2020年4月12日日曜日

鹿児島を理想郷にするために一番大事なこと

7月に鹿児島県知事選がある(はず、コロナウイルスの影響で延期されなければ…)。

それで、この機会に新知事(現職が再選されたとしても)にぜひ取り組んで欲しいことがあるので書いておきたい。

それは、男女共同参画社会の実現である。これこそが、鹿児島にとっての最重要課題だと言っても過言ではない。

ちょっと待ってよ! と多くの人は言うだろう。「それよりも、全国でも最低水準の県民所得を何とかしてよ」とか、「基幹産業である農林水産業の振興が急務!」とか「人口減少・少子高齢化社会の対応こそが喫緊の課題だろ」とか。

もちろんそうした問題は大事である。そして男女共同参画なんかは「そりゃ大事かもしれないけど、余裕がある時にやればいいんじゃない?」というような話かと思われている。

だが私はそれは全く間違いだといいたい。

というのは、鹿児島の発展を阻んでいる最大の要因は、女性に対する差別なんじゃないかと思うからだ。

その理由をちょっと説明させて欲しい。

鹿児島は「優秀な人材がどんどん流出していく」という問題を抱えている。最も出来がいい高校生は東京の大学に行き、大概は東京の企業に就職するからだ。ところがこれには明確な男女差があり、女子生徒はあまり県外に出ていかない。

それどころか、女子生徒は大学にすらあまり行かせてもらえない。鹿児島県の女子の大学進学率は35%未満で、毎年全国最低である。ちなみに男子の進学率も40%程度で全国的にドベに近く、鹿児島県は大学進学者自体が少ない(ちなみに全国平均は53%くらい)。それでも男子の進学率は、女子のそれよりも5〜10%高い。このジェンダーギャップが鹿児島は大きい。男尊女卑のイメージがある九州内各県で比べても大きい。

「データえっせい」より引用:2019年春の大学進学率
【参考】データえっせい ← ※このブログを書いている舞田さんは鹿児島県出身
都道府県別の大学進学率(2019年春)
都道府県別の大学進学率(2018年春)
都道府県別の大学進学率(2017年春)

もちろん、鹿児島の女子が男子(や他県の女子)に比べ頭が悪いということはないから、他県だったら大学まで行っているような女子が、鹿児島県の場合は行かせてもらえない、ということを意味する。「女の子が大学に行く必要はないだろう。行かせる金もないし」で、優秀な女子生徒が満足な教育も受けずに地元の零細企業で働いているのである。

これ自体が大変な問題である。大学進学率を引き上げるのはお金の問題もあるからさておいても、男女の進学率は等しくあらねばならないと私は思う。けれども、今はその問題はひとまず措く。

それで、こうした状況の結果、良し悪しはともかく、鹿児島は、一流の男性は東京に流出していってしまう一方、一流の女性はさほど流出していない、という現状がある。

実際、自分の高校の同級生など考えても(一応、鶴丸高校という鹿児島の進学校の卒業です)、出来のよかった男の友達などほとんど本社東京の企業に就職しているのに、女の友達についてはかなりの程度地元に残っている。

鹿児島の女性には、男性に比べ優秀な人が多いのだ。

管見の限りでも、鹿児島でのキラリと光るプロジェクトには、必ずと言っていいほど女性が裏方で大活躍している。仕事が早くて正確で、気のきく女性がとりまわしていることが実に多いのである。

ところが、やはりプロジェクトの代表は男性であり、ほとんど仕事の中核を担っているその女性が、全然大した給料をもらっていないことも、また呆れるほど多いのだ。

要するに、鹿児島の女性には優秀な人が多いのに、正当に評価されていない!

そして、より損失が大きいと思うのが人事面だ。そういう優秀な女性は縁の下の力持ちみたいな立場ばかりで、プロジェクトリーダーみたいに前面に立つことは少ない。当然、課長や部長になる女性は少ない。市役所なんかは女性職員の方が多いのに、幹部職員になると急に男性ばかりになる。本当は幹部職員になるべき優秀な女性が影に隠れ、さほどでもない男性が幹部になってしまっている。

鹿児島県の事業所の課長相当職の女性比率は、2016年でたったの14%しかない。

【参考】県の女性活躍の現状について|鹿児島県
http://www.pref.kagoshima.jp/ab15/kurashi-kankyo/danjokyoudou/joseikatuyaku/joseikatuyakunogenjo.html

でも、経済でも、行政でも、パフォーマンスを上げる最高の策はいつでも「優秀なリーダーを選ぶこと」なのだ。優秀な女性にリーダーをしてもらった方が、経済も発展し、行政もよりよくなるに決まっているのである。

しかし、現実に人事を担当している人は言うかもしれない。「そんなこと言っても、女性が幹部職員になりたがらないんだもん」と。確かにそれはそうだ。

鹿児島には「女性が表立って活動しづらい風土」がある。男が前面に立った方が、何かとスムーズにいく。そういう風土から幹部職員を避ける女性も多い。でも同時に、女性が家庭の仕事のほとんどをしているという現実もある。幹部職員になっても、毎日の食事を作り、風呂を沸かし、洗濯をし、日々のこまごまとしたことをこなしていかなければならない。仕事と家庭の両立が困難だから、幹部職員を辞退している女性もまた多いのである。

単純化して言えば、一流の女性の力が活かされず、二流の男性が動かしているのが、鹿児島の社会なのだ。

そして優秀な女性ですらそんなに割を食っているのだとすれば、普通の女性はもっと割を食っていると考えるのが自然である。私は、鹿児島の女性がひどく差別されて苦しんでいるとか言いたいわけではない。鹿児島の女性は男性をうまく立てながら、したたかに立ち回る術をわきまえている。鹿児島のオバチャンにはとても元気で人生を楽しんでいる方が多く、「男尊女卑だから女性は泣いてばかりいる」なんてことはないのである。

だが、差別とは構造的な問題である。確かに鹿児島の女性は見えない何かで縛られている。自分の能力を十全に発揮させてもらえない状態にあるのである。

そもそも社会はだいたい半分ずつの男女で構成されている。その半分を縛るということは、片方の足を縛って歩いているようなものだ。鹿児島県は、ただでさえ僻地にあり、人口減少・高齢化に苦しんでいる。にも関わらず片足を縛って歩き、他の地域と競争していかなくてはならない。こんなバカな話はない。まず、その縛っている見えない何かを解くべきだ。

女性の力をちゃんと発揮すること、これは、単なる人権問題ではなく、経済を成長させる原動力になり、産業の振興に繋がり、また人口減少問題にも有効な手段なのである。女性が家庭から出て働くことは、一見出生率の減少を招くようだが、女性が働きやすい社会とは、子どもを産み育てやすい社会でもあるからだ。

だから私は、男女共同参画社会の実現が、鹿児島にとっての最重要課題だと言いたいのである。それは人権問題であるに留まらず、経済政策として推進するに足るものである。「経済政策としての男女共同参画」を、鹿児島県は進めるすべきである。

ただしこの論理展開には一つ注意しなければならないことがある。仮に経済的に不利になる場合でも男女共同参画は進めなければならない、ということだ。それは経済よりもっと大事な、人権に属する事柄だからである。だから「経済的に大事だから男女共同参画を進めなければならない」のだと勘違いしてほしくない。 そうではなく「鹿児島県の場合、幸いにして男女共同参画に経済合理性があるから、強力に推し進められるはずだ」と言いたいのである。

じゃあ具体的に何を実施すべきか?

