この時期、近所の物産館では「サワーポメロ」がものすごく安売りされている。3個くらい入って150円とか、そういう激安値である。これはブンタンの仲間だから大きいのが3個入っていれば2キロ近くあるが、それが150円だから全然利益は出ない商売だ。
しかしサワーポメロ、といってもピンと来ない人が多いに違いない。サワーポメロは通称で、品種名は大橘(おおたちばな)という。熊本では「パール柑」と呼ばれている。といっても、やはりピンと来ない人が多いであろう。サワーポメロは、鹿児島・熊本のご当地柑橘ともいうべきものだ。
これが激安で売られているのはいろいろ理由があるが、基本的には市場性があまりないからだと思う。つまり、あまり市場では取り扱われていない。市場で流通しないから売りにくい。売りにくいから安くなる。ではどうして取り扱われていないのか、というと、多分生産量が少ないからだ。
ところが面白いことに、このあたりで柑橘類を生産している人の畑には、隅っこの方に必ずといってよいほどこのサワーポメロが1、2本植えられている。自家用で育てているのである。自家用だから元より出荷のことは考えていない。だがたった2本でも収穫は結構な量になるから、余った分を物産館に出しているのである。余ったものの処分だから150円くらいの激安に設定されているのだと思う。
しかしここに一つ不思議がある。ミカン農家自身が自家用に植えるくらいだから美味しい柑橘のはずなのに、なぜ生産量が少なく市場性があまりないのだろうか?
実際、「柑橘類の中でサワーポメロが一番好き!」とか「柑橘類はサワーポメロ以外は食べない」という人もいるくらいなのだ。ちょっと好き嫌いは分かれる果物で(というのは皮が剝きにくいのが一番嫌われる点)、みんなに好かれるというものではないが、はまる人にははまる味だ。
どんな味かというと、ブンタンのぷちぷち感はそのままにすごくジューシーにして甘酸っぱくした感じである(サワー(酸っぱい)が冠されているがそれほど酸味は強くない)。それから香りがすごく爽やかなのも特徴である。剝きにくい皮のことを考えなければ、もっと市場で取引されてもおかしくない。
しかも、生産量の少なさは栽培が難しいのが理由ではない。というか、柑橘類の中では栽培はどちらかというと容易な方ではないかと思う。ではなぜ生産量が少なく市場性があまりないのか?
私の推測だが、それはこのあたりの人びとが「サワーポメロは自家用の果物」「サワーポメロは高く売れるはずがない」と思い込んでいるせいではないかと思う。つまりサワーポメロに将来性を感じていない。柑橘のように「一度植えたら簡単に植え替えはできない」というような作物の場合、定植の際は最も有望そうな品種を選ぶのが当然である。その結果、生産量が少なくなって市場にあまり流通しないため、さらに有望に見えなくなる。そういう負のフィードバックの結果、サワーポメロは自家用に1、2本植える程度のご当地柑橘に甘んじているのではないだろうか。
だとすれば、サワーポメロの価値は過小評価されているということになる。もしかしたら、これを真面目に売ろうとすればそれなりに結果がでるのではないか?といっても、私自身はサワーポメロはやはり2本しか栽培していないし、これから増やしていこうという気もないが…(あ、やはり将来性を自分も感じていなかったのかもしれません(笑))。
2015年2月6日金曜日
2015年2月4日水曜日
近所の中学校で講演させてもらいました
先日、近所の大笠(だいりゅう)中学校で講演をしてきた。名目としては「立志記念講演」ということで、中学2年生を対象としたもの。
立志式というのは、どうも全国的な風習ではないようだが、要は立志の時(15歳)を迎えたことを祝い、大人になる自覚を深める行事である。最近は「式」のようなことはしないことも多いのだということで、「式」の代わりに講演が行われ、それに呼ばれていったというわけである。
どうして私などに講演を依頼してきたのかはよく分からないが(町内で頑張っている人に話を聞こう、というような趣旨らしい)、「こういう話をしてほしい!」というような明確な要望もなかったので、普段の授業では聞くことがないであろう刺激的な話をしようということにした。
その内容と言えば、「これからの時代を生き抜くための教養講座」と題して、「君たちが大人になる頃は日本にとって大変厳しい時代になっていて、ぼやぼやしているとどうしようもない人生が待っている。しかも田舎モノには大変なハンデがあるのだから、危機感を抱くべきだ。これからの時代を生き抜くため、英語、インターネット、デジタルツールを使いこなそう!」というような感じである。
