2018年3月25日日曜日

薩摩の国学と廃仏毀釈——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その9)

田中頼庸(よりつね)は、鹿児島で明治の改元(慶応4年、1868年10月)を迎えた。

そして翌明治2年、版籍奉還の後に藩校造士館「国学局」が設立され、頼庸はその都講として起用された。国学局は、学頭・学頭助・都講・授講以下の職員で構成されており、頼庸の待遇は今で言う教授クラスだったのではないかと思われる。貧窮の独学者にとって、大抜擢とも言える人事だった。

この国学局とは何だったのだろうか。そして頼庸はなぜ国学局の都講として抜擢されたのか。このあたりの事情についてはほとんど知られていない。そこで時間を遡って、鹿児島の国学を巡る事情について振り返ってみたい。

元来、薩摩は国学との関わりは薄い土地であった。

全国に数多くの門人をもった本居宣長の元へも、薩摩・大隅からはただの一人も入門していない(ただし薩摩藩領だった諸県郡高岡郷出身の者が3人だけ入門)。宣長の人気がなかったというよりも、国学は薩摩では禁止されていたらしい。平田篤胤と島津重豪には交流があったというが、篤胤に入門しようとした後醍院真柱(みはしら)が天保10年、眼病治療を口実に上京したことを考えても、薩摩では国学は異端とされおおっぴらには学べなかったようだ。

そんな中、薩摩に国学を導入したのは島津斉彬だった。斉彬は嘉永4年の襲封後、鹿児島に帰着するとすぐに八田知紀、関勇助、後醍院真柱らに社寺陵墓の取調べを申しつけた。嘉永朋党事件で弾圧された国学グループが、一躍藩主の直轄事業に起用されたのである。これは後の廃仏毀釈や神代三陵の画定に繋がる調査とみられる。

一般には、斉彬といえば蘭癖——西洋思想の信奉者だったと思われており、それは事実である。しかし斉彬は洋学と同じくらい、国学や勤皇思想を鼓吹した。斉彬は「天子より国家人民を預かり奉り候」といい、土地人民は元来は(幕府ではなく)朝廷より預かったものという認識を示した最初の薩摩藩主だった。

また斉彬は、藩校造士館で国学が講じられていないことを不満とし、後醍院真柱を造士館の訓導として起用し古学(古典、六国史、律令格式等)に力を入れさせた。さらにそれでは不十分と思ったのだろう、漢学を教える造士館と並んで国学館・洋学館を創設することを企図した。この計画は斉彬の突然の死によって実現はしなかったが、西洋の技術と日本の精神を両方重んずる斉彬の考え方をよく示していた。

こうなってくると、新時代の思潮として薩摩藩でも国学が人々の注目を集めるようになる。後に「誠忠組」を形成することになる若者たちにも、国学への意欲がわき上がったことだろう。事実「誠忠組」の中で、大久保利通の親友だった税所篤、組中で最も家格が高く頭の位置づけにあった岩下方平(みちひら)は平田篤胤の没後門人となっている。

また、「誠忠組」では篤胤の『古史伝』(37巻)を回し読みしていたが、これを聞いた島津久光は『古史伝』を所望。大久保らは『古史伝』を少しずつ久光に提出するとともに、天下の形勢や自分たちの意見の書状をそこに挟み込んで久光へ建言していたという。

久光が『古史伝』を大久保らに所望したことを考えると、久光は国学を体系的に学んだことはなかったようだ。しかし彼は幼い頃から闇斎学に親しんでいた。これは朱子学の一派で廃仏的な傾向を持つ儒学であり、創始者山崎闇斎は神道と儒教を融合させた垂加神道を提唱してもいる。この闇斎学は、薩摩に国学が興る前かなり広まっていた教えであり、薩摩の尊皇思想の源流の一つであった。もともと久光は学問的な性格で和漢の書籍に通じ、斉彬もその見聞の広さと記憶力には舌を巻いていたくらいである。歴史好きだった久光が古学を中心とする国学へ傾倒してゆくのは自然のなりゆきだったろう。

かくして、かつて異端として斥けられていた国学が藩主斉彬によって藩学へ採用され、久光がそれを加速させた。平田篤胤の門下には薩摩人が集い、特に文久2年からは激増している。本居宣長の門人には一人の薩摩人もいなかったのとは隔世の感がある。こうして薩摩の地には平田派の国学が盛行し、遂に廃仏毀釈へと突き進んでいった。国学者たちは、古来より続く神道こそが至純であり、仏教は外来の邪教であると考えたからであった。今や仏教こそが異端とされた。

鹿児島の廃仏毀釈は、大きく前後2期に分けられる。前期が明治維新前、後期が維新後である。

前期廃仏毀釈は、久光の側近だった市来四郎や黒田清綱、橋口兼三といった少壮のものたちが家老桂久武に建言することで始まった。彼らが言うには、この切迫した時勢にあって僧侶や寺院は無用なものであるから、僧侶は還俗させてもっと役に立つ仕事に就かせ、寺院の財産は没収するのがよいと。この建白はすぐに藩主島津忠義と久光に受け入れられ、慶応2年5月には寺院廃合取調掛の任命があった。任命されたのは、家老桂久武を初め、島津主殿(大目付兼寺社奉行)、橋口与一郎(記録奉行)、市来四郎(寺社方取次)他多数であり、既に60代だった後醍院真柱(学校助教授)もそのうちの一人として理論的支柱となった。

この前期廃仏毀釈は、桂久武を初め市来四郎など藩の財務担当者によってリードされたことに象徴され、また建白でもはっきりとそう述べている通り、思想的なものというよりは、財政上の施策という性格が強かった。市来四郎などが元々廃仏的な考えを持っていたのは事実としても、少なくとも名目上は財政的な問題への対処という形を取ったのである。というのは、この頃の薩摩藩はかなりの金欠に陥っていたのだ。

薩摩藩はかつて500両ともいう天文学的な借金を抱えていたが、調所広郷の改革によってこれが好転し、斉彬就任時には50万両を超える蓄財をなすに至っていた。斉彬は集成館事業などでこのうち7万5千両ほどを費消したと見られるものの、それでもまだ財政が逼迫しているとは言えなかった。

また、久光は文久2年に幕府へ「三事策」を突きつけた際、合わせて鋳銭の許可を得ている。これにより市来四郎が主任となり「琉球通宝」を鋳造し、またその裏で「天保通宝」を贋造した。文久2年から慶応元年まで合計290万両もの貨幣を造って3分の2もの巨利を得、藩財政を潤したという。

