2012年9月6日木曜日

有機農業の是非を検証する

新規就農するというと、いろいろな人から「やっぱり野菜は有機栽培で作りたいよね」というようなことを言われる。私も、高付加価値商品を作る観点から有機農業に惹かれる部分はあるが、一方で、無批判に「有機農業はよい」というイメージだけが先行しているようにも感じている。

極端な話だが、有機農業というと「有機栽培の野菜を食べてアトピーが治った!」とか「元気で明るくなった!」とか宗教まがいの喧伝がされることも多い。実際、有機農業と宗教との関係は近く、養鶏を中心とした有機農業を発展させて人の生き方まで規定するに至った山岸巳代蔵は、農事組合法人でありながら宗教組織である「幸福会ヤマギシ会」を作ったし、酵素肥料なる(今ではインチキと考えられているが)ボカシ肥の元祖みたいなものを作った柴田欣志は祈祷師だった。有機農業による穀菜食を提唱している食品会社の三育フーズは、セブンズデー・アドベンチスト教団という米国のキリスト教系信仰宗教の一部門が運営している。こうした話を聞くたび、「有機農業は、科学的に考えて実際どうなのだろう?」という疑問が湧く。

そこで、少しマニアックな話になるが、有機農業の是非について考えてみたい。

まず、有機農法とは何か、ということを正確に定義しておこう。普通、有機農業とは「化学肥料と農薬を使わない農業」と思われているがこれは物事の一面でしかない。化学肥料や農薬を使わないというのは、手段であって目的ではないからだ。IFOAM(有機農業運動国際連盟)という団体が有機農業の詳細な定義を作っているが、それをまとめると有機農業の目的は「農業生態系と農村の物質循環を重視し、地力を維持・増進させて生産力を長期的に維持し、外部への環境負荷を防止して自然と調和しながら、十分な量の食料を生産し、農業者の満足感と所得を保障すること」である(※)。

要するに、有機農業の主要目的は、環境負荷を低減しつつ経済的にも自立可能な「持続可能な農業」をすることであり、こうした目的の下に行われる農業が有機農業なのだ。これは、近年喧しい「安心安全な農産物の生産」や「作物本来の美味しさ」などは全く関係がない。

この目的を達成するため、有機農業では農業生態系(圃場とその近辺)の外からの資材投入は出来るだけ少ない方がよいとされており、化学肥料のように外国で精製された物質はもちろん、堆肥であっても外部の畜産農家から仕入れるのではなく自家生産することが奨励されている。すなわち、物質循環をできるだけ農業生態系内で完結させることが求められているのである。

この理念を厳密に実行するのは日本では難しく、有畜農業が普通のヨーロッパにおいてすら簡単ではない。

また環境負荷を低減するため、化学農薬を基本的に使用しないのであるが、これは私には疑問だ。例えば、除草剤を使用しないために、有機農業ではマルチングの使用が必須となるが、なぜ石油合成製品であるビニールマルチはよくて、除草剤はダメなのか。また、2週間で自然分解される除草剤を使って草を枯らすのと、数時間ガソリンを使って草払いするのとどちらが環境負荷が軽いと言えるのか。そのほか、害虫の防除にも農薬が使えないことから天敵となる昆虫を大量に放すなどするが、これも一種の生態系の攪乱である。どのような手段が最も環境負荷が小さいかは科学的検証によって判明することであって、頭ごなしに「農薬はダメ」というのは科学的態度ではない。

なお重要なことだが、農薬を使用しないのは、決して「安全安心」のためではなくて環境負荷を低減し、農業生態系の中で物質循環させるためである。日本だけでなく世界で「有機農業による生産物は安全・安心だ」という思い込みがあるが、これは間違いとは言えないまでも正確ではない。

