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2023年9月9日土曜日

大笠中学校の統廃合には絶対に反対

今年の6月に行われた南さつま市議会(令和5年度第2回定例会)で、本坊市長が大笠中学校(大浦町の中学校。学区は大浦と笠沙)を含めた再編について言及した。

大原俊博議員の一般質問「加世田中学校については大規模改造か建て替えかということで(中略)早い時点での取組を要望いたします」という発言に応えたもの。本坊市長の発言を抜粋すると、

「早ければ年内、何とか年内に加世田中学校、それから万世中学校の施設整備を併せて、加世田中学校、万世中学校、そしてもう一つ、大笠中学校43名です。大笠中学校を併せて、在り方検討委員会を、今後、この中学校の在り方はどうあるべきなのかということを、スピード感を持って考えていかなければならない。その時期に来ているのではと思っております。」

ということである。

【参考】令和5年第2回定例会 会議録(発言は6月20日)
https://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shigikai/kaigiroku/kaigiroku-r5/e028607.html

どういう文脈での発言かというと、まず加世田中学校の校舎の老朽化がある。加世田中学校の校舎(の一部)は昭和44年建築ということで50年以上経過しており、大規模改修か建て替えが必要だという。また隣の万世中学校の校舎(の大部分)も昭和46~47年に建築されていて、すでに雨漏り等も起こっている。

よって、加世田中学校と万世中学校の両方が、近いうちに建て替えが必要ではないか? という状況にある。この施設整備を進めなくてはならないというのは、理解できる答弁だ。だが、どうして大笠中学校の在り方まで「スピード感を持って考えていかなければならない」というのか。こちらの方は、ずいぶん藪から棒だ。

大笠中学校の校舎は平成14年に建築したばかりでまだまだ新しく、今年度はエレベーターの設置工事も進んでいる。生徒数は確かに少ないが、今後数年間で急激な減少は予想されていないからだ。

もちろん長い目で見ると、いずれ万世中への統合はありうるかもしれない。しかし統合するからといって万世中に新しい校舎を増築する必要はなく、近々万世中を大改修するとしても、大笠中の合併を見据える必要はないだろう(統合しても学級数が増えない可能性が高い)。

ではなぜ加世田中・万世中の改修と大笠中の再編(統合)が絡んでくるのか。この答弁は唐突なもので、関係者も驚きだったらしい。実際、市長もこのように発言している。

「このことは今日、市民の皆様方も初めてお聞きを、もちろん議会の皆様方にも丁寧な説明なく、前触れなく、大変申し訳ないと思いますが、これから協議を始めたいと思います(後略)」

よって、詳しい事情が不明であるが、ちょっとこの発言の背景を考えてみたいと思う。

まず、加世田中・万世中を改築する場合、それぞれ15~20億円必要と考えられる。公立の義務教育学校は半額の国庫補助があるので、市の負担はそれぞれ7.5~10億円。また、南さつま市では今市民会館の老朽化に伴う建て替えも検討されており、それら3つを建て替えすることになると、今後数年で30億円くらい必要になる。弱小自治体の南さつま市にとっては大きな出費である。

仮に加世田中・万世中・大笠中の3つを合併して新しい中学校をつくれば財政負担がかなり減るから、少しでもお金を浮かせたい市にとってはそっちの方が望ましいに決まっている。さらに、加世田中は川沿いの水害を受けやすい立地にあって移転が必要ではという声があり、その問題も同時に解決できる。

ところで、加世田中近くの県立常潤高校(旧加世田農高)は生徒数の減少が続いており、存続が危ぶまれている。しかも農高なので敷地は広大で、感覚的には敷地の半分くらいが遊んでいるような状態だ。仮に常潤高校が廃校にならないとしても、その空きスペースに中学校が建てられそうだ。だから、財政面のみを考えた場合、加世田中・万世中・大笠中を統合して常潤高校の敷地に新中学を作るのが一番お得である。水害も受けない。

しかも、小中学校を「適正な規模にするため」の統合に伴う施設整備は、国庫補助が10%増しになる。万世中はまだそれなりに生徒数がいるので地元が合併に同意するとは思えないが、大笠中は将来的には存続が難しいことは明らかで、「適正な規模にするため」の統合になるから国庫補助が増える。藪から棒に大笠中が持ち出されてきたのはこのためではないだろうか。

つまり、大笠中の在り方を「スピード感を持って考えていかなければならない」というのは、財政の事情、しかも加世田中・万世中の建て替えを安くするためだけのことなのだ。私は中学校はそれなりの規模があった方がよいと思っており、統廃合絶対反対論者ではないが、こういう事情で拙速に「あり方を検討」ということだと絶対に反対である。

それに、そもそも加世田中・万世中の建て替えは本当に必要なのだろうか? 