これまでの男女共同参画政策は、市町村に計画を策定させたり、講演会を開催したりといったあまり実効的でないものが多かった。でも鹿児島県の意識の遅れを考えると、強力なアファーマティブ・アクション(差別是正のための優遇措置)が必要である。例えば、商工会・商工会議所の補助金で、女性幹部職員の比率で露骨に補助率が変わるといったようなことだ。女性の経営者なら補助金取り放題で、無利子融資が受けられて、それどころか税金も割引にするっていうくらいやったらいい。私の言う「経済政策としての男女共同参画」はそういうものである。

またそれとは別に、女子学生への教育の提供も進めなくてはならない。優秀な女子学生が大学にすら行かせてもらえないというのは社会的損失だ。女子への給付型奨学金を創設すべきだ。また現状で「女子は短大で十分」といった意識があることも踏まえ、鹿児島県立短大の教育の充実(予算を増やす)、私立の女子学校(鹿児島女子短期大学、純心女子学園など)への大幅な支援も行うのが有効である。

そうして初めて、鹿児島はようやく平均並みの「男女平等」が実現できると思う。 そしてそうなった時、鹿児島の経済は全国ドベの状態から脱出できると確信する。

今般のコロナ禍においても、台湾の蔡英文総統、ニュージーランドのアーダーン首相、ドイツのメルケル首相など、世界の女性リーダーが非常に頼りになるのを見せつけられた。政治家などは人々の意識を先導しなくてはならないのに、日本の場合は普通の人より意識が遅れたオジサンが政治を率いているのが悲劇である。鹿児島の新知事には、21世紀に生きる人間として真っ当な人権意識があることを見せつけて欲しい。

私は、鹿児島という土地が大好きである。でも、一つだけいただけないのが女性差別が激しいことだ。女性差別さえなくなれば、鹿児島はほとんど理想郷みたいなところである。「鹿児島から第二の維新を!」というのがよく言われるが、私はそれを率いる第二の西郷さんは、女性であって欲しいと思っている。

「どーせ鹿児島は歴史的に男尊女卑なんだから」などというなかれ。明治期までの鹿児島はそうでもなかった、ということを昔ブログに書いたことがある(下のリンク)。未来は変えられる。新知事には男女共同参画社会を実現させることを強く期待したい。

(つづく(男女共同参画以外にも言いたいことがあるのでついでに書こうと思います))


【関連ブログ記事】
鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/09/blog-post.html

農村婦人、婦人部、農業女子
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2016/03/blog-post_17.html
 

2020年4月7日火曜日

豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1)

私の住む大浦町の西側には、亀ヶ丘という丘があって、ここから眺める東シナ海の様子は、ちょっと他ではないくらいの壮大な絶景だ。

そんな亀ヶ丘の、大浦町と反対側、東シナ海側にあるのが「秋目(あきめ)」という土地である。

ここは、天平勝宝5年(753年)に鑑真が艱難辛苦の末にやってきたところで知られる小さな港町。町を見下ろす斜面の上には、「鑑真記念館」という展示館がある。

【参考】鑑真記念館(南さつま市観光協会)
https://kanko-minamisatsuma.jp/spot/7564/

秋目は本当に猫の額のようにこぢんまりした土地で、浦を正面に見る集落の他はほとんど平地もなく急峻な山に囲まれている。明治時代までは、道らしい道も通っていなかったから、どこかへ出かけるときは船で出て行ったようなところだ。

集落は、まだかろうじて人が住んでいるが、空き家ばかりだ。既に人の住む力よりも、自然の力の方がずっと強い。亜熱帯の植物がそこかしこに繁茂し、徐々に集落に迫ってきている。このままでは自然が集落を圧倒してしまい、近い将来、ボロブドゥールやアンコールワットのように密林に覆われてしまうのではないかと思われる。

鹿児島には、こういう寂れた港町がたくさんある。お隣の久志や坊津だってそうだ。かつて栄えた港町がいかに凋落したか、そういう昔話も掃いて捨てるほどある。だが秋目は、他の港町とは違う謎がある。

これから、その謎について少し語ってみたい。

鑑真記念館のすぐ下に秋目の墓地があって、そこに藩政時代の墓石がいくつか並んでいる。謎の入り口は、この墓塔群が豪華すぎることである。

ここに並ぶ最大級の墓石は、ほとんどが山川石でできている。山川石とは、その名の通り山川(現指宿市山川地区)で採れる石材で、ノコギリで切れるほど柔らかく加工に適すと同時に風化には強いという性質の石である。これは歴代の島津家当主夫妻の墓石に用いられた高級石材で、並みの人は使うことができなかった。

また最大級の墓石でなくても、秋目の墓地には山川石製の墓石が多い。この大きな墓塔群の裏手には昔の子どもの墓塔(小さな石に地蔵菩薩が刻まれる形式が多い)が整理(廃棄?)されて大量に積まれているが、それもほとんど全て山川石でできている。山川周辺は例外として、他の地域ではこのようにふんだんに山川石の墓石が使われることはない。

秋目は、子どもの墓塔までも山川石で作ることができるほど、豊かな地域であったということだ(もちろん、かつては子どもの墓塔を建てること自体も贅沢だっただろう)。

しかしここで不思議なことがある。『坊津町郷土誌』などを読んでも、秋目が豊かであったとは一言も書いていないのである。いや、それどころか、秋目はとても貧乏だった、と述べられているのだ。

江戸時代、薩摩藩では「外城制(とじょうせい)」というのがあった。薩摩藩は異常に武士の比率が高かったから、武士を城下町にまとめて住まわせることができなかったし、また防衛上・行政管理上の理由から、藩内を100あまりの「外城」という地域に分けて、武士をそこに分散して住まわせたのである。武士が住む集落を「麓(ふもと)」という。

