2012年8月1日水曜日

私の先祖はお酒の飲めない商人?

お茶やコーヒーはたくさん飲む…
私は、お酒が飲めない。だから農作業の後はビールで乾杯! などということはなく、もっぱらソフトドリンクなんである…。まあ一杯くらいは飲めるのだがすぐに赤くなるし、何より体が不調になるのでそれ以上は飲まない。大酒飲みがたくさんいる鹿児島では、もちろんこれは不利な体質だが、下戸の背景を知ると面白い。

もともと人類はアルコールを分解する能力を備えていたが、2万年ほど前、現在の中国南部(江南地方)で「お酒が飲めなくなる」突然変異が生じたようだ。そして、この突然変異は人類史上でただ一回だけのものらしい。つまり、お酒が飲めない人は、その系譜を遡れば少なくとも祖先の一人は江南人ということになる(※1)。

私も、祖先の一人は中国南部で暮らしていた誰かなのだ。では、どれくらい遡ればそこに到達するのだろうか? 

基本的に、縄文時代の日本人はお酒が飲めただろうと言われている。一方で大陸からの新しい移住集団である弥生人はお酒が飲めない人が多かったようで、弥生人の影響が大きい近畿地方にはお酒が飲めない人が多く、その影響が小さかった東北や九州南部ではお酒の強い人が多い(※2)。

鹿児島に酒豪がたくさんいるというのはそのためで、おおざっぱに言えば縄文人的特徴が濃いということになる。アルコール度数の高い焼酎が普及したのも、鹿児島人の多くがお酒に強かったからだ。だが、鹿児島には鎌倉時代以降に江南地方からかなりの集団が移住してきており、そこからお酒が飲めない遺伝子が持ち込まれてもいる。

特に南薩地方は、南西諸島からの中継貿易を行った坊津、宋との交易で栄えた万之瀬川流域等があり、外来文化の玄関口だった。加世田には唐仁原とか当房(唐房)という地名があるし、坊津や笠沙には唐人墓がある。ここにはかつて海外から多くの商人が住み込み、舶来の品を並べる商店が軒を連ねていたという。今でこそ南薩は田舎であるが、中世には先進文化の中継地・受容地として殷賑を極めたのである。万之瀬川からは、龍泉窯の青磁の優品が多数出土しているが、それだけでもかつての繁栄の一端が窺える。

どうして日本の端に位置する南薩が先進文化の中継地となったかというと、中国大陸の政治状況による。中国文明は唐代までは北部が中心で、南部はずっと農村地帯であったのだが、五胡十六国時代から宋代では北方の遊牧民族からの圧迫を受け、江南がその中心地となった。それまで日本は朝鮮半島を経由して北方の中国文化を取り入れてきたが、宋代、日本でいえば鎌倉時代になるに至って、江南から南九州への黒潮を通じたルートが確立し、直接南方の中国文化を取り入れることになるのである。

南九州には、江南由来を思わせる習俗や文化も多く、宋から大きな影響を受けているように思われる。だが、現在ではその痕跡は必ずしも明瞭ではない。ただ、意外に「お酒が全く飲めない人」というのは多いように感じられ、それは宋代にこの地へ移り住んだ江南の商人の子孫ではないかと思う。それが、かつての殷賑を偲ばせる数少ない徴のようにも思える。

私の祖先も、江南から黒潮に乗ってやってきた、お酒の飲めない商人だったのだろうか。


※1 ちなみに、アフリカ、ヨーロッパ、オーストラリアの原住民にはお酒が飲めない人は全くいない。世界的に見ると、お酒の飲めない人の分布は日本と中国南部が中心で、中国北部がそれに続き、東南アジア、ポリネシアがちょっと、南北アメリカ大陸とインドにわずか、西アジアにごくごく僅か、という感じになる。中国北部と南部より、中国南部と日本の方が似ているというのが面白い。

※2 日本人の成立というのはうかなり複雑で、従来言われていたような「縄文人/弥生人」というような安易なくくりで成立したものではない。なので「縄文人」とか「弥生人」という単語は学術的にはかなり怪しい部分もあるのだが、ここではあまり本質的ではないのでこの用語を使う。

