庭のバンマツリが満開である。
このあたりの庭には、よくバンマツリが植えられている。温暖な気候でよく育つこの花木は、丈夫で生長が旺盛、そして香りがよいことから、明治期に南米から導入されて以来、人々に愛されてきた。
バンマツリとは「蕃茉莉」で、外国のジャスミンの謂いであり、実際、ジャスミンの花以上にジャスミンっぽい匂いがするが、両種は全くの無関係である。
ところで、バンマツリの花はスミレ色で咲き、しばらくすると藤色となり、最後には白い花となる。この色合いの変化が楽しめるのもバンマツリの魅力である。この色が移ろっていく性質から、英語名は「Yesterday Today and Tomorrow」という。
昨日と今日と明日で花の色が違う、そういうことでこのような詩的な名前がついたのだろうが、ネーミングセンスとしては、生硬な感じが否めない。一部には、もっと親しみやすい名前にした方がいいという議論もあるようだ。
ちなみに、バンマツリには毒(サポニン、アルカロイド等)があり、服用すれば幻覚を催すという。この性質を利用し、バンマツリの仲間は南米ではシャーマンにより古くから薬として使われてきた。そして現代でも樹皮をパウダー状にしたものが煎じ薬として売られている。これはリューマチに効くということだが、幻覚性があるのなら、これをよからぬ目的に使う人もいるような気がする(当然ながら、日本では薬品として認められていないので服用しないように…)。
2012年5月9日水曜日
2012年5月8日火曜日
墓石の変転から伝統と革新を考える
私事ながら、5月8日は祖父の命日ということで、墓(石)について思うところを書いてみたい。
写真は祖父の墓だが、これはよくある「○○家の墓」ではなくて、個人の墓となっている。このあたりの集落の共同墓地では、家毎の納骨が普通であるを考えると、これは少しだけ異例である。祖父は町長在任中に急死したので、このように個人の墓が作られたのであろう。
しかし、「○○家の墓」(祖先墓)というのが伝統的な墓のあり方と思ってはいけない。明治維新までは、あくまで墓(墓石)は個人に向けたものだった。しかも、名前を刻むのではなく、戒名または法名を刻み、俗名は側面に控えめに刻まれているものだった。つまり昔の墓石には、「○○院○○居士」などと刻まれていたのである。
祖先墓という形式が広まったのは、明治政府により、祭祀財産が家督相続の特権とされたことの影響である。これは、単純化して言えば、墓は家制度の中でしか相続できなくなったということだ。
元々、武士や公家には家督という概念があったが、農民や商人では家を継ぐという意識は希薄だったし、先祖を祀るということもあまり行われていなかったようだ。明治政府が祭祀権を家督に含めたのは、邪推すれば、国家神道の完成のため、平民にまで祖先祭祀を徹底させようという目的だったように思われる。
しかし、明治31(1898)年に家制度が制定されてからすぐに、祖先墓が出来たわけではない。明治から大正にかけては、それまで伝統的だった墓石・墓碑の形式に捕らわれない、自由な発想に基づく墓が大量に作られた。事実、日本最初の公営墓地である青山霊園の大正時代の墓を見れば、「○○家の墓」などという墓石は少数派で、個性豊かな個人の墓石がたくさんあることに気づくだろう。
こうした墓は個人の霊を弔うものという伝統的な通念は、終戦まで続いたように思われる。特に戦死した故人へは、特別に墓を作って弔ったことは想像に難くない。「○○家の墓」の形式が多数派になっていくのは、実はようやく戦後になってからである。
すでに明治時代初期から墓のあり方は変わり続けていたが、それは限られた上流層(例えば軍人や上級官吏)や都市部でだけの話だった。その変化が全国の一般庶民にまで及び、決定的になったのが戦後だった。その変化を概説すれば、次のようになるだろう。
