2012年5月21日月曜日

人配、海外移民、大都市への移住:南薩の人口流出

ここ南さつま市大浦町は、いわゆる「限界集落」を擁する寒村である。合併で南さつま市になる前の平成17年の国勢調査では、65歳以上の人口割合=高齢化率は、2400以上(当時)ある市区町村の中で、なんと35位の46.4%。

そんなところに家族3人で移住してきたので、歓迎されるかと内心期待していたら、実際はそうでもなかった。もちろん、喜んでくれる人もたくさんいたけれど、それよりも「なんでこんな所に来たんだ?」「都会にいた方がいいのに…」「馬鹿なことをしたな」というネガティブな反応が非常に多かった。

その理由は、「農業は大変で儲からない」とか「仕事がない」とかいうことなのだが、事実この地域から都会に出て働く人間は非常に多い。お年寄りにお子さんはどうしてますかと聞くと、「大阪にいる」「全員東京だ」といった大都市圏へ出ているケースがほとんどだ。

残念なことだが、田舎の生産性は多くの人を養うほど高くなく、農業はゼロサムゲーム(限られた資源の奪い合い)の側面があるために、余剰人口は他地域に出て行くほかないのである。

これは藩政時代でも同じだった。南薩は山がちで平野が少なく、台風被害も大きいことで土地の生産性が低い。また地形的にどん詰まりにあり逃散(逃亡)もできなかったため、食い扶持にありつけない困窮者で溢れていた。そのため時の政権(島津家)は、新田の開発や困窮者救済の名目で、余剰人口の強制移住政策を実施する。

この強制移住を「人配(にんぱい)」「人配り」「人移し」などという。17世紀中頃から始まり、明治直前まで続いた。移住先は、逃散の多発で荒蕪地化した北薩、薩摩半島に比べ人が少なかった大隅、新田開発の必要性があった宮崎県南部だった。 どのくらいの人が強制移住させられたのか定かではないが、これらの地域には南薩由来の地名や集落が残っているところを見ると、数千人規模の人口移動があったのではないかと思われる。

そして明治維新を迎えても、余剰人口問題は解決しなかった。そもそも地域産業の根幹が農業である以上、土地を相続できない農家の次男三男は他地域に出て行くほかない。こうして国内の産業が未熟な中、働き口がたくさんあった海外への移住が始まるのである。

まず、明治から昭和初期にかけてはハワイを経由した米国への出稼ぎ。そして、昭和初期から戦前まではブラジル、そして戦後はカリフォルニアを中心とした米国へと移民の目的地は変わっていく。ブラジルやカリフォルニアへは出稼ぎというよりは永住目的が中心で、これらの地域では鹿児島県人の存在感は際立っていた。鹿児島から7000人以上が移民したブラジルでは最初の県人会を設立しているし、戦後米国への移民の3分の1が鹿児島県出身だったのである。帰る場所のない鹿児島の農家の次男三男は、新天地での農業に賭けたのだった。

そして、その移民の多くが南薩出身だった。鹿児島ブラジル移民の約40%が川辺郡(枕崎、坊津、加世田、知覧)と揖宿郡(頴娃)からだったし、 鹿児島カリフォルニア移民の出身は頴娃と知覧に集中している。こうした移民は政府や県によって奨励され、半ば騙されるような形で移民させられた人も多いと聞く。人配は戦後まで続いたのである。

高度経済成長期には国内産業が成熟し海外移住はほとんどなくなり、国内の大都市圏への移住や出稼ぎがメインになる。人配はなくなったが、南薩から人が流出していく構造は藩政時代から変わらない。もちろん現代において都会へ出て行く若者は、かつての人配のような悲壮感もなく、移民のような辛苦を味わうこともないだろう。閉鎖的な田舎を厭って出て行く人も多いと思われる。しかし、生まれ育った土地を離れざるを得ない地域というのは寂しいものである。

それを考えると、よそ者がこうして移住してくることにあまり好意的でないのは当然だ。とはいえ、人口が流出してばかりでは地域の活力が失われるし、よそ者の目を通して見ることによる地域の価値や魅力の再発見もあるのではないかと思う。改めて田舎の価値が見直されている現代、都市から田舎への流れが各地で出来つつある。微力ながら、そういう流れの一筋になるべく、地域の方に認められるように、そして地域発展にも役立てるように頑張りたい。