実は、南さつま市では「南さつま市学校施設長寿命化計画」というものを策定している(WEB上に情報がないが、おそらく令和元年か2年策定)。これはどういうものかというと、「従来コンクリート校舎は40~50年で建て替えていたが、メンテナンスをしっかりやることで学校施設は70~80年使っていきましょう」というものだ。

今、手元に計画そのものはないが、パブコメされた案(の57頁)によれば、

学校施設の目標使用年数は、公共建築物長寿命化指針で示される70~80年を基本として設定します。

とはっきり書いている。

【参考】パブリックコメント「南さつま市学校施設長寿命化計画(案)」募集終了
https://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shisei/gyosei/publiccomment/pabubosyusyuryou/e021853.html

つまり、この計画に基づけば加世田中も万世中もまだまだ建て替えタイミングにはないのである。にもかかわらず、なぜ問われていもない万世中の建て替えまで言及したのか、邪推すれば、常潤高校の廃校が内々に本坊市長には打診されている、ということなのかもしれない(本坊市長は常潤高校の同窓会会長でもある)。

それはともかく、市には焦って校舎の建て替えをするのではなく、この計画に基づいて、まず校舎の長寿命化を図ることを要望したい。それでなくては、この計画は無意味である。

また、学校再編だけではないが、南さつま市の場合、加世田への一極集中が進んでいることも憂慮される。

加世田小学校は児童数が600人以上あり、加世田中学校の生徒数も300人以上である。大浦小学校が約50人、大笠中学校が約40人であることを考えると、これを整理していこうとするのは財政の論理としては仕方ない。小中学校の建物の維持管理費は規模によらずだいたい年間700万円くらいだから、大浦のような過疎地に学校があるのは割に合わないのは確かだ。

しかし、である。だからといって加世田になんでもかんでも集中させてよいのか? ということだ。この何十年も、東京一極集中の弊害が叫ばれてきた。過密した部分と、過疎の部分のそれぞれに問題が起こり、人口は適度に分散してこそ快適な生活が送れるのだ、と諭されてきた。それでも一極集中の傾向は止まっていない。人々は結局、大学進学や就職のために都会に出て行かざるを得ないからだ。

いまさら、田舎の価値とか、自然豊かな暮らしとか、リモートワークで田舎でも生きていけます、みたいなことをいうつもりはない。大浦町も、いずれ人々がまとまって暮らす地域ではなくなってしまうかもしれない、ということは覚悟している。

だが、そういう過疎の動きを、行政が加速させていいのだろうか? ということだ。

加世田中・万世中の建て替えは「南さつま市学校施設長寿命化計画」に反するものだし、大笠中はさしあたり合併の必要はない。「スピード感を持って考えていかなければならない」時期ではないのである。

2023年3月19日日曜日

公立高校の合格発表からのスケジュールがキツキツな問題について

鹿児島では、3月16日に公立高校の合否発表があった。うちでは受験生はいないが、これに関してちょっと思うことがあるので書いておきたい。

さて、鹿児島県での公立高校の合格発表がどのように行われるか知らない人向けに、最初に流れを書いておく。

1.公立高校の合格発表の前日に中学校の卒業式がある。
2.発表当日、受験生とその親(保護者)は自宅で待機する。不合格の場合、中学校の先生から午前中に電話で連絡がある。(合格の場合は電話はない)
3.不合格の場合、その日のうちに三者面談が行われて今後どうするか決める(私立高校に2校受かっている場合はどちらに行くか決めるなど。場合によっては浪人する)。
4.合格の場合、保護者とともに後日(通常翌日)行われる入学説明会に出て手続きを行う。

