2015年4月15日水曜日

無投票当選に想う(その1)

先日の統一地方選挙は、その結果はともかく非常に低い投票率が気になった。そしてもっと気になったのは、無投票当選の多さだ。私の住む南さつま選挙区でも無投票当選となってしまい選挙がなかったのは本当に残念だった。

議会の正統性の唯一の根拠は、「選挙によって選ばれた」議員にあるのだから、無投票当選が多くなってしまうことは、議会の正統性そのものを揺るがす事態である。

無投票当選が多いということは、単純には立候補者が少ないということである。また、投票率の低迷は地方議会への関心の低下を表している。人びとの関心が低いから立候補する人も少ないのだろう。ではどうして地方議会への関心は低下しているのだろうか?

私はその要因の一つに、議員と地域の関係性が変わってきていることがあると思う。

例えば、一昔前の県議会議員といえば「地域の利害を代弁する」という性格が強かった。特に、道路整備とか、港湾改修、県の重要施設の誘致など、公共土木事業の平等配分を実現するのが選挙区の県議会議員の重要な役目と思われていた。

もちろん今でもそういう性格はある(特に地元の土建業者との関係においては)。しかし一般の人は道路・河川・港湾等の整備は一巡したと感じており、もはやそれは重要政策だと考えていない。

そして公共土木工事以外の面でも、地域の実情はどこも驚くほど似てきている。もちろん鹿児島市中心部の抱えている課題と、我々の住んでいるような僻地の農村の課題は異なる。だが例えば僻地の農村の抱えている課題は、どこの地区であってもだいたい同じようなものである。

そういう観点でいうと、鹿児島ではだいたい5つの「地域類型」がある。すなわち(1)鹿児島市中心地域、(2)郊外(住宅街)、(3)地方小都市(鹿屋市、川内市など)、(4)農山漁村(大浦町など)、(5)離島、である。

これら5つの「地域類型」は地理的には散在しているが、地域ごとにその内実はかなり似通っている。我々が県議会議員に代弁してほしいと思っているのは、「ある特定地域の利害」というより、その居住地の属する類型での課題であろう。

そしてさらには、県議会議員に期待するのは、そういう類型を超えた、全県を見据えた政策課題への議論である。例えば前期議会では「上海線存続のための県職員派遣問題」が噴出した。また、さほど議論にはならなかったが原発再稼働問題もあった。そういう難しい政策課題に対して「地域の利害」を超えて真摯に審議してもらいたいというのが今の有権者の考え方のような気がする。

要は、「地域の利害の代弁」みたいな低レベルなことではなく、聞き応えのある政策議論をやってもらいたいというのが有権者の気持ちなのではないか。

しかし未だに選挙運動では「地域の皆さんの声を県政に反映させます!」みたいなことが叫ばれている。それは無意味ではないと思うが、予算のイス取りゲーム的な状況がなくなってしまった現在、時代遅れのメッセージだ。

政策議論を期待するならば、そういうことではなく、むしろ政治的立場の表明こそ全面に出すべきだ。福祉を充実させるのか、財政健全化を優先させるのか。統合・一律化を進めるのか、分化・多様化を進めるのか。再配分を重視するのか、それとも競争的環境を目指すのか、といったようなことである。

こうしたことは、個別の政策課題を語るだけでは決して出てこない軸である。なぜなら、福祉、教育、産業政策、少子化対策、弱者支援などなど、多くの政策課題について政治家が言うべきセリフはほぼ決まっていて、他の候補者と立場の差が出てくるところはほとんどないからである(××は重要です! というに決まっている)。

つまり、有権者が見極めるべき候補者の「政治的立場」は現在の選挙ではほとんど語られていない。そういうセンシティブな立場の表明をあえてしなくても、現在の選挙運動では特に問題にならないので当然のことである。

このように、「地域の利害」代弁の重要性が低下する一方、政策課題への政治的立場が重要になってきたのが最近の地方議員への眼差しの変化だとすると、無投票当選や投票率低迷の背景にある問題は、選挙区割りが時代と合わなくなってきているということなのではないかと思う。

「南さつま市」みたいな小さな単位が選挙区になって、そこから一人の議員を輩出するというのは、もはや生活圏の実態とも合っていない。南さつま市に住んでいても鹿児島市に通勤・通学している人もいるし、買い物や余暇を都市部で過ごす人は多い。