このメッセージがどれくらい中学生に実感をもって伝わったのか、正直心許ない。なにしろ、与えられた70分という時間の中で、約100ページ(!)ものスライドを使用し、まくし立てるように発表した。今流行りのスティーブ・ジョブズ流のエレガントなプレゼンテーションとは真逆の講演だったと思う。
だが、聴講してくれた中学生(30人くらい?)の一人でも、何か感じとり、これからの人生を歩む参考にしてくれたら望外の喜びである。そして、中学生にとっては内容がぎゅっと詰まった講演だったと思うが、最後まで真面目に聴講してくれたみなさんに感謝である。自分にとってもいい経験になりました。
立志式というのは、どうも全国的な風習ではないようだが、要は立志の時(15歳)を迎えたことを祝い、大人になる自覚を深める行事である。最近は「式」のようなことはしないことも多いのだということで、「式」の代わりに講演が行われ、それに呼ばれていったというわけである。
どうして私などに講演を依頼してきたのかはよく分からないが(町内で頑張っている人に話を聞こう、というような趣旨らしい)、「こういう話をしてほしい!」というような明確な要望もなかったので、普段の授業では聞くことがないであろう刺激的な話をしようということにした。
その内容と言えば、「これからの時代を生き抜くための教養講座」と題して、「君たちが大人になる頃は日本にとって大変厳しい時代になっていて、ぼやぼやしているとどうしようもない人生が待っている。しかも田舎モノには大変なハンデがあるのだから、危機感を抱くべきだ。これからの時代を生き抜くため、英語、インターネット、デジタルツールを使いこなそう!」というような感じである。
このメッセージがどれくらい中学生に実感をもって伝わったのか、正直心許ない。なにしろ、与えられた70分という時間の中で、約100ページ(!)ものスライドを使用し、まくし立てるように発表した。今流行りのスティーブ・ジョブズ流のエレガントなプレゼンテーションとは真逆の講演だったと思う。
だが、聴講してくれた中学生(30人くらい?)の一人でも、何か感じとり、これからの人生を歩む参考にしてくれたら望外の喜びである。そして、中学生にとっては内容がぎゅっと詰まった講演だったと思うが、最後まで真面目に聴講してくれたみなさんに感謝である。自分にとってもいい経験になりました。
2015年1月26日月曜日
突然の訃報に接して
新聞にも出たが、同じ集落の大いなる先輩である窪 俊夫おじさんが先日不慮の事故で亡くなった。
農業の傍ら、教育委員長や森林組合長といった要職を歴任され、勲五等瑞宝章まで受章していたが、全く尊大な感じはなく、誰に対しても気さくな方だった。
それに経歴もさることながら、90歳を超えても未来へ向けた夢を描いているようなところがあって、しかもただ夢を描くだけでなく、老齢にしてそれを少しでも実現しようとする行動力があった。その生きる姿勢にはいつも頭が下がるような思いがしていたところである。
実は昨年、俊夫おじさんに「これまでの人生の話を聞かせてください」と頼んで話を聞かせてもらい、それを筆記して「聞き書きによる自分史」を作ろうと企てていた。しかしこの突然の訃報に接し、あえなくその計画は頓挫した。もちろん、話を聞く時間は作ろうと思えば作れたはずだ。私に少し積極性が足りなかった。でも俊夫おじさんも90歳を超えてもまだまだお元気だし、急ぐこともないだろう、と思っていたのだ。
だから、作りかけの「自分史」は中途半端なところで唐突に打ち切られることになった。本当に残念なことで、生前もっと話を聞いておけばよかったという後悔に堪えない。
しかし作りかけの部分は、既に公表は差し支えないということで確認してもらっていたし、これを公表することが私なりの弔いだと思うので、ここに公表することにする。
これは俊夫おじさんが生まれてから昭和40年くらいまでの人生を語ったもので、特に何かの役に立つものでもない。歴史的に重要な事実が含まれているわけでもない。しかし戦前を生きた人たちが、どんな風に人生を歩んできたのか、ということを考える時、その一例として何かの参考になるのではないかという思いで書き留めたものである。
↓リンクをクリックしてご覧ください(PDF)
『聞き書きによる「俊夫おじさん」の自分史』
農業の傍ら、教育委員長や森林組合長といった要職を歴任され、勲五等瑞宝章まで受章していたが、全く尊大な感じはなく、誰に対しても気さくな方だった。
