鹿児島の醤油は、ものすごく甘いことで有名である。
鹿児島県民は、学業や就職で首都圏に出ると醤油が塩辛いことに驚き、故郷の甘い醤油を懐かしんで、わざわざ醤油だけは鹿児島から甘いものを取り寄せる人もいる。そして逆に、県外から鹿児島に来た人は、甘い醤油に驚く。気に入る人もいるし、苦手に思う人もいて、観光地のレストランなどでは甘い醤油と普通の醤油が両方おいてあることも多い。
そして、県外からも、県民からも、甘い醤油は鹿児島の伝統である、と思われている。だが、それは本当だろうか?
実は、甘い醤油の歴史はさほど古いものではない。少し考えれば分かることだが、近代化以前の世界では砂糖はべらぼうな高級品であったから、これを塩辛い醤油に混ぜるというもったいない真似をするわけがない。
ではいつから鹿児島の醤油は甘いのだろうか。
ところで、 醤油や味噌といった調味料は、明治時代くらいまでは全国どこでも各家庭で作るのが普通だった。こうした調味料は各家庭の「味」であって、美味しい醤油や味噌を作れることが、奥方の誇りにもなっていたのである。
明治時代になって、圧搾機とか火入れ釜のような各種機械が輸入されるようになり、醤油醸造が工業的に営まれるようになってくる。依然として醤油や味噌は各家庭で作るものという考え方は根強かったが、次第に共同で作るようになり、やがて購入するものに変わっていった。それには、工業化に伴う、家庭の多忙化が関係している。
例えば味噌の場合、戦前から戦後にかけて購入商品の割合が増えてくるのだが、これは男衆が徴兵されたり、軍需工場で働かされたりしたことで農村が女性ばかりになり、人手が足りなくなったことが遠因である。忙しい中で、手間のかかる味噌づくりを省力化するため、集落共同での味噌づくりが奨励されるようになり、各家庭での味噌づくりが次第に減っていったらしい(鹿児島の場合。他県のことは知りません)。
醤油醸造の場合は味噌よりももっと手間がかかるわけで、味噌に比べると自家生産から工業生産に移り変わるタイミングは早く、 詳しくは分からないながら大正時代くらいには自家生産が下火になってきていたようである(同じく鹿児島の場合です)。
工業生産といっても、最初は家内工業的なものが中心で、村ごとに醤油屋さんがあるような感じだったが、昭和に入ってくると微生物学などに基づいて科学的に醤油が醸造されるようになり、また機械の大型化などで資本力の劣る小規模な醸造所が淘汰されていった。そんな中、太平洋戦争では鹿児島市内は空襲で焼け野原になってしまったので、醤油工場の多くが灰燼に帰してしまった。
戦後になると、食生活の向上に合わせて醤油もより高品質・衛生的なものが求められるようになった。昔ながらの醤油醸造は菌の扱いが職人の勘に頼っていた部分があり、温度管理なども十分に出来なかったので消費者の求める均質な商品を作るのが難しかった。そのため大型の設備を用いた醸造方法が中心になってきて、なおさら小規模な醸造所は生き残れなくなってきた。
そのため、県内の醤油醸造所は製麹・発酵・圧搾までの工程を共同化することにし、昭和42年(1967年)、隼人町に「生揚醤油共同生産工場」を設立した(写真)。現在では、鹿児島の醤油メーカーは数あれど、ほとんどがこの工場で醸造した生醤油を元にして、それぞれの味付けを行って醤油を製造・販売している。鹿児島の醤油は一見多様であるが、ほぼ全てこの工場の醸造がベースとなっているのである。
さて、鹿児島の醤油が甘くなったのは、戦後からこの共同生産工場が設立されるまでの間のようである。県内の多くの醤油工場が罹災してしまったため、この時期にはナショナルブランド(キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタ、ヒガシマル、マルキン)が鹿児島に進出してきた。これら大手は、生産の合理化や機械化に積極的に取り組んで高い醸造技術を持ち、しかも安価な製品を生みだしていた。
生産力・販売力に長けるナショナルブランドに対抗するため、県の工業試験場では消費者・業界からの要望でサッカリンやシュガロンといった人工甘味料を用いた甘口醤油造りを研究、昭和32年(1957年)ごろに県内業者が共同して甘口醤油を売り出したのであった。普通の醤油では大手メーカーに対抗できないため、県民の嗜好に合わせた新たな商品として甘口醤油は開発されたのである。
というわけで、鹿児島の醤油が甘いことは50年くらいの歴史はあるが、それ以上ではなくさほど古い伝統とは言えない。しかも醤油の甘さは元々がサッカリンなどの人工甘味料のに由来していて、「鹿児島の甘い醤油の伝統」があるとすれば、それは人工甘味料の甘さである。
でも「元々鹿児島の人は甘口の味付けが大好きで、醤油もその嗜好に合わせて甘くなっているのだから、そのものは古くからのものでないにしても、伝統に沿ったものであるといえるのでは?」と反論する人がいるかもしれない。このあたりでは「甘いは美味い」という、とりあえず料理は甘口にしておけば美味しいという格言(?)すらある。
しかし残念ながら、鹿児島の人は甘口の味付けが大好き、というのもさほど古いことではない。藩政時代の鹿児島の料理の実態はよくわからないが、明治期については若干の資料がある。例えば『薩摩見聞記』という本で、これは当時の鹿児島の庶民社会を知るのに格好の資料である。
この本は、本富 安四郎という人が書いた。本富(ほんぷ)は新潟から教師として明治22年(1889年)に鹿児島に赴任し、数年間滞在。そこで見聞した「異国情緒」ある事柄をまとめたのが『薩摩見聞記』である。
そこには、興味深いことがたくさん書かれていて、現在の鹿児島で伝統だと思われていることが当時には真逆であったり、逆に今と変わらない鹿児島県民の姿もある。この本の興味深い点については機会があればまた書いてみたいが、今注目するのは料理についてである。
『薩摩見聞記』の料理関係の記述を探してみると、「宴会」と「飲食物」という項があり、鹿児島の宴会が独特だ(大規模でくつろいだ雰囲気)ということと焼酎の話題が多い。食材については山海の恵みが豊かだという具体例を様々に挙げるが、料理の味付けについては特に記述がなく、本富は鹿児島の料理が取り立てて甘口だとは感じなかったようである。一言「塩梅(味付け)は鹿児島にては甘けれども村方にてはやや塩辛く」とあるくらいだ。
これについても、そもそも日本料理は世界的に見ればかなり甘口の味付けをする方で、海外から来た人に、「ジャガイモでもニンジンでも日本人は甘い味付けをするんだなあ」と思われるくらいであるから、ことさら鹿児島市街地が他県と比べて甘口の味付けを好んでいたとは思えない。
では、いつから鹿児島県民は料理に甘口の味付けをするようになったのだろうか?
