静岡県丸子(まりこ)で栽培するとともに、各地に播種した。紅茶用茶樹の栽培に初めて成功したのはこの静岡県丸子であり、「紅茶碑」にいう「この地に於いて我が国で初めて紅茶栽培が成功した」というのは事実ではない。これは「紅茶碑」の昭和6年に先立つこと50年以上も前の話である。

それからの日本紅茶産業の歴史は波瀾万丈で非常に面白い。紅茶は緑茶と違いグローバル商材であるため、世界情勢に大きな影響を受け、その歴史はまさに世界(主に米国)に翻弄された歴史であった。

まず、多田帰国の翌年である1878年には政府は各地に伝習所(研修施設)を作り、技術の向上に努め、そのおかげで1883年に米国への販路が開けたところが近代紅茶産業の幕開けとなる。ちなみに、それまでは政府は三井物産に委託してロンドンへ紅茶を販売するなどしており、このおかげで三井物産は大もうけし、これは後の日東紅茶へと繋がっていく。

実は、米国は紅茶よりも遙かに多い量の緑茶も日本から輸入していたのだが、1899年、米国はスペインとの戦費調達のため茶に高額な輸入税をかけ、これが日本の緑茶・紅茶業界に打撃を与えた。これは米西戦争後すぐに撤廃されたが、続いて1911年、米国は「着色茶輸入禁止令」を制定。どうもこの頃の日本紅茶は着色料で色つけしていたらしく、これも日本の紅茶業界に衝撃を与えた。明治後半は、米国の政策により茶業界が翻弄された時代といえる。

このように重要顧客である米国への輸出が不安定だった中、1914年に第一次世界大戦が開戦、これにより日本紅茶業界は空前の好況を迎える。これは、イギリスがインド・セイロンからの紅茶輸送船を戦争に徴用して、イギリスからの米国向け紅茶輸出が激減したためであった。しかしこの期に乗じて日本は木茎混入品など低劣な紅茶を大量に輸出。これで米国消費者の不信を買い、流通が正常に戻った戦後は対米輸出はむしろ低迷することになる。折しも1920年、米国は「禁酒法」を制定。インドやセイロン、ジャワなど紅茶産地はこれを好機と見て米国で紅茶の大キャンペーンを開始するが、これに乗り遅れた日本紅茶の存在感はさらに希薄になっていく。空前の好況の後の低迷、これが大正期の日本茶業だった。

1919年、政府は国立茶業試験場を設立し、それまで不十分だった紅茶用の茶樹の育種に取り組み始める。紅茶の価格は国際情勢(というより米国の情勢)に大きく左右され、その品質を高めようというインセンティブが少なかったためか、明治後期に行われていた茶の指定試験(国費により各地の試験場で行われる試験)がこの頃は中止されていたのだった。国立茶業試験場の設立を契機として1929(昭和4)年に指定試験を再開。全国各地で紅茶の指定試験が行われたが、知覧(※1)と枕崎(※2)でもこれが行われた。昭和初期は、紅茶の品質向上が目指された時代だった。

そうした中で1933年、突如として日本の紅茶産業に空前絶後の好況が訪れる。世界恐慌で世界的に紅茶の需要が減り、在庫が激増、価格が半分ほどにまでに下落。これを受けてインド、セイロン、ジャワという紅茶の中心産地が5年間の輸出制限協定を締結し、世界的に紅茶の流通が一気に減少したのだった。そこで日本紅茶への注目が集まったというわけで、輸出量は1年でなんと20倍以上に増え、イギリスまでもが相当量の日本紅茶を買い付けたといわれる。輸出制限の最終年である1937(昭和12)年には、日本紅茶は史上最高の輸出を記録。しかし、これが日本紅茶産業の最後の仇花であった。

