2014年8月11日月曜日

中国古典に見る柑橘——柑橘の世界史(2)

屈原(横山大観作)
中国大陸では古くから柑橘が利用されていたようだが、どのように扱われていたのだろうか。中国古典における柑橘の記述を探ってそれを確認してみたい。

その嚆矢は『書経』である。『書経』は伝説的古代を語る中国で最初の歴史書であり、成立年代ははっきりしていないが、紀元前7世紀あたりから徐々にまとめられ、紀元前4世紀ほどには成立したと見られている。柑橘の記載があるのは、中国の初代王朝である「夏」の歴史を述べる部分で、「禹貢」という章である。

「禹(う)」は夏の聖王であり、黄河と長江に挟まれた広い領域の土木事業・治水事業を行い、後世の模範となる善政を敷いたとされている。「禹貢」は、禹が各地を平定し、それぞれの地域ごとに貢ぎ物(税金のように定例的に上納するもの)を定めるという構成の章である。

柑橘が述べられるのはこの章の「揚州」の項。揚州とは、長江流域の地域を指し、ここからの貢ぎ物として「金、銀、銅、瑤(よう)、象牙、孟宗竹、木材」などなどを禹は指定している。そしてその貢ぎ物に付随するものとして「橘と柚(ゆず)」を挙げている(※)。ここでいう「橘」は柑橘の総称であり、「柚」はユズのことと解されている。

「禹貢」全体を通じてみても、貢ぎ物は各地の特産品、それも特に貴重なものが指定されているから、古代中国において「橘と柚」はかなり貴重・珍重なものだったことがわかる。ではそれはどのように利用されていたのだろうか。今の我々と同じように、古代中国の人びともミカンを食べていたのだろうか?

実は、歴史の黎明の頃、まだ橘や柚は食べるものではなかったようだ。それを示唆するのが『楚辞』の記述である。『楚辞』は文字通り「楚の言葉」の意で、紀元前3世紀ごろにまとめられた楚の詩集。「楚」は長江流域にあった国家の名で、地図的には先ほどの「揚州」と重なる。

『楚辞』の主要作品の作者である屈原は「橘頌(きっしょう)」という詩を詠んでいて、「九章」という連作詩の一編をなしている。これはまず間違いなく柑橘をテーマにした最古の詩であろう。 「橘頌」はこういう風に始まる。
后皇の嘉樹、
橘徠(きた)り服す。
命を受けて遷らず、
南国に生ず。
深固にして徙(うつ)し難く、
更に志を壱にす。…

皇天后土の生んだよい樹、
橘はここに来て風土に適応し、
天の命を受けて他国に遷らず、
南国楚に生ずる。
根は深くて移植しがたく、
その上その志は一途で二心がない。…(星川 清孝訳)
こういう調子で、「橘頌」は橘の美点(見た目が美しいとか)を次々と挙げ、自分もそのように清廉潔白で志が高くありたいと理想的人格を投影している。

少し話が脱線するようだが、この機会に屈原について語っておこう。屈原は楚の王家に生まれ、博覧強記で政治能力が高く王の寵愛を受けながら、そのために妬まれ讒言を受けて左遷され、自分の諫言が受け入れられないことを嘆いて楚の将来を悲観し、ついには入水自殺した人物である。「九章」は、王から遠ざけられて悲憤慷慨し、また憂愁の情を抱きながら、それでも自分は清廉に生きていこうとする内容の連作詩であり、極めて叙情的であるとともに神話伝説などをも織り込み、天上世界にまで到達するというロマン的な筋書きを持っていて、ダンテの『神曲』を彷彿とさせる

この一遍として「橘頌」はある。ただ橘が美しいので自分もそうありたい、というだけのことではなく、讒言を受けても左遷されても結局楚を離れなかった屈原の、決して他国に移植することのできない橘のように自分も楚で生きていくのだ、という強い決意を表明したものなのであろう。

そして問題なのは、屈原が掲げる数々の橘の美点である。緑の葉に白い花がまじって可愛らしいとかいろいろ橘を褒めるのだが、一言も「美味しい」とは褒めないのである。橘が食べるものであったとしたら、これは甚だ不自然なことであり、おそらく屈原は橘を食べたことがなかった。柑橘をテーマにした世界初の詩を編むくらいであるから橘を愛でることにかけては激しかったはずの屈原すら美味しいとは褒めないわけで、ここに詠われている橘が食用でなかったことは確実である。