ところが幕末に向かうにつれて、藩財政は急速に悪化していった。薩英戦争や軍事増強、集成館事業の再建、留学生の派遣など、薩摩を急ごしらえの「近代国家」とするために度外れた経費が必要だったからだ。

生麦事件の賠償金(扶助料)2万5千ポンド(6万333両余)は幕府から借財してそのままになったが、戦争時にイギリス艦隊に焼かれた汽船3隻は合わせて30万両もした。薩摩藩は薩英戦争後にも13隻の汽船を購入しており、戦争前に購入していた4隻と合わせて計17隻もの蒸気船を購入している。これは幕府以外では諸藩において筆頭の購入数であり、この費用が巨額だったことは想像に難くない。

さらに斉彬死後に中断し、また薩英戦争で破壊された集成館事業も再建しなくてはならなかった。洋風の石造りによる機械工場が建設され、周辺には鋳物工場、木工工場等が次々に建てられた。蒸気機関や各種工作機械により大砲や弾丸の製造、艦船の修理などが行われた。さらにそうした機械類を使う技術者の育成や、洋式軍事技術の修練にも取り組み、慶応元年には総勢19名を海外渡航の幕禁を犯して海外留学させた。慶応3年には留学生の一人五代友厚が中心となり我が国最初の洋式紡績工場を鹿児島の磯に建設してもいる。

こうした意欲的な事業を支弁するための経費は厖大となり、遂に薩摩藩では慶応4年、オランダ貿易会社のボードインから洋銀76万ドルを借り入れた。薩英戦争時には幕府に用立ててもらうことも出来たが、慶応年間にはもはや幕府とは敵対的な関係になっており、とても幕府から借金することなど不可能なのだ。藩内から、どうにかお金をかき集めなくてはならないのである。財務担当だった桂久武や市来らが、無為徒食と見なした寺院に注目したのは必要に駆られてのことだったであろう。市来は廃仏毀釈が行われる以前に、鋳銭の材料を確保するため寺院の梵鐘を供出させることを構想していたほどだった。

こうして鹿児島の廃仏毀釈が始まった。

まず、藩内の寺院の調査が行われた。その結果、寺院数1066ヶ寺、寺院所領石高15118石、僧侶総数2964人、神社数4470社、堂宇総数4286宇であり、藩庫より寺社にあてがう玄米や寺社の山林等地所の免租といった負担を合算すれば10万余石、寺院を廃してその梵鐘仏具等を処分すれば銅10万余両を得ることとなる、というのである。

俗に「薩摩77万石」といっても実際には水田に適した土地は少なく、薩摩藩の正味生産高は35万石程度だったと見られているから、10万石以上の節約ができるとすれば財政を大幅に好転させることができる。

廃仏毀釈は、まずは大寺院の支坊末寺を廃することと、神社の別当寺院を廃することから始められたらしい。大寺院の支坊末寺というのは、例えば常駐の住職がなく石高もない寺院といったものも多く、そうしたところは廃寺への抵抗も少ないと見たのだろう。そして別当寺院というのは、神社を管理する寺院のことで、廃仏毀釈以前は神社といえばむしろこの別当寺院の方に神社の管理機能が備わっていることが多かった。神社は僧侶によって保たれていたのである。これを廃することは神社から仏教的要素を除去することを意味し、明治政府の神仏分離政策が行われる前に薩摩では神仏分離が実施されていることが注目される。

前期廃仏毀釈による廃寺は、慶応2年秋頃から始まり慶応3年をピークとしたようだ。しかしこの頃の廃仏運動は、さほど暴力的なものではなかったようである。名目上はあくまでも財政上の理由で寺院を取りつぶすという政策であり、反発を招いて労力や予算を使うとなれば本末顚倒と見なされかねなかったため、いわば遠慮がちに行われた。市来四郎が後年「職人等が怪我でもすると人気に響きますから、念入れて指揮致させました」と述べているように、「人気」を気にしながらやっていたようなのだ。

というのは、当然ながら寺院勢力を中心にして廃仏毀釈への反発がかなりあった。ある者は密かに仏像を持ち出して避難させ、ある者は復興を期して形式的にのみ廃寺を承知した。そしてこれらの反発によって、ついにこの事業は挫折する。

大乗院僧正、南泉院僧正、千眼寺僧を説諭して還俗させようとしている時、たまたま殿中の婦人がそこで祈祷に居合わせていたのだ。そしてこの婦人と侍臣、僧侶が謀って「讒誣内訴」したことで、「事激越に過ぎ、達名を矯むるの過失」により島津主殿(寺社奉行)他数名が更迭された。記録が曖昧だが、翌年休職しているところを見ると市来四郎もこのときに更迭されたようだ。

市来らの側から見れば彼らの訴えは「讒誣内訴」だったが、きっとこのことだけが彼らの更迭の理由ではなかっただろう。廃仏毀釈を進める上で各地で引き起こされたに違いない軋轢が更迭の真因だったように思われる。藩政権は「人気」を考えて、関係者を更迭せざるを得なかったのではないか。

こうして運動の中心人物が更迭されたこと、そして慶応4年の初めに戊辰戦争が勃発したことで藩内はそれどころではなくなり、この前期廃仏毀釈はひとまず休止された格好になった。この前期廃仏毀釈でもかなりの数の寺院が廃されたようであるが、そもそもこの時までは寺院の全廃ということまでは考えていなかった模様である。後年、後醍院真柱も「南林寺福昌寺の如き由緒あるは永存せしむべき方針」であったと述懐している。

この前期廃仏毀釈運動は、数多かった寺院・神社を集約させて整理し、その財産を没収することに主眼があった。いわば寺社のリストラであり、廃仏——すなわち仏教の一掃ということまでは考えていなかったと見られる。しかし維新後の後期廃仏毀釈では、これが狂信的なまでの廃仏運動になっていくのである。

(つづく)


 【参考資料】
島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
神道指令の超克』1972年、久保田 収
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
薩摩 民衆支配の構造』2000年、中村明蔵
鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち[改訂版]』 2003年、佐伯恵達
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
「薩摩ニテ寺院ヲ廃シ神社ヲ合祭セシ事実」[史談会速記録第十三輯](市来四郎談話速記)(『島津忠義公史料第1巻』所収)