しかも、例えば自分は都市部に住んでいても高齢の父母は農村に住んでいるとか、我々はある「地域類型」の中だけで人生を完結させているわけでもない。

だから「南さつま市」のような狭い範囲ではなく、「南薩」くらいの広さの選挙区から議員を選ぶべきだと思う。そうすれば、立候補者の数は変わらなくても無投票にならないのではないか。

私が思う理想の選挙区割りは県の出先機関(いわゆる「地域振興局」)の単位を元にしたものである(県政の実質的な単位がそれだから)。県の出先機関も昔は各地域にあったがそれがどんどん統合されてきたわけで、それと歩調を合わせて選挙区も統合するべきだ。

しかしそうするとすれば、タダでさえ大変な選挙活動が、候補者にとってはもっと大変なものになる。かなり広い地域を短い時間で回らなくてはならなくなり、実質的な演説がほとんどなくなってしまう。そうなってしまうと本末顚倒だから、ちょっと選挙制度の工夫が必要だろう。

(つづく)

2015年4月10日金曜日

インターネットで農産物を売る(その2)

(前回からの続き)

さて、少し話が戻るようだが、そもそも、インターネットショップや実際の店舗がたくさんある中で、当店を選んでもらうためにはどうしたらよいのかという問題がある。

回答案の一つは「差別化」だ。日本で一番! とか日本で唯一! の商品があったら、インターネットでは強い。しかし元より農産物の差別化というのはとても難しい。それに、多くの場合、農産物の差別化はすべきでもない。

なぜなら多くの人が求めているのは、差別化された特別な農産物ではなく、普通に美味しい普通の野菜や果物だからである。農産物は、ファッションや雑貨のように個性を意識して購入することはない。変わったものよりもむしろ、食べ慣れているものの方が安心する。

時には「日本一甘いトマト」のようなものを食べたくなるので、そういう「差別化」は成功するかもしれないが、そのためにはトマトならトマトを極めるという一本気な農業が必要になる。私のような農業初心者にそれは無理である。

ただ、果物の場合は嗜好品という性格がかなり強いから、インターネットでの「差別化」は野菜に比べれば容易である。しかしそれにしても、日本で一番というようなレベルになるとやはり難しい。そして極端に言えば「日本で一番」しか残らないのがインターネット販売の世界である。

また、率直に言ってしまうと、「有機野菜じゃないとダメ!」というような特殊な人以外にとっては、野菜のようなものはインターネットで買うよりも近所のスーパーで買った方が絶対によい。なぜなら、地場のものを旬に食べるのが一番美味しいし、その上安価だからである。

つまり、普通の野菜や果物を売る、ということを考えるとインターネットショップには勝ち目がない。一方「日本で一番」の農産物を作るというのも難しい。

ではどうやって当店を選んでもらえればよいのか?

それに対する私なりの回答は、地域性と人間性、である。

「地域性」とは、農産物に附属する地域のイメージのことである。例えば、北海道産ポテト、といえば広大な北の大地を思い浮かべるだろう。では長崎産ポテトはどうか? 長崎は北海道に次ぐ全国2位のジャガイモの産地だが、あまりイメージが湧かないので、二つが並んでいたらなんとなく北海道産の方がよいものと思ってしまわないだろうか? 要するに、人間はほんの少しでもその由来を知っているものが好きだ。

私は「南薩」という地域が、北海道のように何か雄大なものを想起させる、そんな地域としてもっと認知されて欲しいと望んでいる。何しろ北海道と同じく、ここは日本本土の端っこである。ここにあるものは少なく、誇れるものはその景観くらいしかない。景観と農産物にはほとんど関係がないようだが、私は関係大ありだと思っている。

またどんな地域であれ、そこの出身者であれば、そこの農産物を食べてみたくなるものだ。「南薩の田舎暮らし」のお客さんも、今のところ多くは南さつま近隣の出身で都会に出ている人である。うちは「南薩」を大きくウリにしているわけだから、そんなの当たり前じゃないの? と思うかもしれない。でもこれがファッションとか雑貨だったらどうか。推測だが、お客さんに占める出身者の割合はそんなに大きくならないと思う。たぶん、「食べ物」だから出身者が購入してくれるのである。