全国各地で行われていた紅茶の試験は、この好況の中でも徐々に廃され、1940年度には鹿児島に集約された。その理由は明確でないが、価格の浮沈が激しいだけでなく、国民所得(賃金)の増加によって世界的な競争力を失いつつあった紅茶への関心が薄れ、日本の茶業界が緑茶に収斂していった結果のようである。つまり、国内の誰もが紅茶を見捨てていく中で、鹿児島だけが細々と紅茶研究を続けていく(いかされる)ことになった。しかも、太平洋戦争によって紅茶用茶樹の品種改良は戦前にはあまり成果をあげられなかった。

戦後、高度経済成長によって国産紅茶は国際競争力を失い、国内市場でも緑茶が支配的になる中、1963(昭和38)年3月、枕崎に九州農業試験場枕崎支場が設立され、ここが紅茶栽培奨励と紅茶用品種の開発に邁進することとなる。しかしこれは、紅茶の試験場としては遅すぎる出発だったと言わざるをえない。というのも、同年2月、農林省が「国産紅茶の奨励はもう行わない」ことを決定しているのである。ちなみに、知覧に存在していた農事試験場茶業分場も枕崎支場に統合され、この枕崎支場は国内唯一にして最後の紅茶試験場であった。

なお、枕崎では昭和初期に紅茶の試験地(試験場ではない)が設置されたことから、その栽培もその頃から行われていた。日東紅茶も枕崎に直営の茶園と工場を経営していたし、昭和40年代では県内の紅茶生産量の約半分が枕崎産であった。しかし、枕崎支場が設置された時期には輸出用の紅茶は競争力を完全に失っており、枕崎の生産は国内向けだった。ところが1971年の紅茶輸入自由化で国内消費の命脈も絶たれ、同年紅茶の集荷は中止。高知県安丸村で始まった日本近代紅茶産業の歴史は、ここに枕崎でその幕を下ろしたのである。

つまり、枕崎は「日本国産紅茶発祥の地」というより、「日本国産紅茶終焉の地」なのだ。これでは余りにネガティブな表現だと思われるだろうが、実はこの紅茶奨励にあたった県の職員が、「今になってみれば『何んであのようなボッチな計画を立てたのだろう。』」と当時を苦々しく述懐している。そして自分の仕事は「紅茶産業の終戦処理」だったとまで述べた上、「20数年間にわたり多額の投資をして、紅茶奨励に失敗した過去を反省し、ご迷惑をかけた生産者にお詫び申し上げ、紅茶産業奨励の思い出とする次第です」と結んでいる(※3)。どうも、枕崎の紅茶産業は、既に斜陽化していたものを引き受けさせられた形であり、輝かしい過去といえる過去がないようなのである。

しかし、しかしである。先日紹介したように、現在の枕崎では「姫ふうき」という絶品の紅茶が作られている。そしてこの「姫ふうき」を生み出している「べにふうき」という紅茶用の品種は、多田元吉がアッサムから持ち帰った紅茶の種子を品種改良することで、ようやく1995年になって遅咲きの枕崎支場において生み出されたものなのである。私は、昭和40年代に行われていた紅茶用品種の研究が、細々と続けられてきたことに驚愕した次第である。しかも、この「べにふうき」は日本紅茶開発史の到達点とも言うべき優れた品種なのであるが、それだけではない。この品種に含有されるメチル化カテキンという物質が抗アレルギー作用を有していることが近年明らかになり、花粉症対策などとしてその緑茶が次々と製品化されている。

よく、「鹿児島は周回遅れのトップランナー」と言われる。 この「べにふうき」開発までの長い歴史を見ても、そう感じるのは私だけではないだろう。一度終焉を迎えた日本紅茶が最近各地で復活の兆しを見せているが、その最高峰に枕崎の「姫ふうき」があるのは面白い。残念ながら枕崎にある紅茶の原木と「べにふうき」に系統関係はないが、紆余曲折を経ながらも受け継がれた国産紅茶の歴史が、今後、枕崎でまた新たな展開を見せることを期待している。