2018年3月15日木曜日

田中頼庸と幕末の国学——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その8)

田中頼庸(よりつね)は、独立独歩の人であった。

彼には、師らしい師がいない。というのは、彼の家庭はあまりにも貧しく、入門の費用が払えなかったのだ。

それどころか、本一冊買うこともままならなかった。貧窮の中にいた頼庸を支えたのは学問への情熱であったが、その学問は独学すらも許されなかった。頼庸は手に入る僅かな本を舐めるように読んで、少しずつその内に学問を育てていった。

ところで彼の叔父(母の弟にあたる)に、後に鹿児島県令となる大山綱良がいた。大山は藩内随一の剣客として有名で、この叔父・甥は「田中の文、大山の武」として文武の双璧と並び称されたという。

また、当時鹿児島城下の青年で秀才をもって聞こえたのが、重野安繹(やすつぐ)、今藤新左衛門(宏)、そして田中頼庸の3人だったと伝えられる。頼庸は、ままならぬ独学のみで、やがて人の注目するところとなっていた。

彼は年の近い叔父大山綱良をよく慕い、大山も頼庸を可愛がった。大山は薩摩藩の若手革新派グループである「誠忠組」の中心メンバーの一人であったし、他にも「誠忠組」には頼庸の親友だった高崎五六(高崎正風の従兄弟に当たる)もいた。ところが、頼庸が「誠忠組」に関わった形跡はない。頼庸はこういう徒党には全く与しなかったようだ。彼は、決して友人がいなかったわけではないが、一人学問をすることを好んだ。

それに、田中家は頼庸が遠島を許されてからも、没した父四郎左衛門の処分は解かれておらず、食録もなく、なんら職務に就くことができなかった。学問に打ち込み続けた20代の頼庸は、風雲急を告げる幕末にあって、その異才を発揮する場を持たなかった。

そんな頼庸の人生がにわかに動き出したのが、文久年中のことであった。

おそらくは文久2年のこと、島津久光が一千の兵を率いて京都へ入ったまさにその時のことではないかと思われるが、頼庸は藩命で京都へ上ったのである。何の実績もなかった頼庸が家臣団の一人として抜擢されたのは、秀才との評判はもちろんのこと、大山綱良や高崎正風の推輓があったからに違いない。

京都へ上っても食録は依然としてなく無給状態は続いた。しかし頼庸は、その貧窮の中でもひたすら学問のみに打ち込んだ。

当時の京都は、空前の「政治の季節」を迎えている。各藩から集められた「志士」たちが政論に花を咲かせ、裏に表に策動を繰り返していた時期だ。親友の高崎正風も久光の手足となって政治の表舞台で活躍している。だが彼は、そうした動きとは距離を取っていたように思われる。頼庸には、学問しかなかった。

元々頼庸が打ち込んでいたのは、漢学だった。その漢詩が巧みなことは藩内でも評判だったという。儒学はもちろんのこと、医学にしろ本草学(博物学)にしろ、日本の学問のほとんどは中国からの学問を移植したものであったし、勉学と言えば漢学の素養を身につけることとほぼ同義だったから、頼庸は当時の学問の王道を歩んでいたといえる。ところが頼庸は、京都で「国学」と出会う。

その頃の国学といえば、尊皇攘夷運動の高まりの中で急速に門人を増やし、いわゆる「草莽の国学者」と呼ばれるアクティビスト的な勢力が勃興してきていた。「嘉永朋党事件」で新たな時代の変革理論として予感された国学が、実際に革命の理論へ育っていたのだ。

ここで、これまで特に注釈することもなく使ってきた「国学」とは一体何かということについて、横道に逸れる部分もあるが少し説明しておきたい。

国学の淵源は、古文辞学にある。『万葉集』とか『源氏物語』といった日本の古典文学を読解する学問である。例えば『万葉集』について研究したのが、国学者の嚆矢と言うべき契沖(けいちゅう)である。『万葉集』は「万葉仮名」と呼ばれる特殊な漢字で書かれているが、訓じ方(読み方)が分からない部分が相当あった。真言宗の僧侶だった契沖は、徳川光圀からの依頼を受け、その訓じ方や語義を徹底的に研究した。江戸時代半ばのことである。

その契沖の研究を受け継いだのが、荷田春満(かだの・あずままろ)であり、賀茂真淵(まもの・まぶち)であった。彼らは歌学や古文辞学を研究するうちに、次第に古代人の心に興味が向いていった。古典文学を理解するためには、煎じ詰めれば古代人の心を理解しなくてはならないからだ。こうして、古典文学の研究は、古文辞の研究を越え、古代の日本人の心情や宗教観を理解しようという方向性へと進んでいった。

こうして徐々に出来上がってきた国学を大成したのが本居宣長(もとおり・のりなが)である。契沖が『万葉集』を甦らせたとすれば、宣長はたった一人で『古事記』を蘇生させた。 彼の研究方法は、『古事記』を体得するまで虚心に読むことであった。分析的理解を超え、直観によって古代人の心に肉薄しようとした。そして『古事記』の一文一語について徹底的に考証した研究が『古事記伝』(寛政10年(1798年))である。『古事記伝』は現代の古事記研究の基礎となった。

宣長は古典文学研究に没入することで、やがてそれに同化していった。漢学の影響を受けていない(と宣長は信じた)、原日本の思想を体得していった。それは、道理を論わず「もののあはれ」を重視する「やまとごころ」であり、天皇や八百万の神に身を委ねる宗教観であった。古典文学研究から始まった国学は、歴史研究や古代社会の研究までその範疇を広げ、宗教学や神話学といった方向へ進んでいく。

そして、宣長の古典文学研究の精華ではなく、むしろ研究が薄弱であったその宗教観の方を受け継いで発展させたのが、平田篤胤(あつたね)である。篤胤は『古事記』や『日本書紀』等の古典文学に基づき、神話時代の物語を『古史成文』として再編集し(文化8年(1811年))、追ってさらにそれの注釈書である『古史伝』をまとめた(未完)。これはもはや古文辞学の研究ではなく、篤胤の創作的な面があり、「きっとそうであったに違いない古代人の信仰」や「神道の原初の姿」が明らかにされたことになった。こうして篤胤は、神道を原初のままに取り戻すこと、即ち「復古神道」を起こすことを構想、その神道的世界観を『霊能真柱(たまのみはしら)』に表現した(文化9年(1812年))。この本は霊魂の行方や死後の世界(幽冥界)について書かれており、もはや日本神秘学と呼ぶべきものだった。
 
