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2021年2月18日木曜日

日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできるように

「趣味はなんですか?」と聞かれたら、「調べもの」と答えている。

私の趣味は読書だと思われることもあるが、実はそんなにたくさん本を読むわけではない(年間にせいぜい40冊くらい)。そして、面白い本を読みたいという気持ちはほとんどなく、「あれってどうなってるんだろう?」と思って情報を求めて本を開くことがほとんどだ。

だから、自分で本も買うが(というより買える本は買って読む主義)、図書館も意外と使う。意外とどころか、何か本気で調べようと思ったら、すぐ買えるような本には載っていないことが大概だ。どうしても図書館の本に頼らなければならない。

資料のあたりがついていれば、国会図書館の遠隔複写サービスを使う。郷土資料だと、鹿児島県立図書館の遠隔複写も時々使う(でも、県図書の場合は料金を切手(か定額小為替)で送るという非効率的な支払い方法なのであまり使いたくない)。でも複写箇所がわからない場合が多数なので、やはりリアル図書館に行って調べないといけないことも多い。

だが、ここで問題がある。南さつま市の図書館が、貧弱すぎるのだ。もちろん、相互貸借(図書館が別の図書館から本を借りること)によって取り寄せることもできる。しかしその費用を負担しないといけない場合があるなど、気軽には使えない。やっぱり、手近に蔵書が豊富な図書館が必要だ。

そもそも都市と地方には、インターネットなどでは埋めようもない絶望的なまでの情報格差がある。それは、世界の多様性に関する認識の差を形成している。この情報格差を埋めるためにも、図書館の充実は大事である。図書館は、一人ひとりの多様な関心に応え、知らない世界への扉を開き、知りたいことを深めていく場所である。

ところで、もうこちらに移住してきてから約10年になるが、移住前に住んでいたのが神奈川県川崎市の高津区というところ。家から歩いて10分に高津図書館があって、時々足を運んだ。

実は、この高津図書館、住宅街の中にある図書館なのであるが、開架資料だけでいえば、鹿児島県立図書館並みの規模がある。もちろん高津図書館が特別なのではなくて、関東地方ではそのくらいが平凡な規模だ。そして蔵書数もさることながら、特に視聴覚資料(CDとか)は鹿児島の図書館とは全く比べることができないくらい充実している。図書館でCDが借りられるのでツタヤはいらないっていうくらいである。

こういう図書館に気軽にアクセスできるのは、それだけでアドバンテージだと私は思う。ただでさえ地方の子どもは不利な立場に置かれているのに、教育・文化の面で格差が再生産されるのはいただけない。

「どうせ鹿児島は文化のない野蛮な土地柄だから」と人はいうかもしれない。しかし、実はそうでもない。

試みに、高津区と南さつま市の図書館事情を比べてみるとそれが明白になる。公表された統計資料(平成30年度〜令和2年度のデータで構成)をもとにグラフを作ってみた。

 

川崎市高津区と南さつま市の図書館事情比較

蔵書数は、高津区の方が約29万冊で南さつま市より10万冊以上多い。なおグラフにはないが、図書館ごとで比べると、南さつま市で一番大きな加世田図書館の蔵書数が7万5000冊ほど。一方、高津図書館は約25万冊あるので、3倍以上の規模の開きがある。

もちろん、人口が全然違うのでこれは当然だ。高津区の人口は23万人以上あり、南さつま市と比べると20万人多い。ついでにいえば、南さつま市は高津区に比べ面積が17倍もあって、図書館が分立しているから、ただでさえ少ない蔵書がさらに分散している。

では、一人当たりの蔵書数で比べるとどうか。これが調べてみると面白いことで、実は南さつま市の一人当たりの蔵書数は3.80冊で、高津区の約3倍あるのである。

とすると、南さつま市は田舎で文化のない土地だから図書館が貧弱だ、とはいえない。それどころか、高津区に比べ一人当たり3倍も図書館にお金を使っているともいえる(本当は図書の予算決算で比べる必要があるが、その情報が手元にないのでだいたいの話) 。

要するに、南さつま市の図書館が貧弱なのは人口が少ないからであって、図書館にかける行政の熱意(予算)が少ないためではない、ということだ。

でも、図書館の価値は住民一人当たりの本の冊数で計れはしない。それどころか、人口100万人の都市でも、人口1000人の村でも、そこの図書館にあるべき本の冊数・多様性は同じだと私は思う。それは、図書館が住民の「知的な自由」を保障する場であるからで、田舎だからといって知的に不自由するのは仕方ないと諦めてはならない。