【参考文献】
移民研究と史料 ─ 鹿児島県の場合 ─』2010年、原口邦紘
鹿児島県南薩地域からの海外出稼ぎ者と海外移民: 米国カリフォルニアへの渡航者を中心に』1985年、川崎澄雄
平成17年国勢調査 都道府県・市区町村別統計表』2005年、総務省

2012年5月19日土曜日

鹿児島ではありふれているが、全国的には希少な果物:ビワ

庭にあるビワがたわわに実っている。しかし、剪定をあまりしてこなかったために高木化しており、上の方の果実は収穫不可能。

下の方にある実だけ採ったが、果実の8割は収穫できない高所にあるので恨めしい。8月になったら剪定し、来年はより多くの実が収穫できるようにしたい。

鹿児島ではビワは非常によく見る庭木で、初夏の果物としてありふれているが、全国的には希少価値がある。というのも、ビワはとても傷みやすいので市場流通がしにくく、大都市近郊の限られた産地でしか大規模生産が行われておらず生産量が少ない。埼玉生まれの家内も食べたことがなかったそうだ。ビワを食べてみた第一印象は、「ナシの味に似てる…」とのこと。

 これは鋭い感想で、ビワはバラ科ナシ亜科に属し、ナシとは近縁なのだそうだ。

ところで、ビワは我が国でかなり古くから栽培されてきた植物で、少なくとも奈良時代からの1000年以上の栽培の歴史がある。もっとも、江戸時代以前のビワは小さくあまり甘くなかったようで、実を食べていたと言うより、薬用樹として葉や根を採っていたようだ。今でも、ビワは葉で皮膚病(ニキビとかイボとか)を治したり、ビワ茶として飲んだり、民間療法でよく使われている。

ちなみに、これに関し
仏典『大般涅槃経』の中でビワは大薬王樹と呼ばれ、優れた薬効があると伝えられる。
例えば、「大薬王樹、枝、葉、根、茎ともに大薬あり、病者は香をかぎ、手に触れ、舌で舐めて、ことごとく諸苦を治す」と記されている。
という情報がネットにはまことしやかに書かれているが、これは本当だろうか。

気になって『大般涅槃経』を調べてみたが、そういう記載はない。確かに薬になる樹として「薬王」というのが出てくるが、これがビワであるとは一言も書いておらず、また「枝、葉、根、茎ともに大薬あり…」云々という記載もない。どうも、誰かがうろ覚えで書いたことが広まってしまったように見受けられる。

なお、鑑真が中国から枇杷療法を伝えたという伝説もあるらしい。しかし、こちらの伝説も信憑性は怪しい。もしかしたら、枇杷療法に権威付けをしたい人がお経や鑑真を利用し、故事来歴を捏造したということなのかもしれない。1000年以上続く民間療法なのだから、今さらそんな権威付けなど必要ないような気がするのだが。

【補足】
『大般涅槃経』の英訳はあるが、日本語訳は部分的にしかチェックしていないので、もしかしたら私が見ていない部分にビワ=大薬王樹の記載があるのかもしれない。が、英訳で省かれるようなものではないし、同経の話の筋からして、多分ないと思う。「薬王」の記載も、「仏の教えは薬王と同じくらいありがたいものだ」という譬えの中で出てくる。

【補足2】2012/6/20アップデート
大乗仏典の現代語訳をされている加藤康成先生にtwitterでご教示願ったところ、やはり『大般涅槃経』にはビワの記載はないということだった。これはネットにはびこる誤情報の一つということが分かってすっきりした。加藤先生にはこの場を借りて改めて御礼申し上げたい。

2012年5月18日金曜日

重曹でうどん粉病の防除ができるらしい

かぼちゃがうどん粉病に冒されている。

うどん粉病というのは、文字通りうどん粉を葉にまぶしたような症状が特徴的な、よくある野菜の病気である。

このかぼちゃは出荷用ではなく、勉強の一貫として作っているのであまり農薬は使いたくないなあと思っていたところ、先輩農家のKさんから「硫黄粉剤っていう、"農薬にして農薬にあらず”の薬剤があるよ」と教えてもらい、初期症状のうちは何度かコイツを振りかけてみた。

