2014年9月13日土曜日

連作を恐るるなかれ

先日、自然農法セミナー「連作のすすめ」という研修に参加した。なかなか面白い内容だったので備忘のためにまとめておこう。

講師は伝統農法文化研究所 代表の木嶋利男さん。元は栃木県の農業試験場にいらっしゃった方。木嶋さんの主張は次のようにまとめられる。
  • 植物は、連作した方が生産性があがる。
  • 連作すると連作障害が出ることも確かだが、1年(か2年)我慢すれば連絡障害は出なくなり、病害虫も発現しなくなる(発病衰退現象)。
  • とはいえ、それは経営的に厳しいので、2、3年はコンパニオンプランツなどを使って、土壌消毒せずに頑張ってみるとよい。
後段のことはともかく、連作した方が植物の生育がよいというのは私も薄々感じていたことである。

農業の基礎的教科書には「連作によって土壌の生物相が偏り、病害虫が出やすくなる」「連作を避けて、効率的な輪作を行うのがよい」なとど書いているのが普通である。

しかし、例えばジャガイモを育ててみると、収穫後、土がいかにも「ジャガイモっぽい土」に変わっていることに気づく。どこがどのようにジャガイモっぽいかはうまく説明できないが、「いかにもジャガイモが育ってそうな土」に変わっているのである。植物は動けないために、土壌自体を自らに好適なものに徐々に変化させていく力がある。

だから、そこにまたジャガイモを植えたらよさそうだ、というのは誰でも思うだろう。ただここからがポイントで、木嶋さんがいう「連作」は、「続けて同じ作物を作り続けること」ではない。「同じ時期(季節)に、同じ場所で、同じ作物をつくる」のが連作で、そうでなければ輪作になる。要は、続けてジャガイモを植え付けても連作にはならない(まあ、春作と秋作では品種も自ずから異なるが)。季節が違えば土壌の条件が異なるからだそうだ。

ジャガイモの連作というと、次の年の同じ時期にジャガイモを植えることなのである。そして、その間、後作に何をつくっても連作は連作になる。同じ作物をひたすら作り続けるのが連作ではないのである。つまり連作というのは、同じ条件の下に作物を作り続けていくことだ。そういう意味では、「連作のすすめ」といっても、普通非常に重要とされている作物のローテーションを否定しているわけではない

そのように連作を続けていても、当然ながら連作障害が出る。連作障害というのは、連作によって土壌の生物相が偏り、病害虫などが頻発する状態をいう。これはかなり昔から「いや地」などと呼ばれて忌まれていたから、化学肥料や農薬のせいではない。この連作障害があるから、普通は連作は避けるべきとされているのである。

私がつくっているかぼちゃも、同じ場所でつくっているとネコブセンチュウとかネグサレセンチュウとかいう害を及ぼす連中が増えて、うまく生育しないかぼちゃが多くなる。そのため、真面目にやる農家(?)は、土壌消毒をするのだが、木嶋さんによると土壌消毒こそがよくないという。

土壌消毒をすると直後はいいが、結局はまたセンチュウ類が増えてきて、また土壌消毒が必要になる。だが、連作障害を耐えて(というのは、収量が激減するのに経営的に耐えて、という意味)その次の年も何の対策もせずにまたかぼちゃを植えれば、次の年には連作障害は全く出なくなるという。一度土壌の生物相が偏って閾値を超えると、今度は土壌の多様性を回復させる方に力が働き、健全な土壌に戻るのだという。簡単に言うと、センチュウの天敵となる糸状菌(カビ)などが増えるからセンチュウ被害は出なくなる、ということだ。

だが、こうした天敵はセンチュウがある程度いないと増えないので、一度センチュウが出たらセンチュウを増やすくらいの気持ちでやらないといけないらしい。連作障害を恐れて土壌消毒したり、センチュウを減らす緑肥を植えたりするのは逆効果だ、と断言していた。正直いうと、私自身、今年は春かぼちゃの後作に、センチュウを減らす効果があるとされているクロラタリアという緑肥を育てていたので、ガッカリしたところである。