江戸時代の当初、秋目は最小の外城として設置される。ところがあまりに小さすぎたのか、追って久志と合併して久志秋目郷(「外城」は「郷」に改称された)となった。代わって最小になったのが山崎郷(現さつま町山崎)らしい。しかし山崎郷がどんどん開墾して石高を大きくしていったのと対照的に、久志秋目は山に囲まれて開墾の余地はなかったから、明治時代までに久志秋目郷の石高は山崎郷を下回っていた。当然のことながら秋目には石高の大きな武士(郷士)は存在せず、武士といえども貧乏暮らしに耐えなければならなかった。

事実、秋目は藩からの要請に対して、「秋目は貧乏で疲れた郷で、船大工などをしながらやっとのことで武士としての務めを果たしているような状態ですから、○○は免除してもらえるようお願いします」といったような公文書をたびたび出しているようである。

では、秋目はごく上級の武士のみが立派な墓塔を建てていただけで、ほとんどの武士は貧乏だったということなのだろうか。

ところがまた不思議なことがある。実は秋目は藩政時代、ものすごく人口が多かったのである。明治時代の統計になるが、明治17年、秋目には1328人(うち士族402人)の人が住んでいた。一方、当時の加世田の人口は3488人だったという。面積で言うと、加世田は秋目のゆうに10倍以上はあるだろう。にも関わらず、加世田の人口の4割に当たる人がこの狭い秋目に住んでいたというのだ。とんでもない人口密度である。秋目が本当に「貧乏で疲れた郷」であれば、このような人口は維持しきれなかったはずである。

このように、秋目は、墓地の様子や人口から考えると非常に豊かな地域だったと思われる。しかし、史料上では貧乏な地域として登場する。

秋目は本当は、豊かだったのか、貧乏だったのか、どちらだったのだろうか?

(つづく)

【参考資料】
『坊津町郷土誌』1969年、坊津町郷土誌編纂委員会
麓 街歩きマップ 2019』 2019年、鹿児島大学工学部 建築学科 鰺坂研究室

2020年3月30日月曜日

稼いだお金を使える地域——大浦町の人口減少(その5)

(「共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)」からの続き)

「地方創生」に関していつも言われることがある。「稼げる地域」にならなきゃいけない、ということだ。

内閣府も「稼げるまちづくり」を標榜して政策パッケージをまとめているし、実際、限界集落から復活したような地域では、取り組みの根幹にちゃんとした「金儲け」の仕組みがある。

逆に、いくら地域住民がやる気でも「ボランティア活動でまちづくり」「生きがいづくり」「都会から来た人をおもてなし」みたいなことばかりをやっている地域は、(その活動自体は全然悪くはないのだが)結局は長続きしない。その活動が維持されるのに十分な利潤がないのだから。

だから誰しも「地方創生」のキーは「稼げる地域」になることだと考えている。

しかし大浦町の場合、干拓事業をはじめとした農業の近代化によって「稼げる地域」になったはずなのに衰退してしまった。

例えば 1960年、大浦町ではどんな農家でも、年間の農産物販売総額は100万円にも満たなかった。ところが干拓事業など基盤整備と機械化が進んだ結果、35年後の1995年には1000万円以上売り上げる農家が16戸が出現。そのうち8戸は2000万円以上も売り上げがあったのである(「農林業センサス」による)。

既に述べたように、規模を急拡大した農家には莫大な借金を抱えた人も多かったから、 売上の拡大はそのまま所得向上であったわけではなかった。でもその莫大な借金を返していけるだけの収入上昇があったのも間違いない。大浦は確かに「稼げる地域」になったのだ。

ではなぜ、木連口の商店街はシャッター通りになってしまったのか。

大浦の人々は、昔に比べてずっと豊かになった。にもかかわらず商店街からは活気が失われ、多くの店は消え失せてしまった。統計から見ると矛盾するようなことが、この50年で起きた。いや、これは大浦だけの話ではなく、日本の多くの農村的地域で共通して起こった奇妙な現象だ。

それは、お金の廻り方が変わってしまったからだ、と私は思う。

50年前の農業は、多くを人力に頼っていた。少ない売上は、ほとんど全部が人件費に回っていた。もちろん人件費といっても雀の涙のようなものだったし、家庭内での労働が多かったから給料として払われる分はさらに僅かだった。だが重要なことは、そのお金の使われ方が今とは違ったことだ。 人々がポケットの中に持っていた僅かなお金は、ほとんど町内の誰かに支払っていたのである。

だから、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続けた。

例えば単純化されたモデルとして、百姓のAさんと、漁師のBさんのみで構成された村の経済を考えてみよう。

まず1月に百姓Aさんが漁師Bさんに野菜を1000円で売る。そしてBさんはAさんに魚を1000円で売る、とする。ここでお金がどう動いたか見てみると、最初Bさんが持っていた1000円が、またBさんに戻ってきたということにすぎない。AさんもBさんも1円も儲けていない(手持ちのお金が増えていない)。しかし、お互いの手元には魚と野菜がある。

次に2月にも同じ取引が行われるとする。今度もお互いに野菜と魚を売り、手持ち資金は増減しない。同様にこれが12ヶ月間続いたとしよう。二人の経済はどうなっているか。Aさんの野菜の売り上げは1万2000円である。Bさんの魚の売上も1万2000円である。ただし、二人の手持ちのお金は1円も増えていない。もちろん魚や野菜が手に入ったので、それを自家消費するとすれば、数字に表れない利潤はある。

だがここで強調したいのは、この1万2000円ずつの売上に相当する取引が行われるのに、この経済にはたった1000円あればよかった、ということだ。1000円札が1枚あって、それが二人の間を行ったり来たりして、2万4000円分の取引が行われたのである。いやもっと言えば、それが1000円札である必要すらなく、仮に100円玉でも同じ取引が行われたということだ。かつての自給自足的な大浦町の経済も、おおよそこんなものだったと考えたらよい。

ポケットの中にあったお金が、町内の誰かの手に渡る。するとそのお金はまた町内の誰かの手に渡って、めぐりめぐって最初の人に戻ってくる。こうして、ほんの少しのお金はどんどん町内を回っていたのである。たった1000円しか存在していない現金が2万4000円の売上を生んだように、ポケットの中の僅かなお金はたくさんの売上に変貌するのである。

これが、昔の貧しい大浦町で、木連口の商店街が賑わっていたことの理由である。確かに人々は貧乏だった。だが昔の大浦町は良くも悪くも閉鎖的で、そのお金は地域内で循環していたから、人々が手元に持っている現金以上の価値が生みだされていたのである。