硫黄粉剤とはまさに硫黄の粉末で、使用回数にも使用時期にも規制がないという、極めて安全な農薬なのだが、安全なだけに効果は緩やかで、病気の進行を若干遅らせることはできるが、止めることはできない(そもそも、予防薬なので当然だが…)。

そんなこんなでどんどん病気が進行する中、普通に農薬を使っては面白くないので、どうしようかと案じていたら、家内から「重曹もうどん粉病の防除に使えるらしい」との情報が。こういう意外な情報を見つけてくるのが家内の面白いところである。

調べてみると、安全性が確認され規制の必要のない農薬を「特定農薬(特定防除資材)」といい、生物以外では食酢と重曹がこれに指定されている。効果のほどは確かではないが、勉強のために育てているかぼちゃなので、試行錯誤をするのはその趣旨に適う。そこで早速重曹の100倍希釈液で病気に冒された葉を洗ってみた(適正な希釈倍数は不明)。

かなり病気が進行している葉もあるので、これで病気が完全に防除できるとは思えないが、どれくらい効果があるのか確かめてみたい(もしかしたら全然ないかもしれないが…)。

【結果】2012/6/21 アップデート
結局、効果があるのかないのかよくわからなかったというのが結論。うどん粉病は進行すると普通の薬剤でも効果があまりない場合も多いということだし、まあ、効いていたとしても僅かだと思う。なんとなく、菌の飛散は若干抑えられたのではないかという気がしたけれど…。

興味深いが無用で無敵の雑草、ダンチク

開墾中の荒蕪地は小川沿いにあるのだが、そこにたくさんのダンチク(暖竹)が生えていて、駆除に苦労している。

ダンチクは、一見竹のように見えるがイネ科の多年草。放っておくと株立ちで4mほどにも生長し、非常に邪魔なので昨年来駆除を続けているが、なかなか勢力が弱まらない。

写真は、ダンチクを根元まで全て切った上に根元を炭化するほど焼いたにも関わらず、平然と新芽を出してきた様子…。全然応えていないようだ。

このダンチクという植物、Wikipediaで見てみると、とても興味深いものだったのでちょっと紹介したい。
  • 花は毎年咲くが不妊性で、有性生殖せずに栄養生殖(地下茎が伸びる)のみで増える。
  • 遺伝的多様性が極端に低く、ほとんどの個体が同じ遺伝子を持つクローンである。 おそらく突然変異で出来た一個体がクローンで世界中に広まったのだろう。
  • 砂地から泥まであらゆる土壌に適応し、特にヒ素、カドミウム、鉛の豊富な土地でよく育つ。これらの有害金属を植物体内で濃縮するため、土壌の浄化に使える可能性がある。
  • 極めて生長が旺盛で、C3植物なのにC4植物と遜色ない光合成能力を持つ(※)。そのため、炭素固定やバイオマス、バイオ燃料として有望な植物として研究されている。
  • カリフォルニアでは河川の護岸植物として1820年代にダンチクが導入されたが、ダンチクは動物の餌にも巣にもならず、毒が含まれており昆虫も食べない上、生長が非常に早いこともあり、生態系の多様性を損なうという打撃を与えた。
  • ダンチクは火にも非常に強く、焼き払っても根から新芽が出てくる。いくらかの農薬も登録されているが 川岸にあるダンチクの駆除は困難である。
  • ダンチクは古くはエジプトでその葉が死体を包むのに使われた他、木管楽器のリード、笛やバグパイプの材料としても使われた。また、紙の原料にもなる。
…とまあこんな調子だが、要は、ダンチクは向かうところ敵なしの植物なのである。しかも病気にも罹らないらしい。そもそも、地下茎のみで増えるという極めて限定的な増殖方法であるにも関わらず、東アジアから中東という広い領域に分布しているということ自体が、ダンチクの無敵ぶりの証左である。

また、よく「自然のサイクルに無駄はない」ということが言われるのだが、ダンチクは昆虫・動物の食糧にならず、また巣にもならないということになると、生態系の中で果たしている役割が不明で、実は自然界でも無用な存在なのではないかと思う(菌界のことはよくわからないが…)。突然変異で生まれた最強のやっかいものがダンチクなのかもしれない。

