2012年5月3日木曜日

驚異的に幼児に優しい店、「ドライブイン大浦」

アラ炊定食
南さつま市大浦町にある「ドライブイン大浦」は、当地の数少ない飲食店の一つである。

骨まで柔らかく煮込まれた甘辛い「アラ炊」で有名で、近隣の漁港(片浦漁港)で獲れた新鮮な魚料理が堪能できる、庶民派だが本場感溢れるところだ。ちなみに、私事ながら店主は父の同級生である。

さて、この店、こういう田舎の食堂にはめずらしく、驚異的に幼児に優しい。なんと、ベビーランチというメニューが、3歳未満限定でタダなのである(なお、ランチ限定ではなく、夕食時でもオーダーできる)。

このベビーランチ、タダではあるが、かなり充実している。ふりかけご飯、エビ天、白身魚の天ぷら、野菜天、タコさんウィンナー、サラダ、ミカン(オレンジ?)半分、ゼリー、そしてうまい棒…少なくとも350円くらいはする内容で、事実これが350円でも躊躇なく注文すると思う。

最初に行ったとき、タダでこんなメニューが出てきたのでとてもびっくりしてしまった。いつも子供(2歳)の食事のことで困っているのでこういうサービスはとても有り難い。なお、この店は子供全般に優しいということではなくて、(都会にあるような)おむつ替えシートがあるとか、絵本が置いてあるとかそういうことはない。それどころか、お子様ランチもない(ただ、「お子様海鮮丼」! はあるようだ。注文したことはないが…)。それなのに、3歳児未満へのこの奉仕精神は一体なんなのだろう。

どうしてこのようなサービスを始めたのか、いつか店主に伺ってみたいと思う。

新鮮な魚介料理、特に名物のアラ炊を堪能するにはもちろん、3歳未満の子供と一緒なら、なおさら行って損はない店である。なお、店の名前は「ドライブイン」だが、普通の飲食店なので(車に乗ったまま利用できる施設ではないので)ご注意を。

2012年5月2日水曜日

鹿児島はクズの生産量日本一ですが、南薩ではどうなんでしょう?

数十年ほったらかしになっていた自家林を、何かに生かしたいと考えているが、蔓植物の勢いが凄く、随所に絡まっているので木の伐倒が大変だ。

特にクズ(葛)は凄い。この写真のクズは樹齢20年以上(※)だと思うが、絡まるというより、飛翔するといった方がいいくらいで、自由闊達に樹冠へと伸びている。

西日本では、荒蕪地にはすぐにクズがはびこり、雑草としては最もやっかいな部類に属するが、これはかつて救荒植物(飢饉の際に食料となる植物)だった。クズのつるを切ってしばらくすると半透明のデンプン質がじわっと浮いてくるのがわかるが、クズの中(根)には大量の良質なデンプンが蓄えられているのである。クズから採れるデンプン(葛粉)は、各種デンプンの中でも最高級といわれており、葛粉の原料としてクズは今でも重要な植物である。特に鹿児島ではそうだといえよう。

というのも、あまり認識されることはないが、実は鹿児島は日本一のクズの産地なのである。葛粉というと奈良の吉野葛が有名だが、その原料はほとんどが鹿児島産のクズだ。吉野葛というのは、クズを吉野の水で晒して作られた葛粉のことをいうらしい。

なお、くず餅とか葛切りとか葛粉を使った食べ物は多いが、100%クズを原料とした純粋な葛粉が使われているものはほとんどない(サツマイモ由来のデンプンやコーンスターチを混ぜるのが普通)。かつて飢饉の際に食べられたというクズ(葛粉)は、今や立派な高級食材である。

クズは葛根湯など漢方に使われるだけあって健康食品で、消化がいいだけでなく、食感が繊細・滑らかで透明感があり、純粋な葛粉で作ったくず餅を食べたら二度と忘れられなくなるほど美味らしい。もちろん、そのような葛粉を作るためには非常な手間がかかる。

まず、そういった高級品となるクズは限られていて、30年以上のもので、よく光合成し、根に大量のデンプンを溜めていなくてはならない。30年もののクズの根ともなると、人間の太腿くらいの太さはあるわけで、それを掘り出すだけでも大変な労力だ。また、クズのアクを抜いてデンプン質だけを取り出す作業(水で晒し、沈殿させることを繰り返す)も単純なだけに効率化できないし、その上最上級の葛粉を作るためには2ヶ月〜1年も乾燥させなければならないらしい。葛粉が高級食材になるのも頷ける。