では、「知的な自由」を保障できる冊数はどれくらいかというと、日本語だとだいたい20万冊くらいだと思う。別に根拠はないが、いろんな図書館に行ってみての実感だ。これよりも少なくなると、世界の多様性を十分に蔵書で表現出来なくなり、知的世界へのアクセスに不自由をきたす。特に10万冊以下だとそれは非常に限られたものになる。

だから、「日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできること」が図書館行政の目標であるべきとだ、と私は思う。

でも南さつま市で20万冊の蔵書を揃えたら、一人当たり蔵書数はほぼ6冊。こんな予算はとても組めるものではない。

じゃあ、どうするか。答えは一つしかない。図書館を広域行政化するのである。

例えば南さつま市、南九州市、枕崎市が共同で図書館を運営すれば、蔵書数は30万冊を超えると思う。もちろん単純に蔵書数を足し挙げるだけでは、すぐに蔵書の多様性が増えるわけではないが、各市が独立するよりもずっと事態は改善される。さらに各館ごとに揃えていた資料が1つで済む場合も多いので、予算も節約することができる。

こういう広域行政化は、既にいろんな分野で行われている。例えば、ゴミ焼却場、屎尿処理場といったものである。市町村が組合を作って共同運営するのである。もちろん図書館でも、市町村連合によって他市町村の図書を相互に借りられる仕組みはすでに各地である(例:福岡都市圏(17市町で構成される連合))。

ただ、ただの市町村連合の場合は、選書などは各市町村でやるため、必ずしも規模の経済がきくわけではない。やはり市町村組合のようなもので共同運営することがよいと思う。

ちなみに、組合立図書館のススメは、1963年(昭和38年)に『中小都市における公共図書館の運営』というレポートで述べられ、ごく少数ではあるが設置されたことがある。ただその頃はどんどん経済成長していく局面だったので組合立にしなければならない予算面の事情がなくなっていったことと、図書館業界でも賛否が分かれたらしく普及しなかった。

だが今は、指定管理者制度の普及、図書館司書の非正規雇用化、予算の減少などで図書館業界が非常に苦しい局面になっているので、組合立図書館のメリットは大きくなっていると思う。

ところで、これから、南さつま市には南薩地区衛生管理組合のゴミ処理場が出来る(南薩地区新クリーンセンター(仮称))。この組合は、枕崎市、日置市の一部、南さつま市、南九州市で構成されるものである。今のゴミ焼却場は、大量のゴミを処分でき、むしろ燃やすゴミが少ないと非効率になるため広域連携が普通になってきた。こういう連携が広がることはいいことだ。

ゴミ処理に広域連携ができて、図書館にそれができないわけがない。南薩各市の行政のみなさんに、ぜひご検討いただきたい。

2017年11月8日水曜日

街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

「石蔵ブックカフェ」の様子
今年の9月に、加世田の「ホンダフル」がつぶれた。マンガを中心とした古本、CD、古着なんかが置いてある、若者向けの古本屋だった。

それからすぐに、今度は「加世田ブックセンター」が閉店して、本町の通りに「加世田書店」として移転オープンした。店の面積は4分の1以下になった。実質的に「教科書販売」以外の機能をほとんど手放したように見える。

歴史を遡れば、加世田にはかつてもっとたくさんの本屋があったようだ。それが近年になってどんどんなくなった。「人口が減ってるんだから仕方ないだろう」という声が聞こえてきそうだが、実はそうでもない。加世田の中心部に限れば、人口は増えているくらいである。

それに、書店以外の商業施設は出店が相次いでいる。私は以前「ダイレックス」の出店について書いたことがあるが(【参考記事】ホヤ的な商売のススメ)、街の中心部にあった広大な「イケダパン跡地」が再開発されることになり、さらに複数の新規出店がある模様である。もちろん潰れていく店もあるにはある。しかし加世田中心部が、活気づいているというのは間違いない。

が、本屋だけは潰れていっている。なぜか?