おそらく、古代中国において、橘は主に観賞用や香料、そしておそらくは薬として使われていた。このころの橘は、概して酸っぱいものであり、 食用に適したものではなかったようである。しかし不思議なのは、湖南省の、紀元前450年のものと推定されているお墓からスイートオレンジの種が見つかっていることである。つまり、古代中国においても既に甘い柑橘は存在していた。だがその栽培が難しかったのか、あるいは増やすのが難しかったのか、この甘い柑橘が広まっていくには暫く時間を要した。

また、「橘頌」でも「橘はここに来て風土に適応し」と述べられているように、古代中国においてはまだ橘は外来のものと認識されていたようだ。私は柑橘の伝来は稲作と同じくらい古いのではないかと想像するものだが、少なくとも屈原の愛した橘は、古代において「かつてはそこになかったもの」であった。その時代に品種改良された新しい「橘」だったのだろうか?

最後に『晏子春秋』の記載も紹介しよう。これは戦国時代の斉において宰相を務めた晏子の言行録であるが、そこに「南橘北枳」のエピソードが出てくる(内篇雑下第六第十章)。晏子の言として「橘は淮南で生ずれば橘となり、淮北で生ずれば枳になる」という。これは、淮南(淮河の南)と淮北で気候風土が異なることを述べる言葉なのだが、既にこの頃カラタチ(枳)が知られ、橘に対応するものであると考えられていたのが面白い。

そして、『晏子春秋』には、楚王が晏子を饗応するのに橘を勧める場面も出てくる。やはり食べられる橘の品種もあったことはあったらしい(楚王はことある毎に晏子に嫌がらせをするので、嫌がらせの一環だった可能性もあるがこの場面では違うと思う)。王様が勧めるくらいだから、相当に珍重なものだったのは確かだろう。

これらの中国古典から考えると、古くから長江流域(古くは揚州、後に楚国となった地域)には橘や柚が産したが、それらは当時としては外来のもので、また甘い品種は極めて限定的で多くの品種は食用ではなかったようである(というか、橘が甘いという記載は古典には見当たらない)。しかし、アッサムから長江へと渡ってきた柑橘は、中国大陸で徐々に美味しい果物へと変化していく。おそらく、屈原や晏子が生きた戦国時代が、柑橘が甘いものとなっていくターニングポイントだったのではないだろうか。

【参考資料】
『中国古典文学大系 書経・易経(抄)』1972年、赤塚 忠
『楚辞』1980年、星川 清孝
『Odessy of the Orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper

※ 原文「厥包橘柚、錫貢」。「錫貢」の意味は完全に確定していないが、「王命を受けてから持参する」の意とされている。貢ぎ物のように定期的に上納するのではなくて、特に指示があった時に納めるもののようである。

※冒頭画像はこちらのサイトからお借りしました。

2014年8月10日日曜日

インドからの東漸——柑橘の世界史(1)

アッサム州の位置
柑橘類というのは、大変にバラエティに富んでいる。ミカン、オレンジ、レモン、文旦、グレープフルーツ、スダチ、ダイダイ…。おそらく世界には数千種類の品種があると思われる。これらのほとんどは人為的な品種改良によって生みだされたものだが、その元となった野生種はどこから来たのだろうか。

オレンジやレモンのイメージがアメリカの柑橘産業と結びついていることもあって、柑橘の原産地は西欧のどこかだと思われがちだ。しかし柑橘の世界史はインドから始まる。インドと言っても、ヒマラヤの麓、ブータンの近くのアッサムあたりである。東へ少しいけばミャンマーがあり、北へ行けば中国に至る、そんな場所である。

このアッサムの山地に柑橘の原種はあった。といっても、柑橘類全ての母となる特定の植物がアッサムで見つかったわけではない。このあたりには驚くほど多様性に富んだ野生の柑橘が産していて、世界中のどんな柑橘でも、ここで似た野生種を探すことができる。そのため、おそらくこのあたりが柑橘のふるさとであったのだろうと推測されているのである。

