2017年1月9日月曜日

六地蔵塔の思想

南さつま市の加世田に、「六地蔵塔」という史跡がある。

時は戦国、島津の中興の祖である島津忠良(日新斎)が、ここからほど近い別府城を攻略した際に亡くなった兵士を、敵味方なく供養するために1540年に建立したものだそうである。

六地蔵塔、というものを知らなかった私は、これを見てなんだか不思議な石塔だなあ、と思った。調べてみると、六地蔵塔は戦国時代を中心に江戸初期くらいまで九州で流行したものらしく、鹿児島にも他にいくつか残っている。

六地蔵塔で有名なのは日新斎の孫の島津義弘で、例えば宮崎の木崎原で伊東軍を大破した時も戦場に六地蔵塔を建てたというし、義弘は大きな合戦跡にはほとんど六地蔵塔を建立して敵味方なく供養したそうである。

この「敵味方なく」というところが重要で、島津氏では、日新斎が敵味方双方の戦没者供養(施餓鬼会)を行ったのをきっかけにして、それが伝統になった。味方の武将を弔うのは当然のこととしても、敵の武将まで供養碑に名を刻んで弔ったということで、戦没者慰霊の考え方が甚だ先進的で、赤十字精神の先蹤であるという人もいる。

現代でも、明治日本の官軍が作った靖国神社はあくまでも官軍の犠牲者を弔うものであり、例えば西南戦争で戦死した薩摩の人間たちは国賊と見なされて今でも祀られていない。その慰霊の精神において、この六地蔵塔は靖国神社よりも遙かに人間的である。

ところで、義弘が建立したと伝わる六地蔵塔の作例を見ても、こういう三重の塔形式になっておらず、やっぱりこの六地蔵塔は変わっている。 この加世田の六地蔵塔は、日新斎が建てたものそのままでなく、建立後約50年で再建されたものらしいから、オリジナルの造形とは違う可能性もあるが、他の地に類例がないか探してみたいものである。

さて、以下ちょっとマニアックな話になるが、この六地蔵塔というのは何なのか、なぜ戦没者供養のために建てられたのか、ということについて少し語ってみたい。

まず、「六地蔵」というものが何なのか、ご存じだろうか。

そもそも地蔵菩薩というものは、ごく簡単に言えば「地獄に落ちた人を救う存在」だ。本来は、地獄には人々を救う菩薩や仏(如来)がいるはずがない。ひとたび地獄に落ちれば、鬼の獄卒から終わりなき責め苦を受け続けなくてはならない。仏は、地獄の世界に生まれ落ちることはないので、そこに救いは存在しないのである。しかしそういう地獄の衆生(人々)を救いに、わざわざそこへ赴く存在が地蔵菩薩であると考えられた。

地蔵は、地獄だけでなく、六道——地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、の6つの世界——を毎日巡って、そこで苦しむ人々を救い続けるとされた。生きとし生けるものは全て、前世の行いによってこの六道を輪廻し続け、それぞれの世界で苦しみや悩みに苛まれる。仏教の目標の一つは、この輪廻から抜け出して(解脱して)永遠の平安の境地にいたることであるが、地蔵は人々を救うためにあえて解脱せず、六道の世界を巡りながら人々を救っているのだ、という。

こういう観念が発達してくると、六道に対応して六種類の地蔵がいると考えられるようになり、やがて「六地蔵」というセットが成立してきた。ちなみに「六地蔵」という言葉の初出は、1110年代に三善為康が撰した『拾遺往生伝』という本。平安時代の後期のことである。

この六地蔵、すなわち六種類の地蔵が具体的に何であるか、というと数々の異説が唱えられて混乱しており一定しないが、有名なものとしては、
(1)地持地蔵、(2)陀羅尼地蔵、(3)宝生地蔵、(4)鶏亀地蔵、(5)宝性地蔵、(6)法印地蔵
の六地蔵であるといい、また別の説としては、
(1)護讃地蔵、(2)辨尼地蔵、(3)破勝地蔵、(4)延命地蔵、(5)不休息地蔵、(6)讃龍地蔵
の六地蔵であるという。しかもややこしいことには、これらが六道のどの世界に対応しているのかは詳らかでないのである(※)。平安の人々は、六つの地蔵菩薩を六道それぞれの世界ごとに区別することには、あまり関心がなかった模様である。

こうして、六体の地蔵がまとめて建立されるようになって、各所に六地蔵が安置されるようになると、今度は「六地蔵巡り」という一種の巡礼がなされるようになった。 これは最初には、六カ所の六地蔵を巡ることだったようで、すなわち計36体の地蔵菩薩を拝むことだったらしい。この六地蔵巡りは、やがて簡略化されていって、六カ所にあるそれぞれ一体ずつの地蔵を巡っていくという風になっていく。例えば京都に残る「洛陽六地蔵巡り」というのがそれである。

どうして平安後期から戦国時代にかけて地蔵信仰が盛り上がったのかというと、一つは救い主のない末法の代であると認識されたからであるが、やはり大きな影響があったのは戦乱の時代であったからであろう。当然、戦争になれば人を騙したり殺したりする。そうなると、人間はどうしても地獄に落ちざるを得ない。地獄というものが、今よりもずっとリアリティを持って感じられていた時代であるから、特に武士階級には、死後の世界での責め苦というものが怖ろしく思われていた。

であるから、地獄に落ちた人をこそ救ってくれる、地蔵菩薩が信仰を集めるのである。そして、生きているうちに拝むならば六地蔵巡りもよいが、死後に弔うことを考えると六地蔵はまとまっていた方がよいということで、一度にお参りできるように六地蔵を彫り込んだ六地蔵塔というものが考案されたのだろう。島津日新斎忠良が加世田に六地蔵を建立したのも、戦乱で殺生の罪を重ね、地獄に落ちた敵味方の魂を救うためであった。