これについては、確たる資料がないので憶測になるが、やはり戦後の現象だと思う。始めの方に述べたように、近代化以前の世界では砂糖そのものが超高級品であるため甘口の味付けには限界があった。ところが戦後、全国的に甘口の味付けが好まれるようになってくる。というのは、海外からの安い砂糖が入ってきて砂糖の価格がドンドン下がってきたからで、砂糖を比較的自由に使えるということに伴っての変化だっただろう。
そのために砂糖の消費量が増大したが、政府は砂糖購入による外貨の流出と国内砂糖産業への打撃を緩和するため砂糖の輸入量を制限。そのために人工甘味料の需要が高まってくるのである。特にサッカリンは砂糖の数百倍の甘みがあるため、砂糖の代用品として工業的に多く使われた。
鹿児島で甘口醤油が開発された1950年代は、ちょど砂糖が供給不足になり、人工甘味料が広く使われた時代と重なっている。これは推測だが、甘口醤油は、醤油自体の味がどうこうというよりも、料理の際の砂糖を節約するために好まれたのではないか。甘みの強い醤油を使えば、砂糖をさほど使わなくても甘辛い煮物ができるということで、節約志向の主婦に喜ばれたであろう。県民所得が低いことにかけては定評がある鹿児島県のことで、貧しさ故の苦肉の策が甘口醤油を生んだのかもしれない。
だが、1963年には粗糖が輸入自由化され、1970年代にはサッカリンに弱い発癌性があるとの疑いがあり発売中止になった(その後解除)。だいたい1960年代までが単純な砂糖の代用としての人工甘味料の黄金時代で、その後は砂糖の価格がかなり下がって供給も安定したため、「甘口醤油」の存在意義もさほどなくなったのではないかと思う。
しかし甘口醤油は鹿児島の新たな伝統となり、最近では観光客が鹿児島の甘い醤油が美味しいということで買い求めることも増えてきた。そもそも、鹿児島の料理自体が甘口醤油を前提として作られるようになり、甘口醤油なしでは「お袋の味」が再現できなくなってしまった。
鹿児島の甘口醤油が真の意味で伝統的でないからといって気後れする必要はない。しかし、鹿児島の醤油は甘くなきゃならない、と決めつける必要もない。私は甘い醤油も好きだし、キッコーマンの醤油も好きで、料理によって使い分けている。あまりよくないのは、ごく最近の現象に過ぎないものを伝統だと思い込み、狭量なナショナリズムに陥ることである。美味しいと感じるものを素直に追求して、新たな鹿児島の食文化をみんなで作っていけたら楽しい。
【参考文献】
『鹿児島の伝統製法食品』2001年、蟹江 松雄、藤本 滋生、水元 弘二著
『薩摩見聞記』1898年、本富 安四郎著
2014年7月9日水曜日
2014年6月27日金曜日
「ペクチン」のお勉強

これには、ペクチンというものの化学反応が関係している。ジャムは、砂糖、ペクチン、酸の3つが適度な割合で存在していないとうまく固まらずドロリとならない。この3者の化学反応によって、元々はサラッとしている材料から、ドロリとしたジャムができるのである。
では、その反応は具体的にどのようなものなのだろうか。また、そのような反応が起きるのはなぜなのだろうか。そして、ジャムの食感を狙い通りに作るにはどうしたらよいのだろうか。そうしたことを知るには、ペクチンの物性を理解しなくてはならない。というわけで、『ペクチン―その科学と食品のテクスチャー』という本を読んで勉強したのでその内容を備忘を兼ねてまとめてみよう。
■ペクチンとは何か?
そもそも、ペクチンは植物の中でどのように存在し、どのような役割を果たしているのだろうか。ところで、「ペクチン」という単語は「ペクチニン酸を主成分とする植物由来の多糖類の混合物」を指していて、物質自体の呼び名ではない。だから、「ペクチンの物性」というような言い方は少しおかしい。正確には、「ペクチニン酸の物性」と言わなくてはならないし、植物の中に存在する状態について述べる時は、「ペクチン質」という単語を用いるのが適切である。
で、ペクチン質が植物の中でどんな役割を果たしているのかというと、大雑把には細胞同士の接着剤と言える。ペクチン質は細胞壁と中葉組織(細胞と細胞の間)に存在していて、細胞と細胞をくっつける役割を持っている。
ペクチン質の主成分であるペクチニン酸は、細胞壁を構成するセルロースと同じような多糖類(糖類が鎖状に連なったもの)である。しかし、種々の点でペクチニン酸とセルロースは異なった性質を持つ。
第一に、セルロースは一度生成されると植物自身にもそれを分解する能力がないのに対し、ペクチニン酸には可逆的な生成機構がある。例えば、青い果実は硬く、熟すると軟らかくなるのはペクチン質が関係している。こうした植物の硬軟化が起こるのは、生成されたペクチニン酸が変化することによるのである。
第二に、セルロースはグルコースという糖だけを材料にした多糖類なのに対し、ペクチニン酸は主成分のガラクツロン酸(ガラクトースという糖が酸化されたもの)に加え、ラムノース、キシロース、ガラクトース、アラビノース、グルコースなど様々な糖を含む複合多糖類である。しかも、直鎖のみならず側鎖(枝分かれした部分)を持っていて、構造は遙かに複雑である。そのために、ペクチニン酸の正確な構造は現在においても解明されていない。そして、こうした複雑な構造があることから、一口にペクチンといってもその機能や性質は植物によって様々であり、リンゴのペクチンとカンキツのペクチンではかなりの違いがある。その違いが、いわばリンゴとカンキツの(特に煮たときの)食感の違いを生むわけだ。
つまり、ペクチン質は細胞間の接着剤として、植物の固さを制御する機能を持っているのである。これは、植物を食品としてみるとペクチン質がその食感を定めている、と言える。
■ペクチンの変化と食感の変化
ペクチンは植物の固さを制御しているから、同じ植物の果実でも、未熟な時と成熟した時、そして収穫後に追熟した時ではその組成が随分と変化する。一般に、ペクチニン酸を構成する糖類の組成がかなり変化し、徐々に水溶性のものへと変わってくことで果実が軟化していく。では、植物組織を加熱すると(肉の場合とは逆に)軟化するのであるが、これもペクチンが関係しているのだろうか? 実はその通りで、加熱によりペクチン質が分解・変質して細胞間の接着がゆるみ、また細胞壁が薄くなることで軟化するのである。
このように、野菜や果物を茹でると軟らかくなる、というごく当たり前の現象の原因にペクチンが関与していることがわかったのは今世紀に入ってからで、本格的な研究が行われ出したのはようやく1940年代になってからである。
しかし、加熱による固さの変化というのは野菜・果物によってかなり違っている。茹ですぎると硬くなる野菜もあるし、一度硬くなってから軟らかくなる野菜もある。ペクチンは加熱によって単純に分解されていくのではなく、pHや溶液中のイオン、そしてペクチン質の組成そのもの次第で複雑な化学変化を伴うのである。そういうわけで、野菜・果物ごとにペクチン質が加熱によってどのように変化するかは未だ十分には分かっていない。
ただ、基本的にはペクチニン酸は加熱によって分解されていく。問題は、それがどのように分解されるかということだ。固さを保持して加熱したいこともあれば、逆にあまり加熱せずに軟らかくしたい時もある。食感を制御しながら加熱するにはどうしたらよいのか?