たぶん、味とか栄養だけでない価値が食べ物にはある。生まれ育った土地で育った野菜や果物というのは、その人にとって特別な価値があるのではないか。

次に「人間性」だが、これは少し誤解を生む用語である。「私の人間性を見込んで買って下さい」とか、そういう意味では全然ない。そうではなくて、これは農産物に附属する人間属性のことであり、つまり「これはこの人が作って、この人が売っているものなんだ」という附属情報のことを指す。

どんな野菜にも果物にもその附属情報はある。どれも誰かが育てて、そして誰かが売っている。その情報を表に出した時、農産物に人間性が生まれる。「顔の見える野菜」というようなのがあるが、その類である。問題は、「顔の見える野菜」は「顔の見えない野菜(どこの誰が作っているのか分からない野菜)」と比べて(統計的に)優れているのかということである。正直、違いはほとんどないと思う。「顔出し」するかどうかは、農家の性格による部分が大きい気がする。

しかし、やはり「顔の見える野菜」のほうが何となくよいものと思ってしまう。それは先ほども述べたように、人間はほんの少しでもその由来を知っているものが好きだからである。

では、私も「顔出し」してインターネット販売をすればよいのだろうか?

そういう方法もあるが、先述のとおり「顔出し」と品質との相関はおそらくないし、ただイメージだけの話である。インターネットショップサイトに私がニコニコとした顔で野菜や果物を抱いているような写真を載せたら、イメージはよいかもしれないが実質的な意味はない。いや、実質的な意味がないのにイメージだけよくなるとしたら、むしろよくないことかもしれない。

私はそれよりも、もっと単純なこととして、「同じ買うなら知っている人から買う方が気持ちいい」ということを大切にしたいと思う。そうか? という人もいるだろう。知らない人から買う方が気が楽だ、と言う人もいる。でも私は、ものの売り買いは最も原初的なコミュニケーションの一つだと思っている。

つまり、売買というのは、ただお金と引き換えに商品を交換する行為ではなくて、「商品の交換」を通じて、売る人と買う人が(その場しのぎかもしれないが)信頼関係を築くことだ。すなわち本質的には、互いの存在を認め合うことだと思うのである(過激なことを言うと、商品やお金はその副産物に過ぎない)。

ようやく話が「インターネット販売におけるお客さんとの対話」に戻ってきた。要するに、私はお客さんにとって「知っている人」になりたいのである。あわよくば「信頼できる人」とかになれたらもっとよいのかもしれないが、店主が自らを売り込んで来る店では私も買いたくない。

そして逆に、もし可能なら、お客さんのことも知りたい。

なにしろ、「南薩の田舎暮らし」のような弱小サイトにわざわざ訪問してくれて、それに(全国的に見たら)たいしてスゴイわけでもない果物やジャムを買ってくれるのだから、一体どんな人なのかとこっちも気になる。よりどりみどりで優れた商品が溢れているのに、どうしてうちなんかで買ってくれたのか、と聞きたくなるのが人情だ。

だから、私はお客さんと挨拶程度はする知り合い同士になりたいのである。そのために対話する。そしてこういうことをやるには、インターネットは非常に向いている。なぜなら、実店舗でこういう対話をいちいちやっていたら、正直その店はウザイ。ほっといてくれ、と思う人も多い。でもメールなら、無視すれば済むことだ。心理的負担がほとんどない。というか、ウザイと思ったらぜひ無視して欲しい。言うまでもなく「別にあんたのことなんか知りたくないよ。欲しいものさえ手に入れば」という人だってもちろん歓迎である。

そして、実利的な話になるが、もしそういう「知っている人」が何百人にもなったら、きっといいお客さんになってくれる人もたくさんいるわけで、これはただ「友達百人できるかな」的な活動ではないのはもちろんである。そもそも商売だから、長期的に利益がなかったら続けられない。

私にとっての農産物のインターネット販売はそういうことである。そしてたぶん、農産物を販売するインターネットショップは、多かれ少なかれそういう性格を持っていると思う。

だから、インターネット販売が非効率的なのは当然だ。「南薩の田舎暮らし」は積極的に販路を拡大していこうという戦略をとっていないので、さして販売実績もよくない。そもそも、まだまだインターネットで販売するということをちゃんと実直にやれている自信もない。弱小サイトで当然である。