それに経歴もさることながら、90歳を超えても未来へ向けた夢を描いているようなところがあって、しかもただ夢を描くだけでなく、老齢にしてそれを少しでも実現しようとする行動力があった。その生きる姿勢にはいつも頭が下がるような思いがしていたところである。
実は昨年、俊夫おじさんに「これまでの人生の話を聞かせてください」と頼んで話を聞かせてもらい、それを筆記して「聞き書きによる自分史」を作ろうと企てていた。しかしこの突然の訃報に接し、あえなくその計画は頓挫した。もちろん、話を聞く時間は作ろうと思えば作れたはずだ。私に少し積極性が足りなかった。でも俊夫おじさんも90歳を超えてもまだまだお元気だし、急ぐこともないだろう、と思っていたのだ。
だから、作りかけの「自分史」は中途半端なところで唐突に打ち切られることになった。本当に残念なことで、生前もっと話を聞いておけばよかったという後悔に堪えない。
しかし作りかけの部分は、既に公表は差し支えないということで確認してもらっていたし、これを公表することが私なりの弔いだと思うので、ここに公表することにする。
これは俊夫おじさんが生まれてから昭和40年くらいまでの人生を語ったもので、特に何かの役に立つものでもない。歴史的に重要な事実が含まれているわけでもない。しかし戦前を生きた人たちが、どんな風に人生を歩んできたのか、ということを考える時、その一例として何かの参考になるのではないかという思いで書き留めたものである。
↓リンクをクリックしてご覧ください(PDF)
『聞き書きによる「俊夫おじさん」の自分史』
2015年1月23日金曜日
大浦川の改修工事にこと寄せて
うちの近くに大浦川という川があって、宮園という集落あたりで大きく湾曲している。
川としてはかなり急カーブを描いていることもあり、大雨の時にはけっこうな高さまで水位が上がってくる。そんなわけで、昨年、大規模な川べりの改修工事が行われて(まだ工事は途中だと思う)、かなり広い河川敷が出現した。
この工事による費用対効果はともかく、増水の危険性があったことは事実なので、この公共工事自体に対する異論はない。が、一つ感じることがあった。
それは、このあたりの風景がガラッと変わってしまったにもかかわらず、それについての事前説明などが一切なかったらしいことである(もしかしたら私が移住してくる前に話がついていたのかもしれませんが)。
この川の淵には、幽邃とまではいかないが鬱蒼とした杉林があって、それなりに存在感のある場所だったと思う。それが、この工事によってすっかり切り払われ、のっぺらとした場所になってしまった。その杉林を愛でていた人というのもいないだろうから、さしたる問題ではないのかもしれないが、やはり風景を大きく変えてしまうような工事は事前に地域住民へと説明が必要ではないか。
というのは、風景というのは単にそこにあるものではなく、地域に住む人の「公共財」だと思うからである。それをなくしても誰か損するわけではないが、そこに住む人のアイデンティティを形成したり、毎日の行動の規範(散歩コースになるなど)になったり、風景は思っている以上に生活に影響しているものだ。
そして、公共財である以上、それを維持していく責任も(行政ではなく)地域住民にある。ゴミをポイ捨てしないとか基本的なことはもちろん、自らがその風景の一部となって暮らして行かなくてはならない。これは景観面での個人主義が徹底している日本ではあまり意識されないが、欧米の諸都市では景観と自らの生活を調和させることは公共の重要なマナーとされている。例えば、ヨーロッパの古都では個人住宅の屋根や壁の色が事細かく条例で規定され、街並み全体が住民の協力によって調和したものになるよう努力されている。
そしてそのような努力を行う以上、街並みの変更を伴う公共事業では地域住民への説明が丁寧に行われるのが普通である。それ以上に、そもそもの計画で、なるだけ周囲の環境と違和感がないものになるように考えられる。もちろんそれでも珍奇な構造物ができないわけではない。景観がらみの訴訟もけっこうあるらしい。
しかし翻って日本ではどうか。公共事業自体の是非はさておき、まちづくりの俯瞰的なビジョンなくして予算の流れるままに公共事業が行われた結果、街の景観はとてもいびつなことになっている場合が多い。にもかかわらず、それに対する不満もあまり顕在化していない。