第1に、寺や自治体が運営する墓地が普及した。それまでは庶民は村の共同墓地に葬られるのが一般的だったが、人口動態が流動的になった結果、 地縁共同体(ムラ)とは別個の墓地管理の必要が生じたのである。
第2に、その結果として墓石ごとの管理責任を明確にせざるをえなくなった。村の共同墓地は集落全体で管理されるため、墓石の一々について管理を明確にする必要はなかったが、寺や自治体の管理する墓地では管理料を納める必要があるため、墓を遺族の誰が管理する(費用を払う)のかが重要になった。
第3に、さらにその結果として、墓は長子相続するものという(公家や武家でのかつての)慣習が明確化される格好で「○○家の墓」という形態の墓(祖先墓)が普及したのである。そして人口増による墓地不足も、この潮流を加速させた。皮肉なのは、既に家制度は昭和22(1947)年の民法大改正で消滅していたということだ。祭祀財産の家督相続は、その法規が失効してから具現化されてしまったのである。
第4に、祖先墓という形式になったことの当然の帰結として、墓石が大型化した。個人の墓の場合は、土地と予算の問題から大きな墓を作ることは難しいが、家毎ならばある程度の土地を確保することは容易だ。また、「家の墓」となったことで「見栄」の要素も大きくなったことも否定できない。
第5に、高度経済成長に伴う墓石の大型化と大衆化の結果、墓石の意匠は簡略化され、シンプルな形状(直方体3つを重ねる)の墓が中心となった。個人の小さな墓の場合は、墓石を置く石にも彫刻が施され、また形状にも細かな配慮があったが、大型化した墓では、ほとんど大きさと材質のみに「見栄」は集中し、意匠は簡素なものばかりになった。
こうして、今ではすっかり一般的となった「○○家の墓」という大きな墓が生まれたのである。しかし、明らかなように、その墓の形式はとても伝統的とは言えないものだ。近年、個人墓と呼ばれる一人だけのお墓を作ったり、墓石に名前を刻むのではなく「愛」とか「いたわり」といった自由な言葉を刻んだりといったことが流行っており、一部にはそういった墓を伝統的でないとして反発するむきもあるが、墓石の変転の歴史を鑑みても、何が伝統的で何が革新なのか、ということは非常に曖昧である。
墓の建立や相続は、あまり短い期間で起こるものではないために、その変化はゆっくりとしている。明治政府が祭祀財産を家督相続の特権としても、直ちに祖先墓が広まらなかったのもそのためだ。しかし、ひとたび墓を作るとなれば、それはほとんど人生で一度きりのことであるために、世間の風潮・流行に流されやすく、一代で大きな変化をもたらす。
人は、自分の知る昔のやり方が「伝統的なもの」だと安直に考えてしまうが、人間の営みは移ろいやすいものである。むしろ、基本に立ち返って革新を求めた方がかえって真の伝統に合致している場合も多い。そして、伝統を守るといっても、例えば現代に「○○院○○居士」と刻んだ小さな個人墓を作ることの意味はあまりないだろう。重要なのは、伝統の根源にある普遍的な営為である。時代も人も移ろっていく。私も、形式的な伝統にとらわれずに、新しい挑戦をしながら、本当の伝統を次世代に遺せたらと思う。
写真は祖父の墓だが、これはよくある「○○家の墓」ではなくて、個人の墓となっている。このあたりの集落の共同墓地では、家毎の納骨が普通であるを考えると、これは少しだけ異例である。祖父は町長在任中に急死したので、このように個人の墓が作られたのであろう。
しかし、「○○家の墓」(祖先墓)というのが伝統的な墓のあり方と思ってはいけない。明治維新までは、あくまで墓(墓石)は個人に向けたものだった。しかも、名前を刻むのではなく、戒名または法名を刻み、俗名は側面に控えめに刻まれているものだった。つまり昔の墓石には、「○○院○○居士」などと刻まれていたのである。
祖先墓という形式が広まったのは、明治政府により、祭祀財産が家督相続の特権とされたことの影響である。これは、単純化して言えば、墓は家制度の中でしか相続できなくなったということだ。
