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お茶やコーヒーはたくさん飲む… |
もともと人類はアルコールを分解する能力を備えていたが、2万年ほど前、現在の中国南部(江南地方)で「お酒が飲めなくなる」突然変異が生じたようだ。そして、この突然変異は人類史上でただ一回だけのものらしい。つまり、お酒が飲めない人は、その系譜を遡れば少なくとも祖先の一人は江南人ということになる(※1)。
私も、祖先の一人は中国南部で暮らしていた誰かなのだ。では、どれくらい遡ればそこに到達するのだろうか?
基本的に、縄文時代の日本人はお酒が飲めただろうと言われている。一方で大陸からの新しい移住集団である弥生人はお酒が飲めない人が多かったようで、弥生人の影響が大きい近畿地方にはお酒が飲めない人が多く、その影響が小さかった東北や九州南部ではお酒の強い人が多い(※2)。
鹿児島に酒豪がたくさんいるというのはそのためで、おおざっぱに言えば縄文人的特徴が濃いということになる。アルコール度数の高い焼酎が普及したのも、鹿児島人の多くがお酒に強かったからだ。だが、鹿児島には鎌倉時代以降に江南地方からかなりの集団が移住してきており、そこからお酒が飲めない遺伝子が持ち込まれてもいる。
特に南薩地方は、南西諸島からの中継貿易を行った坊津、宋との交易で栄えた万之瀬川流域等があり、外来文化の玄関口だった。加世田には唐仁原とか当房(唐房)という地名があるし、坊津や笠沙には唐人墓がある。ここにはかつて海外から多くの商人が住み込み、舶来の品を並べる商店が軒を連ねていたという。今でこそ南薩は田舎であるが、中世には先進文化の中継地・受容地として殷賑を極めたのである。万之瀬川からは、龍泉窯の青磁の優品が多数出土しているが、それだけでもかつての繁栄の一端が窺える。
どうして日本の端に位置する南薩が先進文化の中継地となったかというと、中国大陸の政治状況による。中国文明は唐代までは北部が中心で、南部はずっと農村地帯であったのだが、五胡十六国時代から宋代では北方の遊牧民族からの圧迫を受け、江南がその中心地となった。それまで日本は朝鮮半島を経由して北方の中国文化を取り入れてきたが、宋代、日本でいえば鎌倉時代になるに至って、江南から南九州への黒潮を通じたルートが確立し、直接南方の中国文化を取り入れることになるのである。
南九州には、江南由来を思わせる習俗や文化も多く、宋から大きな影響を受けているように思われる。だが、現在ではその痕跡は必ずしも明瞭ではない。ただ、意外に「お酒が全く飲めない人」というのは多いように感じられ、それは宋代にこの地へ移り住んだ江南の商人の子孫ではないかと思う。それが、かつての殷賑を偲ばせる数少ない徴のようにも思える。
私の祖先も、江南から黒潮に乗ってやってきた、お酒の飲めない商人だったのだろうか。
※1 ちなみに、アフリカ、ヨーロッパ、オーストラリアの原住民にはお酒が飲めない人は全くいない。世界的に見ると、お酒の飲めない人の分布は日本と中国南部が中心で、中国北部がそれに続き、東南アジア、ポリネシアがちょっと、南北アメリカ大陸とインドにわずか、西アジアにごくごく僅か、という感じになる。中国北部と南部より、中国南部と日本の方が似ているというのが面白い。
※2 日本人の成立というのはうかなり複雑で、従来言われていたような「縄文人/弥生人」というような安易なくくりで成立したものではない。なので「縄文人」とか「弥生人」という単語は学術的にはかなり怪しい部分もあるのだが、ここではあまり本質的ではないのでこの用語を使う。
【参考文献】
『日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造』 2007年、篠田 謙一