私はこの合格発表とその後の手続きの流れは、とにかく時間の余裕がなさ過ぎてよくないと思う。

ハッキリ言えば、「1週間、合格発表の日程を前倒しすることもできるでしょ!」と思う(卒業式も1週間早めたらよい。この時期の授業はどうせ形ばかりのもののことが多いし)。公立高校入試の日程に先んじて私立高校の入試が順次行われるので、単に1週間ずらすのは難しいかもしれない。それでも入試日程全体を1週間前倒しにするのは不可能ではないだろう。

なぜ1週間前倒しした方がいいかというと、合格発表から入学までの準備期間が少なく、手続きがすごく忙しいのである。例えば、公立高校合格の場合、普通は発表翌日に入学説明会があり、その日の午後に制服の採寸が行われる。鹿児島市内の高校の場合は山形屋などが会場になり何日間かかけて採寸する。これ自体慌ただしいが、制服を納品する方はもっと慌ただしいと思う。見込で製造しているだろうから、採寸してイチから造るわけではないと思うがそれにしても入学式前に間に合わせるのは綱渡り的だと思う。

それはともかく、逆に公立高校が不合格だった場合は、私立高校への入学金の振込があり、やはり入学説明会出席、制服採寸…となる。入学式までの短い間に手続きが詰め込まれているのだ。合格発表の翌日に入学説明会を行うという強行日程になっているのも、とにかく大急ぎであらゆる手続きをする必要があるためだ。

それでも、まだ親が専業主婦・主夫などで時間の融通がきく場合はいい。しかし共働きの場合は、少なくとも合格発表の日と、入学説明会の日の2日は保護者が休みを取る必要がある(卒業式も含めれば3日になる)。これは鹿児島では必要な休みとみなされているため、この休みに難色を示す職場は少ないと思われるが、それでも近接して2、3日休みを取るのは気が引ける。

さらに大変なのは保護者も人事異動で引っ越す場合である(単身赴任などで)。特に県職員(教職員含む)の場合は人事異動の告示が合格発表の数日後となっている。こうなると、子どもの入学手続き一切をしつつ、引っ越しの手配と準備に追われることになる。スケジュール帳は毎日To Doで埋め尽くされ、一つでも用事がバッティングすると調整が大変だ。

もし、合格発表の日程が1週間早まって、諸手続に数日間の余裕ができれば、保護者の負担はかなり軽減されはずだ。しかもそれは多くの県立高校にとってそれほど困難なことではない。特に鹿児島市以外の高校の場合、受験者数があまり多くないから、実際の採点は数日で終わっている(らしい)。入試の日程をずらさなくても、合格発表の日を前倒しにするのは容易なことだ。

では、なぜその容易なことができないのか。一番大きい理由は、これが人生で何度もあることではないから、保護者からの「日程がきつすぎる!」との声があんまり大きくないためだ。でもそれにしても、こういうキツキツの日程で苦労している人は結構多いのだ。そして学校側も、そういう事情は十分に理解していると思われる。なぜなら、高校の教職員にもわが子の高校入試を経験している人は多いからだ。

それなのに、こういう無理なスケジュールがいつまでもまかり通っているのは何故か。

結局のところ、それは県教育委員会(事務局)に人の心がないからだ、と私は思う。人の心があれば、「こういうスケジュールを組んだら苦労する人がいるだろうな」と思うだろうし、そう思えば少しでも楽できるように工夫するだろう。合格発表の日程だけでなく、教職員の人事異動も次年度の直前まで勤務地が明らかにされないことは多い。それどころか非常勤の場合は新年度3日前まで雇用が継続されるのか自体が不確定だったりする。こういうのも人の心があれば到底できないことだろう。

「人の心がない」なんて大げさな言い方かもしれない。だが少なくとも、現状のやり方を見る限り、県教委は、末端の人々の負担については気にも留めていないことは確かだ。気安く仕事を休めるような人、時間の自由がきくような人には別に問題なくても、休みが自由にとれない人、やるべきことで追われているような人にとって、合格発表の日程はほとんど「試練」なのだ。こういう弱い立場の人々に寄り添わないで、何が教育行政か、と思う。

鹿児島県の教育行政の筆頭に掲げられているのが、「お互いの人格を尊重し、豊かな心と健やかな体を育む教育の推進」である。であれば、合格発表からの手続きで忙殺される人の人格も尊重してしかるべきだ。