ところで、鹿児島は日本一のクズの産地ではあるが、実は生産は大隅地方に偏っていて、この南薩ではクズ掘りについての話は聞かない。大隅ではクズの掘り子の高齢化などの問題にも直面していると聞くが、「葛スイーツ」の開発など新しい展開も見られる。また近年の健康志向の高まりで、クズに対する再評価の気運もある。葛粉は高級食材であるだけに大きな需要増は見込めないが、今後も安定した取引が予測される。

となれば、この自家林にある葛もなんとか生かせないか、と考えるのが人情だろう。木の伐倒をする上では邪魔者だが、それ自体は高級食材(の原料)なのでただ切り払ってしまうのはもったいない。問題は、鹿児島では大隅地方が生産拠点のため、出荷するためにはフェリーに乗って大隅側まで出向かなければならないということである。それを考えるとおそらく利益が出ない気がして少し萎えるが、なんとか生かす道筋を考えてみたい。何しろ、私もくず餅など葛粉で作ったお菓子が大好きなのである。


※ クズはマメ科の多年草で、木ではないので「樹齢」という言い方は厳密に言えば間違いである。見た目は木のようで、実際やや木質化しているが、切ってみると木とは違うことが分かる。それにしても、50年も生きる草というのはそれだけで凄い。

【蛇足】
個人的には、クズは山伏が全国に広めたものという伝説も気になるところである。最初から全国に自生していたようにも思うが…。また、どうして鹿児島での生産が盛んになったのかいずれ調べてみたい。

2012年4月29日日曜日

太陽光発電パネルと余剰電力買取制度

我が家に太陽光発電パネルを導入した。エネルギーの自給自足はこれからの時代重要なことと思うので、貯蓄面ではあまり余裕がないがちょっと無理してみた。

出力は3.68 kW。メーカーはサニックス。値段重視のメーカー選択が吉と出るか凶と出るか…。細かく見れば、性能は各社でバラツキがあると思うが、結局は大同小異だと思いたい。

また、太陽光発電パネルは価格の下落が続いていて、年30%下落するという商品もあるので、今年設置したことは費用対効果的にどうだったか、これは来年になってみないとわからない(激安になっていたらどうしよう…)。ただ、変換効率は頭打ちになっている状況のようなので、性能については格段の進歩はなさそうだ。

さて、太陽光発電による余剰電力は1 kWhあたり42円(2012年4月現在)で電力会社に買い取って貰え、しかも法律によりこの価格は10年間据え置かれることになっているので、パネル設置の費用は8年程度で元が取れる計算になる。とはいえ、法律など政府の都合が悪くなればすぐに改正されるものだから、この先売電価格が実際どうなるか分からない。

しかし、(1)原発再稼働に向けた情勢の不透明性、(2)石油の世界的需要増と中東情勢の不安定化による価格高騰、(3)これからの円安リスク、の3点を考えると、エネルギー価格はより高くなる可能性が大きく、仮に法律が改正されても、ひどく損するということはなさそうだ。

ところで、導入した立場でいうのも何だが、1 kWhあたり42円というのは、買電価格(約8円/kWh)に比べてべらぼうに高い売電価格で、パネルの設置自体にも国や自治体からの補助があることを考えると、非常に不公平な政策であると思う(ちなみに、私は今回補助は受けていない)。

というのも、売電・買電の価格差はいずれ電気料金に反映されるわけで、太陽光パネルが普及すればするほど、(理論上は)普通の電気料金は上がっていくということになる。しかも、太陽光発電パネルが導入できるのはある程度余裕のある家計になってくるので、太陽光発電優遇は、極端に言えば貧困層から富裕層への電気料金による所得移転と言えるのである。

このような政策が長続きするとは思えないし、そもそもこれは太陽光発電パネルを普及させるための一時的なカンフル剤として実施されているものなので、早晩このような状況は是正されるはずだ。それまでは、ちょっと後ろめたい気持ちで、この余剰電力買取制度を活用させてもらおう。

2012年4月28日土曜日

南薩にツゲがたくさん植えられている理由

畑の隣に植えられているツゲの木
家の周りでは、よくツゲ(黄楊、柘植)の木を見る。庭木にも多いし、畑にも植えられている。このあたりでは、防風林として植えられるイヌマキに続いて多く植えられている木だと思う。