というのは、「有機農産物=安全・安心」は「慣行農業農産物=危険・不安」の裏返しなのだが、野放図に農薬を使っていた数十年前はともかく、現行の農薬規制は非常に厳しく作ってあり、普通の農産物が危険・不安というのは科学的態度ではない。農薬規制は「その農産物を一生食べ続けても影響がない」レベルになるよう調整されており、有機農産物をことさら「安全・安心」と喧伝することは、暗に慣行農業の農産物への危険を煽る不誠実な行為と言える。ただし、農薬に未知のリスク(長期使用による蓄積や複合的な影響)がある可能性はゼロではないのは事実だ。

といっても、農薬を使っていないから安全・安心というのは安直な考えで、農薬による防除を行わずに虫食いや病害などが起こったとすれば、植物はこれに対抗するために自ら毒性物質を生産するといった手段を講じる。これによって植物体の中に植物毒が蓄えられることもあり、農薬を使わない=毒性物質がない、ではない。

少し話が脱線するが、俗に言われる「農薬を使わず自然に育てた野菜が美味しい」とか自然農法に代表される「植物のありのままの力を活かすと美味しくなる」といった言説は、私には自然への冒瀆とすら感じる。「自然=美味しい」という図式がどうして成立したのかわからないが、自然の植物の多くは虫害・鳥害・病害などからその身を守るために植物毒を持っており、その毒性はしばしば極めて強力である。自然は荒々しいものであり、人間が気軽に利用できるような簡便なものではない。多くの栽培植物も、その起源においては毒性があったり利用しにくい性質を持っていたりしたが、少しでも美味しい株、利用しやすい株を増やすという数千年にわたる品種改良の結果、今の作物が生まれているわけで、「自然=美味しい」などという認識は、自然をなめきったものであると同時に、人類の農耕史をも貶める見方であると思う。

でも、「事実、有機農業の野菜は美味しいじゃないか!」という反論があるかもしれない。確かにこれは事実と思う。しかしそれは因果関係に飛躍がある。先ほどの目的からすると、有機農業を真面目に実施しようと思えば、大規模生産が難しいことは自明だ。そこで、有機生産農家は高付加価値商品の少量生産を行わざるを得ない。そのため、適切な施肥設計、作付計画、高品位な種苗の選択といったことが行われた結果、美味しい作物が収穫できるのであって、有機農業だから美味しいわけではない。当然、慣行農法の農家であってもそのような適切な管理を行う農家はいて、そういう農家が生産した作物は、有機農法による作物と同じように美味しいだろう。

つまり、「有機農業だから安全・安心で美味しい」は幻想に過ぎない。慣行農業においても安全・安心で美味しい農産物は得られる。ということは、有機農業の農産物を(通常の農産物より高い価格で)購入する消費者は、何に対してお金を払っているのだろうか? なんとなくよいもの、なんとなく高級なもの、というイメージにお金を払っているのだろうか?

ここでもう一度有機農業の目的を見直してみるとこの答えは明白だ。有機農業というのは、要は環境に配慮した農業なのだから、消費者は環境の保全のためにお金を払っているのである。しかし有機農業の農産物を買って割高なお金を払うのは一部の人である一方、環境が保全されてその利益を享受するのは共同体全員だ。そのため、ヨーロッパ各国では環境保全の意味合いから有機農業を行う農家に補助金を出している。有機農業は消費者のニーズに応えるために行うものではないから、政府がその費用の一部を支出しているのである。

そもそも有機農業がヨーロッパで広まった背景には、1980年代の食料の過剰生産がある。この頃、ヨーロッパでは農業の機械化・集約化によって生産力が高まって食料が余り、また農薬・肥料の過剰投入によって環境が汚染された。これを受け、日本風に言えば減反政策が実施されるのだが、その中の一つが有機農業の振興だったのである。つまり、大規模農業の代わりに少量生産の有機農業を広めることにより、減反と環境保全を両方達成しようとしたのであった。補助金がなければやっていけない農業は真の意味で「持続可能な農業」ではない、という批判もあるが、私はこの政策は合理的であったと思う。