元々、武士や公家には家督という概念があったが、農民や商人では家を継ぐという意識は希薄だったし、先祖を祀るということもあまり行われていなかったようだ。明治政府が祭祀権を家督に含めたのは、邪推すれば、国家神道の完成のため、平民にまで祖先祭祀を徹底させようという目的だったように思われる。
しかし、明治31(1898)年に家制度が制定されてからすぐに、祖先墓が出来たわけではない。明治から大正にかけては、それまで伝統的だった墓石・墓碑の形式に捕らわれない、自由な発想に基づく墓が大量に作られた。事実、日本最初の公営墓地である青山霊園の大正時代の墓を見れば、「○○家の墓」などという墓石は少数派で、個性豊かな個人の墓石がたくさんあることに気づくだろう。
こうした墓は個人の霊を弔うものという伝統的な通念は、終戦まで続いたように思われる。特に戦死した故人へは、特別に墓を作って弔ったことは想像に難くない。「○○家の墓」の形式が多数派になっていくのは、実はようやく戦後になってからである。
すでに明治時代初期から墓のあり方は変わり続けていたが、それは限られた上流層(例えば軍人や上級官吏)や都市部でだけの話だった。その変化が全国の一般庶民にまで及び、決定的になったのが戦後だった。その変化を概説すれば、次のようになるだろう。
第1に、寺や自治体が運営する墓地が普及した。それまでは庶民は村の共同墓地に葬られるのが一般的だったが、人口動態が流動的になった結果、 地縁共同体(ムラ)とは別個の墓地管理の必要が生じたのである。
第2に、その結果として墓石ごとの管理責任を明確にせざるをえなくなった。村の共同墓地は集落全体で管理されるため、墓石の一々について管理を明確にする必要はなかったが、寺や自治体の管理する墓地では管理料を納める必要があるため、墓を遺族の誰が管理する(費用を払う)のかが重要になった。
第3に、さらにその結果として、墓は長子相続するものという(公家や武家でのかつての)慣習が明確化される格好で「○○家の墓」という形態の墓(祖先墓)が普及したのである。そして人口増による墓地不足も、この潮流を加速させた。皮肉なのは、既に家制度は昭和22(1947)年の民法大改正で消滅していたということだ。祭祀財産の家督相続は、その法規が失効してから具現化されてしまったのである。
第4に、祖先墓という形式になったことの当然の帰結として、墓石が大型化した。個人の墓の場合は、土地と予算の問題から大きな墓を作ることは難しいが、家毎ならばある程度の土地を確保することは容易だ。また、「家の墓」となったことで「見栄」の要素も大きくなったことも否定できない。
第5に、高度経済成長に伴う墓石の大型化と大衆化の結果、墓石の意匠は簡略化され、シンプルな形状(直方体3つを重ねる)の墓が中心となった。個人の小さな墓の場合は、墓石を置く石にも彫刻が施され、また形状にも細かな配慮があったが、大型化した墓では、ほとんど大きさと材質のみに「見栄」は集中し、意匠は簡素なものばかりになった。
こうして、今ではすっかり一般的となった「○○家の墓」という大きな墓が生まれたのである。しかし、明らかなように、その墓の形式はとても伝統的とは言えないものだ。近年、個人墓と呼ばれる一人だけのお墓を作ったり、墓石に名前を刻むのではなく「愛」とか「いたわり」といった自由な言葉を刻んだりといったことが流行っており、一部にはそういった墓を伝統的でないとして反発するむきもあるが、墓石の変転の歴史を鑑みても、何が伝統的で何が革新なのか、ということは非常に曖昧である。
墓の建立や相続は、あまり短い期間で起こるものではないために、その変化はゆっくりとしている。明治政府が祭祀財産を家督相続の特権としても、直ちに祖先墓が広まらなかったのもそのためだ。しかし、ひとたび墓を作るとなれば、それはほとんど人生で一度きりのことであるために、世間の風潮・流行に流されやすく、一代で大きな変化をもたらす。
