南さつま市はやたらと一人あたりの医療費が高いという問題があり、健康で元気な生活を送れるまちづくりを進めるため、このたび百人以上の市民を巻き込んで「南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会」なるものが設立された。
私自身はどちらかというと不健康な方だが、なぜかこの委員に選ばれ、先日この設立会に参加したところである。その内容は、「健康元気まちづくり戦略会議」という百寿委員会の上に置かれた会議の委員長である吉田紀子氏の講演と、4つのワーキンググループ(WG)に分かれての自己紹介、次回の日程調整などなど。私は、「地域づくり・人づくり等場の創造」をテーマにする「絆ムスビWG」に配属させられ、今後検討をしていくことになる。
さて、私はこの設立会に先立ち、厚生労働省が策定した「健康日本21」とその参考資料を読んだり、これを受けて鹿児島県が策定した「健康かごしま21」に目を通したりして、健康寿命の延伸のための諸方策の勉強をしていたのであるが、吉田委員長の講演を聞いて目が点になった。
あまり批判はしたくないが、その内容はほとんど「トンデモ」である。人類がみな潜在意識のレベルでは繋がっていてそれを「集合無意識(ユニティ)」というとか、「純な思い」は波動となって伝わって周りの人をも幸せにするとか、健康になるには霊性・魂の健康が大事であるとか、その他資料には「ブラーフマン」「神性エネルギー」「生命場」「宇宙との繋がり感を体感」などの文字が並んでいた。
また、経済成長ではなく精神的幸福が大事といい、その意味でブータンの提唱する国民総幸福量(GNH)を礼賛していたが、平均寿命が日本より20年も短いブータンをお手本にしようとするあたり、ちょっとその意図を理解しかねる。講演を聞きながら、私の出番はなさそうだと暗鬱な気持ちになったところである。
ただし、言っていることはめちゃくちゃ(失礼!)だが、意外にその志向はマトモである。地域作りの成功例として掲げていた奄美、葉っぱを商材としたことで有名な上勝町、アーティストの移住が有名な鹿屋の柳谷(やねだん)集落、農業振興の成功モデルとされる綾町などの紹介を聞いていると、吉田委員長の理想とするまちづくりの方向性が見えてくる。
それは、センスと行動力のあるリーダーの下で、地域資源を活用した住民参加型の産業を興す一方、観光客やアーティストといった外部人材の流入を活発化する、それによってさらに街を活性化して停滞した雰囲気を打破し、住民が生き甲斐をもって取り組める自主的な活動を始めやすくする。また、街・村の景観を重視し、テーマを持って街づくりを進めることの重要性を強調する。こうしたことは、全て首肯できることであり、大賛成だ。
こういう「トンデモ」系の話を聞くといつも感じるが、「健康な人は素晴らしい波動を発散して、周りの人間も幸せにする」ではなく、「健康で明るい人といると楽しくみんな元気になる」と言えば何の違和感もない。「波動」とか「神性エネルギー」とか疑似科学的な説明を持ち出すから胡散臭くなる。ヒューリスティック(経験主義的)なことを科学的に証明されたものだと強弁しようとするから「トンデモ」なのである。
ところで、本会議は「健康で元気な生活を送れるまちづくり」というボンヤリとした目標を掲げているが、喫緊の課題である医療費低減に向けた具体的努力も是非とも必要である。同じことじゃないかと思うかもしれないが、少し違う。
以前ブログでも紹介したとおり、南さつま市は一人あたり医療費が極端に高いが、南さつま市民が他の地域に比べて極端に不健康であるというデータはない(あったらすいません)。ではどうして医療費がこんなに高いのか。以前も書いた通り、医療費に関しては社会慣習と人々の考え方に起因する部分が大きいと考えられるので、南さつま市民を「不健康」と決めつけず、南さつま市の一人あたり医療費がなぜ高いのかをキッチリと分析・公表し、人々の考え方と医療との関わり方を変革していくことも必要だと思う。健康元気なまちづくりも結構なことだが、是非並行して取組を進めていただきたい。
2014年2月11日火曜日
2014年2月7日金曜日
廃校利用の「検討」はやめて、公募しませんか?
既に決まっていたことではあるが、旧笠沙高校の校舎解体工事が始まった。大変残念なことである。
笠沙高校の校舎利用については、以前も半分冗談・半分本気でブログ記事に書いたことがある。それと重なる部分もあるが、改めて解体工事を眺めていて、思うことを書き留めておこうと思う。
ともかく、こうして高校の校舎が壊されていくのは寂しいことで、ほとんど部外者である私ですらそうなのだから、地元の人や卒業生にとってはもっともっと寂しいことだろう。時代の流れといえばそれまでだが、やはり、校舎を別の形で有効利用できていたら…と思わざるを得ない。
市でも「笠沙高校跡地利用対策協議会」を立ち上げて、跡地利用を議論・検討していたが、今から思えばそれが間違いだったと思う。というのは、「○○に利用しては?」という意見が出ても、その運営をどうするのか、予算をどうするのか、そして何より運営主体をどうするのかという話が具体化しないかぎり、全ては机上の空論である。そして、そこまでを「対策協議会」が担うというのはちょっと現実的ではない。
やるべきだったのは、「旧笠沙高校の校舎を使いませんか?」と広く呼びかけて、その利用法を提案してもらい、行政や住民がそれを審査する、という公募ではなかったかと思える。この方法だと、例えば都市部で説明会を開催するといった、広く呼びかける手間はあるが、それさえやれば行政や住民は提案を審査する立場になるため、知恵を絞って苦労する必要もなく、運営や予算に悩む必要もない。
公募の結果、ロクなところが応募して来なかったら該当者ナシで全部を棄却してもよい。だが、民間が行う事業だから、完全に地元住民の意向に沿った利用にならないのは当然である。というより、現今の財政・経済事情の中で、「地元住民の平穏な生活」というある種の既得権を守っていく余裕はどこにもない。このまま過疎地として静かに滅んでいくという選択肢を取らないかぎり、「平穏な生活」を捨て、活性化のために都市からの有象無象を受け入れる覚悟がいると思う。
もちろん、南さつま市で実施したい事業に活用するならその方がよいが、そういう事業もなく、議論がまとまらないまま、校舎の老朽化が進んでどうしようもなくなったというのが実態だと思う。なにより、主管である教育部が、学校の統廃合などより喫緊の課題を抱えている中で、廃校利用という、ある意味では「やらなくても誰も困らない仕事」に手間を掛ける余裕がなかったということが一番の「敗因」ではないか。
これから、近くだと玉林小学校、赤生木小学校、笠沙小学校が廃校となり、その校舎が空くことになっていると思う(※)。この3校の校舎利用については、笠沙高校と同じ轍を踏んで欲しくないと強く思っている。行政や住民で積極的に「これに利用したい」というアイデアがなければ、ぜひ廃校利用の事業を公募をしていただきたい。海道八景沿いでもあるので、独創的な事業が提案されるかもしれない。校舎をほとんどタダで提供すれば、普通は赤字になる事業でも可能になる。廃校で誰かの夢が叶えられるかもしれないのだ。関係者の英断を期待したい。
※この3校のうち、どれかは公民館にする予定のように仄聞したが、廃校を公民館として利用するのはあまり上策とは言えないように思う。
【参考】
ちなみに文部科学省でも、〜未来につなごう〜「みんなの廃校」プロジェクトというのをやっているので、行政関係の方は是非見てもらいたいと思う。以前は廃校利用は様々な制約があったが、現在では随分簡単になってきている。
笠沙高校の校舎利用については、以前も半分冗談・半分本気でブログ記事に書いたことがある。それと重なる部分もあるが、改めて解体工事を眺めていて、思うことを書き留めておこうと思う。
ともかく、こうして高校の校舎が壊されていくのは寂しいことで、ほとんど部外者である私ですらそうなのだから、地元の人や卒業生にとってはもっともっと寂しいことだろう。時代の流れといえばそれまでだが、やはり、校舎を別の形で有効利用できていたら…と思わざるを得ない。
市でも「笠沙高校跡地利用対策協議会」を立ち上げて、跡地利用を議論・検討していたが、今から思えばそれが間違いだったと思う。というのは、「○○に利用しては?」という意見が出ても、その運営をどうするのか、予算をどうするのか、そして何より運営主体をどうするのかという話が具体化しないかぎり、全ては机上の空論である。そして、そこまでを「対策協議会」が担うというのはちょっと現実的ではない。
やるべきだったのは、「旧笠沙高校の校舎を使いませんか?」と広く呼びかけて、その利用法を提案してもらい、行政や住民がそれを審査する、という公募ではなかったかと思える。この方法だと、例えば都市部で説明会を開催するといった、広く呼びかける手間はあるが、それさえやれば行政や住民は提案を審査する立場になるため、知恵を絞って苦労する必要もなく、運営や予算に悩む必要もない。
公募の結果、ロクなところが応募して来なかったら該当者ナシで全部を棄却してもよい。だが、民間が行う事業だから、完全に地元住民の意向に沿った利用にならないのは当然である。というより、現今の財政・経済事情の中で、「地元住民の平穏な生活」というある種の既得権を守っていく余裕はどこにもない。このまま過疎地として静かに滅んでいくという選択肢を取らないかぎり、「平穏な生活」を捨て、活性化のために都市からの有象無象を受け入れる覚悟がいると思う。
もちろん、南さつま市で実施したい事業に活用するならその方がよいが、そういう事業もなく、議論がまとまらないまま、校舎の老朽化が進んでどうしようもなくなったというのが実態だと思う。なにより、主管である教育部が、学校の統廃合などより喫緊の課題を抱えている中で、廃校利用という、ある意味では「やらなくても誰も困らない仕事」に手間を掛ける余裕がなかったということが一番の「敗因」ではないか。
これから、近くだと玉林小学校、赤生木小学校、笠沙小学校が廃校となり、その校舎が空くことになっていると思う(※)。この3校の校舎利用については、笠沙高校と同じ轍を踏んで欲しくないと強く思っている。行政や住民で積極的に「これに利用したい」というアイデアがなければ、ぜひ廃校利用の事業を公募をしていただきたい。海道八景沿いでもあるので、独創的な事業が提案されるかもしれない。校舎をほとんどタダで提供すれば、普通は赤字になる事業でも可能になる。廃校で誰かの夢が叶えられるかもしれないのだ。関係者の英断を期待したい。
※この3校のうち、どれかは公民館にする予定のように仄聞したが、廃校を公民館として利用するのはあまり上策とは言えないように思う。
【参考】
ちなみに文部科学省でも、〜未来につなごう〜「みんなの廃校」プロジェクトというのをやっているので、行政関係の方は是非見てもらいたいと思う。以前は廃校利用は様々な制約があったが、現在では随分簡単になってきている。
2014年2月6日木曜日
森田寿香と吉峯次右衛門の協力——鹿児島本願寺小史(5)
明治初期、鹿児島に真宗が急速に広まった大きな要因は、自葬禁止の布告だったのであるが、それは他の仏教諸派にとっても追い風だったはずである。
真宗以外は廃仏毀釈等の政策で痛手を蒙っていたにしても、人々に馴染みが深かった禅宗や真言宗は少数ながら鹿児島に僧侶を派遣していたようであるし、東本願寺(真宗大谷派)も数名の僧侶を派遣し、西南戦争のゴタゴタに巻き込まれながら布教活動を行っていた。