翻って日本を見ると、減反と環境保全という有機農業の理念が正確に理解されているとは言い難い。日本においては食料生産レベルをさらに上げることが課題であり、農地の集約化・機械化による大規模化は長年の懸案だ。有機農業の振興は、ただでさえ小規模分散・手作業の多い日本農業を立ち遅らせることにならないか。また、有機農業の目的が環境保全にあることを理解している消費者も少なく、「安全・安心」のような漠然としたイメージに踊らされている面がある。本来なら、環境に配慮した農業という理念に共鳴し、環境保全のために高いお金を払うという認識になるのが正しいあり方だと思う。

しかも、有機農業は日本とは気候も環境も農業文化も違うヨーロッパから輸入された概念・手法になってしまっており、本当にIFOAMが定める「有機農業」が日本に合っているのかは一考を要する。有畜農業が基本になっているだけでも、畜産農家と作物農家が分かれている日本には相容れないものがあるし、作物体系も違う。日本での「持続可能な農業」は一体どんなものなのか、その解は出ておらず、真面目に検討されているとも言い難い。日本ならではの「有機農業」を形作っていく必要があると思う。

こうして有機農業の特質を検討してみた結果をまとめると次のようになる。
  • 環境保全、持続可能な農業という有機農業の理念はよい。
  • しかし、現行の化学肥料・農薬不使用というのは科学的なのかどうか不明。
  • 消費者に有機農業の意味が正確に理解されておらずイメージだけが先行している。
  • そもそもヨーロッパ基準の「有機農業」が日本に合致しているか不明。

結論としては、「有機農業は理念はよいが現行の手法が最適なのかは一考の余地があり、日本ならではのやり方を確立すべき」、つまり「今の有機農業はいろいろな意味で未熟」ということになると思う。

しかし、未熟であるからこそ将来性もあるだろうし、化学肥料や燃料、化学合成の資材をふんだんに使える環境になったのは、つい最近のことに過ぎず、これが将来どうなるかは不透明だ。大量生産・大量消費の文明がどこまで続くかわからないが、これを支えている条件が崩れれば、人類はこうした便利な資材を使う農業を続けて行くことはできない。そうでなくても、近い将来にリン酸肥料の枯渇が予見されるなど、人口増に対応した肥料増産が今後可能かどうかわからない。人口増と新興国の生活レベルの向上によって食料生産が逼迫してきた時、今までのような農業を日本が続けていけるのか心もとない。

そうなった時の答えが有機農業なのかはよくわからないけれども、農業が変わって行かざるを得ないのは間違いない。その意味で有機農業の一つの利点は、「慣行農業に対して疑問を抱く」というスタンスにもある。主流派の動向を懐疑的に見る勢力が私は好きだ。いろいろ批判的なことを書いたけれども、自分なりに有機農業をやってみたいとは思っている。

※ 『有機栽培の基礎知識』1997年、西尾 道徳 より引用。

2012年9月3日月曜日

「日本版アグロフォレストリー」という考え方


アグロフォレストリー(Agroforestry)をご存じだろうか? 私は、鹿児島でこれを実行できたらいいなと思っている。

アグロフォレストリーとは、Agro=農とForestry=林業を組み合わせた言葉で、普通「農林複合経営」とか「混農林業」と訳される。これは環境にやさしい持続可能な農法であるとともに、森林の再生にも役立ち、かつ農家の収入の安定も図られるということで、近年、熱帯地域途上国の農業戦略として非常に注目を集めている。

具体的にどのようなものかというと、熱帯雨林を伐採(または焼畑)した跡地を利用するのだが、ここに例えばトウモロコシやコショウをまず植える。そして平行してバナナやカカオを植える。さらにマホガニーなど換金性の高い材となる樹も植える。ついでに、アサイーなどの果樹も植えておく。

するとどうなるか。1、2年目はトウモロコシが収穫できる。3年目くらいになるとコショウやバナナが収穫できる。6年くらい経つとカカオが収穫できる。カカオは高収益をもたらす樹木だが、定植からしばらく収入がないのがネックだ。このやり方だと、カカオによる収益がない間、収入を得ることができる上、日陰を好むカカオにマホガニーなどによって樹陰を提供することもできる。