【参考文献】
日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造』 2007年、篠田 謙一

2012年7月28日土曜日

爽やかな苦み「ゴーヤとキュウリの塩麹入り酢の物」

近年、沖縄料理ブームでゴーヤの消費が首都圏でも伸びていると思うが、都会の方はどうやって食べているのだろうか(ちなみに、ゴーヤは鹿児島ではニガゴイという)。

印象としては、ゴーヤチャンプルの利用が中心で、それ以外の定番レシピは特にないように思う。また、どんな調理法があるのかと思ってクックパッドで調べて見ると約1万ものレシピがあるが、やはり「苦くない」を売りにした料理が多いように見受けられる。ただ、苦いのがいやなら、敢えてゴーヤを食べる必要もなく、他の夏野菜を食べたほうがいいような気もしてきて複雑な気持ちになるところだ。

もちろん、ゴーヤの苦さを強調する料理は論外ではあるが、爽やかな苦みを活かした、素材の味わいを引き出した料理ができれば最高である。家内が作った「ゴーヤとキュウリの塩麹入り酢の物」が、まさにそんな感じの逸品だったのでここでレシピを紹介したい。

●ゴーヤとキュウリの塩麹入り酢の物

<材料>
キュウリ……………1本       合わせ酢…………大さじ4
ゴーヤ………………1本       本だし…………小さじ1/2
塩麹……小さじ山盛り1

<作り方>
(1)ゴーヤとキュウリを薄くスライスしボールに入れる(当然、ゴーヤのワタは取る)。
(2)さらに塩麹を入れて軽く揉み、15分程度休ませる。
(3)水気が出てくるので、絞った後で本だしと合わせ酢で和える。
(4)冷蔵庫で15分程度冷やしたら食べ頃。

これは、とても爽やかな料理で、夏にぴったりの味覚だ。また、苦みが気になる人は、調理法でどうこうするよりも苦みの強くないゴーヤを使うことの方が有効だと思う。うちでは今夏、鹿児島の在来種である「大長れいし」を家庭菜園で育てて使っているが、これは苦みが強くなく生で食べるにはとてもよい品種だ(※)。ただ、スーパー等では、わざわざ品種まで表示されていることはほとんどないが…。

なお、「大長れいし」の特徴は、長細くてひょろっとした形で、あまり緑色が濃くなくてどちらかというと白っぽいということである。ちなみに沖縄のゴーヤは丸っこくて緑色が濃いものが多い(実はこっちも育てている)。緑色が深い方が栄養があるような印象があるが、別に栄養的には変わらないそうだ。


※ 「在来品種は苦みが強い」と説明されることが多いのだが、栽培法などによっても苦みは変わってくるので、一概には言えない。あまり新顔のゴーヤを食べたことがないので、実は新しい品種の方がもっと苦みがないのかもしれないが…。

2012年7月26日木曜日

土壌・肥料と病害診断の基礎知識

先日来の頴娃農業開発総合研修センターでの研修の2回目。今回のテーマは、土壌・肥料と病害診断の基礎知識。今回は、あまりナルホドという話はなかったのだが、例によって備忘としてまとめておこう。

土壌・肥料の基礎知識
(1)養分同士で吸収を阻害したり(拮抗作用)、促進したりする。拮抗作用の方が多いので適正な養分バランスは難しい。
(2)土壌の化学的性質を改善するのは施肥:ちなみに、養分が作物に吸収される程度は土壌のpHによって違うので、土壌を適正なpHに調整することは作物の生育を助けるだけでなく肥料の節約にもなる。
(3)土壌の物理的性質を改善するのは堆肥施用や深耕、排水対策やイネ科緑肥栽培。
(4)土壌の生物的性質を改善するのは堆肥施用。
(5)堆肥の施用はおろそかになりがちだが、確実に収量を上げるので有効。
(6)定期的に土壌診断を受け、客観的に土壌の様態を確認することが重要。

病害診断の基礎知識
(1)病害は急速に進行することはない。毎日圃場を観察し、ちょっとした変化を見逃さなければ早めの対応ができる。
(2)病害が圃場のどこに発生しているのか、どのように広がっているのか、発生起点は茎なのか葉なのか等を観察し、適切な防除法を選択する。
(3)病害の特徴を知り、天候や作物の状態から病害の危険性を予測するとともに、効果的な防除を行うことが重要。
(4)地域振興局でも、連絡をいただければ無料で病害診断をしているので、気軽に連絡してほしい。

