鹿児島には、浄土真宗の家がとても多いように思う。ちゃんとした統計がないので県内全域のことは分からないが、少なくとも私の行動範囲で考えると、8割以上が浄土真宗、それも西本願寺系であるように見える。
どうして、鹿児島には浄土真宗がこうも広まっているのだろうか? 真宗興隆の長い歴史を持つ北陸などと違い、鹿児島では戦国時代からの300年もの間真宗は禁教とされてきた。にも関わらず、どうして鹿児島では真宗が支配的な宗派となっているのだろうか?
私は漠然と、むしろ真宗が長い間禁じられていたからこそ、信教自由の時代になって爆発的に広まったのではと思っていた。禁じられているものは、禁じられているがゆえに一層有り難く、また力のあるものだと受け取られていただろうし、実際に鹿児島には「隠れ念仏」という史跡が多数残っており、これは役人の目を憚って念仏を行うための秘密の施設だったのである。こうして藩政時代にあっても秘密裏に真宗に帰依する人々が多かったから、その弾圧が解かれた時、真宗は一挙に広まったのではないのか。
しかし、鹿児島における真宗の歴史を調べてみると、ことはそう単純ではないことが分かってきた。むしろ非常に複雑な事情が絡んでいて、とても簡潔には説明することができないような、歴史の悪戯の結果ですらある。
というわけで、鹿児島における真宗開教の歴史を繙き、なぜ鹿児島には真宗、特に西本願寺派(※1)の家が多いのかという疑問を解いてみたい。
さて、鹿児島県民には周知のことだが、先述の通り鹿児島では藩政時代を通じて真宗(一向宗)は厳しく禁じられていた。なぜ一向宗が禁じられていたのかその理由は明らかになっていないが、主には念仏のネットワークで百姓が団結し一揆に発展するのを恐れたからということと、門徒が本願寺へ金品を上納するのを嫌ったからとされている。ともかく政治的な理由で真宗は禁じられていたのだった。
幕末になると復古神道の盛り上がりで真宗のみならず仏教全般に対する敵意が高まり、鹿児島では全国的に見ても苛烈な廃仏毀釈が行われた。驚くべきことに、千寺以上あった仏教寺院は全て廃寺とされ、僧侶も一人残らず還俗(げんぞく:僧侶でなくなること)させられたのである。明治2年のことであった。
ところが、明治9年に突如として鹿児島にも信教自由が布達されることになる。解禁の直接の原因となったのは宮崎県との合併だ。既に信教自由となっていた宮崎県と合併するにあたり、県内での整合性をとったためであった。というより、既に全国的にはキリスト教も含め信教自由の時代になっていた。だが鹿児島では長きにわたって禁教下にあったため、信教自由については慎重論も多かったのである。そんな状況の中で、自由化を後押ししたといわれるのが、鹿児島出身で真宗門徒であった田中直哉という人だ。
この人は新聞記者で「民権家」、今で言う民主的政治を求めるジャーナリストで、文筆を背景に時の県令(今で言う県知事)大山綱良や中央の当局者に「王政維新になって居るに本県のみが信教自由の恩恵に浴せぬと云うは、非文明である」と合併前に訴えていたのである。
とはいっても、もちろん個人の力だけで信教自由となったわけではない。中でも、大久保利通や西郷隆盛が宗教に関して進歩派で、信教自由を推し進める立場にあったことには注目しなくてはならない。いや、信教自由という一般論を超えて、彼らは真宗西本願寺派に対してとても親和的な態度を取っており、大久保に至っては明治9年の信教自由の布達の際、西本願寺派の法主明如(大谷光尊)に鹿児島での開教を要請しているほどである。
なぜ大久保は、鹿児島で真宗を広めるよう要請したのだろうか? 実はこの時代、真宗、特に西本願寺派は明治政府と深い関係にあり、大久保の要請は個人の信条などではなく、政治的な目的に基づくものであった。
それを理解するには、少し時間を遡り、明治維新の時からの東西の本願寺の動きを見てみる必要がある。幕末、東本願寺は徳川家と親密な関係にあったために佐幕的であり、西本願寺は逆に勤王・倒幕的であった。西本願寺は倒幕運動に協力し、僧兵の出兵、朝廷への献金を行ったのである。倒幕勢力にとって西本願寺は重要なパートナーとなり、特にその献金は彼らの重要な資金源となっていた。
やがて王政復古の大号令で勝敗が明らかとなり、かつて佐幕的であった東本願寺は、逆に新政府に対して積極的に献金を行うようになる。これは東本願寺にとって、反政府的であると見なされないための必死の生き残り策であったようだ。当初より新政府側についていた西本願寺はこの点を気にする必要はなかったが、おそらく東本願寺に対する優位性を確保したいという思惑と、新政府との関係をより強くするために、戊辰戦争においては東西本願寺の双方が僧兵の出兵や献金を盛んに行った。未だ基盤が弱かった新政府にとって、東西本願寺の持つ資金力、組織力、そして全国に広がるネットワークといったものは大きな助けになったことであろう。