その答えは植物次第であるから万能の答えはないが、実は、ペクチンはそのメチル化の程度によって加熱の崩壊度が著しく異なることがわかっている。例えば、完全に脱メチルしたカンキツのペクチンはpH6以上で長時間加熱してもペクチン分解を起こさないことが分かっている。つまり、長時間煮ても軟らかくならない。理論的には、ペクチンのメチル化度を調整することで加熱による軟化の影響を操作することができるのである。
これは、「予備加熱(pre-heating)」の基盤となる理論である。予備加熱というのは、植物起源の食品を60〜70℃の低温で長時間予め加熱しておくことで、その後の調理の加熱による軟化を防止する技術である。例えば、加熱殺菌が必要な保存食品の場合、殺菌の際の加熱でふにゃふにゃになりその食感が損なわれてしまうことがある。そういう場合、予備加熱をしておくことで、食感を損なわずに加熱殺菌ができるのである。
例えば、ニンジンを缶詰にするときには、76.7℃で予備加熱しておくとその後加熱してもその硬度が最もよく保持される。
予備加熱は、低温の加熱によってペクチニン酸を脱メチル化することで、その後の高温加熱による分解を阻害して食感を維持する技術なのである。
このように、ペクチン質はメチル化の程度によってかなり性質が異なる。ここで、「メチル化」ということの意味を少しだけ解説しておこう。ペクチン質の主成分、ペクチニン酸の枢要な素材はガラクツロン酸なわけだが、これはガラクトース(糖)が酸化したもので、カルボキシル基を持つ。ペクチニン酸とは、このカルボキシル基のうちいくつかが、メタノールによってエステル化(=メチル化)したものなのである。そして、カルボキシル基がどのくらいの割合でメチル化しているか(メトキシル含量)、ということがペクチンを分類する際の大きな指標となっている。
具体的には、メトキシル基が分子量で全体の何%に当たるかで分類されていて、全てのカルボキシル基がメチル化した場合の最大値が16.32%なので、その約半分の7%を境に、それより大きいペクチンが「高メトキシルペクチン(HMP)」、それより小さいペクチンが「低メトキシルペクチン(LMP)」と呼ばれている。
HMPはジャム、ゼリーなどの製造に用いられ、糖と酸の存在化で水素結合型のゲルを形成する。一方、LMPはカルシウムやマグネシウムなどの多価カチオンの存在下でイオン結合型のゲルを形成する。ただこのゲルは一般のゼリーなどとは異なっているので、普通のジャムなどには用いられない。LMPのゲルは固形料が少なくて済むことや広いpH領域があることで広範囲な利用が可能で、サラダやデザートの調製、食品の被覆(スプレー)、魚の冷凍ヤケの防止などに用いられる。
LMPのことはさておき、普通のジャムを作る材料であるHMPについてもう少し詳しく見てみよう。
■ジャムとペクチン
HMPがゲル化する過程はとても複雑で、ゲル形成を説明するのに種々の理論が提唱されていてまだ完全には解明されていない。とはいえ基本的な考え方は固まっていて、「負の親水コロイドであるペクチニン酸に、糖が脱水剤として作用し、水素イオンがペクチニン酸の負の電荷を減少させ、分子の凝集を促し、網目構造を形成する」というのが定説だ。一般に思われていることとは違い、ジャムの硬化は熱による化学変化によって引き起こされるのではなく、物質の組み合わせに由来するのである。つまり、ペクチンによってジャムを作るためには、脱水に十分な糖と、水素イオンが必要である。水素イオンはすなわちpHで表されるから、糖の濃度とpHの調製がジャム形成に不可欠である。具体的には、ゲル化には最低でも糖度55%以上、pH3.0程度の溶液を作ることが求められる。
pHは酸によって調整するが、pHは酸の濃度そのものでなく、遊離した水素イオンの濃度(の対数)であるから、酸の濃度を高めてもさほど影響が大きくは出ない。ということで、ジャムの強度(固さ)を決めるのは、大雑把にはペクチンと糖の量である。ジャムをパンなどに塗るのに十分な硬度にするには、だいたい糖度は65%くらいは必要である。
事実、1988年にJASが改正される前は、JAS規格ではジャムは糖度65%以上となっていた。それが、健康志向の高まりなどで低糖なものが求められるようになり、実際に65%未満のジャムが主流になってきたことから、現状に合わせる形でJASが改正され、現在の規格では40%以上ということになっている。
しかし、40%の糖度では普通には硬度が求められる水準に満たないことから、様々な添加物が用いられており、どっちが健康なんだかわからないような状況もある。
ところで、糖度が65%のジャムというと、水分が30%程度だとすると、水分と糖で95%なのでその内実はほとんど砂糖水である。ペクチン、酸、そして種々の成分はほとんど1%未満の微量成分ということになる。つまり、どんな種類のジャムであれ、その味はほとんど甘いだけのものだ。だが、酸味や苦みは舌がより鋭敏に感じるので、実はそういう微量成分が大事である。さらに、味覚には直接関与しない香り成分がジャムの味を左右していて、ジャムの味というのは、1%未満の成分をどう調整するかという非常に微妙なところで決まっているのである。
■ジュースとペクチン
最後に、ペクチンのもう一つの重要な側面について触れる。それは、果汁の清澄化である。リンゴの果汁を搾ると白濁したジュースができるが、市販のリンゴジュースは澄んでいて白濁していないものがある。これはどうやって清澄化しているのだろうか。実はこれがペクチンの操作による。ペクチンはコロイドとして果汁中に存在しているから溶液が濁ったように見えるが、このペクチンを分解してやると透き通ったジュースができるわけだ。ではどうやって分解するかということになる。