人は、自分の知る昔のやり方が「伝統的なもの」だと安直に考えてしまうが、人間の営みは移ろいやすいものである。むしろ、基本に立ち返って革新を求めた方がかえって真の伝統に合致している場合も多い。そして、伝統を守るといっても、例えば現代に「○○院○○居士」と刻んだ小さな個人墓を作ることの意味はあまりないだろう。重要なのは、伝統の根源にある普遍的な営為である。時代も人も移ろっていく。私も、形式的な伝統にとらわれずに、新しい挑戦をしながら、本当の伝統を次世代に遺せたらと思う。
【参考】
「お墓の歴史」(金光泰観墓相研究所)
お墓の歴史を縄文時代から概説している。
2012年5月3日木曜日
驚異的に幼児に優しい店、「ドライブイン大浦」
![]() |
アラ炊定食 |
骨まで柔らかく煮込まれた甘辛い「アラ炊」で有名で、近隣の漁港(片浦漁港)で獲れた新鮮な魚料理が堪能できる、庶民派だが本場感溢れるところだ。ちなみに、私事ながら店主は父の同級生である。
さて、この店、こういう田舎の食堂にはめずらしく、驚異的に幼児に優しい。なんと、ベビーランチというメニューが、3歳未満限定でタダなのである(なお、ランチ限定ではなく、夕食時でもオーダーできる)。
このベビーランチ、タダではあるが、かなり充実している。ふりかけご飯、エビ天、白身魚の天ぷら、野菜天、タコさんウィンナー、サラダ、ミカン(オレンジ?)半分、ゼリー、そしてうまい棒…少なくとも350円くらいはする内容で、事実これが350円でも躊躇なく注文すると思う。
最初に行ったとき、タダでこんなメニューが出てきたのでとてもびっくりしてしまった。いつも子供(2歳)の食事のことで困っているのでこういうサービスはとても有り難い。なお、この店は子供全般に優しいということではなくて、(都会にあるような)おむつ替えシートがあるとか、絵本が置いてあるとかそういうことはない。それどころか、お子様ランチもない(ただ、「お子様海鮮丼」! はあるようだ。注文したことはないが…)。それなのに、3歳児未満へのこの奉仕精神は一体なんなのだろう。
どうしてこのようなサービスを始めたのか、いつか店主に伺ってみたいと思う。
新鮮な魚介料理、特に名物のアラ炊を堪能するにはもちろん、3歳未満の子供と一緒なら、なおさら行って損はない店である。なお、店の名前は「ドライブイン」だが、普通の飲食店なので(車に乗ったまま利用できる施設ではないので)ご注意を。
2012年5月2日水曜日
鹿児島はクズの生産量日本一ですが、南薩ではどうなんでしょう?
特にクズ(葛)は凄い。この写真のクズは樹齢20年以上(※)だと思うが、絡まるというより、飛翔するといった方がいいくらいで、自由闊達に樹冠へと伸びている。
西日本では、荒蕪地にはすぐにクズがはびこり、雑草としては最もやっかいな部類に属するが、これはかつて救荒植物(飢饉の際に食料となる植物)だった。クズのつるを切ってしばらくすると半透明のデンプン質がじわっと浮いてくるのがわかるが、クズの中(根)には大量の良質なデンプンが蓄えられているのである。クズから採れるデンプン(葛粉)は、各種デンプンの中でも最高級といわれており、葛粉の原料としてクズは今でも重要な植物である。特に鹿児島ではそうだといえよう。
というのも、あまり認識されることはないが、実は鹿児島は日本一のクズの産地なのである。葛粉というと奈良の吉野葛が有名だが、その原料はほとんどが鹿児島産のクズだ。吉野葛というのは、クズを吉野の水で晒して作られた葛粉のことをいうらしい。
なお、くず餅とか葛切りとか葛粉を使った食べ物は多いが、100%クズを原料とした純粋な葛粉が使われているものはほとんどない(サツマイモ由来のデンプンやコーンスターチを混ぜるのが普通)。かつて飢饉の際に食べられたというクズ(葛粉)は、今や立派な高級食材である。
クズは葛根湯など漢方に使われるだけあって健康食品で、消化がいいだけでなく、食感が繊細・滑らかで透明感があり、純粋な葛粉で作ったくず餅を食べたら二度と忘れられなくなるほど美味らしい。もちろん、そのような葛粉を作るためには非常な手間がかかる。