どうしてツゲの木が植えられているのか。それは、ツゲの木は換金性が高いからである。ツゲの材は稠密で堅く、弾力があって美しいことから、将棋の駒や印材、櫛の材料となってきた。特に櫛は、「薩摩つげ櫛」という江戸時代からの伝統的工芸品があり、ツゲ櫛の中でも最高級品なのである。これは、南薩の気候がツゲをより稠密に堅牢に育てるのに適していることによる。そのため、鹿児島のツゲの木は「薩摩つげ」のブランドで高値で取引され、14cm径で約4万円、15cm径で約5万円くらいの相場があるらしい。

換金性が高く相場が安定していて、また生育に15〜20年しかかからないことから、かつてツゲは一種の貯蓄として機能していたという。女の子が生まれると、庭にツゲの木を植えて、成人の頃に切って結婚資金の足しにしたという話がある。ツゲの木は病害虫がつきやすく、山の木のようにほったらかしで育つというわけではないが、庭木なら継続管理が容易だし、保険や貯蓄の金融システムがなかった時代には貴重な貯蓄法だったと思う。

もちろん今の時代にはそういう植えられ方はしないし、櫛や印材の利用も減ってきているけれど、薩摩つげは工芸材として優れているため、パイプオルガンや古楽器などの修復のための部品、またリュートの一部など楽器の材料としての利用も出てきているらしく、新しい活用法がこれから出てくるかもしれない。

ここ大浦町では農家の副業的な植えられ方が多いが、同じ南薩でも、指宿や頴娃ではツゲの産地として今も大規模に生産されている。私も、気の長い話ではあるが、できればツゲの木を山に100本ほど植えてみたいと思っている。

というのも、庭に植えられていたツゲを、窓辺の日当たりをよくするため切ってしまったからだ(換金はしていない)。樹齢は数十年を越えていたので、もしかすると貯蓄として植えていたものかもしれないと、後で思い至った。罪滅ぼしというわけではないが、庭にツゲの木があったという記録を遺したいのかもしれない。築百年近くの古民家だから、庭木を一本切るのも、よく考えなければならない。


【参考】森業・山業 優良ビジネス先進事例ナビ「薩摩つげをめぐるある事件 木材じゃなかった薩摩つげ!?

2012年4月21日土曜日

怖ろしいほど細かく、非効率的なゴミの分別

神奈川県から移住してきて、とても驚いたことがある。それは、あまりに南さつま市のゴミの分別が細かいことだ。

分別が非常に細かいため、ゴミの分別のポスターが2枚に渡ってしまっている。冷蔵庫の側面に張り切れないほどの分別とは、いかがなものか。

また、分別の方法に例外処理が多く、その材質だけでは処理の種類が決まらないという、非効率的な分別法にも驚いた。そのうえ、指定ゴミ袋には氏名を書かなければならないのだから、怖いくらいである(なぜそんなに厳格なのだろう…?)。

こんな細かい分別をする手間をかけられるなら、もっと効率的に資源を節約する方法があるだろうと思ってしまう。細かく分別しているため、約30戸で年間4万円ほどの資源物からの収益もあるようだが、費用対効果を考えれば損しているのではないか。

なぜこのような手間のかかる分別をしているのかというと、田舎の方が環境意識が高いということではなくて、所謂「容器包装リサイクル法」のせいである。同法では、市区町村は容器包装を分別回収する義務がある。そのため、同じ材質(例えばプラスチック)でも容器として使われていたものなのか、そうでないのかによって分別回収する義務の有無が異なり、処分法が違っているのである。

しかし、このような法を四角四面に適用した分別法が非効率的なのは明白である。分別回収をするにしても、元来の用途ではなく、材質で分ける方が圧倒的にわかりやすい。また、容器包装として使われていたかどうかに関係なく、リサイクルできるものはそうする方が態度が一貫している。段ボールやお菓子の容器のボール紙は回収するのに、書類などの紙ゴミは回収しないというのは、奇妙である。

都会のゴミ収集はこの法律をあまり厳格に守っていないから、今まで同法の存在をあまり認識していなかったが、法を真面目に守ると社会が非効率になるのでは、行政への信頼が低下するのも当然と思った。


