2024年3月26日火曜日

海は「みんなのもの」。洋上風力発電事業の利害関係者とは…

吹上浜に巨大な風車を100基以上建てるという、吹上浜沖の洋上風力発電事業について、2024年9月の南さつま市議会(令和5年第3回定例会)で、計画縮小が明らかになった。

本坊市長の答弁をまとめると次の2点になる。

  • 6月下旬、事業者から県・市に対し、南さつま市海域での事業計画を凍結する旨の連絡があった。
  • よって、本市は当該事業の協議会構成員から外れた。

計画の縮小は喜ばしいが、気になったのは「南さつま市海域」という表現である。というのは、海は全て国の管轄であり、「南さつま市海域」なる概念は行政に存在しない

では、事業者(インフラックスという業者)が言っている「南さつま市海域」とは何なのか。いくら考えても分からないので、県の情報公開制度を使って事業者から提出された計画変更資料を取り寄せてみた。それが冒頭の画像である(提出された資料をトリミングして作成)。

これを見て、事業者の考える「南さつま市海域」は一発で分かった。

それは、変更前事業の区域にある「加世田漁協」「笠沙漁協」「県漁協南さつま支所」の範囲を指していたのである。そしてこの資料により、洋上風力発電事業を進める上で、いかに漁協の存在感が大きいかも再認識させられた。

そもそも、洋上風力事業は、国がある海域を「促進区域」として指定しなくてはスタートできないが、国がその指定を行うにあたって、利害関係者との調整を行うために設けるのが「協議会」という組織である。そして漁協は、この「協議会」の重要なメンバーになる。基本的には、漁協が反対していたら事業は進まない、と考えてよい。 

よって、事業者側としても漁協を味方につけるためにいろいろと工夫しており、それによって各地の漁協から「洋上風力発電事業に賛成」といった陳情がなされていることも周知の通りである。吹上浜沖の洋上風力事業については、私の知るところ、沿岸の漁協は概ね賛成している状況である。

そんな中、(明確に反対の意思表示はしていないが)賛成していないのが「笠沙漁協」だ。

もし、「笠沙漁協」が協議会に参加して、いつまでも賛成しなかったら、その事業を進める事は極めて難しい。冒頭の資料で「笠沙漁協」「県漁協南さつま支所」が赤くなっているが、もしかしたら、これは両漁協が洋上風力発電に賛成していないことを示しているのかもしれない。

そして、おそらくそれが事業者が「南さつま市海域」での事業計画を凍結した理由の一つなのだ。

また、凍結の理由としてもう一つ考えられるのが、「南さつま市海域」では他の事業者が洋上風力発電事業を計画していないことだ。

この図は、2023年5月19日の南日本新聞の記事「薩摩半島西方沖 洋上風力発電計画 沿岸5市対応割れる」に掲載されていた図である。

吹上浜沖も含め、現在3つの事業者が薩摩半島西方沖で洋上風力発電事業を計画しているが、日置市・南さつま市沖についてはインフラックス社のみがその事業想定海域としている。

県・国としては、風力発電事業の需要の高い海域を「促進区域」に指定するわけだが、この図を見ても分かる通り、薩摩川内市沖やいちき串木野市沖は2事業者の計画区域が重なっているから需要が高い。逆に南さつま市沖は1事業者のみなので、需要は低いということになる。

だから、インフラックス社としては、漁協の賛成が得られていないこと、他の事業者の計画がなく需要が低いと県から見られていることを踏まえ、計画を縮小したのだろう。

ところで、いちき串木野市沖は3事業者全てが計画区域としていて、この中では最も需要が高い海域となっている。

しかも、いちき串木野市はこれら周辺の自治体の中で、唯一(といってもいいと思う)、洋上風力発電に極めて前向きである。

いちき串木野市は2021年から風力発電の勉強会のような独自の協議会を立ち上げており、2023年度も「いちき串木野市洋上風力発電調査研究協議会」を立ち上げている(上述の「協議会」とは全く別)。これらの取り組みからは、はっきりと「洋上風力発電を誘致したい」という方向性が感じられる。

さらに、本日(2024年3月26日)の南日本新聞によれば、県の洋上風力発電に関する研究会で、同市から「いちき串木野市沖に絞った海域」で国に情報提供する案が提案されたという。この「情報提供」を行うことで、国は「促進区域」に指定するかどうかの検討を開始することになっているので、これはいわば、事業計画スタートの提案である。

もちろん、いちき串木野市が洋上風力発電を誘致したいのなら、他の自治体にいる人間(私)がとやかくいうようなことではないのかもしれない。

だが、「南さつま市海域」がないように、「いちき串木野市海域」もない。海はあくまでも「みんなのもの」(国の管轄)である。いちき串木野市が推進しているからといって、他の自治体や他市の住民を「利害関係者」から除外して進めることになると、ちょっとおかしいと思う。

そもそも、先ほどの「県の洋上風力発電に関する研究会」自体が半ば秘密裡に行われているような会で、これについては「関係者のみで進めましょう」という旧来の密室政治的な臭いを感じる。協議会が非公開になるのはわかるとして、その準備段階の研究会すら公開しないというのは解せない。県のやり方は県民の疑心暗鬼を招くものだ。

ところで、「促進区域」の指定にあたって「協議会」を設置すると先ほど書いたが、実はその前段階として「有望区選定」を行うというステップがある。そしてこの「有望区選定」の条件の一つが、「利害関係者を特定し、協議会開始の同意を得ていること」なのである。つまり、洋上風力発電事業がスタートするにあたっては、最初に「利害関係者」を特定する作業が必要となる。

逆に言えば、この「利害関係者」に入らなければ、いくら反対しても聞いてもらえない、ということだ。 もしいちき串木野市沖で洋上風力発電事業が行われるとしても、日置市や南さつま市といった関係自治体の関係者も含めた協議会で合意を得て進めるのであれば、まだ納得できる。しかし、今のところ、直接の利害関係者(自治体、漁協)に限って協議会を構成しようという方針のようだ。