そんな中で、西本願寺(真宗本願寺派)が圧倒的な存在感を持つに至ったのはなぜだろうか? これまでも触れたように、それには明治政府高官との人脈が影響してもいるが、もっと重要なことにその資金力がある。
何しろ、布教活動には金が必要だった。交通費や宿泊費はもちろんだが、それ以上に重要だったのは政官界への対策費用である。西南戦争の敗北で大分痛めつけられていたとはいえ、当時、鹿児島の政官界は士族に牛耳られていた。士族には目の敵にされていた真宗であるから、なんとかこれを懐柔し、地方政府の公認を得なくては布教活動をスムーズに進めることができなかった。
そのために、西本願寺は鹿児島県に対する積極的な寄附を行うのである。例えば、明治10年12月には西南の役の罹災救済費として1万円を、明治11年には学校奨励費として2000円を本山が県に寄附している。その後も、
この膨大な資金の源は、最初は京都の本山であったが、次第に本山は拠金をしなくなっていく。そもそも、布教活動の費用は獲得した信者からの寄附によって現地でまかなうのが基本であって、布教活動は金銭的に自立することが求められていた。むしろ本来は、逆に地方から本山へ年間3000円余りの冥加金(上納)を納めることになっていたくらいで、鹿児島の場合のように、本山が地方の布教事業のために大枚をはたくというのは異例なことであった。
しかし、西南戦争直後、鹿児島の市街地は焼け野が原になっていたから、仮に信者を獲得することができたとしても、信者からの寄附が望めないのは当然である。そこに生活していた人は何もかも失った状態から、まずは日々の暮らしを再建しなくてはならなかった。だから資金面において、西本願寺の開教史たちはすぐに苦境に陥ったのである。
であるから、自然のなりゆきで西南戦争の被害を受けていなかった南薩地域が資金源として重要になってくるのである。そして、西本願寺の布教活動を語るには、その活動を資金面で大きく支えた南薩の豪商「カネシチ」と「丁子屋」の存在を欠かすことができない。そこで、この2つの商家と西本願寺の関わりを少し詳しく見ていくことにしたい。
この2つの商家が本拠地としていたのは、南薩の万世という街である。旧加世田市にあり、当時の地名では大崎と言う。ここは古くより商港を持ち、貿易によって栄えた南薩の商業の中心地だった。この街で江戸時代中頃から勃興したのがカネシチと丁子屋の二大廻船問屋である。その商売は重なるところもあったが、概ねカネシチは呉服など衣料品、丁子屋は食料品を中心とした商いをしていたようである。両商家は数代にわたる婚姻関係で結ばれた親戚でもあり、共同して莫大な富を築き上げた。特にカネシチの邸宅は宏壮であり、京都から呼び寄せた庭師による優美で広大な庭園があったという。
明治のこの頃、カネシチの当主を森田寿香といい、丁子屋の当主を吉峯次右衛門といった。森田寿香は、紳士録などの公的記録では森田七左衛門とされていることもある。カネシチでは、代々「七左衛門」の名を受け継いで行くのが習いだったからだ。
信教自由の布達があった明治9年の頃、森田寿香はいち早く真宗に帰依したようだ。早くも明治11年には、万世に説教所が開設されていることからもそれはわかる。これは今も街に残る顕証寺の濫觴となるもので、県内でも最も早くに開設した説教所の一つである。信徒総代は、森田寿香と吉峯次右衛門が共同で務めた。本堂と庫裡の建設に要した費用はほとんど全てこの2人でまかなったようである。どうやら、森田が最初に真宗に帰依し、弟分だった吉峯を引き入れる形で真宗の布教活動の支援が始まったらしい。
どうして森田寿香、おって吉峯次右衛門がいち早く真宗に帰依したのか、ということの真相は不明であるが、どうもこの両家には信教自由の前から真宗への信仰があったように思われる。というのも、鹿児島では真宗は禁教とされていたけれども、廻船問屋を営んでいる関係上、彼らは藩政時代より日本全国を廻っていたわけで、江戸や大坂(大阪)で真宗に触れていないわけがない。伝説では、丁子屋には、真宗への禁遏が激しくなったとき仏像を持って船に乗り、そのまま返ってこなかった祖先がいるそうである。
さて、森田寿香の名前が真宗布教活動の表舞台に出てくるのは、西本願寺鹿児島別院の本格的な本堂建築にあたって建築総裁に就任したとき、明治11年の秋が最初である。森田は総裁就任にあたって、さっそく500円を寄附してもいる。森田を建築総裁、つまり別院建築の責任者という重役に起用したのは、彼の指導力や経験を買ってのことであることはもちろん、豊富な財力も期待してのことであったろう。記録には残っていないが、おそらく、これに先立ってかなりの寄附をしていたに違いない。
別院建築は当初本堂3000円、書院3120円の予算であったが、建築のうちにいろいろと追加され、途中資金が足りなくなった。そこで、『鹿児島本願寺開教百年史』の記述によれば、「急遽、加世田まで岸大悟(※出納係)が出向いて、カネシチと丁子屋より1000円を用立てて」もらったそうである。この記述を読む限り、「カネシチと丁子屋にいけば、確実に金を貸してもらえる」という確信があったのだろう。金を貸すといっても、当然返すアテもなく、「お金を下さい」とは言いづらいから形式上貸借のカタチにしているだけで、その実態は寄附であった。
その後、明治12年に連枝(宗主明如の実弟)日野澤依が鹿児島巡教をした折にも、加世田に立ち寄った際はカネシチと丁子屋に泊まっており、両家は御召馬一匹を献上し、それに対して、日野は宗主の一行物、自身の額字を下付している。当時の馬といえば、今で言う5トントラックのような存在であるから、どのくらいの価値があるものかわかるだろう。
なお、明治15年に別院拡張の工事を計画した際も、金策にあたった伊勢田雲嶺は「早速加世田の森田寿香より800円を[…]借用」している。この「早速」という表現を見るにつけ、少しイジワルな言い方だが、別院が財政面で安易に森田を頼り、金を無心していた様子が窺える。
こうした調子で、西本願寺がことある事にカネシチ、丁子屋から寄附を受け、またそれを期待していたのは、公式記録を眺めるだけでありありと分かる。財政面でこのような影響力をもった存在は他にない。一体両家が累積でどれくらいの寄附をしていたのか今となってはわからないが、(顕証寺に宛てたものは別にして)おそらく2万円は下らないだろうというのが私の感覚である。現在の貨幣価値にして、4億円くらいだ。カネシチと丁子屋は、そういうお金を出すことができた豪商だったし、自分たちの生活を質素なものにしてでも、お寺の発展を願った敬虔な門徒だった。
この頃に両豪商からの支援を受けられたことは、西本願寺にとって随分大きなことだったと思う。おそらく、彼らからの支援なくしては、鹿児島の布教事業は20年は遅れたに違いない。現在鹿児島で真宗本願寺派が非常なる興隆を見せていることの理由の一つが、この両家の財政支援にあるといってもよいだろう。
しかし、西本願寺の活動における両家の存在感は次第に薄くなっていった。その理由としては、第1に、西南戦争からの復興が進んで鹿児島市街地の商業が盛んになり、南薩の重要性が相対的に減じてきたこと。第2に、明治30年に西本願寺の法主・大谷光瑞が鹿児島に下向し、島津氏との交誼を開いたことが挙げられる。これにより士族間にあった反真宗の敵愾心は随分柔らぎ、士族間へも真宗が浸透していった。
そして第3に、商業都市としての万世の凋落も挙げなくてはならない。海運の時代から鉄道を中心とする陸運の時代になり、商港を擁する意味が低下したことが大きい。さらに、時代は下るが支那事変が勃発すると、多くの物資が統制されて当たり前の商売は営めなくなっていった。特に呉服が中心的商材であったカネシチの場合はこれが致命的な打撃になった。呉服は切符制の配給品となって組合が扱う品となり、南薩の呉服を一手に引き受けていたというカネシチの販路が取り上げられたのであった。
一方で、「真俗二諦」を掲げて政府に迎合した真宗は、次第に戦争協力へとひた走っていく。軍人への布教はもちろん、他を圧する従軍布教僧を戦地に送り、国家への忠心は念仏と一体であるとし、多くの兵士が「南無阿弥陀仏」と唱えながら天皇に命を捧げたのであった。実は、カネシチの跡取りも満州で戦死している。そのために、この歴史ある大商家は遂に断絶することになった。今では、カネシチ(森田家)の邸宅があった場所は、電器店がある他は寂しい空き地と変じてしまっている。今も残る万世の丁子屋の、右隣の土地である。
そして今では、カネシチの森田寿香と丁子屋の吉峯次右衛門が、鹿児島の西本願寺の興隆にどれだけ大きな貢献をしたか知っている人はほとんどいない。京都の本山にある、親鸞聖人の墓がある大谷墓地、まさにその親鸞聖人の墓のほど近くに、鹿児島からはたったの3家のみが墓を持っていて、それが森田家、吉峯家、そしてこれまで説明していなかったが海江田家なのだという。それだけが唯一、明治の昔に真宗布教に邁進した人物の記憶を留める遺産である。
ちなみに、この3家は西本願寺鹿児島別院の初代勘定役(財務担当)であって、海江田家も「カネヒラ」という屋号で廻船問屋を営んでいた市来の豪商である。実に、鹿児島の真宗本願寺派というものは、藩政時代からの豪商を味方につけたことで大きくなった教団なのである。
しかし、今では西本願寺鹿児島別院自身が、そういった歴史には無頓着なようである。寄附というのは物質的な見返りを期待してやるものではないから、それもしょうがないことだろう。しかし、報恩(仏恩に報いよ)ということを重視する真宗であるから、たまには俗世の恩義も思い出したらよい。石碑を建てるとか、ことさらに顕彰する必要はないし、地元の人もそんなことは求めていない。
ただ、今南薩の経済は元気がない。特に万世などは、鉄道網から外れたことをきっかけに、かつての賑わいの片鱗すらも感じられない有様である。今では高齢化と人口減少に喘いでいる。こうした状況を打破するのは、人々の努力と創意工夫しかないが、それに別院も少しだけ力を貸してくれてもよいのではないだろうか。例えば、顕証寺を使って法話を行うでもよい。それに私は、お寺というのは田舎の重要なインフラだと思っている。なぜなら、帰省する人々の窓口にもなっているからだ。お寺を情報発信の場やイベント会場として使うこともできよう。
今こそ、真宗は真俗二諦を掲げるべき時である。真諦=念仏による往生と、俗諦=地域経済の発展は矛盾しないというべきだ。私も、形式上ではあるが、門徒の末席を汚すものである。お寺という財産を、未来のために活かす時が来ていると思っている。
【謝辞】
本稿を書くにあたって、丁子屋さん(吉峯家)に取材させていただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
【参考資料】
『本願寺開教五十年史』1925年、本願寺鹿児島別院 編
『鹿児島本願寺開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明香)
『市来町郷土誌』1982年、市来町郷土誌編纂委員会 編
真宗以外は廃仏毀釈等の政策で痛手を蒙っていたにしても、人々に馴染みが深かった禅宗や真言宗は少数ながら鹿児島に僧侶を派遣していたようであるし、東本願寺(真宗大谷派)も数名の僧侶を派遣し、西南戦争のゴタゴタに巻き込まれながら布教活動を行っていた。
そんな中で、西本願寺(真宗本願寺派)が圧倒的な存在感を持つに至ったのはなぜだろうか? これまでも触れたように、それには明治政府高官との人脈が影響してもいるが、もっと重要なことにその資金力がある。