加熱してもペクチンを分解することができるが、高温が必要なのでジュースが変質してしまう。低温でペクチンを分解するにはどうしたらよいか。
さて、最初の方で触れたように、植物内でペクチンは生成だけでなく分解もされるので、このため植物内にはペクチンの分解酵素がある。この分解酵素を用いてペクチンを分解すればジュースを清澄化することができるのである。
具体的には、工業的にはポリガラクツロナーゼというものが使われている。植物内にもあるが、工業的には微生物培養したものが使用されている。その他、ペクチンの分解酵素にはいろいろなものがあり、これらを調整することによって食品の食感を変えることもできるのである。例えば、粘度の高い果汁に分解酵素を作用させることで、サラッとしたジュースを作ることができる、といった具合である。
ペクチンは、食品の味ではなくて食感を左右するという面白い物質である。しかし、構造が複雑であることや、結晶化などによって純粋なペクチニン酸を取り出せないこともあって、それがどのように食感を左右し、そしてそれをどうやって人間が操作できるか、ということがまだまだ各論レベルではわかっていない。とはいえ、最終的に美味しい食品ができればその化学変化などはある意味どうでもいい。無添加で低糖なジャムを身の回りの食材だけを使って作るにはどうしたらよいのか、そういう単純なことを知るために、少しでも役立ったらよいのである。
2014年6月20日金曜日
「共生・協働のむらづくり」に取り組むなら
我が久保集落が、「共生・協働のむらづくり活性化事業」なるものに取り組むこととなった。これは鹿児島県の補助事業で、要は地域の活性化を図るものだ。
私も最初は事情をよくわかっておらず、「むらおこしに取り組めということなんだろう」と思っていたのだが、県のWEBサイトで事業目的など読んでみるとどうも少し違う。
そもそも「むらおこし」ではなくて「むらづくり」なのがポイントだ。「むら(集落・共同体)」は既に存在しているわけだが、それをさらに「むらづくり」するとはどういうことか?
実はこの事業は、ただのむらづくりではなくて、「共生・協働のむら」というものをつくろうとするものらしい(つまり、「共生・協働の/むらづくり」ではなくて「共生・協働のむら/づくり」と読むのが正解だ)。で、「共生・協働のむら」とは何か? というと、私なりの理解では、行政だけに頼らずに、そのむらに関わるいろいろな組織や個人が役割分担をして集落機能を維持していく共同体、のことである。
「いや、それこそ集落そのものであって、むしろ「共生・協働のむら」でない集落って一体?」という声が聞こえてきそうだが、私も正直、この「共生・協働のむら」の概念がよく分からない。だが、県の意図としては、「今後、全てを行政のみで提供していくのは限界になるので、官民協働で地域に必要なサービスを提供していく”新しい仕組み”が必要です」ということがあるらしく、”新しい仕組み”がなんであるかはひとまず措くとして、それは一般論としては理解できる。つまりは、低下した自治意識・機能をもう一度強化しましょう、ということのようだ。
そういう目的の事業であるから、「集落の抱える課題を行政まかせにするのではなくて集落民自身(やその協力者)によって解決しよう!」というのが具体的な実施内容になる。これまでの活動事例集を見てみると、活動はだいたい次のようにまとめられる。
これらは、参加してそれなりに楽しめるものが多いし、必要性の高いものだったりするので、よい取り組みだとは思う。だが、本事業の目的が自治意識とその体制を変えていこうとするものならば、それと合わせて、別の方向性もあってよいのではないか。
例えば、過疎地の農村では、「自治意識の低下」がないとはいはないが、少なくとも都市部よりは昔からの自治組織が残っていることが多い。自治公民館を中心として、青年団とか、婦人会、子供会、老人クラブというのも一種の自治組織と見なせるだろう。
こうした組織の活動は、ややもすれば惰性的になり、慣習的な運営となりがちである。特に、集落の人口減と高齢化によって従前の活動を続けていくことが困難になっているにも関わらず、なかなか体制を変えていくことができない場合が多いのではないかと思われる。
久保集落の場合は、こうした自治組織はかなり整理されてきているようだが、もう少し改善する余地があるかもしれない。「低下した自治意識・機能をもう一度強化しましょう」というお題目とは逆行するが、自治会活動への負担を減らすということだって考えられるのである。
とはいっても、今まであったものを急になくすというのは難しいことで、やはりスクラップ&ビルドで、新しいもので置き換えていく必要がある。例えば、何らかの収益事業を行ってその収益で穴埋めをする、といった工夫がいるので、それはそれで骨の折れることだ。そういう骨の折れることを、この「共生・協働のむらづくり活性化事業」でできたらいい。例えば「イワダレソウ」という草払いの労力が減る被覆植物を公民館の法面に植える案が出ているが、そういうやり方もよいと思う。
これから、「何に取り組むか検討していきましょう」という議論をやっていくが、せっかくの機会なので、むらおこし的なものだけでなくて、集落活動の見直しやその前段階として「見える化」のようなこともできたら面白いかもしれない。
私も最初は事情をよくわかっておらず、「むらおこしに取り組めということなんだろう」と思っていたのだが、県のWEBサイトで事業目的など読んでみるとどうも少し違う。
そもそも「むらおこし」ではなくて「むらづくり」なのがポイントだ。「むら(集落・共同体)」は既に存在しているわけだが、それをさらに「むらづくり」するとはどういうことか?