本をよく読む人にとっては、Amazonで十分だからかもしれない。マンガや雑誌なら、コンビニで事足りる。加世田にはそれなりの人口があり、購買力があるのに、書店の需要はないということなのだろう。

今のところ、それなりの規模がある本屋が一軒だけ残っている。「TSUTAYA」だ。「それなりの規模」といっても、都会の基準で言えば小さな方である。

だが、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

これは、空恐ろしい想像だ。少なくとも図書館はある、といって安心するわけにはいかない。たびたび書いてきたことだが、鹿児島の図書館の貧弱さはカルチャーショックレベルである。図書館の人が悪いのではなくて、予算が圧倒的に足りていない。図書館が、人々の知的欲求に応える場になるには、仮に行政が本気になったとしても、まだまだ時間がかかる。

それに、本を所有する、ということは、人間にとって絶対に必要なことだと思うのだ。

誰にとっても、「初めて自分で買った本」というものがある。私の場合、それはジュール・ヴェルヌの『海底二万里』だった。郷里の吉田町(現・鹿児島市宮之浦町)にはちゃんとした本屋がなかったから、吉野町の春苑堂という本屋で買った。多分小学4年生くらいのこと。この1冊が、その後の私の読書傾向にどれだけ影響を与えたか知れない。いや、私の「人生」にどれだけ影響を与えたか知れない。

「初めて自分で買った本」は、ただの思い出深い本ではない。若者は、その1冊から世界を見る。世界の窓口になる。そこから、人類の知の世界へと、旅立っていく。歴史の突端に立つ人間として、過去を振り返る術を得る——。

その1冊は、もちろん図書館で借りた本でもいいのかもしれない。でも私の経験でいうと、やっぱりその本を所有して、背表紙を眺める経験をしていないと、その本は十分に窓口としての機能を果たさない。一言で言えば、その本への「愛着」が育っていないと、 世界に対する「愛着」が醸成されない可能性がある。

誰しも、ドキドキしながら書店員さんに本を差し出すという経験をしなくては、「世界」に入っていけないのだと、私は思う。

だから、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

若者は、本屋がなくてもちゃんと「世界」を知る人間になるんだろうか。インターネットがあるから大丈夫、と人はいうかもしれない。インターネットの方が、ずっと「世界」と繋がっているんだと。確かに、今の若者は英語が達者である。すごく頼もしい。私なんかより、ずっと「世界」を知っていると思う。そんな人も多い。

でも本当に、本屋がなくなってもそんな人がたくさん生まれてくるんだろうか。

「本」など単なるメディアにすぎないのかもしれない。情報が掲載された紙を束ねたものにすぎない。今の時代、「本」という形にこだわる必要はないのかもしれない。電子書籍で問題はないようにも見える。

でも「本」は、かなりの程度完成されたメディアの形である。少なくとも2000年くらいの時間を掛けて今の「本」の形は整ってきた。デジタル技術が進歩したといっても、まだその完成度には及ばない。大人にとってはデジタルデータで十分であるとしても、若者が手にするとすれば「本」の形になっている方がよほど親切だ。

少なくとも、小学生から中学生くらいまでの子どもには、紙の「本」が必要だし、それを所有することが必要だし、「初めて自分の意志で買った本」がなくてはならない。

それなのに、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

鹿児島市内に行って本を買えばいい、という話なんだろうか? 理屈で言えばそうだ。もし近所から本屋がなくなったら、実際そうするだろう。現実に、ここ大浦町には本屋がないから、加世田に買いに行く。でもそれすら、小さな子どもにとっては自由に行ける場所ではないのである。車で30分もかかる。本屋が街になくなるということが、文化の退潮でなくてなんなのだろう。

本屋が消えた街は、もはや「街」ではなく「村」だ。どれだけ人口が多くても。

私の考えでは、街から本屋が消えたら単に不便になるだけでなくて、もの凄く大きな文化的な損失が生じる。特に若い世代の知的な成長において。

だから街の住人は、本屋を維持する、という矜恃を持つ必要がある。本屋が潰れるに任せておいて、いいわけがないのだ。

そんな折り、懇意にしている古本屋「つばめ文庫」さんから古本の定期出張販売の話があった。これに私たち「南薩の田舎暮らし」も協力して、万世(ばんせい)の丁子屋石蔵で月例の「石蔵ブックカフェ」をすることになった。既に10月13日に初回を開催した。

【参考】石蔵ブックカフェ(第1回)ありがとうございました!(「南薩の田舎暮らし ブログ」の記事)

さらに、昨年も開催した「石蔵古本市」をより内容を充実させて今年も開催する予定である。

【参考】石蔵古本市vol.2(Facebookページ)