アグロフォレストリーの面白いのはここからで、カカオの単一栽培が目的ではなく、アサイー(高木の果樹)が採れたり、他の果樹からの収入も細々と確保しながら農業を続け、30〜40年後にはマホガニーも伐採することができ一時的ではあるが高収入が得られる。結果として、多様な樹種が育つ森が再生することから、アグロフォレストリーは「森をつくる農業」とも言われる。

これを始めたのは、ブラジルのトメアスというところに入植した日本人、日系人である。彼らは最初、コショウの農園を経営していた。入植者の常として、必死に働いていたのだと思う。しかし、ある時コショウが病害虫の被害を受けて破産状態になってしまう。そのとき現住民の暮らしを見て思う。「なぜ、彼らは必死に働いているわけでもないのに飢えないのだろうか?」

現住民は、手近にあるいろいろな果樹を利用して、どんな気候や病害虫が発生してもなんらかの食料が確保できるように暮らしていたのであった。「これを自分たちもできないだろうか?」こうしてアグロフォレストリーが始まった、と言われる。

コショウの大規模栽培の方が収益は高いが、ひとたび病害虫が発生すれば大きな被害を受ける。つまり大規模栽培はハイリスク・ハイリターンなのだ。一方、様々な果樹を混植し、その樹陰で野菜を栽培することは効率は落ちるが、病害虫の被害を受けにくく、定常的な収益が期待できる。つまりローリスク・ローリターンだ。

しかし、単一作物大規模栽培と違って、流通が複雑になるという決定的弱点をアグロフォレストリーは持っている。いくら定常的に果樹が収穫できても、それが少量であれば、遠方まで売ることは難しく、現金収入に結びつかない。今、ブラジル政府は国を挙げてアグロフォレストリーを推進しているが、彼らがやっているのは他品種生産のジュース工場の建設だ。個別の農家の収穫は少なくても、それをジュースにしてパックすれば長く保管できるし遠方まで出荷できる。最近、東京などでは見慣れない熱帯果実のジュースを売るスタンドを見かけるが、これはアグロフォレストリーの成果でもあると思う。

アグロフォレストリーは新しい言葉だが、世界中で、特に東アジアでは古くから行われていた農法だ。日本でかつて行われていた焼畑農法も一種のアグロフォレストリーで、焼畑の後数年間はソバ、ヒエ、ダイコン、カブ、サトイモ、マメなどを育て、さらにコウゾやミツマタなどを植えて換金性の高い植物で10年くらい利用した後、スギの植林を行うというスギの造林法があった。特に土佐ではそういう造林が最近まで行われていたという。

また、単一作物の大規模栽培が世界中で進んだ結果、病害のグローバル化と深刻化の度合いは増している。植物検疫の制度は今のところなんとか機能しているが、人とモノの移動の活発化によってリスクは増大する一方だ。一方アグロフォレストリーは、作物の他品種少生産によって病害虫リスクも低減でき、ほとんど農薬を使わずにすむという。

こういうことから、アグロフォレストリーは途上国政策を行う者にとって非常に重要なツールになりつつあるが、私は、これは熱帯途上国だけに有効な手法ではないと思う。 熱帯雨林は実は土地が痩せていて、一度伐採すると森林の再生が難しいということからアグロフォレストリーの一つの存在意義がある。対して日本では耕作放棄地は勝手に森へと戻っていくので、わざわざ「森を作る農業」は必要ないのではないか、という人もいるだろう。

しかし、アグロフォレストリーは、元々森林の再生を目的として発想されたのではなくて、持続可能でローリスクな農業を目指してできたものだ。その理念や方法は日本でもあり得るのではないか。流通が複雑化するという欠点も、インターネットを通じた直販を利用すれば克服できるような気がする。

つまり私が実行してみたいのは、「日本版アグロフォレストリー」だ。日本人・日系人がブラジルで考案したアグロフォレストリーを、改めて日本でやってみたらどうか。実は、この入植者には鹿児島出身の人も多くいたのだ。熱帯雨林ではない、温帯気候の下でどんなアグロフォレストリーができるのかわからないが、賞揚されてやまない「里山」も一種のアグロフォレストリーであったわけで、きっと面白いことができると思っている。