何しろ、布教活動には金が必要だった。交通費や宿泊費はもちろんだが、それ以上に重要だったのは政官界への対策費用である。西南戦争の敗北で大分痛めつけられていたとはいえ、当時、鹿児島の政官界は士族に牛耳られていた。士族には目の敵にされていた真宗であるから、なんとかこれを懐柔し、地方政府の公認を得なくては布教活動をスムーズに進めることができなかった。
そのために、西本願寺は鹿児島県に対する積極的な寄附を行うのである。例えば、明治10年12月には西南の役の罹災救済費として1万円を、明治11年には学校奨励費として2000円を本山が県に寄附している。その後も、
- 明治13年、本山より産業奨励費として1万5000円。
- 明治15年、大谷家より病院附属建物を寄附。
- 明治16年、殖産奨励費として1万5000円(後の県立興業館の費用)。
- 明治17年、鹿児島別院より興業館における勧業博覧会へ1000円。
- 明治17年、鹿児島別院より宮崎監獄教誨所設置費へ600円。
この膨大な資金の源は、最初は京都の本山であったが、次第に本山は拠金をしなくなっていく。そもそも、布教活動の費用は獲得した信者からの寄附によって現地でまかなうのが基本であって、布教活動は金銭的に自立することが求められていた。むしろ本来は、逆に地方から本山へ年間3000円余りの冥加金(上納)を納めることになっていたくらいで、鹿児島の場合のように、本山が地方の布教事業のために大枚をはたくというのは異例なことであった。
しかし、西南戦争直後、鹿児島の市街地は焼け野が原になっていたから、仮に信者を獲得することができたとしても、信者からの寄附が望めないのは当然である。そこに生活していた人は何もかも失った状態から、まずは日々の暮らしを再建しなくてはならなかった。だから資金面において、西本願寺の開教史たちはすぐに苦境に陥ったのである。
であるから、自然のなりゆきで西南戦争の被害を受けていなかった南薩地域が資金源として重要になってくるのである。そして、西本願寺の布教活動を語るには、その活動を資金面で大きく支えた南薩の豪商「カネシチ」と「丁子屋」の存在を欠かすことができない。そこで、この2つの商家と西本願寺の関わりを少し詳しく見ていくことにしたい。
この2つの商家が本拠地としていたのは、南薩の万世という街である。旧加世田市にあり、当時の地名では大崎と言う。ここは古くより商港を持ち、貿易によって栄えた南薩の商業の中心地だった。この街で江戸時代中頃から勃興したのがカネシチと丁子屋の二大廻船問屋である。その商売は重なるところもあったが、概ねカネシチは呉服など衣料品、丁子屋は食料品を中心とした商いをしていたようである。両商家は数代にわたる婚姻関係で結ばれた親戚でもあり、共同して莫大な富を築き上げた。特にカネシチの邸宅は宏壮であり、京都から呼び寄せた庭師による優美で広大な庭園があったという。
明治のこの頃、カネシチの当主を森田寿香といい、丁子屋の当主を吉峯次右衛門といった。森田寿香は、紳士録などの公的記録では森田七左衛門とされていることもある。カネシチでは、代々「七左衛門」の名を受け継いで行くのが習いだったからだ。
信教自由の布達があった明治9年の頃、森田寿香はいち早く真宗に帰依したようだ。早くも明治11年には、万世に説教所が開設されていることからもそれはわかる。これは今も街に残る顕証寺の濫觴となるもので、県内でも最も早くに開設した説教所の一つである。信徒総代は、森田寿香と吉峯次右衛門が共同で務めた。本堂と庫裡の建設に要した費用はほとんど全てこの2人でまかなったようである。どうやら、森田が最初に真宗に帰依し、弟分だった吉峯を引き入れる形で真宗の布教活動の支援が始まったらしい。
どうして森田寿香、おって吉峯次右衛門がいち早く真宗に帰依したのか、ということの真相は不明であるが、どうもこの両家には信教自由の前から真宗への信仰があったように思われる。というのも、鹿児島では真宗は禁教とされていたけれども、廻船問屋を営んでいる関係上、彼らは藩政時代より日本全国を廻っていたわけで、江戸や大坂(大阪)で真宗に触れていないわけがない。伝説では、丁子屋には、真宗への禁遏が激しくなったとき仏像を持って船に乗り、そのまま返ってこなかった祖先がいるそうである。
さて、森田寿香の名前が真宗布教活動の表舞台に出てくるのは、西本願寺鹿児島別院の本格的な本堂建築にあたって建築総裁に就任したとき、明治11年の秋が最初である。森田は総裁就任にあたって、さっそく500円を寄附してもいる。森田を建築総裁、つまり別院建築の責任者という重役に起用したのは、彼の指導力や経験を買ってのことであることはもちろん、豊富な財力も期待してのことであったろう。記録には残っていないが、おそらく、これに先立ってかなりの寄附をしていたに違いない。
別院建築は当初本堂3000円、書院3120円の予算であったが、建築のうちにいろいろと追加され、途中資金が足りなくなった。そこで、『鹿児島本願寺開教百年史』の記述によれば、「急遽、加世田まで岸大悟(※出納係)が出向いて、カネシチと丁子屋より1000円を用立てて」もらったそうである。この記述を読む限り、「カネシチと丁子屋にいけば、確実に金を貸してもらえる」という確信があったのだろう。金を貸すといっても、当然返すアテもなく、「お金を下さい」とは言いづらいから形式上貸借のカタチにしているだけで、その実態は寄附であった。
その後、明治12年に連枝(宗主明如の実弟)日野澤依が鹿児島巡教をした折にも、加世田に立ち寄った際はカネシチと丁子屋に泊まっており、両家は御召馬一匹を献上し、それに対して、日野は宗主の一行物、自身の額字を下付している。当時の馬といえば、今で言う5トントラックのような存在であるから、どのくらいの価値があるものかわかるだろう。
なお、明治15年に別院拡張の工事を計画した際も、金策にあたった伊勢田雲嶺は「早速加世田の森田寿香より800円を[…]借用」している。この「早速」という表現を見るにつけ、少しイジワルな言い方だが、別院が財政面で安易に森田を頼り、金を無心していた様子が窺える。
こうした調子で、西本願寺がことある事にカネシチ、丁子屋から寄附を受け、またそれを期待していたのは、公式記録を眺めるだけでありありと分かる。財政面でこのような影響力をもった存在は他にない。一体両家が累積でどれくらいの寄附をしていたのか今となってはわからないが、(顕証寺に宛てたものは別にして)おそらく2万円は下らないだろうというのが私の感覚である。現在の貨幣価値にして、4億円くらいだ。カネシチと丁子屋は、そういうお金を出すことができた豪商だったし、自分たちの生活を質素なものにしてでも、お寺の発展を願った敬虔な門徒だった。
この頃に両豪商からの支援を受けられたことは、西本願寺にとって随分大きなことだったと思う。おそらく、彼らからの支援なくしては、鹿児島の布教事業は20年は遅れたに違いない。現在鹿児島で真宗本願寺派が非常なる興隆を見せていることの理由の一つが、この両家の財政支援にあるといってもよいだろう。
しかし、西本願寺の活動における両家の存在感は次第に薄くなっていった。その理由としては、第1に、西南戦争からの復興が進んで鹿児島市街地の商業が盛んになり、南薩の重要性が相対的に減じてきたこと。第2に、明治30年に西本願寺の法主・大谷光瑞が鹿児島に下向し、島津氏との交誼を開いたことが挙げられる。これにより士族間にあった反真宗の敵愾心は随分柔らぎ、士族間へも真宗が浸透していった。
そして第3に、商業都市としての万世の凋落も挙げなくてはならない。海運の時代から鉄道を中心とする陸運の時代になり、商港を擁する意味が低下したことが大きい。さらに、時代は下るが支那事変が勃発すると、多くの物資が統制されて当たり前の商売は営めなくなっていった。特に呉服が中心的商材であったカネシチの場合はこれが致命的な打撃になった。呉服は切符制の配給品となって組合が扱う品となり、南薩の呉服を一手に引き受けていたというカネシチの販路が取り上げられたのであった。
一方で、「真俗二諦」を掲げて政府に迎合した真宗は、次第に戦争協力へとひた走っていく。軍人への布教はもちろん、他を圧する従軍布教僧を戦地に送り、国家への忠心は念仏と一体であるとし、多くの兵士が「南無阿弥陀仏」と唱えながら天皇に命を捧げたのであった。実は、カネシチの跡取りも満州で戦死している。そのために、この歴史ある大商家は遂に断絶することになった。今では、カネシチ(森田家)の邸宅があった場所は、電器店がある他は寂しい空き地と変じてしまっている。今も残る万世の丁子屋の、右隣の土地である。
そして今では、カネシチの森田寿香と丁子屋の吉峯次右衛門が、鹿児島の西本願寺の興隆にどれだけ大きな貢献をしたか知っている人はほとんどいない。京都の本山にある、親鸞聖人の墓がある大谷墓地、まさにその親鸞聖人の墓のほど近くに、鹿児島からはたったの3家のみが墓を持っていて、それが森田家、吉峯家、そしてこれまで説明していなかったが海江田家なのだという。それだけが唯一、明治の昔に真宗布教に邁進した人物の記憶を留める遺産である。
ちなみに、この3家は西本願寺鹿児島別院の初代勘定役(財務担当)であって、海江田家も「カネヒラ」という屋号で廻船問屋を営んでいた市来の豪商である。実に、鹿児島の真宗本願寺派というものは、藩政時代からの豪商を味方につけたことで大きくなった教団なのである。
しかし、今では西本願寺鹿児島別院自身が、そういった歴史には無頓着なようである。寄附というのは物質的な見返りを期待してやるものではないから、それもしょうがないことだろう。しかし、報恩(仏恩に報いよ)ということを重視する真宗であるから、たまには俗世の恩義も思い出したらよい。石碑を建てるとか、ことさらに顕彰する必要はないし、地元の人もそんなことは求めていない。
ただ、今南薩の経済は元気がない。特に万世などは、鉄道網から外れたことをきっかけに、かつての賑わいの片鱗すらも感じられない有様である。今では高齢化と人口減少に喘いでいる。こうした状況を打破するのは、人々の努力と創意工夫しかないが、それに別院も少しだけ力を貸してくれてもよいのではないだろうか。例えば、顕証寺を使って法話を行うでもよい。それに私は、お寺というのは田舎の重要なインフラだと思っている。なぜなら、帰省する人々の窓口にもなっているからだ。お寺を情報発信の場やイベント会場として使うこともできよう。
今こそ、真宗は真俗二諦を掲げるべき時である。真諦=念仏による往生と、俗諦=地域経済の発展は矛盾しないというべきだ。私も、形式上ではあるが、門徒の末席を汚すものである。お寺という財産を、未来のために活かす時が来ていると思っている。
【謝辞】
本稿を書くにあたって、丁子屋さん(吉峯家)に取材させていただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
【参考資料】
『本願寺開教五十年史』1925年、本願寺鹿児島別院 編
『鹿児島本願寺開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明香)
『市来町郷土誌』1982年、市来町郷土誌編纂委員会 編
2014年1月28日火曜日
鹿児島の真宗が墓参りに熱心なわけ——鹿児島本願寺小史(4)
これまで見たように、西本願寺による鹿児島の布教活動には数々の困難が伴っており、およそ成功するような事業ではなかった。乱暴にまとめてしまうと、当時の鹿児島には、真宗の教えを受け入れる素地がなかったのである。
しかし実際には、西本願寺による布教活動は大成功することになる。明治期に建立された寺院のほとんどは真宗のものであったし、それは現代でもさほど変わらない。鹿児島県は真宗率の最も高い県の一つになったのである。それはなぜだろうか?
