南九州市川辺の、高田という地区に「高田石切場」という産業遺産のようなものがある。
これは、江戸末期から昭和にかけて採石された場所の跡であるが、遺産というより既に遺跡の風格を持っている。私の拙い写真では全く表現出来ていないが、天を衝くほぼ垂直の石の壁が広がる様子は、あたかも神殿のような趣がある。
また、驚くべきことに、写真の場所ではないながら、近くでまだ採石が続いていて、一人だけ残った石工さんが仕事をしているとのことだ(少し古い情報なので、もしかしたら間違っているかもしれません)。
今でこそ、採石と石の加工は別の場所で行われ、採石場といえば単に石を切り出すだけの所であるが、昔は採石場で石工が鑿を振るい石造製品を作っていたわけで、ここから多くの石灯籠や墓碑、石碑、鳥居といったものが運ばれていったのだろう。川辺では、戦後になっても石工になろうとするものが多かったため、石工に弟子入りするのに町は1万円(!)を支払うよう命じたという話がある。
ちなみに、なぜ採石場で最終製品まで作ったのかというと、その理由は単純で、運搬する重さを少しでも減らそういうのが目的だ。当時は重機もなく、石切りと製品の運搬というのは相当な重労働だっただろう。この荘厳な石の壁も、なんと竹で足場を組んで、手作業で石を割って作られたものだそうだが、そういう方法で作り出されたとは俄には信じ難い。なお、この壁の上部には、27/3/7という文字が刻まれており、これはこの壁が切り出された年を表しているらしい。昭和27年3月7日ということなんだろうか…。
しかし、素人ながら、このように垂直に石を切り出すと、それから先の石切りが非常に不便になるように見えて仕方がない。上の方から階段状に切り出すのが合理的な気がするのだが、どの壁もそのようにはしていないわけで、具体的な工法を知りたいところである。
ついでに書くと、この壮大な石の壁は溶結凝灰岩でできている。溶結凝灰岩というのは、火砕流などによって高温の火山噴出物が堆積し、自重で圧縮されながら再度溶解し凝結したもので、要するに灰とか軽石のようなものが地上で高温高圧となって溶けて石になったものである。写真には、うっすらと層のようなものが見えるが、これは堆積した時に上からの圧力で層状になったもので、溶結凝灰岩の特徴がよく現れている(と思う。地学は体系的に学んだことがないので間違っているかもしれません)。
このように巨大な溶結凝灰岩の壁ができているということは、一度に20m以上もの火山噴出物が堆積したということだから、かつて桜島の噴火など比べものにならないほどの大噴火があったということになる。
実は、南薩は阿多カルデラという日本有数のどでかいカルデラを錦江湾側に持っていて、この阿多カルデラ成立の過程で数次にわたって起こった巨大噴火の影響で、ものすごい大きさの溶結凝灰岩の地層が多く見られる。約10万年前に起こった阿多火砕流の噴出物は約110km3というから、開聞岳(約8km3)14個分(!)くらいの灰や噴石が一度にばらまかれたことになる。 24万年前から10万年前までの間に、このクラスの噴火がなんと4回もあったそうである。
ちなみに、鹿児島北部はこれまた大きな姶良カルデラがあるし、島嶼部には鬼界カルデラがあって、鹿児島は有史以前は巨大火山のメッカの様相を呈していた。そのため県内では溶結凝灰岩が豊富に獲れ、やや脆いが加工しやすいこの石を利用して石造文化が発展したのではないかと思われる。8・6水害前にあった五石橋も全て溶結凝灰岩でできていた。
そして、鹿児島の石造遺物は、他の地域に比べ細かい細工が少なく、石そのものの質感が活かされているものが多いと言われるが、これは鹿児島人の気質というよりも、その素材が溶結凝灰岩であることが大きく影響しているのではなかろうか。なにしろ、この石は大理石や花崗岩のように硬く稠密ではないから、仮にミケランジェロであっても決してダヴィデを削り出すことはできないのだ。素材は、文化の基底に存在している裏の支配者である。
さらに蛇足だが、近くには「高田石切場の美味しい水」の水汲み場があって、ここの水は「命水」と名付けられていて大変美味である。最近、「水汲み場」のノボリが立ったので知名度が上がったのか、私が訪れた時もひっきりなしに大量のペットボトルに水を汲んでゆく人が立ち寄っていた。この水も、浸食されやすい溶結凝灰岩を通ってきているために、ミネラル分が多く含まれ、甘い味になっているのではないかという気がした。地質というのは普段の生活とは随分縁遠いようでいて、長い目で見てみると私たちの歴史や文化を動かす一つの力だと思う。
2013年10月2日水曜日
2013年9月23日月曜日
公民館に残る賞状で見る農村の昭和史
我が集落の自治会公民館には、古い賞状がいくつか掲示されている。これらは、積極的に掲示しているというよりは、かつて掲示していたものを敢えて外す必要もないからそのままになっている、というのが実態で、一見何の脈絡もない。でもその賞状たちを眺めていると、時代の移り変わりを如実に感じることができてとても興味深い。
そういうわけで、この賞状たちが語りかけるものを、少し長くなるがまとめてみたい。昭和6年から平成に至る数々の賞状があるが、全部を取り上げるとかなり冗長になるから、ポイントを絞って取り上げてみる。
まず、一番古い賞状は、昭和6年の「笠砂村 窪 施設消防組」への「感謝状」である。これは、天皇陛下が鹿児島に行幸したときに警備を担当したことに対する感謝を述べるもので、鹿児島県警の部長から贈られている。鹿児島では、青年団や消防団は、元は自警団であった場合が多いそうだが、ここでもそうだったのかもしれない。
次に、戦前の賞状では、昭和9年、10年、14年に「窪 報効農事小組合」宛てに表彰状がある。この「報効農事小組合」というのは、現在の公民館(自治会)の先祖にあたるもので、どうやら鹿児島独自のもののようだ。この大仰な名前の組織の具体的な姿は未詳だが、「農事」と名が付いているものの、農業の共同体なだけでなく、行政の下部組織としての位置づけもあった模様である。
当時は電話もコピー機もなく、簡単に連絡や意思疎通が図れなかったので、住民を指導したり、何かを提出させたりする場合には、役場だけでなくその末端組織としての自治会の役割が大きかった。役場の末端組織はこの報効農事小組合だけではなく、他にもいろいろあったようだが、基本的にはこれが報効農事小組合→常会→振興小組合→集落自治公民館と継承されていき、現在の自治会が形成されてきた模様である。
さて、この報効農事小組合が、何に対して表彰を受けているのかというと、実はそれがよく分からない。それぞれの主文を書き出してみると、
戦前の賞状にはもう一つあり、それは昭和13年の「窪 納税組合」宛てのものだ。これは、大正15年から10年間、国税の滞納がなかったことを表彰するもの。これも役場の末端としての組織の例であるが、この頃は税金の集金を納税組合が負っていた。集金の手間を約めるための手段でもあり、また脱税を防止する目的もあっただろう。何しろ、サラリーマンの世界ではないので、収入の実態は役所からは直接は見えない。百姓同士の相互監視といっては江戸時代じみているが、この頃は納税は自治会の重要な役割だったのである。
時代は戦後に移る。まずは昭和28〜29年の賞状がなぜかたくさん残っているのだが、この中には戦前と同じく振興小組合が農業共進会で1位を取ったり、村税の納入が表彰されたりというものがある。そして、戦前とは毛色の違う賞状として、貯蓄関係の表彰が増えてくる。
例えば、昭和28年には「窪 振興貯蓄組合」が「農業資金貯蓄の重要性をよく認識せられ全員力を合わせて貯蓄の増強に大きな成果を収め」たということで表彰され、また昭和29年には「窪 部落」が「貯蓄増強運動に協力せられ特に村づくり定期預金の消化において優秀な成績を収めた」ということで農協から賞されている。
この時期になぜ農協(というより農林中央金庫と言うべきか)が懸命に貯金集めをしたのか、そのあたりの事情はよくわからない。基本的には、高度経済成長期にあたり農林水産関係でも資金需要が大きかったことが理由なのだろう。投資の原資は貯蓄であるから、組合員の貯蓄を奨励し、農地や造林の整備を進めたのだと思う。一方で、このあたりから農協の金融機関としての性格が強くなっていくようにも感じる。
さらにこの時期の賞状の特徴的なこととして、何でもかんでも順位がついている、ということがある。例えば、村税の納入は「一等」で、「村づくり定期預金」は「第1位」である。こういうことで他の地域と競争させられていたというのは、今考えると珍妙である。ドンドン進めな時期であり、やたらと競争を煽り、遮二無二に「豊かさ」へ走らされていたのではないかという感じを受けた。
また、この時期に注目されるのは、「窪 婦人会」が「婦人学級に出席優秀」とのことで表彰を受けていることだ。婦人会が婦人学級に出席した、という当たり前のことであるが、どうしてその当たり前のことが表彰されているのか、ということが問題だ。