また篤胤は、宣長が明らかにした古代社会の有様を理想化し、復古神道による原理主義的考えによって「あるべき日本の姿」を提言する政治倫理学へと国学を推し進めた。

この篤胤の構想は、生前はあまり評価されなかったが、やがて尊皇攘夷思想とない交ぜになって、幕末において巨大な影響力を持つようになる。

西欧諸国が進んだ文明の力を背景に開国を迫ってきたとき、日本人は世界における日本の自画像・アイデンティティを確立せねばならなかった。世界の中で、「日本」とは何なのか? 「日本人」とは何なのか? そういう切実な問いに気前よい回答を与えるのが、国学であったと言える。日本は無窮なる皇統がしろしめす国「皇国」であると、日本人とはその皇統を戴く万国に冠たる民族であると。こうした夜郎自大な自画像は攘夷思想と親和し、一方で日本の正統な君主は皇室であるという思想が、尊皇・討幕の理論へと発展していった。もちろん尊皇攘夷思想は、国学だけでなく水戸学や儒学をも源流に持つ。しかし国学が特殊だったのは、尊皇攘夷思想に強烈な宗教性を持ち込んだところだ。

こうして国学は、古典文学の研究という実証主義的で地味な課題から出発したが、古代社会の研究、歴史学、宗教学、神話学と次第に領域を広げ、幕末を動かす巨大なイデオロギーとなっていった。国学は、神話を核として様々な学問が学際的に融合した新しい学問体系・価値体系を創り出そうとしていた。生粋の「日本」の独自思想としてだ。

田中頼庸が京都にいた頃は、こうした国学の運動が最高潮に盛り上がっていた時期だった。頼庸が国学の虜になったのは、宿命だったのだろう。漢学では、旧来の知識人の秩序の枠外に飛び出すことは不可能だったが、勃興しつつある国学でなら、独立独歩の頼庸が一廉(ひとかど)の人物になり得た。

そして慶応3年(1867年)、田中頼庸は鹿児島へ帰ってきた。持ち物は、行李が5つ。中には、ただ一枚の着替えすらなく全てが書物だったという。蛍雪の努力によって、頼庸は独学によって京都で国学を修めていた。

貧困の独学者に過ぎなかった頼庸は、今や藩内でも一二を争う国学者となっていた。

(つづく)

【参考文献】
『田中頼庸先生』二宮岳南(写本、刊行年不明、鹿児島県立図書館所蔵本)
『本居宣長(上、下)』1992年、小林秀雄

2018年3月1日木曜日

嘉永朋党事件と国学の弾圧——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その7)

明治天皇に神代三陵を遙拝するよう建白した人物、田中頼庸(よりつね)とは何者だったのだろうか? 彼は、一般の維新史ではほとんど知られていないから、その人生を少し詳しく辿ってみることにしよう。

田中頼庸は、天保7年(1836年)鹿児島に生まれた。父は田中四郎左衛門、母は樺山氏の出でもと子と言った。頼庸の初名は藤八、雲岫また梅の屋と号した。

彼は生来学問を好んだらしい。その頃の鹿児島は尚武の気風が強く、学問は無用なものとして好まれなかったため、親や親戚は学問を辞めて武芸に励むよう頼庸に迫ったが、彼は志を変えなかった。

そんな頼庸の人生が一変したのが、数え年14歳の時、嘉永2年であった。父が死に、食禄(藩からの給与)が取り上げられるという処分があったのだ。このため田中家は全く路頭に迷ってしまった。

頼庸の父四郎左衛門がどんな罪を犯したのか詳らかでない。しかし当時の薩摩藩の情勢を鑑みると、その背景に「嘉永朋党事件」——いわゆる「お由羅騒動」として知られる事件が思い起こされる。

嘉永朋党事件とは、島津家の世継ぎ争いによって藩内が大量に粛清された事件である。

その頃、島津家の世子(世継ぎ)斉彬は40歳を過ぎても父斉興から位を譲られないという異常な立場にあった。この頃の世継ぎというのは、普通は成人すればすぐに襲封を受けるものである。

斉彬は藩内外にその英明が聞こえていたものの、曾祖父重豪(しげひで)ゆずりの蘭癖もまた有名で、その積極的な開明政策によって藩財政が圧迫されることを懸念した斉興や重臣たちが彼の藩主就任を先延ばししていたと言われる。

そういう反斉彬派を象徴していたのが、斉興の側室、お由羅である。斉彬の一刻も早い藩主就任を臨むグループは、お由羅こそが斉彬を退けている首魁であると考えていた。この頃正室は既に没しており、斉興はその後正室を迎えていなかったためお由羅が正室のような立場にあった。斉彬派は、お由羅が自らの子久光(斉彬の異母弟)を藩主として擁立しようとしていると見たのだった。

実際にはこの争いは斉興と斉彬の親子の対立であったようだが、藩主である斉興を公然とは批判できないという事情があったことから、お由羅がその標的となった側面もあるらしい。しかし斉彬がお由羅をひどく憎んだことも事実である。

というのは、斉彬の子は多くが幼くして死んでいた。斉彬の人生は天才的な慧眼と活発な行動力に裏付けられほとんど影らしい影がないが、彼は子どもだけには恵まれなかった。嘉永元年までに二男二女の4人が1歳から4歳で早世し、嘉永2年には四男篤之助が2歳で死んだ。斉彬派はこれらの夭死がお由羅派の呪詛によるものと考えた。斉彬は腹心(山口不及)宛への手紙でお由羅について「この人さえおり申さず候えば万事よろしくと存じ申し候」との真情を吐露している。

こうして斉彬派はお由羅を実力で排除しようとまで考え、また一刻も早い斉彬の襲封を望んで策動していたとされる。こうした状況で、嘉永2年12月3日、斉彬派の首謀者とされた近藤隆左衛門、山田清安(きよやす)、高崎五郎右衛門の3人が「密会して徒党を組み、政治について誹謗した」との罪状で突然切腹を命じられ、斉彬派への弾圧・粛正の火ぶたが切って落とされた。

