2018年3月25日日曜日

薩摩の国学と廃仏毀釈——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その9)

田中頼庸(よりつね)は、鹿児島で明治の改元(慶応4年、1868年10月)を迎えた。

そして翌明治2年、版籍奉還の後に藩校造士館「国学局」が設立され、頼庸はその都講として起用された。国学局は、学頭・学頭助・都講・授講以下の職員で構成されており、頼庸の待遇は今で言う教授クラスだったのではないかと思われる。貧窮の独学者にとって、大抜擢とも言える人事だった。

この国学局とは何だったのだろうか。そして頼庸はなぜ国学局の都講として抜擢されたのか。このあたりの事情についてはほとんど知られていない。そこで時間を遡って、鹿児島の国学を巡る事情について振り返ってみたい。

元来、薩摩は国学との関わりは薄い土地であった。

全国に数多くの門人をもった本居宣長の元へも、薩摩・大隅からはただの一人も入門していない(ただし薩摩藩領だった諸県郡高岡郷出身の者が3人だけ入門)。宣長の人気がなかったというよりも、国学は薩摩では禁止されていたらしい。平田篤胤と島津重豪には交流があったというが、篤胤に入門しようとした後醍院真柱(みはしら)が天保10年、眼病治療を口実に上京したことを考えても、薩摩では国学は異端とされおおっぴらには学べなかったようだ。

そんな中、薩摩に国学を導入したのは島津斉彬だった。斉彬は嘉永4年の襲封後、鹿児島に帰着するとすぐに八田知紀、関勇助、後醍院真柱らに社寺陵墓の取調べを申しつけた。嘉永朋党事件で弾圧された国学グループが、一躍藩主の直轄事業に起用されたのである。これは後の廃仏毀釈や神代三陵の画定に繋がる調査とみられる。

一般には、斉彬といえば蘭癖——西洋思想の信奉者だったと思われており、それは事実である。しかし斉彬は洋学と同じくらい、国学や勤皇思想を鼓吹した。斉彬は「天子より国家人民を預かり奉り候」といい、土地人民は元来は(幕府ではなく)朝廷より預かったものという認識を示した最初の薩摩藩主だった。

また斉彬は、藩校造士館で国学が講じられていないことを不満とし、後醍院真柱を造士館の訓導として起用し古学(古典、六国史、律令格式等)に力を入れさせた。さらにそれでは不十分と思ったのだろう、漢学を教える造士館と並んで国学館・洋学館を創設することを企図した。この計画は斉彬の突然の死によって実現はしなかったが、西洋の技術と日本の精神を両方重んずる斉彬の考え方をよく示していた。

こうなってくると、新時代の思潮として薩摩藩でも国学が人々の注目を集めるようになる。後に「誠忠組」を形成することになる若者たちにも、国学への意欲がわき上がったことだろう。事実「誠忠組」の中で、大久保利通の親友だった税所篤、組中で最も家格が高く頭の位置づけにあった岩下方平(みちひら)は平田篤胤の没後門人となっている。

また、「誠忠組」では篤胤の『古史伝』(37巻)を回し読みしていたが、これを聞いた島津久光は『古史伝』を所望。大久保らは『古史伝』を少しずつ久光に提出するとともに、天下の形勢や自分たちの意見の書状をそこに挟み込んで久光へ建言していたという。

久光が『古史伝』を大久保らに所望したことを考えると、久光は国学を体系的に学んだことはなかったようだ。しかし彼は幼い頃から闇斎学に親しんでいた。これは朱子学の一派で廃仏的な傾向を持つ儒学であり、創始者山崎闇斎は神道と儒教を融合させた垂加神道を提唱してもいる。この闇斎学は、薩摩に国学が興る前かなり広まっていた教えであり、薩摩の尊皇思想の源流の一つであった。もともと久光は学問的な性格で和漢の書籍に通じ、斉彬もその見聞の広さと記憶力には舌を巻いていたくらいである。歴史好きだった久光が古学を中心とする国学へ傾倒してゆくのは自然のなりゆきだったろう。

