2012年5月18日金曜日

重曹でうどん粉病の防除ができるらしい

かぼちゃがうどん粉病に冒されている。

うどん粉病というのは、文字通りうどん粉を葉にまぶしたような症状が特徴的な、よくある野菜の病気である。

このかぼちゃは出荷用ではなく、勉強の一貫として作っているのであまり農薬は使いたくないなあと思っていたところ、先輩農家のKさんから「硫黄粉剤っていう、"農薬にして農薬にあらず”の薬剤があるよ」と教えてもらい、初期症状のうちは何度かコイツを振りかけてみた。

硫黄粉剤とはまさに硫黄の粉末で、使用回数にも使用時期にも規制がないという、極めて安全な農薬なのだが、安全なだけに効果は緩やかで、病気の進行を若干遅らせることはできるが、止めることはできない(そもそも、予防薬なので当然だが…)。

そんなこんなでどんどん病気が進行する中、普通に農薬を使っては面白くないので、どうしようかと案じていたら、家内から「重曹もうどん粉病の防除に使えるらしい」との情報が。こういう意外な情報を見つけてくるのが家内の面白いところである。

調べてみると、安全性が確認され規制の必要のない農薬を「特定農薬(特定防除資材)」といい、生物以外では食酢と重曹がこれに指定されている。効果のほどは確かではないが、勉強のために育てているかぼちゃなので、試行錯誤をするのはその趣旨に適う。そこで早速重曹の100倍希釈液で病気に冒された葉を洗ってみた(適正な希釈倍数は不明)。

かなり病気が進行している葉もあるので、これで病気が完全に防除できるとは思えないが、どれくらい効果があるのか確かめてみたい(もしかしたら全然ないかもしれないが…)。

【結果】2012/6/21 アップデート
結局、効果があるのかないのかよくわからなかったというのが結論。うどん粉病は進行すると普通の薬剤でも効果があまりない場合も多いということだし、まあ、効いていたとしても僅かだと思う。なんとなく、菌の飛散は若干抑えられたのではないかという気がしたけれど…。

興味深いが無用で無敵の雑草、ダンチク

開墾中の荒蕪地は小川沿いにあるのだが、そこにたくさんのダンチク(暖竹)が生えていて、駆除に苦労している。

ダンチクは、一見竹のように見えるがイネ科の多年草。放っておくと株立ちで4mほどにも生長し、非常に邪魔なので昨年来駆除を続けているが、なかなか勢力が弱まらない。

写真は、ダンチクを根元まで全て切った上に根元を炭化するほど焼いたにも関わらず、平然と新芽を出してきた様子…。全然応えていないようだ。

このダンチクという植物、Wikipediaで見てみると、とても興味深いものだったのでちょっと紹介したい。
  • 花は毎年咲くが不妊性で、有性生殖せずに栄養生殖(地下茎が伸びる)のみで増える。
  • 遺伝的多様性が極端に低く、ほとんどの個体が同じ遺伝子を持つクローンである。 おそらく突然変異で出来た一個体がクローンで世界中に広まったのだろう。
  • 砂地から泥まであらゆる土壌に適応し、特にヒ素、カドミウム、鉛の豊富な土地でよく育つ。これらの有害金属を植物体内で濃縮するため、土壌の浄化に使える可能性がある。
  • 極めて生長が旺盛で、C3植物なのにC4植物と遜色ない光合成能力を持つ(※)。そのため、炭素固定やバイオマス、バイオ燃料として有望な植物として研究されている。
  • カリフォルニアでは河川の護岸植物として1820年代にダンチクが導入されたが、ダンチクは動物の餌にも巣にもならず、毒が含まれており昆虫も食べない上、生長が非常に早いこともあり、生態系の多様性を損なうという打撃を与えた。
  • ダンチクは火にも非常に強く、焼き払っても根から新芽が出てくる。いくらかの農薬も登録されているが 川岸にあるダンチクの駆除は困難である。
  • ダンチクは古くはエジプトでその葉が死体を包むのに使われた他、木管楽器のリード、笛やバグパイプの材料としても使われた。また、紙の原料にもなる。
…とまあこんな調子だが、要は、ダンチクは向かうところ敵なしの植物なのである。しかも病気にも罹らないらしい。そもそも、地下茎のみで増えるという極めて限定的な増殖方法であるにも関わらず、東アジアから中東という広い領域に分布しているということ自体が、ダンチクの無敵ぶりの証左である。