※1 正確には、鹿児島県立農事試験場知覧茶業分場
※2 正確には、鹿児島県立農事試験場知覧茶業分場枕崎紅茶試験地
※3 参考文献に挙げた『紅茶百年史』p511 「紅茶産業奨励の思い出」(鹿児島県園芸課 池田高雄)より引用

【参考文献】
『紅茶百年史』1977年、 全日本紅茶振興会

2012年10月21日日曜日

サクラノヤカタでボンチャチーノを飲む

南九州市の川辺に、清水磨崖仏という仏教遺跡があり当地は公園となっているが、そこに「サクラノヤカタ」というカフェがある。

そこで、梵字をあしらったボンチーノ(カプチーノ)、ボンチャチーノ(抹茶ラテ)というものを飲むことができるというので行ってみた。

家内が頼んだボンチーノは、カプチーノとしても美味しいということだったが、ボンチャチーノの方は、味はまあそれなりというものであった。しかし、梵字をあしらった抹茶ラテなど他の場所では飲めないわけで、相当にプレミアム感があり、非常によいメニューだと思う。

ちなみに、この店には同様に梵字をあしらった「梵字プリン」や「梵字ロール(ロールケーキ)」もあり、こちらもなかなか面白い。

「どうして抹茶ラテに梵字が?」というのがわからない人のために一応解説すると、これは清水磨崖仏に由来している。この磨崖仏は、平安後期から明治までの長い間に断崖絶壁に刻まれた一群の仏教彫刻を指すが、特に秀麗なのが「月輪三大梵字」(鎌倉時代)と、日本一大きな五輪塔表現と言われる「大五輪塔」(平安時代後期)であり、ともに梵字の薬研彫り表現が素晴らしい。

つまり梵字は清水磨崖仏を象徴するものであり、これをカプチーノや抹茶ラテに配することで「いかにも清水磨崖仏」な雰囲気を出しているというわけだ。梵字というと、なぜか血気盛んな男性に人気があり、最近はシルバーアクセサリーなどによく使われるが、この場所で梵字を使うことはわざとらしくもなく、特別感もあり、素晴らしい工夫だと思う。こういうちょっとした工夫をしてくれるだけで、満足感は全く違ったものになる。

ちなみにこの「サクラノヤカタ」、建物がめっぽう変わっている。川辺仏壇の工芸の技を活かして作られた建物ということで、池に浮かぶ金閣や銀閣を模しており、立派な柱と工芸品を使った丁寧かつ豪華な作りであるだけでなく、その奇怪な外観とは裏腹に非常に心地よい空間である。

だが、どうしてこの磨崖仏の地に室町文化の金閣銀閣なのだろう? 磨崖仏文化のピークは平安から鎌倉であり、室町はあまり中心的でない。さらに、金閣も銀閣も禅寺の建築であるが、磨崖仏は密教(真言宗・天台宗)と修験道の文化であり、禅とは関係がない

つまり、室町時代の禅院を模したこの建物は、時代的にも教義的にも磨崖仏にそぐわない。だからダメとはいわない(むしろ建築としては面白いし居心地もいい)が、やはりチグハグ感は否めない。 しかも、サクラノヤカタという名称は、平安から鎌倉期へかけて当地を支配した川邊氏の館である「桜の屋形」にちなむ。その館の遺跡は残っていないが、当然ながら室町期の禅院様式であったはずではなく、どうしてこのようなコンセプトでこの建物が作られたのか理解に苦しむ。

この建物は総工費1億6千万円(平成6年竣工)だそうだが、金をかけてチグハグなものを作るより、ボンチャチーノのようにちょっとした工夫でその場に即したものを作る方が、私にはよほどスマートに見える。ただ、この建物は、コンセプトはチグハグであっても居心地はよいので、何度も行きたくなる素敵な場所である。

2012年10月19日金曜日

一人あたり医療費の地域間格差

医療費の地域格差指数
南さつま市の一人あたり医療費は、なぜか異常に高い」という記事を書いたら、家内から「いつもに比べて冴えていない。内容が浅い」という痛い指摘があった。確かに「すごく高くてびっくりした」以上の内容はないので、その指摘はもっともである。