実はこの事業は、ただのむらづくりではなくて、「共生・協働のむら」というものをつくろうとするものらしい(つまり、「共生・協働の/むらづくり」ではなくて「共生・協働のむら/づくり」と読むのが正解だ)。で、「共生・協働のむら」とは何か? というと、私なりの理解では、行政だけに頼らずに、そのむらに関わるいろいろな組織や個人が役割分担をして集落機能を維持していく共同体、のことである。
「いや、それこそ集落そのものであって、むしろ「共生・協働のむら」でない集落って一体?」という声が聞こえてきそうだが、私も正直、この「共生・協働のむら」の概念がよく分からない。だが、県の意図としては、「今後、全てを行政のみで提供していくのは限界になるので、官民協働で地域に必要なサービスを提供していく”新しい仕組み”が必要です」ということがあるらしく、”新しい仕組み”がなんであるかはひとまず措くとして、それは一般論としては理解できる。つまりは、低下した自治意識・機能をもう一度強化しましょう、ということのようだ。
そういう目的の事業であるから、「集落の抱える課題を行政まかせにするのではなくて集落民自身(やその協力者)によって解決しよう!」というのが具体的な実施内容になる。これまでの活動事例集を見てみると、活動はだいたい次のようにまとめられる。
- 文化・伝統の継承
- 伝統行事・文化の継承と活性化
- 史跡や文化遺産の再認識やパンフレット・看板の作成
- 農業の振興
- 直売所の設置や売り上げの向上
- 農産加工品の開発と販売、新たな特産品の栽培
- 集落営農(営農組織の立ち上げ、拠点となる機械置き場や堆肥置き場づくり、耕作放棄地の解消)
- 地域内・地域外交流
- 地域の異世代交流(餅つき大会、伝統行事など)
- 花を植える、文化財を清掃するなどの美化活動
- 都市住民との交流(農家民宿、ほたる観察会、農業体験、田んぼのオーナー制)
これらは、参加してそれなりに楽しめるものが多いし、必要性の高いものだったりするので、よい取り組みだとは思う。だが、本事業の目的が自治意識とその体制を変えていこうとするものならば、それと合わせて、別の方向性もあってよいのではないか。
例えば、過疎地の農村では、「自治意識の低下」がないとはいはないが、少なくとも都市部よりは昔からの自治組織が残っていることが多い。自治公民館を中心として、青年団とか、婦人会、子供会、老人クラブというのも一種の自治組織と見なせるだろう。
こうした組織の活動は、ややもすれば惰性的になり、慣習的な運営となりがちである。特に、集落の人口減と高齢化によって従前の活動を続けていくことが困難になっているにも関わらず、なかなか体制を変えていくことができない場合が多いのではないかと思われる。
久保集落の場合は、こうした自治組織はかなり整理されてきているようだが、もう少し改善する余地があるかもしれない。「低下した自治意識・機能をもう一度強化しましょう」というお題目とは逆行するが、自治会活動への負担を減らすということだって考えられるのである。
とはいっても、今まであったものを急になくすというのは難しいことで、やはりスクラップ&ビルドで、新しいもので置き換えていく必要がある。例えば、何らかの収益事業を行ってその収益で穴埋めをする、といった工夫がいるので、それはそれで骨の折れることだ。そういう骨の折れることを、この「共生・協働のむらづくり活性化事業」でできたらいい。例えば「イワダレソウ」という草払いの労力が減る被覆植物を公民館の法面に植える案が出ているが、そういうやり方もよいと思う。
これから、「何に取り組むか検討していきましょう」という議論をやっていくが、せっかくの機会なので、むらおこし的なものだけでなくて、集落活動の見直しやその前段階として「見える化」のようなこともできたら面白いかもしれない。
2014年6月13日金曜日
南さつま市が「地域おこし協力隊」を募集!
「地域おこし協力隊」をご存じだろうか?
これは総務省の政策によるもので、ごく簡単には、過疎地などへ都会から若者に移住してもらい、農林水産業や伝統文化の活性化に取り組んでもらうものである。任期は1年から3年。役所が都会の若者を「隊員」に任命して、給与をもらいながら地域おこしに取り組むわけだ。この制度は、都会から実際に移住してもらうところが特徴で、だからこそホンキの若者が集まってきて各地で地域おこしの起爆剤として活躍している。
特に名を上げているのが、メディアでもたびたび取り上げられている岡山県美作市の地域おこし協力隊。棚田の再生やお米のブランド化、またセグウェイの活用など活発な(前衛的な?)活動で知られ、また個人的にも少し知っている人が関わっていることもあり以前から注目していた。
【参考】限界集落を”集楽”に!美作市地域おこし協力隊が ”全国最強”とよばれる秘策とは?
こういう活動が南さつまでも出来たらなあ! と思っていたところ、今般南さつま市も地域おこし協力隊員を1名募集するということで今後の展開が楽しみである。
勤務先(?)は南さつま市観光協会。観光協会は一昨年くらいまで市役所の中にあるバーチャルな組織のようだったが、最近だんだんと実体化してきて、この募集はその一環なのであろう。観光をきっかけにして、南さつまの地域おこしにドンドン取り組んでもらいたい。
地域おこし協力隊の制度は、実際の移住を伴うので応募は気軽にはできない。だが、移住を考えている人にはいいきっかけ(+当面の収入)になる。私も、正直言うとこの制度を使って南さつまに移住して来たかった。Uターン・Iターンを考えていて、地元企業や農業で働くのではなく仕事にもこだわりたい、というような人には最適な制度だと思う。隊員としての活動の間に、その後の仕事への道筋も必ずや開けるはずだ。
というわけで、南さつまを盛り上げたいという都会の若者にこの情報が届き、素晴らしい活動が展開されることを期待している。応募の期限は6月30日まで。移住するという決断をするには短い期間だが、人生の転機というのは突然訪れるものだ。南さつま市で待っています。
【情報】詳細はこちらへ→ 地域おこし協力隊・観光協会スタッフ1名募集します!!
