2014年1月22日水曜日

「隠れ念仏」の徒の失望——鹿児島本願寺派小史(3)

西南戦争は薩軍の敗北で終結した。

そして、西本願寺の鹿児島開教事業が本格的に始まることになる。だが、連枝(明如の実弟)日野澤依を宗主代理として派遣するなど、西本願寺は大変力を入れて開教事業に邁進したものの、ことはそう順調には進まなかった。「隠れ念仏」の盛んだった鹿児島だったから、真宗は歓迎されたのでは、と思っていたが調べてみるとそうでもないらしい

話が急に変わるようだが、カヤカベ教というのをご存じだろうか? カヤカベ教は、隠れ念仏から派生した秘密宗教の一派で、霧島あたりに信者が多かった。このカヤカベ教は、なんと明治9年の信教自由の布達後も約100年間にわたってその秘密を守り通し、独自の信仰を貫いたのである。どうして彼らがその信仰を秘密にしていたのかというと、隠れ念仏時代からの「決して外部のものに信仰を明かしてはいけない」という教義があったからだ。もちろん、これは念仏が厳しく禁じられた藩政時代の政策に対応するものだったが、この教義を昭和に至るまで守っていたのである。カヤカベ教は、浄土真宗の教えから生まれたものだったが、神道と集合した上、独自のタブーを設けるなど元の教えからは大分異なったものになっていた。

このように、隠れ念仏のような秘密の信仰というものは、(悪い言葉で言えば)カルト化しやすく、また主流派の教義から離れていきがちになる。宗教の教義は全てが絶対不変ではなく、時代によって考え方が移ろいゆくものである。宗派における人心の統一を図ることは現代でも難しい。ましてや、薩摩藩のように真宗が禁じられている中で、旅の真宗僧侶が断片的に伝えた教えを、住民が口伝えによって信仰する場合には、その内容が正しく継承されていかないのはやむを得ぬことである。

さらには、禁教下であるから、鹿児島に入ってきた念仏の教えは主流派のものでないことが多かったらしい。もし見つかれば厳しい罰を受けるわけで、危険を冒して主流派が組織的布教活動を行おうとしないのは当然だ。具体的には、鹿児島には西本願寺の中でも異端とされる「三業派(さんごうは)」という教えが多く入っていたと言われる。三業派の詳しい説明は省くが、おそらく西本願寺により異端認定された後で、居場所をなくした三業派の僧侶がフロンティアを求めて鹿児島に入ってきたのではと思う。

そういうわけだから、鹿児島に密やかに生きていた念仏の徒たちの信仰内容は、主流派の教えとは違ったものであることが多かったようである。明治に至って鹿児島入りした開教史(西本願寺から布教のために派遣されてきた僧侶)は、そうした「間違った信仰」を目の当たりにし、「そうではない、正しくはこうである」と住民たちを指導したことであろう。

藩の役人の目を避けながら命を賭けて「隠れ念仏」を行い守ってきた教えが、こうして開教史たちに否定され、「正しい」教えに始めて接した住民たちの思いは察するに余りある。にわかには、その教えを素直に受け入れることが出来なかっただろう。自分たちが命を賭けて守ってきた教えが間違っていたとなれば、これまでの苦労はなんだったのか、ということになる。

それに、「隠れ念仏」というのは、辛い現実生活から救ってくれる救世主として阿弥陀仏を拝み、(禁教とされていたわけだから当然だが)反国家的な力があるものと思われていた。それが今度は、「王法為本(真宗の教義は王法=政府の秩序や法令を根本とする)」とか、「真俗二諦」とかいって、国家への忠誠を求める政府的宗教として真宗が入ってきたのである。隠れ念仏の徒が、現実世界の秩序を超えさせてくれると期待した「ほんとうの念仏」は、その思いとは裏腹に現実世界の惨めな秩序を肯定するものだった。「こんなものは本当の念仏ではない!」と彼らが失望したのは当然である。

しかも、当時の西本願寺では、そうした「間違った念仏の教え」が住民を惑わせているとして、それまで鹿児島で秘密裏に活動していた念仏者を「曖昧僧(=僧であるかどうかよくわからない者)」と呼んで取り締まりをしているくらいなのである。こうした西本願寺の姿勢に、「隠れ念仏」の徒は反発したであろう。