さらに、先輩農家Kさんから「医療費が高い理由は、薬の処方が多かったり、通院の回数が多かったり、医者への信頼度が高くて無批判的に診療を受けるからでは?」という示唆もいただいた。ということで、なぜ南さつま市の一人あたり医療費が異常に高いのか、改めて考えてみたい(以下、「一人あたり医療費」を単に「医療費」と略す)。

ただ、南さつま市の詳しい医療費のデータは公表されていないので個別の分析は不可能であり、あくまで一般論、全国的な傾向を元にした話になることをお断りしておく。

まず、医療費にはかなり大きな地域間格差があるのはご存じだろうか。医療費の多寡は高齢化率と相関があるが、仮に世代構成が等しかったと仮定して計算しても、その差は大きい。これを医療費の地域格差指数といい、毎年厚生労働省がデータを公表している。具体的には、全国平均を1として、一人あたりの医療費が全国平均の何倍であるかを示したものである(図を参照)。

図を見てすぐにわかることは、赤っぽく示される医療費の高い地域が西日本と北海道に偏っていることである。これを俗に「医療費の西高東低北高」という。なぜこのような格差が存在するのかというのはで定説はないが、西日本や北海道の人が生来的に不健康ということはあり得ないので、病院との関わり方に違いがあると考えられている。

ちなみに、南さつま市の地域間格差指数は約1.3(つまり全国平均の1.3倍の医療費がかかっている)で、全国27位である。これは1700以上ある基礎自治体での27位であるから全国的にトップクラスである。これによって、当市の医療費の高さの原因が高齢化ではないことがわかる。なお、本市と比較可能な規模の市レベルでは、全国9位となる。

ところで、よく言われるのは、医療費は人口あたりの医師数と病床数に強い相関があるということだ。このことから、西日本は医療体制が充実しているから人々がよく病院に行き、結果として医療費が高くなるのではないかと考える人もいる。南さつま市も、過疎地の割には病院が多くあり、この理屈が当てはまりそうな気もする。

ただ、この相関は論理関係が逆なのかもしれない。つまり、人々がよく病院に行くから、結果的に病院がたくさん出来たということも考えられる。私の感覚だと、どちらかというとこちらの方がしっくり来る。病院というのは、高齢者でない限り身近にあるから頻繁に行くというものではない。

ここでKさんの指摘をもう少し紹介する。私自身は南さつま市で診療を受けたことがないのでわからないが、若干誇張して言えば、当地の医療は「お医者さんが絶対的に信頼されていて、診察しても病名も説明されないし、薬は大量に処方されるし、無闇に通院させられたりするが、それを疑問に思う人もいない」というものらしい。家内や子供が行く病院ではこういうことはないようなので、地域全体の医療機関がこうだとは思わないが、そういうところが多いのかもしれない。

今では常識となっているインフォームド・コンセントとか、セカンド・オピニオンジェネリック医薬品とかいったものは日本の端っこである南さつま市にはまだ十分に普及していないのかもしれないし、これが医療費を押し上げていてもおかしくはない。つまり、医療体制が充実しているのではなく、逆に医療体制が効率的でないために医療費が高いという可能性がある。ただ、福岡など都市部を含め西日本の広範囲で医療費が高い現象が見られ、一方で東北の僻地でも医療費は低いので、この仮説だけでは医療費の高さを説明しきれない。

ちなみに、西日本の医療費を押し上げているのは主に入院費用である。入院は、診察や治療の他にホテル的な費用がかかるので金額的な影響が大きい。実は、西日本の人は入院する時は長期に入院するという傾向がある。データはないが、もしかしたら頻繁に入院するということもあるかもしれない。つまり、西日本では入院に対する心理的障壁が低く、たいしたことでなくても入院し、必要最低限の期間を超えて入院するのではないか。