12月6日には他3人に遠島の処分、翌嘉永3年3月4日には赤山靱負ら4人に切腹の処分、4月28日には家老の島津壱岐にまで切腹の処分が下り、他数名が切腹。この他免職・謹慎の処分を受けたものは数多く、処分者は約50名にものぼった。特に首謀者3名への処分は苛烈を極め、例えば近藤隆左衛門の場合、切腹だけでは飽き足らなかったのか、嘉永3年3月には追罰として士籍を除かれ、死骸を掘り返して鋸引きにした上で改めて梟刑(はりつけ)に処された。さらにその子欽吉は父の罪を償うため遠島処分も受けている。

そして注目すべきことに、この弾圧を受けた人の中には、国学を奉じた人が幾人も含まれていた。その頃の薩摩藩には、国学を学んだものは数少なかったのにだ。例えば、首謀者の一人とされた山田清安は本居宣長の門人である伴信友に学んでおり、薩摩藩きっての勤皇家として知られていた。

その山田清安の門下だった八田知紀(とものり)も免職・謹慎の処分。またその八田知紀に学んでいた関勇助も同様の処分を受けた。さらに、首謀者の一人高崎五郎右衛門の子、後の高崎正風(まさかぜ)も八田に学んでいたが、父の罪を償うため、嘉永3年、15歳になってから奄美大島へと島流しに遭った。

さらには、平田篤胤門下の後醍院真柱(みはしら)と葛城彦一も弾圧の対象となった(葛城は脱藩して逃亡したので実際には処分を受けていない)。薩摩藩で平田篤胤存命中にその門下になったのは僅かしかいないのにも関わらず、嘉永朋党事件ではそのうちの2人が弾圧されたのである。

とはいえ、この頃の薩摩藩で、国学が一つの勢力となっていたわけではないし、藩の当局としても国学グループを弾圧しようという考えがあったのではないだろう。ただ、斉彬による藩政の刷新を待望する若手藩士たちには、国学が変革を予感させる新しい思想として捉えられていたのだろうと考えられる。実際に、国学とその応用とも言うべき尊皇思想は変革の理論を提供しつつあった。

そんな中、この事件によって国学グループが弾圧された形になったことは、むしろ薩摩藩において国学が一つの力として糾合されていく契機となったように思われる。それまで国学と言えば学問好きが個別的に学んでいた思想だったが、 この事件を契機として、国学が権力者に対抗しうる新思想として認識されていったのではないだろうか。

要するに、弾圧がかえって薩摩の国学を固めるというスプリングボードの役割を果たした。この事件での弾圧が、斉彬の代になって活躍する次世代の志士を大いに奮起させたようにだ。例えば西郷隆盛は赤山靱負の切腹を聞いて悲憤慷慨し、大久保利通は父次右衛門が処分を受け自らも謹慎となったため再起を誓った。久光が実権を握るようになった時に藩政の舞台に躍り出たいわゆる「誠忠組」は、西郷や大久保を中心として、この嘉永朋党事件によって弾圧を受けたものの衣鉢を継ぐものたちであった。弾圧から立ち上がった者たちは、新しい時代を作ろうとするより鞏固な信念を持つようになっていた。

話がやや横道に逸れたが、田中頼庸の父が死に、食録が召し上げられてしまったのがこの嘉永朋党事件の起こった嘉永2年のことだったのである。さらに翌年、頼庸が15歳になると父の罪を償うためとして彼は奄美大島に流された。父四郎左衛門は、これまでの研究では嘉永朋党事件の処分者と見なされていないが、処分の時期と内容を考えるとこの事件との関連が濃厚だと推測される。

そして、時を同じくして奄美大島へと流されたのが先述した高崎正風である。頼庸と正風は同い年で、しかも父の罪を償うための遠島処分という境遇も全く同じであった。大島での二人の交流は詳らかでないが、二人が生涯の親友となったのは必然だっただろう。

当然のことながら、田中頼庸は大島で厳しい生活を強いられた。島の子どもたちを集めて習字や読書を教えることでなんとか糊口をしのいだという。親や親戚から止められた学問が、彼を助けた。

後年許されて鹿児島に帰っても、食録が戻ることはなく、無給状態だったため生活は極めて厳しかった。彼は昼間は人の田畑を耕し、夜は陶器画を書いて金を稼いだ。士族というより、ほとんど小作人の生活に甘んじたのであった。しかしそんな中でも、頼庸は寸暇を惜しんで読書に耽った。ひとり古の聖賢に学ぶことで現実の憂さを忘れた。学問だけが彼を支えたといっていい。

貧窮の中で孤独に学び続けた頼庸は、こうして大人になっていった。


【参考文献】
島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男

2017年12月16日土曜日

「恐竜 v.s. 西郷どん」

来年も、「砂の祭典」に関わることになった。

今年私は「砂の祭典」の実子推進本部員および広報部員として、このイベントに関わらせてもらった。

でもそれは、30回記念を迎えたこの1回限りのつもりだった。そもそも、「砂の祭典」のメイン期間であるゴールデン・ウィークは、栽培しているかぼちゃの開花時期のため受粉作業で忙しい。だからあまりお手伝いもできず、後ろめたい気持ちもあった。

でも、所属している観光協会の方から、「ぜひ!」という声があって、今度はイベント企画について中心的な役割を担う「企画・マーケティング会議」と広報部で活動させてもらうことになった。

で、この「企画・マーケティング会議」でいろいろ議論したことのうち、砂像テーマについてはちょっと誇れる結果になったのでお知らせしたい。

それが次回の「砂の祭典」の砂像テーマで、
「ジュラシック・ファンタジー 〜進化の足音どん・どん・どん〜」
である。

これがどうして誇れるのかというと、言うまでもなく来年は明治維新150年+「西郷どん」放映で、鹿児島県内各地は明治維新関連のイベントで目白押しである。そんなわけで、最初は(私自身も含め)「砂像テーマは明治維新かなあ」という流れがあった。

しかし、会議で議論していくうち、「そもそも子どもたちに明治維新って言っても楽しんでもらえない」「鹿児島市の子どもたちは明治維新ばっかりだから、たまには明治維新から離れたいはずだ」「このイベントのメインターゲットである子どもたちのことを考えたら、明治維新じゃなく、もっと子どもらしい楽しいテーマがいい!」ということになり、テーマが「恐竜」になったのである。

実は、この議論の中で私が提案したテーマは「恐竜 v.s. 西郷どん」だったのだが、それはあまりにもアヴァンギャルド過ぎたのか却下された(でも、意外なほど多くの支持を集めたんですよ!)。 なお、「進化の足音どん・どん・どん」の「どん」というのは、「西郷どん」の名残である(!)