もちろん、教育行政には早急に取り組むべきもっと重要な課題は多い。しかしこういうところを変えようとする姿勢を見せることそのものが、未だに遅れた社会の仕組みが温存されている鹿児島に生きる若者に対する、最良の教育になるのではないかと思っている。

2022年8月21日日曜日

今や最大の交通弱者は高校生。行きたい高校に通学手段がなく行けないのは大問題

この画像は、今年の2月に南日本新聞で報じられた、鹿児島県の公立高校の出願状況である。

【参考】
公立高校入試 最終倍率0.82倍 定員割れ63校126学科の2913人 鹿児島県(2月25日)|南日本新聞
https://373news.com/_news/storyid/152098/

ご存じの通り、鹿児島の公立高校は定員割れが深刻である。しかも県の方にはそれを改善しようというそぶりさえない。市町村では児童生徒が少なくなった小中学校は割とあっさり閉校・統合されてしまうが、県立高校の場合は定員割れが続いていてもほとんど放置されている。

なぜ県はこの惨状を放置しているのか、それはともかくとして、今年は長女が中学校に上がり、鹿児島の高校のこの状況も他人事ではなくなってきた。

というのは、県の中でも鹿児島市中心部の高校は定員割れまではいっておらず、地方の方が定員割れが激しいからである。うちは南薩のそのまた僻地に住んでいるので、この影響を大きく受ける。

南薩学区には、そもそも普通科を置いている高校は4つしかない。加世田、川辺、頴娃、指宿の各高校である。その普通科の定員と出願者数・倍率は下のようになっている(なお定員は学力検査定員。つまり推薦入試の応募枠を除く)。

高校    定員  出願者数 倍率
加世田高校 115人  94人  0.82倍
川辺高校   80人        68人  0.85倍
頴娃高校   40人   7人  0.18倍
指宿高校  120人  86人  0.72倍

これを見ればわかる通り、特に頴娃高校の普通科の定員割れは激しく、7人だと高校の「学級」としては成立しない水準になっている。このような激しい定員割れの状態では適正な教育が提供できないと思う。ここまでなくても、定員割れをしている学校では、学力的に多少不足していても合格を出さざるを得ないし、 学校の施設設備の維持にも支障が出てくることは想像に難くない。

「そんなこと言っても子供の数が減ってるんだからしょうがないだろう」と思う人もいるだろう。それはその通りである。しかし、高校全てが定員割れに喘いでいるのかというとそうではない。

例えば、加世田高校の近くにある私立の鳳凰高校は、私立なのでそもそも倍率の情報はないが定員割れという話は聞かない。それどころか最近の鳳凰高校は徐々に大きくなっているような気すらする。子供の数は少なくなっているのになぜ鳳凰高校は成長しているのか。

それにはいろいろな理由があるだろうが、寮とスクールバスの存在だけでもかなり説明できる。

というのは、僻地に住んでいると高校に通学するということ自体が一つのハードルだからである。例えば、うち(大浦町)から公共の交通機関を使って登校できる公立高校は一つもない。原付で通うか、親が毎日送り迎えする以外に通えないのである。しかも原付免許は満16歳以上から取得可なので、高校入学当初から使える人は少なく、例えば12月が誕生日の人は1年生の2学期までは親が送り迎えしなくてならないということになる。

こうなると、親の仕事の都合がいいか(高校の近くに職場があるなど)、よほど時間に自由がきかない限りは公立高校普通科に通わせることはできない。さらに兄弟姉妹が別々の学校に通う場合には、かなり自由がきく親でも毎日の送迎は不可能だと思う。

もちろん、これは今に始まった話ではなく、大浦町の高校生は昔から通学には苦労してきた。だが平成16年(2008)までは町内に笠沙高校があり、さらにその前にはもう少しバスの本数が多かったため、かつては高校を選ばなければ自力通学できる状態だったようだ。ところが、最近は路線バスは激減どころか路線自体が廃止されるくらいで、登校の役には立たなくなった(下校は加世田―大浦間はバスが使えるが…)。

加世田高校とか川辺高校のような、(一応)地元での名門校が定員割れしているのはこのせいが大きい。最近の公共交通の衰退によって、高校も元倒れしているというわけなのだ。