また、病気の対策も似たようなもので、普通、植物に病気が出たらそれ以上広がらないように罹患した植物を取り除き、圃場から持ち出すこととされているが、木嶋さんによるとそれも逆効果だそうだ。罹患したら、その植物を切り刻み、圃場に埋めるのがよいという。そうすると、病原菌が土壌で増えて、同時にそれに対抗するものも増えるから、次の年には病気がでなくなるということだ。

話が少し逸れるが、農業というのは勉強しているとこういうのがすごく多い。Aと言われているけど実はBだ、とか、Aがよいといわれているけど実はAはダメだ、とか、正反対のことがよく言われる。それだけ未熟な産業で、本当は何がいいのかよくわかっていないということなのだが、少なく見積もっても5000年くらい歴史があるのに、こんなにあやふやなことが多いことというのも他にないと思う。

ともかく、連作を続けると生産性が上がる現象は木嶋さんが言っているだけでなくていろいろな人が観察・研究しており、それ自体は信頼できそうである。問題は、一度は連作障害で壊滅的な被害を受けないと次のステージに進めない、というスパルタな展開である。これを軽減するため、木嶋さんはコンパニオン・プランツ(共栄作物)などの伝統的な知恵を使って乗り切るべしとしているが、これの効果は植物によって様々だし、決定的な組み合わせが全ての作物にあるわけではない。

たとえば、ウリ科にはネギの混植がよいとされているが、かぼちゃは葉っぱが大きすぎてネギの受ける光をかなり減らしてしまい、あまり効果がないという。とすると、連作方式でかぼちゃをつくる場合はどうしても潰滅に耐える必要があるということなのか…? そのあたりが「連作のすすめ」の弱点ではあるが、連作の重要性を認識させてもらったので、今後活かしていきたい。

2014年9月10日水曜日

西方へもたらされた唯一の柑橘——柑橘の世界史(4)

シトロン
シトロン
中国で楚の屈原が柑橘を誉め称える詩を作ってから暫く後、ギリシアではテオプラストスという哲学者が重要な本を執筆した。それは『植物誌』といって、西洋ではなんとルネサンスに至るまで1500年以上もの間、植物学の最重要文献であったという驚異的な本である。紀元前3世紀のことであった。

その『植物誌』に、柑橘の一種である「シトロン」が記載されている。

シトロンは日本では馴染みのない果物だが、レモンに似た柑橘で、大きさが文旦くらいで表面はゴツゴツしており、果肉・果汁が極端に少なく白い皮の部分がめちゃくちゃ厚い。シトロンの果肉はパサパサしていて食べられないが、白い皮の部分は現代ではマーマレードにしたり砂糖漬けにしたりもする。

漢名は枸櫞(くえん)といい、なじみ深い「クエン酸」は実はこの果実の名前から名付けられたものだ。

このシトロンは、古代ギリシアでは「メディアの林檎」とか「ペルシアの林檎」とか呼ばれていた。原産地は遠くインドであったが、テオプラストスはそれをまだ知らず、ペルシア(そこはかつてメディアという国があったところでもある)原産の果物だと思っていたようだ。テオプラストスによると、
この「林檎」は食べられないが、実も葉もとても香りがよい。そしてこの「林檎」を服に入れておけば、虫がつくのを防ぐこともできる。また毒薬を飲んだときにも有効だ。ワインにいれて飲めば胃を逆流させて、毒を吐き出させる。…
ということである。不思議なことだが、インドには様々な柑橘類が産していたにも関わらず、古代において西方の地中海世界に伝えられた柑橘は、ただ一つこのシトロンだけだった。どうしてこの食べられない果物だけが伝わっていったのかはよく分からない。香り付けによいということだったにしても、他にも香りのよい柑橘はあったはずで、なぜシトロンだけが特に選ばれたのかは謎である。

紀元前4000年に、既にメソポタミアではシトロンが伝えられていたというから、この果実の西方世界への伝播は非常に早かった。柑橘は年間を通じて適度な降雨を必要とするから、半乾燥地帯である中東に自然に(人の手を介さず)広まっていったということは考えられず、人為的に持ち込まれ、栽培されていたのは間違いない。もしかしたらシトロンは、その解毒作用を期待されて広まったのかもしれない。毒薬を飲むという状況が、そんなに頻繁にあったのかどうかは分からないが、 特別な薬としての需要はあっただろう。