であるから、インド文明は相当に古くから柑橘を知っていたはずである。しかしながら、古代インド人たちは、柑橘を積極的に利用しなかったようだ。紀元前800年ほどに成立したヴェーダ(バラモン教の聖典)の一種Vajasineyi Samhitaに柑橘の記載があるというが、多くの文献で出てくるわけでもないし、柑橘が宗教儀礼にも用いられた形跡がない。

さらに時代を下って仏典を見てみる。仏典では、様々な植物が言及されているが、ここでも柑橘の記載はほとんどない。唯一、ナガエミカン(wood apple)が知られているだけである(※1)。時代が更に下って仏教が東漸してゆくと、それに伴ってシトロンの一種である仏手柑が寺院に植えられるようになるようだが、これは古くからの風習が伝播していったというより、仏教が形骸化・形式化していく中で、仏手柑の象徴性が珍重されたものと思われる。

つまり、インドの人びとは古くから柑橘を知りながら、これをさほど重視しなかった。ではどのような果物を重んじたかというと、バナナやマンゴーといった甘味の強い熱帯性のものであった。そもそも、インド亜大陸の熱帯の気候と柑橘の相性はよくない。柑橘は、年間を通して適切な降雨が必要であり、雨季と乾季が明確に分かれているような気候の下では栽培が難しい。おそらく、古代インド人が柑橘を重んじなかったのは、インドの多くの地域で栽培が困難であり、またこれよりも美味しい熱帯の果物に恵まれていたからに違いない。

だが、アッサムで細々と利用されるに過ぎなかった柑橘も、ずっとそこへ留まっていなかった。稲作が東漸してやがて日本へも伝わったように、東南アジアへ、そして中国へとかなり早い段階から広まっていくのである。憶測に過ぎないが、おそらくこの伝播は稲作と同じくらい歴史が古い

柑橘をアッサムから東南アジアへ、そして中国へと伝えた人びとは、後に彝族(イ族)、と呼ばれる民族であると考えられている。現在では南東チベット、雲南省、四川省などに居住している中国の少数民族である。とはいえ、歴史以前のことであるため、彝族が柑橘栽培の伝道者だったのかどうかは正確には分からない。しかしアッサム地域が、山地に大きな川が流れる温暖湿潤な稲作地域であることを考えると、彝族のような稲作農耕民が稲作と共に柑橘の栽培も各地へ伝えていったことは確かなことと思う(※)。

今でこそ北海道でも稲作ができるようになったが、それはごく最近の現象であり、稲作は南方の農業であった。特に、亜熱帯の長粒種による稲作はそうである。柑橘も霜を嫌い、温暖湿潤な気候を好む植物であるから、栽培に好適な地域は稲作地域とほとんど重なっていたはずだ。逆に、乾燥地・寒冷地の農業の中心は麦作になるが、インドの南の方や中国大陸の北の方など、麦作地域には柑橘栽培は伝播していかなかった。

これは柑橘や稲作だけでなく農耕全てに通じる伝播の一般則だが、農耕というものは南北には伝わらず、気候が似た東西に伝わっていくものである。インドのアッサムに始まった柑橘はまずは東へ進み、東南アジアを通って中国の南部、雲南省や四川省へと広がっていくのである。

【参考文献】
『栽培植物と農耕の起源』1966年、中尾佐助
『Odessy of the orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper
『仏典の中の樹木—その性質と意義(2)』1973年、満久崇麿
『ヒマラヤ地帯と柑橘の発現』1959年、田中長三郎
The Exotic History of Citrus』2012年、Patrick Hunt

※1 参考資料『仏典の中の樹木』では、ナガエミカンの他にベルノキ(アップル・マンゴー)もミカン科とされているが、これは近縁種だけれども正確にはミカン科でないから除外。
※2 稲作の起源は中国南部とされているが、イネ自体はインドが原産であると考えられている。イネも古くからインドに産しながら積極的利用がされず、東漸して中国に至って栽培が確立したのである。

2014年8月6日水曜日

柑橘の世界史序説

私は「一応」農業を営んでいるのだが、それ以外にもいろいろと(お金にはならない)アレコレをやっているので、時々「何を作っているの?」と農家なのかどうか訝しがられる時がある。

私がメインにしたいと思っているのは果樹、それも柑橘類で、今現在、ぽんかん、たんかん、しらぬい、ブラッドオレンジ(苗木)、ベルガモット(苗木)、ライム(苗木)、グレープフルーツ(苗木)などなどあわせて約60〜70aを栽培中である。

