2023年10月29日日曜日

敗北の日

10月26日、鹿児島県議会(臨時会)は、県民投票条例案を否決した。

条例案の否決後、各会派への挨拶回りを行った塩田知事は、自民党議員とグータッチした。自民党と共同して条例案を否決できたことに安堵したグータッチだっただろう。今回の勝者は、塩田知事と自民党だった。

また、決められた手続きに沿って審査中の川内原発は、20年の運転延長が決定される見込である。反原発の市民運動は、またしても敗北した。

こう書くと、私も反原発の立場だと思う人がいるだろうが、このブログでは度々書いてきたように、私は原発絶対反対ではない。長期的には脱原発すべきだと思うが、「原発をいますぐ停止しろ」とは思わないし、20年運転延長も、絶対反対というよりは、むしろ「20年延長するくらいなら原発を新設した方が安全では?」と思っていたりして、条例制定を求めた市民グループの方とはだいぶ考えに開きがある。ただ、日本人は原発からは足を洗った方がいいとは思っている。

県議会では、知事も自民党も「県民投票では多様な意見を反映するのは難しい」と難色を示していたが(県民投票はそもそも知事が言い出したことなのだが、それは置いといて)、確かに原発には多様な意見がある。だが、これまでの県政でそういう「多様な意見」を県民に聞くことがあったか。運転延長に対する私の意見は、○×だけじゃない「多様な意見」にあたると思うので、聞きたければ言ってあげるのだが。

また、「多様な意見が反映できないから県民投票はよくない」という論理もよくわからない。いくら多様な意見があっても、結局は20年運転延長するのかどうか、という二択ではないのか。多様な意見を聞こうともせずに、二択を否定したのは論理破綻だ。これはほんの一例で、全体的に県の答弁は、その場しのぎの詭弁ばかりで、4万6112筆の市民の署名に誠実に向き合ったものとは言えなかった。

そもそも、これは反原発の署名ではない。もちろん、これを集めた団体は反原発のために行ったのだが、署名の性質はそうではない。この署名は「大事なことを決めるのに、市民の意見も聞いて下さい」というものだった。私自身、署名をちょっとだけ集めたが、その際には「これは反原発じゃないんですよ。県民の声も聞いてね、っていう署名なんですよ」と説明した。 だからこそ、これまでの反原発活動ではなかったような、大きな広がりがあり、多くの署名が集まったのだと私は思っている。

実際、県議会でも原発の安全性などについては質問しないように、ということになっていた。県議会で審議したのは、反原発なのか、原発推進なのか、ということではなくて、4万6112筆の市民の署名にどう応えるか、ということだったはずだ。

だが、民会派の山田国治委員は「原子力政策は国策。国が責任を持って判断すべきだ」と延べ、県側も「国策」を強調した。「国策だから県民の意見を聞く必要はない」だなんて、ずいぶん乱暴な話で、「国策だったら、県民どころじゃなく国民の意見を聞く必要があるんじゃないの?」と私は思う。どうやら県や自民党は、「国」というものを、国民を統治する王様か何かのように思っているらしいが、実は日本は一応「国民主権」ということになっていて、我々の方が主権者なのである。

それなのに、塩田知事は臨時会冒頭、県民投票は「慎重に判断すべきだ」と述べている。これなどは、意味がわからない。川内原発20年運転延長を「慎重に判断すべき」だから県民投票をしよう、ならわかるが、どうして県民の意見を聞くのに慎重でなければならないのか。「国民主権」「県民主権」なのだから、むしろ県民の意見を聞かないと先へ進めないくらいだと私は思う。

そもそも、塩田知事は県知事選で勝利したからこそ県政を担っているのだから、県民の意思は塩田知事の権力の源泉である。塩田知事は国に知事にしてもらったのではなく、県民に知事にしてもらったのである。

にもかかわらず、今回、塩田知事は県民の方を向かず、常に「国」の方を向いていたように見えた。「国策」である原発政策に異議申し立てをしては、自分のキャリアの汚点になるとでも思ったのだろうか。 

だいたい、塩田知事自身も言っていたが、原発の運転延長を止める権利は県知事にはない。仮に県民投票をして運転延長にノーが突きつけられたとしても、「県民の意思はこうです」と国や九電に述べるだけで、それに応じて相手(国・九電)がどう対応するかは県のあずかり知らぬところである。つまりある意味、原発政策に対しては県は責任を負わなくてよい、という立場にある。塩田知事は、県民の側に立てたはずだ。

にも関わらず、塩田知事は、民意が示されることを怖れていたように見える。「もし、県民投票を実施して、運転延長が反対多数になったらどうしよう」と不安に駆られていたのではないか。 賛成多数を予想していたとしたら、投票を行うことに何の躊躇もないからだ(あるとすれば、運転延長のスケジュールがずれることと県民投票の費用くらい)。

臨時会閉会後のグータッチは、民意が示されることを阻止したグータッチでもあった。でも、一応民主主義を掲げているこの国で、民意が示されることを阻止したことを喜ぶとは、いったいどういうことなのだろう。4万6112筆もの市民の署名によって請求したことを棄却したことに、一切の遺憾の意も表明されないとは、いったいどういうことなのだろう。

実は、私が「日本人は原発からは足を洗った方がいい」と思うのは、原発にはこういうところがあるからなのだ。日本の民主制は、原発のような難しい問題を扱えるほどは成熟していない、というのが私の実感である。原発の技術的な困難(災害への弱さや廃棄物の処理)は、技術的に克服することが可能だ、と元来は工学系の私は信じている。しかし原発という巨大な利害が対立するプロジェクトを真に民主的に運営していくことは、今の日本人には不可能だと感じる。一言でいって、「原発は日本人にはまだ早い」のだ。

今回の県民投票条例の否決は、まさにその一例になった。「大事なことを決めるのに、市民の意見も聞いて下さい」という、民主社会ではごく当然の要求を突っぱねなければ進められないのが原発なのだとしたら、そんなものはいらないのだ

だが同時に、今回の否決は、ある意味では民意というものの強力さをまざまざと見せつける結果にもなった。塩田知事も自民党も、「もし民意が示されたらどうしよう」という怖れを抱いていた。彼らは、国策とは違う民意が示された場合に、自分たちの立場がどうしようもなくなることをわかっていたのだ。彼らは、自分たちが民意に反しているかもしれないことを、図らずも露呈していた。まだ示されてもいない民意に、怯えていた。

そういう意味では、民意というものに、対峙する前から敗北していたのは塩田知事であり、自民党であった。彼らは、民意を味方につけるのではなく、無視することを選び、だからこそ民意を怖れた。

まだ示されていない民意でも、これだけの力がある。

もし、民意というものが、はっきり示されたら、どれだけの力があるのだろう。脱原発なんて簡単かもしれない。

とはいえ、今の鹿児島県の民意が脱原発にあるとは、私は全然思わない。それどころか、無関心による消極的支持も含め、私の肌感覚では6割の県民は原発を支持している。はっきりと反原発の考えを持っている人は1割以下、5%程度だと私は思う。実際、天文館で反原発を主張してきた市民グループは、以前は残念ながら多くの人に無視されていた(と思う)が、そんな中でも粘り強く民意の形成に取り組んできたことが今回の結果に繋がった。

つまり、消極的であれ多数派が原発を支持している状況でも、塩田知事は民意を怖れたのである。民意は、とてつもなく強大だ。鹿児島県民が、その強大な力をいつかはっきりと示す日が、きっと来ると信じている。

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