こうして東西の本願寺が新政府との関係を強くしたいと願ったのは、新政府が仏教勢力にとって非常に不都合な原理を構築しつつあったからでもある。すなわち新政府は、遙かな過去に行われていたはずの、神の子孫である天皇による治世を再現しようとしていた。つまり王政復古こそが明治政府の依って立つレジティマシー(正統性)であったわけで、指導原理は当然ながら神道であり、仏教はよく言っても夾雑物扱いされざるを得ない。
実際に、明治に至ると神道は国教化され、本来分かちがたく混淆していた神道と仏教は分離させられた。これに伴って各地で廃仏の運動が起こったのである。明治5年には仏教に著しく不利な政策は改められたが、神道の国家的色彩はより強くなっていき、太平洋戦争まで突き進む近代日本の神権政治が加速していく。
仏教勢力がこうした状況に危機感を覚えたのは当然だ。特に西本願寺はこの状況に機敏に対応し、早くも明治元年には「真俗二諦(にたい)」を教義に規定している。これは、真の世界=仏の世界の真理である念仏による往生と、現実世界の真理=敬神と報国は車の両輪である、とする考え方である。本来、仏教的には天皇=神へ従うことを教義的に位置づけることはできないはずで、特に真宗においては阿弥陀仏への帰依が絶対唯一の信仰であるから「絶対的な神としての天皇」は相容れない存在だ。
しかし現実に、そうした方針の下で宗教界が大胆に再編されていく中、天皇の権威を認めなければ仏教の存在自体が危うくなる。そのため、西本願寺は真俗二諦を旗印に政権への協力姿勢を鮮明にし、積極的な献金、戦争協力、そして民衆の教化に邁進したのである。他の仏教教団も多かれ少なかれ政権の進める国家神道と妥協しなくてはならなかったが、とりわけ西本願寺が積極的に政権を支えたのは、機を見るに敏なリーダー法主広如の存在によるのであろう。
そういうわけであったから、西本願寺は政権に迎合し、その支配権の確立のため、民衆に「神を敬し、国を愛し、倫理を守り、法令に遵」うことを仏法の名の下に指導したのであった(※2)。当時の多くの人にとって、明治政府の急進的な政策はなじみのないものばかりで、特に敬神という信仰上の問題は容易に受け入れがたいものであったろうから、それに全国的ネットワークを持つ西本願寺が協力したことの意義は大きい。
事実、鹿児島は明治維新後も新政府の方針に従わない「独立国」の様相を呈し、政府の法令が及んでいなかった。特に明治6年に西郷が大久保と決裂して帰郷してからは新政府への失望と敵愾心が士族層に広がり、反政府的な雰囲気が横溢していたのである。鹿児島の反政府的な動きを憂慮した大久保が、西本願寺による民衆の馴化と慰撫を期待したのは当然であろう。鹿児島における信教自由の布達は、こうした状況の中で行われたものだった。西南戦争が起こる半年前のことである。
こうして、かつて反体制的なものとして禁じられた真宗が、今度は体制側となって鹿児島に入ってきたのである。禁じられたのも政治的理由なら、導入されたのも政治的理由だった。鹿児島にとっての真宗との出会いというのは、大変不幸なものだったのである。
※1 「西本願寺派」と書いたが現代の正式な用語は「本願寺派」である。ちなみに「東本願寺派」は「大谷派」。だが西と東の方が分かりやすいので便宜的にこう書くことにした。
※2 鹿児島に派遣された執事大洲鉄然の出張趣意書(明治9年12月)より(原文カナ、句点無し)。
【参考文献】
『近代日本の戦争と宗教』2010年、小川原 正道
2014年1月14日火曜日
2014年1月10日金曜日
Google Formを使って気軽に記帳

新聞等で報道されているのかもしれないが、なにせ新聞をあまり真面目に読んでいないのでわからない。ただ、零細な事業(所得300万円以下)を営んでいる人以外には関係のない話なので、一般的に広まっていなくても何の問題もない。
だが、農家というのは大体が零細なものなので、けっこうこれは大きなニュースだと思う。これまでは零細農家には免除されていた記帳及びその保存が義務になるわけで、対応に苦慮しているところも多いのではなかろうか。
実は私もこれまで記帳を真面目にやっていなかった。やろうという気持ちはあったが、ずぼらな性格が災いしてちゃんとした帳簿の形になっていなかったのである。だが、税務署や会計士にチェックを受けるワケではないがこうして義務化されたことであるし、今年は帳簿をきちんとつけたいと思う。
とはいっても、わざわざPCに向かって日々の出納を打ち込むのも面倒であるし、どうしようかなあと思っていたところ、Googleフォームを使えば携帯から簡単に記帳ができることに気づいた。一応知らない人のために説明すると、Googleフォームというのは、Googleのサービスの一つで、アンケートの集計などをクラウド上にあるスプレッドシート(エクセルファイルと思っていただいてかまいません)で行えるものである。もちろん無料で、使い方は極めて簡単。画像のフォームを作るのにせいぜい15分もあれば十分だ。
で、このGoogleフォームで自分の簿記の項目(費目)を設定しておけばリスト形式で選べて記帳が簡易であるし、何より携帯端末から(※)送信できるので気軽にできる。一般的な簿記の形式で記帳するにはGoogle AppScriptというプログラム言語でカスタマイズする必要があるのだが、記帳の形式は特に定まっているわけではなく、日々の出納が明解にわかればそれでよいのだから、私の場合はこれで十分だ。