これは、街の景観は自分たちのものだという意識が薄いからだと思う。おそらく、行政が公共事業に先立って説明会をやれば、声が大きくやたらと尊大で、内容のない反対意見を述べる人が湧いてきて、建設的意見を述べるはずのマジョリティが沈黙する、と言う光景が出現するであろう。これは、自分たちは行政サービスの受益者だという権利意識ばかりあって、行政は自分たちで作っていくものだという責任感がないからではないかと思う。
しかし本来は、行政と住民は対立するものではなく、住民自らが行政を形作っていくはずで、それが民主主義である。理想的には、行政が地域住民に対して知恵と協力を期待して公共事業に対する説明会を開催できるようになってほしい。ガス抜きのための説明会ほど虚しいものはない。
大浦川の改修工事においても、こんなに広い河川敷を作るのなら、そこで何らかのことができたかもしれないわけで、地域住民に幅広く説明すべきだった。サッカーコートとかテニスコートとかを作るほどの余裕はなさそうだが、最初から何もできなさそうと諦めては話が終わる。今からでも遅くはない。この空間を有効利用する知恵を出し合うことができないものか。
田舎の経済というのは、公共事業に依っている部分が大きい。だからこそ、公共事業のやり方をもっとスマートなものにしていかなくてはならないと感じる。行政側が住民への説明を丁寧にやるのはもちろん、住民の方も、それは行政の仕事だ、と突き放すのではなく、当事者意識と責任感を以て携わり、少しでも地域がよくなるように工夫していくべきである。そして、少ない予算で大きな効果を上げる公共事業にしていかなくてはならない。
そして田舎では行政と地域住民との距離が近い。都会ではできないようなコミュニケーションが役場と地域住民で可能である。公共事業の変革は田舎でこそ可能だと思う。こうした工事はなかなか文字にできないような難しい事情が潜んでいることも多く、青臭い意見だとは承知の上だが、うやむやの中で難しいことを処理する行政はもう辞めて、全てを白日の下に晒しつつ、妙案をみんなで探っていく行政へと変わってくべき時が来ていると思う。
川としてはかなり急カーブを描いていることもあり、大雨の時にはけっこうな高さまで水位が上がってくる。そんなわけで、昨年、大規模な川べりの改修工事が行われて(まだ工事は途中だと思う)、かなり広い河川敷が出現した。
この工事による費用対効果はともかく、増水の危険性があったことは事実なので、この公共工事自体に対する異論はない。が、一つ感じることがあった。
それは、このあたりの風景がガラッと変わってしまったにもかかわらず、それについての事前説明などが一切なかったらしいことである(もしかしたら私が移住してくる前に話がついていたのかもしれませんが)。
この川の淵には、幽邃とまではいかないが鬱蒼とした杉林があって、それなりに存在感のある場所だったと思う。それが、この工事によってすっかり切り払われ、のっぺらとした場所になってしまった。その杉林を愛でていた人というのもいないだろうから、さしたる問題ではないのかもしれないが、やはり風景を大きく変えてしまうような工事は事前に地域住民へと説明が必要ではないか。
というのは、風景というのは単にそこにあるものではなく、地域に住む人の「公共財」だと思うからである。それをなくしても誰か損するわけではないが、そこに住む人のアイデンティティを形成したり、毎日の行動の規範(散歩コースになるなど)になったり、風景は思っている以上に生活に影響しているものだ。
そして、公共財である以上、それを維持していく責任も(行政ではなく)地域住民にある。ゴミをポイ捨てしないとか基本的なことはもちろん、自らがその風景の一部となって暮らして行かなくてはならない。これは景観面での個人主義が徹底している日本ではあまり意識されないが、欧米の諸都市では景観と自らの生活を調和させることは公共の重要なマナーとされている。例えば、ヨーロッパの古都では個人住宅の屋根や壁の色が事細かく条例で規定され、街並み全体が住民の協力によって調和したものになるよう努力されている。
そしてそのような努力を行う以上、街並みの変更を伴う公共事業では地域住民への説明が丁寧に行われるのが普通である。それ以上に、そもそもの計画で、なるだけ周囲の環境と違和感がないものになるように考えられる。もちろんそれでも珍奇な構造物ができないわけではない。景観がらみの訴訟もけっこうあるらしい。
しかし翻って日本ではどうか。公共事業自体の是非はさておき、まちづくりの俯瞰的なビジョンなくして予算の流れるままに公共事業が行われた結果、街の景観はとてもいびつなことになっている場合が多い。にもかかわらず、それに対する不満もあまり顕在化していない。
