筍の時期が来た。
4月1日に、今年初めての筍を掘った。例年に比べると少し遅いらしい。今年の冬は寒かったので、生育が遅れているようだ。
うちは、ごく僅かな面積ではあるが竹林を所有している。それでも、筍は毎日のように出てきて、3日くらい放置するとすぐに食べられなくなるので、しょっちゅう竹林に行って掘る必要がある。
すると、我が家だけでは消費しきれないくらいの量が採れるので、近所の方におすそわけすることになる。いつもおすそ分けをもらってばかりなので、うちから差し上げられるようなものは、今のところ、この筍くらいだ。でもこれで、少しは普段の恩返しが出来るかもしれない。
というのも、南薩のこのあたりは竹林が少ない地域なので、筍は割と希少性があるのだ。
竹は時に「史上最強の植物」などと言われ、山林を浸食するやっかいな存在と見なされるが、実は地下水が豊富でないと生育しないという決定的弱点がある。そして、このさつま市大浦町は、保水力のあまりない岩山に囲まれているために、どうやら地下水が豊かでないらしく、あまり竹が生育していないのだ。
ちなみに、北薩の方に行くと、山林を放置するとすぐに竹林化するのが問題になるほど竹林生育に適しており、筍の生産も盛んだ。あまり認識されていないが、鹿児島県は竹林面積が日本一で、筍の生産量も日本一なのである(ときどき福岡県が1位になるが)。
竹林というと京都が有名だが、竹は南方由来の植物なので、生育に暖地が適しているのは当然で、 孟宗竹の筍だけでなく、鹿児島県全体では高級筍の生産も盛んである。しかし、鹿児島茶があまりメジャーでないのと同じく、鹿児島の筍も全国的にはあまりメジャーではない。つくづく、売り込みがヘタな県民性があるような気がする。
2012年4月4日水曜日
2012年4月3日火曜日
茶生産量全国2位の鹿児島で、抹茶がほとんど生産されない理由
全国的にはあまり認識されていないが、鹿児島県は、静岡県に続く全国第2位のお茶の産地である。認知度がいまいちのは、鹿児島の茶業は緑茶の原料である荒茶の生産がメインで、消費者が直接目にする製品をあまり生み出していないからと思われる。
さて、先日も書いたのだが、その鹿児島では、抹茶がほとんど生産されていない。私の知る限り、鹿児島で抹茶を製造しているのは一社しかない。どうして、鹿児島では抹茶は作られていないのだろうか?
それは、端的には、鹿児島には藩政時代、茶の湯(茶道)の文化があまりなかったからであろう。77万石の雄藩であった薩摩藩で茶の湯が盛んでなかったのは意外であるが、ではどうして薩摩藩では茶の湯が振るわなかったのだろうか。
その理由は、第1に、薩摩藩の武士は貧乏だったことが挙げられる。薩摩藩は人口の約40%が武士という、全国的に見ても異常に武士の多い社会だったので、武士の多くは貧乏だった。茶の湯には金がかかるので、貧乏武士にはできようはずもない。
第2に、外城(とじょう)制も影響していると思われる。外城制とは、おおざっぱに言えば武士を地方に在住させる制度のこと。江戸時代、一国一城と決められていたのだが、薩摩藩は「これは城ではない、外城です」として武士を地方に駐在させた。他の藩では、武士は城下町に集中して住んでいたので武家文化が栄えたが、薩摩藩では貧乏武士が分散して地方に住んでいたので、武家文化があまり振るわなかった。茶の湯は武家文化なので、薩摩藩では茶の湯を嗜む武家はほとんどいなかったと思われる。
第3に、君主である島津家が茶の湯に熱心でなかったこともあるだろう。江戸時代、大名は将軍家の接待のために茶の湯の作法を修める必要があった。当然、島津家も茶の湯を行っていたし、役職として茶道方(つまり茶による接待役=いわゆる茶坊主)も置かれていたのだが、島津家からは江戸時代、茶人と呼ばれるほどの当主は出なかった。
島津家でも、戦国時代の島津義弘は千利休に教えを請うたこともある茶人だったし、薩摩藩が朝鮮出兵で連れ帰った陶工に茶道具を作らせたという話もあるが、ほんの一時期のことに過ぎないと思われる。江戸時代には、島津家は大名として必要最低限の茶の湯は嗜んだが、それ以上ではなかっただろう。
どうして島津家が茶の湯に熱心でなかったのか、という理由はよくわからないが、よく言われるのは、中興の祖、島津忠良(日新斎)の教えに「茶の湯に入れ込むのはよくない」というものがあり、これが影響しているという。質実剛健を好んだ日新斎が、豪奢な数寄屋文化を戒めるのは当然とも言えるが、この教えが数百年も守られるとは、ちょっと信じがたい。
しかし、日新斎が詠んだという歌「魔の所為か 天けん(キリスト教)おかみ(拝み)法華宗、一向宗に数奇の小座敷(茶の湯)」を見ると、それもあながち嘘ではないかもしれないという気がしてくる。
キリスト教、法華宗、一向宗というのは、薩摩藩では禁制で手ひどく弾圧されていた。それと同列に、茶の湯が並んでいるのである! たかが茶飲み、「魔の所為」扱いせんでも…という気がするのだが、こんな強く否定されては、歴代の島津藩主が茶の湯に冷淡な態度を取らざるを得なかったのも頷ける。
ともかく、そういう歴史的な経緯から、鹿児島では茶の湯の文化が武家層に定着しなかった。それはそれで仕方ないが、茶業の県なのにもかかわらず、お茶屋さんに並ぶ抹茶に自県生産のものがなく、宇治などから取り寄せていることには、少し寂しい気がするのである。
歴史は重要だが、あまり過去に引き摺られるのもよくない。そろそろ、鹿児島にも抹茶を飲む文化が栄えてもいい頃ではないだろうか。
さて、先日も書いたのだが、その鹿児島では、抹茶がほとんど生産されていない。私の知る限り、鹿児島で抹茶を製造しているのは一社しかない。どうして、鹿児島では抹茶は作られていないのだろうか?