病床数が限られている場合、病院側は必要日数以上の入院はさせないので、病床が不足傾向にある東日本では入院が抑制されていると考えられる。病床数が余り気味の西日本ではそうした抑制がきかないので、必要以上の入院がされている可能性は大きい。特に鹿児島は平均在院日数(入院期間)が長く、全国平均を10日以上超える47.8日となっており、都道府県別ではダントツの1位なのである。最短の岐阜(28.3日)と比べると約20日も違い、この差は鹿児島県民の異常な入院好きを示しているとしか思えない。

ところで、病床数や医師数が西日本に比べ少ない東日本では、人々が十分な医療を受けられず苦労したり、それが原因で深刻な病状に陥ったりしているのだろうか? 実はこれが一番衝撃的なデータなのであるが、実は総じて東日本の人の方が健康寿命が長い。健康寿命とは、介護などを受けず健康に過ごせる期間のことを言う。つまり、東日本では医療体制は充実していないのに、人々は健康で過ごせる期間が長いのである。これだけ見ると、病院にはなるべく行かない方が長く健康で過ごせるということになりそうである。

なお、健康寿命と医療費の地域間格差には相関がある。健康寿命が短ければ、闘病や介護の期間が長いということだから医療費が嵩むのは当然だ。しかし、ここでちょっとした謎がある。実は、鹿児島の健康寿命は長い方なのである。これはどう考えるべきか。

図をもう一度よく見てみると、その答えがわかる。見えにくいが、実は鹿児島県でも大隅半島の方は地域格差指数が低い。医療費に関しては、薩摩半島と大隅半島で著しい対照があるのだ。細かいデータはないので明言できないが、鹿児島県民の健康寿命を押し上げているのは、大隅半島の人だと思う。逆に言えば、薩摩半島には不健康な人が多いということになる。

さて、いろいろとデータを見てみたが、南さつま市特有の原因は特定できないながら、まとめると一般論として次のような医療費高騰の原因が考えられる。
  • ジェネリック医薬品など、廉価な医療が未だ普及していない。
  • 医師への信頼性が高く、高額な医療行為を鵜呑みに受け入れている。
  • 病床数や医師数に余裕があるため、来院・入院の心理的障壁が低い。特に入院期間が長い。
  • 健康寿命が短く、そもそも不健康な期間が長い。
これらを見るとわかるように、医療費の地域間格差は人々の健康に格差があるというより、どちらかといえば文化的・風土的問題、もっと言えば社会慣習と人々の考え方に起因する部分が大きいと考えられ、その意味では低減へ向けた希望もある。

すなわち、行政が主導して、廉価な医療の導入や入院期間の短縮化を図る努力をすれば改善できる余地があるということだ。具体的には、(これまではタブーであった)医療機関の評価を行い、市民に公表することにより、効率的で低廉な医療を提供している医療機関が一目瞭然になれば公正な競争が期待できる。これは、もし実施すれば全国的に注目を集めるような施策であり、鹿児島大学等と協力して学術的にもしっかりとしたものを実施すれば医療費の高騰にあえぐ他の自治体の役にも立つだろう。

それはさておき、今回いろいろなデータを調べてみて、医療費の西高東低北高という地域間格差の原因が謎とされていることにまず驚かされた。今後さらに負担が増すと考えられている医療費の問題を考える上で、このような基礎的で重要なことがしっかりと研究されていないというのは不可解だ。医療費高騰というと、新聞等では「高齢化の影響で」と不可避的な書き方がされるが、実は私たちの心のありようを変えるだけで、相当違ってくるものなのかもしれない。

【参考データ】
医療費の地域差(医療費マップ)」平成22年度 厚生労働省
推計1入院当たり医療費の動向等 -都道府県別、制度別及び病床規模別等-」(平成22年度のデータ) 厚生労働省
健康寿命の算定結果」平成22年度 健康寿命における将来予測と生活習慣病対策の費用対効果に関する研究班
国民医療費の謎(2)-医療費の地域格差」瀬岡 吉彦
国民医療費抑制策の実施とその課題」松井 宏樹