もちろん、こうした取り組みで本屋が潰れるをの食い止められるとは思わない。でも、少なくとも私たちが「石蔵ブックカフェ」のイベントをすれば、月に1回は万世に本屋ができる。小さなことでも、そういう集積で街の文化が形作られていくのではないかというのが私の密やかな期待である。

そんなわけで月例の「石蔵ブックカフェ」。直近だと明後日11月10日(金)に行われる。ぜひ寄っていただければ幸いである。


【情報】石蔵ブックカフェ
開催時間:毎月第2金曜日 10:00〜20:00(次回開催11月10日(金))
場所:南さつま市加世田唐仁原6032(丁子屋本店 石蔵)
「つばめ文庫」と「南薩の田舎暮らし」の共同開催。

2015年12月22日火曜日

今年の5冊

年末なので、いろいろなところで、「今年読んだ本ベスト10」のようなことをやっている。私はこれまでそういうランキング(?)をやったことはなかったが、最近「本との関わり方を変える」ということを密かなテーマにしているので、今年はあえてその顰みに倣ってみようと思う。

というわけで、私の「今年読んだ本ベスト5」は次の5冊。といっても、1年で40冊くらいしか読んでいないので、ずいぶん選考基準の甘いベスト5だが。(ちなみに↓のリンク先は私の読書メモブログ)

『イスラーム思想史』井筒 俊彦 著
『チベット旅行記』河口 慧海 著
『無縁声声 新版―日本資本主義残酷史』平井 正治 著
『犬と鬼—知られざる日本の肖像』アレックス・カー 著
『麵の文化史』石毛 直道 著

『イスラーム思想史』は、たぶんこの一年で一番知力を使って読んだ本。この本のお陰で西洋哲学に比べてどうしても縁遠かったイスラーム思想が朧気ながらに見えてきた。近代キリスト教思想が発展する遙か昔に、イスラーム思想はその先蹤となっていた。その知的水準はほとんどデカルトやスピノザに到達している。

…ということは理屈として知ってはいたが、それをキンディー、ファーラビー、ガザーリーといったこれまで馴染みがなかった個人名で辿る思想史として理解できたのは大きな収穫だった。しかし、その知的水準はデカルトに到達しながら、イスラーム思想は遂に新プラトン的アリストテリスム、すなわちスコラ哲学を乗り越えることができなかった。イスラーム世界はほとんど近代科学への扉を開いていたが、スコラ哲学を破壊する前に文明そのものが衰退してしまったのが悲劇だったのかもしれない。

『チベット旅行記』はエンターテインメントとしてめっぽう面白い。読み始めたら簡単には止められないほど面白く、トイレの中でも本を読んだのは久しぶりだった。

ちなみにどうしてこの本を手に取ったのかというと、ジョージ・サートンという人の『古代中世 科学文化史』という本を読んでいたら、チベット文明が科学史において意外と大きな存在感があることに気づいて、チベットは今でこそ世界の辺境みたいなところだが、かつては文明の先進地の一つであったということに興味を抱き、近代以前の面影がある河口慧海の頃(明治時代)のチベットはどうだったのだろうと本書をめくった。

探検文学というものは、基本的には未開の地に足を踏み入れるという、ある意味で近代人の傲慢があるものだが、河口慧海の場合は仏教の原典を学ぶために鎖国状態にあったチベットへと秘密裏に入国したわけで、未開の地としてのチベットではなく、近代以前の文明の先進地への尊敬を持ってチベットへと赴いた(実際に河口慧海はチベットで大学へ入学)。その点が、本書を並の探検文学とは全然違うものにしている背景だと思う。というわけで、科学史のことはすっかり忘れて、エンターテインメントとして読んでしまったくらい面白い本である。

『無縁声々』は大阪釜ヶ崎(ドヤ街)の伝説的人物、平井 正治の主著である。恥ずかしながら、偶然、書店で本書を手に取るまで、この度外れた人物のことを知らなかった。日雇い労働者として苦役に従事しながら、最底辺の人間が生きてきた世界のこまごまとした出来事を記録し、さらには労働争議の先頭に立って戦うという、労働者であり、学者であり、活動家でもある人物である。