さて、今度は先ほどのモデルで、百姓Aさんが農業の機械化・大規模化などに取り組み、農産物を都会に売るようになったとする。Aさんは毎月3000円分の野菜を都会に売り(=年間3万6000円)、年間2万円の機械の費用を支払うものとする。今度はAさんは1万2000円分の魚を購入したとしても、手元に4000円手元に残る。確かにAさんは豊かになる。Bさんも漁業を同じように近代化させれば、二人とも豊かにはなる。自給自足的な経済よりも、都会にものを売った方が村は豊かになる。

見かけにはそうだ。しかしちょっと待って欲しい。野菜の売上3万6000円、機械の購入費用2万円は、どちらも村の外側で取引したお金である。先ほどのモデルでの野菜の売上1万2000円分は、村の中でお金が行ったり来たりして生みだされたものだったが、今度の3万6000円はいわば「外貨」である。もちろん「外貨」を稼ぐことはいいことだ。だがその稼いだお金のうち2万円は、逆に村の外側に出て行く。今度はAさんの取引の場は、村の外が中心になる。それは即ち、村の活気=村内の活動量が減少することをも意味する。

こうなると、村の中でお金が循環することはなく、村の外で稼いだお金を村の外で使う、ということになっていってしまう。Aさん個人の立場で考えれば村の外と取引する方が利潤は多いが、村のみんながそれをやれば村の経済は空洞化していく。

現代の農村は、全てがこの経済構造にあるといっても過言ではない。例えば私はかぼちゃをつくって農協に出している。そのかぼちゃは東京や大阪で売られる。もちろん柑橘類もそうだ。私はそうして稼いだお金をAmazonで使う(笑) 。だから大浦町の経済には、あまり貢献しない。

要するに、人は地元でお金を使わなくなった。だから大浦町の商店街は、町民が豊かになったのに衰退したのである。

そんなの当たり前じゃないか! と人は言うだろう。「地元経済の空洞化」なんて、それこそ何十年も前から言い続けられてきた。たったそれだけのことを、今までくだくだしく説明しすぎたかもしれない。でも私がこの言い古されたことに一つ付け加えたいのは、人々が地元のお店よりも遠くのディスカウントストアで買うようになったからそうなったのではなく、それは農業の機械化・近代化によって不可避的に起こった、ということだ。

農業機械メーカーは地域外にあるし、機械のお金を払うためには「外貨」を獲得する必要があるからだ。そして、機械化は大規模化をもたらし、大規模化は農業の人口減少をもたらした。それはさらに地域経済の空洞化を加速させた。

単純に言えば、農家は今まで「人」に払っていたお金を「機械」に払うようになった。費用という意味ではそれは同じだが、人に払ったお金は、地域の中を巡るお金になって、また誰かの収入となり、誰かの生活を支えていた。貧乏だった大浦町の木連口通りに、最盛期では11店もの理容・美容室があったのはそういうわけだ。稼いだ「外貨」は少なくても、その少ないお金が巡ることで雇用が生まれていた。人がたくさんいたから、人を相手にする商売も成り立った。

だが「機械」にお金を払うようになると、そういう循環がなくなった。農産物を都市部に売って稼いだお金で、都市部でできたものを買うのだ。それは、かつて1000円が1万2000円の価値を生みだしたように地域内を巡るお金ではなく、入って、そして出て行く、素通りする1000円なのだ。

これで、大浦が「稼げる地域」になったのにも関わらず、むしろ商店街が衰退していった理由がわかると思う。そして、おそらくそれが不可避的なものであったことも。

このように考えると、今の「地方創生」で盛んに言われている「稼げる地域」になれというスローガンは、不十分なものだとわかる。確かに稼げなくては地域が成り立って行かない。でも大浦のように、「稼げる地域」になっただけでは衰退を防げない。では何が必要か。これまでの議論で明らかだろう。

それは、「外貨」を稼ぐことより、「地域内でお金が循環する仕組み作り」である。

私たちはともすれば、「全国に売れる商品」の方が、地域内で消費されるありふれた商品よりもすごいものだと思いがちだ。しかし地域経済の全体像を考えた時、「全国に売れる商品」を持っている地域よりも、地産地消されるありふれた商品が豊富な地域の方がずっと豊かになる可能性があると言える。例えば(極端な例だが)ひたすらカカオ豆を生産するコートジボアールの村のような経済は、カカオ豆という「全世界に売れる商品」を持っているが豊かになれる可能性はほとんどない。一方で、鹿児島には「全世界に売れる商品」はほとんどないが、地産地消率の高さを考えると発展の可能性がずっと大きいのである。

では、「地域内でお金が循環する仕組み作り」とは具体的になんだろうか。遠くのディスカウントストアで買うのではなく、地域のスーパーや物産館でなるだけ買いましょう、という話なのだろうか。それも一手かもしれない。私はガソリンは(安い鹿児島市内ではなく)なるだけ地元で入れるようにしているし、少し割高でも地元スーパーを使う。でもそういうのは、心がけの話であって大勢に影響を与えない。なぜなら、ガソリンにしてもスーパーで売っているものにしても、ほとんどが他の地域から仕入れたものに過ぎないからである。

別の言葉でいえば、原価率が高い仕入れ商売は地域外との取引を仲介しているだけだから「地域内でお金が循環する」部分が小さいのである。しかし農村が文明的生活を送るために必要なものは、ほとんど全て地域外から購入しなくてはならない。ガソリン、PC、携帯電話、家電製品、車、生活に必要なあらゆるもの…。地域内でお金を循環させられないのは当然である。

だが文明的水準を保ちつつ地元で地産地消できるものもある。代表はサービス業だ。例えば美容室。大浦町には今でも美容室がいくつかあるが、こういうのはお金の循環に役立っている。他にも、マッサージ、ラーメン屋、飲み屋、福祉施設(デイサービス等)といったものは地域外のサービスでは代替できない。実際、人口減少した地域でもこういう職種は意外としぶとく残っている。

もちろん、 田舎であれば顧客の数は少ないからサービス業の経営は厳しい。しかし商売に必要な固定費は非常に低く抑えられるという利点もある。売り上げが少なくてもそれなりにやっていける環境がある。

それどころか、都会の商売は常に売り上げがないとすぐに経営が行き詰まるという欠点もある。売り上げも大きいがそれにかかる費用も大きいのである。田舎では固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売が可能である。そういう面では、都会よりもかえって自由な発想でビジネスを組み立てられると思う。

だから「地域内でお金が循環する仕組み作り」は、地域の住民を相手にした、少ない売り上げでもやっていけるサービス業(のお店)をつくることだと思う。例えば、カフェ、飲食店、ヨガスタジオといったものが考えられる。