その意味で気になるのが、冒頭の市長答弁の「よって、本市は当該事業の協議会構成員から外れた」という部分だ。計画後の事業区域も、金峰町の海岸の近傍であり、もちろん笠沙や大浦からも洋上風車がバッチリ見えることになる。にもかかわらず南さつま市が協議会に参画できないというのはどういうわけなのだろう。直接ではないかもしれないが、南さつま市民も利害関係者ではないのか。

繰り返すが、海は「みんなのもの」である。なるべく開かれた形で議論し、公明正大に事業を進めてもらいたい。

2024年3月20日水曜日

鹿児島市は、スタジアムに血道を上げるのは大概にして、市民生活に向き合ってください

鹿児島市のスタジアムの建設予定地として、北埠頭案が棄却された。

北埠頭も、ドルフィンポートと同様に無理な案なのは最初からわかりきったことだったが、県から引導を渡される形で、ようやく否決された格好だ。

この、スタジアムをめぐる鹿児島市(下鶴市長)のやり方は、なんだか地に足が付いていない感じがして仕方がない。

今回は、それに関係があるような、ないような話である。

さて、私は、今の鹿児島市宮之浦町の出身である。合併前は吉田町と言った。実家は薩摩吉田インターの近くで、小学校は「宮小学校」だ。

私の両親は、今もそこに健在なのだが、そこで困っていることがあるという。

それは、校区コミュニティセンターの出入り口と駐車場の問題である。

鹿児島市では、公民館を小学校区毎に整備することとし、宮小学校の近くに「宮校区コミュニティセンター」が建設された。現在、ここでは放課後児童クラブ(いわゆる学童)が行われており、私の母もその事務を手伝っている。

鹿児島市が校区コミュニティセンターを作ってくれたのは有り難いが、問題は、ここが非常に使いづらい土地の形であることだ。

https://maps.app.goo.gl/YHgr5kWXnSsnFVBQ9

具体的には冒頭の地図を見ていただければと思うが(コミュニティセンターは灰色屋根の建物)、改修前の旧県道のカーブした部分が県有地として残されており(赤線で囲った部分)、土地が現県道と変な形で接続しているのである。しかもこの赤線部分は、周りから一段盛り上がる形になっていて、今はなんとか駐車場として使ってはいるものの、非常に出入りがしづらい構造である。

それに、知っている人はわかると思うが、県道16号(鹿児島吉田線)は、結構交通量が多く、しかもここは坂になっているので、下りはかなりのスピードを出す人がいる。しかもちょうどここが微妙にカーブしているため見通しが悪く、この使いづらい駐車場に出入りするのは危険である。特に、学童のお迎えの時間がラッシュ時なのでなおさらだ。

そこで、ここの利用者からは、赤線部分の県有地を市に購入してもらって、平坦な駐車場(というか車の旋回地)にしてほしいという要望が出されている。県としては、当然使い道のない土地なので、かなり低価格で市に売却したい意向があることも確認済みだ。

ところが! 鹿児島市は、ここを駐車場にするつもりはないという。「現在、鹿児島市としては新たに土地を購入することはしない方針」というのが理由だそうだ。

そんなまさか! 北埠頭の土地を何十億円かで購入することを検討していた市がいうセリフとはとても思えないではないか。

スタジアムが必要ないとは言わない。

しかし、こういうところこそ、市民生活に直結するもので、お金を使うべきだと私は思う。金額も、スタジアムに比べれば100分の1も必要ない。もちろん、ここの駐車場問題とスタジアムは無関係だ。だが私には、鹿児島市がこういう問題に向き合わないことと、スタジアムのようなパフォーマンス的ハコモノにばかり注力していることは、地に足が付いていないという点で共通の態度を感じる。

古代ローマでは、緊縮財政をとりながら、それに不満を抱く市民に娯楽を提供するために豪華なコロッセオが造られた。もしかしたら、鹿児島市のスタジアムもそれと同じなのではないだろうか。鹿児島市は、市民生活に向き合うのではなく、市民の目を誤魔化そうとしているのではないか。

こういう、地味な市民生活の問題を一つひとつ解決することで、スタジアムをどうすべきかも見えてくるのではないかと、そう思っている。

2024年2月4日日曜日

南さつま市3中学校の再編の進め方は詭弁だらけ

アンケート調査結果 より
 

1月31日の南日本新聞に、「3中学校の再編、中学生・保護者の5割は「やむを得ない」」という記事が報じられた。

現在南さつま市では、加世田中・万世中・大笠中の3校の再編について在り方検討委員会で議論しており、当該検討委員会で報告された地域住民・中学生・保護者へのアンケート結果を報じたものである。

記事内容は、

  • 委員会でアンケート結果が報告された。
  • 学校再編について、中学生・保護者は「現状でやむを得ない」50.0%、地域住民は「積極的に行うべき」43.9%がそれぞれ最も高かった。
  • 「現状でやむを得ない」と「積極的に行うべき」の数値を合わせて学校再編を許容する割合とすると、住民・中学生・保護者の多くが再編を許容していることになる。
  • ただし委員からは「現状でやむを得ない」を「許容」とみなすことに、慎重な取り扱いを求める意見があった。

とまとめられる。

【参考】3中学校の再編、生徒・保護者の5割は「やむを得ない」 南さつま|南日本新聞
https://373news.com/_news/storyid/189343/

しかしながら、このアンケート結果の分析は、学校再編を進めたい市教委の詭弁であり信頼に値しない。

なぜなら、市が行ったアンケートでは、この項目はこういう聞き方なのだ。

令和5年度に、望ましい学校規模に該当する学校は、加世田中学校の1校のみです。適正規模にするためには、学校再編を含めた適正配置について検討する必要があります。あなたは学校再編についてどう思いますか。

1.積極的に行うべき
2.現状でやむを得ない
3.できるだけ行わない方がよい
4.行うべきではない

これは、「現在の中学校は望ましい学校規模には達していないが学校再編をすべきか」という問いであり、これに対して「現状でやむを得ない」と答えた人は、「望ましい学校規模ではないと思うが現状維持でよい」という意味で回答したはずである。

にもかかわらず、報道を見る限りこれが「学校再編はやむをえない」と変換されており、明らかにアンケート結果を捻じ曲げている。記事でも「委員からは「現状でやむを得ない」を「許容」とみなすことに、慎重な取り扱いを求める意見があった」とされているが当然だ。

