2012年4月16日月曜日

筍は、初物を食べるに限る。

筍の旬が終わりにさしかかっている。今、竹林には筍が至るところからにょきにょき出てくる。しかし、この時期の筍は、残念ながらそれほど美味しくない。

日本の市場は、初物信仰が根強い。野菜でも果物でも、初物(つまり旬の最初に出荷されたもの)は高い。需要と供給の関係から、ほとんど流通量がない旬の最初には高額になるのは理屈としてはわかるが、時としてそれは非合理的な値付けにも思える。出荷日が2〜3日違うだけで値段が大きく違う場合もあり、これは生産者としてのみならず消費者としてもよくわからない奇習である。

しかも、多くの野菜では、初物はあまり美味しくない。市場では、少しでも早い出荷が高額取引に繋がることから、生産者としては植物や土壌に多少無理をさせてでも、1日でも早い収穫を目指すのは当然である。そのため、初物よりも若干遅い野菜の方が、実は優れていることが多い。なのに、その値段は半額になったりするのだから、市場価格というのは当てにならない。

しかしながら、筍だけは、高くともぜひ初物を食べるべきだ、と思う。筍の初物は、明らかに旬の終わりのそれよりも遙かに優れている。

なぜなら、旬の終わりの筍は、深い根についた筍であって地上に出るのが遅れたものであることが多いからだ。よってその筍は、収穫時には既にかなりのサイズに生長しており、蓄えられた栄養分がその生長に消費されてしまっているために、栄養面でも味の面でも初物に劣るのである。

ちなみに、筍は旬の終わりにたくさん出てくるものなので、供給が過剰になって価格が大きく下落し、品質の低下以上に筍は安くなる。これは、消費者としてはリーズナブルに買えるということなので、初物を食べるべきだとはいっても、敢えてこのような安い筍を買うというのも一案ではある。

この「旬の終わりにたくさん出てくる」という筍の性質は、生産者側としては困った性質である。品質の劣ったものが、同時に大量に出てくるので、出荷するコストの方が利益よりも大きいような状態である。ほぼ毎日筍を掘っている身としては、もう、「美味しくない筍は出てこないで欲しい」という気持ちである。

ただ、美味しくないといっても初物に比べての話なので、依然としてスーパーで売っている水煮よりは遙かに美味しい筍が採れるし、全部が全部劣った筍ではないので、放っておくのはもったいない。このあたりは、欲の深い人間の業であろう。

ところで、筍の初物、というのはいつの時期の筍なのか、という別の問題もある。鹿児島では「早掘り筍」といって、土中に埋まっている筍を掘り出して出荷しており、これが全国一早い筍なのだ。早いものだと、なんと11月くらいに掘られるものがあるのだが、やはり、これはこれで無理をしている初物だと思う。このご時世、本当の旬を見極めるのは結構難しい。

2012年4月14日土曜日

鹿児島とクスノキの深い関係

昨日、「千本楠」について書いたのだが、クスノキと鹿児島には深い縁がある。日本一の巨樹「蒲生の大クス」を始めとして、鹿児島にはクスの巨木が多いということもあるけれども、縁はそれだけではない。

それは、クスノキの葉や枝から取れる樟脳が、かつて鹿児島の特産品だったということだ。江戸初期から大正期にかけて、薩摩藩・鹿児島県は日本一の樟脳の輸出元だった。18世紀初頭では、日本が輸出する樟脳のほぼ全量が薩摩藩製で、樟脳はヨーロッパでは医薬品(カンフル剤)として利用されていたが、これが「サツマカンフル」と呼ばれ珍重されたとのことだ。なんと、当時ヨーロッパで使用されていた樟脳の大部分が薩摩藩製であったという記録もあるらしい。

樟脳貿易でもたらされる利益は、77万石とは言っても実際はその半分ほどしか石高がなかった薩摩藩の貴重な収入源であり、明治維新直前に積極的な対外政策を実行できたのは、樟脳のおかげと考える人もいる。

つまり、クスノキには樟脳利権があったと思われるわけで、事実、薩摩藩ではその1本1本が厳格に管理されていた。これが、神木ならずともクスノキの巨木が鹿児島に多く残されている理由なのかもしれない。

しかし、かつて鹿児島を賑わわせた樟脳生産は、昭和初期には台湾などの安い外国産のものに押されたこと、さらに類似の化学合成品に取って代わられたことなどの理由で、急激に衰退していく。ちなみに、台湾にあったクスノキのプランテーションは(当時台湾を植民地としていた)日本政府が経営していたものだったことは、明治維新を主導した鹿児島としてはちょっとした皮肉である。