そんな状況を逆手にとって、鳳凰高校のような高校はどんどん入学者希望者を増やしている。鳳凰高校には約600名分の寮があり、スクールバスはなんと16路線で運行している。驚くのはそのカバー範囲の広さで、川内以南の薩摩半島全域に及んでいる。もはや鳳凰高校は南薩だけでなく薩摩半島西部の中核的な役割を担う高校といっても過言ではない。どうしても通学手段がない生徒は鳳凰高校に頼るしかないのだ。

他に大浦までスクールバスを運行している高校といえば、鹿児島情報高校(谷山)がある。情報高校は、バス路線は南薩を中心とした9本と少ないが、溝辺線があるのが注目される。溝辺のあたりも高校の通学が困りそうな場所である。

もっとすごいのが鹿児島城西高校(伊集院)。城西高校のスクールバスは17路線を運航し、薩摩半島全域をカバーする。先ほどの溝辺に加え、鶴田とか東郷のような僻地にもバスを通しているのはお見事という他ない。

そんなわけで、薩摩半島の僻地に住んでいる高校生にとっては、学校の偏差値がどうだとか、教育内容がどうだとかいうよりも、もはや「通学手段があるかどうか」だけで鳳凰・情報・城西の私立3高校に絞られてしまう、という現実がある。

ところで、そもそも南薩には普通科を置く公立高校は4つしかないし、人口減少によって子どもの数も少なくなっている。そんな中、ただでさえ少ない地域の高校生がわざわざ地区外の高校に通っているのはもったいない、と思うのは私だけではないだろう。地域の高校に通わせてあげた方がずっとよいのである。

だからこそ言いたい。鹿児島の公立高校は、スクールバスを出しなさい! と。

鳳凰高校のような私立高校が、通学に困る生徒の受け皿になっていること自体がおかしいと私は思う。高校に行きたいと思う人は誰でも通えるようにする責任が、県にはある。「高校に通いたいなら親が送り迎えすれば? 僻地に住んでるのはあなたの勝手でしょ?」というのは公教育の提供として間違った姿勢だ。

路線バスは減ったり廃止され、コミュニティバスは高齢者のためのものとして運行されていて通学には使えない。だから今、高校生が一番の交通弱者になっている。スクールバスを出すことが県の責務だと私は思う。

ここで、ちょっと詳しい人はツッコミを入れるかもしれない。「全寮制の楠隼(なんしゅん)高校は、公立普通科だけど激しく定員割れしてるじゃないか。交通の問題なら楠隼高校が定員割れするのはおかしいのでは?」と。

楠隼高校は、中高一貫の男子校で全寮制進学校という、公立高校としてはかなり変わった学校であるが、実は先ほどのデータでは39名の定員に対して出願者が1名しかなく(!)、なんと倍率は0.03倍というほぼ廃校寸前の数字である(ただし楠隼高校は内部進学があるのでクラスが1人というわけではない)。

確かに交通の面だけを考えれば全寮制は魅力的だが、楠隼高校は高校生(や保護者)の需要に応えて作られたものではなく、完全に政治主導で周回遅れの(2周遅れくらいの)教育思想によって作られたものであるから当然だ。通っている学生がこれを読んだらかわいそうだとは思うが、現実は数字が語っている。

同じ寮生活でも、鳳凰高校と楠隼高校では意味が全然違う。前者があくまで通学に困難を抱えた僻地の生徒の助けとなるものであり、実際に離島からも多くの生徒が鳳凰高校に入学するのと比べ、後者の場合はそうした生徒の希望に沿って作られたものではないからだ。寮もスクールバスも、あくまで生徒の需要に応じて作るべきものだ。これまでの鹿児島県の高校の教育行政は、どうもこの「生徒の需要」というものが軽視されてきたような気がして仕方がない。

鹿児島県には、楠隼高校のような高校を新設するのではなく、むしろ定員の回復が見込めない高校は閉校にして地域の中核となる高校を残し、その高校にスクールバスを運行するという当たり前の政策を実施していただきたい。定員割れ自体はそれほどの問題ではないとしても、行きたい高校に通学の問題で行けないのは大問題である。