今回の研修は、その内容よりも「肥料・土壌改良資材一覧」という資料をもらえたことが意義が深かったような気がする。この資料、27ページにわたって具体的な肥料商品の特徴と含有成分を一覧にしたものでとてもわかりやすく、今後の施肥設計を考える上でも有用なものだと思った。

2012年7月25日水曜日

「タカジビナ」の正体

先日「タカジビナ」を頂いたので、茹でて、そのまま食べた。味付けも何もなく、そのままで美味しい

タカジビナは、鹿児島の海沿いでは昔おやつだったらしく、父や母は子供の頃これを海で獲って、(ご飯時を待たずに)すぐに茹でて食べていたそうだ。たくさん食べるようなものではないけれども、料亭などで前菜として出てくるような上品さと旨味があり、今ではおやつというよりはちょっとした高級食材という感じだろう。

ところで、「タカジビナ」は地方名でこれを検索してもヒットしない。ビナは鹿児島の方言で巻き貝のことだ。ある方に伺うと正式な和名は「サラサバテイラ(更紗馬蹄螺)」というとのこと。この貝はむしろ沖縄での地方名「高瀬貝(タカセガイ)」で浸透しているもの。高瀬貝は貝ボタンの原料としても有名で、また貝自体を磨くことで美しい輝きを持つ工芸品にもなる。

ところがここに一つ問題がある。辞典等では、サラサバテイラは奄美以南の太平洋海域に分布すると書いてあり、鹿児島で獲れるとはどこにも記載がない。タカジビナは、本当にサラサバテイラ=高瀬貝なんだろうか? 大きさも少し違うし、同種ではないのでは?

気になって少し調べて見ると、形態的特徴と生息域から推測するとどうもタカジビナの正体はバテイラのようで、こちらは尻高(シッタカ)という名前で広く流通している。これは北海道南部から九州までの太平洋側に分布するという。ところが、北海道南部から九州までの日本海側では同種の亜種であるオオコシダカガンガラが分布しているらしい。南薩の海岸は大西洋と日本海が出会うところであるために、タカジビナがどちらの種なのか生息域からでは判断がつかないが、たぶんバテイラだろう。あるいは、両者の中間的な存在なのかもしれない。

ともかく、魚介のように生活に密着し、遠方に運ばれない商品は地方だけで流通が完結するため、地方名と一般的な和名がリンクする機会がなく、様々な地方名が並列する場合が多い。それはそれで豊かな文化なのだけれど、そうすると全国的な位置づけがよくわからなくなってしまうという弊害もある。もしタカジビナがバテイラであれば、これは特に地方の特産ということではなくて、本州以南では割とメジャーな魚介類である。

ちなみに、タカジビナは「大浦ふるさと館」でよく売られている。タカジビナは(鹿児島では)自家消費が多くあまり流通していない印象があるのでこれは貴重なのかもしれない。 ご賞味されたい方はおいでになってはいかがだろうか。


【補足】7/26 アップデート
鹿児島でも「タカジビナ」ではなくて、「サンカクビナ」とか「タカジリ」と呼んでいる地方もあるようだ。タカジリ=高尻であって「尻高」を逆にした呼び方だし、どうもタカジビナ=バテイラ=尻髙で間違いなさそうだ。また、「タカジビナ」は多分「タカジリビナ」が約まった言い方なんだろう。

【補足その2】7/28 アップデート
「大浦ふるさと館」で売っている様子を見たら、タカジビナ=ギンタカハマと説明されていた。そして売られている貝は確かにギンタカハマの特徴である。どうも、タカジビナと言われている貝には、バテイラとギンタカハマが混ざっていて、厳密には区別されていないようだ。

加世田鍛冶を受け継ぐ「志耕庵」

南さつま市の加世田麓に、一見蕎麦屋風の「志耕庵」がある。これは実は、蕎麦屋ではなくて加世田鍛冶の工房なのだ。先日ふと入ってお話を伺ったら、その成り立ちが奮っている。

発端は10年ほど前、市役所を定年退職した鮫島健志氏が、加世田鍛冶最後の職人と呼ばれた阿久根丈夫氏に弟子入りをお願いしたこと。加世田鍛冶は約400年前から続く伝統工芸であるが、大量生産品に押され年々職人が減り続け、遂に阿久根氏一人となって伝統の断絶が目前となっていたのであった。伝統が失われてはならないという危機感を抱いた鮫島氏は、自分がそれを引き継ごうとしたのである。