それは、端的には、鹿児島には藩政時代、茶の湯(茶道)の文化があまりなかったからであろう。77万石の雄藩であった薩摩藩で茶の湯が盛んでなかったのは意外であるが、ではどうして薩摩藩では茶の湯が振るわなかったのだろうか。
その理由は、第1に、薩摩藩の武士は貧乏だったことが挙げられる。薩摩藩は人口の約40%が武士という、全国的に見ても異常に武士の多い社会だったので、武士の多くは貧乏だった。茶の湯には金がかかるので、貧乏武士にはできようはずもない。
第2に、外城(とじょう)制も影響していると思われる。外城制とは、おおざっぱに言えば武士を地方に在住させる制度のこと。江戸時代、一国一城と決められていたのだが、薩摩藩は「これは城ではない、外城です」として武士を地方に駐在させた。他の藩では、武士は城下町に集中して住んでいたので武家文化が栄えたが、薩摩藩では貧乏武士が分散して地方に住んでいたので、武家文化があまり振るわなかった。茶の湯は武家文化なので、薩摩藩では茶の湯を嗜む武家はほとんどいなかったと思われる。
第3に、君主である島津家が茶の湯に熱心でなかったこともあるだろう。江戸時代、大名は将軍家の接待のために茶の湯の作法を修める必要があった。当然、島津家も茶の湯を行っていたし、役職として茶道方(つまり茶による接待役=いわゆる茶坊主)も置かれていたのだが、島津家からは江戸時代、茶人と呼ばれるほどの当主は出なかった。
島津家でも、戦国時代の島津義弘は千利休に教えを請うたこともある茶人だったし、薩摩藩が朝鮮出兵で連れ帰った陶工に茶道具を作らせたという話もあるが、ほんの一時期のことに過ぎないと思われる。江戸時代には、島津家は大名として必要最低限の茶の湯は嗜んだが、それ以上ではなかっただろう。
どうして島津家が茶の湯に熱心でなかったのか、という理由はよくわからないが、よく言われるのは、中興の祖、島津忠良(日新斎)の教えに「茶の湯に入れ込むのはよくない」というものがあり、これが影響しているという。質実剛健を好んだ日新斎が、豪奢な数寄屋文化を戒めるのは当然とも言えるが、この教えが数百年も守られるとは、ちょっと信じがたい。
しかし、日新斎が詠んだという歌「魔の所為か 天けん(キリスト教)おかみ(拝み)法華宗、一向宗に数奇の小座敷(茶の湯)」を見ると、それもあながち嘘ではないかもしれないという気がしてくる。
キリスト教、法華宗、一向宗というのは、薩摩藩では禁制で手ひどく弾圧されていた。それと同列に、茶の湯が並んでいるのである! たかが茶飲み、「魔の所為」扱いせんでも…という気がするのだが、こんな強く否定されては、歴代の島津藩主が茶の湯に冷淡な態度を取らざるを得なかったのも頷ける。
ともかく、そういう歴史的な経緯から、鹿児島では茶の湯の文化が武家層に定着しなかった。それはそれで仕方ないが、茶業の県なのにもかかわらず、お茶屋さんに並ぶ抹茶に自県生産のものがなく、宇治などから取り寄せていることには、少し寂しい気がするのである。
歴史は重要だが、あまり過去に引き摺られるのもよくない。そろそろ、鹿児島にも抹茶を飲む文化が栄えてもいい頃ではないだろうか。
2012年3月31日土曜日
絶品の湯を吹上温泉「みどり荘」で味わう
先日、鹿児島県日置市にある吹上温泉に行った。
そこは、日本三大砂丘の一つ「吹上浜」のほど近い山間にある、昔ながらの温泉街である。共同浴場や国民宿舎もあり、鹿児島ならではの生活に身近な温泉がそこにあるのだが、今回宿泊したのは、ちょっと高級な温泉旅館「みどり荘」である。
「旅館」と名前がついてはいても、正直「宿舎」のような温泉宿が多い鹿児島において、このみどり荘は、旅情に溢れたまさに「旅館」である。みどり湖という小さな湖の河畔一周が全て旅館の敷地であり、8室しかない全室離れの部屋からは四季折々の自然が望める。もともと静かな田舎の温泉街ではあるが、世界から隔絶した感すら漂う隠れ家的な旅館だ。
というわけでロケーションは絶好なのだが、本当に一流なのはその泉質である。吹上温泉は「泉質日本一」を謳っているのだが、これが誇大広告ではないことを実感した。ちょっと手を湯に入れただけで、肌がすべすべになってしまう。源泉掛け流しのほのかな硫黄臭の香る湯は、肌触りがよく滑らかであり、湯上がりにはあたかも化粧水をつけたような感じになるのである。
私は自分の肌には何の関心もないが、この泉質は「美人の湯」と言われるだけはある、と唸った。家内も、すっかりこの湯のファンになってしまったようである。疲れが取れるとか、筋肉の痛みに効くとか、体が芯から暖まるとか、温泉にもいろいろあるが、少なくとも肌を洗うという点においては、泉質日本一といってもおかしくはない。
ちなみに、旅館からの説明事項に次のようなことが書いてあった。
そして、鹿児島ではここは「高級旅館」の部類に入る施設だと思うが、夕食なしプランであれば1泊1万円を切る価格設定も良心的である。これまでいろいろな温泉に入ったが、「みどり荘」は相当にコストパフォーマンスがよい。入浴のみは500円で、鹿児島の基準では高い方だが、日帰り出来るならば来て絶対に損はない。