日新斎の敵味方なくの戦没者慰霊は、おそらく仏道の思想に基づくものであったが、この時代に六地蔵の建立が流行したのは、もしかしたら古くからある「怨霊鎮魂」の新しい形だったのかもしれない。

日本では昔から、非業の死を遂げたり、戦乱で死んだ場合など、異常な死に方をした人の魂は浮かばれないものとされ、怨霊となって現世に悪影響を及ぼすという考え方(御霊信仰)があった。例えば讒言にあって太宰府で死んだ菅原道真は怨霊になり都に天変地異を引き起こしたし、平将門の首塚の祟りは現代においてすら恐れられている。

そういう浮かばれない霊が現世に悪さをしないように篤く祀ることが「怨霊鎮魂」であり、それで菅原道真を祀る北野天満宮ができたり、神田明神で平将門を祀るようになったりした。

こういう神社が、例えば徳川家康を祀る日光東照宮と違うのは、これらが「敗者」を祀る神社であるということである。勝者を神格化するのは世界的に共通な現象であると思うが、敗者こそ神格化され、篤く祀らねばならないと考えたのが「怨霊鎮魂」という思想の独自性ではなかろうか。この思想が、六地蔵塔建立の背後にあるような気がする。

私は、現代にこそ「怨霊鎮魂」が必要だと、常々思っている。現代でも、声なきもの、弱いものは蹂躙され、死に、忘れられていく。見て見ぬふりをされ、なかったことにされていく。勝者が空前の繁栄を謳歌する一方で、敗者は社会の矛盾の全てを背負わされ、つじつま合わせのために消費される。現代は、ある意味では戦国時代と似たところがあるのかもしれない。日常生活においては武力こそ使われないが、資本主義のルールに基づいた、弱肉強食の世界——。

島津日新斎は、戦乱で死んだものたちを、敵味方なく供養した。では、現代の資本主義のルールでゲームに負けたものたちを、誰が供養してくれるのだろう? 供養しなければ、彼らは怨霊となって天変怪異を引き起こすのではないだろうか?

怨霊、などというと、人は非科学的と嗤うかもしれない。しかし敗者たちの魂を忘れなかった昔の人たちの方が、よほど人間的であった。死んだらそれでおしまい、とばかりに、都合の悪いことを押しつけられて死んでいった人たちが現代にどれだけいるのだろう。水俣病、ハンセン病、アスベスト中毒、薬害エイズ…、挙げていったらキリがない。被害者が全員死んだら問題も解決、みたいに待っている誰かがいやしないか?

私たちの社会は、勝者に憧れるばかりで敗者のことを無視しすぎた。今こそ、現代社会の敗者を弔う六地蔵塔を、この社会に建立すべきである。


※1この他、預天賀地地蔵、放光王地蔵、金剛幢地蔵、金剛悲地蔵、金剛宝地蔵、金剛願地蔵、という六地蔵も多い。

【参考文献】
『地蔵尊の研究』1969年、真鍋廣濟

2017年1月1日日曜日

お得じゃない「ふるさと納税」はいかが

先日、南さつま市への2017年のふるさと納税が10億円を突破したというニュースがあった。とてもめでたく、頼もしいことである。

ふるさと納税をすると、南さつま市の場合は返礼率が4割なので、市内で製造された返礼品が4億円分消費されたということになり、こういう小さい自治体としてはそれだけでも大きな経済効果になっている(正確には、返礼品をみんながすぐに注文するわけではないが計算上の話)。

実は、私が無農薬・無化学肥料で栽培しているポンカンも、今年からふるさと納税の返礼品のラインナップに加えてもらっていた。上記のような状況であるから、担当の方も「すぐに完売すると思いますよ!」との強気の姿勢であったが、いざ蓋を開けてみると、うーん、それほどの引き合いはなかった模様。やっぱりポンカンだけ9kgもはいらないということだろうか……。

私が出品しているこのポンカン、ちょっと他とは違う特色があるので、このあたりでちょっと宣伝しておきたいと思う。「ふるさと納税の宣伝なら年内にしないと意味ないでしょ!」というツッコミもあるだろうが、以下をお読みいただければ分かる通り、これはお得な情報というより、むしろその逆をいっている宣伝なのでそこは何の問題もない。

さて、私はポンカンを「樹上完熟の"自然派"ポンカン」という名称で出品していて、これは40ポイントで注文が可能である。この「ポイント」というのは、ふるさと納税を行った時に獲得できるもので、南さつま市の場合は1万円の寄附で40ポイントがもらえる。このポイントは、お金で換算すると1ポイント=100円に設定されているから、40ポイントというと4000円相当ということになる。

要するに、1万円ふるさと納税をすれば4000円分の品が注文できる仕組みになっており、私のポンカンも1箱4000円の返礼品になっているのである。

が、実はこのポンカンの注文があっても、私の口座には3500円しか入ってこないことになっている(なお送料は市が負担する)。では、差額の500円はどこへ行ってしまうのか?これは、もちろん市のフトコロに入るわけである。つまり、ふるさと納税で1万円寄附すると、普通は4000円分の返礼品が貰えるので、実質的には差し引き6000円の寄附ということになるが、私のポンカンを返礼品にした場合は、それより500円多く6500円分の寄附ができるのである!