娘が高校に上がるまであと2年半。それまでにどうぞスクールバスの運行をお願いします。

※当然ながら普通科以外でも定員割れは深刻だが、普通科以外(工業高校系など)は学区がないなど少し状況が異なるので、本稿では単純化のために普通科のみの議論とした。

2022年5月22日日曜日

スマートに支配されている社会よりも

先日、「生徒の自由は制限できて当然だという間違った考えについて」という記事を書いた。

【参考】
生徒の自由は制限できて当然だという間違った考えについて
http://inakaseikatsu.blogspot.com/2022/04/blog-post.html

そこでは、「自転車通学を許可制にするのはおかしいし、距離で制限されるのもおかしい」と述べていた。

その記事中には書かなかったが、私がこういう記事を書いただけで満足するわけもなく、当然中学校にも「私はこのように考えるので、ご検討をお願いします」と手紙で伝えていた。

またそれとは別に、ここでは詳しくは書かないが、学校を一歩出れば非常識な校則について見直すよう、教頭先生にいろいろと強く意見を言っていた。まだ子どもが中学校に入学したてなのに、校則についてアレコレ文句を言ってくる親も珍しいだろうが、私はなにしろ、理詰めで考えて間違っていることを放置するのは我慢がならないタイプである。

とはいえ、そういう学校への意見がすんなりと受け入れられると考えるほどウブではない。内心、「無駄かも」と思いながら学校に伝えていた。

ところが、先日あった中学校のPTA総会の場で、学校側からの説明があり、

  • 自転車通学については距離の制限を撤廃する。
  • 下着(インナー)の色の規制はなくす。
  • 靴下も白以外でもよいことにする。 

などなど、非合理な校則を見直すという方向性が示されたのである。ちなみに下着の色の規制は、昨年、白のみから茶・紺・黒なども認めましょう、という規制緩和が行われたところだったが、「そもそも下着の色を規制すること自体が非常識」と私も主張していた。おそらく他にもそういう意見があって、こうした校則の見直しが行われたに違いない。

ともかく、このことは素直に歓迎したいし、校則の見直しに着手してくださった先生方(特に校長・教頭)には感謝したい。 ちょうど昨年、文部科学省が非合理な校則について対処を求める通知を都道府県に出し、それに応じて校則の見直しが社会の趨勢になってきたことも後押ししたに違いないが、私も含め「これはおかしい!」との声が、変化を促した一番の原動力であったと思う。声を上げてよかった。

「そんなこと言ったって何も変わらないよ」ということは実際にたくさんある。でも、声を上げなければ何も変わらない。

そして、言うのはタダだ。それなら、無駄かもしれないが、とりあえず声を上げていく方がいい。 ちょうどタイミングが合えば、動かないと思っていたことも動くかもしれない。実際、今回校則の見直しが行われたのは、先ほど述べた文科省の通知や、人事異動(校長が変わった)や、いろいろなことが重なっていたおかげだと思う。

これは中学校だけでなく、国政なんかでも言えることだ。日本の政治・行政のダメなところは、はっきりしている。そして、どうしたら日本をよくすることができるか、処方箋はほとんど明確になっている。それなのになぜそれが実行されないか。

いろいろ理由はあるが、「それを求める声がない」からだ。

例えば、日本は奨学金の制度がダメすぎることは何十年も前から指摘されていた。日本で「奨学金」と呼ばれているのは単なる「教育ローン」であり、真の意味の奨学金をわざわざ「給付型奨学金」などと呼んでさも特別なものであるかのように見せかけてきた。教育を受けることは子どもたちの権利であり、奨学金ほど投資効果の高い投資はないにもかかわらず、教育を「自己責任」の領域のこととして金を出し渋ってきたのである。これが問題であるのは明らかだ。そしてそれを改善するための予算は、例えば社会保障や国防に比べると微々たるものなのだ。

にも関わらず、なぜ改善されてこなかったか。それは国民がその状況に「忍従」してきたからに他ならない。国家や上位権力に「忍従」することが「美徳」であると、我々は明治時代以来、ことあるごとに教え込まれてきた。