そもそも、このアンケート自体が、3校の学校再編についての意向を確認するものとしては機能していないと私は思う。

というのは、このアンケートの問いは、一般論として学校の望ましい規模がどうであるか、一般論として学校再編をすべきかを聞いたものであり、3校の合併について多少なりとも具体性を持って聞いているものではないからだ。

例えば、加世田中・万世中・大笠中の合併を行うとすると、通学時間を考慮すれば合併後の学校は学区の中心になる小湊あたりに建設するのが妥当である。だが「3校を合併して小湊に中学校を作ります」という案を示したとすれば、加世田中学区の人たちは大反対するに違いない。「なんでうちらが小湊まで通わないといけないだ!」となるに決まっている。

加世田中学区の人々が合併に賛成するのは、学校の立地は加世田しかないないと思っているからなのだ(実際にはそうなる可能性が99%だし)。ともかく、学校の立地だけでも、賛成反対は大きく異なるのが学校再編の常である。学校再編の姿を示さずに一般論だけで賛否を問うのにどれだけ意味があるか。

だいたい、一般論として「望ましい学校規模はどれくらいだと思いますか」と聞けば、大笠中なんか「小さすぎる」となるに決まっている。地域住民や保護者としても、「いつかは合併になるだろうな」とは思っている。しかし「自分たちの子どもや近所の子どもたちが卒業するまではなくなってほしくない。そんなに遠い話ではないんだし」というのが素直な気持ちだろう。アンケートでは、あくまでも一般論を聞いているため、こういう素直な気持ちがなかなか現れない。

それにこのアンケートは、やり方にも問題があったと思う。というのは、生徒・保護者向けのアンケートは、学校でプリントが配られ、そこからQRコードでフォームに飛ぶ形で行われたが、生徒用・保護者用のフォームがそれぞれあったのではなく、「保護者の方と一緒にお考えください」としていたのである。つまり回答の主体は保護者ではなく生徒なのである。

このアンケートの回答率は生徒・保護者向けでも回答率が35%ほどしかなく妙に低いが、それは回答の主体を生徒にしたことが原因だと思う。ついでに言えば、部活や勉強で忙しく思春期でもある中学生に「親と一緒に回答してください」とすれば、さらに回答率は低くなるのは明白だ。

私は、これは生徒用・保護者用に分けてアンケートすべきだったと思う。なぜなら、現に今中学校に通っている生徒にとって再編は切実な問題ではなく(実際の再編は卒業後の話になるから)、特に対象の多数派を占める加世田中の生徒にとってはたいした問題と感じられないからだ。適切な学校規模についても、自分の娘(中2)に聞いてみたところ「大笠中しか通ったことないんだから、これがちょうどいいと思っていたけど、改めて聞かれるとよくわからない」と言っていた。それが中学生の実感だと思う。

少なくとも、今回のアンケートで保護者の考えが明確になったということはなく、わかったのは「中学生の考える一般論」くらいのことだと私は思う。

また、今回のアンケートで私が一番気になったのは、最後の「ご意見ありましたら自由にお書きください。」という自由記述欄である。私はここにいろいろ意見を書きたかったのだが、なんとフォームでの字数制限がたったの100字しかなかったのである! 100字って…Twitterより少ないわけで、これでは「意見はできるだけ聞きたくない」と言っているに等しい。これで「自由にご意見を」と言ったり、「みなさまの意見を聞いて進めます」と言ったりするのは、本当に詭弁だ。

南さつま市では数年前、金峰学園の設立(金峰中学校、阿多小学校、田布施小学校の合併により生まれた)にあたってずいぶんゴタゴタがあったのは記憶に新しい。

記憶に新しいどころか、金峰町には「市教委のウソにだまされて地域の宝阿多小を失った」とか「ウソから始まった金峰学園」などと書かれた抗議の看板が今でも建てられている。私自身は、こうした看板は金峰学園に通う生徒から見るとあまり気持ちの良いものではないとは思うが、地域住民との対話を置き去りにして強引に合併を進めた結果であり、こういう看板を立てたくなる気持ちはよくわかる。

市教委はこうした結果を招いたことを真摯に反省し、まずは学校再編によらずに現在の学校体系で子どもたちに好適な教育環境を提供することを工夫すべきだ。そしてそれがどうしてもままならない場合に学校再編を検討し、仮に学校再編をするとしても、強引な手法ではなく、児童生徒・保護者・地域住民との対話を主体として進めてほしい。当然ながら、市教委が定めたスケジュールに沿って進めるような結論ありきのやり方は絶対にしてはならない。

以前も書いたことがあるが、私は中学校の再編自体には絶対反対ではない。なぜなら、中学生くらいからは競い合いや多様性が成長には重要だと思っているからである。小規模校では、ライバルも不足しがちで、気の合う友達がみつからないことも多い。やっぱり中学校は1校あたり90人くらいはいた方がいい。

だが、子どもたちに好適な教育環境を提供しようという話でなく、財政論や機械的な学校規模の話で学校再編をしようというのは反対である。こういう場合は、ただ学校規模が変わるだけで、教育環境の向上につながらないことがほとんどだし、そもそも最初から結論が決まっているから(=地域住民は置き去り)、というのも反対の理由の一つである。

実際、今回の「在り方検討委員会」でも、会議の初回に示されたスケジュールで、すでに結論を出す時期や地域住民の意向を確認する時期などが示されていた。こういうのを腹案として持つのはよいが、対話をしようという気があれば出さない資料である。

資料1 第1回南さつま市中学校在り方検討委員会会議資料 より

 加世田中・万世中・大笠中の再編が、金峰学園の二の舞にならないように、市教委には一度立ち止まり、今の進め方が適切なのか反省していただきたい。

【参考】大笠中学校の統廃合には絶対に反対 |南薩日乗
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2023/09/blog-post.html

2023年10月29日日曜日

敗北の日

10月26日、鹿児島県議会(臨時会)は、県民投票条例案を否決した。

条例案の否決後、各会派への挨拶回りを行った塩田知事は、自民党議員とグータッチした。自民党と共同して条例案を否決できたことに安堵したグータッチだっただろう。今回の勝者は、塩田知事と自民党だった。