これは総務省の政策によるもので、ごく簡単には、過疎地などへ都会から若者に移住してもらい、農林水産業や伝統文化の活性化に取り組んでもらうものである。任期は1年から3年。役所が都会の若者を「隊員」に任命して、給与をもらいながら地域おこしに取り組むわけだ。この制度は、都会から実際に移住してもらうところが特徴で、だからこそホンキの若者が集まってきて各地で地域おこしの起爆剤として活躍している。
特に名を上げているのが、メディアでもたびたび取り上げられている岡山県美作市の地域おこし協力隊。棚田の再生やお米のブランド化、またセグウェイの活用など活発な(前衛的な?)活動で知られ、また個人的にも少し知っている人が関わっていることもあり以前から注目していた。
【参考】限界集落を”集楽”に!美作市地域おこし協力隊が ”全国最強”とよばれる秘策とは?
こういう活動が南さつまでも出来たらなあ! と思っていたところ、今般南さつま市も地域おこし協力隊員を1名募集するということで今後の展開が楽しみである。
勤務先(?)は南さつま市観光協会。観光協会は一昨年くらいまで市役所の中にあるバーチャルな組織のようだったが、最近だんだんと実体化してきて、この募集はその一環なのであろう。観光をきっかけにして、南さつまの地域おこしにドンドン取り組んでもらいたい。
地域おこし協力隊の制度は、実際の移住を伴うので応募は気軽にはできない。だが、移住を考えている人にはいいきっかけ(+当面の収入)になる。私も、正直言うとこの制度を使って南さつまに移住して来たかった。Uターン・Iターンを考えていて、地元企業や農業で働くのではなく仕事にもこだわりたい、というような人には最適な制度だと思う。隊員としての活動の間に、その後の仕事への道筋も必ずや開けるはずだ。
というわけで、南さつまを盛り上げたいという都会の若者にこの情報が届き、素晴らしい活動が展開されることを期待している。応募の期限は6月30日まで。移住するという決断をするには短い期間だが、人生の転機というのは突然訪れるものだ。南さつま市で待っています。
【情報】詳細はこちらへ→ 地域おこし協力隊・観光協会スタッフ1名募集します!!
2014年6月12日木曜日
南薩鉄道の廃線跡
鉄道ファンにも「撮り鉄」とか「乗り鉄」とかいろいろあるが、世の中には「廃鉄」とでもいうべき人達がいる。つまり、廃線跡を歩くことを無上の喜びとしている鉄道ファンのことだ。
もとより廃線路であるから、路線図を入手するのも大変だ。地図上で大まかな位置はわかっても、路線は撤去され、藪に埋もれ、跡形もなくなっている場合もある。だから地元の人に「ここに駅がありませんでしたか?」と訊きながら廃線跡らしきものを歩き、往時の姿を想像し、僅かな痕跡を見つけて喜ぶのである。
そういう人達のバイブル的存在(だと思います)が宮脇俊三さん編著の『鉄道廃線跡を歩く』というシリーズなのであるが、この3冊目の巻頭特集で南薩鉄道が大きく取り上げられている(絶版)。表紙も、吹上の(南薩鉄道の)永吉橋の橋脚の写真だ。これは南薩鉄道の廃線跡の中でも見所の一つで、立派な4つの橋脚が佇む様子は寂寥としていて、遺跡のような悲しさがある。
ちなみに、このシリーズは「廃鉄」たちのルポ(?)をまとめたものだが、南薩鉄道に関しては宮脇さん自身の紀行文である。鉄道紀行の素晴らしい書き手である宮脇俊三さんが、どうして南薩鉄道を取り上げたのか、そのあたりのことは何も書いていないが、この鉄道に何らかの魅力を感じていたのだろう。
今年は、南薩鉄道開業100年、廃止30年ということで、南さつま市では7月に企画展が開催される予定である。私は、年齢的にも南薩鉄道を知らず、また移住組であるから直接の思い出があるわけではない。しかし滅んだものは好きなたちであるから、廃線跡というのを興味深く思っていたところであるし、楽しみにしている。
ところで、南薩鉄道の廃線跡はサイクリングロードとして整備されている区間も多いので、廃線跡は決して過去の遺物というだけではない。南さつま市は旧加世田市から引き継いだ「自転車の街」も売りにしているわけだが、これは廃線跡をサイクリングロードにしてそれを目玉にしよう、という政策による部分が大きい。廃線跡を共有する日置市との連携もあまりないようであるし、この政策は未だ十分に達成されていないように思うが、廃線跡の活用について、この企画展をきっかけにしてもう一度考えてみるのもいいかもしれない。
もとより廃線路であるから、路線図を入手するのも大変だ。地図上で大まかな位置はわかっても、路線は撤去され、藪に埋もれ、跡形もなくなっている場合もある。だから地元の人に「ここに駅がありませんでしたか?」と訊きながら廃線跡らしきものを歩き、往時の姿を想像し、僅かな痕跡を見つけて喜ぶのである。
そういう人達のバイブル的存在(だと思います)が宮脇俊三さん編著の『鉄道廃線跡を歩く』というシリーズなのであるが、この3冊目の巻頭特集で南薩鉄道が大きく取り上げられている(絶版)。表紙も、吹上の(南薩鉄道の)永吉橋の橋脚の写真だ。これは南薩鉄道の廃線跡の中でも見所の一つで、立派な4つの橋脚が佇む様子は寂寥としていて、遺跡のような悲しさがある。
ちなみに、このシリーズは「廃鉄」たちのルポ(?)をまとめたものだが、南薩鉄道に関しては宮脇さん自身の紀行文である。鉄道紀行の素晴らしい書き手である宮脇俊三さんが、どうして南薩鉄道を取り上げたのか、そのあたりのことは何も書いていないが、この鉄道に何らかの魅力を感じていたのだろう。
今年は、南薩鉄道開業100年、廃止30年ということで、南さつま市では7月に企画展が開催される予定である。私は、年齢的にも南薩鉄道を知らず、また移住組であるから直接の思い出があるわけではない。しかし滅んだものは好きなたちであるから、廃線跡というのを興味深く思っていたところであるし、楽しみにしている。
ところで、南薩鉄道の廃線跡はサイクリングロードとして整備されている区間も多いので、廃線跡は決して過去の遺物というだけではない。南さつま市は旧加世田市から引き継いだ「自転車の街」も売りにしているわけだが、これは廃線跡をサイクリングロードにしてそれを目玉にしよう、という政策による部分が大きい。廃線跡を共有する日置市との連携もあまりないようであるし、この政策は未だ十分に達成されていないように思うが、廃線跡の活用について、この企画展をきっかけにしてもう一度考えてみるのもいいかもしれない。