でも、心構えとしてはこのように思っている。なかなか自分の思うようにはできていないのですが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2015年4月7日火曜日

インターネットで農産物を売る(その1)

インターネットショップ「南薩の田舎暮らし」をオープンさせたのは2012年の1月。気づいたら丸3年が経過していた。

未だにさほどの売り上げがない弱小サイトなので大した実績もないが、「インターネットで農産物を売る」ということを実際にやってみていろいろ思うことがあるので丸3年という節目(若干過ぎているが)に書いておこう。

最近、自治体が農産物販売のためのインターネットショップ(への誘導ページ)を立ち上げるなど、農産物のブランド化や知名度のアップ、高価格での有利販売といった目的で農産物のインターネット販売が注目を集めている。

それも、以前は農家個人がショップサイトを立ち上げるのが主流だったが、最近になって農産物販売のプラットフォーム的なサイトもたくさん出てきたし、STORESのように極めて簡単に、しかも月額基本料無料でインターネット販売できるサービスもあるので、もう誰でもインターネットで農産物が売れる時代になったと思う。

ところが実感として、農産物のインターネット販売というのはかなり難しい

第1に、農産物というのは薄利多売な商材であり、単価がとても安い。しかもかさばるものが多い。よって配送料が割高になる。Amazonで「配送料無料」に慣れた消費者(私もそうです)には、1000円とか2000円の農産物を買うのに1000円近い配送料を出すのは非常に抵抗感がある。

例えば、「南薩の田舎暮らし」ではポンカン10kgを3000円で売ったが、これにかかる実費送料は関東だと約1000円である。だが自分がお客さんなら、3000円のものを買うのに1000円の送料はいかにも割高でイヤな感じがするので、「南薩の田舎暮らし」では送料を全国一律500円にしている。

市場や農協への出荷などと比べれば確かにインターネット販売は単価が高く設定できるが、このように送料の一部を負担することまで考えると、実は物産館などで販売した方が利益率が高い場合も多い。

第2に、インターネットで売れるものはかなり限定されているということがある。例えば、物産館であれば大抵の農産物はそれなりに捌ける。だが、インターネットでは普通の野菜を普通に売っていても全然売れない。そういうのは近所の八百屋とかスーパーで買えるので当然の話である。

なので、インターネットで販売するものは希少・高品質などの付加価値がある農産物に限られるのであるが、そういうのはまず生産するのが難しい。例えば「南薩の田舎暮らし」の場合、無農薬の柑橘というのがそれに当たる。これも2014年は虫害で大損害を受けており、ほとんど売り上げがなかった。インターネットを通じて特殊なものを販売するより、普通の野菜や果物を普通に生産して市場や農協に出荷する方が商売として安定的かつ簡単である。

第3に、インターネット販売はかなり手間がかかる。ショップサイトの構築は趣味の世界(こだわらなければHTMLを覚える必要もない)だから除くとしても、商品写真の撮影、説明文の推敲、受注管理、梱包、配送といったことは農作業の合間にやるとかなり面倒な作業だし、その上Facebookとかブログでそれなりに情報発信をしないとなかなかトラフィック(要するに訪問数)が伸びない。

しかも、先述の通り農産物は薄利多売な商材なので、こうした面倒なことをすると、タダでさえ低い利益率がさらに低くなる。

こうなると、インターネット販売なんか辞めて物産館・JA・市場・量販店への卸など、伝統的な農産物流通に乗せた方が、よほど商売として上手な感じがしてしまう。正直、今なぜ農産物をインターネットで販売しようというブームが来ているのか、いまいちピンと来ない。穿った見方をすれば、単にIT屋さんに踊らされてるだけなんではないだろうか?