そんなわけで、柑橘類の来し方行く末にはひとかたならぬ興味がある。特に心が惹かれるのは歴史の方だ。 今では世界中で生産され、果物としてはおそらく世界最大の生産量を誇る柑橘類が、いかにして伝播し、品種改良され、消費され、人類の歴史と文化に影響を及ぼしてきたかということを、直接には農業と関係なくとも、深く知りたいと思う。柑橘類の濫觴からこうしたことを説き起こせば、きっと「柑橘の世界史」が出来るに違いない。

それに関して、今年に入って最近刊行された2冊の本を読んだ。まずはピエール・ラスロー著『柑橘の文化誌』。そしてトビー・ゾネマン著『Lemon: A Global History』。『柑橘の文化誌』の方は副題が「歴史と人とのかかわり」とあり、それなりに歴史の話も出てくるが、体系的な叙述というより著者の興味関心の赴くままに述べたという風で四方山話的である。『Lemon』はレモンを中心とする柑橘の歴史が端正にまとめられている良書だが、「世界史(Global History)」と銘打ちながら結局はヨーロッパとアメリカの話しか出てこないのが問題である。

だがそもそも柑橘の原産地はインドや中国なのだから、話は東洋から始まるはずである。2冊とも、話がヨーロッパとアメリカの近代史以外の部分が簡単に過ぎる。それに、これらの本を書いているのは柑橘の専門家というわけでもないし(ラスローさんは科学者で、ゾネマンさんはジャーナリスト)、柑橘類の栽培技術という点について等閑に付しているきらいがある。

そこで、浅学菲才の身ではあるが、東洋の話を織り込むことと、柑橘栽培の技術発達についても触れることにして、私なりの「柑橘の世界史」を書いてみたい。とはいっても、この2冊に書かれていることは大いに参考にさせてもらうし、特に16世紀以降についてはほとんど独自の知見を付け加えることはできないかもしれない。そして、このブログ上で簡潔にまとめるだけだから、柑橘の世界史の大まかなアウトラインをなぞるに過ぎない。それでも、こういうテーマで体系立った記述をすることは自分の勉強にもなるし、今後の柑橘産業を考える材料にもなるだろう。

これから徐々に書いていこうと思うので、気長におつきあい頂ければ幸いである。

【参考】これまでに書いた柑橘の歴史に関する記事
世界史から見るタンカンの来歴
なぜホテルの朝食にはオレンジジュースが出てくるのか?

2014年8月5日火曜日

狩集農園の「おうちで食べているお米」は手間かかってます

7月は、梅雨が明けてから雨が全く降らず憎らしいほどの晴天が続いていたのに、8月に入ってからは気の早い台風がきて、梅雨が舞い戻ったみたいな天気になった。

このあたりは早期水稲の産地なので、稲刈りは7月終わりから8月に行う。ちょうどこれから稲刈り、という時期にこの天候で、米農家は弱っているだろう。それに、大型で強い台風11号が不気味に北上してきつつある。稲穂が垂れた今、強い台風が来てしまうと稲が軒並み倒伏して、商品価値がガタ落ちするのは必定。天候の悪い中、急いで稲刈りをするわけにもいかず、出来ることは祈祷くらいしかない。

「南薩の田舎暮らし」で予約受付中の「狩集農園の「おうちで食べているお米」」も収穫前である。手間をかけて作られたお米だから、半ば他人事ながら心配しているところである。

なにしろ、狩集さんが作っている水田は、写真のように山間部にあって一枚あたりの面積が狭い。ということは、作業の効率も悪いし、何より畦(あぜ)が多い。畦が多いと畦の草払いをする時間と労力が大きい。南九州では、本州以北では考えられないほど雑草の勢いがもの凄いので、草払いはかなりコストを食う仕事である。単純に比べて、1枚の田んぼが1haもあるような平地と、こういう山間部での米作りでは、3倍くらい労力の差があると思う。

でも農協に出荷したら山間部だろうが平地と当然同じ条件で取引されるわけだから、これは勝ち目のない勝負である。というわけで、狩集さんは直販に力を入れていて、無農薬のお米を作っている。