かくして、かつて異端として斥けられていた国学が藩主斉彬によって藩学へ採用され、久光がそれを加速させた。平田篤胤の門下には薩摩人が集い、特に文久2年からは激増している。本居宣長の門人には一人の薩摩人もいなかったのとは隔世の感がある。こうして薩摩の地には平田派の国学が盛行し、遂に廃仏毀釈へと突き進んでいった。国学者たちは、古来より続く神道こそが至純であり、仏教は外来の邪教であると考えたからであった。今や仏教こそが異端とされた。

鹿児島の廃仏毀釈は、大きく前後2期に分けられる。前期が明治維新前、後期が維新後である。

前期廃仏毀釈は、久光の側近だった市来四郎や黒田清綱、橋口兼三といった少壮のものたちが家老桂久武に建言することで始まった。彼らが言うには、この切迫した時勢にあって僧侶や寺院は無用なものであるから、僧侶は還俗させてもっと役に立つ仕事に就かせ、寺院の財産は没収するのがよいと。この建白はすぐに藩主島津忠義と久光に受け入れられ、慶応2年5月には寺院廃合取調掛の任命があった。任命されたのは、家老桂久武を初め、島津主殿(大目付兼寺社奉行)、橋口与一郎(記録奉行)、市来四郎(寺社方取次)他多数であり、既に60代だった後醍院真柱(学校助教授)もそのうちの一人として理論的支柱となった。

この前期廃仏毀釈は、桂久武を初め市来四郎など藩の財務担当者によってリードされたことに象徴され、また建白でもはっきりとそう述べている通り、思想的なものというよりは、財政上の施策という性格が強かった。市来四郎などが元々廃仏的な考えを持っていたのは事実としても、少なくとも名目上は財政的な問題への対処という形を取ったのである。というのは、この頃の薩摩藩はかなりの金欠に陥っていたのだ。

薩摩藩はかつて500両ともいう天文学的な借金を抱えていたが、調所広郷の改革によってこれが好転し、斉彬就任時には50万両を超える蓄財をなすに至っていた。斉彬は集成館事業などでこのうち7万5千両ほどを費消したと見られるものの、それでもまだ財政が逼迫しているとは言えなかった。

また、久光は文久2年に幕府へ「三事策」を突きつけた際、合わせて鋳銭の許可を得ている。これにより市来四郎が主任となり「琉球通宝」を鋳造し、またその裏で「天保通宝」を贋造した。文久2年から慶応元年まで合計290万両もの貨幣を造って3分の2もの巨利を得、藩財政を潤したという。

ところが幕末に向かうにつれて、藩財政は急速に悪化していった。薩英戦争や軍事増強、集成館事業の再建、留学生の派遣など、薩摩を急ごしらえの「近代国家」とするために度外れた経費が必要だったからだ。

生麦事件の賠償金(扶助料)2万5千ポンド(6万333両余)は幕府から借財してそのままになったが、戦争時にイギリス艦隊に焼かれた汽船3隻は合わせて30万両もした。薩摩藩は薩英戦争後にも13隻の汽船を購入しており、戦争前に購入していた4隻と合わせて計17隻もの蒸気船を購入している。これは幕府以外では諸藩において筆頭の購入数であり、この費用が巨額だったことは想像に難くない。

さらに斉彬死後に中断し、また薩英戦争で破壊された集成館事業も再建しなくてはならなかった。洋風の石造りによる機械工場が建設され、周辺には鋳物工場、木工工場等が次々に建てられた。蒸気機関や各種工作機械により大砲や弾丸の製造、艦船の修理などが行われた。さらにそうした機械類を使う技術者の育成や、洋式軍事技術の修練にも取り組み、慶応元年には総勢19名を海外渡航の幕禁を犯して海外留学させた。慶応3年には留学生の一人五代友厚が中心となり我が国最初の洋式紡績工場を鹿児島の磯に建設してもいる。

こうした意欲的な事業を支弁するための経費は厖大となり、遂に薩摩藩では慶応4年、オランダ貿易会社のボードインから洋銀76万ドルを借り入れた。薩英戦争時には幕府に用立ててもらうことも出来たが、慶応年間にはもはや幕府とは敵対的な関係になっており、とても幕府から借金することなど不可能なのだ。藩内から、どうにかお金をかき集めなくてはならないのである。財務担当だった桂久武や市来らが、無為徒食と見なした寺院に注目したのは必要に駆られてのことだったであろう。市来は廃仏毀釈が行われる以前に、鋳銭の材料を確保するため寺院の梵鐘を供出させることを構想していたほどだった。