なお、みどり荘の創業は昭和5年。元は別荘だったところを改装して開業したようで、斎藤茂吉など文人墨客も多く泊まった宿である。敷地内には随所に歴史を感じさせる文物があり、例えば日本海海戦勝利の記念に東郷平八郎からこの旅館に送られたという砲弾が置かれていたりする。鹿児島の旅館らしく(?)、「おしゃれ」とか「粋」とか「細やかな気遣い」というのはあまりないが、実直で、落ちついていて、何より湯が素晴らしい名宿である。
そこは、日本三大砂丘の一つ「吹上浜」のほど近い山間にある、昔ながらの温泉街である。共同浴場や国民宿舎もあり、鹿児島ならではの生活に身近な温泉がそこにあるのだが、今回宿泊したのは、ちょっと高級な温泉旅館「みどり荘」である。
「旅館」と名前がついてはいても、正直「宿舎」のような温泉宿が多い鹿児島において、このみどり荘は、旅情に溢れたまさに「旅館」である。みどり湖という小さな湖の河畔一周が全て旅館の敷地であり、8室しかない全室離れの部屋からは四季折々の自然が望める。もともと静かな田舎の温泉街ではあるが、世界から隔絶した感すら漂う隠れ家的な旅館だ。
というわけでロケーションは絶好なのだが、本当に一流なのはその泉質である。吹上温泉は「泉質日本一」を謳っているのだが、これが誇大広告ではないことを実感した。ちょっと手を湯に入れただけで、肌がすべすべになってしまう。源泉掛け流しのほのかな硫黄臭の香る湯は、肌触りがよく滑らかであり、湯上がりにはあたかも化粧水をつけたような感じになるのである。
私は自分の肌には何の関心もないが、この泉質は「美人の湯」と言われるだけはある、と唸った。家内も、すっかりこの湯のファンになってしまったようである。疲れが取れるとか、筋肉の痛みに効くとか、体が芯から暖まるとか、温泉にもいろいろあるが、少なくとも肌を洗うという点においては、泉質日本一といってもおかしくはない。
ちなみに、旅館からの説明事項に次のようなことが書いてあった。
●石鹸・シャンプーがないのはなぜ?というわけで、私は石鹸もシャンプーも何も使わなかった。それでも湯上がり感はさっぱりで、ちゃんと洗えているらしい。正直、旅館やホテルに置いてある石鹸やシャンプーはあまり好きではないので、これは有り難い。
良質の天然温泉には垢を洗い落とす成分があり、湯につかるだけで洗浄できるほどです。本来なら何も使用せずに良いのです。
そして、鹿児島ではここは「高級旅館」の部類に入る施設だと思うが、夕食なしプランであれば1泊1万円を切る価格設定も良心的である。これまでいろいろな温泉に入ったが、「みどり荘」は相当にコストパフォーマンスがよい。入浴のみは500円で、鹿児島の基準では高い方だが、日帰り出来るならば来て絶対に損はない。
なお、みどり荘の創業は昭和5年。元は別荘だったところを改装して開業したようで、斎藤茂吉など文人墨客も多く泊まった宿である。敷地内には随所に歴史を感じさせる文物があり、例えば日本海海戦勝利の記念に東郷平八郎からこの旅館に送られたという砲弾が置かれていたりする。鹿児島の旅館らしく(?)、「おしゃれ」とか「粋」とか「細やかな気遣い」というのはあまりないが、実直で、落ちついていて、何より湯が素晴らしい名宿である。
2012年3月26日月曜日
茶業今昔:茶の栽培にトライしてみたい理由
うちの近所では、このように管理が放棄された茶畑をよく見る。近所にあった製茶工場も2010年に閉鎖されたのだという。私は、いずれ茶の栽培もやってみたいと思っているので、茶業が下火になっているのはちょっと悲しい。
どうして茶業が衰微しているのかというと、その直接的な理由は、茶葉の価格が下がっているからである。統計を見てみると2000年前後をピークにして漸減しており、ピーク時と比べて半値以下になっている茶葉もある。
その減少の背後にあるのは、茶葉の流通・消費の構造の変化である。すなわち、ペットボトル飲料としてのお茶の普及と、自宅用緑茶の消費低迷が挙げられよう。今や茶葉の国内消費量の1/4は、ペットボトル飲料だ。
ペットボトルのお茶が急速に売り上げを伸ばした一方で、それに伴って生産者側が潤ったかというと、そうはなっていない。もちろん、一部にはうまく対応して収益を上げた生産者もいたわけだが、大部分の経営は苦しくなったのだった。なぜなら、ペットボトル用のお茶生産はそれまでと全く違うものが要求されたからである。
それは、年間を通じた供給の安定と、品質の均一さ、低価格であった。これは、従来のお茶生産と真逆である。なぜなら、お茶は新茶が重要視され季節性が強いものであると同時に、産地毎の微妙な違いを楽しむものでもあり、多品種少量の生産・消費が一般的であったからである。そのため、産地毎に味や香りに特徴を出すとともに、いかに特徴ある新茶を高く売るかということに重点を置いた生産・販売の体系が作られてきたのであった。
当地、南さつま市大浦町のお茶栽培は大正期に開始されたものだが、これも通常の八十八夜より1ヶ月早いという「走り新茶」を大阪へ売り込んで盛んになったものだ。これは、当時としては日本一早い新茶だったらしく、一時期は「大浦茶」として世に聞こえたらしい。
しかし、ペットボトルのお茶にとっては、新茶など何の意味もないのである。また、産地毎の特徴に至っては、品質管理上の障害にしかならない。これまでの茶業が依って立ってきたビジネスモデルが一気に裏目に出たのである。そのため茶葉の国内生産量は据え置かれつつ、近年、茶葉の輸入が増えてきている。