ただ、Googleの場合入力した情報がどこでどう使われるか分からない、というのが気になる人もいるだろう。それは懸案ではあるものの、白色申告の低所得者の出納記録をGoogleが分析するとも思えないので、私にとっては問題ない。
本来は、簿記には専門のアプリケーションを使った方がより効率的にできるのだろうが、割合に価格が高いために零細な商売には負担である。来年か再来年にはそういったアプリケーションを導入し、青色申告に移行していくことにして、とりあえず今年はこれで行ってみようと思う。なお、「自分もこのやり方でやってみたい」という人は、「Googleフォーム 家計簿」で検索すると(簿記とはちょっと違うが)家計簿フォームの作り方がいくつか出てくるので、それを応用すると作れるはずである。
※古いガラケーからはできないらしい。 確かめていないが。
2014年1月8日水曜日
無農薬・無化学肥料のポンカン栽培1年目は大失敗

ちょうど1年前のブログ記事で、「次年度は有機栽培にトライしたい」としていた園であり、実際に昨年1年間有機的管理を行った。つまり、無農薬・無化学肥料でやってみたわけだ。
結果は、ある程度覚悟はしていたとはいえ、思った以上に惨憺たるものでガックリきているところである。なにしろ、果実の多くがサビダニの被害を受けてしまい収穫量が計画の1/5程度しかない上、年末からの落果がひどい。さらには、残りの見た目のよい果実も、さほど味が乗っていない。
よく有機農家の成功物語で「最初の頃は全部ダメになった」みたいな苦労自慢があるが、まさにそれを地で行ってしまった。農薬や化学肥料を使って農協の基準通り作るのであれば、自分の栽培技術が未熟であってもある程度のものは出来る。だが、有機栽培ではそうした基準を逸脱して作るわけだから、自分の技術の程度が露骨に出てしまう。この惨憺たる結果は、今の私の栽培技術の未熟さの現れだと謙虚に受け止めるしかない。
ではどうしてこのような結果になってしまったのか、ということだが、主因としては(1)夏の剪定が不十分だった、(2)施肥が過剰だった、ということの2点が考えられる。剪定が不十分でサビダニが発生し、施肥が過剰なために味が乗らなかったのだろう。
(1)については、剪定不足で風通しが悪いとサビダニが大量発生すると言われていたが、今回それを実感した次第である。このサビダニというものの被害を受けると、果実の見た目が悪いだけでなく中身の味まで悪くなってしまい、商品価値が0になる。特に去年は夏の天候がよすぎてサビダニの生育に好適となり、普通に農薬を掛けているところでもかなり発生している園が多かったようだ。
ところで近年ここらではサビダニの被害がひどくなってきているという。以前はさほどサビダニを気にする必要もなかったそうだが、この5年10年で随分被害が大きくなってきたと聞いた。調べてみると近年被害をもたらしているのはリュウキュウミカンサビダニというこれまでいなかった害虫であり、こいつらが強力らしい。日本では1991年になって沖縄で発見され(世界的には1978年にエジプトで見つかったのが最初)、鹿児島では1993年に見つかった害虫ということで、現在その拡散が懸念されている。
有機農業であってもサビダニに使える農薬はあるが、結局農薬というのは圃場生態系を不自然に攪乱するものなので、自分としては農薬は使わずにサビダニを抑制したいと思っている。周りの圃場に迷惑がかかってしまうとよくないが、近くで有機カンキツを作っている農家は農薬ゼロでこのサビダニを抑えているので、私にもできる筈である。
(2)については、化学肥料の場合はチッソ、リンサン、カリの含有量が表示されているので施肥計算ができるが、有機肥料の場合は大体の計算しかできないし、そもそも肥料成分の含有量が化学肥料に比べて少ないということで多めにやってしまったのが原因だ。
だが実際には、有機肥料だから多めにやらなくてはならない、ということは全くなさそうだ。というか、有機肥料というものは、肥料分を植物に供給するというよりも、土壌を豊かにするために与えるものだから、肥料成分の絶対量よりもそのバランスが重要であり、大量に与える必要はないのである。むしろ、肥料成分は若干足りないくらいの方が植物も強壮になるので、「足りなそうなら与える」くらいの心の余裕を持って施肥すべきだった。土壌改良は時間がかかるものなので、1度2度の施肥で目に見える成果を期待する方が間違いである。
というわけで、まだまだ有機農業はよく分からない部分もあるが、1年間取り組んでみてとても勉強になり、ポンカン栽培の要諦がだんだん見えてきた気もする。結果は惨憺たるものであったが、課題も明確になり、次年度へ繋がるものであった。