まず、そういった高級品となるクズは限られていて、30年以上のもので、よく光合成し、根に大量のデンプンを溜めていなくてはならない。30年もののクズの根ともなると、人間の太腿くらいの太さはあるわけで、それを掘り出すだけでも大変な労力だ。また、クズのアクを抜いてデンプン質だけを取り出す作業(水で晒し、沈殿させることを繰り返す)も単純なだけに効率化できないし、その上最上級の葛粉を作るためには2ヶ月〜1年も乾燥させなければならないらしい。葛粉が高級食材になるのも頷ける。
ところで、鹿児島は日本一のクズの産地ではあるが、実は生産は大隅地方に偏っていて、この南薩ではクズ掘りについての話は聞かない。大隅ではクズの掘り子の高齢化などの問題にも直面していると聞くが、「葛スイーツ」の開発など新しい展開も見られる。また近年の健康志向の高まりで、クズに対する再評価の気運もある。葛粉は高級食材であるだけに大きな需要増は見込めないが、今後も安定した取引が予測される。
となれば、この自家林にある葛もなんとか生かせないか、と考えるのが人情だろう。木の伐倒をする上では邪魔者だが、それ自体は高級食材(の原料)なのでただ切り払ってしまうのはもったいない。問題は、鹿児島では大隅地方が生産拠点のため、出荷するためにはフェリーに乗って大隅側まで出向かなければならないということである。それを考えるとおそらく利益が出ない気がして少し萎えるが、なんとか生かす道筋を考えてみたい。何しろ、私もくず餅など葛粉で作ったお菓子が大好きなのである。
※ クズはマメ科の多年草で、木ではないので「樹齢」という言い方は厳密に言えば間違いである。見た目は木のようで、実際やや木質化しているが、切ってみると木とは違うことが分かる。それにしても、50年も生きる草というのはそれだけで凄い。
【蛇足】
個人的には、クズは山伏が全国に広めたものという伝説も気になるところである。最初から全国に自生していたようにも思うが…。また、どうして鹿児島での生産が盛んになったのかいずれ調べてみたい。
2012年4月29日日曜日
太陽光発電パネルと余剰電力買取制度
我が家に太陽光発電パネルを導入した。エネルギーの自給自足はこれからの時代重要なことと思うので、貯蓄面ではあまり余裕がないがちょっと無理してみた。
出力は3.68 kW。メーカーはサニックス。値段重視のメーカー選択が吉と出るか凶と出るか…。細かく見れば、性能は各社でバラツキがあると思うが、結局は大同小異だと思いたい。
また、太陽光発電パネルは価格の下落が続いていて、年30%下落するという商品もあるので、今年設置したことは費用対効果的にどうだったか、これは来年になってみないとわからない(激安になっていたらどうしよう…)。ただ、変換効率は頭打ちになっている状況のようなので、性能については格段の進歩はなさそうだ。
さて、太陽光発電による余剰電力は1 kWhあたり42円(2012年4月現在)で電力会社に買い取って貰え、しかも法律によりこの価格は10年間据え置かれることになっているので、パネル設置の費用は8年程度で元が取れる計算になる。とはいえ、法律など政府の都合が悪くなればすぐに改正されるものだから、この先売電価格が実際どうなるか分からない。
しかし、(1)原発再稼働に向けた情勢の不透明性、(2)石油の世界的需要増と中東情勢の不安定化による価格高騰、(3)これからの円安リスク、の3点を考えると、エネルギー価格はより高くなる可能性が大きく、仮に法律が改正されても、ひどく損するということはなさそうだ。
ところで、導入した立場でいうのも何だが、1 kWhあたり42円というのは、買電価格(約8円/kWh)に比べてべらぼうに高い売電価格で、パネルの設置自体にも国や自治体からの補助があることを考えると、非常に不公平な政策であると思う(ちなみに、私は今回補助は受けていない)。