また、決められた手続きに沿って審査中の川内原発は、20年の運転延長が決定される見込である。反原発の市民運動は、またしても敗北した。

こう書くと、私も反原発の立場だと思う人がいるだろうが、このブログでは度々書いてきたように、私は原発絶対反対ではない。長期的には脱原発すべきだと思うが、「原発をいますぐ停止しろ」とは思わないし、20年運転延長も、絶対反対というよりは、むしろ「20年延長するくらいなら原発を新設した方が安全では?」と思っていたりして、条例制定を求めた市民グループの方とはだいぶ考えに開きがある。ただ、日本人は原発からは足を洗った方がいいとは思っている。

県議会では、知事も自民党も「県民投票では多様な意見を反映するのは難しい」と難色を示していたが(県民投票はそもそも知事が言い出したことなのだが、それは置いといて)、確かに原発には多様な意見がある。だが、これまでの県政でそういう「多様な意見」を県民に聞くことがあったか。運転延長に対する私の意見は、○×だけじゃない「多様な意見」にあたると思うので、聞きたければ言ってあげるのだが。

また、「多様な意見が反映できないから県民投票はよくない」という論理もよくわからない。いくら多様な意見があっても、結局は20年運転延長するのかどうか、という二択ではないのか。多様な意見を聞こうともせずに、二択を否定したのは論理破綻だ。これはほんの一例で、全体的に県の答弁は、その場しのぎの詭弁ばかりで、4万6112筆の市民の署名に誠実に向き合ったものとは言えなかった。

そもそも、これは反原発の署名ではない。もちろん、これを集めた団体は反原発のために行ったのだが、署名の性質はそうではない。この署名は「大事なことを決めるのに、市民の意見も聞いて下さい」というものだった。私自身、署名をちょっとだけ集めたが、その際には「これは反原発じゃないんですよ。県民の声も聞いてね、っていう署名なんですよ」と説明した。 だからこそ、これまでの反原発活動ではなかったような、大きな広がりがあり、多くの署名が集まったのだと私は思っている。

実際、県議会でも原発の安全性などについては質問しないように、ということになっていた。県議会で審議したのは、反原発なのか、原発推進なのか、ということではなくて、4万6112筆の市民の署名にどう応えるか、ということだったはずだ。

だが、民会派の山田国治委員は「原子力政策は国策。国が責任を持って判断すべきだ」と延べ、県側も「国策」を強調した。「国策だから県民の意見を聞く必要はない」だなんて、ずいぶん乱暴な話で、「国策だったら、県民どころじゃなく国民の意見を聞く必要があるんじゃないの?」と私は思う。どうやら県や自民党は、「国」というものを、国民を統治する王様か何かのように思っているらしいが、実は日本は一応「国民主権」ということになっていて、我々の方が主権者なのである。

それなのに、塩田知事は臨時会冒頭、県民投票は「慎重に判断すべきだ」と述べている。これなどは、意味がわからない。川内原発20年運転延長を「慎重に判断すべき」だから県民投票をしよう、ならわかるが、どうして県民の意見を聞くのに慎重でなければならないのか。「国民主権」「県民主権」なのだから、むしろ県民の意見を聞かないと先へ進めないくらいだと私は思う。

そもそも、塩田知事は県知事選で勝利したからこそ県政を担っているのだから、県民の意思は塩田知事の権力の源泉である。塩田知事は国に知事にしてもらったのではなく、県民に知事にしてもらったのである。

にもかかわらず、今回、塩田知事は県民の方を向かず、常に「国」の方を向いていたように見えた。「国策」である原発政策に異議申し立てをしては、自分のキャリアの汚点になるとでも思ったのだろうか。 

だいたい、塩田知事自身も言っていたが、原発の運転延長を止める権利は県知事にはない。仮に県民投票をして運転延長にノーが突きつけられたとしても、「県民の意思はこうです」と国や九電に述べるだけで、それに応じて相手(国・九電)がどう対応するかは県のあずかり知らぬところである。つまりある意味、原発政策に対しては県は責任を負わなくてよい、という立場にある。塩田知事は、県民の側に立てたはずだ。

にも関わらず、塩田知事は、民意が示されることを怖れていたように見える。「もし、県民投票を実施して、運転延長が反対多数になったらどうしよう」と不安に駆られていたのではないか。 賛成多数を予想していたとしたら、投票を行うことに何の躊躇もないからだ(あるとすれば、運転延長のスケジュールがずれることと県民投票の費用くらい)。

臨時会閉会後のグータッチは、民意が示されることを阻止したグータッチでもあった。でも、一応民主主義を掲げているこの国で、民意が示されることを阻止したことを喜ぶとは、いったいどういうことなのだろう。4万6112筆もの市民の署名によって請求したことを棄却したことに、一切の遺憾の意も表明されないとは、いったいどういうことなのだろう。

実は、私が「日本人は原発からは足を洗った方がいい」と思うのは、原発にはこういうところがあるからなのだ。日本の民主制は、原発のような難しい問題を扱えるほどは成熟していない、というのが私の実感である。原発の技術的な困難(災害への弱さや廃棄物の処理)は、技術的に克服することが可能だ、と元来は工学系の私は信じている。しかし原発という巨大な利害が対立するプロジェクトを真に民主的に運営していくことは、今の日本人には不可能だと感じる。一言でいって、「原発は日本人にはまだ早い」のだ。

今回の県民投票条例の否決は、まさにその一例になった。「大事なことを決めるのに、市民の意見も聞いて下さい」という、民主社会ではごく当然の要求を突っぱねなければ進められないのが原発なのだとしたら、そんなものはいらないのだ

だが同時に、今回の否決は、ある意味では民意というものの強力さをまざまざと見せつける結果にもなった。塩田知事も自民党も、「もし民意が示されたらどうしよう」という怖れを抱いていた。彼らは、国策とは違う民意が示された場合に、自分たちの立場がどうしようもなくなることをわかっていたのだ。彼らは、自分たちが民意に反しているかもしれないことを、図らずも露呈していた。まだ示されてもいない民意に、怯えていた。

そういう意味では、民意というものに、対峙する前から敗北していたのは塩田知事であり、自民党であった。彼らは、民意を味方につけるのではなく、無視することを選び、だからこそ民意を怖れた。