「恐竜 v.s. 西郷どん」というパワー溢れるテーマが却下されたのは残念だが(笑)、県内が明治維新150年で一色になる中、子どもたちのことを考えた選択ができたのは誇れることだと思う。これで、次回の「砂の祭典」に向けて、いいスタートが切れたような気がする。

そんな「砂の祭典」だが、今年も運営メンバーの募集が開始された。

具体的には、(1)総務部会、(2)広報部会、(3)イベント部会、(4)砂像部会、(5)施設部会、(6)物産部会、の6つの部会への参加者の募集である。

私は、昨年に引き続き「広報部会」。「西郷どん」の勢いに負けない「砂の祭典」にするため、手伝って下さるみなさまをお待ちしております!(〆切2017年12月28日)

↓応募はこちらから(「砂の祭典」公式WEBサイト)
2018吹上浜砂の祭典を一緒に盛り上げよう!

2017年11月25日土曜日

「罪深き愉しみ」

高校生の頃、NHK-BSで「BSマンガ夜話」という番組があった。

一つのマンガ作品についてとにかく語り明かす! という趣向の番組で、特に筋らしい筋もなく、居並ぶ男たち(稀に女性もいた記憶があります)が熱く語りまくっていた。

「このコマがいいよね〜」という発言が出れば、「そうそう、そしてこっちも」と付箋だらけになったマンガを繰り開いてどんどん話が展開される。そして 「この連載当時、この作家は〜〜で」という裏話に行くと、当時の社会情勢や編集者との関係なども解説されるという調子で、作品についてあらゆる角度から切り込んでいくのだ。これで「オタクに自由にしゃべらせるとどうなるか」ということの一端を見た思いがした。

レギュラーで出ていたのは、司会の大月隆寛、いしかわじゅん、岡田斗司夫、夏目房之介。このいい年こいたオヤジたちが、ちょっと異常なくらい楽しそうにマンガについて語っていて、私は「マンガってこんなに深い楽しみ方が出来たのか!」とすごく影響を受けた。

あの番組を見て、マンガを読みたくならない人はいなかったと思う。まあ、もともとマンガ好きでないと見ない番組でしょ、という指摘は置いといて…。

さて、私はこの12月に再び「石蔵古本市」を開催するが、そこで特別企画としてブックトーク「罪深き愉しみ」というなにやら妖しげなイベントをやる予定である。

【参考】↓昨年の「石蔵古本市」の案内記事
「石蔵古本市」でぜひ「入り口の本」を。

この「罪深き愉しみ」という、ただならぬ名前のイベントを構想するにあたって頭の中にあったのが、この「BSマンガ夜話」だった。

鹿児島は、あまり本に縁がない土地である。その中でも南薩は、もっと本に縁がない地域であり、南さつまの人は全国平均と比べたった3分の1くらいしか本を買っていないという推計がある。以前も書いたように、この秋に加世田の古本屋は閉店したし、本屋の縮小傾向が続いている。このままでは、街から本屋が消えてしまうかもしれない。

それを避けるためには、より多くの人に本を買ってもらうしかない。そのためには、読書の愉しみに目覚めてもらうしかない!


でもどうやって読書の楽しさを伝えればいいというのか。私自身が、「読書楽しい!」というタイプでないことはこのブログの読者はよくご存じだと思う。「本なんか読んですいません」という後ろめたさを感じながら読書しているわけで、とてもじゃないが「読書の楽しさ」など伝導できない。


そういう逡巡の中にあって、ふとあの「BSマンガ夜話」のことが頭に浮かんだのである。オタクが楽しそうに語り尽くす! それだけで、十分ものごとの楽しさは伝わるという見本があの番組だった。

だから、鹿児島の「本のオタク」たちを集めて、とにかく自分が好きなものについて語ってもらったらいいんじゃないだろうか? しかも、「だからみなさん読書しましょうね」という推奨のスタンスよりも、「このディープな世界に足を踏み入れるのは危険だから注意してね」という訓戒のスタンスで臨む方が、ずっと面白いのではないか。

だいたい、私自身が読書は「罪深き愉しみ」だと思っている。つい数日前も、4歳の娘に「本ばっかり読んでないで仕事しろー!」と怒られたばかりだ(下の娘の前ではあまり本を読んでいないはずなのに!)。でも「やるべきこと」でないからこそ、つい手を伸ばしてしまうのもまた人間である。

こうして、ブックトーク「罪深き愉しみ」という企画を考えた。読書を推奨するイベントは数多あれど、ここまでひねくれたイベントも全国有数だと思う。ブックトークというのはテーマに沿ってオススメ本を紹介するイベントで、このテーマも王道なものの他に、ちょっとひねくれたものを考えているところである。

集まるのは、鹿児島を代表する若手の読書家6人。私は年にせいぜい40冊くらいしか本を読まないが、ここに集まるのはその何倍も読んでいる(はずの)人たちばかりである。何倍も罪深い人たちだ(笑)

当日、私はコーディネータということで、要は聞き役を務める。私自身、直接の面識がない人の方が多く、どんな話が聞けるのか本当に楽しみである。

そんなわけで、12月の初旬、ぜひ南さつま市の万世で行われる「石蔵古本市」、そしてブックトーク「罪深き愉しみ」に来て欲しい。きっとあなたも、罪深い世界へ入っていきたくなると思う。

【情報】石蔵古本市 vol.2
日程:12月8日(金)-11日(月)(営業時間は日ごとに違います)
場所 :南さつま市加世田万世 丁子屋石蔵
参加古書店:あづさ書店 西駅店泡沫(うたかた)古書リゼットつばめ文庫
主催:南薩の田舎暮らし
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。

【情報】ブックトーク「罪深き愉しみ」
日時:12月9日(土)18:30〜20:30
場所:南さつま市加世田万世 丁子屋第2石蔵(本店裏)
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。←古本市とは別です。



2017年11月16日木曜日

「立候補しなかった人」の責任

南さつま市長・市議選である。

私は、前回4年前の市議選において、「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る という記事を書き、現職市議の働きぶりを一般質問の回数で表してみるということをした。