考えてみれば、ちょうど昭和30年代周辺というのは、農村婦人問題が勃興してくる時期である。農村婦人問題というのは、現代風に言うと「農村における女性の地位向上をどうやって成し遂げるか」という問題なのであるが、その本質は、新しい時代における理想の女性像の模索だったと見受けられる。
近代化以前の農村では、女性は農作業の重要な部分を担っており、例えば田植えが女性の仕事とされたごとく、ある面では男性より優れた仕事人として扱われていたのである。それが、戦争の影響もあるが近代化に伴って地位が低下し、さらに農業の機械化などにより女性が担う部分がサブ的なものとなったことで、女性は農村において確固たる地位を失っていったという歴史がある。また、男性のサラリーマン化によって「専業主婦」が登場してくる都市でも女性の地位は低下しており、女性の地位の面では農村と都市で問題が呼応している。
こうした流れに対応し、女性は農村社会において新たなる役割を模索する必要があった。その答えは未だに出ていないとも言えるが、その模索の取り組みとして「婦人学級」などが盛んに設けられ、とにかく今までやっていなかったことをやってみよう、農産物を商品化しよう、農産加工品を作ろう、といった取り組みがなされたのである。農村におけるフェミニズム運動の先駆者である丸岡秀子が『女の一生』(未読)といった数々の著作を世に問うていったのもこの時期だ。
さて、この後に賞状がよく残っているのが先ほどの賞状群から約10年後の昭和40年前後である(なぜ間が空いているのかわからない)。この時代になっても営農改善共進会の表彰は多い。だが、内容が個別化してきていて、「特産振興」「造林」そして「農協出資」がある。やはりここでも貯蓄(出資は貯蓄とは違うが、実質的には同じである)が組織的に奨励され、他の地域と競わされている状況は変わっていない。昭和43年には、「久保 婦人会」も「農協貯蓄増強運動にあたって[…]貯蓄増強に優秀な成績を収め」たということで表彰されている。農村では一家の収入は農業及び出稼ぎが中心で、女性には独自の収入源が乏しかったはずなのに、どうして婦人会までが貯蓄増強を担わされたのか、正直よくわからない。
またこの時期になると、それまで「窪 部落」「久保部落振興小組合」などとクボの漢字表記に揺れがあったのが、なぜか住民の姓にはない「久保」に統一されるとともに、様々な組織が統合された自治会としての「久保 公民館」に宛名が揃っている。「小組合」制度などは官製で作られたものにも関わらず、行政の方では積極的に解体しなかったようで現在も続いているところもあるが、自治会長と小組合長を別々に選ぶとなると人選も難しく手間もかかるため、「自治会長が小組合長を兼ねることにしましょう」というように実際的な面で組織の統合が進んだようである。
賞状の上では、最後まで別組織として残っていたのは「久保 納税貯蓄組合」で、昭和49年に「昭和45年度以降連続町税の納期限内完納という輝かしい実績」が表彰されている。都市部では既に源泉徴収が中心になっていた時期ではないかと思うが、農村ではまだ組合を作って納税していたというのが面白い。
昭和40年以降というのは、あまり面白い賞状は残っておらず、スポーツの順位のような普通のものが中心となる。唯一の例外は、平成元年に「林業関係競技会川辺地区大会」で「集落除間伐の部」で「久保 集落」が優秀賞を取っていることくらいだろうか。どういう競技会なのか気になるところである。
これで賞状の紹介は終わりだが、全体を通してとても驚くことがある。それは、昭和9年から昭和43年に至る賞状の多くが、「金一封を贈りその功績を表彰します」としていることである。村税の納税ですら「奨励金」が贈られている。さすがに婦人学級の参加にはないが、貯蓄の増強とか、今から考えると「なんでこんなことに…」と訝しむようなことでも金一封が贈られている。
とはいえ「お金では計れない価値がある」などと言い出すのはある程度豊かになった後の話で、経済成長期の価値観というのは、ちょっとしたことを賞するのでも金一封を必要とするようなものなのかもしれない。今、中国人がやたらと現金なのを「中国人はもともと商業民族」などと民族性を持ち出して説明されることがあるが、この賞状を前にすると、それは単に経済の発展段階の話なのだと思わざるを得ない。
また、貯蓄関係の賞状がたくさんあるのを見ると、「日本人はもともと貯蓄好き」だとする民族性の主張も大嘘だと思う。元々農村では現金で貯蓄するという習慣はなかったようだし、江戸にも「宵越しの金は持たぬ」とする考え方があった。近代化を推し進めるため組織的に貯蓄を進めさせたことで、急速に貯蓄習慣が形成されてきたということが実態だ。それは知識としては知っていたが、私はこの賞状を目にするまで、こんな貧しい農村でもここまで強く貯蓄が奨励されていたとは思いもしなかった。
最後に、賞状のデザインについて一言。賞状というと、2羽の鳳凰が向かい合っているものをイメージすると思うが、戦前には(公民館に残っているもののうちには)このデザインの賞状はなく、いろんなデザインがある。そして、昭和26年に鳳凰デザインが登場すると、一つの例外を除き全てが鳳凰デザインになってしまう。この鳳凰の賞状を誰がデザインしたのか知らないが、ともかく賞状界を席巻したことは間違いない。そして瞬く間に、他のデザインの賞状を駆逐し、独占状態を築いてしまった。もしデザイナーが意匠権などをちゃんとしていれば大金持ちになっていただろう。
さて、公民館に残っている賞状、という偶然残った史料を眺めてみるだけで、農村における一つの昭和史を覗く思いがした次第である。それは、普通に言われている昭和史とは少し違う、行政や農協と住民との関係の歴史だ。僅かに残された賞状だけでも、私自身多くの発見があったし、昭和の歴史観を少し修正しなくてはならない気分になってきた。もっと多くの賞状を見ることができれば、さらに面白い発見がありそうなので、機会があれば、公民館に残る古い資料を整理して歴史の遺物を探してみたい。
【参考文献】
「鹿児島県における村落構造と自治公民館」1994年、神田 嘉延
そういうわけで、この賞状たちが語りかけるものを、少し長くなるがまとめてみたい。昭和6年から平成に至る数々の賞状があるが、全部を取り上げるとかなり冗長になるから、ポイントを絞って取り上げてみる。
まず、一番古い賞状は、昭和6年の「笠砂村 窪 施設消防組」への「感謝状」である。これは、天皇陛下が鹿児島に行幸したときに警備を担当したことに対する感謝を述べるもので、鹿児島県警の部長から贈られている。鹿児島では、青年団や消防団は、元は自警団であった場合が多いそうだが、ここでもそうだったのかもしれない。
次に、戦前の賞状では、昭和9年、10年、14年に「窪 報効農事小組合」宛てに表彰状がある。この「報効農事小組合」というのは、現在の公民館(自治会)の先祖にあたるもので、どうやら鹿児島独自のもののようだ。この大仰な名前の組織の具体的な姿は未詳だが、「農事」と名が付いているものの、農業の共同体なだけでなく、行政の下部組織としての位置づけもあった模様である。
当時は電話もコピー機もなく、簡単に連絡や意思疎通が図れなかったので、住民を指導したり、何かを提出させたりする場合には、役場だけでなくその末端組織としての自治会の役割が大きかった。役場の末端組織はこの報効農事小組合だけではなく、他にもいろいろあったようだが、基本的にはこれが報効農事小組合→常会→振興小組合→集落自治公民館と継承されていき、現在の自治会が形成されてきた模様である。
さて、この報効農事小組合が、何に対して表彰を受けているのかというと、実はそれがよく分からない。それぞれの主文を書き出してみると、
- 報効農事小組合共進会に於いて[…]引続き5ヶ年間甲組一等賞を受けたるを(昭和9年)
- 報効農事小組合共進会に於いて[…]その成績最も顕著なるに依り(昭和10年)
- 堆肥増産一斉週間に当たり[…]その効績顕著なり仍て(昭和14年)
戦前の賞状にはもう一つあり、それは昭和13年の「窪 納税組合」宛てのものだ。これは、大正15年から10年間、国税の滞納がなかったことを表彰するもの。これも役場の末端としての組織の例であるが、この頃は税金の集金を納税組合が負っていた。集金の手間を約めるための手段でもあり、また脱税を防止する目的もあっただろう。何しろ、サラリーマンの世界ではないので、収入の実態は役所からは直接は見えない。百姓同士の相互監視といっては江戸時代じみているが、この頃は納税は自治会の重要な役割だったのである。
時代は戦後に移る。まずは昭和28〜29年の賞状がなぜかたくさん残っているのだが、この中には戦前と同じく振興小組合が農業共進会で1位を取ったり、村税の納入が表彰されたりというものがある。そして、戦前とは毛色の違う賞状として、貯蓄関係の表彰が増えてくる。