これは、街の景観は自分たちのものだという意識が薄いからだと思う。おそらく、行政が公共事業に先立って説明会をやれば、声が大きくやたらと尊大で、内容のない反対意見を述べる人が湧いてきて、建設的意見を述べるはずのマジョリティが沈黙する、と言う光景が出現するであろう。これは、自分たちは行政サービスの受益者だという権利意識ばかりあって、行政は自分たちで作っていくものだという責任感がないからではないかと思う。
しかし本来は、行政と住民は対立するものではなく、住民自らが行政を形作っていくはずで、それが民主主義である。理想的には、行政が地域住民に対して知恵と協力を期待して公共事業に対する説明会を開催できるようになってほしい。ガス抜きのための説明会ほど虚しいものはない。
大浦川の改修工事においても、こんなに広い河川敷を作るのなら、そこで何らかのことができたかもしれないわけで、地域住民に幅広く説明すべきだった。サッカーコートとかテニスコートとかを作るほどの余裕はなさそうだが、最初から何もできなさそうと諦めては話が終わる。今からでも遅くはない。この空間を有効利用する知恵を出し合うことができないものか。
田舎の経済というのは、公共事業に依っている部分が大きい。だからこそ、公共事業のやり方をもっとスマートなものにしていかなくてはならないと感じる。行政側が住民への説明を丁寧にやるのはもちろん、住民の方も、それは行政の仕事だ、と突き放すのではなく、当事者意識と責任感を以て携わり、少しでも地域がよくなるように工夫していくべきである。そして、少ない予算で大きな効果を上げる公共事業にしていかなくてはならない。
そして田舎では行政と地域住民との距離が近い。都会ではできないようなコミュニケーションが役場と地域住民で可能である。公共事業の変革は田舎でこそ可能だと思う。こうした工事はなかなか文字にできないような難しい事情が潜んでいることも多く、青臭い意見だとは承知の上だが、うやむやの中で難しいことを処理する行政はもう辞めて、全てを白日の下に晒しつつ、妙案をみんなで探っていく行政へと変わってくべき時が来ていると思う。
2015年1月15日木曜日
南薩の不夜城「A-Zかわなべ」でうちのポンカンを販売中
A-Z(エーゼット)というショッピングセンターをご存じだろうか?
これは鹿児島(阿久根、川辺、隼人の3箇所)にあって、店舗がやたらデカく車から仏壇まで何でも置いていて、しかも24時間営業という独特のお店である。この3箇所はどこもさしたる繁華街を持たないような田舎で、だからこそ商圏のニーズを独占している。こういうショッピングセンターはだいたい繁華街から少し離れた郊外に店を構えるものだが、敢えて競争相手のいない田舎に出店するというのが面白い。
しかも、私も詳しくは知らないのだが、仕入れの仕組みが変わっていて、現場担当者の裁量がとても大きいらしい。例えばニシムタ(鹿児島で有名なショッピングセンターです)なんかだと仕入れは全店共通だと思うが、A-Zの場合は売り場担当者がバイヤーとなって店舗で独自に仕入れるそうだ。いうまでもなく、仕入れは全店共通にするのが合理的だ。この一見非合理な、常識と逆のことをやるのがA-Zの面白いところである。
だから、A-Zには、近所のおばちゃんたち(組合)が作ったような漬物とか、ショッピングセンターらしからぬものが置いている。一見普通の大型ショッピングセンターだが、よく見てみると「常識とは逆の経営」をやっているのである。
A-Zがいかに独特な経営をしているかは、WEB上にもいろいろな記事が載っている(→例えばコレとかコレとか)のでその話はこのあたりにして、このたび、地元南薩のA-Zかわなべに「南薩の田舎暮らし」の「無農薬・無化学肥料のポンカン」を買ってもらえる(仕入れてもらえる)ことになった! (というか独特な経営をしているから、私などから仕入れてくれるのだろう)
私も正確な経緯はよくわからないものの、A-Zとして有機農産物などの取り扱いを強化していこうという動きがあり、それに載っからせてもらった形である。
もし、A-Zにポンカンを仕入れてもらえなければ、個人販売でチマチマ売りつつ、「腐れとの戦い」(というのは防腐剤を掛けていないので)をしなければならなかったので、本当に助かった。
しかも最初は、様子見程度の仕入れなのかなあと思っていたのだが、売り場担当はの方がPOPまで作って下さり、また私が手渡した小さなチラシもわざわざ多数印刷して頒布してくれているではないか。A-Zのご担当の方に、結構力を割いてもらっていると感じる。