しかし「忍従」を美徳とする価値観はもう捨て去った方がよい。社会は自分たちの手で変えられると信じる方が、ずっと建設的であることがもはや明らかになった。

もちろん、国民が「忍従」を辞めれば、随分と騒々しい社会になるだろう。利害が真っ正面から衝突するような、不格好な社会になるかもしれない。ストライキが頻発してしょっちゅう電車が止まるような社会になるかもしれない。でも、不格好でも国民主権の社会の方が、スマートに支配されている社会よりずっとマシだ、と私は思う。

ちなみにまだ、校則以外も含め、中学校には「一体いつの時代の話だよ!」というようなことがまかり通っている。体育館のガラスを割って回るようなとんでもない不良がいた時代につくられた管理の仕組みが未だに生き残っているのである。

私はこれからも声を上げ続ける。学校にとっては面倒な保護者には違いない。中学校はたった3年間のことである。黙っている方がスマートなのかもしれない。でも子どものためになると思うことは、不格好に思われても声を上げていきたい。

2022年4月1日金曜日

生徒の自由は制限できて当然だという間違った考えについて

この春、上の娘が中学生になる。

地元の公立中学だが、うちはやや僻地に住んでいるので結構遠い。ちゃんと計ってはいないが、家から4kmくらいありそうである。

当然、自転車通学になる。というわけで、中学校から自転車通学の申請書を出してくれとの指示があった。

その申請書を見て、私は「はぁ? おかしいんじゃないの??」と思ってしまった。

「いや、自転車通学の申請なんかどこでもやってるでしょ」「普通でしょ」と思う人が多いに違いない。それはそうだと思う。でもよくよく考えてみると、これはとてもおかしいことなのだ。どこがどうおかしいのかちょっと説明させて欲しい。

まず大前提として、道路交通法を守る限りは、日本では誰でも公道を自転車で通ることができる。

中学生も小学生も、自転車に乗るのは自由である。事実、うちの娘は自転車で友だちの家に遊びに行っている。それに誰の許可を必要とすることはない。もちろん親は、子どもが自転車(や遠出)に慣れないうちは、遠くに行かせないとか、交通量の多いところには行かせないとかするかもしれないが、それはあくまでも安全上の配慮からすることで、基本的に「子どもが自転車に乗る権利」を尊重する。

お店も同じである。「うちの店には自転車で来ないでください」なんてことは、どんな店でも言えない。人には自転車で移動する自由があるからだ。一方で、「うちには駐輪場がないです。店の前に自転車を路駐しないでください」は全然アリだ。これは実質的に自転車で来店することを制限してはいるが、「自転車を利用する自由」を制限しているわけではないからだ。

もう少し分かりやすく言うと、「うちには駐輪場がないです」の方は、あくまでもお店の管理責任が及ぶ範囲のことだけしか制限していない。店には自転車が駐められないと言っているだけで、別の場所の駐輪場を利用するなら店に自転車で来たっていいことになる。一方で、「うちの店には自転車で来ないでください」の方は、本来店側には全く制限する権利のない、店に来るまでの方法を制限しているからNGなのである。この2つが、似て非なるものであることをまず理解して欲しい。

では中学校の自転車通学の申請はどうか?

これは、どう考えても「うちの店には自転車で来ないでください」式のやり方である。自転車通学に許可が必要だなんて馬鹿げている。何しろ、中学校以外のところはどこへでも自転車で行くことができるのに、中学校に自転車で行くには許可が必要だなんてことがあるわけがないのだ。

「いや、でも家が近い人に自転車を使わせるのはちょっと…」という人もいるかもしれない。実際、うちの中学の場合も自転車通学の許可要件は「通学距離が1.5km以上あること」である。だが、実のところ距離で要件を定めるのは不合理だ。しかもそのことには、中学校自身も薄々感づいているようだ。

というのは、先日あった入学説明会でも中学校から「距離は自己申告ですので、1.5kmに100m足りないから申請できないとかそんなことはないので〜」と言っていたからだ。許可要件が合理的でないから、こういう「柔軟な対応」が出てくるのだ。

通学距離が1.5kmの人は自転車通学がOKで、1.4kmの人はダメなのは理屈に合わない(それが規則だから、という理由以外では)。では1.3kmはどうか? 500mなら? どこにラインを引くべきなのか? 結局、元来誰でも自由に自転車で学校に来ていいはずなのに、そこに無理矢理1.5kmという自転車通学の許可要件を定めているだけであり、どこにも合理的なラインはないのである。だからこそ中学校は距離要件に関しては「柔軟な対応」をするわけだ。しかし「柔軟な対応」が必要なくらいなら、最初からそういう要件は設けない方がずっと合理的なのである。