というのも、売電・買電の価格差はいずれ電気料金に反映されるわけで、太陽光パネルが普及すればするほど、(理論上は)普通の電気料金は上がっていくということになる。しかも、太陽光発電パネルが導入できるのはある程度余裕のある家計になってくるので、太陽光発電優遇は、極端に言えば貧困層から富裕層への電気料金による所得移転と言えるのである。
このような政策が長続きするとは思えないし、そもそもこれは太陽光発電パネルを普及させるための一時的なカンフル剤として実施されているものなので、早晩このような状況は是正されるはずだ。それまでは、ちょっと後ろめたい気持ちで、この余剰電力買取制度を活用させてもらおう。
出力は3.68 kW。メーカーはサニックス。値段重視のメーカー選択が吉と出るか凶と出るか…。細かく見れば、性能は各社でバラツキがあると思うが、結局は大同小異だと思いたい。
また、太陽光発電パネルは価格の下落が続いていて、年30%下落するという商品もあるので、今年設置したことは費用対効果的にどうだったか、これは来年になってみないとわからない(激安になっていたらどうしよう…)。ただ、変換効率は頭打ちになっている状況のようなので、性能については格段の進歩はなさそうだ。
さて、太陽光発電による余剰電力は1 kWhあたり42円(2012年4月現在)で電力会社に買い取って貰え、しかも法律によりこの価格は10年間据え置かれることになっているので、パネル設置の費用は8年程度で元が取れる計算になる。とはいえ、法律など政府の都合が悪くなればすぐに改正されるものだから、この先売電価格が実際どうなるか分からない。
しかし、(1)原発再稼働に向けた情勢の不透明性、(2)石油の世界的需要増と中東情勢の不安定化による価格高騰、(3)これからの円安リスク、の3点を考えると、エネルギー価格はより高くなる可能性が大きく、仮に法律が改正されても、ひどく損するということはなさそうだ。
ところで、導入した立場でいうのも何だが、1 kWhあたり42円というのは、買電価格(約8円/kWh)に比べてべらぼうに高い売電価格で、パネルの設置自体にも国や自治体からの補助があることを考えると、非常に不公平な政策であると思う(ちなみに、私は今回補助は受けていない)。
というのも、売電・買電の価格差はいずれ電気料金に反映されるわけで、太陽光パネルが普及すればするほど、(理論上は)普通の電気料金は上がっていくということになる。しかも、太陽光発電パネルが導入できるのはある程度余裕のある家計になってくるので、太陽光発電優遇は、極端に言えば貧困層から富裕層への電気料金による所得移転と言えるのである。
このような政策が長続きするとは思えないし、そもそもこれは太陽光発電パネルを普及させるための一時的なカンフル剤として実施されているものなので、早晩このような状況は是正されるはずだ。それまでは、ちょっと後ろめたい気持ちで、この余剰電力買取制度を活用させてもらおう。
2012年4月28日土曜日
南薩にツゲがたくさん植えられている理由
![]() |
畑の隣に植えられているツゲの木 |
どうしてツゲの木が植えられているのか。それは、ツゲの木は換金性が高いからである。ツゲの材は稠密で堅く、弾力があって美しいことから、将棋の駒や印材、櫛の材料となってきた。特に櫛は、「薩摩つげ櫛」という江戸時代からの伝統的工芸品があり、ツゲ櫛の中でも最高級品なのである。これは、南薩の気候がツゲをより稠密に堅牢に育てるのに適していることによる。そのため、鹿児島のツゲの木は「薩摩つげ」のブランドで高値で取引され、14cm径で約4万円、15cm径で約5万円くらいの相場があるらしい。
換金性が高く相場が安定していて、また生育に15〜20年しかかからないことから、かつてツゲは一種の貯蓄として機能していたという。女の子が生まれると、庭にツゲの木を植えて、成人の頃に切って結婚資金の足しにしたという話がある。ツゲの木は病害虫がつきやすく、山の木のようにほったらかしで育つというわけではないが、庭木なら継続管理が容易だし、保険や貯蓄の金融システムがなかった時代には貴重な貯蓄法だったと思う。