【蛇足】
容器包装リサイクル法は、悪法と言われている。悪法と言われる所以は、ざっくり言えば「市区町村には分別回収する義務はあるが、それをリサイクルする義務はなく、事業者側にリサイクルする義務はあるのだが、事業者は分別回収されたゴミにはなんの責任もないため、結局リサイクルが進まない」ということにある。

また、リサイクルは分別収集・再生品化に高いコストがかかり、エネルギー的にも効率的でないことが多い。省エネルギー・省資源を目的とするなら多くのリサイクルは不適で、簡易包装など最初から余計なものを作らない方が遙かによい。そのため、本当に環境に配慮するのであれば、分別回収などという余計なコスト・エネルギーをかけるのではなく、包装の簡易化の方こそ法律化すべきという議論もある(そのため、同法も改正され、レジ袋削減の促進などが導入されはしたが、あまり意味はなかったと思う)。

私自身も、分別はエネルギー的に無駄で、ビンやカン、紙といったリサイクルしやすいものだけ資源ゴミとして、(分別が非常にやっかいな)プラスチックゴミは燃やせるゴミとしつつ、高性能な焼却炉で燃やした方が結局環境にはいいと思っている。同法は対処に大きなコストがかかるわりには資源の節約に貢献していないことから、全国の自治体から改正の要望が出ていると思うが、環境省等はどのように対処するつもりなのだろうか。

2012年4月19日木曜日

薩摩藩林政小史:財政再建で注目された山林

私は、農山村が生活に身近な山をどう生かすか、ということに強い興味があって南さつま市へ移住してきた。まずは少々ある自家林から利益を生み出すことを考えたいが、それだけでなく地域の山も視野に入れて将来を考えてみたいと思っている(もちろん全国の山も)。

山は数十年単位で形作られるが、現代の山林の基礎が形成されたのは藩政時代なので、勉強のために、少し薩摩藩の林政の歴史を繙いてみよう。

薩摩藩の林政の特色は、農地支配と同じく、全ての土地は藩主のものという原則のもと、極めて厳しい統制が行われたことである。共力山(きょうりょくやま)という農民共有林はあったが、基本的に私有林は認められていなかった。

また、土地の管理者如何に関わらず、御用木は勝手に伐採することも禁じられていた。御用木とは、松・楠・檜・柏・桐・杉・槿・欅・槇・椨・銀杏・栂・櫟など建築資材として有用な木が広範囲に及んで指定されていた。 なお、ウルシ・ハゼ・クワ・カキ・ナシ・ウメ・ミカン類など、果樹や商品作物は郡方が支配しており、これも禁伐木であった。要は、価値のある木は山林全般にわたり自由に伐ることはできなかったということになる。

このほかに、薩摩藩の林政のポイントとして5つ挙げられるので時代を追って述べる。

第1に、人別差杉(にんべつさしすぎ)の制度である。人別差杉とは、士民全員に1人杉5本の植栽を課した制度である(後に本数は増えた)。薩摩藩は杉の造林に力を入れていた。杉の造林というと、とかく戦後の大量植林が日本の山をダメにした犯人のように言われるのであるが、杉は藩政時代から重要な植樹種だった。ただし、場所によってはハゼ、漆、チヤなども植えたという。

第2に、家老・島津久通(ひさみち)の植林政策である。久通は江戸初期に、杉の植林、コウゾの植林と製紙業の勧奨、茶栽培の勧奨など、その後数百年続く薩摩藩の山林活用の基本を形作った政策を実施している。なお、人別差杉は久通の始めたものという伝説もある。

第3に、江戸中期(貞観・元禄の頃)、家老・禰寝清雄(ねじめ きよかつ)が農民にハゼの栽培、実の収穫を課したことである。ハゼの実からは木蝋が作られ、藩には莫大な収入があったという。これは藩の財政再建を目的に一時的なものとして企画されたらしいが、財政再建後もこの政策は継続されたため、農民にとってハゼはその管理・収穫に多大な負荷が掛かりとても憎らしい存在だった。そのため明治維新後、ハゼ栽培の義務がなくなると農民の多くがハゼを切り倒してしまい、現在の鹿児島県ではハゼ産業はあまり残っていない。ちなみに、ハゼは元々日本には存在しない木で、中国南部から取り寄せたものであり、薩摩藩のハゼの栽培は全国でも一番早い開始だったのである。