「でも家が近い人もみんな自転車で通学していいわけ?」と思う人もいるだろう。私は全然構わないと思う。各人が、一番疲れない、楽に登校できる方法で登校したらよいと思う。人によってはそれが「不公平」だというかもしれないが、そもそも家から学校への距離が違う以上、どんな交通手段を用いたとしても不公平である。学校に近い人の自転車通学を禁じたとしても、遠い人の通学が楽になるわけではない。

だが、現実的に駐輪場の数が限られていて、生徒全員が自転車通学すると駐輪できない! という場合は、通学距離が短い人から駐輪場の利用を制限されるのはもちろん合理的である。先ほどの譬えでいえば、 「うちには駐輪場がないです」式の制限なら理解できる。生徒の自転車を使う自由を制限しているのではなく、あくまで駐輪場という学校施設の管理上の都合を言っているに過ぎないからだ。

だから私の主張をまとめるとこうだ。

「「自転車通学の許可申請」は、中学校には本来は規制する権限がない「生徒が公道を自転車で移動する自由」を制限しているのでよくない。あくまでも学校施設の都合からの「駐輪場の利用許可申請」にすべきである。」

「いや、ほぼおんなじことじゃん!」と感じる人もいるに違いない。どっちにしろ実質的には自転車通学を規制するのだから。だがその細かい違いには、日本の学校にありがちな問題が現れている。それは「中学校には本来規制する権限がない」ことでも制限できて当然という、中学校の認識である。いや、中学校の方では「中学校には本来規制する権限がない」なんてことすら見えていないに違いない。ただ、「中学校は生徒の自由を制限できて当然だ」と思っているのである。民主制の社会では、本来、人が当然に持っている自由を制限するということは簡単なことではないにも関わらずだ。

行政が人々の自由を制限したり、義務を課したりする際には、通常「法律」の制定が必要になる。どういう要件の時に制限できるかといったことを定めるのは「政令」(閣議決定)で、要件の細かい内容を定めるのは「省令」(大臣が定める)である。でも普通は、国会を経ない「政令」とか「省令」だけでは、自由の制限そのものをすることはできない。それくらい、自由を制限することは重いことだ。

そして人々の方は、理由なく自由の制限をされることには反発しなくてはならない。なぜなら、今我々が享受している自由は、先人が戦って手に入れたもので、その戦いは静かにでも続けない限りは、再びなくなってしまうものだからである。

だが中学校というところは、そうした権力と自由の関係を全く理解していないようだ。例えば、中学校には非合理的な校則が多い。うちの中学では下着の色まで決まっている。もちろん馬鹿げた校則である。しかしそもそも、どうして中学校は校則というものを定める権限があるのだろうか。

実は校則は、法令の上では全く位置づけられていない。中学校には、校則を定める法的な権限はないのである。ただ、学校長が学校運営を行う上での決まりを定められるだけだ。しかしながら、その点があまり学校や教育委員会には認識されていないようだ。そうでなければ「中学校は生徒の自由を制限できて当然だ」なんて思うはずはないのである。

「いや、そんなこと思っていませんよ」というのであれば、今すぐ「自転車通学の許可申請」を「駐輪場の利用許可申請」に変更して下さい、といいたい。「いやあそれにはこういう事情があって…」と言い訳するのは目に見えている。生徒の自由よりも、「諸般の事情」が優先されるのが、残念ながら今の公立中学校であろう。

ちなみにうちの娘が進学する中学校は、生徒数が50人くらいの過疎の中学校である。当然駐輪場の数も十分だ。教室も校庭も体育館も、本当にひろびろ使える人数である。そして生徒の方も、規則でその自由を制限しなくても、自分たちでよりよい学校生活を作っていくことができる子たちばかりだ。

中学校では、不条理に自由を制限されることを覚えるよりも、人が本来持っているはずの自由を守っていく力をつけて欲しい。入学前から、自転車通学の許可申請書を前にしてそんなことを思っている。