しかし、インターネット販売の意味はちゃんとある。

それは、究極的にはお客さんとの対話である。

縷々書いたように、インターネット販売は一言でいうと非効率的なのだが、なぜ非効率的なのかというと、(実際にはやりとりをしなくても潜在的に)お客さんと対話しなくてはならないからだ。というか、対話をするために販売する。販売そのものが目的ではなくて、対話自体が目的なのだと私は思う

ちなみに、「南薩の田舎暮らし」では、始めて注文をくれた方にはほぼ必ず(忙しい時を除く)「どうして当店をお知りになったのですか?」とメールで聞くようにしているが、そうしたら大変丁寧な返信をくれる方も多い。私は、そういう無駄話をしているからインターネット販売がなおさら非効率的なのかもしれない。でも無駄のない効率的販売をしたいなら、わざわざインターネットで販売する意味はない。物産館に持っていく方がずっと簡単で効率的だ。

もちろん、これはサイトの目的や収益構造によっていろいろなケースがあるわけで、インターネット販売が効率的な場合もあるだろう。それにインターネット販売の意味を「対話が目的」と書いたが、それはあくまで私の場合のことで、一般化はできない。

だが、よほど付加価値の高い特別な農産物を販売するのでない限り、やはり「対話」はかなり重要だと思う。では何のための「対話」なのかという話になるが、それは次回に書くことにする。

(つづく)

2015年3月27日金曜日

「椿油」で生きがいづくり

以前ちょっと愚痴を書いた「百寿委員会」について。

百寿委員会は通り一辺倒の役所の審議会とは全然違って、委員の発奮を期待するプロジェクトなので、もう活動は具体的レベルに入って来つつある。

私は、「椿油」のグループに配属されて、椿油を活用した生きがいづくりなどの支援に取り組んでいくことに(行きがかり上)なった。

ちなみに、これは希望を出して配属してもらったもので、勝手に割り振られたわけではない。私自身としても、食用油の世界にはいろいろと思うことがあり、この活動を進める中で油の勉強になるのではないかと思って期待しているところである。

その「椿油」だが、現在南さつまではいくつかのグループが細々と作っているらしい。その中で今回の核となるのは金峰の田布施地区のお年寄りがやっている活動で、百寿委員会の役割としては、これをモデルケースにして南さつま市内の他の地区にも広げたり、あるいはこの活動に田布施地区以外からも参加してもらったりして、参画する人を増やしていくことにあるのだと思う。

というのも、椿油作りの一端を覗かせてもらったが、栽培されているものでなくて道ばたに落ちている種を拾ってくるわけなので、その品質がバラバラであり、それを一粒一粒検品して選別しなくては良質な油がとれないのである。この、小さい種をよく見て選別する作業は、目と手先を使うためお年寄りのボケ防止にもなるし、何人かで世間話をしながらそういう作業をするのはけっこう楽しい。さらには、椿油が売れて手間賃が出れば、同じ生きがいづくりでも、グラウンドゴルフのようなものとはまた違ったやりがいがあると思う。

そういうわけで、この椿油作りを市内にもっと広めたらいいんじゃない? という話になった(と理解しています)。

それで椿油の試食会に先日参加して、初めて椿油の料理を味わってみた。

椿油というのは、化粧品(鬢付け油)としても高価だが、食用油としては極端に高価である。例えば、鹿児島の鹿北製油の椿油は、インターネットではたった25gが1200円くらいで販売されている。 こんなに高価では、普通の料理にはとても使えない。だがその品質の高さから、高級料亭などでは使われることもあるらしい。

そういう高価な食用椿油を、試食会ということでドボドボ使って天ぷらまで食べさせてもらった!(ちなみに料理も自分たちでしました) それで、今まで漠然としたイメージしかなかった椿油のことがだいぶわかってきたような気がする。

椿油の食味を一言でいうと、「全くクセのない油」である。極めてサラっとしている。天ぷらもカラッとしていて油ぎっておらず、全く胃もたれしない。1日経ってもべちゃっとならず、(カラッとはしていなかったが)品質の低下が小さかった。

カルパッチョに使うのもオススメで、口の中が油でヌルヌルする感じがなく魚との相性がよい。意外なところでは卵焼きもよかった。うまく食味の説明ができないが、しっとりふんわりしていて美味しい卵焼きができていた。

しかも驚いたのは食後に食器を洗った時で、油がついたお皿もヌルヌルすることなくサラッと油が落ちるではないか。成分的なことはよく分からないが、ともかく油ぎった感じが全くない高品質油であることは了解できた。

だが逆に言うと、クセがなさすぎて、言われないと「椿油を使っているね」と分からないのが欠点である。要するにオリーブオイルなどと違って「味」がない。味がないものはなかなか普及するのが難しそうである。