例えば、昭和28年には「窪 振興貯蓄組合」が「農業資金貯蓄の重要性をよく認識せられ全員力を合わせて貯蓄の増強に大きな成果を収め」たということで表彰され、また昭和29年には「窪 部落」が「貯蓄増強運動に協力せられ特に村づくり定期預金の消化において優秀な成績を収めた」ということで農協から賞されている。
この時期になぜ農協(というより農林中央金庫と言うべきか)が懸命に貯金集めをしたのか、そのあたりの事情はよくわからない。基本的には、高度経済成長期にあたり農林水産関係でも資金需要が大きかったことが理由なのだろう。投資の原資は貯蓄であるから、組合員の貯蓄を奨励し、農地や造林の整備を進めたのだと思う。一方で、このあたりから農協の金融機関としての性格が強くなっていくようにも感じる。
さらにこの時期の賞状の特徴的なこととして、何でもかんでも順位がついている、ということがある。例えば、村税の納入は「一等」で、「村づくり定期預金」は「第1位」である。こういうことで他の地域と競争させられていたというのは、今考えると珍妙である。ドンドン進めな時期であり、やたらと競争を煽り、遮二無二に「豊かさ」へ走らされていたのではないかという感じを受けた。
また、この時期に注目されるのは、「窪 婦人会」が「婦人学級に出席優秀」とのことで表彰を受けていることだ。婦人会が婦人学級に出席した、という当たり前のことであるが、どうしてその当たり前のことが表彰されているのか、ということが問題だ。
考えてみれば、ちょうど昭和30年代周辺というのは、農村婦人問題が勃興してくる時期である。農村婦人問題というのは、現代風に言うと「農村における女性の地位向上をどうやって成し遂げるか」という問題なのであるが、その本質は、新しい時代における理想の女性像の模索だったと見受けられる。
近代化以前の農村では、女性は農作業の重要な部分を担っており、例えば田植えが女性の仕事とされたごとく、ある面では男性より優れた仕事人として扱われていたのである。それが、戦争の影響もあるが近代化に伴って地位が低下し、さらに農業の機械化などにより女性が担う部分がサブ的なものとなったことで、女性は農村において確固たる地位を失っていったという歴史がある。また、男性のサラリーマン化によって「専業主婦」が登場してくる都市でも女性の地位は低下しており、女性の地位の面では農村と都市で問題が呼応している。
こうした流れに対応し、女性は農村社会において新たなる役割を模索する必要があった。その答えは未だに出ていないとも言えるが、その模索の取り組みとして「婦人学級」などが盛んに設けられ、とにかく今までやっていなかったことをやってみよう、農産物を商品化しよう、農産加工品を作ろう、といった取り組みがなされたのである。農村におけるフェミニズム運動の先駆者である丸岡秀子が『女の一生』(未読)といった数々の著作を世に問うていったのもこの時期だ。
さて、この後に賞状がよく残っているのが先ほどの賞状群から約10年後の昭和40年前後である(なぜ間が空いているのかわからない)。この時代になっても営農改善共進会の表彰は多い。だが、内容が個別化してきていて、「特産振興」「造林」そして「農協出資」がある。やはりここでも貯蓄(出資は貯蓄とは違うが、実質的には同じである)が組織的に奨励され、他の地域と競わされている状況は変わっていない。昭和43年には、「久保 婦人会」も「農協貯蓄増強運動にあたって[…]貯蓄増強に優秀な成績を収め」たということで表彰されている。農村では一家の収入は農業及び出稼ぎが中心で、女性には独自の収入源が乏しかったはずなのに、どうして婦人会までが貯蓄増強を担わされたのか、正直よくわからない。
またこの時期になると、それまで「窪 部落」「久保部落振興小組合」などとクボの漢字表記に揺れがあったのが、なぜか住民の姓にはない「久保」に統一されるとともに、様々な組織が統合された自治会としての「久保 公民館」に宛名が揃っている。「小組合」制度などは官製で作られたものにも関わらず、行政の方では積極的に解体しなかったようで現在も続いているところもあるが、自治会長と小組合長を別々に選ぶとなると人選も難しく手間もかかるため、「自治会長が小組合長を兼ねることにしましょう」というように実際的な面で組織の統合が進んだようである。
賞状の上では、最後まで別組織として残っていたのは「久保 納税貯蓄組合」で、昭和49年に「昭和45年度以降連続町税の納期限内完納という輝かしい実績」が表彰されている。都市部では既に源泉徴収が中心になっていた時期ではないかと思うが、農村ではまだ組合を作って納税していたというのが面白い。
昭和40年以降というのは、あまり面白い賞状は残っておらず、スポーツの順位のような普通のものが中心となる。唯一の例外は、平成元年に「林業関係競技会川辺地区大会」で「集落除間伐の部」で「久保 集落」が優秀賞を取っていることくらいだろうか。どういう競技会なのか気になるところである。
これで賞状の紹介は終わりだが、全体を通してとても驚くことがある。それは、昭和9年から昭和43年に至る賞状の多くが、「金一封を贈りその功績を表彰します」としていることである。村税の納税ですら「奨励金」が贈られている。さすがに婦人学級の参加にはないが、貯蓄の増強とか、今から考えると「なんでこんなことに…」と訝しむようなことでも金一封が贈られている。
とはいえ「お金では計れない価値がある」などと言い出すのはある程度豊かになった後の話で、経済成長期の価値観というのは、ちょっとしたことを賞するのでも金一封を必要とするようなものなのかもしれない。今、中国人がやたらと現金なのを「中国人はもともと商業民族」などと民族性を持ち出して説明されることがあるが、この賞状を前にすると、それは単に経済の発展段階の話なのだと思わざるを得ない。
また、貯蓄関係の賞状がたくさんあるのを見ると、「日本人はもともと貯蓄好き」だとする民族性の主張も大嘘だと思う。元々農村では現金で貯蓄するという習慣はなかったようだし、江戸にも「宵越しの金は持たぬ」とする考え方があった。近代化を推し進めるため組織的に貯蓄を進めさせたことで、急速に貯蓄習慣が形成されてきたということが実態だ。それは知識としては知っていたが、私はこの賞状を目にするまで、こんな貧しい農村でもここまで強く貯蓄が奨励されていたとは思いもしなかった。
最後に、賞状のデザインについて一言。賞状というと、2羽の鳳凰が向かい合っているものをイメージすると思うが、戦前には(公民館に残っているもののうちには)このデザインの賞状はなく、いろんなデザインがある。そして、昭和26年に鳳凰デザインが登場すると、一つの例外を除き全てが鳳凰デザインになってしまう。この鳳凰の賞状を誰がデザインしたのか知らないが、ともかく賞状界を席巻したことは間違いない。そして瞬く間に、他のデザインの賞状を駆逐し、独占状態を築いてしまった。もしデザイナーが意匠権などをちゃんとしていれば大金持ちになっていただろう。
さて、公民館に残っている賞状、という偶然残った史料を眺めてみるだけで、農村における一つの昭和史を覗く思いがした次第である。それは、普通に言われている昭和史とは少し違う、行政や農協と住民との関係の歴史だ。僅かに残された賞状だけでも、私自身多くの発見があったし、昭和の歴史観を少し修正しなくてはならない気分になってきた。もっと多くの賞状を見ることができれば、さらに面白い発見がありそうなので、機会があれば、公民館に残る古い資料を整理して歴史の遺物を探してみたい。
【参考文献】
「鹿児島県における村落構造と自治公民館」1994年、神田 嘉延
2013年9月17日火曜日
ウッガンドンに「氏神」と刻まれているわけ

このウッガンドンの奇妙なところは、(全てではないが)正面や見やすいところに「氏神」と表示されていることだ。氏神信仰は別に珍しくもないが、祭祀の対象に「氏神」と表示するなどということは、このあたり以外では見たことがない。そして、どうしてそのようになっているのか、これまで誰も説明していないよう だから、その理由を考えてみたい。
まず、ウッガンドンは本当に氏神なのか、という基本的なことが茫洋 としていて、「招き入れた神」の意で「内神」なのかもしれないとの説がある。というより、ウッガンドン=氏神としていては意味が通じないものがあるから、 「内神」なのかどうかは別として、ウッガンドンは素直な意味では氏神ではないことは確実であるように思う。
例えば、我が窪 屋敷(「屋敷」は藩政時代の行政区画単位)には「デコンノウッガンドン」というのが祀られているが、これは「大根のウッガンドン」という意味だ。これが 「大根の氏神」では意味が通らない。大根の氏子といったものが想定されない以上、ウッガンドンは氏神ではない。ちなみに、昔はここらでは大根が食料として主食級に重要だったそうだが、隣の原(はる)集落で大根が豊作になったことがあり、それにあやかろうと大根の神さまを勧請(呼び寄せる)して作られたのがデコンノウッガンドンであるらしい。