とはいえ、そうして出来たお店を地域住民が使わないことにはいくら固定費が安くても経営はやっていけない。地域のお店を積極的に使うという姿勢が必要なのはもちろんである。

「地方創生」のためには、もちろん「稼ぐ力」も大事だが、「稼いだお金をどう使うか」ももっと重要なことなのだ。せっかく稼いだ「外貨」をAmazonで使ってしまっていては、そのお金は地域経済を素通りする。だから「お金の使い方」を少し変えるだけで、もしかしたらその地域はもっと多くの人を養えるようになるかもしれないのである。

かつての大浦町は、貧しくてもたくさんの人が住み、活気に溢れたところだった。そして「理想の農村」になるよう努力した。広大な干拓地を造成し、農地の効率化を行い、積極的に機械化を推し進め、他の地域に先駆けて農業の近代化を達成した。しかしそれが不可避的に招いたのが、鹿児島県でも最も急速な人口減少であった。その背景には、人々のお金の使い方の変化がかなり大きく影響していたと私は思う。大浦町は「稼げる地域」にはなったが、お金を町内で使わない地域になっていたのである。

もう一度言うが、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続ける。大浦町が失敗したことが一つあるとすれば、それはお金が循環する経済を創り出せなかったことだ。

でもまだ遅くはないのである。町内でどうにかするのは無理だとしても、「南薩」くらいの単位であれば、そういう循環はまだまだ可能だ。

大浦町には干拓や基盤整備された効率的な田んぼがある。悪条件の山村に比べたら間違いなく「稼げる地域」だ。あとは「稼いだお金を使える地域」にもなれば、その時に本当の意味での「理想の農村」になれるのだと、私は思っている。

(おわり)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎  

2020年3月14日土曜日

突如として出現しただだっ広い公有地をどう使うか

国道226号の、大浦の入り口にある物産館「大浦ふるさとくじら館」の、その隣に、昨年、結構広い土地が出現した。

ここは以前田んぼだったところだが、湿田だったためか、それとも水がなかったためか、それはよくわからないけれども、とにかく耕作放棄地になっていた。

それが、土砂の搬入地となり、あれよあれよという間にかさ上げされ、サッカーフィールドくらいの広さのなだらかな台地になった。この土砂というのは、国道226号線を南下したところに昨年掘削した「笠沙トンネル」を掘った時に出たものだ。

要するに、「笠沙トンネル」を掘った土が大浦に運ばれて、その土で結構だだっ広い土地が出現したわけだ。

このことはちょっとした機会に耳に入ることがあったし、ここへ土砂が搬入してくる時も「笠沙トンネルの土砂を運んでいます」みたいな表示があったから、みんなわかっていたことだろう。

ただ、わからないのは、この新しくできた土地をどう使っていくのか、ということである。

「大浦ふるさとくじら館」には駐車スペースはたくさんあるが、そのほとんどが裏手の第2駐車場で正面側にはあんまり車は駐められない。混雑期にはすぐに駐車場に入りきらなくなってしまうので、駐車スペースの増設が求められていた。ということで、この新しいスペースの一部は「くじら館」の駐車場になる、という話がある。

しかしそれは道沿いのごく一部で済んでしまう。残り90%以上の広い土地は、どうやって使うのだろう?


私は常々、鹿児島の公共事業は、説明不足が致命的欠陥だと思っている。というか、正確に言えば「地域住民に事業内容を説明しないといけない」という考え自体がほとんどないように見える。

今思い出したが、以前もそういう記事を書いたことがある。

【参考記事】大浦川の改修工事にこと寄せて
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/01/blog-post_23.html

関東の方だと、公共事業だけでなく民間の大工事(巨大なビルの建設等)においても、工事現場の説明版に「このような工事をしていて、完成予想図はこれです」みたいなことが説明されるのが普通である。 ところが鹿児島の場合、法律によって表示しなくてはならない工事概要の他に、完成予想図などが掲示されることは極めて稀な気がする。

一昨年、加世田の本町公園(南さつま市観光協会の隣の公園)が大改修した時も、完成予想図一つ掲示されていなかったように思う。もしかしたら本町の住民には説明会があったのかもしれないが、仮にあったとしても、広くお知らせして要望や意見を聞くといったようなことはなかった。あくまでごく一部の関係者で情報共有しておしまいなのだ。

みんなが使う公園ですらこういう感じだから、今回のように土砂搬入がメインの工事で事業内容がほとんど説明されないのはまあ当然である。

私は、公共土木事業には反対ではない。ただ、事業内容がブラックボックスで決まり、住民との対話もなく、「由らしむべし、知らしむべからず」式に上から与えられるだけの公共土木事業はまっぴら御免なのだ。せっかく実施する土木事業だから、住民の夢や希望が詰まったものであってほしい。せっかくお金を使うのだから、より愛される施設になってほしい。そのためには、「開かれた公共土木事業」になる必要がある。

特に鹿児島の経済は公共土木事業に負っている部分が大きいのだから、日本の公共土木事業をリードする、というくらいの気概を持って欲しい。それは施行の内容はもちろん、周囲と調和したデザイン、環境保護やメンテナンス性など、色々な観点から見て先進的なものであるべきで、そして設計段階からの地域住民と対話し、多くの人のアイデアや希望を踏まえる、というプロセスも一流のものであって欲しいと思う。

……ちょっと話が広がりすぎたが、話を戻すと、昨年、大浦にだだっ広い公有地が突如として出現したわけだ。これをどう使うのか?

私はアイデアのない人間なので広い芝生の公園にするくらいしか思いつかないし、それすらも維持費を考えるとグッドアイデアとは言えない。でもだからといって、土砂搬入したところをなし崩し的に藪にしてしまうというのは、公共事業としてちょっと問題ありだ。市の方で何か考えがあるならそれを住民に示して意見を聞いて欲しいし、何も考えがないならなおさら意見を聞いて欲しい。その結果、どうしようもないよね、といって藪になるなら全然OKである。


もちろん、役所が住民と対話するにあたっては、住民の方にもそれなりの見識が求められる。そういう説明会をすると、文句を言いたがりの「話が通じない人」がしゃしゃり出る、という問題も確かにあって、役所が敬遠するのも無理はない面がある。

しかし大浦は小さなコミュニティーである。穏当な対話が成立すると信じる。この土地をどう使うか。または使わないか。そんな対話が始まることを期待している。

2020年3月7日土曜日

保護者の声で学校が動いた…! はずがそれを教育委員会が止めた話

新型コロナウイルス対応ということで小学校が休校になった。南さつま市の場合、とりあえず3月13日(金)まで休校ということである。うちの娘たちはどこにも行くことも出来ず、早くも家の中で煮詰まってきている。