また、よく「自然のサイクルに無駄はない」ということが言われるのだが、ダンチクは昆虫・動物の食糧にならず、また巣にもならないということになると、生態系の中で果たしている役割が不明で、実は自然界でも無用な存在なのではないかと思う(菌界のことはよくわからないが…)。突然変異で生まれた最強のやっかいものがダンチクなのかもしれない。

なお、Wikipediaにはリードとか笛として使われたと書いているが、これは眉唾だ。ダンチクは確かに繊維質で難いが、意外に脆く、楽器として経年使用に耐える強度があるとは思えない。紙の原料となったのも、イタリアが全体主義体制になって紙の原料が輸入できなくなった時の苦肉の策だったらしい。要は、工芸材としてもダンチクは2級品、3級品だったはずだ。

もし、このダンチクがバイオ燃料として活躍する日がきたら、それはダンチクが世界に対して初めて役に立つ時なのかもしれない。

それはさておき、この強靱な植物の駆除はまだまだ先が見えない。 駆除が困難というこの川岸のダンチクは、ラウンドアップの原液を株に流し込んだら多少はダメージを受けてくれるのだろうか…?

(※)C3とかC4というのは、光合成の方式の違いである。C3植物は普通の植物で、C4植物はより乾燥や低二酸化炭素に耐えることができ、光合成の効率がいい植物。


【謝辞】
この植物がダンチクであることが数ヶ月わからなかったのだが、竹の権威である内村悦三先生にメールで問い合わせたところ、先生にご教授いただき判明した次第である。この場を借りて、内村先生には改めて御礼申し上げたい。

2012年5月16日水曜日

正しい下草刈りの仕方とは?

背の低い雑草はあえて残す下草刈り
5月だが、南薩の気候はすでに夏めいており、雑草の元気がよい。

というわけで、ポンカン園の下草刈りをしているのだが、よくわからないのは「正しい下草刈りの仕方」である。

周りの方が家の周囲や田んぼの畦を刈っているやり方を見ると、地際まできれいに刈り揃えていることが多く、これはこれで工芸的美しさがあってよいが、果樹園の林床の場合はこのようなやり方が適切なのかどうか。

というのも、果樹園の理想の林床は、全く雑草がない状態ではなくて、背の低い雑草で覆われている状態だからだ。林床に下草が全くないと土壌が流出しやすく、また土中の水分が蒸発しやすくなってしまう(平地で灌水設備があるなら関係ないが)。さらに、雑草が生えていた方が土壌中の微生物も多く、土が肥沃になるという。

とすれば、背の高い雑草は除去すべきだが、背の低い雑草はむしろ大切な存在なので、実は刈るべきではないのではないか、という気がするのである。

そんなわけで、背の低い雑草で覆われた部分はあまり刈らないようにしているのだが、このような下草払いを続けていれば、理論的には、背の低い雑草で林床の多くが覆われ、背の高い雑草があまり生えてこないという状態になる。そうなれば、下草払いの手間も減るので一石二鳥となるはずだが、本当にそんなにうまくいくかどうか…。

なお、このように果樹園の林床にあえて草を生やす農法のことを「草生栽培」という。最近では、あえて素性のよい雑草の種を播くということも広まっており、例えばミカン園ではナギナタガヤという植物の草生栽培が愛媛などで行われている。

そういう植物の栽培も含め、どうしたら下草払いの手間が省けて、さらにポンカンにもよいのか、私なりにいろいろ試してみたい。

2012年5月14日月曜日

副業的自伐林業のススメ

生活に身近な山を活かす一つの方策として、「自伐林業」がある。

今の林業では、山主は森林組合などに委託して伐採、集材などを行うのが普通だが、以前は自分の山は自分で管理するというのが基本だった。林業は儲からないといわれるが、山主自身は何もせず、全ての作業を組合に委託して山林から利益を出すのが困難なのは自明である。逆に、山主自身が造林、伐採、集材を行えば、今でも林業は決して儲からない産業ではない