こうして、せっかく仕入れてもらったこのポンカンが、無事売り切れて欲しいというのが私の切なる願いである。ここまでやっもらって腐るまで売れ残るということはないと思うが、なかなか売れないとなれば次の仕入れに繋がらない。そして売り場担当の方に申し訳ない感じがする。
というわけなので、南薩の皆さんはA-Zかわなべにお越しの際は、「無農薬・無肥料のポンカン」をよろしくお願いします。A-Zには基本的にチラシがないそうなので、口コミだけが頼りです。なお、一袋(たぶん1kgくらい)380円で売っていました。
これは鹿児島(阿久根、川辺、隼人の3箇所)にあって、店舗がやたらデカく車から仏壇まで何でも置いていて、しかも24時間営業という独特のお店である。この3箇所はどこもさしたる繁華街を持たないような田舎で、だからこそ商圏のニーズを独占している。こういうショッピングセンターはだいたい繁華街から少し離れた郊外に店を構えるものだが、敢えて競争相手のいない田舎に出店するというのが面白い。
しかも、私も詳しくは知らないのだが、仕入れの仕組みが変わっていて、現場担当者の裁量がとても大きいらしい。例えばニシムタ(鹿児島で有名なショッピングセンターです)なんかだと仕入れは全店共通だと思うが、A-Zの場合は売り場担当者がバイヤーとなって店舗で独自に仕入れるそうだ。いうまでもなく、仕入れは全店共通にするのが合理的だ。この一見非合理な、常識と逆のことをやるのがA-Zの面白いところである。
だから、A-Zには、近所のおばちゃんたち(組合)が作ったような漬物とか、ショッピングセンターらしからぬものが置いている。一見普通の大型ショッピングセンターだが、よく見てみると「常識とは逆の経営」をやっているのである。
A-Zがいかに独特な経営をしているかは、WEB上にもいろいろな記事が載っている(→例えばコレとかコレとか)のでその話はこのあたりにして、このたび、地元南薩のA-Zかわなべに「南薩の田舎暮らし」の「無農薬・無化学肥料のポンカン」を買ってもらえる(仕入れてもらえる)ことになった! (というか独特な経営をしているから、私などから仕入れてくれるのだろう)
私も正確な経緯はよくわからないものの、A-Zとして有機農産物などの取り扱いを強化していこうという動きがあり、それに載っからせてもらった形である。
もし、A-Zにポンカンを仕入れてもらえなければ、個人販売でチマチマ売りつつ、「腐れとの戦い」(というのは防腐剤を掛けていないので)をしなければならなかったので、本当に助かった。
しかも最初は、様子見程度の仕入れなのかなあと思っていたのだが、売り場担当はの方がPOPまで作って下さり、また私が手渡した小さなチラシもわざわざ多数印刷して頒布してくれているではないか。A-Zのご担当の方に、結構力を割いてもらっていると感じる。
こうして、せっかく仕入れてもらったこのポンカンが、無事売り切れて欲しいというのが私の切なる願いである。ここまでやっもらって腐るまで売れ残るということはないと思うが、なかなか売れないとなれば次の仕入れに繋がらない。そして売り場担当の方に申し訳ない感じがする。
というわけなので、南薩の皆さんはA-Zかわなべにお越しの際は、「無農薬・無肥料のポンカン」をよろしくお願いします。A-Zには基本的にチラシがないそうなので、口コミだけが頼りです。なお、一袋(たぶん1kgくらい)380円で売っていました。
2015年1月14日水曜日
サビダニの不思議な被害
既に書いたように、うちは今年、柑橘類が豊作である。しかも、無農薬としてはかなりキレイな果実が多い。
去年はリュウキュウミカンサビダニという害虫の被害を受けて8割以上の果実を廃棄するという散々な有様だったのが、今年は何の対策もしていないのにほとんどサビダニが出なかった。
これはうちだけでなくて、他の生産者でも同じような状況らしい(ただしハウス栽培については知らない)。多分、ほどよく雨が降ったので、ダニの密度が減ったということが一番の原因だと思う。
ところで、被害がないといっても全くないわけではない。ところどころ、やはりサビダニの魔の手に冒されているところがある。この様子がちょっと不思議な感じがしたので、備忘のために書いておこうと思う。
というのも、写真にあるように、極めてスポット的に被害が生じたのだ。隣の果実にはなんの被害もないのに、孤立して、全体を酷く食害された実が存在しているのである。どうしてこんな風になったのだろう?