椿油の生産・販売を企業的な活動としてやっていくとしたらかなり難しいが、生産するお年寄り(だけとは限らないが)の非営利的な生きがいづくりとして取り組むなら将来性がある。高品質さとかではなく、「南さつまのお年寄りが、一粒一粒選んだ椿の種で絞った椿油」というプロセス自体を主役にして、まずは情報発信から始めて活動の裾野を広げていったら面白いのではないかと考えている。

2015年3月22日日曜日

「加世田のかぼちゃ」とは

先の記事で、「加世田のかぼちゃ」のチラシをデザインしたということをお知らせしたのだが、そこでも触れたように「加世田のかぼちゃ」は一体どういうものなのか、ということはこれまで意外と説明されていなかった。

というわけで、参考までにその部分を紹介しておく。

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加世田のかぼちゃ

 Policy “普通のかぼちゃ”をこだわりの栽培で特別なかぼちゃへと変える

「加世田のかぼちゃ」は品種名ではありません。品種の中心は一般的なかぼちゃである「えびす」。その“普通のかぼちゃ”をこだわりの栽培によって美味しく育てたものが「加世田のかぼちゃ」なのです。

1 積算温度に基準を設け “熟成度”をチェック

「加世田のかぼちゃ」は、畑で十分に熟成させてから収穫します。生産者が交配後の日数等を記録し、積算温度1100度という基準に達したところでサンプルを収穫、選果場で試し切りします。皮際まで熟しているか、種は充実しているかといった厳しいチェックを受けてから本収穫。そうやって担保されたバラツキのない高品質さが「加世田のかぼちゃ」の誇りです。

2 収量を犠牲にして 養分を集中させる

一蔓につけるかぼちゃの数は葉の数で決まります。しかも基本的に蔓ごとに1つずつならせて順次肥大させ、一蔓あたりのかぼちゃの数は最大でも3個! もちろん収量は減りますが少数の実に養分を集中させることで、より大きく充実したかぼちゃを実らせています。

3 丁寧な「芽欠き」で蔓の本数まで管理

かぼちゃの蔓は放っておくと縦横無尽にはびこります。しかし不必要な芽を丁寧に取り除き、蔓の本数までも管理するのが「加世田のかぼちゃ」流。このため芽が伸びるシーズンには、芽を取り除く手間のかかる「芽欠き」作業を連日行っています。

4 花の段階で選別・受粉

立派なかぼちゃに向けた選抜は、花の段階から始まります。蔓に実をつける位置も調節し揃える上、大きく優良な雌花だけを選んで受粉させています。

5 美味しいのは当たり前 その上、美しく

かぼちゃの下に透明のシートをしたり、立体栽培したりすることにより、土に直接つけずに均等に着色するようにして、キズが少なく色むらのない美しいかぼちゃが出来るのです。
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ちなみに、一応「南薩の田舎暮らし」が請け負ったのは「デザイン」であるが、実質的にこの説明文も当方で作成したものである。「積算温度」やら「芽欠き」やら、一般の人たちにはちょっとわかりにくいんじゃないの〜と言われながら、やはりそういう言葉をちゃんと出した方が誠実で、意外と分かってもらえるのではないかという考えで上のような説明にまとめた。

また、こういう農産物紹介にはかなりの確率で現れる「農家の愛情を受けて育てられた〜」のような言葉は絶対に使いたくなかったし、同じく農産物紹介の頻出単語である「手間ひまがかかった〜」も具体性がなく独善的(たいていの農産物は手間ひまがかかるものだと思います)なので、そういう叙情的単語を使わずに、栽培の特徴を素直に伝えようとした結果でもある。

少し心残りな点があるとすれば、あくまで栽培方法だけにフォーカスしているところで、本来は「このような栽培方法のお陰で他のかぼちゃとどのような違いが生まれているのか」をより定量的に示せたらよかったと思う。この説明だと、「加世田のかぼちゃ」自体の解説というより、その栽培法の解説という性格が強い。

でも味とか食感の説明とかは、いくらやっても伝わるというものではないし、結局はこのような栽培法の力を信じていただくほかない。「なるほど、加世田のかぼちゃってそういうものだったのか!」と思ってもらえたらとても嬉しい。

2015年3月19日木曜日

「加世田のかぼちゃ」のチラシをデザインしました!