中東では古くから栽培されていたこのシトロンが、中東からさほど離れていないギリシアへと伝わったのは割合に遅く、伝説ではアレクサンドロス大王の東征の際(紀元前4世紀)にもたらされたと言われている。

アレクサンドロス大王はその短い生涯でマケドニア(北方ギリシア)から東インドに至る空前の世界帝国をつくり上げ、それによってこの広大な地域の文化が相互に交流した。教科書などでは東方にギリシア風の文化が広がり、ヘレニズム(ギリシア風)文化が興ったと説明されがちだが、アレクサンドロスはむしろペルシアの進んだ文化を積極的に取り入れており、ついにはマケドニアの服装も捨て、ペルシア風の装束に身を包んだほどである。一方方向にギリシア文化が伝わったわけではなく、この時代は、最初の東西文化交流の時代であった。

すなわち、アレクサンドロスの時代、ギリシアのものが東方に伝播していっただけでなく、中東からインドにかけての様々な文物が、大量にギリシアに入ってきたのである。『アレクサンドロス大王東征記』などにはシトロンの記載はないが、ギリシアから東インドの政治的統合が、シトロン伝播の遠因となったというのはありそうなことだ。

蓋し、栽培植物の伝播というのは、意外と政治的なものに支配されている。一国の国土というものは、だいたい似たような気候風土で纏まっていることが多いし、隣国との境は険しい山脈や大河で隔てられていることも多いから、単純に政治的な国境が栽培植物の伝播を妨げているとはいえない。しかし、全く別の文明が支配する領域にはある種の栽培植物がなかなか広がっていかないことも事実である。植物の栽培というものは、種や苗の移動だけでなくて、それを育てて利用する技術と文化をもった人間が移動していかなくてはならないからだ。

逆に言えば、人間の移動によって、栽培植物はその生来適応した環境を超えて広範囲に伝播しうる。このシトロンこそは、人の移動によって最初にヨーロッパへともたらされた柑橘なのであるが、それは次回に詳しく述べることとしよう。

【参考文献】
"Enquiry into plants and minor works on odours and weather signs, with an English translation by Sir Arthur Hort, bart" 引用は拙訳によった。

※冒頭画像は、こちらのサイトからお借りしました。

2014年9月7日日曜日

書体としてのPOP文字について

先日、POP(店先に掲げる宣伝カード)の描き方の研修会に参加した。

研修会の内容のことはともかく、とても気になったのはPOP文字そのものである。

POP一筋31年というとんでもない講師の指導によれば、POP文字というのは、「①四角の中いっぱいに、②タテ線、ヨコ線はまっすぐに、③線で囲まれるところは強調(「ほ」の右下の丸の部分を大きく書く、など)、④書き始めから終わりまで同じペースで終わりはハネない、⑤できるだけ簡略してもよい」というように書くものらしい。

これを素直に守ると画像のような文字になるが、私からするとちょっと品がない字のように見えてしまう。この文字が書いてあるとすぐにPOPだと分かるとはいえ、どうしてこんな文字を書かなくてはならないのだろうか。ぱっと見では、普通に書いた方が断然にきれいな文字ではなかろうか。

POP文字の場合、普段の字のきれいきたないに関わらずほとんどの人が同じような文字を書けるようになる利点があるらしいので、そこは認めるにしても、あえて品のない文字の書き方を指導されているようで腑に落ちない。

ところで話が随分飛ぶようだが、文字の書体というものは幾度となく変転してきた。甲骨文、金文、篆書、隷書、草書、行書、楷書、明朝体、ゴシック体、などなど。こうした書体はどうして変転していったかいうと、主に筆記用具と書く目的が変化していったことによる。例えば篆書から隷書、草書へと変化していくのは、筆の普及が大きく関係している。