実は、当時彼らの布教活動を強力に後押しした明治政府の政策があった。それは、鹿児島での信教自由に先立つこと4年前、明治5年に出された「自葬禁止」の太政官布告であった。
それまでは、葬式といえば庶民は共同体で営むものであり、神官や僧侶は必ずしも同席していなかった。そこで政府は神官・僧侶が執り行わない葬儀を禁止し、彼らに葬式を管理させることにしたのである。死者を勝手に葬ることはできなくなったのだ。
どうして葬儀を神官・僧侶に管理させる必要があったのか、ということは少しく説明を要する。 明治4年は、全国的にも信教自由の前で、神道が国教化されていた時代である。明治政府は人心を神道により収攬することを企図し、神仏分離を始めとして様々な宗教政策を実施していたが、その要諦は、全ての宗教を国家の管理下に置き、宗教活動の中心を「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」に組み替え、もって愛国と服従を教え込むことにあったと言える。
真宗が「真俗二諦」を打ち出したのもそのためだ。「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」という、阿弥陀仏への信仰とは異なる考え方を教義上で正当化するため、真諦=真宗の元々の教え、俗諦=国家の教え、というように一応区分し、それが矛盾しないことを説明しなくてはならなかったのである。
ここで注意しなくてはならないのは、「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」は一見別のものに見えてその内容は密接に関連しているということである。明治政府が肇国の聖典とした記紀神話は、各氏族の天皇家との関係を示す寓話という側面があるが、これは言葉を換えて言えば「遙かな過去に遡れば、誰でも天皇家と親戚関係・主従関係になる」ということで ある。
であるから、明治政府は各自の祖先を敬うことがひいては皇祖=神を敬うことになると整理し、そのために神社整理の際は記紀に位置づけられない土着の神社を廃したり改名して、記紀神話に基づいた神社を創建したのである。こうして、「皇祖・敬神」という、庶民にとってはとても理解しがたい、抽象的な信仰が、それぞれの祖先を敬うという具体的なレベルの行動に落とし込まれたのであった。
というわけで、明治政府にとって祖霊祭祀というのは、ただ祖先を大事にしましょう、という倫理以上の重要性を持っていた。皇祖崇拝の根源を祖霊祭祀に置いていたので、これを徹底することは国家の祭祀に関わることだったのである。そして、祖霊祭祀の具体的活動はとりもなおさず「葬式」であるから、これを国家の管理の下に置こうとするのは当然だ。そこで「自葬禁止」の布告がなされることになったのだ。
また、民衆的レベルにおいては、葬式はあらゆる宗教活動の中で最も重要なものである。「自葬禁止」の布告には、未完成・未徹底だった国家宗教としての神道の完成のために、葬式を手中に収め、これを管理することにより民衆の教化の入り口にしようという目論見があったに違いない。
ところで、「自葬禁止」の布告には、国家神道の観点から見ると不徹底な部分が一つある。それは、葬式の執行者を神官(神道)だけでなく僧侶(仏教)も含めた ことだ。これは、当時仏教諸派も国家の管理下に置かれていたために、祖霊祭祀や皇祖崇拝を仏教側も民衆に教える(教えなくてはならない)ということから含まれているのである。
仏教側には、この自葬禁止という政策にはいろいろと思うところがあったらしい。しかし、国家神道を推し進めるためのこの政策が、西本願寺による鹿児島への布教活動にあたっては、皮肉にも強力な追い風になったのである。
なにしろ、当時の鹿児島は苛烈な廃仏毀釈後であるから寺院が全くない、つまり僧侶がいない。神官はいたが、当時の神官は公務員であるためその数が限られており、とても民衆の葬式をまかなう人数がいなかった。だが人は、そんなことはお構いなしに死んでいく。かといって勝手に葬れば取り締まられる。さて困った。 と、そういう状況でやってきたのが西本願寺の僧侶たちなのである。鹿児島の民衆にとって、ようやく葬儀を任すことができる人が現れたのであった。渡りに船とはこのことであろう。乗らないわけがないのである。
この状況は、西本願寺側もよくわかっていた。島地黙雷はこれをチャンスと見たし、西南戦争後の明治11年には、西本願寺の鹿児島出張所(現・西本願寺鹿児島別院)は県庁の指導に従い「葬儀を懇ろにせよ」という達書を県内で活動する僧侶たちに送っている。
こうして、鹿児島の民衆にとって、真宗は「葬式仏教」として入ってきたのである。西南戦争や隠れ念仏、そして言葉の問題など本願寺にとっては逆風だらけの中、布教事業が非常なる成功を収めたのは、ひとえに明治5年の「自葬禁止」の布告のおかげであるといっても過言ではない。
「葬式仏教」などというと、形式化した現代の仏教を揶揄する言葉であるが、明治の頃の「葬式仏教」としての真宗をあながち批判することはできない。葬式は、言うまでもなく死者の魂を安らげ、残されたものの心を整理する重要なイベントである。現代においても、心のこもった葬儀というのは、一人の人間の死を悼むだけでなく、それぞれの来し方行く末を顧みる機会にもなり、これまで受けてきた有形無形の慈しみに感謝する場でもある。西本願寺の僧侶たちが葬式を「懇ろに」執り行ってくれたことは、当時の人々にとってどれだけ慰めになったことだろう。
さらに、当時の鹿児島の民衆というものは蒙昧で野蛮な状態に置かれていたのだ、ということをもう一度考えなくてはならない。一方で、鹿児島へ布教活動に来ていた僧侶たちは、当時の西本願寺の中でもエース級の人物たちで ある。そういう、教養も徳も高い僧侶が、「猿の如き」と言われていた野卑な民衆の葬儀を執り行ったのである。しかも、それは偶然ではない。「お念仏の下には、人々はみな平等である」という真宗の教えに基づいて、野卑な庶民にも高徳の僧侶が念仏をしたのであった。難しい話など聞く機会など全くなかったであろう鹿児島の庶民が、始めて触れた高邁な話は、おそらく真宗僧侶の説教(法話)だったのではないだろうか。
なお、鹿児島の民衆と真宗の出会いが「葬式仏教」だったことは、鹿児島の真宗文化に強力な影響をもたらした。
例えば、鹿児島では墓参りが盛んなことに他県の人が驚くことがある。また、盆正月などでなくても、いつもお墓に立派な仏花が飾られていることは、鹿児島の一種の風物詩であり、そのおかげで鹿児島県民の切り花消費量は日本一なのだ。ここでの問題は、真宗率の高い鹿児島で、どうしてこのように祖霊祭祀が盛んなのかということである。
なぜなら、真宗は元来、祖霊祭祀には熱心ではない。 親鸞の元々の教えには祖霊祭祀の要素が非常に希薄であって、祖先の霊を敬うことよりも、ひとえに阿弥陀仏におすがりすることを強調している。それに、念仏 を唱えて亡くなった人は貴賤の別なく阿弥陀の浄土へ往くことができるので、追善供養(死後に読経や布施などをして極楽へ往生できるように願うこと)をする必要もなかった。真宗の教義では、お盆にも祖霊が現世へと返ってくることはなく、死者は浄土にいて永遠の安楽を楽しむことができるとされている。
こういう教義であるから、祖先の墓に頻繁に墓参りをするとか、仏花を献げるとかいうことに、真宗では宗教的な意味づけがあまりなかったのである。事実、古くからの真宗地帯である北陸などでは、祖霊祭祀を行わず、ひとえに念仏に勤しむことを村の誉れとするようなケースもあったと聞く。今でも、北陸には墓がない地域がある。そんな真宗を多くが信仰する鹿児島で、どうして墓参りや献花が盛んなのか。その答えは、この明治期の真宗の受容の仕方にあったのではないか。
先述の通り、この頃の真宗は国家の指導の下、元々の教義にはかなり希薄であった「祖霊崇拝」を積極的に勧奨したし、しかのみならず、「真俗二諦」の旗印の下、皇祖崇拝と天皇への恭順も指導した。この頃の真宗には、元々の教義を枉げていた部分が確かにあった。そしてそれは、既に述べたように西本願寺自身が認めて反省していることである。鹿児島の民衆に篤く墓参りをするよう指導したのは、ほかでもない西本願寺ではなかったか。鹿児島でこれほど墓参りなどの祖霊祭祀が盛んであるのは、この頃の真宗の教化以外に説明がつかない。
ちなみに、墓参りが盛んな理由を「元々鹿児島の人は祖先を敬う気持ちが強いから」などと説明されることもあるがこれは大きな間違いである。「伊勢講」とか「庚申講」といった、近世以前の民衆の宗教活動の中心である各種の「講」を見ても、祖霊祭祀の要素はほとんど見当たらないことからもそれは明らかであり、控えめに言っても、かつて鹿児島で祖霊祭祀が盛んだったという証拠はない。
ただ、元々の教義に希薄な要素を新たに導入するのは別に悪いことではない。仏教では、元来「方便」という考え方があり、これは「真理に近づくための方法は様々でよい」というような意味を含む。結果的に鹿児島の人たちを救うのに役立ったのであれば、葬式仏教で何の悪いことがあろうか。
それに、元来の教えに則ったものこそ正しく、後に付け加えられたものは間違いである、という立場に立つと、浄土真宗自体を否定することになる。歴史的人物としての釈尊は阿弥陀仏の教えを説いていないわけで、その立場だと信じられるものは初期仏典のごく一部に限られる。そういう態度を否定はしないが、宗教というのは、土着の信仰や習俗と習合して内容が豊かになっていくものだから、たとえ祖霊祭祀が国家に勧奨されて導入されたものだったとしても、ただちに価値が低いということにはならない。
だが一方で、このために鹿児島の真宗信仰に、本来の親鸞の教えとは少し違う部分がもたらされたことも事実である。他県に出てみると分かるが、鹿児島の真宗文化は他地域のそれと少し変わっている。そしてその差異の淵源が、明治時代にあることはほとんど知られていない。鹿児島の西本願寺も、それを広く説明したことはないようだ。明治維新から150年以上経っているので、そろそろ自らの姿を正しく見つめる機会を持つべきではないだろうか。
【補足】2/3アップデート
最後から2番目の段落を追加した。
【参考資料】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会 代表 槇藤 明哲
しかし実際には、西本願寺による布教活動は大成功することになる。明治期に建立された寺院のほとんどは真宗のものであったし、それは現代でもさほど変わらない。鹿児島県は真宗率の最も高い県の一つになったのである。それはなぜだろうか?