もちろん今の時代にはそういう植えられ方はしないし、櫛や印材の利用も減ってきているけれど、薩摩つげは工芸材として優れているため、パイプオルガンや古楽器などの修復のための部品、またリュートの一部など楽器の材料としての利用も出てきているらしく、新しい活用法がこれから出てくるかもしれない。
ここ大浦町では農家の副業的な植えられ方が多いが、同じ南薩でも、指宿や頴娃ではツゲの産地として今も大規模に生産されている。私も、気の長い話ではあるが、できればツゲの木を山に100本ほど植えてみたいと思っている。
というのも、庭に植えられていたツゲを、窓辺の日当たりをよくするため切ってしまったからだ(換金はしていない)。樹齢は数十年を越えていたので、もしかすると貯蓄として植えていたものかもしれないと、後で思い至った。罪滅ぼしというわけではないが、庭にツゲの木があったという記録を遺したいのかもしれない。築百年近くの古民家だから、庭木を一本切るのも、よく考えなければならない。
【参考】森業・山業 優良ビジネス先進事例ナビ「薩摩つげをめぐるある事件 木材じゃなかった薩摩つげ!?」
2012年4月21日土曜日
怖ろしいほど細かく、非効率的なゴミの分別
神奈川県から移住してきて、とても驚いたことがある。それは、あまりに南さつま市のゴミの分別が細かいことだ。
分別が非常に細かいため、ゴミの分別のポスターが2枚に渡ってしまっている。冷蔵庫の側面に張り切れないほどの分別とは、いかがなものか。
また、分別の方法に例外処理が多く、その材質だけでは処理の種類が決まらないという、非効率的な分別法にも驚いた。そのうえ、指定ゴミ袋には氏名を書かなければならないのだから、怖いくらいである(なぜそんなに厳格なのだろう…?)。
こんな細かい分別をする手間をかけられるなら、もっと効率的に資源を節約する方法があるだろうと思ってしまう。細かく分別しているため、約30戸で年間4万円ほどの資源物からの収益もあるようだが、費用対効果を考えれば損しているのではないか。
なぜこのような手間のかかる分別をしているのかというと、田舎の方が環境意識が高いということではなくて、所謂「容器包装リサイクル法」のせいである。同法では、市区町村は容器包装を分別回収する義務がある。そのため、同じ材質(例えばプラスチック)でも容器として使われていたものなのか、そうでないのかによって分別回収する義務の有無が異なり、処分法が違っているのである。
しかし、このような法を四角四面に適用した分別法が非効率的なのは明白である。分別回収をするにしても、元来の用途ではなく、材質で分ける方が圧倒的にわかりやすい。また、容器包装として使われていたかどうかに関係なく、リサイクルできるものはそうする方が態度が一貫している。段ボールやお菓子の容器のボール紙は回収するのに、書類などの紙ゴミは回収しないというのは、奇妙である。
都会のゴミ収集はこの法律をあまり厳格に守っていないから、今まで同法の存在をあまり認識していなかったが、法を真面目に守ると社会が非効率になるのでは、行政への信頼が低下するのも当然と思った。
【蛇足】
容器包装リサイクル法は、悪法と言われている。悪法と言われる所以は、ざっくり言えば「市区町村には分別回収する義務はあるが、それをリサイクルする義務はなく、事業者側にリサイクルする義務はあるのだが、事業者は分別回収されたゴミにはなんの責任もないため、結局リサイクルが進まない」ということにある。
また、リサイクルは分別収集・再生品化に高いコストがかかり、エネルギー的にも効率的でないことが多い。省エネルギー・省資源を目的とするなら多くのリサイクルは不適で、簡易包装など最初から余計なものを作らない方が遙かによい。そのため、本当に環境に配慮するのであれば、分別回収などという余計なコスト・エネルギーをかけるのではなく、包装の簡易化の方こそ法律化すべきという議論もある(そのため、同法も改正され、レジ袋削減の促進などが導入されはしたが、あまり意味はなかったと思う)。