そもそも、日本の茶業は輸出産業として発展した。明治から大正にかけての貴重な外貨獲得の手段は、紅茶の輸出だったのである(紅茶と緑茶は製法が違うだけで茶の木は同じ)。古くからの産地ではなかった静岡が茶の一大生産地となったのも、輸出のための海路(横浜港・清水港)に恵まれていたということが大きかった。
戦中戦後は茶業も低迷したが、高度成長期には国内消費が増えたために生産が国内向けに転換されるとともに急速に増産が行われた。茶業にとっては、ある意味でこの時期に負の遺産が形成されたと言ってもよい。お茶の消費増は、嗜好飲料がまだ十分なかった高度経済成長期の一時的な現象だったと考えられるわけで、その時期に作付け面積を拡大させたことは、長期的には過剰生産体質の原因となった。
つまり、「昔の人はお茶をたくさん飲んでいたが、今の若者はあまり飲まない」というのは嘘なのだ。昔、お茶は贅沢な嗜好品であり、庶民はさほど飲んでいたわけではない。お茶をたくさん飲むライフスタイルが形作られたのは、高度経済成長期という割と最近のことなのである。
しかもこの時期、お茶が生活に浸透したのは(茶業界にとって)よかったが、一方でお茶があまりにも身近になりすぎ、飲食店等では「お茶はタダで出てくるもの」という常識が形成されてしまった。これでは、外食産業における茶の消費は期待できないというものである。
そう考えると、最近の茶業の低迷は、長期的なトレンドとしては致し方ない。茶は嗜好品である以上、コーヒーや紅茶、ジュースといった他の嗜好飲料が充実すれば消費量が減るのは当然である。しかも、緑茶は身近になりすぎて、嗜好品としての競争力が低下している。ペットボトルのお茶が普及したことで、お茶の消費量が堅調に推移していることは、茶業にとってはむしろ僥倖といえよう。
今後の日本の茶業をマクロ的に考えると、自宅用煎茶の生産は縮小し高品質化・高価格化を目指す一方、ペットボトル用には省力化・大規模化による均質な茶葉生産体制を形成することが重要だと思う。事実、南九州ではペットボトル用のお茶生産に適応して生産量を伸ばしている産地もある。
また、緑茶をあまりに身近な日常的な飲み物ではなく、本来の嗜好品の地位に戻してやることが必要だし、それが現今の流れでもある。 都市部で流行っている「nana's green tea」とか「祇園辻利」といった店は、嗜好品としてのお茶にはまだまだ可能性があることを示している。なにしろ、米国のスターバックスでも、抹茶ラテは売っているのだ。
そして、こうした店が煎茶ではなく抹茶を売りにしていることは、嗜好品としてのお茶の方向性を示唆している。嗜好品である以上、身近になりすぎた煎茶よりも、プレミアム感がある抹茶が有利なのは当然である。
とすれば、鹿児島県は全国2位のお茶の生産量があるにもかかわらず、なぜか抹茶の生産はほとんど行われていないわけだが、これからは抹茶生産が重要になるかもしれない。私が茶の生産にもトライしてみたいと思うのも、これまで抹茶生産の伝統や蓄積がない鹿児島だからこそ、面白い経営ができるのではないかと思ってのことなのである。
どのように抹茶を生産・販売するかということは工夫が必要だが、いつか、鹿児島産の抹茶を世に問うてみたいと思っている。
どうして茶業が衰微しているのかというと、その直接的な理由は、茶葉の価格が下がっているからである。統計を見てみると2000年前後をピークにして漸減しており、ピーク時と比べて半値以下になっている茶葉もある。
その減少の背後にあるのは、茶葉の流通・消費の構造の変化である。すなわち、ペットボトル飲料としてのお茶の普及と、自宅用緑茶の消費低迷が挙げられよう。今や茶葉の国内消費量の1/4は、ペットボトル飲料だ。
ペットボトルのお茶が急速に売り上げを伸ばした一方で、それに伴って生産者側が潤ったかというと、そうはなっていない。もちろん、一部にはうまく対応して収益を上げた生産者もいたわけだが、大部分の経営は苦しくなったのだった。なぜなら、ペットボトル用のお茶生産はそれまでと全く違うものが要求されたからである。
それは、年間を通じた供給の安定と、品質の均一さ、低価格であった。これは、従来のお茶生産と真逆である。なぜなら、お茶は新茶が重要視され季節性が強いものであると同時に、産地毎の微妙な違いを楽しむものでもあり、多品種少量の生産・消費が一般的であったからである。そのため、産地毎に味や香りに特徴を出すとともに、いかに特徴ある新茶を高く売るかということに重点を置いた生産・販売の体系が作られてきたのであった。
当地、南さつま市大浦町のお茶栽培は大正期に開始されたものだが、これも通常の八十八夜より1ヶ月早いという「走り新茶」を大阪へ売り込んで盛んになったものだ。これは、当時としては日本一早い新茶だったらしく、一時期は「大浦茶」として世に聞こえたらしい。
しかし、ペットボトルのお茶にとっては、新茶など何の意味もないのである。また、産地毎の特徴に至っては、品質管理上の障害にしかならない。これまでの茶業が依って立ってきたビジネスモデルが一気に裏目に出たのである。そのため茶葉の国内生産量は据え置かれつつ、近年、茶葉の輸入が増えてきている。