実は、当時彼らの布教活動を強力に後押しした明治政府の政策があった。それは、鹿児島での信教自由に先立つこと4年前、明治5年に出された「自葬禁止」の太政官布告であった。
それまでは、葬式といえば庶民は共同体で営むものであり、神官や僧侶は必ずしも同席していなかった。そこで政府は神官・僧侶が執り行わない葬儀を禁止し、彼らに葬式を管理させることにしたのである。死者を勝手に葬ることはできなくなったのだ。
どうして葬儀を神官・僧侶に管理させる必要があったのか、ということは少しく説明を要する。 明治4年は、全国的にも信教自由の前で、神道が国教化されていた時代である。明治政府は人心を神道により収攬することを企図し、神仏分離を始めとして様々な宗教政策を実施していたが、その要諦は、全ての宗教を国家の管理下に置き、宗教活動の中心を「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」に組み替え、もって愛国と服従を教え込むことにあったと言える。
真宗が「真俗二諦」を打ち出したのもそのためだ。「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」という、阿弥陀仏への信仰とは異なる考え方を教義上で正当化するため、真諦=真宗の元々の教え、俗諦=国家の教え、というように一応区分し、それが矛盾しないことを説明しなくてはならなかったのである。
ここで注意しなくてはならないのは、「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」は一見別のものに見えてその内容は密接に関連しているということである。明治政府が肇国の聖典とした記紀神話は、各氏族の天皇家との関係を示す寓話という側面があるが、これは言葉を換えて言えば「遙かな過去に遡れば、誰でも天皇家と親戚関係・主従関係になる」ということで ある。
であるから、明治政府は各自の祖先を敬うことがひいては皇祖=神を敬うことになると整理し、そのために神社整理の際は記紀に位置づけられない土着の神社を廃したり改名して、記紀神話に基づいた神社を創建したのである。こうして、「皇祖・敬神」という、庶民にとってはとても理解しがたい、抽象的な信仰が、それぞれの祖先を敬うという具体的なレベルの行動に落とし込まれたのであった。
というわけで、明治政府にとって祖霊祭祀というのは、ただ祖先を大事にしましょう、という倫理以上の重要性を持っていた。皇祖崇拝の根源を祖霊祭祀に置いていたので、これを徹底することは国家の祭祀に関わることだったのである。そして、祖霊祭祀の具体的活動はとりもなおさず「葬式」であるから、これを国家の管理の下に置こうとするのは当然だ。そこで「自葬禁止」の布告がなされることになったのだ。
また、民衆的レベルにおいては、葬式はあらゆる宗教活動の中で最も重要なものである。「自葬禁止」の布告には、未完成・未徹底だった国家宗教としての神道の完成のために、葬式を手中に収め、これを管理することにより民衆の教化の入り口にしようという目論見があったに違いない。
ところで、「自葬禁止」の布告には、国家神道の観点から見ると不徹底な部分が一つある。それは、葬式の執行者を神官(神道)だけでなく僧侶(仏教)も含めた ことだ。これは、当時仏教諸派も国家の管理下に置かれていたために、祖霊祭祀や皇祖崇拝を仏教側も民衆に教える(教えなくてはならない)ということから含まれているのである。
仏教側には、この自葬禁止という政策にはいろいろと思うところがあったらしい。しかし、国家神道を推し進めるためのこの政策が、西本願寺による鹿児島への布教活動にあたっては、皮肉にも強力な追い風になったのである。
なにしろ、当時の鹿児島は苛烈な廃仏毀釈後であるから寺院が全くない、つまり僧侶がいない。神官はいたが、当時の神官は公務員であるためその数が限られており、とても民衆の葬式をまかなう人数がいなかった。だが人は、そんなことはお構いなしに死んでいく。かといって勝手に葬れば取り締まられる。さて困った。 と、そういう状況でやってきたのが西本願寺の僧侶たちなのである。鹿児島の民衆にとって、ようやく葬儀を任すことができる人が現れたのであった。渡りに船とはこのことであろう。乗らないわけがないのである。
この状況は、西本願寺側もよくわかっていた。島地黙雷はこれをチャンスと見たし、西南戦争後の明治11年には、西本願寺の鹿児島出張所(現・西本願寺鹿児島別院)は県庁の指導に従い「葬儀を懇ろにせよ」という達書を県内で活動する僧侶たちに送っている。
こうして、鹿児島の民衆にとって、真宗は「葬式仏教」として入ってきたのである。西南戦争や隠れ念仏、そして言葉の問題など本願寺にとっては逆風だらけの中、布教事業が非常なる成功を収めたのは、ひとえに明治5年の「自葬禁止」の布告のおかげであるといっても過言ではない。
「葬式仏教」などというと、形式化した現代の仏教を揶揄する言葉であるが、明治の頃の「葬式仏教」としての真宗をあながち批判することはできない。葬式は、言うまでもなく死者の魂を安らげ、残されたものの心を整理する重要なイベントである。現代においても、心のこもった葬儀というのは、一人の人間の死を悼むだけでなく、それぞれの来し方行く末を顧みる機会にもなり、これまで受けてきた有形無形の慈しみに感謝する場でもある。西本願寺の僧侶たちが葬式を「懇ろに」執り行ってくれたことは、当時の人々にとってどれだけ慰めになったことだろう。
さらに、当時の鹿児島の民衆というものは蒙昧で野蛮な状態に置かれていたのだ、ということをもう一度考えなくてはならない。一方で、鹿児島へ布教活動に来ていた僧侶たちは、当時の西本願寺の中でもエース級の人物たちで ある。そういう、教養も徳も高い僧侶が、「猿の如き」と言われていた野卑な民衆の葬儀を執り行ったのである。しかも、それは偶然ではない。「お念仏の下には、人々はみな平等である」という真宗の教えに基づいて、野卑な庶民にも高徳の僧侶が念仏をしたのであった。難しい話など聞く機会など全くなかったであろう鹿児島の庶民が、始めて触れた高邁な話は、おそらく真宗僧侶の説教(法話)だったのではないだろうか。
なお、鹿児島の民衆と真宗の出会いが「葬式仏教」だったことは、鹿児島の真宗文化に強力な影響をもたらした。
例えば、鹿児島では墓参りが盛んなことに他県の人が驚くことがある。また、盆正月などでなくても、いつもお墓に立派な仏花が飾られていることは、鹿児島の一種の風物詩であり、そのおかげで鹿児島県民の切り花消費量は日本一なのだ。ここでの問題は、真宗率の高い鹿児島で、どうしてこのように祖霊祭祀が盛んなのかということである。
なぜなら、真宗は元来、祖霊祭祀には熱心ではない。 親鸞の元々の教えには祖霊祭祀の要素が非常に希薄であって、祖先の霊を敬うことよりも、ひとえに阿弥陀仏におすがりすることを強調している。それに、念仏 を唱えて亡くなった人は貴賤の別なく阿弥陀の浄土へ往くことができるので、追善供養(死後に読経や布施などをして極楽へ往生できるように願うこと)をする必要もなかった。真宗の教義では、お盆にも祖霊が現世へと返ってくることはなく、死者は浄土にいて永遠の安楽を楽しむことができるとされている。
こういう教義であるから、祖先の墓に頻繁に墓参りをするとか、仏花を献げるとかいうことに、真宗では宗教的な意味づけがあまりなかったのである。事実、古くからの真宗地帯である北陸などでは、祖霊祭祀を行わず、ひとえに念仏に勤しむことを村の誉れとするようなケースもあったと聞く。今でも、北陸には墓がない地域がある。そんな真宗を多くが信仰する鹿児島で、どうして墓参りや献花が盛んなのか。その答えは、この明治期の真宗の受容の仕方にあったのではないか。
先述の通り、この頃の真宗は国家の指導の下、元々の教義にはかなり希薄であった「祖霊崇拝」を積極的に勧奨したし、しかのみならず、「真俗二諦」の旗印の下、皇祖崇拝と天皇への恭順も指導した。この頃の真宗には、元々の教義を枉げていた部分が確かにあった。そしてそれは、既に述べたように西本願寺自身が認めて反省していることである。鹿児島の民衆に篤く墓参りをするよう指導したのは、ほかでもない西本願寺ではなかったか。鹿児島でこれほど墓参りなどの祖霊祭祀が盛んであるのは、この頃の真宗の教化以外に説明がつかない。
ちなみに、墓参りが盛んな理由を「元々鹿児島の人は祖先を敬う気持ちが強いから」などと説明されることもあるがこれは大きな間違いである。「伊勢講」とか「庚申講」といった、近世以前の民衆の宗教活動の中心である各種の「講」を見ても、祖霊祭祀の要素はほとんど見当たらないことからもそれは明らかであり、控えめに言っても、かつて鹿児島で祖霊祭祀が盛んだったという証拠はない。
ただ、元々の教義に希薄な要素を新たに導入するのは別に悪いことではない。仏教では、元来「方便」という考え方があり、これは「真理に近づくための方法は様々でよい」というような意味を含む。結果的に鹿児島の人たちを救うのに役立ったのであれば、葬式仏教で何の悪いことがあろうか。
それに、元来の教えに則ったものこそ正しく、後に付け加えられたものは間違いである、という立場に立つと、浄土真宗自体を否定することになる。歴史的人物としての釈尊は阿弥陀仏の教えを説いていないわけで、その立場だと信じられるものは初期仏典のごく一部に限られる。そういう態度を否定はしないが、宗教というのは、土着の信仰や習俗と習合して内容が豊かになっていくものだから、たとえ祖霊祭祀が国家に勧奨されて導入されたものだったとしても、ただちに価値が低いということにはならない。
だが一方で、このために鹿児島の真宗信仰に、本来の親鸞の教えとは少し違う部分がもたらされたことも事実である。他県に出てみると分かるが、鹿児島の真宗文化は他地域のそれと少し変わっている。そしてその差異の淵源が、明治時代にあることはほとんど知られていない。鹿児島の西本願寺も、それを広く説明したことはないようだ。明治維新から150年以上経っているので、そろそろ自らの姿を正しく見つめる機会を持つべきではないだろうか。
【補足】2/3アップデート
最後から2番目の段落を追加した。
【参考資料】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会 代表 槇藤 明哲
2014年1月22日水曜日
「隠れ念仏」の徒の失望——鹿児島本願寺派小史(3)
西南戦争は薩軍の敗北で終結した。