だが収穫量が劇的に少なかったことで、収入が打撃を受けただけでなく、昨年のお客さんで「来年も買うよ!」と言ってくれたところに応えられないのが辛いところである。正直、「南薩の田舎暮らし」で販売する量がないかもしれない(予約していた知り合いに売るだけで終わるかも…)。期待していた皆様、大変申し訳ありません。
2014年1月7日火曜日
たゆカフェの「ゆったり市場」に出店します

今度、このカフェの新しい取組として、有機農産物等を販売する「ゆったり市場」なるマルシェが始まることとなり、縁あって「南薩の田舎暮らし」も現在ちょびちょびと販売している「かぼちゃの生ジャム」を引っさげて出店させていただくことになった。
これを主宰しておられる方にとっても初めての経験ということで、どういう調子になるのか未知数だが、現在予定されている内容は以下の通り。
- マルシェ:有機無農薬野菜・柑橘、ジャム、手づくりのパン、ハンドメイドアクセサリー
- 小さなプレゼントあり☆さわって当てて! この野菜なーんだゲーム(対象:子供)
- ふるまいぜんざい(なくなり次第終了)
- お野菜の試食コーナー
- たゆカフェランチ各500円
- (通常のカフェメニューもあり 10:00〜17:00)
【場所】南さつま市加世田高橋1934−108サンセットブリッジ下
TEL: 0993-78-3239
駐車場あり。
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2014年1月1日水曜日
3種のブルーベリーを植えました
昨年のことであるが、ブルーベリーの苗を50本ばかり定植した。
品種は、ブルーリッジ、ジョージアジェム、サミットという3種類。といっても私自身、これらの品種がどういう特性なのかは十分に理解しておらず、食べたこともない。
ともかくブルーベリーというのは品種の数が膨大であり、収穫時期、味、樹形、樹勢、そして栽培適地の違いによって、千差万別な、そしてある意味では大同小異の品種が生み出されている。正直、訳が分からないくらい品種が多い。その膨大な品種からどうしてこの3つを選定したのかというと、これらは暖地に適していることはもちろん、収穫時期が7月であるということが重要な点で、私の今の作付体系では割合に暇なはずの時期に収穫ができることを見込んだのである。
ところで以前もブルーベリーについては少し触れたが、この作物はジャム作りなどの農産加工と組み合わせることで生産性が高まる。私は比較的マイナーな果樹を中心に農業をやっていこうと思っているが、ブルーベリーというかなりメジャーな作物に取り組んだのは、もちろん「南薩の田舎暮らし」で加工所を開設したということがあるからだ。今時ブルーベリージャムなどというものはどこにでもあるが、だからこそ需要が安定しているとも言えるので、美味しいものができたら販売に期待が持てる。
だがそれと同じくらいに大きいのは、土壌から見てここにブルーベリーが最適ではないかと考えたためだ。ブルーベリーは酸性土壌を好み、根毛がないために水分不足に極端に弱い。ということは、日本の土壌はほとんど酸性土壌なわけだから問題は水で、常に湿り気があって、なおかつ他の園芸野菜等に適さない圃場があればブルーベリーを植える価値がある。今回植えた圃場は、狭く、行きづらいところにある上、日当たりも微妙というところがあるので野菜には使いづらいなあと思っていたところ、昨年の夏の日照りでもさほどカラカラになっていなかったので、ブルーベリーがイケるのではないかと踏んだのだ。
商業的にブルーベリーを作る場合は灌水施設を設けるのが無難、と言われているが、それはそれで投資が必要なので、天水に依存できるならそれに越したことはない。実際に灌水施設なしでブルーベリーを生産している人はたくさんいる。水が切れると割合すぐに枯れてしまう植物だから、来る夏に乾燥すれば怖じ気づいて灌水すると思われるが、そうなるかどうか、実験の1年である。
品種は、ブルーリッジ、ジョージアジェム、サミットという3種類。といっても私自身、これらの品種がどういう特性なのかは十分に理解しておらず、食べたこともない。
ともかくブルーベリーというのは品種の数が膨大であり、収穫時期、味、樹形、樹勢、そして栽培適地の違いによって、千差万別な、そしてある意味では大同小異の品種が生み出されている。正直、訳が分からないくらい品種が多い。その膨大な品種からどうしてこの3つを選定したのかというと、これらは暖地に適していることはもちろん、収穫時期が7月であるということが重要な点で、私の今の作付体系では割合に暇なはずの時期に収穫ができることを見込んだのである。
ところで以前もブルーベリーについては少し触れたが、この作物はジャム作りなどの農産加工と組み合わせることで生産性が高まる。私は比較的マイナーな果樹を中心に農業をやっていこうと思っているが、ブルーベリーというかなりメジャーな作物に取り組んだのは、もちろん「南薩の田舎暮らし」で加工所を開設したということがあるからだ。今時ブルーベリージャムなどというものはどこにでもあるが、だからこそ需要が安定しているとも言えるので、美味しいものができたら販売に期待が持てる。