これは、ほとんどの場合ウリにならない特色である。私のポンカンは他の返礼品より500円割高だ、と言っているのと同じなのだから。ふるさと納税の最近の過熱ぶりを見ると、返礼率を高めて、より得になるような仕組みが喧伝されているし、実際、返礼品については「地域の特産物」とかよりも、単純に「お得な」返礼品が人気だという。多くの人は「ふるさと納税」に「お得」を求めている。そもそも節税対策の意味合いが大きいのだし。

でも本来の趣旨から言えば、あくまでも返礼品はお礼の品であって、購入する「商品」ではない。そして南さつま市の発展を願ってふるさと納税してくださっている人からすれば、返礼品を充実させるよりも、自分が納税したお金が、ちゃんと有効に使われるということの方が重要な筈である。極論を言えば、返礼率は低い方がいいとすらいえるかもしれない。

というわけで、そういう気持ちを持った人は、私のポンカンを返礼品に選べば、たった500円だが余計に市に寄附できるわけだ。

美味しいお肉や新鮮なお魚、宝石みたいにキレイな果物なんかと比べると、私のポンカンは随分地味なものであるが、こういう特色もあるので、その方面に関心のある方は、どうぞお引き立てよろしくお願いします。

【南さつま市ふるさと納税特設サイト】樹上完熟の“自然派”ポンカン

2016年12月29日木曜日

鹿児島でのポンカン栽培のはじまり

鹿児島の人は「ポンカン」というとなじみ深い果物だと思うが、全国的にみたらどうだろう。「知らないわけじゃないが、あまりイメージはない」くらいではないかと思う。

今は甘みの強い柑橘が品種改良によってたくさん生みだされているので、ポンカンの肩身が狭くなるのも当然であるが、実はこのポンカンという果実、かつては「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたくらい、美味しい柑橘として名を馳せたらしい。

ポンカンが日本に紹介されたのは明治29年(1896年)のことである。鹿児島出身の軍人で台湾の初代総督、樺山資紀(かばやま・すけのり)が赴任先の台湾から郷里鹿児島にポンカンの苗木を送ったのを嚆矢とする。ポンカンはインド原産とされるが、日本には台湾を通じてまず鹿児島に入ってきた。これには、台湾併合という国際関係と、初代台湾総督が鹿児島出身だったという偶然が絡んでいるわけだ。

しかしながら、樺山が送った苗木からポンカン栽培が広がったかというと、そうでもなさそうである。当時の鹿児島は「勧業知事」と後に讃えられる加納久宣(かのう・ひさよし)が知事を務めていた時代。現在の鹿児島の柑橘産業の原型をつくったのが加納その人であった。ところが加納の事績を調べてみても、樺山が送ったポンカンの苗木についての言及は全くなく、少なくともこの苗木が大々的に増殖されたり頒布されたりということはなかったようだ。

では、このころ鹿児島の柑橘産業はどういう状態にあったかというと、和歌山などの主要産地から大きく後れを取っていて、まだまだ自家消費的な段階に留まっていた。加納はこれを産業的なものにしていこうと、私財をなげうって苗木の頒布や模範果樹園の創設などに取り組んで栽培を拡大していこうとしていたが、加納が奨励していた品種は「薩摩ミカン」「クネンボ」「金柑」「夏ダイダイ」であり、後に「温州ミカン」がこれらに置き換わっていく。要するにこの段階ではポンカンは眼中になかった。他産地に追いつくことを主眼としていたこの時代、新品種で未知数な部分があったポンカンを組織的に推進していくのはリスクが大きいと判断されたのかもしれない。

しかしながら、「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたほどの果物である。その評判はいつのまにか広がっていった。台湾を植民地にしていた時代であり、台湾との人の行き来がかなりあったことも影響しているのだろう、大正中期から昭和初期にかけて、鹿児島各地の多くの篤農家が直接台湾から苗木を取り寄せている。だが組織的に苗木を導入したわけではないため、この頃台湾からやってきた苗木は十分に吟味されずにいろいろなものが混ざっていた。

果樹の苗木には「系統」というものがあって、同じポンカンといっても樹ごとに様々な個性がある。新品種の導入にあたっては、収量が多く、病害虫に強く、美味しい実をつける樹を選んで、それを接ぎ木で増殖させることがポイントだ。この頃来た苗木は、おそらく農家がツテを頼って台湾から送ってもらったものであるから、系統も不明なものが多く玉石混淆の状態であった。

こういう状態が整理されたのが昭和9年(1934年)、鹿児島県農業試験場 垂水柑橘分場長の池田基と県議会副議長の奥亀一が、系統のはっきりした優良な苗木を導入してからのことで、これで栽培が徐々に広がっていくことになる。このころ、ポンカンは温州ミカンの4〜5倍の値段がしたというから、よほど珍重されたものだと思う。

ところが、それでも栽培は一気には広がっていかなかったようである。各地のポンカン栽培の歴史を概観してみると、導入が散発的であることが見て取れる。考えてみると、この頃は戦争が近づいていたこともあり美味しさよりも食糧増産が叫ばれる時代であったし、結果が不透明な新参者の果樹にあえて取り組んでみようという普通の農家は少なく、あくまでも篤農家の試みに留まっていたのだろう。

というわけで、鹿児島でポンカンが広く普及するのは戦後になってからである。

我が大浦町にポンカンが導入されたのも戦後のことで、太平洋戦争で台湾に派兵されていた人たちが、「台湾にすごく美味しいミカンがあった」といって引き上げてからポンカンの栽培に取り組んだと言う。隣の坊津町では、昭和4年に台湾から苗木を取り寄せて栽培が始まり、昭和10年には中野三太郎という篤農家が優良系統のポンカン苗木を取り寄せて品質向上にまで取り組んでいたというのに、坊津からの情報ではなく台湾での見聞がきっかけになっているあたり、意外な感じがするがリアリティがある話である。

当時、大浦で町長をしていたのが、実は私の祖父である窪 精造。祖父はポンカン栽培の振興を企図し、町民に苗木を頒布するため自分の田んぼをつぶしてたくさんのポンカン苗木を育成したたという話である。これが昭和30年代の後半だ。この頃の苗木は、少なくとも大浦では系統が不明で一括して「在来」と呼ばれている。

ちなみに昭和34年〜35年に鹿児島県も大々的なポンカン栽培振興を行ったが、この時に頒布した苗木はなぜか福岡などから導入していて、しかも系統が優良なものばかりでなかった。そのために産地間の収量や品質の差が甚だしかったという。坊津町の「中野」(この頃は、系統をその園主の名で呼んでいた)などは優良な系統で、後に皇室に献上されることになる「大里ポンカン」もこの「中野」から生まれている。どうしてそういう優良品種を選定しなかったのか謎である。