昭和も終わり近くになって、西本願寺は命を賭けて念仏を守っていた人たちを否定していたことを反省するが、明治の当時は政府に対して「曖昧僧などが住民を惑わしているので、真俗二諦を掲げる正しい真宗の教えを広めることは大変有益である」というような趣旨を掲げて、「曖昧僧」の存在を布教活動の正当化のダシに使うくらいであった。

こういうわけで、本来ならば西本願寺にとって応援者となるべき隠れ念仏の徒は、むしろ布教にあたっての障害となっていたようである。もちろん、隠れ念仏の徒が全て西本願寺に反発したのではなく、中にはこれを歓迎した人たちもいたに違いない。しかし西本願寺自身が、地域に細々と息づいていた念仏者に(少なくとも最初は)冷淡だったことは間違いなく、隠れ念仏の徒が大きな応援団ではなかったことは確かである。

そういう事情を抜きにしても、布教の事業を進めるにあたっての困難は大きかった。最も大きかったのは言葉の問題で、鹿児島弁と(西本願寺があった)京都弁の差は絶望的なまでに大きかった。例えば、開教史の一人、鎌数謙譲は「言葉は、十中の八・九は通じない」と記し、さらに続けて
泊まった民家は汚くて臭く、蝿等も多く、ほとんど、健康を害しそうである。寝る時は、垢のついた布団一枚、下は茣蓙一枚である。人々の様子は、髪は束ね髪、着ているものも、粗くて粗悪、全員裸足にて手足は猿の如く、野卑醜悪にて全体に猿の如き様子である。食事は三度三度、唐芋、たまに、粟の飯がまじるくらいである。
と述懐している。当時の惨めな生活を活写する貴重な証言なのであるが、住民を猿扱いする様子には、アフリカやカリブ海の島々で「未開」な人間を教化しようとしたキリスト教宣教師たちの姿と重なるものがあるではないか。ちなみに、当時庶民には布団が普及しておらず、茣蓙や板間の上に直に寝て掛け布団はないのが普通だったらしい(※)から、鎌数が辟易した「垢のついた布団一枚」というのも、住民からのなけなしのもてなしだった可能性が大きい。

このように、西本願寺による鹿児島での布教活動は未開で野蛮な人々を王法(政府の秩序、法令)によって教化するという、まさしく明治政府が期待したものであったが、こうした姿勢で鹿児島へ入ってきた開教史たちを、民衆が歓迎したかどうかは疑問だ。

信教自由直後の明治9年10月12日、いづろ通りにあった民家で鹿児島での最初の説教が行われた際、本願寺側の記録では「群参する人々の波は絶えず、いづろ通りは全くの交通止め状態であったという」とされるけれども、これも真宗を待ち望んだ人々による歓迎というより、せいぜい物珍しさに集まった人々の群れに過ぎなかったのではないか。人々を現実の辛い生活から救うはずだった念仏が、国家の道具となっていた有様に失望した人が多かったのではないか

後世の我々が、西本願寺のこのような姿勢を批判するのはたやすいことである。神道が国家の根本に据えられ、仏教には大変辛い時代であった明治時代においては、仏教教団が生き延びるために国家に迎合したのも仕方のないことだっただろう。実際、西本願寺が明治政府の体制内部から信教自由等に尽力しなければ、太平洋戦争にまで至る「国家神道」はもっと醜悪なものになっていた可能性すらある。私は、個人的にはこの頃の真宗の驚異的な生命力は歴史的評価に値すると思っている。

また、こうした姿勢は後に西本願寺派自身によっても自己批判され、「真俗二諦」は誤った教義であったと修正されてもいる。だがそういったことは、当時の隠れ念仏の徒には関係のないことだ。彼らの失望は想像するに余りある。真宗禁教300年を経てようやく鹿児島へ入ってきた「ほんとうの念仏」は、少なくとも「隠れ念仏」の徒にとっては全く期待はずれのものだったのである。

※ 布団はなくとも藁を被っていたという話もある。藁を被る方が衛生的で暖かかったとも言われているが、実態はよくわからない。

【参考文献】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明哲)

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