サビダニたちは元は葉っぱに住んでいて、徐々に果実に移動してくるようだからこのように孤立的に被害が発生するということはないように思うが、実際は今回発生した被害のパターンは全部こんな感じだった。不思議だ。
サビダニ被害が少なかった原因が雨だけなら、こんな風にはならないと思う。雨はダニの密度を満遍なく全体的に下げるからだ。降雨がその大きな要因であるのは間違いないにしても、このような被害の状況を見ると他の要因もあったのではないかと推測される。
でもそれが何なのかは分からない。生態系がバランスし、天敵が増えて被害が収まるということもあるだろうが、それにしてもスポット的な被害の理由が分からないし…。うーん、よくわからない。
ちなみに、このリュウキュウミカンサビダニという害虫は、柑橘の害虫としては新参者の部類である。発見されたのは1978年(於エジプト)、日本での初見は1991年(於沖縄)である。そしてだんだんと被害は拡大している。
サビダニの仲間は昔からいて、昔からのミカンサビダニは防除方法もある程度確立しているようであるが、このリュウキュウミカンサビダニという新参者は割合に農薬に強く、なかなか根絶が難しいらしい。農薬を使っての防除はうまくやらないと効果が出ないようだ。今ちょうどいろいろ研究されているところのようなので、このスポット的な被害の本当の原因もこれから分かるかもしれない。
というか、現時点でも分かる方がいらっしゃれば、御高教を賜りますようお願いいたします。
去年はリュウキュウミカンサビダニという害虫の被害を受けて8割以上の果実を廃棄するという散々な有様だったのが、今年は何の対策もしていないのにほとんどサビダニが出なかった。
これはうちだけでなくて、他の生産者でも同じような状況らしい(ただしハウス栽培については知らない)。多分、ほどよく雨が降ったので、ダニの密度が減ったということが一番の原因だと思う。
ところで、被害がないといっても全くないわけではない。ところどころ、やはりサビダニの魔の手に冒されているところがある。この様子がちょっと不思議な感じがしたので、備忘のために書いておこうと思う。
というのも、写真にあるように、極めてスポット的に被害が生じたのだ。隣の果実にはなんの被害もないのに、孤立して、全体を酷く食害された実が存在しているのである。どうしてこんな風になったのだろう?
サビダニたちは元は葉っぱに住んでいて、徐々に果実に移動してくるようだからこのように孤立的に被害が発生するということはないように思うが、実際は今回発生した被害のパターンは全部こんな感じだった。不思議だ。
サビダニ被害が少なかった原因が雨だけなら、こんな風にはならないと思う。雨はダニの密度を満遍なく全体的に下げるからだ。降雨がその大きな要因であるのは間違いないにしても、このような被害の状況を見ると他の要因もあったのではないかと推測される。
でもそれが何なのかは分からない。生態系がバランスし、天敵が増えて被害が収まるということもあるだろうが、それにしてもスポット的な被害の理由が分からないし…。うーん、よくわからない。
ちなみに、このリュウキュウミカンサビダニという害虫は、柑橘の害虫としては新参者の部類である。発見されたのは1978年(於エジプト)、日本での初見は1991年(於沖縄)である。そしてだんだんと被害は拡大している。
サビダニの仲間は昔からいて、昔からのミカンサビダニは防除方法もある程度確立しているようであるが、このリュウキュウミカンサビダニという新参者は割合に農薬に強く、なかなか根絶が難しいらしい。農薬を使っての防除はうまくやらないと効果が出ないようだ。今ちょうどいろいろ研究されているところのようなので、このスポット的な被害の本当の原因もこれから分かるかもしれない。
というか、現時点でも分かる方がいらっしゃれば、御高教を賜りますようお願いいたします。
2015年1月6日火曜日
『鹿児島西本願寺の草創期』という冊子を作りました
昨年の初め、このブログ上で「鹿児島本願寺派小史」という続き物の記事を書いた。鹿児島にはなぜ浄土真宗が多いのか、という疑問から出発した、真宗の意外な鹿児島布教について述べたものである。
これ、マニアックな割には意外と評判がよかった記事なのだが、ただそれだけで終わる話、のはずだった。
が、この記事を書くにあたり協力してくれた万世の丁子屋さんへの恩義もあるし、それに鹿児島の真宗興隆に大きな貢献をしながらすっかり忘れ去られてしまった森田寿香、そして吉峯次右衛門のことを伝えていく人間は、僭越ながら多分私の他はいないだろうと思われた。このまま何もしなければ、その記事も去りゆく過去のささやかな墓碑銘にすぎない。
そこで、この一連の記事を少し手直しして『鹿児島西本願寺の草創期』という小論にまとめ、多少の散財をして冊子を製作した。たった30ページくらいの薄い本である。WEBに残っていれば気づく誰かもいるかもしれないが、このブログもいつまで残っているか分からないし、何かを残そうと思えば結局は紙が一番確実である。それに冊子にすれば、誰かに送りつけるのも容易である!