まだ示されていない民意でも、これだけの力がある。

もし、民意というものが、はっきり示されたら、どれだけの力があるのだろう。脱原発なんて簡単かもしれない。

とはいえ、今の鹿児島県の民意が脱原発にあるとは、私は全然思わない。それどころか、無関心による消極的支持も含め、私の肌感覚では6割の県民は原発を支持している。はっきりと反原発の考えを持っている人は1割以下、5%程度だと私は思う。実際、天文館で反原発を主張してきた市民グループは、以前は残念ながら多くの人に無視されていた(と思う)が、そんな中でも粘り強く民意の形成に取り組んできたことが今回の結果に繋がった。

つまり、消極的であれ多数派が原発を支持している状況でも、塩田知事は民意を怖れたのである。民意は、とてつもなく強大だ。鹿児島県民が、その強大な力をいつかはっきりと示す日が、きっと来ると信じている。

2023年10月20日金曜日

後戻りできなくなる決定が、今この瞬間にも行われているのかもしれない

すったもんだの末、鹿児島県の新体育館(スポーツ・コンベンションセンター)は、ドルフィンポート(DP)跡地に作られることになった。

「あれは何だったんだ?」と思ったのは、今年の2月~4月に募集された「本港区利活用エリアのアイディア募集」。これには234件もの応募があり、うち7件はプレゼンまで行われた。

【参考】鹿児島港本港区エリアの利活用に係る検討委員会 > 第4回検討委員会(プレゼン資料が掲載されています)
https://www.pref.kagoshima.jp/ah15/kentouiinkai4.html

この集まったアイディアはどう活用されるのだろうか、と思っていたら、一応ゾーニングの素案に生かされたことになってはいるが、本港区エリアの利活用について大きな影響を与えることはなかった、と思う。まあ、「今後の参考」との位置づけだ。

プレゼンされたアイデアには、かなりの手間をかけて練った構想も見受けられた。プレゼンの当事者も、こんなに軽い扱いになるとはびっくりだったのではないだろうか。とはいえ、県がアイディアを軽くあしらったわけではなく、わざわざ検討委員会に幹事会を設けていろいろと議論してはいる。

しかしながら、結局のところ、このアイディア募集は遅すぎた。なにしろ、ドルフィンポート跡地に新体育館を造ることを決定した後で行ったものだからだ。むしろ、この段階ではアイディア募集などしないほうがよかった、と私は思っている。なぜなら、意見やプレゼンは、せいぜい「いいとこどり(委員のコメント)」されるのが関の山だったからだ。

当然に、この意見募集やプレゼンの後の県の対応は評判が悪く、「何のためにわざわざ意見募集したんだよ」という声がたくさん聞かれた。鹿児島市のスタジアム構想(アイディア募集後、いろいろあってDP跡地へのスタジアム建設は事実上断念した)との齟齬もあり、「塩田知事がどんな体育館をつくりたいのか全然わからない」とか、「リーダーシップがない」といった、塩田県政への批判も惹起した。

とはいえ、これではちょっと塩田知事が可哀想な気もする。というのは、これまでの新体育館の検討が混乱し収拾がつかなくなっていたのは、歴代の鹿児島県知事が「新体育館をどこに造るかは俺が決める」みたいな態度であったことが大きな原因で、塩田知事の場合は同じ轍を踏まぬようかなり気を付けてきた(ように見える)。

新体育館の建設場所の検討を始める際にも、「場所ありきではない」ことが強調され、新体育館に必要な機能、規模・構成等をまず議論した上で決めようとした。そしてその検討委員会(総合体育館基本構想検討委員会)も、公開の下で行われ、これまでの鹿児島の密室政治とは一線を画した。

塩田知事はこうした検討が行われている中でも、「自分としてはここがいいと思う」みたいな軽はずみな発言は一切せず、「検討委員会の出した結論を尊重する」との態度を貫いてきた。検討委員会で本当に自由闊達な議論が行われたかどうかは疑問だが(傍聴した人の話ではいわゆる「シャンシャン委員会」だったそうだが私は見ていない)、それでも形式的には民主的な議論の結果、最終的には点数方式でDP跡地が選ばれた。

その後、整備の基本構想が取りまとめられ、パブリックコメントを経て、県議会は新体育館の整備を了承した。鹿児島県が作る箱モノで、ここまで民主的な手順を踏んで建設を決定したのは初めてのことで、画期的なことだと思う。

こうして新体育館(スポーツ・コンベンションセンター)の立地は決定した。だから、いくら「本港区利活用エリアのアイディア」にいいものがあったとしても、それに応じて基本構想が揺らぐはずもない。というか、揺らいだら民主制の否定になる。

「塩田知事がどんな体育館をつくりたいのか全然わからない」とか、「リーダーシップがない」という批判の裏には、知事は県民の意見を聞いて、それまでの議論をひっくり返してほしい、というそこはかとない願望があると思う。もし、塩田知事が今になって「やっぱりDP跡地に建てるのは辞めます!」と言ったら、一部の人は「リーダーシップを発揮した!」と喝采するに違いないが、民主的手続きによって行われた決定を知事の一存で白紙にするのは、民主的というより実際には独裁的だ。

そもそも、民主制は非常に手間がかかる。手順を追って物事を決定しなければならないし、その手順を踏んでいる間に社会の事情が変わってきても、「状況が変わったのでやっぱり変えます」とは言いにくい。要するにスピード感に欠ける。それに、代議制民主制の場合は利害団体の意見が強く反映されるという特徴があって、一般市民の感覚とは乖離しがちなことも短所である。

だから民主制の社会に生きる一般市民は、つい独裁的なものを望んでしまうことになる。独裁者は、なんでもスパッと決定し、一般市民の気持ちを代弁してくれる(ように感じる)からだ。今、維新の会が急速に国政での存在感を増しているのは、はっきりと独裁的な性格を持っているからだと私には思われる。

第2次世界大戦の前に、ナチスドイツが全権委任法によって一党独裁になっていったのは、完全に民主的な手続きによるものだった。彼らは、「ユダヤ人は気に食わない」という「一般市民」の気持ちに寄り添うことで独裁的権力を得た。ところがひとたび独裁制が確立してしまえば、およそ民主的な社会ではありえないような決定が下された。