先日、南さつま市役所が「加世田のかぼちゃ」のチラシを作りたいということで、なんと「南薩の田舎暮らし」でデザインを受注した!

「加世田のかぼちゃ」は県のブランド指定を受けてから20年以上経つが、対外的に「こういうものですよ」と説明する資料が乏しく、全国的には(というより鹿児島県内でも)全然認知されていないので、そういうチラシでも作ってもらいたいと思っていたところである。

それをかぼちゃを栽培している自分が構成・デザインできるということで、受注自体とても嬉しかった。だが、こういう資料を農家自身がデザインするということはすごく珍しいことで、もしこれで「やっぱり農家クオリティだよね」と言われるようなことがあれば次に続かない。それに少額とは言え税金を使って作るものだから、納得できる水準のものを作ろうと、素人ながら「あーでもないこーでもない」と悩みながら連夜作業し、つい先日入稿したところである(正直、プロには及ばない出来ですが)。

 →加世田のかぼちゃPR小冊子
  ※データサイズの問題からだいぶ画像を粗くしています

ところで、この冊子を製作する過程でいろいろ取材し、ビックリしたことがある。それは、一応ブランド野菜であるにも関わらず、「加世田のかぼちゃ」が「加世田のかぼちゃ」として売られているところがどうやらないようなのだ!

何を言っているかというと、これはJAが集荷し、市場や相対取引で「加世田のかぼちゃ」として出荷されるわけだが、「加世田のかぼちゃ」という言葉にブランド力がないためか、実際の小売店では単に「鹿児島産」として売られているらしいのである!

市場出荷の場合、これを買っていった卸業者がどのように販売するか追跡はできないので、少数の例外はあると思うが、大まかにいって、「加世田のかぼちゃ」は市場では単に「鹿児島産かぼちゃ」として取引・販売されているのだ。

正直、このことが分かった時、生産者の一人として悲しく思った。「加世田のかぼちゃ」は知られていないマイナーなブランドなのではなく、ブランドですらなかったということなのだ。でも、そもそも「加世田のかぼちゃ」とは何かを対外的に説明してこなかったわけで、それもやむを得ないかもしれない。私もこうして資料にまとめるまで、「加世田のかぼちゃ」が他のかぼちゃとどう違って、何が特徴なのかということを、明確に認識していなかったような気がする。

そしてだからこそ、こういうチラシの意味がある。たぶんこのチラシを読めば、単に「鹿児島県産」だけだと伝わらない栽培のこだわりがわかり、他のかぼちゃと区別したくなるのではないかと思うからだ。今後、小売店などでこのチラシが共に置かれ、「加世田のかぼちゃ」が「加世田のかぼちゃ」として売られるようになることを切に願っている。

※チラシに書いた内容は、後日改めてブログにアップしたいと思います(上のリンク先と同じですが、なにせ読みにくいので)。

2015年3月12日木曜日

有機農業とフェアトレード

「絶対のこだわりがある!」というわけではないけれど、一応私は有機農業を実践している(つもり)。

以前「有機農業の是非を検証する」というやや小難しい記事でも書いたが、これは別に「安全・安心」とかのためではなく、環境の保全を念頭において取り組んでいることである。

「南薩の田舎暮らし」でも無農薬の柑橘を販売しており(認証を取らないと「有機」の文字は使えないので「無農薬」と表示しています)、味のことはさておいて、価格だけで見れば、無農薬の柑橘としてはほとんど日本最安で提供していると思う。

もちろんその価格設定は私の営業努力の足りなさと商才のなさを反映しているものであって、別に安売りしたくて安売りしているわけではない。が、一方で無農薬だからといってことさら高価格にもしたくないと思う。というのも、私は「農薬かかっててもそんなに気にしないし」という普通の人にも買ってもらいたいと思っているからである。

「多少高くてもやっぱり無農薬じゃなきゃね!」という人に買って頂くのはもちろん嬉しいが、そういう人は少数派であって、そういう人たちだけを見ていては自分の世界を狭めることになる。それに本来、農薬の使用・不使用などということは消費者は気にとめる必要がないはずだ。なぜなら、市場に流通するものはどれも安全なものであるべきだからだ。一応、売り文句として「南薩の田舎暮らし」でも今は「無農薬」を謳っているが、将来的にはそういうことを言わなくてもよいような感じにできたらいいと思う。