それでも、鹿児島の樟脳製造は、細々ながら昭和の終わりあたりまで続いたらしい。鹿児島には各地に樟脳製造のためのクスノキの山があり、またその製造工場があった。そのため、今でも「樟脳山」(川辺、金峰)とか「樟脳木屋」(加世田)、「楠木原(くすのきばる)」(知覧)といったクスノキや樟脳に関する地名が南薩にもかなり残っている。

今では、クスノキの巨樹というと、(トトロに出てくるように)田舎の郷愁を感じさせるものだが、かつては鹿児島の歴史を動かした存在だったことは、もっと記憶されてもよいと思う。

【参考文献】
南九州の地名」青屋昌興、2008年

2012年4月13日金曜日

非常に珍しいクスの巨木群「千本楠」

鹿児島県日置市吹上町に「千本楠」というクスノキの巨樹群落がある。

クスノキは南方由来の外来種で、多くが人為的に植えられたらしいこともあり、群落は珍しいが、この千本楠はさらに非常な奇観を呈している。それは、クスノキが横へ横へと伸びていることだ。当地の案内板では「二十数株の大楠があたかも竜が寝ているかのように連なり…」と形容するが、そこに立つとまさしくそんな感じがする。

ただし、「千本楠」という名称は大げさで、楠が千本もあるわけではない。引用によって明らかなように実際には二十数株しかないのであるが、この群落形成の過程が非常に変わっている。それが、クスが横へ横へと伸びた理由でもあるのだが、実は、これら二十数株は元は一本の巨大なクスノキだったらしいのだ。

明治のある夜、根回り18m、樹冠は50a(!)に及んだという巨大なクスが、風もないのに大音響とともに倒れ、付近の人々は恐れおののいたという。そのクスの支幹が根付いたのが千本楠となったと伝えられる。といっても、倒木が根付いたわけではなく、倒壊の前から接地していた支幹からすでに根が出ていたのだろう。クスの幹には巨大な空洞ができやすいので、その重さに耐えかねて倒れることや、支幹が接地するほど下垂するのは十分にありえる。

千本楠を構成するクスノキはどれも幹周10m弱なので、クスノキとしてはそんなに大きなものではない。また、クスノキは非常に樹形の個性が強い樹種なので、変わった形になっているクスノキも全国に多い。しかし、横へ横へと伸びたり、元は一本の木だったという由来があるクスノキ群は唯一無二なのではないか。

ちなみに、この千本楠は大汝牟遅(おおなむち)神社の神域にあるのだが、実はこの大汝牟遅神社、明治以前は大汝牟遅八幡神社と呼ばれていたのであり、ここでも八幡神社とクスノキがセットになっているのであった。八幡神社とクスノキの結びつきは、いつか解いてみたい謎である。

2012年4月10日火曜日

ひっそりと存在するタブノキの巨木

近所になんとなく気になる場所があった。県道のすぐそばだが、ちょっとした土手の上に何かがあるような気がしたので、ある日思い切って行ってみると、そこにはとても大きなタブノキ(椨)があった。

外からは、こんな大木が隠れていようとは思いも寄らない場所である。堂々とした巨木が突然姿を現し、すっかりびっくりしてしまった。

樹の下には石造りの社と、明和年間に建立された古い墓石群、それからさらに古そうな五輪塔があり、幽邃な雰囲気である。

私は巨木が好きでいろんな巨木を見てきたが、「ここに巨木があります!」というアピールが樹からも人間(の造作物)からもあるのが普通だ。こういう、自己主張せずひっそりと存在している巨木は、珍しい。

説明板なども何もなかったが、調べてみると、これは「原(はる)のタブノキ」といって「かごしまの名木2001」にも選ばれており、幹周8.9mはタブノキとしては日本で五指に入る。樹齢は300年という。十分に注目される価値のある樹である。

原集落の方に伺うと、「確かに立派な樹だけれど、あそこは怖いから私は行かない」とのことだった。確かに墓石はあるし、ただならぬ雰囲気もあるので、怖いから行かないという気も分かる。また、タブノキは古来神木として祀られることも多く、人を畏れさせる何かがあるのかもしれない。