話が逸れたが、新体育館のことで塩田知事がリーダーシップを発揮せず、何を考えているのかわからないような対応に終始しているのは、民主的な手続きを尊重するという態度の裏返しだろう(ただし、塩田知事は万事がこの調子なので、物足りないのは確かだ)。

そして、はっきり言えば、新体育館の立地についていまさら意見を言っても遅い。これまでに書いた通り民主的な手続きによって決定したことだからだ。「じゃあ、いつ意見を言えばよかったんだよ?」と人はいうだろう。私は、総合体育館基本構想検討委員会が、点数方式での立地比較を行うことを検討・決定した2021年11月あたりが山場だったと思う。

というのは、この比較項目に、当初からDP跡について懸念されていた「景観」が全く入っていなかったのである。これは意図的に外したとしか思えないが、不思議と誰も問題視しなかった。

【参考】第5回総合体育館基本構想検討委員会(2021年11月16日開催)
https://www.pref.kagoshima.jp/ac12/dai5kaihaihusiryou.html

そして、実はこの時あたりまで、新体育館の県民の関心は極めて低かった。もしかしたら「検討委員会がよか風にまとめてくれるに違いない」という安心感があったのかもしれない。結局、さほど議論はないままに、点数方式での立地比較によってDP跡に決定した。

2022年1月12日付の南日本新聞の記事「ドルフィン跡決定」の記事でも、検討委員の一人が「県民の関心が少ない感じ」と述べている。

県ではDP跡に決定する直前の2021年12月17日からスポーツ・コンベンションセンターに係る意見募集を行っていたが、これにもほとんど意見が寄せられていなかった(確か新聞報道では、20人が意見提出と伝えられた)。

ところが、この決定後に潮目が変わる。

このあたりを境に、いろんな人が、急にDP跡では問題があるとSNS等で発言するようになったような気がする。やっぱり一番大きかったのは景観の問題で、憩いの場であるウォーターフロントパークの芝生を残してほしいといった要望も多かった。突如県民の声が高まったことを受け、県では当初1月14日までとしていた意見募集の期間を1週間延長。これによって最終的には234人が意見を提出した。

私の見るところ、新体育館に関して民主的な手続きを軽視していたのはこの意見募集の一点である。というのは、意見募集している最中に委員会がDP跡に立地を決定したからである。意見募集の結果を反映した上で決定すべきであったのに、あろうことか意見募集中に決定をしてしまった。これでは何のために意見募集したのかわからない。アリバイ的な意見募集といわれても仕方ないと思う。新体育館の検討において、ここが最大の瑕疵である。

とはいえ、それ以外の点においては、それなりに民主的な手続きが踏まれた。こうして新体育館のDP跡への建設が決まっていったのである。

話が急に変わるようだが、太平洋戦争の記録を読んでいると「いつの間にか戦争が始まっていた」という記述に出くわすことがある。これはちょっと無責任な言葉のようにも思えるが、新体育館の建設についても、多くの県民にとって「いつの間にか決まっていた」ように感じられるのではないか。

先ほども書いたように、民主制は手間がかかり、一度民主的な手続きによって決定したことは権力者といえども簡単には覆せない。逆に言えば、一般市民の総意とはかかわりなく、その手続きが踏まれていくとすれば、いつの間にか引き返せないところまで進んでしまう。仮に多くの人が反対したとしても、もう遅い、という状況は容易に想像される。

新体育館についても、県民が2021年11月頃に声を挙げていれば、違った結論になっていただろうと私は思う。もちろんこれは後知恵だ。それに、その後に沸き起こった県民の声も決して無駄なものではなく、新体育館や本港区の将来によい影響を与えたと思う。だが、多くの声があったにも関わらず決定が覆らなかったのも事実だ(それに業界団体は概ねDP跡を支持していた)。

少し空恐ろしく感じるのは、そういう、後戻りできなくなる決定が、いろんなところで、今この瞬間にも行われているかもしれないという可能性についてである。いや、今この瞬間どころか、ずいぶん前に我々は後戻りできない道を選んでいるのかもしれない。そういう状況を避けるためには、国民が社会について関心を持ち続けること以外にはないだろうと私は思う。

「国民の関心が少ない感じ」と言われて重要な決定がなされ、威勢のいい独裁者に権力を与え、「いつの間にか戦争が始まっていた」とならないようにしたい。もうその時には、いくら反対を叫んでも遅いのだ。「民主的」に決定した事項は、簡単には覆らないのだから。


※現在、「鹿児島港本港区エリア景観形成ガイドライン(素案)」に関するパブリック・コメントが行われています(2023年10月6日~11月6日)。DP跡からの桜島の景観が気になる方は意見を出されたらよいと思います。
https://www.pref.kagoshima.jp/ah09/keikandezainkaigi/keikandezainkaigi1.html


2023年9月21日木曜日

指宿枕崎線の「悪あがき」

「JR指宿枕崎線を活かしたまちづくりプロジェクト」というものに参加することになった。

これは、「指宿枕崎線を活用してなんか面白いことをやろう」という企画である(南薩地域振興局からの委託事業で中原水産(株)が実施する)。

なお、「指宿枕崎線」は鹿児島中央駅から枕崎駅までの路線だが、これは特に「指宿〜枕崎間」を活かそうという話である。

それで、先日開催された第1回の会議に参加してきた。第1回は基調講演の後に顔合わせがある程度だったが、面白かったのは会議後の懇親会。ここでは書けない鹿児島の公共交通にまつわるタブー(?)が次々と俎上に載せられていて、「これを会議でやればよかったのに」と思った次第である。このプロジェクト、実は内心「アホか」と思っていたのだが、そうではなかったようだ(←関係者のみなさん、すみません)。

というのは、「JR指宿枕崎線を活かしたまちづくり」という概念が、まずちょっとおかしい。普通、鉄道はまちづくりそのもので、鉄道の駅を基点として街が形成されていくのが普通だ。「まちづくり」に鉄道を活かすならわかるが、「鉄道」をまちづくりに活かすとはどういうことなのだろう。これは要するに、「指宿枕崎線は街の役に立っていないから、街の方で指宿枕崎線を活かそう」という倒錯した考えなのである。