なお、Wikipediaにはリードとか笛として使われたと書いているが、これは眉唾だ。ダンチクは確かに繊維質で難いが、意外に脆く、楽器として経年使用に耐える強度があるとは思えない。紙の原料となったのも、イタリアが全体主義体制になって紙の原料が輸入できなくなった時の苦肉の策だったらしい。要は、工芸材としてもダンチクは2級品、3級品だったはずだ。

もし、このダンチクがバイオ燃料として活躍する日がきたら、それはダンチクが世界に対して初めて役に立つ時なのかもしれない。

それはさておき、この強靱な植物の駆除はまだまだ先が見えない。 駆除が困難というこの川岸のダンチクは、ラウンドアップの原液を株に流し込んだら多少はダメージを受けてくれるのだろうか…?

(※)C3とかC4というのは、光合成の方式の違いである。C3植物は普通の植物で、C4植物はより乾燥や低二酸化炭素に耐えることができ、光合成の効率がいい植物。


【謝辞】
この植物がダンチクであることが数ヶ月わからなかったのだが、竹の権威である内村悦三先生にメールで問い合わせたところ、先生にご教授いただき判明した次第である。この場を借りて、内村先生には改めて御礼申し上げたい。

2012年5月16日水曜日

正しい下草刈りの仕方とは?

背の低い雑草はあえて残す下草刈り
5月だが、南薩の気候はすでに夏めいており、雑草の元気がよい。

というわけで、ポンカン園の下草刈りをしているのだが、よくわからないのは「正しい下草刈りの仕方」である。

周りの方が家の周囲や田んぼの畦を刈っているやり方を見ると、地際まできれいに刈り揃えていることが多く、これはこれで工芸的美しさがあってよいが、果樹園の林床の場合はこのようなやり方が適切なのかどうか。

というのも、果樹園の理想の林床は、全く雑草がない状態ではなくて、背の低い雑草で覆われている状態だからだ。林床に下草が全くないと土壌が流出しやすく、また土中の水分が蒸発しやすくなってしまう(平地で灌水設備があるなら関係ないが)。さらに、雑草が生えていた方が土壌中の微生物も多く、土が肥沃になるという。

とすれば、背の高い雑草は除去すべきだが、背の低い雑草はむしろ大切な存在なので、実は刈るべきではないのではないか、という気がするのである。

そんなわけで、背の低い雑草で覆われた部分はあまり刈らないようにしているのだが、このような下草払いを続けていれば、理論的には、背の低い雑草で林床の多くが覆われ、背の高い雑草があまり生えてこないという状態になる。そうなれば、下草払いの手間も減るので一石二鳥となるはずだが、本当にそんなにうまくいくかどうか…。

なお、このように果樹園の林床にあえて草を生やす農法のことを「草生栽培」という。最近では、あえて素性のよい雑草の種を播くということも広まっており、例えばミカン園ではナギナタガヤという植物の草生栽培が愛媛などで行われている。

そういう植物の栽培も含め、どうしたら下草払いの手間が省けて、さらにポンカンにもよいのか、私なりにいろいろ試してみたい。

2012年5月14日月曜日

副業的自伐林業のススメ

生活に身近な山を活かす一つの方策として、「自伐林業」がある。

今の林業では、山主は森林組合などに委託して伐採、集材などを行うのが普通だが、以前は自分の山は自分で管理するというのが基本だった。林業は儲からないといわれるが、山主自身は何もせず、全ての作業を組合に委託して山林から利益を出すのが困難なのは自明である。逆に、山主自身が造林、伐採、集材を行えば、今でも林業は決して儲からない産業ではない

しかし一方で、林業には危険が伴うとともに心理的・制度的な参入障壁も高く、いわゆる「素人山主」は山林管理に手を出せない状況が続いていた。本書『バイオマス材収入から始める副業的自伐林業』は、「自伐林業こそ日本の山を救う!」としてその普及を推進している中嶋健造氏が土佐の森での自らの取組を紹介しつつ、自伐林業参入のためのヒントを与える本である。