無農薬、と一言でいうと、ただ薬を使わないだけ、という単純なことのようだが、意外に細かいところで手間がかかる。 例えば、苗を作る時には種子も消毒するし培土(苗箱に入れる土)も消毒する。これを消毒しないと、苗床に雑菌が入って苗が病気になってしまうことがあって省略することはできないらしい。

ではどうするかというと、まず種は薬剤を使わず温湯消毒を行う。これは、60℃くらいの大きなお風呂みたいなものに種を数分間漬ける方法である。簡単に言うと熱殺菌だ。だが漬けすぎると種自体がゆだってしまうので、タイミングを計るのが大事になるし、そもそも大きなお風呂みたいな設備を準備するのが大変だ。場所もとるしもちろんお金もかかる。薬剤で消毒するならタンクに薬剤を混ぜればすむが、大量の水の温度を一定の温度に保つにはそれなりの設備を要する。

次に培土の消毒だが、これも熱殺菌した土を使う。これは個人ではできないので、わざわざ熱殺菌した土を購入するわけだ。たかが箱苗の土ということで、1箱あたりの量は僅かだが、狩集さんの場合それを1000箱以上作るわけで、トン単位の土を購入している。さらに、箱苗に稲の種子(つまり籾です)を播く時には、有機栽培でも使える微生物農薬を用いている。無害な細菌を人為的に増殖させることで、雑菌の繁殖を抑えるのである。

早期水稲の場合、定植後の病気などはさほど心配しなくてもいいらしいが、問題なのは雑草の管理である。狩集さんは今年、ある機械によって除草を行うことで、直販分の水稲は完全に無農薬で作ったということだが、機械でやると言っても、除草剤を使うよりも手間も時間もかかる作業である。

こうして大変な手間を掛けて米作りをしているのは、広大な平地で効率的に作られている米と勝負しようと思ったら味で差別化する必要があるからだ。山間部の方の有利な点といえば清流しかないとも言えるわけで、これを活かして美味い米を作るために敢えて手間のかかる無農薬の米作りをしているのである。

水がきれいということは米作りにはすごく重要で、水の取り込み口付近の稲は常に元気がある、ということだけとってみても、きれいな水が豊富に供給されるということが健全な稲の育成に不可欠なのは明白だ。狩集農園の「おうちで食べているお米」は、磯間山麓の清流を使って作られた米である。

「南薩の田舎暮らし」ではこの新米5kgを2500円(+送料一律500円)で予約受付しているが、インターネットで調べるかぎり、無農薬のお米としてはかなり安い。ちなみに、狩集さんは郵便局の窓口を通じてもこのお米を販売していて、そちらでは送料込み2980円なので、1袋だけ買うなら郵便局の方がさらに少し安い。

この価格で販売しているのでうちの利益はほとんどない(どころか1袋だけの購入の場合にはちょっとだけ赤字になる)が、いつもお世話になっている狩集さんのブランド力を挙げていく勝手連的お手伝いをする意味もあって取り組んでいる。ともかく、美味しいのもお得なのも間違いないのでぜひよろしくお願いします。予約は8月10日まで。あと1週間ないのでお見逃しのなきよう(収穫時期の関係で延長する場合もあります)。

お申し込みはこちらから。

【参考】
しかも精米もすごく手間がかかっている。→ 狩集農園のこだわり精米機

2014年7月31日木曜日

鹿児島の甘口醤油再考

先日、醤油の記事を書いた。そこで、鹿児島の甘い醤油の甘さは人工甘味料に由来するものだという説明をした。

自分では人工甘味料をさほど悪く思っていないので書いた時は気づかなかったが、記事を読んで「鹿児島の甘い醤油ってあまりよいものではなかったの?」と思った人もいたかもしれない。食に関しては、「人工」とつくとそれだけでマイナスのイメージがついてまわるものである。

また、鹿児島の醤油についてはもう少し調べてみたいこともある。そんなわけで、鹿児島の甘口醤油の人工甘味料について改めて考えてみることにしよう。

さて、唐突に話題が変わるようだが、皆さんは普段どんなキムチを食べるだろうか? スーパーで売っているのはほとんど「甘辛キムチ」だし、人気のある「牛角キムチ」(写真は牛角のサイトから借用しました)とか「ご飯がススム」なんかも甘辛なので、たぶんほとんどの人は甘辛キムチを食べていると思う。