2012年10月15日月曜日

南さつま市の一人あたり医療費は、なぜか異常に高い

我が家の移住後の生活において、最も金銭的負担が大きいのは、実は国民健康保険の保険料(国保税)である。

国保税は、市民税・県民税などと同じく前年の所得に応じて算定されるため、移住によってほとんど無収入になっても大きな負担を払わなくてはならない。派遣切りなど、自己都合でない収入減の場合は減免措置があるが、自己都合で収入が減った場合にはそういった救済措置はない。日本の税体系は終身雇用のサラリーマン社会を前提としているから、こういうことになるのだろう。農家を始めとして、所得が不安定な人はこのおかげで随分割を食っていると思う。

ところで、我が南さつま市は「一人あたりの医療費が高い」とよく言われているのだが、どれくらい高いのか疑問に思い、厚生労働省のデータベース(平成22年度)で調べてみた。

結果は、全国の市町村においてなんと28位。全国で1700以上ある基礎自治体の中での28位だからこれは本当に高い。ちなみに一人あたり年間42万円程度。

さらによくデータを見てみると、一位の和歌山県北山村は54万円だが人口500人たらずの小さな村であり、同村を始めとして人口千人以下と思われる過疎の村が上位のほとんどを占める。28位以上の自治体の規模(被保険者数)を調べてみると、なんと本市より規模の大きな自治体は北海道小樽市(23位)しかない。

同サイズと言えそうなのは、同じ鹿児島県のいちき串木野市(18位)だけで、その他はほとんど零細自治体である。つまり、本市と比較可能な市レベルで言えば、本市の一人あたり医療費は全国3位だということだ。

しかも、平成23年度のデータでは本市の一人あたり医療費がさらに増えて45万円を越えており、他の自治体の額にほぼ変動がないとすれば、平成23年度には本市の一人あたり医療費は市レベルでは日本一になる(全国のデータは未発表)。

一人あたり医療費は高齢化率と相関があり、要は年寄りばかりの自治体はこれが高くなるのは当然であるが、実は、本市の高齢化率は全国的に突出して高いわけではない。具体的には、本市の高齢化率は35%で全国264位であり、高いとはいえこれだけでは医療費の高さを説明できない。

こうしたデータだけから見ると、(実際どうなのかはよくわからないが)本市には不健康な人が多いということになりそうである。本市の一人あたり医療費が異様に高い本当の理由はさらに詳細なデータを確認しなくてはならないが、不名誉なランキングであることだけは間違いない。

これは財政面でも危機的状況なのは言うまでもないことで、今年度から本市の国保税は一気に13.6%も負担が引き上げられた。しかしこの問題の本質的な解決のためには、なぜ本市の一人あたり医療費がやたらに高いのかという理由を究明して、これを低減させていく努力が必要だ。

国民健康保険の財政的危機は、このまま高齢化が進むにつれどこの自治体でも顕在化してくる話だ。本市はこれを先取りしている上に、さらに何かの要因で医療費が高くなっているわけで、課題先進地域として問題に果敢に取り組んで、医療費低減の方策を見つけ、発信していただきたいと思う。シンプルに言えば、本市が病院に頼らなくても長生きできる地域になって欲しいと切に願う。

ちなみに、一人あたりの医療費が高いということは、要は国民健康保険から病院に払われているお金が一人あたりで多いということだ。これを逆に言うと、南さつま市民が行っている病院には一人あたりで高い代金が支払われている、つまり客単価が高いということになる。では、本市の病院はやたらに儲けているのだろうか? ぜひともこの統計を見てみたいものである。

【参考データ】
医療費の地域差(医療費マップ)」(平成22年度) 厚生労働省
平成22年度国勢調査 都道府県・市区町村別統計表」 総務省