2012年4月14日土曜日

鹿児島とクスノキの深い関係

昨日、「千本楠」について書いたのだが、クスノキと鹿児島には深い縁がある。日本一の巨樹「蒲生の大クス」を始めとして、鹿児島にはクスの巨木が多いということもあるけれども、縁はそれだけではない。

それは、クスノキの葉や枝から取れる樟脳が、かつて鹿児島の特産品だったということだ。江戸初期から大正期にかけて、薩摩藩・鹿児島県は日本一の樟脳の輸出元だった。18世紀初頭では、日本が輸出する樟脳のほぼ全量が薩摩藩製で、樟脳はヨーロッパでは医薬品(カンフル剤)として利用されていたが、これが「サツマカンフル」と呼ばれ珍重されたとのことだ。なんと、当時ヨーロッパで使用されていた樟脳の大部分が薩摩藩製であったという記録もあるらしい。

樟脳貿易でもたらされる利益は、77万石とは言っても実際はその半分ほどしか石高がなかった薩摩藩の貴重な収入源であり、明治維新直前に積極的な対外政策を実行できたのは、樟脳のおかげと考える人もいる。

つまり、クスノキには樟脳利権があったと思われるわけで、事実、薩摩藩ではその1本1本が厳格に管理されていた。これが、神木ならずともクスノキの巨木が鹿児島に多く残されている理由なのかもしれない。

しかし、かつて鹿児島を賑わわせた樟脳生産は、昭和初期には台湾などの安い外国産のものに押されたこと、さらに類似の化学合成品に取って代わられたことなどの理由で、急激に衰退していく。ちなみに、台湾にあったクスノキのプランテーションは(当時台湾を植民地としていた)日本政府が経営していたものだったことは、明治維新を主導した鹿児島としてはちょっとした皮肉である。

それでも、鹿児島の樟脳製造は、細々ながら昭和の終わりあたりまで続いたらしい。鹿児島には各地に樟脳製造のためのクスノキの山があり、またその製造工場があった。そのため、今でも「樟脳山」(川辺、金峰)とか「樟脳木屋」(加世田)、「楠木原(くすのきばる)」(知覧)といったクスノキや樟脳に関する地名が南薩にもかなり残っている。

今では、クスノキの巨樹というと、(トトロに出てくるように)田舎の郷愁を感じさせるものだが、かつては鹿児島の歴史を動かした存在だったことは、もっと記憶されてもよいと思う。

【参考文献】
南九州の地名」青屋昌興、2008年

2 件のコメント:

  1. 薩摩半島の付け根になる谷山のむかし山間部であったところが今 都市計画で市街地になろうとしていますが、ここも
    ソノ山があって雇用もあり、ソノ焚小屋がありました。

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    1. コメントありがとうございます。
      谷山にもあるんですね。今、谷山はイオンを中心として大きく変貌していますね。地元の人にとっては複雑な気持ちでしょうね。発展はいいことですが、過去がなくなってしまうような開発は寂しいです。

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