とすると、氏神でないものを、氏神として堂々と表示していることになる。 いや、そもそも、本当は氏神ではないからこそ、これ見よがしに「これは氏神だ」と主張している気さえする。
そして、このウッガンドンというもの、一体いつからあるのだろう。大浦に今残るウッガンドンは、明治から昭和にかけてつくられた石造の社ばかりであるが、石造のものに変わる前は、窪屋敷の場合は小さな藁葺きの社があったそうである。集落のトシナモン(古老)に聞いてみると、少なくとも昭和の頃にできたものではなくて、それよりずっと前からあるもののようだ。
『大浦町郷土誌』によると、元々、ウッガンドンというのは、年貢負担の共同体たる門(かど)・方限の神だったそうである。藩政時代、鹿児島では百姓を門とか方限という単位にまとめ、これに年貢を納めさせた。納税を何戸かの連帯責任にすることによって、今風にいえば脱税を防止したのである。この制度は、全国的には「五人組」と呼ばれるものの薩摩藩版だ。
そして、この納税共同体のリーダーを務める家を乙名(おんな)と言い、所属する各戸を厳しく指導したという。何しろ、年貢がちゃんと納められなかったら乙名の責任になるわけだから必死である。そして、ウッガンドンの祭祀は、基本的にはこの乙名の家が担ったようだ。墓の相続でさえ面倒なものとして避けられる現在では想像が困難だが、古くより祭祀権というものはいろいろな権能の中でも最も重要なもので、これはある種の権力の源泉でもあった。ウッガンドンを祀るということは、その土地の重要事項を裁定する力を持っていたことの象徴だ。
そういうわけだから、世が明治に改まると、ウッガ ンドンの性格は変わらざるを得なかっただろう。鹿児島では明治10年まで門・方限制度は存続し、その後も形を変えて納税組合の制度は続いたが、乙名などの藩政時代以来のやり方は廃止された。そこで、ウッガンドンの存立基盤は一度揺らいだはずである。これまで大切に祀られてきた神が、直ちに等閑にされることはないとしても、それが依拠していた共同体が形式的には解体されてしまったわけだから、徐々に祭祀が先細っていくのが自然である。
しかし、ウッガンドンの祭祀は今でも続いている。解体したはずの門・方限が、結局は部落(鹿児島では「部落」という言葉には否定的意味はない)という形で自治体となり存立し続けたことが大きな原因であろうが、もう一つ考えられるのは、神社整理・神社合祀の政策による影響である。
鹿児島の神社整理についてはいずれちゃんと調べてまとめたいと思っているが、以前も書いたように、神社整理というのは「神社のヒエラルキー化・合理化・統廃合」を行った明治政府の政策である。これにより、多くの神社が廃止(合祀)されたが、一方では新たに作られた神社もある。その一つが、氏神を祀る神社である。
江戸幕府は、「寺請制度」 といって、全国民が必ずどこかの寺に所属していなければならないとする宗教政策を採っていたが、これの結果、共同体の祭祀は神道式ではなく「氏寺(うじで ら)」とか「氏仏(うじほとけ)」といって仏教式なものになっていることもあった。しかし、明治政府は神道を「国家の祭祀」とし国民をまとめる原理として採用したため、仏ではなく、天皇を頂点に戴く神々を全国民が讃仰する仕組みをつくらなくてはならなかった。
そのために、『古事記』や『日本書紀』と関係のない、つまり天皇と関係づけられない神社を廃止することもやったが、一方では氏神祭祀の強制ということもやったのである。氏神を祀ることは、皇祖を祀ることの基礎と見なされていたわけだ。それまで氏寺や氏仏しかなく氏神を祀っていなかった地域では、この時に急ごしらえの「氏神」が作られたこともあるという。
こういった全国的な流れを考慮すると、明治からウッガンドンが辿った道筋も少し見えてくる。神社整理の際には、記紀には関係がない、自然発生的信仰であった ウッガンドンは淫祠邪教のものとして廃されてもおかしくはなかった。しかし、氏神であればむしろ祀るべきものとされたため、鹿児島の民衆は、「ウッガンド ンは実際は氏神なんです」といってこれを救ったのではあるまいか。
だから、「氏神」であることを強く主張するために、敢えて「氏神」と刻んだのではと考えたい。氏神といっても、それは単に氏子の神というだけの意味で、氏(血族)の神でなければならないというわけではないし、ウッガンドンは氏神だ、という主張は別段こじづけではない。だから、民衆が嘘をついてウッガンドンを残したということでもないが、ともかくも「氏神」であると強く主張しなければならなかったプレッシャーがあったようには思われる。
そうして、ウッガンドンは、氏神信仰という「国家の祭祀」の一端として改めて地域社会に位置づけられることになったのだと思う。そして、太平洋戦争が終わり、氏神を祀らねばならないとする政策も終わりを告げた。ここに、ウッガンドンを存立させてきた制度的基盤は全て解体されたのである。
大浦町では見たことがないが、他の地区ではうち捨てられた氏神の社を見ることがある。人口減少で、もはや祭祀を行う人間がいなくなったという現実的理由で遺棄されたのだろう。ただ同時に、なんとしても祀らなければならないという理由が失われた信仰であることも、それは象徴的に示している。
今のところ、私の周りのウッガンドンたちには遺棄されるような徴候はない。 制度的な後ろ盾を失っても、地域の人間に親しまれてきたという文化的・慣習的な基盤は失われていないからだ。ウッガンドンがなんなのか、本当のところはよくわらないが、それは少なくとも藩政時代から私の先祖に祀られ、この土地の変遷を見守ってきたものだ。こういう昔風の信仰がいつまで続けられるか分からないし、そもそも、何がなんでもこうした祭祀を続けなければならないとも思わない。だが、こういう何気ない、弱々しいものでも残っていくような社会であってほしいと思うし、そういう努力を少しでもしていきたいと思う。
2013年9月6日金曜日
とも屋の「欧風銘菓 マドレーヌ」
南さつま市小湊(こみなと)に「とも屋」というお菓子屋さんがある。昔ながらのお菓子屋さんで、外観・内装などで目を引く店ではないが、そこのマドレーヌはパッケージデザインが秀逸である。他の商品はどうということもないのに、なぜかこのマドレーヌのデザインだけレトロかわいくて愛嬌がある。
トリコロール(赤・青・白)と「マドレ〜ヌ」の絶妙な書き文字。そして周りの唐草風模様。しかもこれらがシールなどではなく、アルミのマドレーヌ型に直接印刷されている。こういう風に焼き菓子の型が直接パッケージデザインとなっているのは最近珍しい(昔は結構あったようだ)。
そして、この丸形がいい。最近売っているマドレーヌはこういう丸形ではなくて、貝形をしているものが多い。もともとマドレーヌというのは貝形にアイデンティティがあって、本場フランスには丸形のマドレーヌはなく、丸形は日本独自のものという。だから、最近の貝形マドレーヌの方が「正しい」のであるが、日本では昔はマドレーヌといえば丸形だったわけで、何か「これぞ日本のマドレーヌ」と感じさせられる。
しかも、この日本風マドレーヌに「欧風銘菓」と銘打っているのがさらにいい。この「欧風」は、「日本人の憧れの中だけに存在していたヨオロッパ」なのだろう。そもそも、このマドレーヌ、シロップ(かリキュール)漬けのドライフルーツ(?)が入っていて、中はマドレーヌというよりパウンドケーキ風である。フランス菓子というよりも、田舎の茶飲み話に最適で、食べ応えのある落ちつく味である。
つまり、このマドレーヌは「欧風銘菓」を謳っているが、現実の欧州には存在していなかったもので、大げさに言えば、かつての日本人が「欧風」として思い描いたものなのだ。
そもそも、日本の海外文化の受容というものは、この約二千年間そういう調子だった。大陸の文化をそのまま受け入れるのではなく、断片的に入ってくるそれをなんとか繋ぎ合わせ、時に誤読し、時に深読みし、「理想化された海外」あるいは「きっとそうに違いない海外」をつくり上げてきた。
こうした営みを、稀代の編集者である松岡正剛氏は「日本という方法」という言葉で解説している。要は、コンテンツそのものよりもそのコンテンツをどう料理(編集)するかというところに日本らしさはあるんだよ、という話である。
日本らしければいい、というものでもないが、本場のものをそのままに受け入れずに、無意識的であれそれを我々の生活の間尺に合うようにアレンジするのは一つの創造的行為である。丸形マドレーヌが日本で生まれた理由も、単に貝の焼き型が手元になかったからという単純な理由によるのだろうが、そのお陰で日本でマドレーヌがこんなに普及したのではないだろうか。貝型にこだわっていたら、これほどは広まらなかったように思う。
こういう「かつての日本人が本場風として思い描いたもの」は、今ではもうめっきり少なくなって、本当に本場のもの(とされているもの)か、あるいは手軽な代用品ばかりになってしまったように感じる。とも屋のマドレーヌは、デザインの秀逸さもさることながら、なんだか手の届かないところに「本場」があった古き良き時代を伝えるものに思えるので、これからもずっとこの形で残っていって欲しい。