そして、西本願寺の鹿児島開教事業が本格的に始まることになる。だが、連枝(明如の実弟)日野澤依を宗主代理として派遣するなど、西本願寺は大変力を入れて開教事業に邁進したものの、ことはそう順調には進まなかった。「隠れ念仏」の盛んだった鹿児島だったから、真宗は歓迎されたのでは、と思っていたが調べてみるとそうでもないらしい。
話が急に変わるようだが、カヤカベ教というのをご存じだろうか? カヤカベ教は、隠れ念仏から派生した秘密宗教の一派で、霧島あたりに信者が多かった。このカヤカベ教は、なんと明治9年の信教自由の布達後も約100年間にわたってその秘密を守り通し、独自の信仰を貫いたのである。どうして彼らがその信仰を秘密にしていたのかというと、隠れ念仏時代からの「決して外部のものに信仰を明かしてはいけない」という教義があったからだ。もちろん、これは念仏が厳しく禁じられた藩政時代の政策に対応するものだったが、この教義を昭和に至るまで守っていたのである。カヤカベ教は、浄土真宗の教えから生まれたものだったが、神道と集合した上、独自のタブーを設けるなど元の教えからは大分異なったものになっていた。
このように、隠れ念仏のような秘密の信仰というものは、(悪い言葉で言えば)カルト化しやすく、また主流派の教義から離れていきがちになる。宗教の教義は全てが絶対不変ではなく、時代によって考え方が移ろいゆくものである。宗派における人心の統一を図ることは現代でも難しい。ましてや、薩摩藩のように真宗が禁じられている中で、旅の真宗僧侶が断片的に伝えた教えを、住民が口伝えによって信仰する場合には、その内容が正しく継承されていかないのはやむを得ぬことである。
さらには、禁教下であるから、鹿児島に入ってきた念仏の教えは主流派のものでないことが多かったらしい。もし見つかれば厳しい罰を受けるわけで、危険を冒して主流派が組織的布教活動を行おうとしないのは当然だ。具体的には、鹿児島には西本願寺の中でも異端とされる「三業派(さんごうは)」という教えが多く入っていたと言われる。三業派の詳しい説明は省くが、おそらく西本願寺により異端認定された後で、居場所をなくした三業派の僧侶がフロンティアを求めて鹿児島に入ってきたのではと思う。
そういうわけだから、鹿児島に密やかに生きていた念仏の徒たちの信仰内容は、主流派の教えとは違ったものであることが多かったようである。明治に至って鹿児島入りした開教史(西本願寺から布教のために派遣されてきた僧侶)は、そうした「間違った信仰」を目の当たりにし、「そうではない、正しくはこうである」と住民たちを指導したことであろう。
藩の役人の目を避けながら命を賭けて「隠れ念仏」を行い守ってきた教えが、こうして開教史たちに否定され、「正しい」教えに始めて接した住民たちの思いは察するに余りある。にわかには、その教えを素直に受け入れることが出来なかっただろう。自分たちが命を賭けて守ってきた教えが間違っていたとなれば、これまでの苦労はなんだったのか、ということになる。
それに、「隠れ念仏」というのは、辛い現実生活から救ってくれる救世主として阿弥陀仏を拝み、(禁教とされていたわけだから当然だが)反国家的な力があるものと思われていた。それが今度は、「王法為本(真宗の教義は王法=政府の秩序や法令を根本とする)」とか、「真俗二諦」とかいって、国家への忠誠を求める政府的宗教として真宗が入ってきたのである。隠れ念仏の徒が、現実世界の秩序を超えさせてくれると期待した「ほんとうの念仏」は、その思いとは裏腹に現実世界の惨めな秩序を肯定するものだった。「こんなものは本当の念仏ではない!」と彼らが失望したのは当然である。
しかも、当時の西本願寺では、そうした「間違った念仏の教え」が住民を惑わせているとして、それまで鹿児島で秘密裏に活動していた念仏者を「曖昧僧(=僧であるかどうかよくわからない者)」と呼んで取り締まりをしているくらいなのである。こうした西本願寺の姿勢に、「隠れ念仏」の徒は反発したであろう。
昭和も終わり近くになって、西本願寺は命を賭けて念仏を守っていた人たちを否定していたことを反省するが、明治の当時は政府に対して「曖昧僧などが住民を惑わしているので、真俗二諦を掲げる正しい真宗の教えを広めることは大変有益である」というような趣旨を掲げて、「曖昧僧」の存在を布教活動の正当化のダシに使うくらいであった。
こういうわけで、本来ならば西本願寺にとって応援者となるべき隠れ念仏の徒は、むしろ布教にあたっての障害となっていたようである。もちろん、隠れ念仏の徒が全て西本願寺に反発したのではなく、中にはこれを歓迎した人たちもいたに違いない。しかし西本願寺自身が、地域に細々と息づいていた念仏者に(少なくとも最初は)冷淡だったことは間違いなく、隠れ念仏の徒が大きな応援団ではなかったことは確かである。
そういう事情を抜きにしても、布教の事業を進めるにあたっての困難は大きかった。最も大きかったのは言葉の問題で、鹿児島弁と(西本願寺があった)京都弁の差は絶望的なまでに大きかった。例えば、開教史の一人、鎌数謙譲は「言葉は、十中の八・九は通じない」と記し、さらに続けて
このように、西本願寺による鹿児島での布教活動は未開で野蛮な人々を王法(政府の秩序、法令)によって教化するという、まさしく明治政府が期待したものであったが、こうした姿勢で鹿児島へ入ってきた開教史たちを、民衆が歓迎したかどうかは疑問だ。
信教自由直後の明治9年10月12日、いづろ通りにあった民家で鹿児島での最初の説教が行われた際、本願寺側の記録では「群参する人々の波は絶えず、いづろ通りは全くの交通止め状態であったという」とされるけれども、これも真宗を待ち望んだ人々による歓迎というより、せいぜい物珍しさに集まった人々の群れに過ぎなかったのではないか。人々を現実の辛い生活から救うはずだった念仏が、国家の道具となっていた有様に失望した人が多かったのではないか。
後世の我々が、西本願寺のこのような姿勢を批判するのはたやすいことである。神道が国家の根本に据えられ、仏教には大変辛い時代であった明治時代においては、仏教教団が生き延びるために国家に迎合したのも仕方のないことだっただろう。実際、西本願寺が明治政府の体制内部から信教自由等に尽力しなければ、太平洋戦争にまで至る「国家神道」はもっと醜悪なものになっていた可能性すらある。私は、個人的にはこの頃の真宗の驚異的な生命力は歴史的評価に値すると思っている。
また、こうした姿勢は後に西本願寺派自身によっても自己批判され、「真俗二諦」は誤った教義であったと修正されてもいる。だがそういったことは、当時の隠れ念仏の徒には関係のないことだ。彼らの失望は想像するに余りある。真宗禁教300年を経てようやく鹿児島へ入ってきた「ほんとうの念仏」は、少なくとも「隠れ念仏」の徒にとっては全く期待はずれのものだったのである。
※ 布団はなくとも藁を被っていたという話もある。藁を被る方が衛生的で暖かかったとも言われているが、実態はよくわからない。
【参考文献】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明哲)
そして、西本願寺の鹿児島開教事業が本格的に始まることになる。だが、連枝(明如の実弟)日野澤依を宗主代理として派遣するなど、西本願寺は大変力を入れて開教事業に邁進したものの、ことはそう順調には進まなかった。「隠れ念仏」の盛んだった鹿児島だったから、真宗は歓迎されたのでは、と思っていたが調べてみるとそうでもないらしい。
話が急に変わるようだが、カヤカベ教というのをご存じだろうか? カヤカベ教は、隠れ念仏から派生した秘密宗教の一派で、霧島あたりに信者が多かった。このカヤカベ教は、なんと明治9年の信教自由の布達後も約100年間にわたってその秘密を守り通し、独自の信仰を貫いたのである。どうして彼らがその信仰を秘密にしていたのかというと、隠れ念仏時代からの「決して外部のものに信仰を明かしてはいけない」という教義があったからだ。もちろん、これは念仏が厳しく禁じられた藩政時代の政策に対応するものだったが、この教義を昭和に至るまで守っていたのである。カヤカベ教は、浄土真宗の教えから生まれたものだったが、神道と集合した上、独自のタブーを設けるなど元の教えからは大分異なったものになっていた。
このように、隠れ念仏のような秘密の信仰というものは、(悪い言葉で言えば)カルト化しやすく、また主流派の教義から離れていきがちになる。宗教の教義は全てが絶対不変ではなく、時代によって考え方が移ろいゆくものである。宗派における人心の統一を図ることは現代でも難しい。ましてや、薩摩藩のように真宗が禁じられている中で、旅の真宗僧侶が断片的に伝えた教えを、住民が口伝えによって信仰する場合には、その内容が正しく継承されていかないのはやむを得ぬことである。
さらには、禁教下であるから、鹿児島に入ってきた念仏の教えは主流派のものでないことが多かったらしい。もし見つかれば厳しい罰を受けるわけで、危険を冒して主流派が組織的布教活動を行おうとしないのは当然だ。具体的には、鹿児島には西本願寺の中でも異端とされる「三業派(さんごうは)」という教えが多く入っていたと言われる。三業派の詳しい説明は省くが、おそらく西本願寺により異端認定された後で、居場所をなくした三業派の僧侶がフロンティアを求めて鹿児島に入ってきたのではと思う。
そういうわけだから、鹿児島に密やかに生きていた念仏の徒たちの信仰内容は、主流派の教えとは違ったものであることが多かったようである。明治に至って鹿児島入りした開教史(西本願寺から布教のために派遣されてきた僧侶)は、そうした「間違った信仰」を目の当たりにし、「そうではない、正しくはこうである」と住民たちを指導したことであろう。
藩の役人の目を避けながら命を賭けて「隠れ念仏」を行い守ってきた教えが、こうして開教史たちに否定され、「正しい」教えに始めて接した住民たちの思いは察するに余りある。にわかには、その教えを素直に受け入れることが出来なかっただろう。自分たちが命を賭けて守ってきた教えが間違っていたとなれば、これまでの苦労はなんだったのか、ということになる。
それに、「隠れ念仏」というのは、辛い現実生活から救ってくれる救世主として阿弥陀仏を拝み、(禁教とされていたわけだから当然だが)反国家的な力があるものと思われていた。それが今度は、「王法為本(真宗の教義は王法=政府の秩序や法令を根本とする)」とか、「真俗二諦」とかいって、国家への忠誠を求める政府的宗教として真宗が入ってきたのである。隠れ念仏の徒が、現実世界の秩序を超えさせてくれると期待した「ほんとうの念仏」は、その思いとは裏腹に現実世界の惨めな秩序を肯定するものだった。「こんなものは本当の念仏ではない!」と彼らが失望したのは当然である。