それにしても、こんな立派な樹なのにもかかわらず、市や県が何の紹介もしていないのは少し残念だ。私も「なんとなく気になる」という不思議な感覚がなければ、ずっと知らずに過ごしていたかもしれない。地元の社ということで、おそらく私有地にあるためという事情もあるのだろうが、説明板の一つでも付けたらよいのにと思った。

ただ、県はこの樹に無関心というわけでもないらしく、足下には近年樹木医によって行われた治療記録の立て札がある。樹木医は秋元智雄氏。指宿で造園業を営みつつ、(女流ならぬ)男流のいけばな環境教育のインストラクターなどにも取り組んでおられる多才な方のようだ。機会があれば、この樹について語り合ってみたいものだと思った。

2012年4月9日月曜日

鹿児島でも貴重な美味しくおめでたいエビ、タカエビ

4月1日にタカエビ漁が解禁された。というわけで、近隣にある博物館併設の宿泊施設「笠沙恵比寿」でタカエビ会席を食べたのだが、このエビ、非常に美味である。

タカエビというのは、鹿児島でもあまり知られていないが、日本に数多いエビの中でも相当に美味しい部類に属すると思う。

このエビは所謂「甘エビ」であって、熱を通さなくても美しいピンク色をしており、刺身で食べることができる。食感は、甘エビよりもぷりぷりとしていて、甘味はよりさっぱりしている。

これは甘エビと同じように深海(300〜600m)に棲むエビであるが、一般に言われる甘エビ=ホッコクアカエビとは種類が違う。ホッコクアカエビは死後の自己消化の過程でアミノ酸が生じるために甘くなるらしく、捕獲後しばらく経ってからでないと甘味が感じられないのだが、タカエビは新鮮な状態でも甘いので、甘さの原因が違うのかもしれない。この違いが、ぷりぷりとした食感と甘味が両立するタカエビの優れた形質の根本にあるのだと思う。

また、タカエビと甘エビの見た目の違いとして大きいのは、タカエビは長い髭が紅白になっているということだ。髭が紅白というのは大変おめでたい姿だが、髭はデリケートなために輸送途中に取れてしまうことが多く、市場ではなかなかお目にかかれないものらしい。そもそも、タカエビは鹿児島でも東シナ海側の限られた漁港でしか獲れないもので、タカエビ自体が希少であり、あまり市場に流通していないのだが。

なお、タカエビは地方名で、正式な種名はヒゲナガエビだと解説されることが多いが、これは本当だろうか。ヒゲナガエビとタカエビには形態や味に微妙な違いがあるので、どうもこれは疑わしい。私はこれを地方の亜種であると思っているが、どうだろうか。

ちなみに、笠沙恵比寿のタカエビ会席は、前菜からご飯ものに至るまで全てタカエビづくしである。タカエビは甲殻類らしいクセがあまりなく、食感もあっさりとしているので、最後まで美味しい。だが、正直に言えば、メニューにもう少し工夫が必要かとも思った次第である。例えば、途中でエビ以外のものを一品挟むといった箸休めが必要であろう。

2012年4月4日水曜日

実は、鹿児島は全国一の筍の産地です。

筍の時期が来た

4月1日に、今年初めての筍を掘った。例年に比べると少し遅いらしい。今年の冬は寒かったので、生育が遅れているようだ。

うちは、ごく僅かな面積ではあるが竹林を所有している。それでも、筍は毎日のように出てきて、3日くらい放置するとすぐに食べられなくなるので、しょっちゅう竹林に行って掘る必要がある。

すると、我が家だけでは消費しきれないくらいの量が採れるので、近所の方におすそわけすることになる。いつもおすそ分けをもらってばかりなので、うちから差し上げられるようなものは、今のところ、この筍くらいだ。でもこれで、少しは普段の恩返しが出来るかもしれない。

というのも、南薩のこのあたりは竹林が少ない地域なので、筍は割と希少性があるのだ。

竹は時に「史上最強の植物」などと言われ、山林を浸食するやっかいな存在と見なされるが、実は地下水が豊富でないと生育しないという決定的弱点がある。そして、このさつま市大浦町は、保水力のあまりない岩山に囲まれているために、どうやら地下水が豊かでないらしく、あまり竹が生育していないのだ。

ちなみに、北薩の方に行くと、山林を放置するとすぐに竹林化するのが問題になるほど竹林生育に適しており、筍の生産も盛んだ。あまり認識されていないが、鹿児島県は竹林面積が日本一で、筍の生産量も日本一なのである(ときどき福岡県が1位になるが)。