全国的な状況はともかくとして、未だ発症がない鹿児島県で、しかも高速道路も鉄道も通っていない僻地南さつま市で休校措置が必要だったのか、よくわからない。いや、おそらく休校しなくてはならないほどの逼迫した状況ではなかったと思う。

それはともかく、今書きたいのは実は新型コロナウイルスのことではない。だいぶ話が飛ぶようだが小学校の運動会日程のことについてなのだ。

南さつま市では、小学校の運動会は9月最終週または10月最初の日曜日に開催するのが定例になっている(そうでない学校もありますが大体)。うちの娘たちが通う大浦小学校の運動会も昨年は9月29日にあった。

しかしこの時期はまだまだ暑い。当日も暑いがそれ以上に暑いのは練習期間! 昨年は全体練習の時など3人も気分が悪くなったほどだ。まだまだ殺人的な暑さが続く9月の炎天下に練習するのだから当然だ。

別にこんな暑い時にする必要はないんだから、もっと涼しい時期に運動会をしたらよい。1964年の東京オリンピックでも日本は真夏にスポーツするには適さないということで10月にずらしたんだし(なぜ2020年の五輪ではずらさなかったんでしょうか?)。それで10月10日が「体育の日」になったわけで。

ちょうど私はPTAで「保健体育部長」という役員をしていたので、「学校保健・安全・歯科保健講習会」という鹿児島県教育委員会がやっている会議でこれについて発言してみた。

すると県教育委員会はあまり問題視していなかったが、参加されていた先生方(主に養護教諭の方=保健室の先生が多かった)から会議後にすごく反応があり、「よく言ってくれた。盛夏の練習は教員にも負担が大きい。涼しい時期に変えるべきだと私も思っている。でも現場の声は上の方に届かない。上の方は、「運動会は夏でないといけない」と思い込んでいる」「うちの小学校でも、今年は9月に運動会があったので死人が出なくてよかったと思ったのが正直なところ」「教員が言っても変わらないので保護者の声が大事」などと5人くらいの先生から矢継ぎ早に賛同の声をいただいたのである。

こうした声にも後押しされて、運動会終了後にPTA役員会で問題提起したところ、校長先生とPTA会長にもよく理解していただき、保護者アンケートを取ることになった。その結果は、半分くらいが「できたら後ろ倒しした方がいい」というものだった。ちなみにこのアンケートでは数年前から話題に出ていた町民運動会との合同開催についても今後前向きに検討していくという機運が得られた(私が提起したわけではないけど)。

それで、いきなりは日程は変えられないが、2020年の運動会はとりあえず1週間後倒ししましょう、ということになった(小学校の行事だけではなく様々な地域行事(中学校や保育園の運動会、大浦まつりなど)との兼ね合いがあるため)。たった1週間のことであるが、保護者の声で学校が動いた…!

…はずだった。だが、それに待ったをかけたのが市の教育委員会!

「2020年は「かごしま国体」があって10月はものすごく忙しいから、運動会日程は市内小学校で統一したい」というのである。といっても、小学校の運動会に市教育委員会が関わるのは来賓関係のみだ。来賓の都合がつかないから日程はずらせないというのである。

これには私もガッカリした。まあたった1週間のことで、熱中症予防の観点からは実際あまりリスクは変わらないと思っていたから別にゴネはしなかったものの、そういう本質的でない理由で止められるとは心外だった。

ところがである!! 今度の新型コロナウイルス対応では、政府からの「要請」(と県からの指示もあったらしい)を受けて臨時休校を決定した。運動会を1週間ずらすよりも、ずっと大きな課題や調整事項があったにもかかわらず!

運動会日程については、小学校では日程をずらすにあたって地域の体育協会とも相談をし、PTAでもアンケートを取って、それなりに議論を積み上げてきた。しかしそういう下からの意志を無下にする一方で、上からの思いつきの「要請」にはすぐに随うのか。公務員組織だから上意下達は当たり前といえば当たり前だが、それにしてもどちらを向いて仕事をしているのかはっきりわかった気がして残念だった。

新型コロナウイルスも、熱中症もどちらもリスクである。実際、2018年には学校の活動中に愛知県で小学1年生が熱中症で死亡している。また運動会の練習中に熱中症で搬送される小学生はけっこう多い。そういうリスクと、それを心配する保護者のことはほとんど考えもしない市の教育委員会はなんなのか。

新型コロナウイルスでの休校措置の是非はとりあえずおく。ただ、市の教育委員会はもう少し保護者の声にも耳を傾けて欲しい。

2020年1月23日木曜日

共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)

(「いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか」からの続き)

大浦のメインストリートを、木連口(きれんくち)通りという。

南北に延びる、700mほどの通りである。今でも、役場、銀行、役場、郵便局、スーパー、農協、ガソリンスタンドなどが並びメインストリートとしての名目は保っているが、まあ有り体に言ってシャッター通りになってしまっている。

しかしこの通りが最も賑やかだった昭和20年代は、たくさんのお店や家がこの通りを埋め尽くしていた。年末の歳の市になると、すれ違うこともできないほどの人でごった返したという。大浦干拓が完成した昭和40年代にも多くの店が軒を連ねており、この700mに電器店だけで4店もあった。理容・美容室に至ってはなんと11店も(!)あったのである。美容室が犇めく東京・南青山でもそれほどの美容室の密度はないかもしれない。

かつての大浦の絶望的な貧しさを考えると、理容・美容室がとんでもない密度で存在していたことが不思議なくらいである。既に述べたように、昭和60年代になっても大浦町民の平均所得は全国平均の半分、鹿児島県の平均の70%しかなく、全国でも有数の貧乏地帯だったのだから。にも関わらず、木連口通りが活気に溢れていたことも同様に事実だった。

東南アジアや南米などを旅してきた人は、この貧しさと活気の両立を別段不思議とも思わないかもしれない。統計で見れば極貧の地域で最低の生活を余儀なくされているボロ屋街の人々が、実にアッケラカンとしてせせこましくなく、通りは活気があって人々は元気だということがたくさんあるのだから。いや、そういう地域の貧乏な人たちの方が、立派な企業に勤める高級住宅街の人達よりもずっと生き生きして人生を謳歌しているように見えることもしばしばだ。

だから過去の大浦が、全国有数の貧乏な町であったことと、木連口通りに活気があったことは矛盾しない。ポケットにはお金はなかったが、みんな若く無鉄砲で、将来の心配などせずその日暮らしをしていた。事業計画書などなしに新しい商売を筵(むしろ)一枚で始め、うまくいかなければさっさと辞めた。通りには入れ替わり立ち替わり新しい商売が生まれ、消えていった。大浦だけでなく、日本中がそういう時代だった。