しかも、当時の西本願寺では、そうした「間違った念仏の教え」が住民を惑わせているとして、それまで鹿児島で秘密裏に活動していた念仏者を「曖昧僧(=僧であるかどうかよくわからない者)」と呼んで取り締まりをしているくらいなのである。こうした西本願寺の姿勢に、「隠れ念仏」の徒は反発したであろう。
昭和も終わり近くになって、西本願寺は命を賭けて念仏を守っていた人たちを否定していたことを反省するが、明治の当時は政府に対して「曖昧僧などが住民を惑わしているので、真俗二諦を掲げる正しい真宗の教えを広めることは大変有益である」というような趣旨を掲げて、「曖昧僧」の存在を布教活動の正当化のダシに使うくらいであった。
こういうわけで、本来ならば西本願寺にとって応援者となるべき隠れ念仏の徒は、むしろ布教にあたっての障害となっていたようである。もちろん、隠れ念仏の徒が全て西本願寺に反発したのではなく、中にはこれを歓迎した人たちもいたに違いない。しかし西本願寺自身が、地域に細々と息づいていた念仏者に(少なくとも最初は)冷淡だったことは間違いなく、隠れ念仏の徒が大きな応援団ではなかったことは確かである。
そういう事情を抜きにしても、布教の事業を進めるにあたっての困難は大きかった。最も大きかったのは言葉の問題で、鹿児島弁と(西本願寺があった)京都弁の差は絶望的なまでに大きかった。例えば、開教史の一人、鎌数謙譲は「言葉は、十中の八・九は通じない」と記し、さらに続けて
泊まった民家は汚くて臭く、蝿等も多く、ほとんど、健康を害しそうである。寝る時は、垢のついた布団一枚、下は茣蓙一枚である。人々の様子は、髪は束ね髪、着ているものも、粗くて粗悪、全員裸足にて手足は猿の如く、野卑醜悪にて全体に猿の如き様子である。食事は三度三度、唐芋、たまに、粟の飯がまじるくらいである。と述懐している。当時の惨めな生活を活写する貴重な証言なのであるが、住民を猿扱いする様子には、アフリカやカリブ海の島々で「未開」な人間を教化しようとしたキリスト教宣教師たちの姿と重なるものがあるではないか。ちなみに、当時庶民には布団が普及しておらず、茣蓙や板間の上に直に寝て掛け布団はないのが普通だったらしい(※)から、鎌数が辟易した「垢のついた布団一枚」というのも、住民からのなけなしのもてなしだった可能性が大きい。
このように、西本願寺による鹿児島での布教活動は未開で野蛮な人々を王法(政府の秩序、法令)によって教化するという、まさしく明治政府が期待したものであったが、こうした姿勢で鹿児島へ入ってきた開教史たちを、民衆が歓迎したかどうかは疑問だ。
信教自由直後の明治9年10月12日、いづろ通りにあった民家で鹿児島での最初の説教が行われた際、本願寺側の記録では「群参する人々の波は絶えず、いづろ通りは全くの交通止め状態であったという」とされるけれども、これも真宗を待ち望んだ人々による歓迎というより、せいぜい物珍しさに集まった人々の群れに過ぎなかったのではないか。人々を現実の辛い生活から救うはずだった念仏が、国家の道具となっていた有様に失望した人が多かったのではないか。
後世の我々が、西本願寺のこのような姿勢を批判するのはたやすいことである。神道が国家の根本に据えられ、仏教には大変辛い時代であった明治時代においては、仏教教団が生き延びるために国家に迎合したのも仕方のないことだっただろう。実際、西本願寺が明治政府の体制内部から信教自由等に尽力しなければ、太平洋戦争にまで至る「国家神道」はもっと醜悪なものになっていた可能性すらある。私は、個人的にはこの頃の真宗の驚異的な生命力は歴史的評価に値すると思っている。
また、こうした姿勢は後に西本願寺派自身によっても自己批判され、「真俗二諦」は誤った教義であったと修正されてもいる。だがそういったことは、当時の隠れ念仏の徒には関係のないことだ。彼らの失望は想像するに余りある。真宗禁教300年を経てようやく鹿児島へ入ってきた「ほんとうの念仏」は、少なくとも「隠れ念仏」の徒にとっては全く期待はずれのものだったのである。
※ 布団はなくとも藁を被っていたという話もある。藁を被る方が衛生的で暖かかったとも言われているが、実態はよくわからない。
【参考文献】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明哲)
2014年1月18日土曜日
西南戦争と真宗布教——鹿児島本願寺派小史(2)
前回の記事で書いたように、鹿児島で西南戦争前夜に真宗が広められたのには政治的目的があった。鹿児島での信教自由を後押しした田中直哉にも、彼自身が真宗門徒であったということ以上に、真宗を政治利用しようとする思惑があった。
この頃の鹿児島というものは、新政府の言うことは聞かず、地租改正もせず(つまり税金を新政府に納めていなかった)、新政府の政策には不満を抱き、西郷隆盛が率いる「私学校」が鬱勃とした士族を多数抱えていた。一方で一般の民衆は、長い奴隷的支配の気分から抜け出すことができず、権利や義務といった現代的社会生活の枠組みを知らずにいた。乱暴に言えば、鹿児島は「士族による軍事独裁政権」の時代で、民衆は藩政時代と少しも変わらない、蒙昧な状態に置かれていたのであった。
例えば、他県では多くが民会(今で言う県議会)を設置していたが、鹿児島においては、県はもちろん市町村のあらゆるレベルでも民主的な議会が存在していなかった。民権家であった田中直哉がこうした状況を憂慮したのは当然だ。彼は新聞記者として政治の自由化を求め、その廉で投獄されたこともあった人物だ。ちょうどこの頃中央から鹿児島に帰郷し、鹿児島の民主化を図ろうと県令大山綱良に民会設置の働きかけをしたが、民度の低い鹿児島では時期尚早であるとして受け入れられない。
そこで田中は真宗による民衆の教化を発案するのである。宗教によって「智識を啓き権利義務の在る所を知らしめ」ようとし、また布教活動を通じて「軍事独裁政権」の中心であった私学校の内実を探ろうと、信教自由へ向けた建白書を大山県令に提出するのである。田中のこうした提言が、新政府からの人心の乖離や私学校の暴発を心配する大久保、そして鹿児島での布教を進めたい真宗にとって不都合な筈もなく、西本願寺は田中からの要請を受けて鹿児島に僧侶を派遣するのである。
しかし、元来が政治的使命を帯びた布教活動であるから、私学校からは疑いの目を向けられた。そうでなくても、鹿児島には約300年の真宗迫害の歴史があり、士族は真宗僧侶を軽蔑していた。田中の提言とは別に、信教自由の布達を受けて鹿児島の真宗門徒が西本願寺へ僧侶の派遣を要請したこともあり、西本願寺は数名の僧侶たちを「開教史」に任命して鹿児島へ送っていたが、なかなか布教活動は進まない。というのも、士族たちの反発が根強く、各地で説教の許可がなかなか下りず、また邪険な扱いを受けていたのである。
そんな中、田中は同行の中原尚雄らと共に私学校党に逮捕されてしまう。西郷隆盛の暗殺を企てたとの容疑であった。拷問の末に彼らは「自白」させられてしまい、私学校に挙兵する口実を与え、ここに西南戦争が勃発するのである。信教自由の布達から約半年後の明治10年2月のことであった。
こうなると、田中が糸を引いて鹿児島へ送られてきたと見られていた真宗僧たちもスパイではないかと疑われたのは無理からぬことである。事実、田中は士族たちの暴発を食い止めようと、布教活動の中で私学校の内実を探ろうともしていたわけで、全くの言いがかりでもなかった。そういうわけで、真宗僧侶は西郷暗殺の一味と同一視され次々と捕縛されていった。その端緒となったのが、本願寺から派遣された大洲鉄然(おおず・てつねん)の逮捕である。
後に赤松連城、島地黙雷と共に「本願寺の三傑」の一人とされる大洲鉄然を派遣するあたり、西本願寺の鹿児島布教への本気度が感じられるのであるが、大洲がスパイと目されたのも理由のないことではなかった。この頃の西本願寺は長州閥との関係が深く、特に大洲は長州(周防)出身で木戸孝允と懇意にしていた。私学校の暴徒たちから、大洲は大久保や木戸の密命を受けて鹿児島にやってきたと見なされたのである。大洲が戊辰戦争の頃には僧兵を率いて活躍した武闘派だったという来歴も影響していたのかもしれない。
そういうわけであるから、政治的目的を帯びた鹿児島布教の活動は、西本願寺にとっては踏んだり蹴ったりな始まりであった。彼らは被害者であるだけでなく、行きがかり上ではあるにしろ、西南戦争勃発の間接的な原因を作ってしまった部分すらある。政治に利用されるだけでなく、政治を利用しようとした西本願寺のしたたかな姿勢は、ここでは裏目に出てしまったのだった。
だが、当時の西本願寺を政治とベッタリな阿諛追従の徒であると見るのは間違いだ。例えば大洲と同郷で西本願寺の改革を担った島地黙雷(しまじ・もくらい)は、神道国教化の宗教政策を厳しく批判し、政教分離をなさしめた立役者である。西本願寺は、政府に多額の献金をし、真俗二諦の名の下に民衆の教化に邁進したが、一方では政府の行き過ぎた神道優遇には釘を刺し、信教自由化を訴えたのであった。また、廃仏毀釈という愚行が全国に広がる前に食い止められたのも、西本願寺の政府への粘り強い働きかけがあったからこそとも言える。
そもそも廃仏毀釈は明治政府の政策ではなく、政府の神道国教化に迎合したいくつかの藩で起こった暴動のような現象であるが、これに最も抵抗したのが真宗の各寺であった。他の宗派が時の権力に迎合して大した抵抗もせずに廃寺を行い、次々と寺がなくなっていく中、強靱な信仰と団結によりただの一寺も潰さない覚悟で耐え抜いたのはただ真宗の僧侶たちのみであった。また、やむを得ず廃寺になった場合も、廃仏政策が終熄した後に速やかに再興する場合が多かった。真宗の徒は表向きには権力に従順にしつつも、実際には信仰を守り抜き、国家を出し抜いたのである。
数多くの宗派の中で、真宗のみがそうしたしなやかな対応ができたのは、長州閥との親しい関係や膨大な献金を可能とした資金力、そして天下に輝く法主の威光があった。明治政府は実質的にクーデターで成立した政権であったため、その存立基盤にあやふやなところがあった。王政復古を旗印にしてはいたが、その当時は天皇というものは一般には馴染みない存在で、偉いのか偉くないのかもよくわからないような状態だった。鎌倉幕府以来、約900年間、国のリーダーが「将軍」であったので、「天皇」は必ずしも人心を収攬する象徴となりえなかったのである。そんな中、天皇の行幸に当時「現人神」とされた本願寺の法主が恭しく同行する様子は、人々に天皇の権威をすり込ませるに十分だっただろう。