このような倒錯が生じているのは、指宿枕崎線(の指宿〜枕崎間)が非常に不幸な路線であるからだ。実は、これは需要に応じて開通した路線ではないのである。詳しいことは聞けなかったが、どうやら当時の政治家が「鉄道をひっぱてきた」という実績をつくりたいために無理に鉄道を枕崎まで延伸させたものらしい。

その時の大義名分は、「薩摩半島に環状線を!」ということだったとか。当時はまだ南薩線(伊集院〜枕崎)があったから、指宿〜枕崎が開通すれば、薩摩半島を鉄道で一周できるようになる、ということだったらしい。しかし指宿と枕崎は相互に交通する意味があまりない地域で、人口も少ない。沿線上はさらに少ない。環状線の意味は大都市の周りを回ることにあり、薩摩半島を一周する人は誰もいないのである。だから開通してたった5年で(!)、廃止の検討がスタートした。鉄道だけにすごいスピードだ(笑)

そのうち南薩線が廃止になって(昭和58年)、環状線でもなくなった。今年は指宿枕崎線全面開通60周年、という記念の年であるが、そのうちの55年が廃線の危機にあったという、ベテランの赤字路線が指宿〜枕崎区間なのである。

実際、先日(9月6日)、JR九州が線区別の利用状況を公表しており、指宿〜枕崎区間の平均通過人員(輸送密度=1kmあたりの1日の平均利用者数)は220人で、九州全体ではワースト3の少なさである。赤字額は3億3700万円/年で、九州全体でみれば中堅程度(!?)の赤字額だが、平均通過人員あたりの赤字額でいうと九州でワースト2である。

【参考】線区別ご利用状況(2022年度)
https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/senkubetsu.html

公共の交通機関は赤字が常態化しているため、3億3700万円の赤字というのがピンと来ないかもしれないが、この状態が10年続けば合計33億7000万円。これだけのお金がJR九州から南薩に投下されることになる。有り難いといえば有り難いが、このお金をもっと有効な事業に振り分ければ、そっちの方が沿線住民にとっても嬉しいかもしれない。

というのは、このような赤字が続いているのは、当然利用が低迷しているからで、先ほども書いたように指宿と枕崎は相互に交通する意味があまりなく、わずかな高校生の通学需要があるに過ぎない。なんと通勤定期は1名しか購入していないそうである。指宿〜枕崎間は、生活路線としては不要というのが残念ながら明白である。

そういうわけで、私としては「地域住民の利用が増加することがありえない以上、廃止はやむを得ない」という立場である。むしろズルズル延命するよりも、JR九州にも地域にも余力があるうちに廃止した方がいいような気さえする。今なら、廃止にあたってJR九州からいろいろ引き出せるかもしれない。長い目で見れば何十億円ものお金が浮くわけだから、少しくらいサービスしてもらえそうである。

ということで、私はハナから指宿枕崎線(の指宿〜枕崎区間)には価値はない、と思いこんでいたのであるが、やはり詳しい人の話をじっくり聞いてみると、そうでもないことがわかってきた。

先述の通り、鉄道はまちづくりそのもので、その存在には地域住民の人生と財産が関わっている。例えば、東京である路線が廃止になったとすると、その沿線に住んでいた人の多くが通勤難民になり、また不動産価格がガタ落ちになって大混乱になるだろう。当然、鉄道が新しくできるとなればその逆のことが起こり、人々の生活や財産は一変する。よって鉄道は政治家の活動と密接に関わっており、「鉄道と政治」はこれまで華々しい(?)話題を提供してきた。

これは廃線の危機にあるような路線でも同じで、とっくに誰も使わなくなったような路線すらも「廃線絶対反対!」の運動が行われるのは、住民の自発的運動というよりは、路線存続を政治的手柄としたい政治家の策動の結果ということは珍しくないのである。 

ところが! 指宿〜枕崎区間の場合、こういうややこしい「政治」は一切無いらしい。指宿〜枕崎区間はあまりに寂れているため票田にならないからか、それとも廃線の危機が55年も続いたおかげ(?)だろうか。もちろん、住民からの関心も薄い。こういうことは、普通ならば弱みなのかもしれない。だが、廃線間近で「悪あがき」したい、というこのプロジェクトにとってはこの上ない強みだろう。

というのも、指宿〜枕崎区間で、どんな「悪あがき」のみっともない活動をしても、結果うまくいかなくて廃線になってしまっても、それほど大きな問題にならないからだ。それどころか、変な「政治」が登場しないことは、廃線すらもスマートに進められる可能性がある。経営が行き詰まってやむなく廃線にするのではなく、日本の廃線のモデルとなるような、「先進的な廃線」がここで実現できるかもしれない。こういう夢想ができるというだけでも、指宿〜枕崎区間は面白い路線ではないだろうか。

「JR指宿枕崎線を活かしたまちづくりプロジェクト」は、来年の1月までに4回会議をして、何をやるかをまとめるそうである。私が考えていることは主催者側とはちょっとズレているかもしれないが、俄然楽しみになってきたところである。

2023年9月9日土曜日

大笠中学校の統廃合には絶対に反対

今年の6月に行われた南さつま市議会(令和5年度第2回定例会)で、本坊市長が大笠中学校(大浦町の中学校。学区は大浦と笠沙)を含めた再編について言及した。

大原俊博議員の一般質問「加世田中学校については大規模改造か建て替えかということで(中略)早い時点での取組を要望いたします」という発言に応えたもの。本坊市長の発言を抜粋すると、

「早ければ年内、何とか年内に加世田中学校、それから万世中学校の施設整備を併せて、加世田中学校、万世中学校、そしてもう一つ、大笠中学校43名です。大笠中学校を併せて、在り方検討委員会を、今後、この中学校の在り方はどうあるべきなのかということを、スピード感を持って考えていかなければならない。その時期に来ているのではと思っております。」

ということである。

【参考】令和5年第2回定例会 会議録(発言は6月20日)
https://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shigikai/kaigiroku/kaigiroku-r5/e028607.html

どういう文脈での発言かというと、まず加世田中学校の校舎の老朽化がある。加世田中学校の校舎(の一部)は昭和44年建築ということで50年以上経過しており、大規模改修か建て替えが必要だという。また隣の万世中学校の校舎(の大部分)も昭和46~47年に建築されていて、すでに雨漏り等も起こっている。