こうして鹿児島の廃仏毀釈が始まった。

まず、藩内の寺院の調査が行われた。その結果、寺院数1066ヶ寺、寺院所領石高15118石、僧侶総数2964人、神社数4470社、堂宇総数4286宇であり、藩庫より寺社にあてがう玄米や寺社の山林等地所の免租といった負担を合算すれば10万余石、寺院を廃してその梵鐘仏具等を処分すれば銅10万余両を得ることとなる、というのである。

俗に「薩摩77万石」といっても実際には水田に適した土地は少なく、薩摩藩の正味生産高は35万石程度だったと見られているから、10万石以上の節約ができるとすれば財政を大幅に好転させることができる。

廃仏毀釈は、まずは大寺院の支坊末寺を廃することと、神社の別当寺院を廃することから始められたらしい。大寺院の支坊末寺というのは、例えば常駐の住職がなく石高もない寺院といったものも多く、そうしたところは廃寺への抵抗も少ないと見たのだろう。そして別当寺院というのは、神社を管理する寺院のことで、廃仏毀釈以前は神社といえばむしろこの別当寺院の方に神社の管理機能が備わっていることが多かった。神社は僧侶によって保たれていたのである。これを廃することは神社から仏教的要素を除去することを意味し、明治政府の神仏分離政策が行われる前に薩摩では神仏分離が実施されていることが注目される。

前期廃仏毀釈による廃寺は、慶応2年秋頃から始まり慶応3年をピークとしたようだ。しかしこの頃の廃仏運動は、さほど暴力的なものではなかったようである。名目上はあくまでも財政上の理由で寺院を取りつぶすという政策であり、反発を招いて労力や予算を使うとなれば本末顚倒と見なされかねなかったため、いわば遠慮がちに行われた。市来四郎が後年「職人等が怪我でもすると人気に響きますから、念入れて指揮致させました」と述べているように、「人気」を気にしながらやっていたようなのだ。

というのは、当然ながら寺院勢力を中心にして廃仏毀釈への反発がかなりあった。ある者は密かに仏像を持ち出して避難させ、ある者は復興を期して形式的にのみ廃寺を承知した。そしてこれらの反発によって、ついにこの事業は挫折する。

大乗院僧正、南泉院僧正、千眼寺僧を説諭して還俗させようとしている時、たまたま殿中の婦人がそこで祈祷に居合わせていたのだ。そしてこの婦人と侍臣、僧侶が謀って「讒誣内訴」したことで、「事激越に過ぎ、達名を矯むるの過失」により島津主殿(寺社奉行)他数名が更迭された。記録が曖昧だが、翌年休職しているところを見ると市来四郎もこのときに更迭されたようだ。

市来らの側から見れば彼らの訴えは「讒誣内訴」だったが、きっとこのことだけが彼らの更迭の理由ではなかっただろう。廃仏毀釈を進める上で各地で引き起こされたに違いない軋轢が更迭の真因だったように思われる。藩政権は「人気」を考えて、関係者を更迭せざるを得なかったのではないか。

こうして運動の中心人物が更迭されたこと、そして慶応4年の初めに戊辰戦争が勃発したことで藩内はそれどころではなくなり、この前期廃仏毀釈はひとまず休止された格好になった。この前期廃仏毀釈でもかなりの数の寺院が廃されたようであるが、そもそもこの時までは寺院の全廃ということまでは考えていなかった模様である。後年、後醍院真柱も「南林寺福昌寺の如き由緒あるは永存せしむべき方針」であったと述懐している。

この前期廃仏毀釈運動は、数多かった寺院・神社を集約させて整理し、その財産を没収することに主眼があった。いわば寺社のリストラであり、廃仏——すなわち仏教の一掃ということまでは考えていなかったと見られる。しかし維新後の後期廃仏毀釈では、これが狂信的なまでの廃仏運動になっていくのである。

(つづく)


 【参考資料】
島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
神道指令の超克』1972年、久保田 収
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
薩摩 民衆支配の構造』2000年、中村明蔵
鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち[改訂版]』 2003年、佐伯恵達
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
「薩摩ニテ寺院ヲ廃シ神社ヲ合祭セシ事実」[史談会速記録第十三輯](市来四郎談話速記)(『島津忠義公史料第1巻』所収)

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