そもそも、日本の茶業は輸出産業として発展した。明治から大正にかけての貴重な外貨獲得の手段は、紅茶の輸出だったのである(紅茶と緑茶は製法が違うだけで茶の木は同じ)。古くからの産地ではなかった静岡が茶の一大生産地となったのも、輸出のための海路(横浜港・清水港)に恵まれていたということが大きかった。
戦中戦後は茶業も低迷したが、高度成長期には国内消費が増えたために生産が国内向けに転換されるとともに急速に増産が行われた。茶業にとっては、ある意味でこの時期に負の遺産が形成されたと言ってもよい。お茶の消費増は、嗜好飲料がまだ十分なかった高度経済成長期の一時的な現象だったと考えられるわけで、その時期に作付け面積を拡大させたことは、長期的には過剰生産体質の原因となった。
つまり、「昔の人はお茶をたくさん飲んでいたが、今の若者はあまり飲まない」というのは嘘なのだ。昔、お茶は贅沢な嗜好品であり、庶民はさほど飲んでいたわけではない。お茶をたくさん飲むライフスタイルが形作られたのは、高度経済成長期という割と最近のことなのである。
しかもこの時期、お茶が生活に浸透したのは(茶業界にとって)よかったが、一方でお茶があまりにも身近になりすぎ、飲食店等では「お茶はタダで出てくるもの」という常識が形成されてしまった。これでは、外食産業における茶の消費は期待できないというものである。
そう考えると、最近の茶業の低迷は、長期的なトレンドとしては致し方ない。茶は嗜好品である以上、コーヒーや紅茶、ジュースといった他の嗜好飲料が充実すれば消費量が減るのは当然である。しかも、緑茶は身近になりすぎて、嗜好品としての競争力が低下している。ペットボトルのお茶が普及したことで、お茶の消費量が堅調に推移していることは、茶業にとってはむしろ僥倖といえよう。
今後の日本の茶業をマクロ的に考えると、自宅用煎茶の生産は縮小し高品質化・高価格化を目指す一方、ペットボトル用には省力化・大規模化による均質な茶葉生産体制を形成することが重要だと思う。事実、南九州ではペットボトル用のお茶生産に適応して生産量を伸ばしている産地もある。
また、緑茶をあまりに身近な日常的な飲み物ではなく、本来の嗜好品の地位に戻してやることが必要だし、それが現今の流れでもある。 都市部で流行っている「nana's green tea」とか「祇園辻利」といった店は、嗜好品としてのお茶にはまだまだ可能性があることを示している。なにしろ、米国のスターバックスでも、抹茶ラテは売っているのだ。
そして、こうした店が煎茶ではなく抹茶を売りにしていることは、嗜好品としてのお茶の方向性を示唆している。嗜好品である以上、身近になりすぎた煎茶よりも、プレミアム感がある抹茶が有利なのは当然である。
とすれば、鹿児島県は全国2位のお茶の生産量があるにもかかわらず、なぜか抹茶の生産はほとんど行われていないわけだが、これからは抹茶生産が重要になるかもしれない。私が茶の生産にもトライしてみたいと思うのも、これまで抹茶生産の伝統や蓄積がない鹿児島だからこそ、面白い経営ができるのではないかと思ってのことなのである。
どのように抹茶を生産・販売するかということは工夫が必要だが、いつか、鹿児島産の抹茶を世に問うてみたいと思っている。
2012年3月23日金曜日
郷中教育の聖典、日新公いろは歌
鹿児島県加世田市(合併前)では以前、「いろは歌といぬまきの町 加世田」というキャッチコピーがよく使われていた。この「いろは歌」というのは、「いろはにほへと〜」という歌ではなくて、「島津日新公いろは歌」のことを指す。
日新公(じっしんこう)とは、日新斎と号した島津忠良のことである。島津忠良は「島津家中興の祖」と呼ばれ、戦国時代に島津家による鹿児島統治の基礎を築いた人物。晩年は加世田に隠棲したことから、南薩では郷土にゆかりある偉人として今でも敬慕されている。
島津忠良は領内をよく統治し、深く禅宗に帰依して学問に励むとともに、政治・経済・文化の各面で善政を施したのでその徳は領外にも聞こえたという。「日新公いろは歌」は、忠良が人として生きる道を説いたものであり、後に「郷中教育の聖典」「薩摩論語」と呼ばれたように、約400年にわたって薩摩藩での子弟教育に用いられた。
さて、この「日新公いろは歌」の内容については、47首をずらずらと並べている解説はよくあるのだが、体系的に紹介されているものは見かけないので、この機会にまとめてみる。
そのテーマを大まかに分類すると、儒教(15)、仏教(7)、心の持ちよう(7)、生活習慣(5)、自己啓発(5)、リーダー論(5)、兵法(3)となる(括弧内は歌の数)。通読すると、「心」についての歌が多いということに気づく。自己のありよう、組織の運営、戦争に至るまで、肝要なのは心であることが繰り返し説かれている。日新斎がこの47首に込めたメッセージの一つは、「何事も心次第」ということだ。
次に、それぞれのテーマ毎にいろは歌を私なりに要約してみる。通常はいろは順で紹介されることが多いが、テーマ毎に並べた方が全体を理解しやすい。
こうして全体を眺めて見ると、その教えは普遍的であり、現代にも通用する部分は多い。確かにこの歌は、剛毅木訥で質実剛健な薩摩の気風の醸成に一役かったのかもしれない。だが、そうして修養に努めた歴代藩主や武士たちのしたことと言えば、全国的にも苛烈な農民支配だった。