ともかく、鹿児島県のポンカン栽培のはじまりにおいては、昭和も中頃まで品種・系統がはっきりしない苗木が多くそのために混乱があったようだ。しかし品種・系統がはっきりしない苗木が多かったということは、多くの人がわざわざ台湾から苗木を取り寄せて自然発生的にポンカン栽培に取り組んだことの証左でもある。それくらい、ポンカンという果物には魅力があったのだ。

こうして、かつての篤農家が熱望したポンカンという果物は、鹿児島での栽培開始から100年以上経ち、もはや台湾からやってきた果物であるというイメージすらなくなるほど、鹿児島に根を下ろしている。その人気はかつてほどはないが、ポンカンには柑橘の品種改良がなされる以前の野性的な美味しさがあり、爽やかな香りは柑橘類の中でも独特である。決して時代遅れの果物ではないと思う。

で、ここからは宣伝であるが、私はこちらに移住してきてから、昭和30年代に植えられたであろう「在来」の野性味溢れる樹の園を引き継いで、ポンカン栽培をスタートした。2014年からは無農薬・無化学肥料の管理に切り替えて、最初はうまく出来なかったが、最近では虫害も病害もほとんど出ないようになり、今年は栽培開始以来の豊作が見込まれている。

これはいいことではあるものの、私のように個人販売しているものにとっては、通常よりもたくさんの収穫があるということは、通常より多くのお客さんを見つけなければならないということだから、これはこれで大変である。営業の苦手な私にとってはなおさらだ。

というわけで、インターネットショップ「南薩の田舎暮らし」では私がつくった「無農薬・無化学肥料のポンカン」を販売中なので、ぜひお買い求めいただけますようお願いします!

なお、業者の方への卸販売もいたしておりますので、ご要望があれば「南薩の田舎暮らし」問い合わせページにてご連絡ください。

↓ご購入はこちらから。
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のポンカン
9kg@3500円/4.5kg@1750円/3kg@1350円
送料別(400円〜)、クレジットカード利用可

【参考文献】
「鹿児島県主産地におけるポンカンの導入経路調査と優良系統の探索について」1985年、岩堀 修一・桑波田 竜沢・大畑 徳輔

2016年12月19日月曜日

「砂の祭典」を一緒にかき混ぜませんか?

以前書いたように、私は「吹上浜 砂の祭典」の実施推進本部というののメンバーになった。それで最初の会議で強く主張したことがいくつかあるが、そのうち一つが主催者側のメンバー公募である。

何しろ、ごく僅かの例外を除いて、「砂の祭典」に関わっている人たち(=各部会の部員)は、ほとんど当て職的にメンバーにさせられていて、「やりたくてやっている人」というのがものすごく少ない。こう言っては何だが、「毎年のことだからしょうがないよねー」というような気持ちでやむなく席に着いている人が多いような気がしている。

でも、そんなので面白いイベントができるわけがない。主催者側が楽しんでやっていないものを、お客さんが楽しむわけがないのである。

そしてもう一つ大事なことは、イベントでも何でも、やっている人が同じである以上、結果も同じにしかならないということである。今までの「砂の祭典」がまるでダメというつもりはないが、数々の課題を抱えているのも事実である。次回は第30回の記念大会ということで改革の道を踏み出すいい機会である。ここらで、新メンバーを入れることには意味があると思う。

そういうことで、メンバー公募をやるべきという主張をしたら、それがすんなりと通って、私も最近気づいたが「砂の祭典」のWEBサイトに下のように掲示されていた。

2017吹上浜砂の祭典を一緒に盛り上げよう! 

吹上浜砂の祭典実行委員会から南さつま市に関連する団体・会社若しくは南さつま市民の方へお知らせいたします。
吹上浜砂の祭典は2017年に30回の節目の年を迎えます。この機会に砂の祭典に携わってみたい方を募集いたします。業務内容については別添資料(6部会の業務内容)をご覧ください。申込期限については12月28日締め切りといたします。
詳しくは吹上浜砂の祭典実行委員会事務局へお尋ねください。積極的な参加をお待ちしております。

連絡先→吹上浜砂の祭典実行委員会
〒897-8501 鹿児島県南さつま市加世田川畑2648番地
(南さつま市役所観光交流課内)
 TEL:0993-53-2111←市役所の代表電話
 FAX:0993-53-5465
砂の祭典WEBサイトより引用

ちなみに、ここの別添資料(xls)に掲げられた部会は以下の通り。(1)総務部会、(2)広報部会、(3)イベント部会、(4)砂像部会、(5)施設部会、(6)物産部会。このうち、私自身は(2)広報部会に在席することになった。

それで、先日広報部会が開催されたので出席してきたが、「基本的に例年通りのことをやりましょう」という話だったので呆れてしまった。前年までの反省も、今回の目標も、何もない。驚くべきことに、予算書すら出てこない。広報に、一体いくらの予算をかけられるのかも分からない。そんな中で、どうやって広報の実施計画を立てればよいというのだろう。

例えば、広報の予算が200万円あって、それをどう使えば効果的に広報できるだろうか? と考えるのが企画ではないのか。逆に、誰に訴えたいのか、どれくらいの人に届けたいのか、そのためにはいくら予算が必要なのか? それを考えるのが企画ではないのか。どちらからでもいいが、目的と予算があって、目的を達成するために何をすべきなのか考えるのが我々の仕事なのではないかと思う。

それなのに、「前年通りやりましょう」以外のこともなく、いきなりチラシ配りに行く人員の話などするからおかしくなる。これまでの反省を踏まえ、課題を抽出し、目標を設定し、限られた予算をどう使うかと頭をひねる。そういう当たり前のことがこのイベントには全く欠けている。私は、イベントを盛り上げるアイデアは全然湧いてこないつまらない人間であるが、こういう当たり前のことを当たり前にするだけで、物事というのはどんどんよくなっていくという信念がある。