トリコロール(赤・青・白)と「マドレ〜ヌ」の絶妙な書き文字。そして周りの唐草風模様。しかもこれらがシールなどではなく、アルミのマドレーヌ型に直接印刷されている。こういう風に焼き菓子の型が直接パッケージデザインとなっているのは最近珍しい(昔は結構あったようだ)。
そして、この丸形がいい。最近売っているマドレーヌはこういう丸形ではなくて、貝形をしているものが多い。もともとマドレーヌというのは貝形にアイデンティティがあって、本場フランスには丸形のマドレーヌはなく、丸形は日本独自のものという。だから、最近の貝形マドレーヌの方が「正しい」のであるが、日本では昔はマドレーヌといえば丸形だったわけで、何か「これぞ日本のマドレーヌ」と感じさせられる。
しかも、この日本風マドレーヌに「欧風銘菓」と銘打っているのがさらにいい。この「欧風」は、「日本人の憧れの中だけに存在していたヨオロッパ」なのだろう。そもそも、このマドレーヌ、シロップ(かリキュール)漬けのドライフルーツ(?)が入っていて、中はマドレーヌというよりパウンドケーキ風である。フランス菓子というよりも、田舎の茶飲み話に最適で、食べ応えのある落ちつく味である。
つまり、このマドレーヌは「欧風銘菓」を謳っているが、現実の欧州には存在していなかったもので、大げさに言えば、かつての日本人が「欧風」として思い描いたものなのだ。
そもそも、日本の海外文化の受容というものは、この約二千年間そういう調子だった。大陸の文化をそのまま受け入れるのではなく、断片的に入ってくるそれをなんとか繋ぎ合わせ、時に誤読し、時に深読みし、「理想化された海外」あるいは「きっとそうに違いない海外」をつくり上げてきた。
こうした営みを、稀代の編集者である松岡正剛氏は「日本という方法」という言葉で解説している。要は、コンテンツそのものよりもそのコンテンツをどう料理(編集)するかというところに日本らしさはあるんだよ、という話である。
日本らしければいい、というものでもないが、本場のものをそのままに受け入れずに、無意識的であれそれを我々の生活の間尺に合うようにアレンジするのは一つの創造的行為である。丸形マドレーヌが日本で生まれた理由も、単に貝の焼き型が手元になかったからという単純な理由によるのだろうが、そのお陰で日本でマドレーヌがこんなに普及したのではないだろうか。貝型にこだわっていたら、これほどは広まらなかったように思う。
こういう「かつての日本人が本場風として思い描いたもの」は、今ではもうめっきり少なくなって、本当に本場のもの(とされているもの)か、あるいは手軽な代用品ばかりになってしまったように感じる。とも屋のマドレーヌは、デザインの秀逸さもさることながら、なんだか手の届かないところに「本場」があった古き良き時代を伝えるものに思えるので、これからもずっとこの形で残っていって欲しい。
【情報】
とも屋菓子舗
〒897-1122 鹿児島県南さつま市加世田小湊7664
0993-53-9202
2013年9月3日火曜日
日本の農書の黎明と停滞
以前「西欧近代農学小史」というブログ記事を書いた時に、「俄然興味が出てくるのが江戸時代の日本の農書である。[…]何かいい参考資料を探したい」としていたのだが、実はこの分野には「これを知らなければモグリ」という決定的な研究書があった。それが、古島敏雄の『日本農学史 第1巻』である。
本書は、上代の農業から説き起こし、元禄期に農書が出現するに至るまでの歴史を扱う。あまり一般の方が興味を抱く内容ではないが、大変面白い本であり、また自身百姓としていろいろ考えさせられたことも多かった。そこで、例によって備忘も兼ねて、本書に即して農書の黎明を繙いてみたいと思う。
まず、農書云々以前の我が国の農業の特色として、主要作物である水稲に関しては、非常に早い時期に栽培技術が完成していたということがある。既に平安時代には苗作りから収穫に至るまで、基本的に現代と同じ耕作が行われていたらしい。集約的な管理という面で、日本は大陸や朝鮮半島の先を行っていたようであるが、どうして栽培技術が急速に完成されたのかというのは謎の一つである。
一方、もちろん大陸の方では、古代より『斉民要術』といった農書が著され、農業技術が早くから体系化されていた。これを我が国でも早くから輸入しており、ここに現れる植物が我が国のどの植物に当たるのかを明らかにして内容を理解できるよう、平安時代の辞書である『和名類聚抄』には植物の項も詳細に設けられている。
このように、我が国は進んだ農業技術を持ち、また大陸の農書を輸入しそれに目を通してもいたのだが、なぜか『斉民要術』の導入より約千年間、独自の農書を生むということがなかったのである。『日本農学史 第1巻』の前半は、この事実をどう捉えたらよいか、という問題提起であるといって差し支えないと思う。本書にはそれに対する明快な回答は準備されていないが、農書を成立させる様々な要件が整わなかったから、ということは言えるだろう。
我が国の最初の農書とされる、戦国末期〜江戸初期成立の『清良記 第7巻』の登場の背景を見て、その要件の一端を見てみよう。『清良記』は、封建領主の統治マニュアルとも呼べるもので、第7巻は農業経営の要諦を領主が老農に諮問するという形式を持って書かれている。どうしてこのような書が成立したのかというと、その背景には中世的な農業社会が解体して、近世のそれへと変遷していく社会の変化がある。
つまり、乱暴にまとめれば、荘園経営のような企業的な農業が終焉を迎え、封建領主による個々の百姓の管理という零細的な農業形態へと変遷していったことが挙げられよう。領主にとって租税の源泉たる農業の振興は重要な問題であり、「無知なる農民」「怠惰な農民」を厳しく指導し、農業の生産性を向上させる必要が大きかった。『清良記 第7巻』の要諦は、いかにして貢租を確たるものにするかという点にあり、純粋な農業技術書というより、農政の指導書と言うべきものである。
この『清良記 第7巻』によって千年の沈黙が打ち破られ、約40年後の元禄期に至って雨後の筍のように農書の出現が続く。その理由は定かではないが、基本的には社会の変化の早さに求められるのではないかと思う。そもそも農業技術というものは、親から子へ、子から孫へと世代間で伝えられるか、あるいはせいぜい近隣のやっている事を見たり聞いたりして学ぶもので、現代においてすら、書物から学ぶようなものではない。ましてや近代以前の社会ではそうである。
農業技術を書物を通して学ぶ必要があるとしたら、世代間や近隣から学ぶスピードよりももっと早い速度で社会が変化し、それに対応していかなければならない状況があったからだろう。農業技術を書物にまとめようとする動機には、口伝えによる技術の伝播ではもどかしいとする焦燥感があることは間違いない。
さて、『清良記』を含め、この時代に出現した凡百の農書はいずれも出版されたものではなく、地方的かつ散発的なもので、大きな影響力を持つことなく忘れられていったものなのであるが、元禄10年(1697年)に宮崎安貞により『農業全書』が我が国の農書としては初めて刊行されることになる。
これは、それまでの農書が多かれ少なかれ持っていた「領主から百姓への農業指導」という側面を廃し、「農民のための農書」即ち「耕作者のための農書」を自認して著されたものである。そして、体系的であると同時に体裁的にも完備し、出版以後、なんと明治期に至るまで絶大な影響力を持つことになる。一言で言えば、近代以前における我が国第一の農書であると言えよう。
その内容はと言えば、実はその頃(明代)大陸で著された徐光啓の『農政全書』に多くを負っており、少なくともその総論はほとんどこの翻訳といってもよい観がある。作物別の各論においても『農政全書』の影響は明らかで、気候風土も農業を成り立たせる基盤も違う明代の農書から多くを引き写してくるあたり、日本人の大陸信仰の悲しい現実を嘆かざるを得ないのであるが、もちろん独自の内容もある。
その最も著しいものは肥料論である。江戸時代の肥料といえば、人糞や厩肥を思い浮かべる人が多いと思うが、京阪を中心とした地域では、既に干鰯や油粕といった自給的でない金肥の使用が進んでおり、施肥が高度化していた。元来日本では精密な施肥というものが早くから意識されていて、元肥と追肥の使い分けといったものもおそらく世界で最も早く認識されていたように思われる。
そこに、元禄期に至って自給的でない購入資材による施肥が始まるのである。その遠因は城下町の成立と石高制(米本位制)にある。江戸幕府は一国一城制を定めて支配階級たる武士を城下町に居住させたが、それにより急速に都市が発達した。一方で、租税収入たる米は、もはや食料というよりもお金であり、一度大坂(大阪)に集められた米を売却して現金化し生活必需の品と交換する必要があった。このため商人が取引を仲立ちし、商人経済が活発化していくことになるのである。商業には極めて冷淡で、農本主義的な政策を実行した江戸幕府であったが、結果的には商人たちが活躍する時代が到来したのである。