というわけで、この数日、少しでも関心がありそうな人にこの冊子を送りつけている。例えば昨日は、鹿児島純心女子大学の国際文化研究センターに謹呈した(もちろんここのセンターの方に面識はない)。ここは、南方新社から出ている「新薩摩学」という郷土史論考集の編纂をしているところなので、もしかしたらこういうことに関心がある先生もいるかもしれないと思ったのである。
そして、これからは図書館に送付しようと思っている。南さつま市の図書館はもちろん、県立図書館、そして国会図書館にも送りつけてみよう。国会図書館に送りつけるとは大それたことだ、と自分でも思うのだが、 国会図書館法に規定するところによれば、国内の誰であっても、図書を発行した場合は国会図書館に1部納入または寄贈しなくてはならず(第25条)、もし違反した場合は小売価格の5倍を罰金として払わなくてはならない(第25条の2)。
この冊子が図書にあたるかは微妙だが、罰金を科されてはかなわないので国会図書館にも謹呈することにしたわけである(笑)。
ちなみに、国会図書館法の前文はカッコイイ。
でも私がまとめたのは、こういう大上段な真理ではなくて、別に忘れられても誰も困らない、些末な歴史である。それを知ったからと言って、誰かを自由にするわけでもない。ただ自分の趣味を押し売りするためならば、冊子にして配るようなことはなかっただろう。私がこれを頒布しているのは、ただ、ささやかな企みのためである。それは、私が何もしなければ、まるで忘れ去られてしまうに違いない森田寿香と吉峯次右衛の二人の記憶を、どこかに留めておこうという企みだ。
というわけで、このブログの読者でもし冊子が欲しいという人がいればご連絡ください。1部であれば無料で送付します。2部以上でしたら、1冊300円で送付いたします(支払い方法などは後から考えます)。頒布のアテはないのに200部も刷りましたのでよろしくお願いします。
【WEB版】『鹿児島西本願寺の草創期 なぜ鹿児島には浄土真宗が多いのか』
これ、マニアックな割には意外と評判がよかった記事なのだが、ただそれだけで終わる話、のはずだった。
が、この記事を書くにあたり協力してくれた万世の丁子屋さんへの恩義もあるし、それに鹿児島の真宗興隆に大きな貢献をしながらすっかり忘れ去られてしまった森田寿香、そして吉峯次右衛門のことを伝えていく人間は、僭越ながら多分私の他はいないだろうと思われた。このまま何もしなければ、その記事も去りゆく過去のささやかな墓碑銘にすぎない。
そこで、この一連の記事を少し手直しして『鹿児島西本願寺の草創期』という小論にまとめ、多少の散財をして冊子を製作した。たった30ページくらいの薄い本である。WEBに残っていれば気づく誰かもいるかもしれないが、このブログもいつまで残っているか分からないし、何かを残そうと思えば結局は紙が一番確実である。それに冊子にすれば、誰かに送りつけるのも容易である!
というわけで、この数日、少しでも関心がありそうな人にこの冊子を送りつけている。例えば昨日は、鹿児島純心女子大学の国際文化研究センターに謹呈した(もちろんここのセンターの方に面識はない)。ここは、南方新社から出ている「新薩摩学」という郷土史論考集の編纂をしているところなので、もしかしたらこういうことに関心がある先生もいるかもしれないと思ったのである。
そして、これからは図書館に送付しようと思っている。南さつま市の図書館はもちろん、県立図書館、そして国会図書館にも送りつけてみよう。国会図書館に送りつけるとは大それたことだ、と自分でも思うのだが、 国会図書館法に規定するところによれば、国内の誰であっても、図書を発行した場合は国会図書館に1部納入または寄贈しなくてはならず(第25条)、もし違反した場合は小売価格の5倍を罰金として払わなくてはならない(第25条の2)。
この冊子が図書にあたるかは微妙だが、罰金を科されてはかなわないので国会図書館にも謹呈することにしたわけである(笑)。
ちなみに、国会図書館法の前文はカッコイイ。
国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立つて、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。素晴らしい言葉だと思う。何が真理なのか、とか小難しい議論は置いておいて、難しい時代だからこそ、こういう青臭い確信を、いつまでも持ち続けるべきだ。
でも私がまとめたのは、こういう大上段な真理ではなくて、別に忘れられても誰も困らない、些末な歴史である。それを知ったからと言って、誰かを自由にするわけでもない。ただ自分の趣味を押し売りするためならば、冊子にして配るようなことはなかっただろう。私がこれを頒布しているのは、ただ、ささやかな企みのためである。それは、私が何もしなければ、まるで忘れ去られてしまうに違いない森田寿香と吉峯次右衛の二人の記憶を、どこかに留めておこうという企みだ。
というわけで、このブログの読者でもし冊子が欲しいという人がいればご連絡ください。1部であれば無料で送付します。2部以上でしたら、1冊300円で送付いたします(支払い方法などは後から考えます)。頒布のアテはないのに200部も刷りましたのでよろしくお願いします。
【WEB版】『鹿児島西本願寺の草創期 なぜ鹿児島には浄土真宗が多いのか』
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