【参考URL】
「アグロフォレストリー 森をつくる農業(1)(2)(3)」 3本立ての動画(youtube)。見るのに時間はかかるが、この動画を見るのが一番わかりやすい。冒頭の動画はこれ。 
「アグロフォレストリー」という発想。 竹の専門家でもある内村悦三氏が語ったアグロフォレストリー。
アマゾンの里山 トメアスでのアグロフォレストリーを取材した記事。
多様性保つ「森をつくる農業」アグロフォレストリーの先進地 毎日新聞の記事。
World Agroforestry Center ケニアのナイロビにあるアグロフォレストリー研究の総本山(英語)。南米で始まったアグロフォレストリーを、アフリカでも根付かせようと活動している。

2012年8月30日木曜日

頴娃町出身のユニークな音楽家:サカキマンゴー


鹿児島県の頴娃町出身のユニークな音楽家に、サカキマンゴーさんという人がいる。

この人は、地元の祭りで偶然聞いたアフリカ音楽に魅せられ、大学ではスワヒリ語(アフリカ東海岸で話されている言葉)を専攻、休学してアフリカ縦断の旅に出て、その後リンバ(親指ピアノ)という民俗楽器と出会う。そして、「七色の声を持つ男」と呼ばれた著名なリンバ奏者フクウェ・ザウォセ氏になんとタンザニアまで行って弟子入り。

こうして、サカキマンゴーさんは本場のアフリカ音楽を学んだが、自らが演奏するのは、リンバによる浮遊感のあるリズムを活かしながらも、それを日本でも違和感なく聞けるようにアレンジしたオリジナルソングだ。それは、日本語、スワヒリ語、鹿児島弁を自由に行き来した不思議な音楽である。

鹿児島弁で歌詞を書くミュージシャンは長渕 剛氏を筆頭に少なくないが、やはり鹿児島の人に向けて書いている場合が多いような気がする。サカキマンゴーさんの場合は、活動の拠点は東京やアフリカで、必ずしもリスナーに鹿児島県民が多いわけではないように見える(県内で特にCDが売れているとも聞かない)。むしろ、鹿児島弁の土着的な表情がアフリカ音楽に合致しているということで、鹿児島弁を使っているように思われる。

それにしても、頴娃という鹿児島でもかなりディープな(?)地方から、相当にディープなアフリカ音楽を奏でる人が出てくるというのは面白い。冒頭に貼り付けた曲が収録された『オイ!リンバ Oi!limba』というアルバムを購入して聴いてみたが、全体的ポップな感じになっているので、私としては、さらにディープな方向に突き進んでもらいたいと思う。

2012年8月27日月曜日

「加世田かぼちゃ」で作った「かぼちゃのコンフィチュール」

先輩農家と共同で(というか、おんぶにだっこで)秋かぼちゃを作らせてもらえることになって、早速作業が始まっているが、今日は台風の影響でお休み。

水稲収穫後の田んぼを使うのだが、今日だけでなく天気に恵まれず作業が思うように進まない。秋かぼちゃは台風の影響をモロに受けるので博打性が高いらしいが、既に負け博打の様相を呈しており、天候の好転を願うばかり。

ところで、春にかぼちゃを作りますという記事を書いたのだが、その結果を書くのを忘れていた。約100株作って、収穫はコンテナ10個分くらい。個数にして(まともなのは)70個くらいだった。総じて大きさは十分だったが、早く葉が枯れてしまったこともあって、味に濃厚さは足りなかった。やはり農薬を使わなかったのが大きかったと思う。

家内が、そのかぼちゃを使ってコンフィチュールを作ってくれた。コンフィチュールというのは、簡単に言えばフランス風のジャム。素朴なだけに素材の味がよく出て、甘いかぼちゃで作ったこいつはとても美味。我が子(2歳)が喜んでパンに付けて食べている。ついでにそれらしいラベルを作ってみたら、商品としていけそうな気がしてきた。