こうしたことから、明治初年の神仏分離、そして廃仏希釈、また明治4年に実施された寺領上知(寺の領地を国家に返上させる政策)など、仏教に不利な政策が矢継ぎ早に打ち出される中で、真宗はそれらからの被害をほとんど受けなかった唯一の宗派であった。そのため、明治中期以降、まずは復興に取り組まねばならなかった他宗派をよそに、真宗は鹿児島や北海道、そして続いては台湾、満州へと、積極的な布教活動を展開することができたのである。
鹿児島への布教も、決して政治的な打算のみでない、強靱な意志を持って進められた事業であった。大洲鉄然、そして開教史の僧侶が次々と捕縛されスパイの汚名を着せられようとも、西本願寺の姿勢はいささかも揺るがなかった。開教の拠点となるはずだった一宇が、設立から僅か1ヶ月で戦火により灰燼に帰しても、鹿児島へ真宗の灯を点さんとする熱意は変わらなかったのである。
【参考文献】
『近代日本の戦争と宗教』2010年、小川原 正道
『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫
この頃の鹿児島というものは、新政府の言うことは聞かず、地租改正もせず(つまり税金を新政府に納めていなかった)、新政府の政策には不満を抱き、西郷隆盛が率いる「私学校」が鬱勃とした士族を多数抱えていた。一方で一般の民衆は、長い奴隷的支配の気分から抜け出すことができず、権利や義務といった現代的社会生活の枠組みを知らずにいた。乱暴に言えば、鹿児島は「士族による軍事独裁政権」の時代で、民衆は藩政時代と少しも変わらない、蒙昧な状態に置かれていたのであった。
例えば、他県では多くが民会(今で言う県議会)を設置していたが、鹿児島においては、県はもちろん市町村のあらゆるレベルでも民主的な議会が存在していなかった。民権家であった田中直哉がこうした状況を憂慮したのは当然だ。彼は新聞記者として政治の自由化を求め、その廉で投獄されたこともあった人物だ。ちょうどこの頃中央から鹿児島に帰郷し、鹿児島の民主化を図ろうと県令大山綱良に民会設置の働きかけをしたが、民度の低い鹿児島では時期尚早であるとして受け入れられない。
そこで田中は真宗による民衆の教化を発案するのである。宗教によって「智識を啓き権利義務の在る所を知らしめ」ようとし、また布教活動を通じて「軍事独裁政権」の中心であった私学校の内実を探ろうと、信教自由へ向けた建白書を大山県令に提出するのである。田中のこうした提言が、新政府からの人心の乖離や私学校の暴発を心配する大久保、そして鹿児島での布教を進めたい真宗にとって不都合な筈もなく、西本願寺は田中からの要請を受けて鹿児島に僧侶を派遣するのである。
しかし、元来が政治的使命を帯びた布教活動であるから、私学校からは疑いの目を向けられた。そうでなくても、鹿児島には約300年の真宗迫害の歴史があり、士族は真宗僧侶を軽蔑していた。田中の提言とは別に、信教自由の布達を受けて鹿児島の真宗門徒が西本願寺へ僧侶の派遣を要請したこともあり、西本願寺は数名の僧侶たちを「開教史」に任命して鹿児島へ送っていたが、なかなか布教活動は進まない。というのも、士族たちの反発が根強く、各地で説教の許可がなかなか下りず、また邪険な扱いを受けていたのである。
そんな中、田中は同行の中原尚雄らと共に私学校党に逮捕されてしまう。西郷隆盛の暗殺を企てたとの容疑であった。拷問の末に彼らは「自白」させられてしまい、私学校に挙兵する口実を与え、ここに西南戦争が勃発するのである。信教自由の布達から約半年後の明治10年2月のことであった。
こうなると、田中が糸を引いて鹿児島へ送られてきたと見られていた真宗僧たちもスパイではないかと疑われたのは無理からぬことである。事実、田中は士族たちの暴発を食い止めようと、布教活動の中で私学校の内実を探ろうともしていたわけで、全くの言いがかりでもなかった。そういうわけで、真宗僧侶は西郷暗殺の一味と同一視され次々と捕縛されていった。その端緒となったのが、本願寺から派遣された大洲鉄然(おおず・てつねん)の逮捕である。
後に赤松連城、島地黙雷と共に「本願寺の三傑」の一人とされる大洲鉄然を派遣するあたり、西本願寺の鹿児島布教への本気度が感じられるのであるが、大洲がスパイと目されたのも理由のないことではなかった。この頃の西本願寺は長州閥との関係が深く、特に大洲は長州(周防)出身で木戸孝允と懇意にしていた。私学校の暴徒たちから、大洲は大久保や木戸の密命を受けて鹿児島にやってきたと見なされたのである。大洲が戊辰戦争の頃には僧兵を率いて活躍した武闘派だったという来歴も影響していたのかもしれない。
そういうわけであるから、政治的目的を帯びた鹿児島布教の活動は、西本願寺にとっては踏んだり蹴ったりな始まりであった。彼らは被害者であるだけでなく、行きがかり上ではあるにしろ、西南戦争勃発の間接的な原因を作ってしまった部分すらある。政治に利用されるだけでなく、政治を利用しようとした西本願寺のしたたかな姿勢は、ここでは裏目に出てしまったのだった。
だが、当時の西本願寺を政治とベッタリな阿諛追従の徒であると見るのは間違いだ。例えば大洲と同郷で西本願寺の改革を担った島地黙雷(しまじ・もくらい)は、神道国教化の宗教政策を厳しく批判し、政教分離をなさしめた立役者である。西本願寺は、政府に多額の献金をし、真俗二諦の名の下に民衆の教化に邁進したが、一方では政府の行き過ぎた神道優遇には釘を刺し、信教自由化を訴えたのであった。また、廃仏毀釈という愚行が全国に広がる前に食い止められたのも、西本願寺の政府への粘り強い働きかけがあったからこそとも言える。
そもそも廃仏毀釈は明治政府の政策ではなく、政府の神道国教化に迎合したいくつかの藩で起こった暴動のような現象であるが、これに最も抵抗したのが真宗の各寺であった。他の宗派が時の権力に迎合して大した抵抗もせずに廃寺を行い、次々と寺がなくなっていく中、強靱な信仰と団結によりただの一寺も潰さない覚悟で耐え抜いたのはただ真宗の僧侶たちのみであった。また、やむを得ず廃寺になった場合も、廃仏政策が終熄した後に速やかに再興する場合が多かった。真宗の徒は表向きには権力に従順にしつつも、実際には信仰を守り抜き、国家を出し抜いたのである。
数多くの宗派の中で、真宗のみがそうしたしなやかな対応ができたのは、長州閥との親しい関係や膨大な献金を可能とした資金力、そして天下に輝く法主の威光があった。明治政府は実質的にクーデターで成立した政権であったため、その存立基盤にあやふやなところがあった。王政復古を旗印にしてはいたが、その当時は天皇というものは一般には馴染みない存在で、偉いのか偉くないのかもよくわからないような状態だった。鎌倉幕府以来、約900年間、国のリーダーが「将軍」であったので、「天皇」は必ずしも人心を収攬する象徴となりえなかったのである。そんな中、天皇の行幸に当時「現人神」とされた本願寺の法主が恭しく同行する様子は、人々に天皇の権威をすり込ませるに十分だっただろう。
こうしたことから、明治初年の神仏分離、そして廃仏希釈、また明治4年に実施された寺領上知(寺の領地を国家に返上させる政策)など、仏教に不利な政策が矢継ぎ早に打ち出される中で、真宗はそれらからの被害をほとんど受けなかった唯一の宗派であった。そのため、明治中期以降、まずは復興に取り組まねばならなかった他宗派をよそに、真宗は鹿児島や北海道、そして続いては台湾、満州へと、積極的な布教活動を展開することができたのである。
鹿児島への布教も、決して政治的な打算のみでない、強靱な意志を持って進められた事業であった。大洲鉄然、そして開教史の僧侶が次々と捕縛されスパイの汚名を着せられようとも、西本願寺の姿勢はいささかも揺るがなかった。開教の拠点となるはずだった一宇が、設立から僅か1ヶ月で戦火により灰燼に帰しても、鹿児島へ真宗の灯を点さんとする熱意は変わらなかったのである。
【参考文献】
『近代日本の戦争と宗教』2010年、小川原 正道
『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫
2014年1月16日木曜日
私のかぼちゃの応援者
![]() |
撮影:高品様 |
「南薩の田舎暮らし」で1個1200円で売っているかぼちゃのことである。
その方は野菜ソムリエの高品 和代さんといい、1回3人までという少数精鋭の料理教室「ベジフルクッキングサポート築地」を主宰されている。この方が大変に親切で、私のかぼちゃを気に入っていただいたということで感想を送ってくれたり、アドバイスをくれたりと目をかけてくださっている。
そういうことで「ブログで紹介してもよろしいですか」と伺ったところ、次のようなコメントもわざわざ送ってくれたのである(!)。世の中には親切な人がいるものだ。
かぼちゃが届いて最初、少し茹でて食べてみた時は「んー、こんなものかな」と普通に美味しかったのですが、生産者さんおすすめの食べ方で、少し長めに蒸したらびっくり! 甘さもぐんと増して、とろけるような食感。普段食べていたホクホクかぼちゃにありがちな重たさ(喉につまる感じ)も無く、大きめサイズなのにあっという間にペロリと食べてしまいました。その他、ブイヨンでじっくり煮てポタージュも作りましたが、まろやかにできて美味しかったです。私は野菜ソムリエとして料理教室を開いていますが、生徒さんからも「今まで食べてたかぼちゃと違う!」と言われました。またリピ買いしたいと思います。ちなみに、ここで書いて頂いている「生産者さんおすすめの食べ方」というのは、「かぼちゃを切ってクッキングシートにくるみ、オーブンで40分ほど蒸し焼きにする」というものである。ちなみに、これにホイップした生クリームを添えると、それだけでスイーツ的なものになる。かぼちゃを蒸し焼きにしただけのものがスイーツになるわけがない、と感じるだろうが、なんだかんだでシンプルに料理するのが一番美味しいと思し、甘みも十分だ。
それから、スーパーで買うかぼちゃの99%はカットもののため、切ることに抵抗(苦手意識)がある、という指摘もいただいたが、私には全くそういう認識はなかったので勉強になった。確かに、よく熟したかぼちゃはとても堅く、これを包丁で真っ二つにするのは男性でも力のいる作業である。
その他、ナルホドと感じさせられる指摘をいくつか受けたので、できるところから徐々に改善していきたいと思っている。かぼちゃというのはネット通販で扱うには相当に不利な商材で、
- かさばるので輸送費が高く付く。
- 嗜好品ではないので、わざわざ取り寄せることがない。
- 2kgの大玉が送られてきても1回では食べきらないし、冷蔵庫の場所をとる。
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