竹林というと京都が有名だが、竹は南方由来の植物なので、生育に暖地が適しているのは当然で、 孟宗竹の筍だけでなく、鹿児島県全体では高級筍の生産も盛んである。しかし、鹿児島茶があまりメジャーでないのと同じく、鹿児島の筍も全国的にはあまりメジャーではない。つくづく、売り込みがヘタな県民性があるような気がする。

2012年4月3日火曜日

茶生産量全国2位の鹿児島で、抹茶がほとんど生産されない理由

全国的にはあまり認識されていないが、鹿児島県は、静岡県に続く全国第2位のお茶の産地である。認知度がいまいちのは、鹿児島の茶業は緑茶の原料である荒茶の生産がメインで、消費者が直接目にする製品をあまり生み出していないからと思われる。

さて、先日も書いたのだが、その鹿児島では、抹茶がほとんど生産されていない。私の知る限り、鹿児島で抹茶を製造しているのは一社しかない。どうして、鹿児島では抹茶は作られていないのだろうか?

それは、端的には、鹿児島には藩政時代、茶の湯(茶道)の文化があまりなかったからであろう。77万石の雄藩であった薩摩藩で茶の湯が盛んでなかったのは意外であるが、ではどうして薩摩藩では茶の湯が振るわなかったのだろうか。

その理由は、第1に、薩摩藩の武士は貧乏だったことが挙げられる。薩摩藩は人口の約40%が武士という、全国的に見ても異常に武士の多い社会だったので、武士の多くは貧乏だった。茶の湯には金がかかるので、貧乏武士にはできようはずもない。

第2に、外城(とじょう)制も影響していると思われる。外城制とは、おおざっぱに言えば武士を地方に在住させる制度のこと。江戸時代、一国一城と決められていたのだが、薩摩藩は「これは城ではない、外城です」として武士を地方に駐在させた。他の藩では、武士は城下町に集中して住んでいたので武家文化が栄えたが、薩摩藩では貧乏武士が分散して地方に住んでいたので、武家文化があまり振るわなかった。茶の湯は武家文化なので、薩摩藩では茶の湯を嗜む武家はほとんどいなかったと思われる。

第3に、君主である島津家が茶の湯に熱心でなかったこともあるだろう。江戸時代、大名は将軍家の接待のために茶の湯の作法を修める必要があった。当然、島津家も茶の湯を行っていたし、役職として茶道方(つまり茶による接待役=いわゆる茶坊主)も置かれていたのだが、島津家からは江戸時代、茶人と呼ばれるほどの当主は出なかった。

島津家でも、戦国時代の島津義弘は千利休に教えを請うたこともある茶人だったし、薩摩藩が朝鮮出兵で連れ帰った陶工に茶道具を作らせたという話もあるが、ほんの一時期のことに過ぎないと思われる。江戸時代には、島津家は大名として必要最低限の茶の湯は嗜んだが、それ以上ではなかっただろう。

どうして島津家が茶の湯に熱心でなかったのか、という理由はよくわからないが、よく言われるのは、中興の祖、島津忠良(日新斎)の教えに「茶の湯に入れ込むのはよくない」というものがあり、これが影響しているという。質実剛健を好んだ日新斎が、豪奢な数寄屋文化を戒めるのは当然とも言えるが、この教えが数百年も守られるとは、ちょっと信じがたい。

しかし、日新斎が詠んだという歌「魔の所為か 天けん(キリスト教)おかみ(拝み)法華宗、一向宗に数奇の小座敷(茶の湯)」を見ると、それもあながち嘘ではないかもしれないという気がしてくる。

キリスト教、法華宗、一向宗というのは、薩摩藩では禁制で手ひどく弾圧されていた。それと同列に、茶の湯が並んでいるのである! たかが茶飲み、「魔の所為」扱いせんでも…という気がするのだが、こんな強く否定されては、歴代の島津藩主が茶の湯に冷淡な態度を取らざるを得なかったのも頷ける。

ともかく、そういう歴史的な経緯から、鹿児島では茶の湯の文化が武家層に定着しなかった。それはそれで仕方ないが、茶業の県なのにもかかわらず、お茶屋さんに並ぶ抹茶に自県生産のものがなく、宇治などから取り寄せていることには、少し寂しい気がするのである。

歴史は重要だが、あまり過去に引き摺られるのもよくない。そろそろ、鹿児島にも抹茶を飲む文化が栄えてもいい頃ではないだろうか。