かぼちゃというと、煮付けで食べるのがスタンダードだと思うが、「加世田かぼちゃ」はせっかくのブランド野菜なのだから、利用法も含めて独自色があってもよいと思う。高級野菜だから料亭等で使われているのだと思うが、それでは一般への認知は進まないし、ブランド野菜としてのアイコン(象徴)的な商品があるといいのではないか。

このコンフィチュールがそのような商材になることを期待するものではいが、金を掛けて大規模なキャンペーンをするのでない限り、草の根の試行錯誤がブランドを作るわけで、美味しいかぼちゃが出来たら、その利用法もいろいろ工夫・発信していきたい(正確には、家内に工夫してもらいたい…)。

2012年8月24日金曜日

スイートコーンの2つの弱点

トウモロコシ(スイートコーン)の収穫である。

実が揃っているし、割ときれいに出来たが、全体として見れば、結果は悪い。というのも、約1割が野生動物(ムジナ?)に食われ、7割がアワノメイガの侵入を受け、全く無傷なのは1割程度、食害部分の除去などでなんとか利用可能のを含めても3割程度しかなく、約1000株のうち出荷可能なのはたったの300株しかない。アワノメイガというのはトウモロコシの大害虫。だが、逆に言えばこいつらさえ防除すれば、トウモロコシに被害を及ぼす病害虫はほとんどない。

もちろん、薬剤散布をして防除すればアワノメイガの被害は防げたわけだが、最初だからあえて無農薬でやってみた。ものの本にも「2〜3回は薬剤散布が必要」と書いてあるし、周りの方にも「薬はかけなきゃだめ」と言われていたけれど、 本当にそうかどうか、実際にやってみないと納得できない性分なので、まあ授業料と思えばよい。なお、除穂(無駄な雌穂を取り除く)の際に食害は気づいていたので、これは予想された結果ではある。

また、こちらは特にこだわりがあったわけではないが、化学肥料を使わず、有機肥料のみで作ったので、一応定義的には有機栽培だ(※)。ただ、「有機栽培」という言葉は、現在の法の枠組みでは認証を受けないと使えないので、販売の際にも有機栽培と言うことは出来ず、別段有利になるわけでもない。 まあ、慣行農法で作った場合に比べてどれだけ安全性や食味が増しているかというと、正直そんなに変わらないような気はするが。

ちなみに、トウモロコシ(スイートコーン)を作った理由は、時期的なものはもちろんだが、穀物として面白いと思ったこともある。米や麦といった穀物は、炭水化物の摂取を主な目的としているので、良質な(美味しい)炭水化物を効率的に大量に産出できるように品種改良が進んだ。一方トウモロコシの場合は、19世紀に入って在来の甘い品種が改良され、スイートコーンが出来た。穀物なのに、甘味を楽しむ方向に品種改良が進んだのは興味深い。「甘い米」や「甘い麦」はないのに、同じイネ科なのに不思議だ。

早速食べてみると、生でも食べられるし、茹でれば甘く美味しい。なにしろ、トウモロコシというのは採ったらその瞬間から劣化していく作物なので、採れたてのスイートコーンが一番美味しい。 ただ、美味しい採れたてを食べられるのは、栽培している人やその周りの人だけなので、アワノメイガ以外のスイートコーンの弱点はまさにそこにあるとも思う。


※ 有機栽培というのは、無農薬(正確には有機認証された農薬以外使わない)かつ化学肥料を使わない栽培。

2012年8月22日水曜日

『万世歴史散策』を届けてもらいました。

南さつま市にある小さな街「万世(ばんせい)」、そこの歴史についての本が自費出版されたというニュースを見て、早速編著者の窪田 巧さんに電話してみた。記事に連絡先が書いてあったからだ。

本を買いたいというと、「もう手元にある分は全部売れちゃったんですよ」とのこと。「でも、鹿児島市内の大木建設設計事務所に販売を卸してるんですが在庫があったかも。連絡してみて下さい」と言われ、そこに電話するとあと2冊だけあるとのこと。取りに伺うと言うと、「自分は大浦出身だから、お盆に帰郷した時についでに持って行きますよ」と言う。世の中には親切な人がいたもんだ。