これは現代においても変わらない。石川九楊という書家が考察しているが、女の子が書く丸文字が生まれたわけも筆記具の変化によるらしい。元々漢字もひらがなも、縦方向に繋がっていく性質がある。ところが、大学ノートなどは横書きなので、筆記の際に縦に繋がろうとする力に抵抗しなくてはならない。そこで、一文字一文字を分断させて完結させ、まとまりよく見せようとすると自然に丸っこい文字になるという。さらには、ボールペンまたはシャープペンシルという細字に適した筆記具と、行内に文字を小さく書く必要があることからこの傾向が加速され、丸文字が生まれたらしい。

POP文字が生まれたのも同じ視点から考えられる。これは、太いペンを使って遠くからの視認性をよくし、横書きで収まりよく書こうとした結果として生まれた文字なのだろう。考えてみると同様の目的をもった映画の字幕文字と字形が非常に似ている

そういうわけで、あまり上品とは言えないPOP文字にも、ある程度の合理性はありそうである。ただ、写植の普及で字幕文字がかなり減ったところを見ると(※)、この文字が素晴らしいから使われているというよりも、手軽な次善の策として普及しているのかもしれない。

一方で、講師の先生によると、この文字をちゃんと使ってPOPを作るだけで売り上げが違ってくるというから、POP文字には視認性だけでなく、購買意欲に繋がる秘密もあるのかもしれない。なによりPOP一筋31年というキャリアを積んできた講師の存在自体がPOP文字の必要性を物語っている。

とはいうものの私自身の好みとして、習ったPOP文字はそのままでは使わないような気がする。ただ、買ってくれる人の立場に立って文字を書くというその精神は尊重しつつ、POPを書く必要がある時は自分なりに納得できる文字を使ってゆきたい。

※字幕文字には古くからの愛好者がいて、また長年いろいろな人が工夫してきたことから一種の文化がある。字幕を手書きすることはなくなったが、敢えて手書き風の字幕書体を使っている映画もある(ハリー・ポッターとか)。だからPOP文字もこの先何十年すると洗練された文化となっていくのかもしれない。字幕の手書き文字が減ったのはもちろん予算の都合も大きい。

【補足】2014年9月19日アップデート
一面的すぎる表現の部分があったので修正しました。

2014年8月29日金曜日

「柑」の誕生——柑橘の世界史(3)

既にたびたび書いてきたように、柑橘類というものは元々は甘くなかった。アッサム地方に発祥し、中国大陸へと渡ってきた柑橘類は、酸っぱいオレンジ(サワーオレンジ)たちであり、食用ではなく薬用または香り付けのためのものだった。

今あるような、甘いミカンやオレンジ(スウィートオレンジ)がいつどうやって誕生したのかはよくわかっていない。おそらく、酸っぱいミカン(ダイダイのようなもの)と文旦類の自然交雑か突然変異によって生まれたと考えられており、少なくともそれは紀元前450年より前のことだった。というのも、これも既に書いたが湖南省にある紀元前450年と推定されるお墓から、スウィートオレンジのものとみられる種が発見されているのである。

しかし、この甘くて美味しい新品種は、意外なことになかなか中国大陸に広まっていかなかった。その理由を理解するには、少しだけ柑橘類の性質について理解する必要がある。

柑橘類というのは遺伝的に非常に多様であって、形質が安定していない。例えば、ミカンを食べた時にその種を取っておいて、それを庭に植えたら同じようなミカンが穫れるかというと、普通は穫れない。元のミカンよりも酸っぱかったり、小さかったり、あるいは全然別のミカンになってしまうこともある。どうしてこうなるかというと、現在我々が利用している柑橘類は、様々な系統の柑橘を交雑し、交雑に交雑を重ねて作られたものだからである。

形質が安定していないことは、変化が大きいということだから、新品種を生みだす可能性もまた大きい。近年になって柑橘類は訳が分からなくなるほど新品種が開発・導入されているが、これは柑橘の巨大な多様性のお陰なのである。

それは古代中国においてもさほど変わらなかった。できたばかりのスウィートオレンジは遺伝的に安定せず、増やそうと思っても種からは増やせなかった。たくさんの種を取って、その中の一つから育てた木で甘い柑橘が穫れる、というような具合だっただろう。そのため、スウィートオレンジが長江流域に広がっていくには数世紀の時間を要した。