だがそれと同じくらいに大きいのは、土壌から見てここにブルーベリーが最適ではないかと考えたためだ。ブルーベリーは酸性土壌を好み、根毛がないために水分不足に極端に弱い。ということは、日本の土壌はほとんど酸性土壌なわけだから問題は水で、常に湿り気があって、なおかつ他の園芸野菜等に適さない圃場があればブルーベリーを植える価値がある。今回植えた圃場は、狭く、行きづらいところにある上、日当たりも微妙というところがあるので野菜には使いづらいなあと思っていたところ、昨年の夏の日照りでもさほどカラカラになっていなかったので、ブルーベリーがイケるのではないかと踏んだのだ。
商業的にブルーベリーを作る場合は灌水施設を設けるのが無難、と言われているが、それはそれで投資が必要なので、天水に依存できるならそれに越したことはない。実際に灌水施設なしでブルーベリーを生産している人はたくさんいる。水が切れると割合すぐに枯れてしまう植物だから、来る夏に乾燥すれば怖じ気づいて灌水すると思われるが、そうなるかどうか、実験の1年である。
2013年12月30日月曜日
年末なので今年の反省をしてみました。
信じられないが、もう年末である。時の流れは早い。そして、こちらへ越してきてから丸2年が経過したということになる。
そういえば今年の正月に、昨年の反省と共に抱負を述べたのだが、自分自身への備忘のためにその結果を記しておこうと思う。まず、2012年の反省に対する今年の結果は次の通り。
次に今年の抱負として掲げた3点であるが、
(1)作付体系の検討→果樹と園芸作物という基本的枠組みで考えているが、珍奇な作物をいくつか導入して試行錯誤するという段階である。まだ効率的な作付体系の姿は見えない。
(2)農産加工所の開設→これは実現することができた。ブログでも少し触れてきたが、いずれもう少し突っ込んだ内容を発信していきたい。
(3)有機栽培への挑戦→挑戦だけはしてみた、というところ。正直、成功にはほど遠く、「やらないほうがよかった」というレベルである。しかし、有機栽培が一体何であるかということがボンヤリと見えてきた気もするので、(やめておけという人もいるが)来年も引き続き挑戦してみたい。
というわけで、今年の抱負として掲げた点については、結果はまだ出ていないといえる。農産加工所を開設できたのはよかったが、これも本格的な稼働はこれからであるし、今年の抱負は来年に持ち越しという感じだ。
さて、上記以外に今年の反省点として、情報発信不足ということがあったと思う。ブログ更新の頻度が低下しているということがその象徴だ。原因の一つは、次女こよみが昨年12月に誕生し、夜は寝かしつけや夜泣きのためにPC作業の時間が確保できなかったということがある。しかし最近はお利口さんになってきて夜も寝てくれるようになったので、それも理由にはならない。
情報発信が不足してきた最大の原因は、日々の作業の新規性が薄れ、新鮮な目で「田舎の暮らし」を見られなくなりつつあることだろう(私はそもそも田舎もんであるし)。一方で、興味分野の郷土史などに関してはやたらとマニアックな記事を書くようになってしまったが、これは理解が深くなってきたということだから(読者にとって面白いかは別として)いいことだ。ただ、マニアックな内容を書くにはリサーチが必要なため記事の数が減ってしまう面がある。
新規性が薄れるのはしょうがないことだから、その代わりに深い理解に基づいた記事を書きたいと思っているし、来年は今まで家内に任せていた「南薩の田舎暮らし」(ショップサイト)のブログについても私もちょくちょく書かせてもらうことにして、今までと別の面でも情報発信をしていきたい。来年もよろしくお願いいたします。
そういえば今年の正月に、昨年の反省と共に抱負を述べたのだが、自分自身への備忘のためにその結果を記しておこうと思う。まず、2012年の反省に対する今年の結果は次の通り。
- 農業倉庫建築、機械購入など農業基盤整備があまりできなかった。→未だに倉庫は出来ていないのだが、メドが立ったところ(来年3月には建つと思う)。機械については、先輩農家Kさんの力に負う部分が未だ大きいが、とりあえず間に合う程度には揃えられた。
- 山の整備と利用が進まなかった。→藪と化していたところを開墾して、アボカドとブラックベリー、そしてヘーゼルナッツを植えた(計17a)。だがまだまだ山は残っているので、来年も開墾を進めたい。
- 栽培した作物の管理もあまりよくなかった。→これが農家としては一番重要だが、今年も同様に管理がよくなかった。反省である。
- 農業に関して、いろいろな記録をちゃんとやっていなかった。→いずれブログにも書こうと思うが、農業記録をクラウド化したので、今後しばらくこれを試してみたい。
次に今年の抱負として掲げた3点であるが、
(1)作付体系の検討→果樹と園芸作物という基本的枠組みで考えているが、珍奇な作物をいくつか導入して試行錯誤するという段階である。まだ効率的な作付体系の姿は見えない。
(2)農産加工所の開設→これは実現することができた。ブログでも少し触れてきたが、いずれもう少し突っ込んだ内容を発信していきたい。