よって、加世田中学校と万世中学校の両方が、近いうちに建て替えが必要ではないか? という状況にある。この施設整備を進めなくてはならないというのは、理解できる答弁だ。だが、どうして大笠中学校の在り方まで「スピード感を持って考えていかなければならない」というのか。こちらの方は、ずいぶん藪から棒だ。

大笠中学校の校舎は平成14年に建築したばかりでまだまだ新しく、今年度はエレベーターの設置工事も進んでいる。生徒数は確かに少ないが、今後数年間で急激な減少は予想されていないからだ。

もちろん長い目で見ると、いずれ万世中への統合はありうるかもしれない。しかし統合するからといって万世中に新しい校舎を増築する必要はなく、近々万世中を大改修するとしても、大笠中の合併を見据える必要はないだろう(統合しても学級数が増えない可能性が高い)。

ではなぜ加世田中・万世中の改修と大笠中の再編(統合)が絡んでくるのか。この答弁は唐突なもので、関係者も驚きだったらしい。実際、市長もこのように発言している。

「このことは今日、市民の皆様方も初めてお聞きを、もちろん議会の皆様方にも丁寧な説明なく、前触れなく、大変申し訳ないと思いますが、これから協議を始めたいと思います(後略)」

よって、詳しい事情が不明であるが、ちょっとこの発言の背景を考えてみたいと思う。

まず、加世田中・万世中を改築する場合、それぞれ15~20億円必要と考えられる。公立の義務教育学校は半額の国庫補助があるので、市の負担はそれぞれ7.5~10億円。また、南さつま市では今市民会館の老朽化に伴う建て替えも検討されており、それら3つを建て替えすることになると、今後数年で30億円くらい必要になる。弱小自治体の南さつま市にとっては大きな出費である。

仮に加世田中・万世中・大笠中の3つを合併して新しい中学校をつくれば財政負担がかなり減るから、少しでもお金を浮かせたい市にとってはそっちの方が望ましいに決まっている。さらに、加世田中は川沿いの水害を受けやすい立地にあって移転が必要ではという声があり、その問題も同時に解決できる。

ところで、加世田中近くの県立常潤高校(旧加世田農高)は生徒数の減少が続いており、存続が危ぶまれている。しかも農高なので敷地は広大で、感覚的には敷地の半分くらいが遊んでいるような状態だ。仮に常潤高校が廃校にならないとしても、その空きスペースに中学校が建てられそうだ。だから、財政面のみを考えた場合、加世田中・万世中・大笠中を統合して常潤高校の敷地に新中学を作るのが一番お得である。水害も受けない。

しかも、小中学校を「適正な規模にするため」の統合に伴う施設整備は、国庫補助が10%増しになる。万世中はまだそれなりに生徒数がいるので地元が合併に同意するとは思えないが、大笠中は将来的には存続が難しいことは明らかで、「適正な規模にするため」の統合になるから国庫補助が増える。藪から棒に大笠中が持ち出されてきたのはこのためではないだろうか。

つまり、大笠中の在り方を「スピード感を持って考えていかなければならない」というのは、財政の事情、しかも加世田中・万世中の建て替えを安くするためだけのことなのだ。私は中学校はそれなりの規模があった方がよいと思っており、統廃合絶対反対論者ではないが、こういう事情で拙速に「あり方を検討」ということだと絶対に反対である。

それに、そもそも加世田中・万世中の建て替えは本当に必要なのだろうか? 

実は、南さつま市では「南さつま市学校施設長寿命化計画」というものを策定している(WEB上に情報がないが、おそらく令和元年か2年策定)。これはどういうものかというと、「従来コンクリート校舎は40~50年で建て替えていたが、メンテナンスをしっかりやることで学校施設は70~80年使っていきましょう」というものだ。

今、手元に計画そのものはないが、パブコメされた案(の57頁)によれば、

学校施設の目標使用年数は、公共建築物長寿命化指針で示される70~80年を基本として設定します。

とはっきり書いている。

【参考】パブリックコメント「南さつま市学校施設長寿命化計画(案)」募集終了
https://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shisei/gyosei/publiccomment/pabubosyusyuryou/e021853.html

つまり、この計画に基づけば加世田中も万世中もまだまだ建て替えタイミングにはないのである。にもかかわらず、なぜ問われていもない万世中の建て替えまで言及したのか、邪推すれば、常潤高校の廃校が内々に本坊市長には打診されている、ということなのかもしれない(本坊市長は常潤高校の同窓会会長でもある)。

それはともかく、市には焦って校舎の建て替えをするのではなく、この計画に基づいて、まず校舎の長寿命化を図ることを要望したい。それでなくては、この計画は無意味である。

また、学校再編だけではないが、南さつま市の場合、加世田への一極集中が進んでいることも憂慮される。

加世田小学校は児童数が600人以上あり、加世田中学校の生徒数も300人以上である。大浦小学校が約50人、大笠中学校が約40人であることを考えると、これを整理していこうとするのは財政の論理としては仕方ない。小中学校の建物の維持管理費は規模によらずだいたい年間700万円くらいだから、大浦のような過疎地に学校があるのは割に合わないのは確かだ。

しかし、である。だからといって加世田になんでもかんでも集中させてよいのか? ということだ。この何十年も、東京一極集中の弊害が叫ばれてきた。過密した部分と、過疎の部分のそれぞれに問題が起こり、人口は適度に分散してこそ快適な生活が送れるのだ、と諭されてきた。それでも一極集中の傾向は止まっていない。人々は結局、大学進学や就職のために都会に出て行かざるを得ないからだ。

いまさら、田舎の価値とか、自然豊かな暮らしとか、リモートワークで田舎でも生きていけます、みたいなことをいうつもりはない。大浦町も、いずれ人々がまとまって暮らす地域ではなくなってしまうかもしれない、ということは覚悟している。

だが、そういう過疎の動きを、行政が加速させていいのだろうか? ということだ。

加世田中・万世中の建て替えは「南さつま市学校施設長寿命化計画」に反するものだし、大笠中はさしあたり合併の必要はない。「スピード感を持って考えていかなければならない」時期ではないのである。