その記事でも書いたように、この回数だけでは働きぶりを判断することは出来ないが、少なくとも市政を糺していこうとする積極性くらいは表していると考えられるため、今回も同様の表を「市議会だより」からまとめて作ってみた。それが下の表である。
※今回の市議選に出ていない人も含めて現職議員全てを掲載。順番は質問回数+五十音による。
※年月は、「議会だより」の掲載号に対応。
※議長は室屋 正和氏

質問回数に応じてなんとなく色分けしてみたが、市議会の一般質問では「ほぼ毎回質問する議員」「ときどき質問する議員」「ほぼ質問しない議員」がいることがよくわかる。

ところで4年前の記事では、各議員の関心事項まで分析した。だがこの作業は大変時間がかかるもので(というのは、質問事項を「市議会だより」のPDFから簡単にコピーすることができないから)、ちょっと今その時間的余裕がないため、今回はその分析はしていない。

その代わり、今回の市議選に立候補している19人という集団についてちょっと述べてたいことがある。立候補者は次の通りである。

氏名 年齢 党派 新旧 主な肩書き
今村 建一郎 68 無所属 農業
有村 義次 66 無所属 農業
上村 研一 54 無所属 漁業
貴島 修 66 無所属 農業
大原 俊博 68 無所属 合資会社大原百貨店代表社員
清水 春男 62 共産 農業
竹内 豊 53 無所属 ゆたか代表
平神 純子 60 無所属 無職
古木 健一 75 無所属 無職
小園 藤生 59 無所属 有限会社コゾノ代表取締役
相星 輝彦 50 無所属 商業
坂本 明仁 55 無所属 消毒センター代表
松元 正明 60 無所属 農業
山下 美岳 67 無所属 商業
諏訪 昌一 63 社民 無職
林 耕二 74 無所属 商業
田元 和美 66 無所属 商業
石原 哲郎 64 無所属 農業
室屋 正和 68 自民 (株)日峰測地会長

さて、私が言いたいことは3つだ。

第1に、平均年齢が高すぎる。立候補者の平均年齢は63歳。任期最後の年には67歳になっていることになる。いくら高齢化した過疎の町といっても全人口の平均年齢はこれほど高くないから、市民の代表としては偏っていると言わざるを得ない。やはり、子育て世代(30〜40代)はもっと入ってなければならないし、20代の議員だって1人くらいはいるべきだと私は思う。

第2に、女性議員(立候補者)の数が少なすぎる。今回の選挙では平神 純子氏しか女性の立候補者はいない。市民の約半分は女性である。理想的には、議員だって半分が女性であるべきだ。なぜ女性が立候補しないのか、よく考えて対策していく必要がある。

第3に、そもそも立候補者が少なすぎる。南さつま市議会議員の議員定数は、今回削減されて20から18になった。それでも立候補者は19人。たった1人しか落選しない。議員の正統性は、選挙で選ばれたということにあるのに、ほとんど選択肢らしい選択肢がないことになる。それでも、少なくとも今回選挙が行われることになってよかった。立候補者があと1人少なければ、無投票になっていた。無投票では、市民の代表としての正統性がまったく担保されない。

もうお気づきの通り、この3つについては、ここに立候補している人には全く責任がない。「立候補しなかった人」に責任がある。若い人、女性がどんどん立候補しないから、こういう偏った議会が生まれる。結果として、議会を「わたしたちの代表」として感じられなくなっている。私たちは、どことなく不審感を持って議会をみていないか。

議会は、我々の利害を代弁し、市政を糺し、そしてみんなで「意志決定」をするためにあるところである。議会の決定が、南さつま市民の決定になる。だから私たちは、「私たちの代表」として信頼できる議会をつくっていかなくてはならない。そのためには、若い人や女性の議会への参画は必須だ。

ではなぜこうした人たちは立候補しないのだろうか? 立候補しさえすれば、確率的にはほとんど当選するとしても、やはり立候補しない理由はたくさんあると思う。田舎だから、票はかなりの程度固まっている(誰に投票するか決まっている)ということもある。それに、今の議会のシステムはほとんど自営業の人しか立候補ができない。でも自営業というのは大抵忙しいものであって、選挙の準備などやってられないということもある。さらに女性の場合、未だに「女のくせに出しゃばって」というような因習的な考えに阻まれることも大きいだろう。

こうしたことはすぐには変えられない。でもだからといって議員の平均年齢が60代の現状に甘んじていては、いつまでもまちを変えていくことはできない。「地方創生」は、結局は地方自治のリノベーションに行き着くのだから、若手・女性が強引に出て行かないと、衰退の道を歩み続けることになる。

とはいえ、まさに今選挙が行われているわけで、こんなことを今言ってもしょうがないことだ。今回の選挙については、現に立候補されている方をよく見て選ぶということ以外にはないのだし、これからの4年間については、選ばれた議員の方を我々の代表としてよりよい市政のために働いてもらうしかないのである。

でも、あと4年後にはまた市議会議員選挙がある。その時は、若手・女性が5人くらい立候補してしかるべきだと思うし、そう考えたら、もう今からそのムーブメントを起こしていかなければならないくらいだ。具体的に、それがどういう形をとったらいいのかは今イメージはないが、そういうムーブメントは、抽象的であっても大事な「まちづくり」だろう。

有り難いことに、私などにも「市議選に出てよ!」というような声がある。今のところ、まだ生活基盤が確立していないくらいで、自分のことや家族のことで精一杯だから、とてもじゃないが立候補などできない。それに、仮に立候補して当選したとしても、自分一人では議会で何もできないと思う。やっぱり、話が合う何人かの仲間がいて、「そうだそうだ!」とならない限り、集団の方向を変えていくことは無理である。これは誰にでも当てはまることだと思う。

だから私は、若手や女性がもうちょっと市政に関わっていく道筋を作っていきたいと思う。これは、「自分が関わっていきたい」というより、そういう人を増やしたいという話である。でも、今のところその道筋というのが一体どういうものなのかイメージがない。市政についてどんどん意見を言っていこうみたいな話ではないような気がする。そうではなくて、若手や女性の力でこの街を変えて行こうという気持ちを盛り上げたいということの方が近い。

そういう気持ちが街として盛り上がっていれば、市議選ももっと違ったものになるだろう。

2017年11月8日水曜日

街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

「石蔵ブックカフェ」の様子
今年の9月に、加世田の「ホンダフル」がつぶれた。マンガを中心とした古本、CD、古着なんかが置いてある、若者向けの古本屋だった。

それからすぐに、今度は「加世田ブックセンター」が閉店して、本町の通りに「加世田書店」として移転オープンした。店の面積は4分の1以下になった。実質的に「教科書販売」以外の機能をほとんど手放したように見える。