(3)有機栽培への挑戦→挑戦だけはしてみた、というところ。正直、成功にはほど遠く、「やらないほうがよかった」というレベルである。しかし、有機栽培が一体何であるかということがボンヤリと見えてきた気もするので、(やめておけという人もいるが)来年も引き続き挑戦してみたい。
というわけで、今年の抱負として掲げた点については、結果はまだ出ていないといえる。農産加工所を開設できたのはよかったが、これも本格的な稼働はこれからであるし、今年の抱負は来年に持ち越しという感じだ。
さて、上記以外に今年の反省点として、情報発信不足ということがあったと思う。ブログ更新の頻度が低下しているということがその象徴だ。原因の一つは、次女こよみが昨年12月に誕生し、夜は寝かしつけや夜泣きのためにPC作業の時間が確保できなかったということがある。しかし最近はお利口さんになってきて夜も寝てくれるようになったので、それも理由にはならない。
情報発信が不足してきた最大の原因は、日々の作業の新規性が薄れ、新鮮な目で「田舎の暮らし」を見られなくなりつつあることだろう(私はそもそも田舎もんであるし)。一方で、興味分野の郷土史などに関してはやたらとマニアックな記事を書くようになってしまったが、これは理解が深くなってきたということだから(読者にとって面白いかは別として)いいことだ。ただ、マニアックな内容を書くにはリサーチが必要なため記事の数が減ってしまう面がある。
新規性が薄れるのはしょうがないことだから、その代わりに深い理解に基づいた記事を書きたいと思っているし、来年は今まで家内に任せていた「南薩の田舎暮らし」(ショップサイト)のブログについても私もちょくちょく書かせてもらうことにして、今までと別の面でも情報発信をしていきたい。来年もよろしくお願いいたします。
2013年12月21日土曜日
「はきもの奉納」と大木場山神祭りの謎
大浦町の大木場という集落にある大山祇神社で12月に行われる奇祭が「山神(ヤマンカン)祭り」である。先日これの案内をいただいたので見学に行った。
この祭りは、詳しくはこちらのサイト(→鹿児島祭りの森)に譲るが、簡単に言うと片足30kgもあるバカでかい草履を履いて鳥居から拝殿まで歩き、奉納するお祭りである。
その由来は、集落の言い伝えによると
もとより古い言い伝えであり、これが事実かどうか穿鑿することは無意味である。しかしながら、この祭りにはこの説明だけではどうにも奇妙なところが存在していて、いろいろな空想を掻き立てられる。最も謎なのは、「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということである。
実は、大草履や大草鞋(わらじ)を神社に奉納するということは、決して珍しいことではない。中でも有名なのものに、青森県の岩木山神社へ奉納される大草履がある。これは一足で1トン以上もある。最近になって始まったものだが、東京の浅草寺の仁王門には大草鞋が奉納されているし、福島県の羽黒山神社でも大草鞋が奉納されていて、こちらは草鞋の大きさ日本一を自称している。鹿児島でも、人の背丈よりも大きい弥五郎(※)の大草履が岩川八幡神社に奉納されていた。
なお、こうした巨大な草履・草鞋は山の神に奉納されることもあるが、その場合は1足を揃えず、片足のみが奉納されるのが一般的である。これは、山の神が片目片足と考えられたことを反映しているともいう。
さらに、大きくはない(普通の)草履や草鞋の奉納というのはもっとずっと多い。峠の神を「子(ね)の神」とか「子乃権現(ねのごんげん)」というのがあるが、これには旅の安全を願って草鞋が奉納される習慣があった。また、千葉県の新勝寺の仁王門には大草鞋と共に多くの人々が奉納した草鞋が沢山掲げられているが、これは病気平癒等も含め人生の安泰を願って奉納されたものという。
それから、これは他の地域には類例が少ないが、東京青梅の岩蔵集落というところでは、集落の境界に草鞋を掲げ、疫病や魔物の侵入を防ぐ「伏木(ふせぎ)のわらじ」という共同祭祀の行事がある。
こうした草履・草鞋の奉納、すなわち「はきもの奉納」について整理すると、
(1)巨大なはきものを掲げることにより、(仁王などの)巨人の護持を暗示して、悪鬼を祓う。
(2)峠や道祖神に奉納し、旅の安全を祈願する。また、健脚を願う(韋駄天に奉納される場合もある)。
(3)村の境界などに掲げ、悪鬼や疫病の侵入を防ぐ。
という3つのパターンがありそうである。しかしながら、この3つは時に混淆しているので、明確に分けられない場合も多い。元より、(1)と(3)は機能としては同じであるし、例えば、仁王門には大草鞋も普通の草鞋も両方奉納されるが、これは(1)(2)(3)が同時に願われていると見なせるだろう。
こうした「はきもの奉納」には、未だ纏まった体系的研究がないようだが、どうしてはきものを奉納するのか、ということは意外に大きな謎である。一つの考え方としては、はきもの作りは百姓の重要な副業であり、市で売って貴重な現金収入の元となったので、金銭的価値のあるものを奉納することに意味があったということだ。大木場集落でも、昔から農家の副業として草履作りが盛んで、「コバザイ(木場草履)」として有名だったらしい。