2014年6月7日土曜日
笠沙恵比寿の指定管理者の募集にあたって
またしても、公有施設の指定管理の話である。
笠沙恵比寿は笠沙にある宿泊・博物館・レジャーの施設。2000年のオープンで、2006年をピークに利用者数が減少してきた。南さつま市等が作った第3セクター「株式会社 笠沙恵比寿」がこれまで運営してきたが、累積債務が8000万円に上って経営に行き詰まり、今般指定管理者を公募することなった。
これまでも「株式会社 笠沙恵比寿」が公募を経ずに指定管理者で運営してきたのだが、従前の指定管理料(委託費)は1480万円。それでも毎年1000万円を超える赤字を出していた。というのも、3セクではどうしても果敢な経営は難しい。何しろ社長は市長である。旅館業・観光業の経験があるわけでもない市長が経営する会社が、繁盛する方がおかしい。
そういうわけで、このたび3セクは解散させる方向で指定管理者の公募に踏み切ったわけである(公募に対して応募がなかった場合は3セクによる経営を継続する)。
その公募条件を見てみると、指定管理料の上限が1800万円/年となっている。現在は、市の補填分が3000万円弱なので、これを2/3に縮減するような格好であり、まあ妥当な条件ではないかと思う。ただ、例によってこの公募にも少し不満がある。
第1に、「…事業者を広く募集し、活用計画の提案を受けて最適の指定管理者を選定することを目的とする」(募集要項より引用)としながらも、どうも「広く」募集しているようには見えないことである。例えば、プレスリリースはどのようにしたのだろうか? 現地説明会を行うこととなっているが、広く募集するのであれば、事前説明会を都市部で開催すべきだし、旅館業の業界団体などにも周知を図るべきである(実は裏でやっていたらすいません)。
第2に、笠沙恵比寿のあり方については、市役所は2011年か12年に「笠沙恵比寿あり方検討委員会」を設置して検討しており、今回の指定管理者の公募はその報告書の提言に基づくものと思うが、この報告書が公表されていない。公明正大に話を進めることが大事だと思うので、報告書を公表して、これまでの経営の実態を明らかにし、過去を清算して次のステップに進むべきだと思う。
というような不満な点はあるが、今回の公募で素晴らしい経営者が現れ、笠沙恵比寿が地域の観光の目玉として再生してほしいと願っている。実は、この公募に先立ち、私は「笠沙恵比寿を星野リゾートが経営したら面白い」と思い、(面識はもちろんないが)星野リゾートの星野社長に「笠沙恵比寿の指定管理者が早晩公募されるので注目してほしい」という手紙を出していたのだが、なしのつぶてだったようだ。
笠沙恵比寿は、観光+漁業という独特なコンセプトの宿泊施設であり、施設全体が水戸岡鋭治氏のデザインでもあるし、決して市のお荷物ではなく、むしろ財産だと思う。それを活かすためには、ただ公募すればよいというわけではなく、いろいろな工夫がいる。市の方には、本当に最適な、素晴らしい事業者にこの情報が届くように、精一杯取り組んでいただきたい。ちなみに、募集要項の配布は6月23日まで、申請は7月4日までである。
【参考】
募集要項等はこちら→ 笠沙恵比寿の指定管理者を募集
これまでの経営状態などはこちら→「市報南さつま」2012年7月号
笠沙恵比寿は笠沙にある宿泊・博物館・レジャーの施設。2000年のオープンで、2006年をピークに利用者数が減少してきた。南さつま市等が作った第3セクター「株式会社 笠沙恵比寿」がこれまで運営してきたが、累積債務が8000万円に上って経営に行き詰まり、今般指定管理者を公募することなった。
これまでも「株式会社 笠沙恵比寿」が公募を経ずに指定管理者で運営してきたのだが、従前の指定管理料(委託費)は1480万円。それでも毎年1000万円を超える赤字を出していた。というのも、3セクではどうしても果敢な経営は難しい。何しろ社長は市長である。旅館業・観光業の経験があるわけでもない市長が経営する会社が、繁盛する方がおかしい。
そういうわけで、このたび3セクは解散させる方向で指定管理者の公募に踏み切ったわけである(公募に対して応募がなかった場合は3セクによる経営を継続する)。
その公募条件を見てみると、指定管理料の上限が1800万円/年となっている。現在は、市の補填分が3000万円弱なので、これを2/3に縮減するような格好であり、まあ妥当な条件ではないかと思う。ただ、例によってこの公募にも少し不満がある。
第1に、「…事業者を広く募集し、活用計画の提案を受けて最適の指定管理者を選定することを目的とする」(募集要項より引用)としながらも、どうも「広く」募集しているようには見えないことである。例えば、プレスリリースはどのようにしたのだろうか? 現地説明会を行うこととなっているが、広く募集するのであれば、事前説明会を都市部で開催すべきだし、旅館業の業界団体などにも周知を図るべきである(実は裏でやっていたらすいません)。
第2に、笠沙恵比寿のあり方については、市役所は2011年か12年に「笠沙恵比寿あり方検討委員会」を設置して検討しており、今回の指定管理者の公募はその報告書の提言に基づくものと思うが、この報告書が公表されていない。公明正大に話を進めることが大事だと思うので、報告書を公表して、これまでの経営の実態を明らかにし、過去を清算して次のステップに進むべきだと思う。
というような不満な点はあるが、今回の公募で素晴らしい経営者が現れ、笠沙恵比寿が地域の観光の目玉として再生してほしいと願っている。実は、この公募に先立ち、私は「笠沙恵比寿を星野リゾートが経営したら面白い」と思い、(面識はもちろんないが)星野リゾートの星野社長に「笠沙恵比寿の指定管理者が早晩公募されるので注目してほしい」という手紙を出していたのだが、なしのつぶてだったようだ。