その主張は次のように要約されるだろう。
  1. 機械化・大規模化の林業は、その維持に高収益が必要なため、儲かる山しか施業されない。そのため放置山林など適切な管理がされていなかった地域の山がさらに放置される。
  2. しかし小規模山主や地域の人々が、高性能機械を使わないシンプルな方法で林業をすれば儲かるのであり、事実、自伐林家の収入は総じて高い。さらに地域の山も整備できて一石二鳥である。
  3. 自伐林業には、地域ぐるみでバイオマス材(薪やペレットにする)の出荷から始めると運搬や伐木の面で新規参入しやすい。チェーンソーと軽トラがあれば誰でも林業はできる
  4. バイオマス材で林業に親しみを持った人のうち、いくらかは本格的・専門的な林業へと進む人も出るし、工夫次第で地域の活性化にも繋がるのである。
私自身、地域の放置山林から利益を生みたいと考えているので、このような主張には大いに頷くところなのだが、問題は主張3である。確かに、シンプルな方法で林業をすれば損益分岐点が大幅に引き下げられることは事実だが、バイオマス材の出荷のみで利益を生むのは至難と思う。

事実、紹介されている土佐の森の取組でも、市場価格3000円/t のC材(バイオマス材になる粗悪な木材)をNPO法人が6000円/t で買うという工夫(差額は寄附などで負担される)が成功の大きな要因だったように思われる。

よって、副業として自伐林業に個人で取り組みたいと思った時、やはり「バイオマス材から始める」のは無理があるような気がする(地域ぐるみで取り組むなら可能だろうが)。軽トラで3000円/tの木材を市場まで運ぶのは、どう考えても割に合わないからだ。やはりある程度の市場価値がある材を出荷する方が、個人でやるなら合理的だと思う。

ちなみに、狭いながらもスギが90本ほど育っているうちの山を伐採すれば、原木市場では単純計算で20万円程度の価値がある。この施業を森林組合に委託すれば経費の方が高くつくが、自伐林業すれば10万円弱の利益が出るかもしれない。

いずれにせよ、儲けが出るかどうかは細かいやり方次第なので、森林組合にもよく話を聞いて施業方法を考えたいと思う。そして、自分の山で利益が出せれば、地域の他の山でも応用できないか考えてみたい。本書に紹介された取組を見ていても、結局「いろいろ工夫してみんなで協力すれば、どんな事業でも儲かるんだ」という当たり前のことを教えている気がするのである。

【参考】
木の駅プロジェクト
土佐の森での取組を全国で応用可能なものにしていく社会実験。鹿児島でも「木の駅」が早く作られるといいと思う。

2012年5月13日日曜日

「畑の学校〜ゆうき教室〜」始まる

南さつま市が有機農業の普及のために行う農業体験講座「畑の学校〜ゆうき教室〜」が始まった。私はこれに、ボランティアスタッフとして関わっている。

ことの発端は、ひょんなことから鹿児島県有機農業協会の大和田専務理事と知り合いになったことである。南さつま市はこの講座の実施を同協会に委託しており、大和田さんとの縁でボランティアをやることになったのだ。といっても私自身が素人なので、ボランティア活動を通じて有機農業について学んでいきたいと思う。

ちなみに、本日の活動は、参加者毎に区切られた畑において
  1. 苦土石灰と鶏糞由来の有機肥料を施用
  2. 2本の畝を作り、ピーマン、ナス、ミニトマトを植え付け
  3. 別の畝にかぼちゃ(ぼっちゃんかぼちゃ)を植え付け
というものだった。その第一印象は、「意外に普通の農法と変わらないな」というものだ。有機農業というと、まず種苗の選択から慣行農法(農薬や化学肥料を使う普通の農法)とは違うという印象があったので、いささか拍子抜けした次第である。ただ、今回の講座は準備期間がなかったことで、開始時点では慣行農法との差を付けられなかったということはあると思う。

ともあれ、種苗の選択にセンシティブにならなくてよいということは、野菜を健全に生育させることに自信があるということでもあるだろう。有機農業というと、まず病害虫に強い作物を育てるという先入観があったが、病害虫駆除の技術があれば、意外と脆弱な野菜でも育てられるのかも知れない。今後の授業内容に期待である。

【補足】(5/16アップデート)
植え付けられた作物の品種は以下の通り。
ピーマン:京波
ナス:黒陽、白長ナス
ミニトマト:千果