財力を蓄えた商人たちは、食においても嗜好品を求めた。野菜や果物を食するのにも、各地のものを比較した上で最良のものを消費したのである。これにより、産地間の競争が促され、やがて競争に勝った産地がブランド化を成し遂げていく。例えば、「丹波の栗」のように地名を冠した食材が一般的になっていくのがこの頃である。農産物の商品化・ブランド化が進んだことで、ブランドカタログたる『本朝食鑑』が刊行されたことでも当時の事情が窺える。
こうして名産地が確立され、財力のある商人が高値で農産物を買うようになると、人糞、厩肥、刈草などといった身の回りにある自給的肥料だけでなく、干鰯、油粕といった高価な購入肥料を使うことができるようになる。もちろんそれには、各地を結ぶ海運の完備が前提となっている。全国各地から大坂に海運で米が集められることの当然の帰結として、京阪地域は海運が充実していた。そして商人経済の中心地である大坂へ農産物を卸せる立地的有利性もあって京阪地域の農業は自給的な段階を脱し、商業的なものへと進んでいった。高価な肥料を使うことから、おそらく当時としては世界最高水準の肥料論が確立されたのである。そして園芸作物の管理においてもその精密なことは著しいものがあり、ほとんど現在の水準と変わらない管理手法が採られている。
しかし『農業全書』の精華はそれ以上に発展させられることなく、多くが翻訳であることも認識されないまま、農書の王様の地位に鎮座し続けた。そしてついに西洋農学が輸入されるまで、我が国独自の科学的農学が生み出されることはなかったのである。その点について、古島敏雄は『学者の農書と百姓の農書』という悲痛な短編で述べている。
結局の所、我が国の農書には、現実を観察し、過去の権威に逆らってでもそれを理論化しようとする意志が欠けていたのである。 百姓と共にあったはずの二宮尊徳ですら、農業指導において「詩に曰く、易に曰く」と儒者らしく前置きを述べるように、世界の真理は古代の聖典が既に明らかにしており、それを理解することこそが「学者」であるとする世界観から脱することができなかった。むしろ儒学を知らない百姓こそが、精確な現実の観察に基づき、科学の萌芽とも呼べる農業実験を行い、新知識を体系化するということもないではなかったが、そういう場合においても、明の『農政全書』を始めとした権威的書物と異なった結論、あるいは書いていない事柄であるというだけで、間違っていると決めつけられ、ささやかなる新知識を発展させていく芽を摘まれてきたのであった。
農学の歴史というと、農学の徒にも、歴史学の徒にも興味を惹かれないようなニッチな分野であるが、そこにも日本の学界が抱える問題が先鋭的に現れているように思える。古代より先進的農業技術を持ちながら、また大陸の農書という先蹤もありながら、千年間の長きにわたり一冊の農書もものされず、やっと『農業全書』という体系的な農書ができたと思ってみれば多くが大陸の農書の翻訳であり、それが絶対の権威を確立してしまうというのはどうしてだろうか。『農業全書』で世界的レベルに達したはずの肥料論も、商人経済の停滞と共に以後発展することもなかったようだ。
そして、『学者の農書と百姓の農書』は戦後すぐに書かれたものだが、このような問題は現在でも全く色褪せていないように思われる。いやむしろ、絶対の権威を措定し、そこで思考停止するというパターンは、社会の停滞と共に強化されているのではないかとすら思える。最後に、同短編から古島の叫びを引用したい。
【参考文献】
『古島敏雄著作集 第5巻』1975年、古島敏雄
本書は、上代の農業から説き起こし、元禄期に農書が出現するに至るまでの歴史を扱う。あまり一般の方が興味を抱く内容ではないが、大変面白い本であり、また自身百姓としていろいろ考えさせられたことも多かった。そこで、例によって備忘も兼ねて、本書に即して農書の黎明を繙いてみたいと思う。
まず、農書云々以前の我が国の農業の特色として、主要作物である水稲に関しては、非常に早い時期に栽培技術が完成していたということがある。既に平安時代には苗作りから収穫に至るまで、基本的に現代と同じ耕作が行われていたらしい。集約的な管理という面で、日本は大陸や朝鮮半島の先を行っていたようであるが、どうして栽培技術が急速に完成されたのかというのは謎の一つである。
一方、もちろん大陸の方では、古代より『斉民要術』といった農書が著され、農業技術が早くから体系化されていた。これを我が国でも早くから輸入しており、ここに現れる植物が我が国のどの植物に当たるのかを明らかにして内容を理解できるよう、平安時代の辞書である『和名類聚抄』には植物の項も詳細に設けられている。
このように、我が国は進んだ農業技術を持ち、また大陸の農書を輸入しそれに目を通してもいたのだが、なぜか『斉民要術』の導入より約千年間、独自の農書を生むということがなかったのである。『日本農学史 第1巻』の前半は、この事実をどう捉えたらよいか、という問題提起であるといって差し支えないと思う。本書にはそれに対する明快な回答は準備されていないが、農書を成立させる様々な要件が整わなかったから、ということは言えるだろう。
我が国の最初の農書とされる、戦国末期〜江戸初期成立の『清良記 第7巻』の登場の背景を見て、その要件の一端を見てみよう。『清良記』は、封建領主の統治マニュアルとも呼べるもので、第7巻は農業経営の要諦を領主が老農に諮問するという形式を持って書かれている。どうしてこのような書が成立したのかというと、その背景には中世的な農業社会が解体して、近世のそれへと変遷していく社会の変化がある。
つまり、乱暴にまとめれば、荘園経営のような企業的な農業が終焉を迎え、封建領主による個々の百姓の管理という零細的な農業形態へと変遷していったことが挙げられよう。領主にとって租税の源泉たる農業の振興は重要な問題であり、「無知なる農民」「怠惰な農民」を厳しく指導し、農業の生産性を向上させる必要が大きかった。『清良記 第7巻』の要諦は、いかにして貢租を確たるものにするかという点にあり、純粋な農業技術書というより、農政の指導書と言うべきものである。
この『清良記 第7巻』によって千年の沈黙が打ち破られ、約40年後の元禄期に至って雨後の筍のように農書の出現が続く。その理由は定かではないが、基本的には社会の変化の早さに求められるのではないかと思う。そもそも農業技術というものは、親から子へ、子から孫へと世代間で伝えられるか、あるいはせいぜい近隣のやっている事を見たり聞いたりして学ぶもので、現代においてすら、書物から学ぶようなものではない。ましてや近代以前の社会ではそうである。
農業技術を書物を通して学ぶ必要があるとしたら、世代間や近隣から学ぶスピードよりももっと早い速度で社会が変化し、それに対応していかなければならない状況があったからだろう。農業技術を書物にまとめようとする動機には、口伝えによる技術の伝播ではもどかしいとする焦燥感があることは間違いない。
さて、『清良記』を含め、この時代に出現した凡百の農書はいずれも出版されたものではなく、地方的かつ散発的なもので、大きな影響力を持つことなく忘れられていったものなのであるが、元禄10年(1697年)に宮崎安貞により『農業全書』が我が国の農書としては初めて刊行されることになる。
これは、それまでの農書が多かれ少なかれ持っていた「領主から百姓への農業指導」という側面を廃し、「農民のための農書」即ち「耕作者のための農書」を自認して著されたものである。そして、体系的であると同時に体裁的にも完備し、出版以後、なんと明治期に至るまで絶大な影響力を持つことになる。一言で言えば、近代以前における我が国第一の農書であると言えよう。
その内容はと言えば、実はその頃(明代)大陸で著された徐光啓の『農政全書』に多くを負っており、少なくともその総論はほとんどこの翻訳といってもよい観がある。作物別の各論においても『農政全書』の影響は明らかで、気候風土も農業を成り立たせる基盤も違う明代の農書から多くを引き写してくるあたり、日本人の大陸信仰の悲しい現実を嘆かざるを得ないのであるが、もちろん独自の内容もある。
その最も著しいものは肥料論である。江戸時代の肥料といえば、人糞や厩肥を思い浮かべる人が多いと思うが、京阪を中心とした地域では、既に干鰯や油粕といった自給的でない金肥の使用が進んでおり、施肥が高度化していた。元来日本では精密な施肥というものが早くから意識されていて、元肥と追肥の使い分けといったものもおそらく世界で最も早く認識されていたように思われる。
そこに、元禄期に至って自給的でない購入資材による施肥が始まるのである。その遠因は城下町の成立と石高制(米本位制)にある。江戸幕府は一国一城制を定めて支配階級たる武士を城下町に居住させたが、それにより急速に都市が発達した。一方で、租税収入たる米は、もはや食料というよりもお金であり、一度大坂(大阪)に集められた米を売却して現金化し生活必需の品と交換する必要があった。このため商人が取引を仲立ちし、商人経済が活発化していくことになるのである。商業には極めて冷淡で、農本主義的な政策を実行した江戸幕府であったが、結果的には商人たちが活躍する時代が到来したのである。