笠沙恵比寿は、観光+漁業という独特なコンセプトの宿泊施設であり、施設全体が水戸岡鋭治氏のデザインでもあるし、決して市のお荷物ではなく、むしろ財産だと思う。それを活かすためには、ただ公募すればよいというわけではなく、いろいろな工夫がいる。市の方には、本当に最適な、素晴らしい事業者にこの情報が届くように、精一杯取り組んでいただきたい。ちなみに、募集要項の配布は6月23日まで、申請は7月4日までである。
【参考】
募集要項等はこちら→ 笠沙恵比寿の指定管理者を募集
これまでの経営状態などはこちら→「市報南さつま」2012年7月号
2014年6月2日月曜日
写真家の松元省平さんに会いに行った話
南さつま市の小湊に、松元省平さんという写真家が住んでいることを最近知った。
私は松元さんの『人間の村』という写真集を偶然目にして強い印象を受け、調べてみると住所が南さつまということでびっくりし、せっかく近所に住んでいるのだからということで厚顔にも訪問させていただいた。この写真は、松元さんのアトリエに飾られた作品の数々。
ちなみに『人間の村』という写真集は、長崎にある廃村をモノクロームで撮ったもので、廃屋になった団地とか、民家とか、かつてそこにあった生活の痕跡を切り取った写真が並んでいる。それは、少し不気味でもあるが、当地のような「限界集落」に住んでいると見慣れた光景でもある。特にその中の一枚が、昨年取り壊された近所の廃屋ととても似ていて、それで印象深かったのかもしれない。
都会に住んでいると「廃村」の写真は非日常的な、いわば別世界を覗くような所があるが、ここに住んでいると「廃村」は身近な存在である。私は遺跡とか、遺構とか、既に滅んだものが元々好きだったが、都会に住んでいた時と比べてそうしたものへの見方が少し違ってきた気もする。
それはさておき、松元さんは、もともと鹿児島出身ではない。岡山の生まれだという。それがどうして小湊のような辺鄙なところに住んでいるのかというと、妻方の故地であるここが気に入ったからということだ。現役を退いて、自然が豊かな環境に暮らしたいということで2008年に移住してきた。岡山も十分田舎で、自然が豊かではないかと思うのだが、松元さんに言わせると、沿岸部の開発が大分進んでいて、自然の風景がさほど残っていないのだそうだ。
最近撮られた写真をいくつか見せていただいたが、美しい夜空や星雲、アンドロメダ銀河といった夜の写真だった。アトリエには立派な望遠鏡もあった。晴れた日には、ほとんど夜空を撮るという。私は、常々「このあたりは星空がきれいなのに、なぜか夜空を撮る人がほとんどいない」と思っていたところだったので、こうしてプロの写真家が丁寧に夜空を撮り溜めていることに、わけもなく心強く思った次第である。
ところで、松元さんの自宅に伺ったのは、松元さんが発行している『REPO』という写真誌を購入するためだった。驚異的なことだと思うのだが、松元さんはその写真誌を28年も趣味で製作しているのだ(現在は休刊中)。一体全体、それはどんな写真誌だろうかと思い、是非見てみたくなった。それで、(郵送で手に入れることも出来るのだが)松元さんのお宅を訪問したのである。
それは、手作りの小さな冊子だった。松元さん自身も鹿児島について写真と文章を連載していて、写真家の目から見た南薩がどんなものなのかもっと知りたくなった。移住後に創刊された最新の第4次『REPO』も全部で15冊あるそうだ。南さつま市の図書館が購入して、広く閲覧できるようにしたらいいのに、と思った。
私は松元さんの『人間の村』という写真集を偶然目にして強い印象を受け、調べてみると住所が南さつまということでびっくりし、せっかく近所に住んでいるのだからということで厚顔にも訪問させていただいた。この写真は、松元さんのアトリエに飾られた作品の数々。
ちなみに『人間の村』という写真集は、長崎にある廃村をモノクロームで撮ったもので、廃屋になった団地とか、民家とか、かつてそこにあった生活の痕跡を切り取った写真が並んでいる。それは、少し不気味でもあるが、当地のような「限界集落」に住んでいると見慣れた光景でもある。特にその中の一枚が、昨年取り壊された近所の廃屋ととても似ていて、それで印象深かったのかもしれない。
都会に住んでいると「廃村」の写真は非日常的な、いわば別世界を覗くような所があるが、ここに住んでいると「廃村」は身近な存在である。私は遺跡とか、遺構とか、既に滅んだものが元々好きだったが、都会に住んでいた時と比べてそうしたものへの見方が少し違ってきた気もする。
それはさておき、松元さんは、もともと鹿児島出身ではない。岡山の生まれだという。それがどうして小湊のような辺鄙なところに住んでいるのかというと、妻方の故地であるここが気に入ったからということだ。現役を退いて、自然が豊かな環境に暮らしたいということで2008年に移住してきた。岡山も十分田舎で、自然が豊かではないかと思うのだが、松元さんに言わせると、沿岸部の開発が大分進んでいて、自然の風景がさほど残っていないのだそうだ。
最近撮られた写真をいくつか見せていただいたが、美しい夜空や星雲、アンドロメダ銀河といった夜の写真だった。アトリエには立派な望遠鏡もあった。晴れた日には、ほとんど夜空を撮るという。私は、常々「このあたりは星空がきれいなのに、なぜか夜空を撮る人がほとんどいない」と思っていたところだったので、こうしてプロの写真家が丁寧に夜空を撮り溜めていることに、わけもなく心強く思った次第である。
ところで、松元さんの自宅に伺ったのは、松元さんが発行している『REPO』という写真誌を購入するためだった。驚異的なことだと思うのだが、松元さんはその写真誌を28年も趣味で製作しているのだ(現在は休刊中)。一体全体、それはどんな写真誌だろうかと思い、是非見てみたくなった。それで、(郵送で手に入れることも出来るのだが)松元さんのお宅を訪問したのである。
それは、手作りの小さな冊子だった。松元さん自身も鹿児島について写真と文章を連載していて、写真家の目から見た南薩がどんなものなのかもっと知りたくなった。移住後に創刊された最新の第4次『REPO』も全部で15冊あるそうだ。南さつま市の図書館が購入して、広く閲覧できるようにしたらいいのに、と思った。
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