だから、会議の場でも一人でギャーギャーわめいてきたところである。正直、そのわめきがどれだけ受け止められていたかは自信がない。でも、必要以上の「熱量」をもって主張したつもりである。というのは、こういうマンネリズムに陥った場を変えるのは、グッドアイデアでもなければ、非の打ち所がない正論でもないからだ。 いくら「なるほどなー」という的確な意見を述べても納得されるのはその場限りで、いつのまにか「前年通りやりましょう」の波に押されてしまうものである。

つまるところ、こういう場を変えられるのは、一人の人間の「熱意」しかないのである。主張が完全には理解されなくても、「○○さんがあそこまで言ってるんだから、ちょっとはやんなきゃな」という気持ちにさせたら勝ちである。

そして、そんな人が二人三人といたら、場が変わっていかないわけがない。というわけで、このメンバー公募も既に期限が迫っている状態であるが、我こそはと思う人はぜひ砂の祭典事務局へと申し出てほしい。

私としては、むしろ「アンチ砂の祭典派」の人にこそ入ってもらったらいいのではないかと思う。思う存分、場をかき乱していただきたい。といっても、「砂の祭典大好き」な人だったらなおさら歓迎なのは言うまでもない。よろしくお願いいたします!

2016年12月15日木曜日

農業と「人文知」

先日、「石蔵古本市」というイベントを開催した。

これについての詳細はいずれ書くオフィシャルブログの記事に任せることにして、今日はちょっと言い訳を書いてみようと思う。

というのは、私の本業は言うまでもなく農業である。そして12月は、南薩の農家は忙しい。かぼちゃの収穫はしなくてはならないし、柑橘類の収穫準備もある、すぐそこまで来ている霜の季節に備える作業もしなくてはならない。読書のような「道楽」に興じている暇はないのだ。それも、役に立つ実用書ではなくて、思想や文学や歴史といった人文の本に!

が、農業にとって、こういう「人文知」がただの道楽かというと、実はそうでもない。それどころか、農業にとっては必要不可欠だとすら言えるのである。

それをわきまえていたのが、「少年よ、大志を抱け」で有名なウィリアム・S・クラークだ。

クラークは、明治9年の札幌農学校(北海道大学農学部の前身)の開校にあたりアメリカから招聘された。それまでは「開拓使仮学校」というのが東京に設けられ、開校準備にあたる教育を行っていたがどうもうまくいかない。実地の経験が不足して教育が学理に傾き、「農学校」であるにも関わらず専門的教育があまり行われていなかったのである。その反省に基づいて農学校の形を作っていくことが、教頭兼農場長に任命されたクラークの使命だった。

クラークの赴任期間は僅か8ヶ月という短いものだったが、その間に彼は同校の事実上の統率者としてアメリカ流の開拓者教育を行った。

ちなみに明治政府はこの頃、イギリスやドイツから次々と農学者を招聘するが、何百年も耕してきた土地の生産性をさらに上げるための農業と、森林を切り拓いて畑にしていく農業は自ずから異なるのは当然で、北海道開拓にはイギリスやドイツの進んだ農学は役に立たなかった。北海道に必要とそれたのは、まだまだ未開の沃野に溢れていたアメリカの、どんどん開拓していく農学だったのである。であるから、当時の日本は全体としてはヨーロッパ農学の輸入に努めながらも、北海道だけはアメリカ農学を基準として農業振興・開拓が進められていくことになる。これは後々まで続く北海道農業の特異性の基礎になった。

さて、そのクラークの教育を一言で言えば、「キリスト教に依拠する開拓者精神の鼓吹」ということになる。彼の教育は常に具体的・実践的であり、しかも教育の主眼は「心田(しんでん)」の耕耘にあった。同じ頃東京で、駒場農学校(東京大学農学部の前身)が現実の課題と遊離した象牙の塔的な農学を構築しつつあったのとは対蹠的に、札幌農学校では北海道の実地調査を行って開拓の課題を探り、それを教育に活かして行くという取り組みをしていた。要するに、クラークは学生たちに現実を変えていくための精神力とそれに見合う技能・知識をつけようとしていたのである。

といっても、クラークが「何が何でも根性で乗り切れ」的な根性論の開拓者精神を植え付けようとしていたと誤解してはならない。むしろ彼はそういう精神論はよくないと考えていたフシがある。例えば、クラークは学生の農業実習には労働時間に応じて賃金を与えた。農業実習といえば勉強であるから無給は当然と考えられていたが、これは学生たちに固着していた古い観念を大いに払拭したという。労働を精神の面からのみ見るのではなく、しっかり実利とセットで見せようとしたクラーク流のやり方だった。

クラークに期待されていたのは、こうした実用的な教育であったが、意外なことに彼は英文学史や心理学といった人文関係の諸科目に大きなウエイトを置いた。具体的・実践的な技能や知識の教授とあわせて、こうした人文教育はクラークの「全人教育」の要諦でもあった。

ところで、「農学栄えて、農業滅ぶ」という有名な言葉がある。これは、いろんな人がいろんな解説をしているが、要するに、「現実の農業が抱えている課題は切実なものなのに、農学者はそんなことをお構いなしに自分の研究に邁進するばかりだから、どんどん研究成果は出るかもしれないが実際には役に立たずに農業は衰退していく」というようなことを短い警句にまとめたものである。

【参考】やまひこブログ
↑「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉について徹底的な調査をしているブログ

例えば、現在の農業の抱えている課題というと高齢化とか人手不足であるが、農学はそれに対してどのようなアプローチをしているだろうか。この課題に対し、高齢者でも農作業が楽に出来るように、ということでパワースーツのようなものの開発が進められているようだが、モノを持ち上げるだけのことに何十万円もするパワースーツを買わなければならないとしたら、そんな農業はやっていけないのは自明である。必要なのはパワースーツの開発よりも、省力的に栽培できる作物なのかもしれないし、新規参入者を促す農業のやり方なのかもしれない。とにかく、普通の農家が現実的に導入できるものでないと役に立たないのである。