しかし、金銭的価値があるもの、というだけでは、悪鬼や疫病の侵入を防ぐという機能が生まれる理由がわからないし、農具には大体金銭的価値があるわけだから、はきものの奉納だけがこのように日本全国に多い理由として弱い。ともかく、「はきもの奉納」にはまだ解かれていない謎が潜んでいそうである。
話を戻して大木場山神祭りだが、これは類型としてはもちろん(1)に属す。 だが、この機会に他の巨大なはきもの奉納を調べてみて思ったが、この祭りの他には、ただの1つも「大草履・大草鞋を履いて歩く」という祭祀を行って奉納するところはないのである。
そもそも、巨大なはきものを奉納するのは、「こんな巨大なはきものを履く者がここにはいるのだからここから先へ行っては危険である」という意味合いがあり、大木場でもそういう意味だと伝承されているが、であれば巨大なはきものは巨人の神さま(山神)のもので、人間が履いてはならないような気がする。他の祭りでは、大切な神具として奉納がなされており、例えば最初に例示した青森の岩木山神社では、奉納草鞋を作る時は、仮小屋を建ててしめ縄を張り、水垢離(みずごり)を行い小屋に閉じ籠もって作るそうである。
大木場山神祭りでは、はきものは神さまのものというより、「村人を救ったアイテム」のような位置づけで特に神聖なものと見なされていないので、別段不自然ではないという見方もできるが、であれば山神に奉納する理由もわからないのである。そもそも、伝承には山神も巨人も(!)登場しないわけで、このような祭りが起こった理由があやふやだ。
そういう風に見ると、私としては、この祭りは日本各地に残る「巨人説話」の一変形だと考えたい。鹿児島には弥五郎どんという巨人説話があるし、関東にはダイダラボッチという巨人の伝説が残っている。そもそも、巨人の伝説があったからこそ、源氏の追っ手は「ここには巨人がいるのかもしれない」と恐れて退散したわけで、そういう伝説のない土地であったら、こういう脅しは効かないような気がする。
だから、素朴に考えたら、ここで奉納される大草履は伝説上の巨人に向けられたものではなかろうか。それが、あるいは最初からそうだったのかもしれないが山の神と同一視され、山神に奉納されるようになったのかもしれない。
しかしそう考えても、やはり「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということはよくわからない。この祭りは厳粛なものではなく、大草履を履いた二人の氏子がえっちらおっちら神社を歩くというユーモラスなもので、芸能的要素が強いが、そのあたりがこの謎を解くヒントなのではないかと思う。
ともかく、この大木場山神祭りは「はきもの奉納」の中でもとりわけ変わった内容を持つ奇祭であることは間違いない。今回、祭りにはどこかの大学の先生と学生が見学に来ていたが、その中の誰かがこの祭りの謎を解いてくれることを期待している。
※弥五郎どん…鹿児島・宮崎に残る伝説の巨人。
【参考文献】
『ものと人間の文化史 はきもの』1973年、潮田 鉄雄
『妖怪談義』1977年、柳田 國男
この祭りは、詳しくはこちらのサイト(→鹿児島祭りの森)に譲るが、簡単に言うと片足30kgもあるバカでかい草履を履いて鳥居から拝殿まで歩き、奉納するお祭りである。
その由来は、集落の言い伝えによると
大木場地区は、平家の落人の里といわれ、[…]伝説によると村人は、源氏の追っ手におびえながら暮らしていた。そこで村に通じる峠道に畳十畳ほどの大草履を置いたところ、追っ手は「この村には巨人がいる」と恐れ、退散したという。以来大草履は、村(地区)の守り神として、毎年旧暦11月の「1の申の日」に行われる山神祭りに、これを奉納している。ということである。
もとより古い言い伝えであり、これが事実かどうか穿鑿することは無意味である。しかしながら、この祭りにはこの説明だけではどうにも奇妙なところが存在していて、いろいろな空想を掻き立てられる。最も謎なのは、「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということである。
実は、大草履や大草鞋(わらじ)を神社に奉納するということは、決して珍しいことではない。中でも有名なのものに、青森県の岩木山神社へ奉納される大草履がある。これは一足で1トン以上もある。最近になって始まったものだが、東京の浅草寺の仁王門には大草鞋が奉納されているし、福島県の羽黒山神社でも大草鞋が奉納されていて、こちらは草鞋の大きさ日本一を自称している。鹿児島でも、人の背丈よりも大きい弥五郎(※)の大草履が岩川八幡神社に奉納されていた。
なお、こうした巨大な草履・草鞋は山の神に奉納されることもあるが、その場合は1足を揃えず、片足のみが奉納されるのが一般的である。これは、山の神が片目片足と考えられたことを反映しているともいう。