しかしその数世紀の間に、この新品種は膨大な数の交雑を経験したに違いない。そして生まれたたくさんのスウィートオレンジたちが、より美味しいものを求める人びとの手によって選抜されていった。それは意図せざる品種改良の数世紀だったのである。

ところで、そのような変異が大きい柑橘の木を元の形質を保ったまま増やしていくために、現代では「接ぎ木」という技術が使われる。接ぎ木というのは、別の植物の根っこ(台木)に、増やしたい植物の枝をくっつけて、一種のキメラ植物を作る技術である。植物には動物のような免疫機構がないので、別の植物にくっつけるという生体移植が容易に行えるのである。ちなみに、柑橘の台木にはカラタチ(枳)が使われることが多く、ほとんどの柑橘はカラタチの根を持っていることになる。

私たちが食べている普通の柑橘というのは、全てがこの接ぎ木によって増やされたものである。接ぎ木というのは一種のクローンだから、ある品種のミカンの木は全て、ある一本の木からコピーされたクローンというわけだ。

この「接ぎ木」、どうやら中国でもかなり古くから知られていたらしい。といってもいつから接ぎ木がなされていたのかは不明である。6世紀の記録に既に接ぎ木があるというから、少なくとも6世紀にはこの技術は一般化していたようだ。さらに推測すれば、中国古典において「橘」と「枳」が対応するものとして述べられていることを思い出すと、おそらくカラタチ台木を使った接ぎ木の技術は紀元前を遡るかもしれない。中国は、世界で最も古く接ぎ木の技術が発見された地域であろう。

この接ぎ木の技術が一般化することで、美味しい柑橘をならす木を効率的に増やすことができるようになった。それで、品種改良のスピードもアップし、生産量も拡大したに違いない。

さらにもう一つ、柑橘生産に役立つ栽培技術が紀元前後の中国で開発されている。それはいわゆるシトラス・アント(柑橘蟻)の利用である。私も小規模ながら柑橘を無農薬栽培しているが、柑橘の木というのは害虫にとても弱い。特に苗木の時は、農薬なしで育てるのは非常に難しいと思う。古代の柑橘はこれほど弱くなくても、農薬などない時代、やはり他の植物よりも育てるのが難しかったろう。

そのため、中国人はシトラス・アントという特殊な蟻を利用することを考えついた。これはツムギアリであると考えられているが、この蟻をあえて柑橘の木に棲みつかせることで、他の害虫を予防したのである。西暦304年に著された『南方草木状』には既にこの蟻が袋に詰められて柑橘栽培者へ向けて販売されていることが述べられており、これは世界で最も古い生物的防除の技術かもしれない。この技術は、それから1700年以上もの間、中国大陸において柑橘の害虫防除のために使われている。

こうした技術のお陰で、偶然によって生まれたスウィートオレンジは様々に品種改良され、また安定的に生産できるようになっていった。紀元後の数世紀で、中国大陸に世界最古の柑橘産業(citriculture)が成立するのである。そして、この新参者の甘いオレンジの一群を総称するものとして、中国人は「柑(かん)」——甘い木——という字を作り、与えたのであった。

【参考文献】
『Odessy of the Orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper
『ダニによるダニ退治: カナダからアメリカへ』2001年、森樊須

2014年8月28日木曜日

米作りにバーチャルでも参画してもらえる妙案はありませんか?

こちらに来てから3回目の米作りが終わって、なんだか、稲という植物がどういう風に生長していくかがなんとなく分かってきた。

作ったお米はどうしていたかというと、自家消費と余った分を農協に出荷する以外はごく限られた人にしか販売していなかった(そもそも売り先もない)。米作りはあくまで「田舎モノの嗜み」としてやっているだけで商売にするつもりはなかったし、水田を広げていくつもりは今でもない。

でも同じ手間をかけるなら、ただ嗜みとして作るだけでなく、もう少し楽しく作りたい気持ちがある。それに自家消費としての米作りは赤字で、どこかから買った方が安上がりだ。せっかく無農薬・無化学肥料で作っているのでJAに出荷するのももったいない。

そこで少し考えたのだが、来年は田んぼオーナー制みたいなのをやってみたいと思う。といっても、いわゆる田んぼオーナー制は、一区画のオーナーとなり、農作業に従事し、収穫は全てもらい受ける(オーナーだから当たり前)というものだが、この南薩の僻地に田植えや収穫に来ていただくのは大変だし、こちらの対応も難しいので、それはできない。