これが、実学としての農学がいつも対峙しなくてはならない視点であって、どんなに学理が進んでも、普通の農家に応用出来ない限り、どんな高度な技術も知識も役に立たない。ところが実際には、研究をしているうちに目的が(悪い意味で)「真理の探究」とか「限りない品質向上」とかになり、現実と遊離していくというのが、これまでの農学が辿ってきたお決まりのパターンなのである。それを戒めたのが「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉である。

クラークが人文教育を重視したのも、この言葉の戒めるものと同根であろう。農業に必要となる技術・知識、それはもちろん身につけなくてはならない。しかしそれを一歩下がった立場で冷静に見つめる目、それがなかったら、人間は技術や知識を絶対のものとして、それを使うことに疑問を持たなくなる。言い換えると、進むことしか知らない人間になってしまう。時には、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすることが必要だ。そうでないと、普段の仕事では見落としがちな、別のやり方、別の目的、別の生き方を選択することができなくなる。

そもそも農業というのはサラリーマン仕事とは違って、生活と一体化しているところがある。農業をよくしていくというのは、農家の生活を良くしていくこととほとんど同義である。農業の生産性の向上というのは、ただ農作業のうまいやり方を開発することではなくて、農家の生き方そのものをよくしていくものでなければならない。そういう視点で農業を改善していこうと思ったら、農学だけをいくら学んでいてもダメで、農業そのもののあり方に疑問を突きつけ、人間の生き方を再考し、自分の在り方に再検討を加えていかなくてはならない。そのためには、思想や文学や歴史——「人文知」が必要なのである。

しかし、クラークの後継者たちはこれを十分に理解しなかった。クラークが充実させた人文系の学科は、彼の転籍後には徐々に縮小されていく。例えば、「心理学」と「倫理学」は廃されて「歴史哲学」となり、後にこれは「欧州史」となって、明治24年には遂に「農業史」となってしまった。人文系の学科は非実用的な「形而上学」と見なされ、そうしたものを難ずる世間の風潮に押されて消えていったのであった。

だがその後の歴史、太平洋戦争まで進んでいく我が国の突撃と玉砕の歴史を見れば、クラークが重視した非実用的な「形而上学」こそが必要なものだったことは明瞭である。時代が大正、昭和と進むと、「人文知」のような「平和的」な学問はどんどん立場が弱くなり、「歩兵術」のような「実用的」なカリキュラムに置き換わっていった。哲学や文学の学徒は「穀潰し」と難ぜられ、白い目で見られるようになった。そして誰も、立ち止まって物事の本質を考えるということをしない社会になっていた。その場しのぎで「実用的」なことをやるだけで、無駄なものは何一つ出さないように社会が切り詰められていった。

でも、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、それができなくなったら、農学のみならず社会の発展は望めない。それが人間の営為そのものだからである。ひたすらに進んでいく農業、ひたすらに進んでいく社会、ひたすらに進んでいく国というのは、もはや衰退の一途を辿るしかない。

一日一日働くこと、それは素敵なことだ、と私は思う。私は仕事が好きである。しかしふとその手を休めて、本当にそれでよいのか自省する自分をいつも持っていたい。そのためには、「人文知」が必要なのだ。時には哲人皇帝マルクス=アウレリーウスの独白に耳を傾けたり、道元の禅へ思いを馳せたり、バルザックの描く人間模様に浸ってみたりしなくてはならない。そういう、普段の生活では絶対に味わえない人間性の高みへと出かけていって、自分の暮らしを俯瞰してみないことには、一体自分たちが今どこへ向かっているのかも分からなくなってしまうからだ。

だから私は、農業にも「人文知」は絶対不可欠だと思うのだ。クラークがそう確信していたように。そして道楽も、時々は必要である。立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、そのためのきっかけをくれるのが、道楽なのである。

【参考文献】
『日本農学史—近代農学形成期の研究—』1968年、斎藤之男 

2016年11月29日火曜日

「本で町を豊かにする」

今、すっごく行ってみたい古本屋がある。

長野県上田市にある「NABO(ネイボ)」というブックカフェである。

ここは、古本業界の風雲児「バリューブックス」が経営する古本屋だ。Amazonで本を買う人なら、「Vaboo」という古本(やCDとか)の買取サービスを一度は見たことがあると思う。この「Vaboo」をやっているのが「バリューブックス」という会社である。

この会社、基本的にはAmazonで古本を売る、ということに特化した古本屋で、2007年の設立以来、急速に成長を遂げてきた。本の在庫は約180万冊もある(2016年11月現在)。これは、ちょっとやそっとの図書館では太刀打ちできないような量である。もちろん図書館とは違って重複資料がほとんどだろうから、単純には比べられないが、蔵書数だけでいったら、国内最大の公立図書館である東京都立図書館と同じ規模なのだ。

「バリューブックス」は、長野県上田市にある。でも実は、設立当初には確か東京が拠点だったはずである。 でも商売がどんどん拡大するにつれて、倉庫費用の安い長野に完全に移っていった。ドデカい倉庫が必要だからである。それに、インターネットを通じて商売をする以上、どこの街で商売をするかは関係がなく、東京に拠点がある意味もほとんどない。

古本屋は、基本的には儲からない商売である。恥ずかしながら、私も若い頃に古本屋(正確に言えばブックカフェ)を経営することを考えたことがある。でもどう考えても利益がでない。当時は古本業界のことをよく分かっていなかったから、今になって考えてみると随分間違った計算だったけれど、「死なない程度の暮らし」しかできないような商売だ、と思ってその考えは有耶無耶になってしまった。

ところが、「バリューブックス」はかなりの利益を現実に出している。社員15人、アルバイト300人、といった(古本屋としては度外れた)雇用を生んでいるし、何より、その大量の蔵書のほとんど(記憶では95%)が、1年以内に売れていくというのである。この蔵書の回転率は驚異的だ。私の知っているリアルの古本屋では、こんなどんどん変わっていく書棚は見たことがない。