財力を蓄えた商人たちは、食においても嗜好品を求めた。野菜や果物を食するのにも、各地のものを比較した上で最良のものを消費したのである。これにより、産地間の競争が促され、やがて競争に勝った産地がブランド化を成し遂げていく。例えば、「丹波の栗」のように地名を冠した食材が一般的になっていくのがこの頃である。農産物の商品化・ブランド化が進んだことで、ブランドカタログたる『本朝食鑑』が刊行されたことでも当時の事情が窺える。
こうして名産地が確立され、財力のある商人が高値で農産物を買うようになると、人糞、厩肥、刈草などといった身の回りにある自給的肥料だけでなく、干鰯、油粕といった高価な購入肥料を使うことができるようになる。もちろんそれには、各地を結ぶ海運の完備が前提となっている。全国各地から大坂に海運で米が集められることの当然の帰結として、京阪地域は海運が充実していた。そして商人経済の中心地である大坂へ農産物を卸せる立地的有利性もあって京阪地域の農業は自給的な段階を脱し、商業的なものへと進んでいった。高価な肥料を使うことから、おそらく当時としては世界最高水準の肥料論が確立されたのである。そして園芸作物の管理においてもその精密なことは著しいものがあり、ほとんど現在の水準と変わらない管理手法が採られている。
しかし『農業全書』の精華はそれ以上に発展させられることなく、多くが翻訳であることも認識されないまま、農書の王様の地位に鎮座し続けた。そしてついに西洋農学が輸入されるまで、我が国独自の科学的農学が生み出されることはなかったのである。その点について、古島敏雄は『学者の農書と百姓の農書』という悲痛な短編で述べている。
結局の所、我が国の農書には、現実を観察し、過去の権威に逆らってでもそれを理論化しようとする意志が欠けていたのである。 百姓と共にあったはずの二宮尊徳ですら、農業指導において「詩に曰く、易に曰く」と儒者らしく前置きを述べるように、世界の真理は古代の聖典が既に明らかにしており、それを理解することこそが「学者」であるとする世界観から脱することができなかった。むしろ儒学を知らない百姓こそが、精確な現実の観察に基づき、科学の萌芽とも呼べる農業実験を行い、新知識を体系化するということもないではなかったが、そういう場合においても、明の『農政全書』を始めとした権威的書物と異なった結論、あるいは書いていない事柄であるというだけで、間違っていると決めつけられ、ささやかなる新知識を発展させていく芽を摘まれてきたのであった。
農学の歴史というと、農学の徒にも、歴史学の徒にも興味を惹かれないようなニッチな分野であるが、そこにも日本の学界が抱える問題が先鋭的に現れているように思える。古代より先進的農業技術を持ちながら、また大陸の農書という先蹤もありながら、千年間の長きにわたり一冊の農書もものされず、やっと『農業全書』という体系的な農書ができたと思ってみれば多くが大陸の農書の翻訳であり、それが絶対の権威を確立してしまうというのはどうしてだろうか。『農業全書』で世界的レベルに達したはずの肥料論も、商人経済の停滞と共に以後発展することもなかったようだ。
そして、『学者の農書と百姓の農書』は戦後すぐに書かれたものだが、このような問題は現在でも全く色褪せていないように思われる。いやむしろ、絶対の権威を措定し、そこで思考停止するというパターンは、社会の停滞と共に強化されているのではないかとすら思える。最後に、同短編から古島の叫びを引用したい。
かつて見られた百姓の経験主義・実験的態度は、近代科学の同様な態度によって鼓舞されることなく消失し、改良を拒む伝統主義、非能率を誇りとする勤労主義として、最も惨めな面のみを残して、近代科学研究者としての農学研究者を農業研究・現実研究から引き離していく契機となってしまった。「百姓」を自認している私である。「絶対の権威」を気にすることなく、現実を直視していきたいと思う。
【参考文献】
『古島敏雄著作集 第5巻』1975年、古島敏雄
2013年9月1日日曜日
萬世酒造の「松鳴館」には万世の古い記憶が展示されています
吹上浜海浜公園の隣に、「松鳴館」と名付けられた萬世酒造の瀟洒な建物がある。ここには醸造の展示施設が併設されているのだが、実は絵画も展示されているらしいと聞いて見に行ってみた。
しかし、同社のWEBサイトにもほとんど情報がないこともあり、「どうせ焼酎ブームの頃に社長が趣味で買い集めた適当な絵が、脈絡なく飾ってあるんじゃないの? 瀟洒な建物は税金対策では?」などと不遜な考えで行ったのだが、これはとても真面目な展示である。
醸造の展示は今時珍しくもないが、感心したのは絵画だ。ここに展示されているのは、野崎耕二さんという方が万世の昔を描いた作品群。萬世酒造が吹上浜海浜公園の隣の旧自動車学校跡地に移転してきたのは2005年で、それまでは万世小学校の近くにあった。野崎さんは、この昔の萬世酒造の3軒となりの家に生まれたらしく、小さな頃は焼酎の量り売りを買いに行かされたという。
野崎さんは1937年生まれ。万世小学校、万世中学校を卒業し、薩南工業に進んだ。1957年に上京し、やがてイラストレータとして独立したが、1983年に筋ジストロフィーと診断されたことをきっかけに「一日一絵」を描き始め、30年近く続いている(現在も続いているのかは不明)。
この野崎さんは、現在は千葉に在住であるが、自分が小さい頃に過ごした万世を思い起こし、素朴なタッチで戦中戦後の日常生活を描いた作品を多く製作している。その作品群がこの萬世酒造に展示されているわけで、描かれているのは何気ない昔の風景に過ぎないが、逆に今では失われ忘れられたものであり、貴重な歴史の資料である。
また、絵に添えられた短文がいい味を出していて、素朴な絵をいっそう素朴な気持ちで見ることができる。万世出身のある年代以上の人がご覧になったら、きっと「ああ、こんな時代だったなあ」と懐かしがること必至である。今回はフラリと寄ったのでじっくりと見る時間がなかったが、いつか一枚一枚をちゃんと見てみたいと思う。
どうしてこういう展示施設を作ろうと思ったのかは分からないが、「万世(萬世)」の名を掲げる萬世酒造なだけに、地元の古い風景を大事にしようと思ったのだろうし、野崎さんの仕事をしっかりと残していこうという使命感のようなものを持ったのかもしれない。絵画の展示スペースは決して大きくないが、真摯さを感じる展示であった。
一方、瀟洒な建物の方は、なんだか大正ロマン風の贅沢な造りで、こちらは本当に税金対策で作られたものかもしれない。展示施設の案内の方に聞くと、「詳しい経緯は知らないが、萬世酒造は薩摩酒造の子会社なので、薩摩酒造の考えでこうした施設にしたのでは」とのことだった。言われてみると、枕崎の薩摩酒造のハデな建物(明治蔵)と相通じるものがあるような気もする。
ちなみに、この松鳴館でしか買えない焼酎があって、それは2006年秋季全国酒類コンクール本格焼酎部門総合1位を獲得した「萬世松鳴館」である。せっかくなので、私はアルコールは飲まないがこいつの原酒(アルコール度37度)を買って帰った。
ここはWEBにもパンフレット等にもその情報は少なく、なぜか萬世酒造自身があまり広報していないが、万世出身の方は何かの機会に寄ってみて損はないと思う。松籟(しょうらい)の響く地に、万世の古い記憶が静かに展示されている。
【情報】
薩摩萬世 松鳴館
南さつま市加世田高橋1940-25
TEL: 0993(52)0648
見学/9時-16時(休館:第3日曜日、年末年始(12/30-1/2))
※見学は年中可能。ただし、焼酎製造の時期は9月中旬-12月初旬
しかし、同社のWEBサイトにもほとんど情報がないこともあり、「どうせ焼酎ブームの頃に社長が趣味で買い集めた適当な絵が、脈絡なく飾ってあるんじゃないの? 瀟洒な建物は税金対策では?」などと不遜な考えで行ったのだが、これはとても真面目な展示である。
醸造の展示は今時珍しくもないが、感心したのは絵画だ。ここに展示されているのは、野崎耕二さんという方が万世の昔を描いた作品群。萬世酒造が吹上浜海浜公園の隣の旧自動車学校跡地に移転してきたのは2005年で、それまでは万世小学校の近くにあった。野崎さんは、この昔の萬世酒造の3軒となりの家に生まれたらしく、小さな頃は焼酎の量り売りを買いに行かされたという。
野崎さんは1937年生まれ。万世小学校、万世中学校を卒業し、薩南工業に進んだ。1957年に上京し、やがてイラストレータとして独立したが、1983年に筋ジストロフィーと診断されたことをきっかけに「一日一絵」を描き始め、30年近く続いている(現在も続いているのかは不明)。