できそうなのは、日々の作業を事細かに記録して、ニューズレター風に報告することくらいだろう。でもそういうのが、実はこれまでの田んぼオーナー制では十分でなかった部分だと思う。「順調に育っています!」とか「稲穂が色づいてきました」とかいう情報発信はあっても、畦草払いをどれくらいしているのかとか、植え付け前の田起こしや代掻きの様子から情報発信するというのはなかなかないのではないか。

というか、こういう地味な作業を行う時にいちいち写真を撮って報告するというのはものすごく手間だから、やろうと思っても難しいのが実際だ。でもだからこそ、そういう情報をマメに提供するのは意味があるかもしれない。

だが、日々の具体的な作業がわかっても、別にお米の味が変わるわけではないので、ただ栽培記録が届くだけだとものたりない感じがする。それは定植前に予約受付を行うお米の予約販売にすぎないような気もする。オーナーではないにしても、どこかで「自分のためのお米」が育てられている感じがないと、栽培記録はただの水稲栽培のお勉強になってしまう。つまり、人と田んぼの接点が情報以外で何もないなら、それは単にものすごく詳細な栽培記録つきのお米を販売することと変わらない。

だからこそ田んぼオーナー制では、ただ田んぼを所有するだけでなく、田植えや収穫作業を手伝うというのが基本形になっているのだろう。でも私の場合は、そうした対応をするのは難しいし、そもそも田んぼを本格的にやっているわけでもないので仮に対応できたとしても違和感がある。

私が田んぼでやれたらいいなあと思うのは、「田舎から届くお米」みたいなものを田舎を持たない人に提供する活動である。それを単純化すると、個人向け契約栽培米ということになるが、契約栽培ということより、もう少しコミュニケーション(双方向性)が欲しい。うーん。

と、くだくだしく書いてきたが、要は私の米づくりに、バーチャルでいいから誰か参画してもらえたら楽しい(あと売り先もできる)ということなのである。それを実現する妙案が思い浮かばないので、もしグッドアイデアをお持ちの方はコッソリ教えていただければ幸いです。

2014年8月13日水曜日

大浦まつりが開催されます

2014年10月19日、大浦まつりが開催される。

大浦まつりは、各地区で行われていたお祭りを糾合して町内全体のお祭りとして始まったもので、今年で第6回目になる。一応、自称(?)「大浦地域最大のイベント」である。

内容は結構盛りだくさんで、ステージもあるし、屋台的なものもあるし、イベント的なものもある。会場は違うがスポーツ大会も行われ、体育館では展示もある。そしてなんと、今回は特別展示として、先日開催されて大きな話題を呼んだ「南薩鉄道100年企画展」の展示が大浦まつりに巡回することにもなった(はず)。

私も今年は実行委員の末席を汚していて、なんだかよくわからないまま実行委員会に出ているのだが、ちょっと驚いたことがある。それは、このお祭りの予算のほぼ1/3が市役所からの補助金で成り立っていることだ。ほか農協や商工会、観光協会の補助金と合わせて、こういう(半)公共機関からの補助金が予算の半分を占める。事務局を役場が担っているのは、まあ田舎ではよくあることと思うが、予算の半分が補助金というのは、継続性が心配である。

お祭りというのは蕩尽の機会であるからもとより赤字なのは当たり前だが、だからこそ、寄附によって地域の人達が支えなければ成立しない。だいたいこういう地域のお祭りでは、金参万円○○、金壱万円○○、と長々しい寄付者リストが掲示されているものだ。一方で、大浦のひどい過疎化を考えると、商工会の努力も厳しくなってくるだろうし、一戸あたりいくら…という形で集めている現在の寄附募集の方法だと限界があるのも明らかである(寄附の集め方は集落によって違うようだが)。
 
私は、南薩地域の大きな強みは都会に出て行った人の割合が非常に大きい、ということだと思うので、こういう時こそ、大浦をふるさととする多くの方々の助力が願えないかと思う。昨年も、関東・関西在住の町出身者から合わせて10万円の寄附があったそうである。少し他力本願な気もするが、ここの割合を増やしていくことはできないものか。