いくら聖賢の道を説いたところで、結局、島津家支配の歴史は農民にとっては苦しみの歴史だったのであり、 島津忠良自身は善政をしいたのだとしても、その教えは後の世の農民には虚しかった。日新公いろは歌の基調は儒教であるが、儒教による統治の理想は、天子の徳に人民がなびき、統治されていること自体忘れてしまうという「鼓腹撃壌」の状態にあるわけで、薩摩藩の実際の統治は、その理想とはほど遠かった。
まさに、薩摩の支配階級は、このいろは歌の冒頭「い」の歌に学ぶべきだったのである。
【参考】
各首のリンク先は「エモダカフ日記」さんによる解説である。全て読んだわけではなく、私の解釈と違う点もあると思うが、 このように一首ごとに解説・コメントがある紹介は稀有なので紹介する次第である。
なお、各首のテーマ分類は(言うまでもないが)私の独断である。
日新公(じっしんこう)とは、日新斎と号した島津忠良のことである。島津忠良は「島津家中興の祖」と呼ばれ、戦国時代に島津家による鹿児島統治の基礎を築いた人物。晩年は加世田に隠棲したことから、南薩では郷土にゆかりある偉人として今でも敬慕されている。
島津忠良は領内をよく統治し、深く禅宗に帰依して学問に励むとともに、政治・経済・文化の各面で善政を施したのでその徳は領外にも聞こえたという。「日新公いろは歌」は、忠良が人として生きる道を説いたものであり、後に「郷中教育の聖典」「薩摩論語」と呼ばれたように、約400年にわたって薩摩藩での子弟教育に用いられた。
さて、この「日新公いろは歌」の内容については、47首をずらずらと並べている解説はよくあるのだが、体系的に紹介されているものは見かけないので、この機会にまとめてみる。
そのテーマを大まかに分類すると、儒教(15)、仏教(7)、心の持ちよう(7)、生活習慣(5)、自己啓発(5)、リーダー論(5)、兵法(3)となる(括弧内は歌の数)。通読すると、「心」についての歌が多いということに気づく。自己のありよう、組織の運営、戦争に至るまで、肝要なのは心であることが繰り返し説かれている。日新斎がこの47首に込めたメッセージの一つは、「何事も心次第」ということだ。
次に、それぞれのテーマ毎にいろは歌を私なりに要約してみる。通常はいろは順で紹介されることが多いが、テーマ毎に並べた方が全体を理解しやすい。
■儒教
誠実・正道:苦しくとも正道をゆけ(く) 身を捨てる覚悟で正しい道を歩め(み) 誠実にせよ(ね) 義を守れ(お)
研鑽・修身:寸暇を惜しみ勉学せよ(は) 人を鑑に研鑽せよ(よ) 礼儀も軽蔑も自分に返ってくる(れ) 過ちはすぐに正せ(せ) 敵こそ自らの先生である(て) 優れた人と付き合え(に) 名誉が大事(ら)
組織の秩序:目上の人の話はよく聞け(る) 私心を捨てて主君に仕えよ(わ) 先祖の祀りと忠孝は大事(め)
統治論:法令は人民によく説明せよ(も)
■仏教
因果応報:憎しみは何も生まない(つ) 傲慢には報いが来る(む) 三世の報いを思え(う)
修身:悪心に身を任せるな(た) 迷妄を払え(あ)
慈悲:孤独なものを憐れめ(ひ) 敵味方関係なく弔え(へ)
■心の持ちよう
何事も心次第:世界の見え方は心次第(き) 貴賤は心にある(ろ) 心は見透かされる(し)
良心:良心に問え(ほ) 心を堅持せよ(ぬ)
慢心するな:技術があっても慢心するな(ま)
覚悟:平時から覚悟を決めよ(の)
■生活習慣
努力:積み重ねが大事(へ) 勉強は夜にするのがよい(か) 寸暇を惜しめ(い)
飲酒・生活:酒に目を曇らすな(え) 足るを知れ(す)
■自己啓発
努力:凡人も偉人も同じ人間だ(な) 技芸・学問を身につけよ(ち) 安易な道を選ぶな(り) 安易を選ぶと堕落する(を)
実践:実践が大事(い)
■リーダー論
人事・信賞必罰:人事は重要だが難しい(け) アメと鞭が両方必要(や) 罰は慎重に(と)
部下を大事に:部下からの批判は役に立つ(そ) 部下を細やかに思いやれ(さ)
■兵法
何事も心次第:戦いは戦闘員の数で決まらない(ふ) 軍隊の心を一つにすることが重要(こ) 成功も失敗もリーダーの心次第(ゆ)
こうして全体を眺めて見ると、その教えは普遍的であり、現代にも通用する部分は多い。確かにこの歌は、剛毅木訥で質実剛健な薩摩の気風の醸成に一役かったのかもしれない。だが、そうして修養に努めた歴代藩主や武士たちのしたことと言えば、全国的にも苛烈な農民支配だった。
いくら聖賢の道を説いたところで、結局、島津家支配の歴史は農民にとっては苦しみの歴史だったのであり、 島津忠良自身は善政をしいたのだとしても、その教えは後の世の農民には虚しかった。日新公いろは歌の基調は儒教であるが、儒教による統治の理想は、天子の徳に人民がなびき、統治されていること自体忘れてしまうという「鼓腹撃壌」の状態にあるわけで、薩摩藩の実際の統治は、その理想とはほど遠かった。
まさに、薩摩の支配階級は、このいろは歌の冒頭「い」の歌に学ぶべきだったのである。
いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし
(大意)昔の賢者の教えを聞いたり、それを教えたりしても、自分が実践しなければ何の意味もない。