東京オリンピックという「国の威信」がかかった巨大事業が動き出している今年、この本を読んだことには大きな意味があった。そうした「国の威信」の裏に、どれだけの労働者の犠牲があるのかという平井の糾弾に、今こそ耳を傾けるべきだ。「国の威信」のために無理な工期が組まれ、そのために安全対策が疎かになり、いざ施設が完成すれば労働者は不要になる。使い捨ての労働者の存在を前提とした、こうした巨大公共事業こそドヤ街(≒スラム街)の産みの親なのだ。

『犬と鬼』は、日本に住んでいると当たり前すぎて気づかない日本のダメな点について激しく指摘してくれる、日本への愛のムチのような本。ただ「日本のここがダメだあそこがダメだ」とダメだしをするだけの本ではなく、日本にある素晴らしい潜在的な魅力を認識しながら、そこを台無しにしてきた日本人の鑑識眼のなさと、マネジメント能力の欠如を嘆く。

本書は最初英語で書かれ、それが著者の監修の元で日本語訳された。こういう本が、日本人向けに書かれたのではなく、英語世界に対して日本の真の姿を伝えるものとして書かれたことにも意味がある。本書はやや学術的なスタンスで書かれているので、論旨に関心があるが手軽に済ませたい向きには、本書のエッセンスを凝縮させて、写真を充実させた同著者の『ニッポン景観論』がオススメ。皮肉が効いた痛快な文章は苦笑の連続。

『麺の文化史』は本来ベスト5に入るような類の本ではないが、なにしろ私は麺好きなので、あえて入れてみた。「鉄の胃袋」の異名を持つ、石毛 直道氏による麺を訪ねるフィールドワークは麺好きでなくとも面白い(はず)。学術的な考察はもちろん大事だが、食品の研究はともかく食べるということがなくては始まらないわけで、どんなにお腹いっぱいでも土地の食べ物は食べておくという著者の姿勢はすばらしいと思う。

この5冊の他に、選外として『ハイパー・インフレの人類学:ジンバブエ「危機」下の多元的貨幣経済』早川 真悠 著『砂糖百科』高田 明和、橋本 仁、伊藤 汎 監修を挙げておこう。この2冊は、私自身は非常に興味深く読んだが、どちらも本としての完成度はいまいち(前者は若書きな感じで、後者は本というより事典のような感じ)なので5冊に入らなかった。でもこの分野に関心がある人ならとても面白い本だと思う。

来年もたくさんの良書との出会いがあらんことを!

2015年12月1日火曜日

「積ん読ナイト」に参加して

先日、「積ん読ナイト」という催しに参加した。

積ん読している本について語り合おうという変わった会である。「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」にも出店いただいた「つばめ文庫」の店主さんに誘われて二つ返事でOKし、この前夜中に天文館の某所に行ってきた。

これが、読んだ本について語り合う会だったら、もしかしたら行っていなかったのではないかと思う。私にとって、読んだ本をオススメし合う会よりも、読んでない本について語る会の方がよほどクールなものだ。

会では「買ったけど難しくて挫折した」といったような真面目な理由で積ん読されている本が多かったようだが、 私はそもそも、買った本は読むべきもの、とは思っていない。もちろん買ったのなら読むに越したことはないが、それは冷蔵庫の野菜は使い切った方がよいというレベルの話であり、無駄はない方がよいということに過ぎない。

でも、無駄はない方がよい、ということを考えるなら、そもそも読書自体が無駄であって、本なんか読まない方がよほどスマートである。「本はためになる」「本で勉強できる」「本は感動する」「本で心が豊かになる」といったたくさんの反論が予想されるが、これまでの経験で言うと、読書家に「知識が豊富で心が豊かな人」が多いかというとそうでもない。

もちろんほとんど読書をしないで知識が豊富な人というのはかなり珍しいので、知識を求めるなら読書は有用であるが、大抵、読書によって仕入れる知識のほとんどはそもそも無駄である。そして、ついでに言うと読書によって仕入れる知識はとても危険であり、本当は賢くなっていないのに、なんだか賢くなった気がするという読書の逆効用を常に気をつけていないといけない。本当に知識が欲しいなら、かなり心して体系的な読書を心がけないと、生兵法は怪我の元で、読まない方がマシだったということになりかねない。