さらに、大きくはない(普通の)草履や草鞋の奉納というのはもっとずっと多い。峠の神を「子(ね)の神」とか「子乃権現(ねのごんげん)」というのがあるが、これには旅の安全を願って草鞋が奉納される習慣があった。また、千葉県の新勝寺の仁王門には大草鞋と共に多くの人々が奉納した草鞋が沢山掲げられているが、これは病気平癒等も含め人生の安泰を願って奉納されたものという。
それから、これは他の地域には類例が少ないが、東京青梅の岩蔵集落というところでは、集落の境界に草鞋を掲げ、疫病や魔物の侵入を防ぐ「伏木(ふせぎ)のわらじ」という共同祭祀の行事がある。
こうした草履・草鞋の奉納、すなわち「はきもの奉納」について整理すると、
(1)巨大なはきものを掲げることにより、(仁王などの)巨人の護持を暗示して、悪鬼を祓う。
(2)峠や道祖神に奉納し、旅の安全を祈願する。また、健脚を願う(韋駄天に奉納される場合もある)。
(3)村の境界などに掲げ、悪鬼や疫病の侵入を防ぐ。
という3つのパターンがありそうである。しかしながら、この3つは時に混淆しているので、明確に分けられない場合も多い。元より、(1)と(3)は機能としては同じであるし、例えば、仁王門には大草鞋も普通の草鞋も両方奉納されるが、これは(1)(2)(3)が同時に願われていると見なせるだろう。
こうした「はきもの奉納」には、未だ纏まった体系的研究がないようだが、どうしてはきものを奉納するのか、ということは意外に大きな謎である。一つの考え方としては、はきもの作りは百姓の重要な副業であり、市で売って貴重な現金収入の元となったので、金銭的価値のあるものを奉納することに意味があったということだ。大木場集落でも、昔から農家の副業として草履作りが盛んで、「コバザイ(木場草履)」として有名だったらしい。
しかし、金銭的価値があるもの、というだけでは、悪鬼や疫病の侵入を防ぐという機能が生まれる理由がわからないし、農具には大体金銭的価値があるわけだから、はきものの奉納だけがこのように日本全国に多い理由として弱い。ともかく、「はきもの奉納」にはまだ解かれていない謎が潜んでいそうである。
話を戻して大木場山神祭りだが、これは類型としてはもちろん(1)に属す。 だが、この機会に他の巨大なはきもの奉納を調べてみて思ったが、この祭りの他には、ただの1つも「大草履・大草鞋を履いて歩く」という祭祀を行って奉納するところはないのである。
そもそも、巨大なはきものを奉納するのは、「こんな巨大なはきものを履く者がここにはいるのだからここから先へ行っては危険である」という意味合いがあり、大木場でもそういう意味だと伝承されているが、であれば巨大なはきものは巨人の神さま(山神)のもので、人間が履いてはならないような気がする。他の祭りでは、大切な神具として奉納がなされており、例えば最初に例示した青森の岩木山神社では、奉納草鞋を作る時は、仮小屋を建ててしめ縄を張り、水垢離(みずごり)を行い小屋に閉じ籠もって作るそうである。
大木場山神祭りでは、はきものは神さまのものというより、「村人を救ったアイテム」のような位置づけで特に神聖なものと見なされていないので、別段不自然ではないという見方もできるが、であれば山神に奉納する理由もわからないのである。そもそも、伝承には山神も巨人も(!)登場しないわけで、このような祭りが起こった理由があやふやだ。
そういう風に見ると、私としては、この祭りは日本各地に残る「巨人説話」の一変形だと考えたい。鹿児島には弥五郎どんという巨人説話があるし、関東にはダイダラボッチという巨人の伝説が残っている。そもそも、巨人の伝説があったからこそ、源氏の追っ手は「ここには巨人がいるのかもしれない」と恐れて退散したわけで、そういう伝説のない土地であったら、こういう脅しは効かないような気がする。
だから、素朴に考えたら、ここで奉納される大草履は伝説上の巨人に向けられたものではなかろうか。それが、あるいは最初からそうだったのかもしれないが山の神と同一視され、山神に奉納されるようになったのかもしれない。
しかしそう考えても、やはり「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということはよくわからない。この祭りは厳粛なものではなく、大草履を履いた二人の氏子がえっちらおっちら神社を歩くというユーモラスなもので、芸能的要素が強いが、そのあたりがこの謎を解くヒントなのではないかと思う。
ともかく、この大木場山神祭りは「はきもの奉納」の中でもとりわけ変わった内容を持つ奇祭であることは間違いない。今回、祭りにはどこかの大学の先生と学生が見学に来ていたが、その中の誰かがこの祭りの謎を解いてくれることを期待している。
※弥五郎どん…鹿児島・宮崎に残る伝説の巨人。
【参考文献】
『ものと人間の文化史 はきもの』1973年、潮田 鉄雄
『妖怪談義』1977年、柳田 國男
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