……とまあ、この「バリューブックス」の風雲児っぷりは、インターネットでちょっと調べればどんどん出てくるはずなのでこのあたりで辞めることにしよう。とにかく、ここはインターネット(特にAmazon)専門の非リアル古書店として、大成功している会社なのである。

この波は、既存の古書店も避けることはできない。聞くところによると、鹿児島の古書店も9割(!)は、実店舗を廃業させ、インターネット専業の形態へと移行してしまったそうである。実際、リアルの古書店を開いているより、インターネットに出品する方がコンスタントに売れるのだから、そこに比重が移っていくのは無理からぬことである。正直言って、私も本の半分くらいはインターネットで買っているし(地元の本屋さんすいません)、ある面ではリアル書店(新刊・古書店共に)はインターネットに太刀打ちできない。

さらに正直言うと、このド田舎に移住してきたのも、「いざとなればインターネットで大抵のものは手に入るだろう」という気安さがあってこそであって、多分、Amaonがなかったら、私はまだ首都圏で働いていただろうと思う。

では、このまま古本業界はインターネットに飲み込まれていくのか、というと、どうだろう。そこがわからないところである。理屈で言えば、凡百のリアル古本屋が生き残っていく道はなさそうだ。最近では、ブックオフですらインターネット出品の比重を大きくしてきていて、もはやリアル店舗での古本販売は余技に近い雰囲気が感じられる。

ところが、例の「バリューブックス」、2014年に初のリアル古書店「NABO」をオープンさせた。全然儲からないはずの実店舗の古書店を。そしてこの店のテーマがいい。「本で町を豊かにする」だそうだ。そうそう、それだよ! と膝を打つテーマではないか。

「バリューブックス」は、「本を通して、人の生活を豊かにする」というコンセプトを掲げていて、これはこれで素晴らしい。が、悪く言えば当たり前のことである。それこそが読書の効用そのもの、と言えるのだから。

でも、「本で町を豊かにする」は、かなり野心的な言葉である。「本で社会を豊かにする」みたいなもっと広漠とした言い方なら、逆に穏当な言葉と思えるが、ここで話題になっているのは、まさにこの会社が所在する、「長野県上田市」を豊かにしようという宣言なのだから。

そしてこの言葉、ただ言ってるだけの空文ではなくて、実際に「NABO」は町を豊かにする取り組みをしているようである。例えば、180万冊の蔵書を活かして、「NABO」では3ヶ月に一度、棚の本の全取っ替えをするそうだ。それだけで、町の知性を刺激するクリエイティブな行為だと、私は思う。その他、「NABO」は実験の場と位置づけられて本に関するイベントなどを積極的に開催しているらしい。

では、どうして、ネット専業の風雲児たる「バリューブックス」は、わざわざリアル古書店をオープンさせたんだろうか? 一つは、(つまらない考えだけれど)税金対策で、どうせ利益が税金でもって行かれるなら、損失は織り込み済みで面白い店舗をつくってみようという、経営判断があると思う。行ってみないと本当のところは分からないが、たぶん、この店舗単体で利益を出すようなビジネスモデルにはなっていないと思う。

でももう一つには、やっぱり、実際に本を読む人と、直截のつながりを持ちたい、という、人として当たり前の考えがあるのではないだろうか。

インターネット専門の古書店の仕事は、データの入力と発送作業がメインになるが、ほとんどは機械的な作業の連続で、それあたかも工場のベルトコンベア式のそれと変わるところがないと想像される。ベルトコンベアが悪いとかいうつもりはないが、こういう仕事ばかりしていると、「なんのために仕事してるんだろ」的な気持ちになってくる。

純粋に利益のために仕事をするならそれでもいいかもしれないが、(そこで働いているに違いない)本好きな人たちは、それで満足できるような人たちではない、というのもまた事実である。

本は、人生にある種の「化学反応」を起こす力がある。人に本を紹介する、ということは、その「化学反応」の発端になるかもしれない、という行為だし、そうであればその結果を見届けたいと思う。小さな「化学反応」は、ほんの少しのエネルギーを放出して、それが次の「化学反応」を起こすかもしれない。いつしか、それは「連鎖反応」になって、本当に「町を豊かに」するかもしれないのである。

実際に、私はある一冊の本が奇縁になって、一人の女性と出会い、その人と結婚したという実績(!)がある。その一冊の本がなければ、私は全然違う人生を送っていただろう。本を読むと賢くなるとか、ものしりになれるとか、感受性が豊かになる、といった煽り文句(?)はほとんど嘘だと思うが、「本は人生を豊かにする」は本当のことだ。

でもこれは、インターネットの画面を見てみても、窺い知ることはできないことである。どうしても、本は物理的な場所に置かれ、そこに誰かが訪れなくては、物語は始まらない。効率的に最安値の古本を探すならインターネットで検索すればよいが、「化学反応」を起こすような本を手に取るためには、絶対に物理的な舞台が必要なのだ。

といっても、「NABO」が実際には何のためにつくられた店なのかは知らない。私の妄想なんか、ものの数に入らないくらい高度な戦略に基づいてつくられた店かもしれないし、逆にただの勢いでつくった店なのかもしれない。でも、実際に行って見てみたら、インターネット専門古書店の先にある何かが見えそうな気がして、興味が湧くのである。

既に案内しているとおり、私は今年の12月に「石蔵古本市」という古書販売のイベントを主催する。ここに出店していただく5軒の古本屋も、営業のメインはインターネットであると思われる。そのうち1店舗、加世田の「特価書店」は、かつてはリアル店舗で営業していたが、今やインターネット専業になった店だ。

新刊書店の撤退という波と相まって、街からはどんどん本が失われていっている。インターネットで買えるからいいじゃん、と思っていたらいけないような気がする。なぜかは知らないが南薩はもともと古本屋の不毛地帯で、以前から古本屋は少ないのだが、これではつまらないと思う。