——どうして、この活気が失われてしまったのだろう。

ここに掲載したのは、1955〜1995年の大浦町の人口・世帯数・高齢化率のグラフである。

1955年(昭和30年)には7500人以上いた人口が、30年後の1985年には約半数の3700人あまりに減ってしまった。この人口減少は、若者が町を去ったために起こったので、高齢化率は逆に10%未満から30%以上へと急上昇した。通りから活気が失われた直接の原因は、この高齢化である。

これは日本の農村に共通した傾向ではあった。産業の中心が農業を中心とした第一次産業から製造業など第二次産業へとシフトし、農村の若者たちは「金の卵」と言われて集団就職で上京していった。だが大浦のように変化が急激だったのも珍しい。だからこそ大浦町は鹿児島県で第1位の高齢化自治体になったのである。

なぜ大浦の人口減少はかくまでに急激だったか。

干拓事業やそれに続く基盤整備事業、そして農業の大規模化・機械化といった意欲的な動きがあったにも関わらず、同じ時期に人口が急減しているのは傍目には不可解だ。しかし実はこれらの動きは連動していたのである。

というのは、農業の大規模化・機械化が急速に進んだ原因は、人々の意欲だけではなかった。むしろ人口減少への対応という側面もかなり存在したのである。例えば、昔の田植えというのは、一族総出で行われなくてはならない一大行事だった。ところが若手がどんどん都会へ出て行ってしまうと、十分な人手が集まらなくなる。そうなると機械で田植えをしなければしょうがない。ある意味では、人々はやむにやまれず機械化に進んだのである。

そして、農地の規模拡大はより人口減少と関わっていた。既に述べたように、干拓以前の大浦の農家の平均的な規模は30aほどだったが干拓地では3haと10倍になり、その他の地域でも徐々に規模が拡大していった。ということは、農地の総面積はそれほど変わらない以上、農地の規模が10倍に増えることは、農家数は10分の1に減ることを意味する。

これは、零細農家が競争に負けて廃業していった、ということではない。後継者のいない農家が自主的に廃業していった結果であり、農業の近代化がそれについていけない零細農家を淘汰したわけではなかった。むしろ、この時期の大浦の農業に機械化・大規模化のトレンドがあったことは、そうした廃業農家の耕作地がスムーズに集積され、荒廃せずに済んだというプラスの面が大きかった。

しかし農業の大規模化・機械化が進めば進むほど、人口減少が加速していったこともまた疑い得ない。今まで5人必要だった作業が、機械の力を借りて2人でできるようになる。今まで10人の人手で耕した田んぼが、トラクターでは1人で耕せる。このように省力化が進んでいくと、同じ農業を続けて行こうにも、自然と人間があぶれて行ってしまう。

若者は、ぼーっとしているように見えても、こういう趨勢に極めて敏感である。「自分はいずれ、ここにいなくてもよい人間になる」、うすうすでもそう感じれば、自然と外に目が向くのが若者だ。逆に言えば、この時期に農業の大規模化や機械化のトレンドがなく、相変わらず人手に頼った農業をしていれば、ある程度の若者はイヤイヤながらでも大浦に踏みとどまったかも知れない。「自分がいなければこの家はやっていけない」と思えば責任感から人生を選択する人はけっこう多い。

しかし実際には、大浦の農業は急速に近代化しつつあり、人手に頼らなくてもすむ形へと変わっていった。人口減少の流れがある以上、そういう形に変えて行かざるを得なかったからだ。農業の大規模化・機械化は人口減少の原因ではなかったが、それを助長する要因ではあった。

農地の大規模化・機械化・人口減少は「共鳴」し合いながら加速していったのである。この共鳴する加速関係があったことが、大浦が鹿児島県で第1位の高齢化自治体になるほど急激な人口減少がおこった理由であった。

このように書くと、町の発展のために行われた干拓事業や基盤整備事業、そして個々の農家の大規模化の努力が裏目に出たかのように感じる人がいるかもしれない。仮にそうした動きがなく、人々が狭い耕地で人手に頼った昔ながらの農業をしていれば、急激な人口減少は避けられたのかもしれない。事実、大浦よりももっと僻地の山村で意外と人口が維持されたケースはあった。でもそれは長期的に見れば、静かに廃村へ歩んでいくことにほかならなかった。基盤整備をしない狭い田んぼばかりの土地は、いずれ耕作が不可能になることは明らかだからだ。牛や馬で耕す人は今や誰もいない。

だから大浦が早い時期に農業の近代化に取り組んだことは、急激な人口減少という痛みはあったものの、長期的に見れば町の発展に寄与したのである。今でも大浦は耕作率が高く、主要な水田にはほとんど耕作放棄地がない。それに町にとっては人口減少は痛みだったかもしれないが、出ていった若者を見てみれば、大浦で農業をするよりもずっと実入りのいい仕事に就いた人が多かった。やりたいことができずに農業をやらされるより、都会に出て行くことができたのはよい面もあった。

もちろん、本当なら生まれ故郷を離れたくなかった、という若者もたくさんいただろう。そうした若者に町内でよい就職口を準備できなかったのは残念なことだ。だが当時の人達に何ができただろう。農業の生産性を上げる、というのが純農村地帯であった大浦にとって唯一にして最大の経済政策だったことは間違いない。 結果的に激しい人口減少を招いたのはわずかばかりの皮肉だったとしても、大浦の農業を持続可能なものに変革した功績は計り知れない。

大浦は、時代に取り残された遅れた地域だったから人口減少したのではない。

逆だ。時代を先取りし、他の地域に先立って農業の大規模化・機械化が進んだために、人口減少や高齢化をも先取りしてしまったということなのだ。それが、同時期に過疎が進んだ他の農山村との際だった違いだったと私は思う。

でもそれにしても、いや、そうであればこそ、近代的な農村に生まれ変わった大浦のメインストリートが、やはりシャッター通りになっていったことの意味を問わなければならない。大浦が遅れた地域だったのであれば、木連口通りが衰退した理由は簡単だ。しかし大浦は農業の近代化によって「稼げる地域」になっていったはずなのだ。人口減少があるにしても、もはや昔のような極貧の地域ではなくなっていた。それなのに商店街が寂れていったのはどういうわけだったのか。

(つづく)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎 

2020年1月17日金曜日

いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか——大浦町の人口減少(その3)