しかし一方で、林業には危険が伴うとともに心理的・制度的な参入障壁も高く、いわゆる「素人山主」は山林管理に手を出せない状況が続いていた。本書『バイオマス材収入から始める副業的自伐林業』は、「自伐林業こそ日本の山を救う!」としてその普及を推進している中嶋健造氏が土佐の森での自らの取組を紹介しつつ、自伐林業参入のためのヒントを与える本である。

その主張は次のように要約されるだろう。
  1. 機械化・大規模化の林業は、その維持に高収益が必要なため、儲かる山しか施業されない。そのため放置山林など適切な管理がされていなかった地域の山がさらに放置される。
  2. しかし小規模山主や地域の人々が、高性能機械を使わないシンプルな方法で林業をすれば儲かるのであり、事実、自伐林家の収入は総じて高い。さらに地域の山も整備できて一石二鳥である。
  3. 自伐林業には、地域ぐるみでバイオマス材(薪やペレットにする)の出荷から始めると運搬や伐木の面で新規参入しやすい。チェーンソーと軽トラがあれば誰でも林業はできる
  4. バイオマス材で林業に親しみを持った人のうち、いくらかは本格的・専門的な林業へと進む人も出るし、工夫次第で地域の活性化にも繋がるのである。
私自身、地域の放置山林から利益を生みたいと考えているので、このような主張には大いに頷くところなのだが、問題は主張3である。確かに、シンプルな方法で林業をすれば損益分岐点が大幅に引き下げられることは事実だが、バイオマス材の出荷のみで利益を生むのは至難と思う。

事実、紹介されている土佐の森の取組でも、市場価格3000円/t のC材(バイオマス材になる粗悪な木材)をNPO法人が6000円/t で買うという工夫(差額は寄附などで負担される)が成功の大きな要因だったように思われる。

よって、副業として自伐林業に個人で取り組みたいと思った時、やはり「バイオマス材から始める」のは無理があるような気がする(地域ぐるみで取り組むなら可能だろうが)。軽トラで3000円/tの木材を市場まで運ぶのは、どう考えても割に合わないからだ。やはりある程度の市場価値がある材を出荷する方が、個人でやるなら合理的だと思う。

ちなみに、狭いながらもスギが90本ほど育っているうちの山を伐採すれば、原木市場では単純計算で20万円程度の価値がある。この施業を森林組合に委託すれば経費の方が高くつくが、自伐林業すれば10万円弱の利益が出るかもしれない。

いずれにせよ、儲けが出るかどうかは細かいやり方次第なので、森林組合にもよく話を聞いて施業方法を考えたいと思う。そして、自分の山で利益が出せれば、地域の他の山でも応用できないか考えてみたい。本書に紹介された取組を見ていても、結局「いろいろ工夫してみんなで協力すれば、どんな事業でも儲かるんだ」という当たり前のことを教えている気がするのである。

【参考】
木の駅プロジェクト
土佐の森での取組を全国で応用可能なものにしていく社会実験。鹿児島でも「木の駅」が早く作られるといいと思う。

2012年5月13日日曜日

「畑の学校〜ゆうき教室〜」始まる

南さつま市が有機農業の普及のために行う農業体験講座「畑の学校〜ゆうき教室〜」が始まった。私はこれに、ボランティアスタッフとして関わっている。

ことの発端は、ひょんなことから鹿児島県有機農業協会の大和田専務理事と知り合いになったことである。南さつま市はこの講座の実施を同協会に委託しており、大和田さんとの縁でボランティアをやることになったのだ。といっても私自身が素人なので、ボランティア活動を通じて有機農業について学んでいきたいと思う。