届けて頂いた際に話を伺うと、大木建設の方と窪田さんが(高校の?)同級生である関係で、鹿児島県内の販売を大木建設が担っているらしい。

早速読んでみると、歴史散策の書名が示すとおり興味の赴くままに、昔話や万世に縁ある事物の取材、地名の由来の推測などが並べられている。書きたいことを書いた、というような内容で、著者自身が「卒業文集の延長」と言うとおり、およそ一般読者のことは考えられていないが、万世出身の人などは涙を流して喜ぶような本だと思う。これぞ自費出版の正しいあり方だ。

私自身にとっても、なるほどと思わせるところが随所にあり、地域史の勉強のよい参考書になった。丁字屋、南薩鉄道、鮫島氏…などなど、個別のことについてはまた改めて気が向いた時に書きたいが、いろいろヒントを与えてもらったと思う。こういう地域の歴史本が、もっとたくさん出てほしいものだ。

それにしても、著者の窪田さん、全盲というのが凄い。奥さんはさぞかし献身的な協力をされたのだと思う。だが、ニュース記事では「妻と二人三脚で」と書いてあったが、本書にはまえがきにも編集後記にも、奥さんへの言及はない。女は黙って俺について来い的な、(でも実際は裏で奥さんが大活躍してる)典型的な鹿児島の夫婦なんだろうか…?

2012年8月21日火曜日

古民家の音響は、素晴らしい

意外かも知れないが、古民家の音響は極めていい。

私は一応ちょっとしたアンプで音楽を聞いているが、スピーカーはいらなくなったミニコンポのスピーカーだし、耳は悪いし、音に特別こだわるタイプではないけれど、それでも違いがわかるくらい、音の質がいい。

古民家の音響がよい理由は、その構造にある。

我が家は昔、天井裏で蚕を飼っていたようで、天井裏に割と広い空間がある。古民家であれば、蚕ならずとも米倉庫や藁置き場になっていたり、天井裏の空間が活用されていたことが多いだろう。

また、部屋の仕切りがあまりないことも相まって、オーディオから発せられた音がこの天井裏の空間を通じて家全体に共鳴し、よく響く。しかも、不明瞭な響き方ではなくて、一音一音が明晰に、繊細に鳴り響く。オーディオから一番離れた部屋にいても、音楽が不思議なくらい自然に聞こえる。これは、鉄筋コンクリートの建物に比べ、無用な音の反射がないからとも思う。コンクリートの壁は、むやみやたらに音を反射させるのでよくない。

つまり、古民家にオーディオを置けば、家そのものが楽器になり共鳴するのだ。特に中低音の響きには艶があり、中音域の奥行きが豊かに聞こえる。ジャズやクラシックを聴くのには最高の環境と思う。ただ、ポップスやロックで、高音がキンキンしているような曲の場合、もしかしたら迫力が削がれてしまっているような気もする。まあ、何事にも一長一短はある。

ちなみに、家そのものが共鳴するため、家の外にも音楽がよく聞こえ、都会であれば騒音問題になりそうなほどだ。ここは田舎で家もまばらだから深夜でもない限り気にする必要はないだろうが…。

古民家は音響がいいというのは何も私だけが言っているのではなく、ネットを見てみると結構いろいろな人が古民家で音響を楽しんでいるみたいだし、先日伺った美山のたけずみ屋さん たけずみ本舗では古民家にバカでかいスピーカーが鎮座して最高の音響環境を演出していた。

音響の基本はまず空間(部屋)であって、そう言う意味では、古民家はオーディオマニアの家として一つの選択肢だと思う。まあ、そのためだけの部屋(オーディオルーム)には及ばないのかもしれないが、リタイア後に、古民家に移り住むオーディオマニアがいてもおかしくないレベルだと思っている(私自身はオーディオマニアではないので戯れ言にすぎないけれど)。