この野崎さんは、現在は千葉に在住であるが、自分が小さい頃に過ごした万世を思い起こし、素朴なタッチで戦中戦後の日常生活を描いた作品を多く製作している。その作品群がこの萬世酒造に展示されているわけで、描かれているのは何気ない昔の風景に過ぎないが、逆に今では失われ忘れられたものであり、貴重な歴史の資料である。
また、絵に添えられた短文がいい味を出していて、素朴な絵をいっそう素朴な気持ちで見ることができる。万世出身のある年代以上の人がご覧になったら、きっと「ああ、こんな時代だったなあ」と懐かしがること必至である。今回はフラリと寄ったのでじっくりと見る時間がなかったが、いつか一枚一枚をちゃんと見てみたいと思う。
どうしてこういう展示施設を作ろうと思ったのかは分からないが、「万世(萬世)」の名を掲げる萬世酒造なだけに、地元の古い風景を大事にしようと思ったのだろうし、野崎さんの仕事をしっかりと残していこうという使命感のようなものを持ったのかもしれない。絵画の展示スペースは決して大きくないが、真摯さを感じる展示であった。
一方、瀟洒な建物の方は、なんだか大正ロマン風の贅沢な造りで、こちらは本当に税金対策で作られたものかもしれない。展示施設の案内の方に聞くと、「詳しい経緯は知らないが、萬世酒造は薩摩酒造の子会社なので、薩摩酒造の考えでこうした施設にしたのでは」とのことだった。言われてみると、枕崎の薩摩酒造のハデな建物(明治蔵)と相通じるものがあるような気もする。
ちなみに、この松鳴館でしか買えない焼酎があって、それは2006年秋季全国酒類コンクール本格焼酎部門総合1位を獲得した「萬世松鳴館」である。せっかくなので、私はアルコールは飲まないがこいつの原酒(アルコール度37度)を買って帰った。
ここはWEBにもパンフレット等にもその情報は少なく、なぜか萬世酒造自身があまり広報していないが、万世出身の方は何かの機会に寄ってみて損はないと思う。松籟(しょうらい)の響く地に、万世の古い記憶が静かに展示されている。
【情報】
薩摩萬世 松鳴館
南さつま市加世田高橋1940-25
TEL: 0993(52)0648
見学/9時-16時(休館:第3日曜日、年末年始(12/30-1/2))
※見学は年中可能。ただし、焼酎製造の時期は9月中旬-12月初旬
2013年8月27日火曜日
南薩には、かぼちゃのシーズンが年に2回あります
ここのところずっと、何もかもが砂漠のように乾いていたが、昨日久しぶりの本格的な雨が降った。
この雨を期して先週秋かぼちゃの種を植えており、それがちょうど今日発芽していたので、これはまさにベストタイミングな恵みの雨だ。
例によって先輩農家Kさんの絶大なる協力を得て、今年も秋かぼちゃをやらせていただくことになり、惨憺たる有様だった昨年の秋かぼちゃのリベンジを果たそうと目論んでいるところだったので、幸先のよいスタートにひとまず安心である。
ところで、私も特に意識していなかったのだが、南薩ではかぼちゃを春と秋の2回作付するということが特徴の一つである。かぼちゃというのは、夏野菜ではあるけれどやや涼しい気候を好むので、時期を工夫すれば北海道と東北を除く日本の多くの地域で春秋2回の作付が可能であるように思うが、実際に2回作付しているところは少ないようだ(多分、鹿児島以外にはなさそうである)。
その理由はいろいろ考えられるが、第一には経営作物としてあまりうまみのないかぼちゃをわざわざ1年に2回も作る利点がないということがあるだろう。それに連作を嫌うかぼちゃを1年に2回も作っていたら、度重なる土壌消毒などで土がすぐにバカになってしまうという理由もあるかもしれない。
では、なぜ南薩では春秋2回作付するのだろう? 南九州では4月から5月にはかぼちゃが出来て初物として高値で取引されるので、春にかぼちゃが作られるのは合理的としても、どうして秋にも作付するのだろうか?
それは南薩の早期水稲と関係がある。ご存じの通り、南薩の西部は早期水稲の産地で、新米の季節は8月である。普通は、お米の収穫時期は10月だから、米の収穫後に2毛作で何か作ろうとしても時期的に選択肢は限られるが、早期水稲の場合、8月に田んぼと労働力が空くわけなのでその後いろいろ作ることが可能である。
そして8月というのは、かぼちゃを作付するには霜が降るまでに収穫まで漕ぎ付けるギリギリの時期で、南薩のかぼちゃの多くは、この収穫後の田んぼを利用して作られているのである。収穫後の田んぼというのは、何も作らなくてもどうせある程度の管理が必要になるわけで、であれば何か作付する方が得策である。そのため、南薩の早期水稲収穫後には、蕎麦やかぼちゃといった短期集中型の作物が植えられることになる。しかも水稲後の作付は、土壌消毒の必要がなく経済的かつ健康的である。
さらに、12月は北海道からのかぼちゃが切れる時期にあたるので、市場的な価値も高い。…ということになっていたが、今では輸入ものがあるのでスーパーには一年中かぼちゃがあるし、貯蔵施設の整備などで北海道のかぼちゃも随分遅くまであるため、鹿児島の秋かぼちゃの価値が揺らいでいる面がある。
その上、秋は台風シーズンに当たるため、秋かぼちゃは博打性が強い。昨年の秋かぼちゃが惨憺たる有様だったのは、播種時期の長雨ももろんだが、台風が(直撃でなかったとはいえ)4回も来た影響が大きい。天候のことは人の手ではいかんともしがたいわけで、秋かぼちゃの生産は不安定にならざるを得ない。
しかしながら、1年に2回かぼちゃのシーズンがあるということは他にはあまり見られない特色なので、今まで誰もこれをアピールしようとした人はいないみたいだが、何か活かす道があるのではないだろうか。少し考えてみても何も妙案は浮かばなかったが、いいアイデアがある人はぜひご高教願いたい。
この雨を期して先週秋かぼちゃの種を植えており、それがちょうど今日発芽していたので、これはまさにベストタイミングな恵みの雨だ。
例によって先輩農家Kさんの絶大なる協力を得て、今年も秋かぼちゃをやらせていただくことになり、惨憺たる有様だった昨年の秋かぼちゃのリベンジを果たそうと目論んでいるところだったので、幸先のよいスタートにひとまず安心である。
ところで、私も特に意識していなかったのだが、南薩ではかぼちゃを春と秋の2回作付するということが特徴の一つである。かぼちゃというのは、夏野菜ではあるけれどやや涼しい気候を好むので、時期を工夫すれば北海道と東北を除く日本の多くの地域で春秋2回の作付が可能であるように思うが、実際に2回作付しているところは少ないようだ(多分、鹿児島以外にはなさそうである)。
その理由はいろいろ考えられるが、第一には経営作物としてあまりうまみのないかぼちゃをわざわざ1年に2回も作る利点がないということがあるだろう。それに連作を嫌うかぼちゃを1年に2回も作っていたら、度重なる土壌消毒などで土がすぐにバカになってしまうという理由もあるかもしれない。
では、なぜ南薩では春秋2回作付するのだろう? 南九州では4月から5月にはかぼちゃが出来て初物として高値で取引されるので、春にかぼちゃが作られるのは合理的としても、どうして秋にも作付するのだろうか?
それは南薩の早期水稲と関係がある。ご存じの通り、南薩の西部は早期水稲の産地で、新米の季節は8月である。普通は、お米の収穫時期は10月だから、米の収穫後に2毛作で何か作ろうとしても時期的に選択肢は限られるが、早期水稲の場合、8月に田んぼと労働力が空くわけなのでその後いろいろ作ることが可能である。
そして8月というのは、かぼちゃを作付するには霜が降るまでに収穫まで漕ぎ付けるギリギリの時期で、南薩のかぼちゃの多くは、この収穫後の田んぼを利用して作られているのである。収穫後の田んぼというのは、何も作らなくてもどうせある程度の管理が必要になるわけで、であれば何か作付する方が得策である。そのため、南薩の早期水稲収穫後には、蕎麦やかぼちゃといった短期集中型の作物が植えられることになる。しかも水稲後の作付は、土壌消毒の必要がなく経済的かつ健康的である。
さらに、12月は北海道からのかぼちゃが切れる時期にあたるので、市場的な価値も高い。…ということになっていたが、今では輸入ものがあるのでスーパーには一年中かぼちゃがあるし、貯蔵施設の整備などで北海道のかぼちゃも随分遅くまであるため、鹿児島の秋かぼちゃの価値が揺らいでいる面がある。
その上、秋は台風シーズンに当たるため、秋かぼちゃは博打性が強い。昨年の秋かぼちゃが惨憺たる有様だったのは、播種時期の長雨ももろんだが、台風が(直撃でなかったとはいえ)4回も来た影響が大きい。天候のことは人の手ではいかんともしがたいわけで、秋かぼちゃの生産は不安定にならざるを得ない。
しかしながら、1年に2回かぼちゃのシーズンがあるということは他にはあまり見られない特色なので、今まで誰もこれをアピールしようとした人はいないみたいだが、何か活かす道があるのではないだろうか。少し考えてみても何も妙案は浮かばなかったが、いいアイデアがある人はぜひご高教願いたい。
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