しかし、阿久根氏は最初それを拒絶したという。事務仕事をしていた人間に鍛冶が務まるとは思えないし、定年後の人間に教えてもものになるかわからない、と。それでも鮫島氏は諦めず、阿久根氏の元へ日参し、それに根負けした阿久根氏は「それじゃあ、まず作業場を作れ」と指示、それで出来たのが志耕庵だということだ。

今では、鮫島氏だけでなく加世田鍛冶の伝統を絶やすまいという思いを持った人が阿久根氏に弟子入りし、志耕庵では「鹿児島県指定伝統的工芸品」の証が冠された商品を作るまでになっている。というわけで、家内が小ぶりの包丁(2300円)を早速購入した。

ところで、加世田鍛冶というのは名君 島津日新斎忠良が奨励したといわれ、貧乏武士が多かった加世田周辺で郷士の副業として導入されたものだった。特に家督を継ぐことができない武士の次男三男は農民と変わらない暮らしを余儀なくされたことから、技術職として多くの武士がこれに取り組み、武士の3割が従事していたという記録もある。

加世田鍛冶の特徴は、荒々と鍛え上げられた丈夫な構造で、正直見た目はよくなく優美さはないが、実用的で男性的な魅力がある。ただし、刃物は加世田鍛冶の中心ではなく、明治以前は「加世田釘」と呼ばれた角釘が中心的商材だったようだ。薩摩藩では大工は武士の職業とされていたため、同じ武士への原料供給として釘の製造が盛んになったのかもしれない。

南薩地域は海岸の砂丘などで砂鉄がよく採れたため、かつてタタラ製鉄が盛んで知覧がその中心だったらしいが、頴娃方面で採られた砂鉄を花渡川(けどがわ)に沿って運搬、久木野・上津貫方面で製鉄が行われ、それによって加世田鍛冶が成り立っていたらしい。しかし今では、それを物語るのは、加世田に残る鉄山という地名くらいしかない。

製鉄や鍛冶というものは、現代の工業的生産の方が圧倒的に効率がよく、多少使いやすいとか切れ味がよいとかいっても、伝統的工芸品が競争していくのは困難だ。特に加世田鍛冶のように、高級品ではない日用の鉄器を作る鍛冶業ではそうである。かつて貧乏武士が糊口を凌ぐために行った加世田鍛冶であるが、若い人が経済的に自立する手段としてはその役割を終えたといえよう。

しかし志耕庵では、鮫島氏の他にも定年後に鍛冶業に取り組んだ方もいて、これは新しい伝統工芸の継承の姿かもしれないという気もする。「定年後の趣味」と言えるような甘いものではないと思うが、約400年の伝統を受け継ぐ仕事というのは、厳しい修行やつらい作業を乗り越えるだけの魅力もあるのだと思う。

「ちょっとの間だけでも、加世田鍛冶の伝統を絶やさないようにすることができればと思ってます」と工房の方はおっしゃったが、定年後に活動する「ちょっとの間」が連綿と繋がっていけば、その伝統は消えないのかもしれない。

【参考資料】
『鹿児島の工芸』 1982年、飯野 正毅
『加世田市史』 1968年、加世田市史編さん委員会

2012年7月21日土曜日

苔庭を目指して、コケ植物を知る

勝手に生えてきた庭の苔
「京都の寺みたいに、庭がコケで覆われたらかっこいいなあ…」と思って、まずコケ植物について勉強することにし、『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(秋山弘之著)という本を読んだのだが、コケ植物はなかなか面白い。

まず、コケ植物の著しい特徴は、普通に私たちが見るコケというのは配偶体であるということだ。シダ植物も裸子植物も被子植物も、いわゆる植物体は胞子体である。配偶体というのは精子と卵子(配偶子)を作るため(だけ)の世代をいい、染色体を1セット(n)しか持っていない(胞子体は染色体を2セット(2n)持っている)。コケ植物の場合、これらが受精して作られる胞子体は配偶体に寄生して一時期しか存在しないのだが、普通の植物ではこれが逆で、配偶体こそ胞子体に寄生しているのである。つまり、コケ植物の生活環は、普通の植物と完全に逆転しているのである。