ちなみに、本日の活動は、参加者毎に区切られた畑において
  1. 苦土石灰と鶏糞由来の有機肥料を施用
  2. 2本の畝を作り、ピーマン、ナス、ミニトマトを植え付け
  3. 別の畝にかぼちゃ(ぼっちゃんかぼちゃ)を植え付け
というものだった。その第一印象は、「意外に普通の農法と変わらないな」というものだ。有機農業というと、まず種苗の選択から慣行農法(農薬や化学肥料を使う普通の農法)とは違うという印象があったので、いささか拍子抜けした次第である。ただ、今回の講座は準備期間がなかったことで、開始時点では慣行農法との差を付けられなかったということはあると思う。

ともあれ、種苗の選択にセンシティブにならなくてよいということは、野菜を健全に生育させることに自信があるということでもあるだろう。有機農業というと、まず病害虫に強い作物を育てるという先入観があったが、病害虫駆除の技術があれば、意外と脆弱な野菜でも育てられるのかも知れない。今後の授業内容に期待である。

【補足】(5/16アップデート)
植え付けられた作物の品種は以下の通り。
ピーマン:京波
ナス:黒陽、白長ナス
ミニトマト:千果

2012年5月9日水曜日

Yesterday Today and Tomorrow という花

庭のバンマツリが満開である。

このあたりの庭には、よくバンマツリが植えられている。温暖な気候でよく育つこの花木は、丈夫で生長が旺盛、そして香りがよいことから、明治期に南米から導入されて以来、人々に愛されてきた。

バンマツリとは「蕃茉莉」で、外国のジャスミンの謂いであり、実際、ジャスミンの花以上にジャスミンっぽい匂いがするが、両種は全くの無関係である。

ところで、バンマツリの花はスミレ色で咲き、しばらくすると藤色となり、最後には白い花となる。この色合いの変化が楽しめるのもバンマツリの魅力である。この色が移ろっていく性質から、英語名は「Yesterday Today and Tomorrow」という。

昨日と今日と明日で花の色が違う、そういうことでこのような詩的な名前がついたのだろうが、ネーミングセンスとしては、生硬な感じが否めない。一部には、もっと親しみやすい名前にした方がいいという議論もあるようだ。

ちなみに、バンマツリには毒(サポニン、アルカロイド等)があり、服用すれば幻覚を催すという。この性質を利用し、バンマツリの仲間は南米ではシャーマンにより古くから薬として使われてきた。そして現代でも樹皮をパウダー状にしたものが煎じ薬として売られている。これはリューマチに効くということだが、幻覚性があるのなら、これをよからぬ目的に使う人もいるような気がする(当然ながら、日本では薬品として認められていないので服用しないように…)。

2012年5月8日火曜日

墓石の変転から伝統と革新を考える

私事ながら、5月8日は祖父の命日ということで、墓(石)について思うところを書いてみたい。

写真は祖父の墓だが、これはよくある「○○家の墓」ではなくて、個人の墓となっている。このあたりの集落の共同墓地では、家毎の納骨が普通であるを考えると、これは少しだけ異例である。祖父は町長在任中に急死したので、このように個人の墓が作られたのであろう。

しかし、「○○家の墓」(祖先墓)というのが伝統的な墓のあり方と思ってはいけない。明治維新までは、あくまで墓(墓石)は個人に向けたものだった。しかも、名前を刻むのではなく、戒名または法名を刻み、俗名は側面に控えめに刻まれているものだった。つまり昔の墓石には、「○○院○○居士」などと刻まれていたのである。

祖先墓という形式が広まったのは、明治政府により、祭祀財産が家督相続の特権とされたことの影響である。これは、単純化して言えば、墓は家制度の中でしか相続できなくなったということだ。

元々、武士や公家には家督という概念があったが、農民や商人では家を継ぐという意識は希薄だったし、先祖を祀るということもあまり行われていなかったようだ。明治政府が祭祀権を家督に含めたのは、邪推すれば、国家神道の完成のため、平民にまで祖先祭祀を徹底させようという目的だったように思われる。

しかし、明治31(1898)年に家制度が制定されてからすぐに、祖先墓が出来たわけではない。明治から大正にかけては、それまで伝統的だった墓石・墓碑の形式に捕らわれない、自由な発想に基づく墓が大量に作られた。事実、日本最初の公営墓地である青山霊園の大正時代の墓を見れば、「○○家の墓」などという墓石は少数派で、個性豊かな個人の墓石がたくさんあることに気づくだろう。