歴史を遡れば、加世田にはかつてもっとたくさんの本屋があったようだ。それが近年になってどんどんなくなった。「人口が減ってるんだから仕方ないだろう」という声が聞こえてきそうだが、実はそうでもない。加世田の中心部に限れば、人口は増えているくらいである。

それに、書店以外の商業施設は出店が相次いでいる。私は以前「ダイレックス」の出店について書いたことがあるが(【参考記事】ホヤ的な商売のススメ)、街の中心部にあった広大な「イケダパン跡地」が再開発されることになり、さらに複数の新規出店がある模様である。もちろん潰れていく店もあるにはある。しかし加世田中心部が、活気づいているというのは間違いない。

が、本屋だけは潰れていっている。なぜか?

本をよく読む人にとっては、Amazonで十分だからかもしれない。マンガや雑誌なら、コンビニで事足りる。加世田にはそれなりの人口があり、購買力があるのに、書店の需要はないということなのだろう。

今のところ、それなりの規模がある本屋が一軒だけ残っている。「TSUTAYA」だ。「それなりの規模」といっても、都会の基準で言えば小さな方である。

だが、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

これは、空恐ろしい想像だ。少なくとも図書館はある、といって安心するわけにはいかない。たびたび書いてきたことだが、鹿児島の図書館の貧弱さはカルチャーショックレベルである。図書館の人が悪いのではなくて、予算が圧倒的に足りていない。図書館が、人々の知的欲求に応える場になるには、仮に行政が本気になったとしても、まだまだ時間がかかる。

それに、本を所有する、ということは、人間にとって絶対に必要なことだと思うのだ。

誰にとっても、「初めて自分で買った本」というものがある。私の場合、それはジュール・ヴェルヌの『海底二万里』だった。郷里の吉田町(現・鹿児島市宮之浦町)にはちゃんとした本屋がなかったから、吉野町の春苑堂という本屋で買った。多分小学4年生くらいのこと。この1冊が、その後の私の読書傾向にどれだけ影響を与えたか知れない。いや、私の「人生」にどれだけ影響を与えたか知れない。

「初めて自分で買った本」は、ただの思い出深い本ではない。若者は、その1冊から世界を見る。世界の窓口になる。そこから、人類の知の世界へと、旅立っていく。歴史の突端に立つ人間として、過去を振り返る術を得る——。

その1冊は、もちろん図書館で借りた本でもいいのかもしれない。でも私の経験でいうと、やっぱりその本を所有して、背表紙を眺める経験をしていないと、その本は十分に窓口としての機能を果たさない。一言で言えば、その本への「愛着」が育っていないと、 世界に対する「愛着」が醸成されない可能性がある。

誰しも、ドキドキしながら書店員さんに本を差し出すという経験をしなくては、「世界」に入っていけないのだと、私は思う。

だから、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

若者は、本屋がなくてもちゃんと「世界」を知る人間になるんだろうか。インターネットがあるから大丈夫、と人はいうかもしれない。インターネットの方が、ずっと「世界」と繋がっているんだと。確かに、今の若者は英語が達者である。すごく頼もしい。私なんかより、ずっと「世界」を知っていると思う。そんな人も多い。

でも本当に、本屋がなくなってもそんな人がたくさん生まれてくるんだろうか。

「本」など単なるメディアにすぎないのかもしれない。情報が掲載された紙を束ねたものにすぎない。今の時代、「本」という形にこだわる必要はないのかもしれない。電子書籍で問題はないようにも見える。

でも「本」は、かなりの程度完成されたメディアの形である。少なくとも2000年くらいの時間を掛けて今の「本」の形は整ってきた。デジタル技術が進歩したといっても、まだその完成度には及ばない。大人にとってはデジタルデータで十分であるとしても、若者が手にするとすれば「本」の形になっている方がよほど親切だ。

少なくとも、小学生から中学生くらいまでの子どもには、紙の「本」が必要だし、それを所有することが必要だし、「初めて自分の意志で買った本」がなくてはならない。

それなのに、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

鹿児島市内に行って本を買えばいい、という話なんだろうか? 理屈で言えばそうだ。もし近所から本屋がなくなったら、実際そうするだろう。現実に、ここ大浦町には本屋がないから、加世田に買いに行く。でもそれすら、小さな子どもにとっては自由に行ける場所ではないのである。車で30分もかかる。本屋が街になくなるということが、文化の退潮でなくてなんなのだろう。

本屋が消えた街は、もはや「街」ではなく「村」だ。どれだけ人口が多くても。

私の考えでは、街から本屋が消えたら単に不便になるだけでなくて、もの凄く大きな文化的な損失が生じる。特に若い世代の知的な成長において。

だから街の住人は、本屋を維持する、という矜恃を持つ必要がある。本屋が潰れるに任せておいて、いいわけがないのだ。

そんな折り、懇意にしている古本屋「つばめ文庫」さんから古本の定期出張販売の話があった。これに私たち「南薩の田舎暮らし」も協力して、万世(ばんせい)の丁子屋石蔵で月例の「石蔵ブックカフェ」をすることになった。既に10月13日に初回を開催した。

【参考】石蔵ブックカフェ(第1回)ありがとうございました!(「南薩の田舎暮らし ブログ」の記事)

さらに、昨年も開催した「石蔵古本市」をより内容を充実させて今年も開催する予定である。

【参考】石蔵古本市vol.2(Facebookページ)

もちろん、こうした取り組みで本屋が潰れるをの食い止められるとは思わない。でも、少なくとも私たちが「石蔵ブックカフェ」のイベントをすれば、月に1回は万世に本屋ができる。小さなことでも、そういう集積で街の文化が形作られていくのではないかというのが私の密やかな期待である。

そんなわけで月例の「石蔵ブックカフェ」。直近だと明後日11月10日(金)に行われる。ぜひ寄っていただければ幸いである。


【情報】石蔵ブックカフェ
開催時間:毎月第2金曜日 10:00〜20:00(次回開催11月10日(金))
場所:南さつま市加世田唐仁原6032(丁子屋本店 石蔵)
「つばめ文庫」と「南薩の田舎暮らし」の共同開催。