もちろん、ただ「お金を出してください」というのではつまらないから、例えば大浦まつりに合わせて同窓会を開催することに協力するとか(例えば、会場に近い遊浜館の協力を得て同窓会の会場を斡旋)して、同日の同窓会開催を応援してはどうか。日程的に近い大浦小学校の運動会で還暦同窓会が行われる手はずになっているということだから少し重複感はあるが、せっかく同窓会で集まるなら、町内のいろんな人が顔を出す機会に開催したいという需要はあるように思う。同日で同窓会が行われれば、「○○年卒一同」で寄附が期待できるだろう。

それはともかくとして、このたび大浦まつりへの支援・協力をお願いする「趣意書」が配布されたのでここにお知らせする次第である。でもこの趣意書は寄付依頼そのものではないので、寄附の振込先などは書いていない。万が一大浦まつりを支援したい! という方がいらっしゃれば、南さつま市役所大浦支所(0993-62-2111)へご連絡をよろしくお願いします。

2014年8月11日月曜日

中国古典に見る柑橘——柑橘の世界史(2)

屈原(横山大観作)
中国大陸では古くから柑橘が利用されていたようだが、どのように扱われていたのだろうか。中国古典における柑橘の記述を探ってそれを確認してみたい。

その嚆矢は『書経』である。『書経』は伝説的古代を語る中国で最初の歴史書であり、成立年代ははっきりしていないが、紀元前7世紀あたりから徐々にまとめられ、紀元前4世紀ほどには成立したと見られている。柑橘の記載があるのは、中国の初代王朝である「夏」の歴史を述べる部分で、「禹貢」という章である。

「禹(う)」は夏の聖王であり、黄河と長江に挟まれた広い領域の土木事業・治水事業を行い、後世の模範となる善政を敷いたとされている。「禹貢」は、禹が各地を平定し、それぞれの地域ごとに貢ぎ物(税金のように定例的に上納するもの)を定めるという構成の章である。

柑橘が述べられるのはこの章の「揚州」の項。揚州とは、長江流域の地域を指し、ここからの貢ぎ物として「金、銀、銅、瑤(よう)、象牙、孟宗竹、木材」などなどを禹は指定している。そしてその貢ぎ物に付随するものとして「橘と柚(ゆず)」を挙げている(※)。ここでいう「橘」は柑橘の総称であり、「柚」はユズのことと解されている。

「禹貢」全体を通じてみても、貢ぎ物は各地の特産品、それも特に貴重なものが指定されているから、古代中国において「橘と柚」はかなり貴重・珍重なものだったことがわかる。ではそれはどのように利用されていたのだろうか。今の我々と同じように、古代中国の人びともミカンを食べていたのだろうか?

実は、歴史の黎明の頃、まだ橘や柚は食べるものではなかったようだ。それを示唆するのが『楚辞』の記述である。『楚辞』は文字通り「楚の言葉」の意で、紀元前3世紀ごろにまとめられた楚の詩集。「楚」は長江流域にあった国家の名で、地図的には先ほどの「揚州」と重なる。

『楚辞』の主要作品の作者である屈原は「橘頌(きっしょう)」という詩を詠んでいて、「九章」という連作詩の一編をなしている。これはまず間違いなく柑橘をテーマにした最古の詩であろう。 「橘頌」はこういう風に始まる。
后皇の嘉樹、
橘徠(きた)り服す。
命を受けて遷らず、
南国に生ず。
深固にして徙(うつ)し難く、
更に志を壱にす。…

皇天后土の生んだよい樹、
橘はここに来て風土に適応し、
天の命を受けて他国に遷らず、
南国楚に生ずる。
根は深くて移植しがたく、
その上その志は一途で二心がない。…(星川 清孝訳)
こういう調子で、「橘頌」は橘の美点(見た目が美しいとか)を次々と挙げ、自分もそのように清廉潔白で志が高くありたいと理想的人格を投影している。