私は単純に、本がある風景、本がある街、本がある人生が好きなのだ。たぶん「本」そのものよりも。 「本」もそれなりに読むが、愛書家かといわれたら違うと思うし、それに読む本の数も読書家と言えるほどのものではない。正直、「本好き」のカテゴリには入らないと思う。でも一冊の本をポケットに忍ばせる行為が、大好きなのだ。

「NABO」の試みになぞらえるわけではないが、ド田舎で古書市を開催してみようというのは、私なりにこれからの「本と街」の姿を見たいと思う、密かな企みである。どうせ市を開催するなら、人がたくさん来る街中でやる方がいいに決まっている。でも、これは、合理的に検討して、戦略的に決定した開催地ではない。ただ、自分の街で古書市をやりたいという、もっと人として原初的な欲望に基づいた企画なのである。

だからあんまり偉そうなことは言わないようにしよう。あるべき本と街の関係とか。これからの書店業界がどうあるべきかとか。そもそも部外者なんだし。いや、古書店関係者でもなんでもない、ただの百姓である私が、古本市を主催するということ自体がおこがましい。

ただ、私としては、ほんのいっときでも、我が南さつま市に、本が集う風景を、出現させたいだけなのかもしれない。そして、ぜひ、これを読んでいるあなたにも、その風景の一部になってもらいたい。

【情報】
「石蔵古本市—万世*丁子屋石蔵」
日時:12月9日(金)-12日(月)10:00-17:00(初日13:00〜、最終日〜15:00)
場所 :南さつま市加世田万世 丁子屋石蔵
参加古書店:あづさ書店 西駅店泡沫(うたかた)古書リゼット(レトロフト内)特価書店つばめ文庫
協力:南さつま市立図書館(12月11日(日)11:00より、会場にて除籍本の無料配布を開催) 
主催:南薩の田舎暮らし
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。

2016年11月24日木曜日

11月25日(金)カタルバーで、「田舎工学序説」再び

11月25日(金)、天文館のKENTA STOREで行われる「KATARU bar(カタルバー)」というイベントに出る。

実は私も行ったことがないが、カタルバーはこれまで6回開催されていて、要するに、ゲストを招いて、そのゲストを中心に集まったメンバーで一緒にゆるく語りましょう、というイベントみたいである。私は今回、そのゲストになったわけだ。

正直言うと、私はこういうのに積極的に出るタイプではない。どちらかというと事務方タイプというか、裏方で地味な作業をするのが好きである。まあ、人と会うのは嫌いではない。割と出会いを楽しむタイプだとは思う。でも実を言うと、初対面の人と内容のある話をするのが苦手で、無難な話題で終始してしまうところがある。要するに、こういう場にいても、つまらない人間かもしれない。

そんな私がなんでわざわざこのイベントに出ることになったか、というと、ぶっちゃけて言うと「営業」のためなんである。「営業」というには実際は緩すぎるかもしれないので、もう少し適切な言葉でいうと「プロモーション」である。

というのは、我が「南薩の田舎暮らし」、割と販売に苦しんでいるわけだ。

特に加工食品の中心商材である「南薩コンフィチュール」(ジャム)。自分で言うのも何だが割と評判はいい。地元ではかなり浸透してきたと思うし、物産館でも徐々に売れてきた。「とっても美味しかった!」というご感想をいただくことも多く、有り難いことである。

……が、これまで「売れる分だけ製造しよう」という安全策を取ってきたために、販路というものが未だにほとんど構築されていない。だから、評判がいい割には、売れ行きがよろしくない。当然である。売っている場所がほとんどないのだから!

インターネットでも販売しているが、送料の関係でこれはなかなか難しいので、やはりリアルの店舗で売られる必要がある。そのためには、まずは鹿児島市内では唯一、南薩の田舎暮らしの商品を置いていただいている「KENTA STORE」での販売が好成績にならなくてはいけない。闇雲に新規開拓をするより、今おつきあいある所でしっかり成功するのが大事だと思う(もちろん新規開拓も大事ですよ。卸先募集中!)。

というわけで、微力ながらKENTA STOREでの売上に貢献したいし、せめて顔見せすることで親近感を持ってもらおうという、そういう魂胆である。

でも実はこれも建前で、本当のことをいうと、自分へのプレッシャーというか、人前に出て「ちゃんとやんなきゃ」みたいな気持ちを再確認するという意味合いの方が本質かもしれない。なにしろ、普段は植物ばかり相手にしているので、なんだかちゃんとした社会生活が営めないほどにノンビリした感覚になりがちである(暇という意味では全然ないですよ)。いっちょここらで、「ビジネス」の荒波に揉まれておかないといけない。

当日は何を話すかというと、先日マルヤガーデンズで講演した「田舎工学序説」のスライドを再利用する。

再利用は手抜きかもしれないけれども、「行きたかったけど行けなかった」という声もチラホラとあったので、そういう人に向けて改めて話してみることにした。そもそも、カタルバーは何かを発表する場というよりは、雑談がメインと聞いている。酒の肴になればいいという程度に、自己紹介の代わりとしての「田舎工学序説」の説明をしたい。もちろん、(先日の講演でも言ったように)さらに突っ込んで「田舎工学」について聞きたい人が、疑問をぶつける場として捉えるのも結構である。

ということで、11月25日(金)にKENTA STOREにてお会いしましょう!

【情報】
KATARU bar #07
日時:11月25日(金) 19:00-22:00 ← ご都合のよい時間にくればOK

場所:KENTA STORE(天文館、こむらさきのちょっと先)
参加無料ですが、バーと言ってるくらいなので、たぶん飲み物をオーダーしていただくことになると思います(あやふやですいません)。 が、別にお酒を飲む必要はないです。というより私自身がノンアルコールです。あと、出来れば「南薩の田舎暮らし」の商品も買って下さいね!