大浦からよその地域の農業を見てみると、機械化の遅れに驚くことがある。

例えば、鹿児島市内の近郊でも、未だに結構お米の天日干しがされている。そして田んぼの形は山の地形に沿ってぐにゃりと曲がっていたりする。そういうところの農業は傍目にはのどかで美しいが、実際にやるのは大変で、ほとんどボランティア活動みたいな気持ちでないとできない。

一方、大浦ではお米の天日干しはほとんどない。収穫はほぼ100%コンバイン。コンバインでの稲刈りと乾燥機での乾燥は、バインダー収穫と天日干しに比べ数分の1の労力だ。一度コンバイン収穫に慣れてしまえば、天日干しにはもう戻れない。

私は大浦で就農した時、大浦は農業の機械化が進んでいるとは特に思っていなかった。しかし研修などで他の地域を訪れて農業の実態に触れてみると、「大浦って、小規模な農家も割と機械化が進んでいるよな」と思うようになった。

大浦では、干拓は別格としても、町内の主要な農地も整形された四角い田んぼが中心になっていて、大きな農業機械で合理的に耕作されている場所が多い。ちいさな耕耘機でえっちらおっちら田んぼを耕すようなやり方は、僻地の農山村だとそんなに珍しくないものだが、大浦ではそういうのは趣味的な農業を除いてほとんど存在しない。同程度の農山村と比べれば、大浦は明らかに農業の機械化先進地である。

——この機械化をもたらしたのは、大浦干拓の影響だろう。

広大な干拓地を耕作するためには機械化は必然だったが、それは干拓地以外の農業にも波及した。干拓で活躍する効率的な機械仕事を見せつけられ、山間部で農業をやっている人もこれからの農業は機械を使わなければできないことを痛感したのだ。

農家というのはだいたい保守的である。というより、耕作大系というのはいろいろな要素が絡み合っていて一部だけを変えることは難しいから、自然と前年踏襲的になるのである。だから、仮に便利な農業機械が開発されたとしても、それを積極的に導入する人は限られる。ところが、農家は隣の農家がやっていることはよく見ている。隣の農家が新しい機械によってうまい具合に作業を合理化したと見るや、それを導入するのにはあまり躊躇がない。右へ倣え主義というよりも、実証されたことはすぐ取り入れるのもまた農家である。

であるから、干拓地での機械導入は大浦全体の農家に高い機械化意欲をもたらした。第一線の大規模農家が巨大なトラクターを持っているのは当然としても、大浦の場合はそれに次ぐ規模の農家もけっこう大きなトラクターを導入していることが多い。これは、まず機械を高機能化させてから経営規模を拡大していく、というやり方が大浦でセオリー化したためではないかと思う。

そして機械化にはもう一つ大事な要素がある。圃場の基盤整備事業である。

「基盤整備事業」とは、ここでは「農地の区画整理」を指す。昔の田んぼは牛や馬で耕していたから、そこまでには牛馬が通るだけのあぜ道があればよく、また真四角である必要もなかった。ところがトラクターで耕耘するようになると、トラクターが田んぼまで行くための道が必要である。さらに、トラクターでは狭く不整形な田んぼは耕耘しづらいため、田んぼは広く真四角であることが望ましい。

だから、昔ながらの棚田のような田んぼを壊して、新たに真四角の規格化された広い田んぼに生まれ変わらせるのが基盤整備事業である。要するに農地の再造成だ。これをしないと機械化は思うように進められない。

ところが、この事業はなかなか進めるのが難しい。市街地の区画整理が遅々として進まないのと同じ理由である。新たに道を通すには、みんなが土地を供出しなければならないし、費用負担もある。広い農地を持つ人にとっては土地の生産性を向上させるが、狭い農地しかない人や機械化に関心がない人にとってはあまり旨味がない。しかも区画整理と一緒で、区域の全員が事業に賛成しないと実行出来ない。だから基盤整備事業は時代の要請であったにもかかわらず、多くの地域でそれほどスムーズには進まなかった。

だが大浦の場合、基盤整備事業が概ね順調に進んだ。それは、干拓地の大規模農業を目の当たりにし、機械化の意欲が高まっていたからだろう。機械化を進めるためには基盤整備事業が必要で、基盤整備が行われるとさらなる機械化が可能になる。機械化と基盤整備事業は、撚り合わされた糸のように進行していった。

その背景には、基盤整備事業に対する町役場の熱意があったのももちろんだ。近隣の自治体が観光施設とかレクリエーション施設といったハコモノを次々と建てていったときも、大浦町は地味な基盤整備事業に注力し続けた。

それから、基盤整備事業が積極的に実行されたことは、思わぬ(もしかしたら狙っていた面もあったのかもしれない)形で大浦干拓事業の帳尻を合わすことにもなった。 というのは、干拓地に入植した人たちには、干拓地の土地の購入や高額な機械の導入などによって、1000万円単位の借金を抱えた人も少なくなかったのである。最初、干拓地はただの砂浜だったから農地としては最も劣等であり、生産性も低かった。巨大な借金を返していく現金収入はすぐには得られなかった。

そこでそうした人達は、昼間は基盤整備事業の土方で働き、夕方から農業に従事するというダブルワークで借金を返済したのであった。こういう事情もあったからか、大浦では基盤整備事業は積極的に進められ、一時期は町の経済のかなりの部分が基盤整備事業という公共事業で支えられていたくらいである。

それはともかく、農家の機械化への意欲、役場の積極的な事業推進などによって、平成に入ってからの基盤整備事業は着々と進み、大浦の主要農地は全て事業を完了し、整形された広い四角い圃場が並ぶことになったのである。こういう地域は鹿児島では珍しいと思う。

その上、そうした大規模事業の対象は水田だけに留まらなかった。茶園や大規模養鶏団地の造成といったことが、県や国の補助を活用して矢継ぎ早に推進された。大浦は、干拓をきっかけとして構造改善事業(農業の基盤を造成していく事業)に非常に前向きな地域となり、こうした事業が華やかに行われていた時は連日のように県の役人が大浦を訪れ、遊浜館(大浦の旅館)が賑わっていたのである。

こうして、戦前から平成にかけて、大浦の農業はすっかり近代的な形へと生まれ変わった。干拓地だけでなく、大浦町の全域で圃場は効率的な形に整備され、人々は最新式の機械を導入していた。

このように書くと、かつての大浦町が意欲的で活気のある場所だったと思うかも知れない。だが、その動きの裏で、急激な人口減少とそれに伴う高齢化は非情にも続いていた。まるで大浦の農業を発展させようとする努力など存在していないかのように。

(つづく)

【参考文献】
「大浦干拓事業と笠沙町・大浦町の農業経済」2002年、西村 富明
「過疎化,高齢化の構図:再考〜笠沙町,大浦町の現状から」2002年、高嶺 欽一
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