【参考】
各首のリンク先は「エモダカフ日記」さんによる解説である。全て読んだわけではなく、私の解釈と違う点もあると思うが、 このように一首ごとに解説・コメントがある紹介は稀有なので紹介する次第である。
なお、各首のテーマ分類は(言うまでもないが)私の独断である。
2012年3月21日水曜日
雑草という奥深い世界
今日はポンカン園の草刈りをした。半日使って、できたのは1/4程度(約350 ㎡)。もう少し効率を上げなくてはならない。
ところで、草刈りをしていて気づいたことがある。それは、思った以上に雑草の植生が変化に富んでいるということだ。簡単に言えば、場所によって生えている雑草が違う。同じ園内なので、気温や雨量などの基本条件は共有しているわけだが、日当たりや管理の微妙な違いによって優勢な種類が異なっているのだ。
残念ながら、雑草の知識が薄弱なので何が生えているのかよくわからないのだが、マメ科植物が生えているところもあれば、イネ科らしき植物が生えていたり、本当にたった数メートル離れるだけで雑草の様相ががらっと変わる。
雑草は、全体としては根絶できないやっかいな存在ではあっても、個々の植物は、実は思っている以上にフラジャイルなのかもしれない。つまり、環境の微妙な変化で他の植物に取って代わられる、過酷な競争が雑草間にあり、雑草の栄枯盛衰は意外に激しいのではないだろうか。
とすれば、雑草の様相をつぶさに観察すると、土壌や日当たりについていろいろなことが分かりそうな気がしてきた。「雑草学(Weed Science)」という学問があるくらいなので、当たり前といえば当たり前なのだが。
雑草の世界が環境の変化に敏感だとしたら、ちょっと意外だ。植生遷移の最終的な平衡状態である極相においては、単一種が優勢な地位を確立することが多い。例えば、白神山地のブナ林とか、屋久島のスギ林とか、古い森は唯一の優勢種を中心にして植生が構成されている。山の土壌や日当たりは一様でないにもかかわらず、樹木に関しては総体として優勢な種が一つに決まるということを考えると、どうして雑草が微妙な環境の変化を敏感に反映するのか不思議である。同じような環境の下で生育しているので、普通に考えれば園全体が似たような雑草植生になりそうなものだが…。
ともかく、改めて雑草の知識が薄弱なことが悔やまれる。栽培植物と同様に、雑草にも実は奥深い世界があるのだと思う。農業とは直接関係ないと思うが、以前からずっと気になっていた『柳宗民の雑草ノオト』を是非読んでみたい。
ところで、草刈りをしていて気づいたことがある。それは、思った以上に雑草の植生が変化に富んでいるということだ。簡単に言えば、場所によって生えている雑草が違う。同じ園内なので、気温や雨量などの基本条件は共有しているわけだが、日当たりや管理の微妙な違いによって優勢な種類が異なっているのだ。
残念ながら、雑草の知識が薄弱なので何が生えているのかよくわからないのだが、マメ科植物が生えているところもあれば、イネ科らしき植物が生えていたり、本当にたった数メートル離れるだけで雑草の様相ががらっと変わる。
雑草は、全体としては根絶できないやっかいな存在ではあっても、個々の植物は、実は思っている以上にフラジャイルなのかもしれない。つまり、環境の微妙な変化で他の植物に取って代わられる、過酷な競争が雑草間にあり、雑草の栄枯盛衰は意外に激しいのではないだろうか。
とすれば、雑草の様相をつぶさに観察すると、土壌や日当たりについていろいろなことが分かりそうな気がしてきた。「雑草学(Weed Science)」という学問があるくらいなので、当たり前といえば当たり前なのだが。
雑草の世界が環境の変化に敏感だとしたら、ちょっと意外だ。植生遷移の最終的な平衡状態である極相においては、単一種が優勢な地位を確立することが多い。例えば、白神山地のブナ林とか、屋久島のスギ林とか、古い森は唯一の優勢種を中心にして植生が構成されている。山の土壌や日当たりは一様でないにもかかわらず、樹木に関しては総体として優勢な種が一つに決まるということを考えると、どうして雑草が微妙な環境の変化を敏感に反映するのか不思議である。同じような環境の下で生育しているので、普通に考えれば園全体が似たような雑草植生になりそうなものだが…。
ともかく、改めて雑草の知識が薄弱なことが悔やまれる。栽培植物と同様に、雑草にも実は奥深い世界があるのだと思う。農業とは直接関係ないと思うが、以前からずっと気になっていた『柳宗民の雑草ノオト』を是非読んでみたい。
2012年3月20日火曜日
果樹の無農薬栽培は難しい
昨日、初めてポンカン園に薬剤散布を行った。動力噴霧器という機械を使って、水に薄めた薬剤をホースで噴射するという作業である。ポンカン作りの指導を受けているSさんという先輩農家に教えてもらいながらの作業だった。
散布したのは、デランフロアブルとコサイドDFという薬剤。これらはカンキツがよく冒されるかいよう病、黒点病、そうか病、炭疽病といった病気の原因となる細菌を消毒するものである。1時間半ほどの散布だったが、やはり飛沫が自分にも掛かるので、気分悪くなってしまった。