私自身も、分別はエネルギー的に無駄で、ビンやカン、紙といったリサイクルしやすいものだけ資源ゴミとして、(分別が非常にやっかいな)プラスチックゴミは燃やせるゴミとしつつ、高性能な焼却炉で燃やした方が結局環境にはいいと思っている。同法は対処に大きなコストがかかるわりには資源の節約に貢献していないことから、全国の自治体から改正の要望が出ていると思うが、環境省等はどのように対処するつもりなのだろうか。
分別が非常に細かいため、ゴミの分別のポスターが2枚に渡ってしまっている。冷蔵庫の側面に張り切れないほどの分別とは、いかがなものか。
また、分別の方法に例外処理が多く、その材質だけでは処理の種類が決まらないという、非効率的な分別法にも驚いた。そのうえ、指定ゴミ袋には氏名を書かなければならないのだから、怖いくらいである(なぜそんなに厳格なのだろう…?)。
こんな細かい分別をする手間をかけられるなら、もっと効率的に資源を節約する方法があるだろうと思ってしまう。細かく分別しているため、約30戸で年間4万円ほどの資源物からの収益もあるようだが、費用対効果を考えれば損しているのではないか。
なぜこのような手間のかかる分別をしているのかというと、田舎の方が環境意識が高いということではなくて、所謂「容器包装リサイクル法」のせいである。同法では、市区町村は容器包装を分別回収する義務がある。そのため、同じ材質(例えばプラスチック)でも容器として使われていたものなのか、そうでないのかによって分別回収する義務の有無が異なり、処分法が違っているのである。
しかし、このような法を四角四面に適用した分別法が非効率的なのは明白である。分別回収をするにしても、元来の用途ではなく、材質で分ける方が圧倒的にわかりやすい。また、容器包装として使われていたかどうかに関係なく、リサイクルできるものはそうする方が態度が一貫している。段ボールやお菓子の容器のボール紙は回収するのに、書類などの紙ゴミは回収しないというのは、奇妙である。
都会のゴミ収集はこの法律をあまり厳格に守っていないから、今まで同法の存在をあまり認識していなかったが、法を真面目に守ると社会が非効率になるのでは、行政への信頼が低下するのも当然と思った。
【蛇足】
容器包装リサイクル法は、悪法と言われている。悪法と言われる所以は、ざっくり言えば「市区町村には分別回収する義務はあるが、それをリサイクルする義務はなく、事業者側にリサイクルする義務はあるのだが、事業者は分別回収されたゴミにはなんの責任もないため、結局リサイクルが進まない」ということにある。
また、リサイクルは分別収集・再生品化に高いコストがかかり、エネルギー的にも効率的でないことが多い。省エネルギー・省資源を目的とするなら多くのリサイクルは不適で、簡易包装など最初から余計なものを作らない方が遙かによい。そのため、本当に環境に配慮するのであれば、分別回収などという余計なコスト・エネルギーをかけるのではなく、包装の簡易化の方こそ法律化すべきという議論もある(そのため、同法も改正され、レジ袋削減の促進などが導入されはしたが、あまり意味はなかったと思う)。
私自身も、分別はエネルギー的に無駄で、ビンやカン、紙といったリサイクルしやすいものだけ資源ゴミとして、(分別が非常にやっかいな)プラスチックゴミは燃やせるゴミとしつつ、高性能な焼却炉で燃やした方が結局環境にはいいと思っている。同法は対処に大きなコストがかかるわりには資源の節約に貢献していないことから、全国の自治体から改正の要望が出ていると思うが、環境省等はどのように対処するつもりなのだろうか。
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