こうした墓は個人の霊を弔うものという伝統的な通念は、終戦まで続いたように思われる。特に戦死した故人へは、特別に墓を作って弔ったことは想像に難くない。「○○家の墓」の形式が多数派になっていくのは、実はようやく戦後になってからである。

すでに明治時代初期から墓のあり方は変わり続けていたが、それは限られた上流層(例えば軍人や上級官吏)や都市部でだけの話だった。その変化が全国の一般庶民にまで及び、決定的になったのが戦後だった。その変化を概説すれば、次のようになるだろう。

第1に、寺や自治体が運営する墓地が普及した。それまでは庶民は村の共同墓地に葬られるのが一般的だったが、人口動態が流動的になった結果、 地縁共同体(ムラ)とは別個の墓地管理の必要が生じたのである。

第2に、その結果として墓石ごとの管理責任を明確にせざるをえなくなった。村の共同墓地は集落全体で管理されるため、墓石の一々について管理を明確にする必要はなかったが、寺や自治体の管理する墓地では管理料を納める必要があるため、墓を遺族の誰が管理する(費用を払う)のかが重要になった。

第3に、さらにその結果として、墓は長子相続するものという(公家や武家でのかつての)慣習が明確化される格好で「○○家の墓」という形態の墓(祖先墓)が普及したのである。そして人口増による墓地不足も、この潮流を加速させた。皮肉なのは、既に家制度は昭和22(1947)年の民法大改正で消滅していたということだ。祭祀財産の家督相続は、その法規が失効してから具現化されてしまったのである。

第4に、祖先墓という形式になったことの当然の帰結として、墓石が大型化した。個人の墓の場合は、土地と予算の問題から大きな墓を作ることは難しいが、家毎ならばある程度の土地を確保することは容易だ。また、「家の墓」となったことで「見栄」の要素も大きくなったことも否定できない。

第5に、高度経済成長に伴う墓石の大型化と大衆化の結果、墓石の意匠は簡略化され、シンプルな形状(直方体3つを重ねる)の墓が中心となった。個人の小さな墓の場合は、墓石を置く石にも彫刻が施され、また形状にも細かな配慮があったが、大型化した墓では、ほとんど大きさと材質のみに「見栄」は集中し、意匠は簡素なものばかりになった。

こうして、今ではすっかり一般的となった「○○家の墓」という大きな墓が生まれたのである。しかし、明らかなように、その墓の形式はとても伝統的とは言えないものだ。近年、個人墓と呼ばれる一人だけのお墓を作ったり、墓石に名前を刻むのではなく「愛」とか「いたわり」といった自由な言葉を刻んだりといったことが流行っており、一部にはそういった墓を伝統的でないとして反発するむきもあるが、墓石の変転の歴史を鑑みても、何が伝統的で何が革新なのか、ということは非常に曖昧である。

墓の建立や相続は、あまり短い期間で起こるものではないために、その変化はゆっくりとしている。明治政府が祭祀財産を家督相続の特権としても、直ちに祖先墓が広まらなかったのもそのためだ。しかし、ひとたび墓を作るとなれば、それはほとんど人生で一度きりのことであるために、世間の風潮・流行に流されやすく、一代で大きな変化をもたらす。

人は、自分の知る昔のやり方が「伝統的なもの」だと安直に考えてしまうが、人間の営みは移ろいやすいものである。むしろ、基本に立ち返って革新を求めた方がかえって真の伝統に合致している場合も多い。そして、伝統を守るといっても、例えば現代に「○○院○○居士」と刻んだ小さな個人墓を作ることの意味はあまりないだろう。重要なのは、伝統の根源にある普遍的な営為である。時代も人も移ろっていく。私も、形式的な伝統にとらわれずに、新しい挑戦をしながら、本当の伝統を次世代に遺せたらと思う。

【参考】
お墓の歴史」(金光泰観墓相研究所)
お墓の歴史を縄文時代から概説している。