少し話が脱線するようだが、この機会に屈原について語っておこう。屈原は楚の王家に生まれ、博覧強記で政治能力が高く王の寵愛を受けながら、そのために妬まれ讒言を受けて左遷され、自分の諫言が受け入れられないことを嘆いて楚の将来を悲観し、ついには入水自殺した人物である。「九章」は、王から遠ざけられて悲憤慷慨し、また憂愁の情を抱きながら、それでも自分は清廉に生きていこうとする内容の連作詩であり、極めて叙情的であるとともに神話伝説などをも織り込み、天上世界にまで到達するというロマン的な筋書きを持っていて、ダンテの『神曲』を彷彿とさせる

この一遍として「橘頌」はある。ただ橘が美しいので自分もそうありたい、というだけのことではなく、讒言を受けても左遷されても結局楚を離れなかった屈原の、決して他国に移植することのできない橘のように自分も楚で生きていくのだ、という強い決意を表明したものなのであろう。

そして問題なのは、屈原が掲げる数々の橘の美点である。緑の葉に白い花がまじって可愛らしいとかいろいろ橘を褒めるのだが、一言も「美味しい」とは褒めないのである。橘が食べるものであったとしたら、これは甚だ不自然なことであり、おそらく屈原は橘を食べたことがなかった。柑橘をテーマにした世界初の詩を編むくらいであるから橘を愛でることにかけては激しかったはずの屈原すら美味しいとは褒めないわけで、ここに詠われている橘が食用でなかったことは確実である。

おそらく、古代中国において、橘は主に観賞用や香料、そしておそらくは薬として使われていた。このころの橘は、概して酸っぱいものであり、 食用に適したものではなかったようである。しかし不思議なのは、湖南省の、紀元前450年のものと推定されているお墓からスイートオレンジの種が見つかっていることである。つまり、古代中国においても既に甘い柑橘は存在していた。だがその栽培が難しかったのか、あるいは増やすのが難しかったのか、この甘い柑橘が広まっていくには暫く時間を要した。

また、「橘頌」でも「橘はここに来て風土に適応し」と述べられているように、古代中国においてはまだ橘は外来のものと認識されていたようだ。私は柑橘の伝来は稲作と同じくらい古いのではないかと想像するものだが、少なくとも屈原の愛した橘は、古代において「かつてはそこになかったもの」であった。その時代に品種改良された新しい「橘」だったのだろうか?

最後に『晏子春秋』の記載も紹介しよう。これは戦国時代の斉において宰相を務めた晏子の言行録であるが、そこに「南橘北枳」のエピソードが出てくる(内篇雑下第六第十章)。晏子の言として「橘は淮南で生ずれば橘となり、淮北で生ずれば枳になる」という。これは、淮南(淮河の南)と淮北で気候風土が異なることを述べる言葉なのだが、既にこの頃カラタチ(枳)が知られ、橘に対応するものであると考えられていたのが面白い。

そして、『晏子春秋』には、楚王が晏子を饗応するのに橘を勧める場面も出てくる。やはり食べられる橘の品種もあったことはあったらしい(楚王はことある毎に晏子に嫌がらせをするので、嫌がらせの一環だった可能性もあるがこの場面では違うと思う)。王様が勧めるくらいだから、相当に珍重なものだったのは確かだろう。

これらの中国古典から考えると、古くから長江流域(古くは揚州、後に楚国となった地域)には橘や柚が産したが、それらは当時としては外来のもので、また甘い品種は極めて限定的で多くの品種は食用ではなかったようである(というか、橘が甘いという記載は古典には見当たらない)。しかし、アッサムから長江へと渡ってきた柑橘は、中国大陸で徐々に美味しい果物へと変化していく。おそらく、屈原や晏子が生きた戦国時代が、柑橘が甘いものとなっていくターニングポイントだったのではないだろうか。

【参考資料】
『中国古典文学大系 書経・易経(抄)』1972年、赤塚 忠
『楚辞』1980年、星川 清孝
『Odessy of the Orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper

※ 原文「厥包橘柚、錫貢」。「錫貢」の意味は完全に確定していないが、「王命を受けてから持参する」の意とされている。貢ぎ物のように定期的に上納するのではなくて、特に指示があった時に納めるもののようである。

※冒頭画像はこちらのサイトからお借りしました。