第4に、江戸末期に藩の財政再建に取り組んだ調所広郷(ずしょ ひろさと)の林政改革である。茶坊主出身の異色の家老・調所広郷は、借金まみれで財政破綻寸前だった薩摩藩の財政を、事実上の借金棒引きや清との密貿易、砂糖の専売などで立て直すが、その一貫で林政改革も行っている。広郷は、伐木の密売が多かったことから取り締まりを厳重にし、また杉数万本を姶良海岸各所に植えるなど山林育成に力をいれた。とはいえ、これが財政再建に与えた効果のほどは定かではない。

第5に、幕末の藩主・島津斉彬の樹木研究がある。斉彬は新種の優良な樹木を普及しようと考え、蝦夷からカラマツを取り寄せ数万本を、また備前岡山から杜松の苗木数千本を取り寄せて植え付けた。その他、ロシアの大黄、アフリカの丁字、インドのゴム樹、オリーブ、センナ等もオランダや中国、琉球から取り寄せたらしい。しかし、明治維新の混乱により、斉彬の樹木研究は目立った成果は上げられなかった。

明治維新を迎えると、島津氏は広大な山林を購入し植林を行い、金山(鉱業)とともに島津興業の重要な事業の柱として林業に携わっていく。現在でも、島津興業林業部は鹿児島の重要な林業事業体である。

こうして見てみると、薩摩藩は財政再建の際に山林を活用しようとしてきたことが窺われて興味深い。温暖な気候、多雨といった鹿児島県の風土は森林の形成には向いているし、江戸時代には農林水産業以外には目立った産業はなかったわけで、輸送インフラが未発達だったことを考えると(食料品などは輸送できないので)自然と林業が注目されるという理屈は分からなくはない。しかし、財政再建といった喫緊の課題を前にして、造林のような利益を生むのに何十年も必要な事業を始めているのを見ると、藩政時代にはなんと遠大な目的をもって政策を立案したのだろうと思うのである。

現代は、とかく山林は管理が大変だとか利益が出ないとか言われるのであるが、産業構造などが変わっているにしろ、こうして見ると藩政時代の政策にも学ぶべき点があると思うし、また、遺されてきた山林をうまく生かす道筋も見えてくるのではないかと感じる次第である。


【参考文献】
『鹿児島県林業史』1993年、鹿児島県林業史編さん協議会
薩摩半島の櫨」(『自然と文化 72号』より)2003年、日本ナショナルトラスト

2012年4月17日火曜日

現代の(機械化された)田植えは、重労働ではありません。

田植えの時期である。先輩農家の手伝いで田植え作業の日々が続いている。

大浦町は早期米の生産地なので、一般的な田植えの時期(5月〜6月)に比べると1ヶ月以上早いが、これでも近くの金峰町に比べれば遅い田植えである。金峰町では、「超早場米」といって7月には出荷する水稲生産をしており、これは実は本土では一番早いお米らしい。

さて古来、田植えは収穫と並んで重要な稲作の中心行事であり、非常に重労働なこともあって、一種のお祭りであった。田植えはあまりに重労働だったので、お祭りにしなくてはやってられなかったのだと思う。

ところが、水稲は農業の中でも最も機械化されている作物の一つで、正直、現代の田植えは、体力的にはそんなに大変ではない。田植え自体は機械がするわけで、人がやることは機械操作や苗の補給くらいしかやることはない。むしろ、機械のメンテナンスや調整、(機械がスムーズに田植えできるように水田を整地する)代掻きといった、事前準備の方が大変である(もっと遡れば、播種=箱苗づくりはかなり大変である)。

田植えは時間的拘束が長いし、単調な作業が続くし、泥を触るので手が荒れるといったことはあるけれども、それ自体は重労働とは言えなくなった。機械での作業をするためのお膳立てのような昔とは違った面で大変さはあるが、現代の田植えは少数の人員でこなすことが出来るし、普段の農作業と大きな差はなく、かつてのように農耕儀礼を必要とするような特別な作業ではなくなってきている。

それは、効率化・省力化されたということだから耕作者にとってはいいことだが、重労働と結びついた文化が失われてしまったという面では、少し寂しい面もある。特に、昔田植えの時に歌われていた作業歌である「田植え歌」というのがなくなってしまったことは、一つの音楽文化の喪失であり、私には残念だ。