これを読んだ時、私は大きな衝撃を受けた。これまで、(藻類→)コケ植物→シダ植物という具合に直線的かつ連続的な植物の進化を考えていたのだが、コケ植物とシダ植物には非常な断絶があったということになる。コケ植物が維管束と根を獲得してシダ植物になったのではなくて、シダ植物はそれまでと全く違う仕組みで植物体を構築したということになり、俄然シダ植物の起源にも興味が湧いてくるところだ。ちなみに、最初に陸上に進出したのがコケ植物の祖先なのかシダ植物の祖先なのかはまだわかっていないそうである。

さらに、コケ植物は苔類蘚類ツノゴケ類の3系統(綱)で構成され、これらは高い確率で独立系統なのだという。つまり、コケ植物というまとまったグループがあるわけではなくて、3つの植物グループの便宜的な総称が「コケ植物」ということらしい。こうなってくると、「そもそもコケ植物とは何なのか?」ということも曖昧になってくる。

このほかにもびっくりするような事実がたくさんあり、例えば
  • 極寒の極地から熱帯雨林まで広く適応しているだけでなく、実は乾燥にも強く、乾燥した場所に生えているコケの方が多い
  • コケ植物には一般に抗菌性があり、黴が生えることはほとんどない。
  • 地球上の陸地面積の少なくとも1%がミズゴケの湿原で占められているらしい。
といったところだ。

しかし一番びっくりしたのは、「コケ植物の専門家は日本にほんのわずかしかいません。アマチュアの詳しい人を含めても、せいぜい30人程度でしょう」という記載だ。日本には苔庭や苔玉など苔を楽しむ文化もあり、温暖湿潤な気候もあって苔は非常に身近なものなのに、こんなに狭い業界だったなんて…。海外ではどうなんだろう?

ところで、元々の目的だった庭を苔庭にする方法だが、一言でいうと「自然に生えてくるまで1、2年間は毎日水を撒くこと」らしい。苔を植えるなどはよくなく、自然に生えてきた苔を大切にするほうが合理的だということだ。このため、苔が生えやすい環境を整えるのは大事で、常緑樹を植えて日陰を作るとか、肥料を与えず排水をよくするといったことが必要になる。

しかし、1、2年間も毎日水を撒くのは一苦労だし、そもそもその間生えてくる雑草をどうするのかという気になる。苔は生えるところには勝手にどんどん生えてくるのに、生やしたいところに生やすのは結構大変だということがわかった。

病害虫・農薬使用の基礎知識

南九州市の頴娃農業開発総合研修センターで開催された「農業基礎講座」に参加した。初回のテーマは病害虫・農薬使用についての基礎知識について。

こういう研修は、なんとなく思っていたことが明確になったり、独学だとよくわからない業界の「常識」について学べたりするのがよい。説明事項は全て常識的なことと思われたが、大変参考になった。というわけで、重要と感じた点を備忘のためにまとめておく。

(1)まず、病害虫の防除の基本的考え方は、病気は事前予防が、害虫は初期対処が基本だということだ。つまり、病気を予防する薬剤散布は防除暦に従って行う必要があるが、害虫の場合は圃場を観察し、一定以上の害虫が発生した場合のみ行って初めて効果がある。
(2)よって、害虫予防を効果的に行うためには、害虫の発生に大きな影響を及ぼす温度や降雨などの天候をよく把握し、圃場の観察を行い、薬剤散布のベストタイミングを判断することが必要となる。
(3)圃場の観察は、印象論ではなく「葉何枚あたり害虫に冒された葉が何枚ある」などデータで把握するとともにそれを記録し、防除の効率や正確性を向上させていくことが有効である。
(4)そのためには、どのような害虫がどういう性質を持ち、どのような被害を及ぼすのかを知り、圃場の見方を養うことが必要である。
(5)また、効果的な防除のためには薬剤の性質を理解するとともに、「農薬登録情報提供システム」などを用い、適正な薬剤使用をしなくてはならない。
(6)さらに、薬剤のみに頼らず、物理的手段・生物的手段も用いて総合的な防除を行うことが重要だ。

講義を通じてのメッセージの一つは、「防除歴に機械的に従って行う”カレンダー的防除”は非効率的」ということだ。しかし、カレンダー的防除にならないためには、圃場を観察し防除適期を判断する目を養わなくてはならない。

それは一般論としてはわかるが、個別作物でこれを考えると、結局「いろいろ試行錯誤しながら勉強してください」ということなるのだろうか…?