自分としては、いずれ無農薬栽培をしてみたいと思うが、栽培1年目なのでとりあえず農協の防除歴に従った基本のやり方でやっている。そもそも、果樹の無農薬栽培は、農業技術としては難しい部類に入る。
野菜の無農薬栽培は、簡単ではないにしろある程度の方法論が確立されているため、やってやれないことはない。しかし、果樹のような永年作物の無農薬栽培は、まだ一般的ではないためどうしたらいいのか私もよく分からない。
なぜ果樹の無農薬栽培が難しいかというと、第1に栽培場所が固定されていることが挙げられる。野菜であれば、土壌や周囲に病害虫が固定化しないように転作することが容易であるが、果樹ではそのようなことは不可能である。だから、一度病害虫が圃場に侵入してしまうと、薬剤を使わなければ駆除は難しい。
第2に、病害虫によって枯れてしまうと、損失が大きいということもある。野菜であれば、仮に害虫によってその年の野菜が全滅しても、来年また作ればよい。しかし、果樹の場合、一度全滅すればまた苗から育てなくてはならず、リスクが大きい。
しかも、一般的に、無農薬栽培できるところと、そもそも無理なところがあるため、どこでも無農薬栽培にトライできるというわけでもない。例えば、通常の農薬を使った圃場が隣接していれば、隣接の薬剤散布により益虫なども防除されやすいし、また病害虫も相互に進出してしまう。無農薬栽培しやすいのは、病害虫が近隣から進出されないような孤立したところで、しかも山間でないようなところ(山間だと、山から通常とは別の害虫などが来るため)である。しかし、こんな条件を満たし、かつ栽培に適したところはあまりない。特に産地であればそうである。
だから、不可能といわれたリンゴの無農薬栽培で話題になった『奇跡のリンゴ』が「奇跡」なのも大げさではない。といっても、カンキツの場合は無農薬栽培をやっている人がいないわけではないので、リンゴのようには難しくはないのだと思う。
とはいえ、借りているポンカン園で無農薬栽培にトライするのはやはりリスクが大きい。もし枯らしてしまった場合、どういうことになるのだろうか。栽培を辞める予定だったところといっても、資産価値はゼロではないので、やはり遠慮してしまう。
ところで、永年作物でも無農薬栽培が当たり前、というか農薬を使う必要が全くない作物がある。それは、タケノコである。竹にはほぼ病害虫の被害がないのである。竹というのは、つくづく強い植物だと思う。
散布したのは、デランフロアブルとコサイドDFという薬剤。これらはカンキツがよく冒されるかいよう病、黒点病、そうか病、炭疽病といった病気の原因となる細菌を消毒するものである。1時間半ほどの散布だったが、やはり飛沫が自分にも掛かるので、気分悪くなってしまった。
自分としては、いずれ無農薬栽培をしてみたいと思うが、栽培1年目なのでとりあえず農協の防除歴に従った基本のやり方でやっている。そもそも、果樹の無農薬栽培は、農業技術としては難しい部類に入る。
野菜の無農薬栽培は、簡単ではないにしろある程度の方法論が確立されているため、やってやれないことはない。しかし、果樹のような永年作物の無農薬栽培は、まだ一般的ではないためどうしたらいいのか私もよく分からない。
なぜ果樹の無農薬栽培が難しいかというと、第1に栽培場所が固定されていることが挙げられる。野菜であれば、土壌や周囲に病害虫が固定化しないように転作することが容易であるが、果樹ではそのようなことは不可能である。だから、一度病害虫が圃場に侵入してしまうと、薬剤を使わなければ駆除は難しい。
第2に、病害虫によって枯れてしまうと、損失が大きいということもある。野菜であれば、仮に害虫によってその年の野菜が全滅しても、来年また作ればよい。しかし、果樹の場合、一度全滅すればまた苗から育てなくてはならず、リスクが大きい。
しかも、一般的に、無農薬栽培できるところと、そもそも無理なところがあるため、どこでも無農薬栽培にトライできるというわけでもない。例えば、通常の農薬を使った圃場が隣接していれば、隣接の薬剤散布により益虫なども防除されやすいし、また病害虫も相互に進出してしまう。無農薬栽培しやすいのは、病害虫が近隣から進出されないような孤立したところで、しかも山間でないようなところ(山間だと、山から通常とは別の害虫などが来るため)である。しかし、こんな条件を満たし、かつ栽培に適したところはあまりない。特に産地であればそうである。
だから、不可能といわれたリンゴの無農薬栽培で話題になった『奇跡のリンゴ』が「奇跡」なのも大げさではない。といっても、カンキツの場合は無農薬栽培をやっている人がいないわけではないので、リンゴのようには難しくはないのだと思う。
とはいえ、借りているポンカン園で無農薬栽培にトライするのはやはりリスクが大きい。もし枯らしてしまった場合、どういうことになるのだろうか。栽培を辞める予定だったところといっても、資産価値はゼロではないので、やはり遠慮してしまう。
ところで、永年作物でも無農薬栽培が当たり前、というか農薬を使う必要が全くない作物がある。それは、タケノコである。竹にはほぼ病害虫の被害がないのである。竹というのは、つくづく強い植物だと思う。
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