今の有機農産物は、とにかく「安全・安心」とか「美味しい」とか、要するに一種の高級品として販売されていることが多いので、それがなかなか広まっていかない要因の一つだろう(※)。欧州の諸国と比べ、日本では有機農業の割合がかなり低いが、「有機農産物=高級品」というイメージは日欧でどのような違いがあるのか(ないのか)知りたいところである。

ただ、価格に見合うだけの品質があれば、有機農産物を高級品として販売することにはなんの問題もない。だが以前の記事で述べたように、その価値にはまだ「イメージ」にすぎない部分もある。そこでふと思うのは、いわゆる「フェアトレード」と有機農業の類似である。

フェアトレードはよく知られている通り、発展途上国の農産物などを公正な価格・やり方で取引することで、要するに「搾取的でない当たり前の取引」である。こういう言葉があるのは「フェアトレード」でない取引が多いためで、代表的なのはカカオ豆だろう。

カカオの一大産地といえばコート・ジ・ボアールで、ここでは児童労働など劣悪な労働によって安価なカカオが生産されている。発展途上国の企業や組合にバーゲニングパワー(交渉を優位に進めていける能力)がないために、先進国の企業に安く買いたたかれ、そういう悲惨な状況に陥ったのである。

それを解消し、生産者に適正な賃金を払うため、最近では「フェアトレード」のチョコレートが販売されている。しかし搾取的な取引を行わず、生産者が十分にやっていける価格でカカオを買い取ろうと思えば、その結果チョコも髙くならざるをえない。だからフェアトレードのチョコは少し高い。では、消費者は何に対してそのプレミアム(価格の上乗せ分)を支払っているのであろうか?

フェアトレードだからといって、品質がよいわけではないし、「安全・安心」でもない。つまり消費者は、自らの便益のためにプレミアムを支払うわけではないのである。 消費者は、「公正さ」そのもののためにそれを支払っているとしか考えられない。

つまりこの場合消費者は、公正に生産され、取引されたものを使うべきだ、という社会的責任に対して価格の上乗せ分を支払っているのだと思う。すなわち、フェアトレードの商品というのは(いい意味で)消費者目線ではないのである。それは、便利な生活を享受する先進国の人間たるもの、えげつない取引で不当に安く作られたものは使うべきでない、という矜恃に訴えかけるものだ。

翻って有機農産物について考えてみる。有機農業(農産物)とフェアトレードは非常に似ている点がある。それはどちらも
  • そうでないものと比べやや高価になる。
  • 多くの消費者にとっては、そうでないものと比べ価値の違いが明確でない。
  • 利益を受けるのは、消費者というよりも生産者側もしくは環境である。
そういうことで、私は、まさに有機農産物はフェアトレードの一種として流通していって欲しいと思っている。有機農業も消費者目線でやるものではなく、あくまで持続可能な農業を目指すものだからで、環境に配慮して栽培されたものを使うことは、社会的責務であると思うからだ。フェアトレードは発展途上国の生産者に対して「公正」であろうとするが、有機農業は自然環境そのものに対して「公正」であろうとする

そういう形で流通すれば、例えば外食産業などで有機農産物を使う割合が少し増えるかもしれない(企業の社会的イメージを向上させるから)。今は、有機農産物が高価格なこともあって、ごく限られた市場しか持っていないが、CSR(企業の社会的責任)に訴えるような商品であれば、違った市場を開拓できるのではないだろうか?

とはいっても、私が有機農業のお手本にすべきだと考えるフェアトレード自体、流通全体で考えるとものすごく狭い世界である。一応市場規模は順調に拡大しているようだが、フェアトレード=当たり前の取引が「普通」になるには長い時間がかるだろう。

だが、「安全・安心なものを食べたい」「美味しいものを食べたい」という(有機農業でなくても応えられる)消費者のニーズに応えるよりも、 環境に対して「公正」であれという矜恃へと訴える方が、有機農業推進にとってはすがすがしいやり方だと、私には思えるのである。

※最大の要因は、日本の農産物の流通のしくみにあるのだと思う。