そして、もっと心してかかるべきなのは、読書は知性を彫琢するという思い込みである。読書家には知的な人が多い。これは確かである。だからと言って誤解してはならないのは、人はなかなか読書だけでは知的になることはできないということだ。それどころか、読書は時として人を高慢にし、悟ったような気持ちにさせ、中庸を見失いがちになり、その割に人を怯懦にさえさせる。このあたりは、中島 敦が『山月記』に余すところなく描いている通りである。もちろんあの話は読書に限った話ではないが、読書には李徴を虎に変身させたのと同じ力が秘められている。

本当に知識が欲しいなら、読書よりも誰かについて勉強するほうが確かだし、知性を陶冶したいなら読書はむしろ危険でさえある。人を真の意味で知的にするものは行動と経験だけで、読書はそれに添えられたスパイス的な働きをするに過ぎない。要するに、知的なものを求めて行う読書というのはあまり意味がない。私は、長く「読書など知識人にとってのパチンコである」と思っていた。パチンコは低俗なもので、読書は高尚なものだ、というのは思い込みである。

だからといって私が読書を敵視しているかというと、もちろんそんなことはない。それどころか、読書はすごく好きである。いや、正直に言えば、本がない生活というのは、(今までそんなことがなかったので想像だが)耐えられない。

でも、「読書って素晴らしいよね!」という屈託ない思いで読書に向き合うことができないというのが私のような中途半端な知識人の悲しいところで、いつも「本なんか読んですいません」という気持ちで読書している。それあたかも、こっそりとパチンコに行くオヤジさんのような気持ちである。 読書なんて無駄な活動をして申し訳ない! ほとんど収入もないというのに!

それはさておき、そういう考えでいくと、積ん読は無駄でもなんでもない。むしろ読書に費やされたかもしれない時間で何か他の活動をしているわけだから、無駄の削減でさえある。だいたい超人的な博覧強記でもない限り、読書内容の99.9%は忘れる。しばしばその本を読んだのかどうかさえ忘れる。積ん読は、そういう99.9%を削減する素晴らしい方策である。…というのはジョークだが、積ん読を悪びれる必要は全然ないのだ。

それに、どの本を購入するかということを、自分の取捨選択だと考えているうちはまだ読書の高慢さに捕らわれていると思った方がよい。本当のところは、本の方があなたを選ぶのである。例えば、それは捨て猫に出会ってやむなくそれを家に連れて帰るようなもので、実際には購入者の方には選択肢があんまりない。その本と目があってしまったら、それはその本があなたを選んだということで、その本を読みたいかどうかということはさておいて、とりあえず家の本棚という居心地のよいところで、その本を休ませてあげなくてはならない。撫でたり眺めたりした後で、読みたくなったら読めばよいし、そうでもなかったら遠慮なく積ん読しておいたらよい。あなたは今やその本の保護者である。

本が溢れている現在はそういう気持ちでいる人が少ないが、本が超貴重品だった前近代社会においては、本は所有するものでなく保護するものだったと私は思う。でも今でも、本というものはちゃんと保護していないと意外とすぐに死に絶えてしまうもので、本は常に絶滅危惧種である。特にいい本こそ生命力は弱いので、見かけた時に買っておかないと、次はない、という場合だって一度や二度ではないのである。

読む暇も 知力もなくても よい本は、積ん読してでも 家に置くべし(短歌)。

ということなのだ。そういう考えの私であるから、「積ん読ナイト」は大変興味深いイベントだった。といっても、もちろんそれは「積ん読最高!」というようなひねたイベントではなく、その中身はごく健全なもので、私のような毒気がある人もおらず(たぶん)、私自身が読書に対して改めて清新な考えで向き合うきっかけになったと思う。

思えば、ド田舎に移住してきてから、私の読書に対するスタンスも少しずつ変わってきた気がする。

「読書など知識人にとってのパチンコである」というのも、未だにそういう思いはあるが、それは、そもそも読書の主体に「知識人」しか想定していない狭量な考えであったと反省する。読書は万人に開かれたものであるし、読書は単なるエンタメに過ぎないとしても、その楽しみを追求することに罪悪感を覚える必要はないのだろう。

そういう心境の変化があって、「海の見える美術館で珈琲を飲む会」にも古本屋を呼ぶことになったと(今になってみれば)思うし、このタイミングで「積ん読ナイト」という本のイベントに参加できたことはよかった。これから少し、本についても前向きに人生に取り込んでいこうと思う。

蛇足。ちなみに私が持参したとっておきの積ん読本3冊は次の通り。なぜこれらが積ん読になっているのかは秘密です。