でも、キムチは元々甘くないものだ。味の主体は唐辛子の辛さと塩分であって、発酵に由来する甘み・旨味の成分はわずかなアクセントであるにすぎない。しかし日本人には本場のキムチは辛いだけで箸が進まないため、日本ではキムチを甘口にするという工夫がなされた。というわけで、本来はかなり辛い・鹹い(しおからい)キムチを甘口にしようとすると、当然ながら大量の砂糖が必要になる。漬け汁の主成分は砂糖になってしまい、砂糖まみれの漬物という、本来のキムチとはかなりかけ離れたものになる(でもそういうものも売っています)。

では、「牛角キムチ」とか「ご飯がススム」はどうしているかというと、砂糖は入っておらず、人工甘味料が使われているのである。確か、これらはアセスルファムカリウムが使われていたと思う。これは砂糖の200倍の甘さがあり、カロリーはない。キムチにごく微量添加するだけで甘口キムチができ、カロリーも増やさないのである。

人工甘味料それ自体が健康的かどうかはさておき、砂糖を節約できるという点では間違いなく健康的である。そもそも、現代人は甘みに慣れすぎていて、甘みに対して相当鈍感になっている。食品を甘口にする場合、相当な砂糖を入れないと、十分に甘いと感じないのである。だから、必然的に砂糖摂りすぎの危険性ある。人工甘味料の存在意義は、そこにある。

人工甘味料は、元々は高価な砂糖を代用するために開発されたが、砂糖がコモディティ化して以降は、高機能な(カロリーがないとか)ものが期待されて発展してきた。

その結果、現在では人工甘味料は健康的と認められているものも多く、食べても虫歯にならないキシリトール(※)、カロリーゼロのアセスルファムカリウムなどは有名だろう。弱い発癌性があるとして規制された悪名高い(?)サッカリンも、2010年には米国で全く毒性がないものとされて規制リストから外れ(日本ではまだ規制されている)、むしろ砂糖を節約する健康的なものと考えられはじめている

コーラなんかにはものすごい量の砂糖が入っているから、この甘みの半分でもサッカリンが代用すれば、いくばくか体への負担も軽減されるわけだ。そしてサッカリンにもカロリーはない。

鹿児島の甘い砂糖に使われているのは、このサッカリンなのだが、実は単に砂糖の節約という面ではなくて、味の都合もあるらしい。先日の記事を書いた後で南薩の醤油屋さんである丁子屋の方に教えてもらったのだが、丁子屋ではサッカリンを抜こうと何度か試みたものの、抜くことが難しかったそうだ。

というのも、サッカリンの甘味を砂糖で代用してみると、ヌメっとした甘さになり、甘ったるくなって使い物にならなくなったらしい。他の代用品でもダメだったそうだ。サッカリンは舌にピリッとしたものを感じる独特のコクがあるため、これが鹿児島の醤油の甘味になくてはならないものだと再認識したそうである。

そうしたさまざまな事情を考えてみると、鹿児島の甘口醤油はナショナルブランドの擡頭で現在苦境に立っていると思うが、活路もありそうな気がする。元々鹿児島で甘口醤油が普及したのは、各家庭での砂糖の消費量を節約できたからという私の仮説が正しければ、これは現在の社会でも価値のあることである。甘口の醤油を使うことで料理の際の砂糖は少しであっても減らせるわけだから、ほんの少し健康的なレシピになる。

例えば、「鹿児島の甘口醤油を使って料理の砂糖をスプーン1杯減らしましょう」というようなキャンペーンをしたら、鹿児島の甘口醤油の元々の価値が生きるのではないか。元々は甘みを求める県民の需要に応じて作られた甘口醤油が、今度は健康志向に合致するとしたら面白い。いつかも書いたが、鹿児島は「周回遅れのトップランナー」である。トクホとかカロリーゼロが持てはやされている昨今、既に合成甘味料による「お袋の味」が確立している鹿児島だからこそ、「料理から砂糖を減らす甘口醤油」なんてのを全国に発信するのはどうだろうか。

※キシリトールは天然に存在する物質なので正確には人工甘味料ではないが、微生物による工業的な合成も行われている。

2014年7月30日水曜日

ホンモノレトロな村田旅館が素晴らしい

先日、家内の高校の同級生がわざわざ埼玉からこちらへ遊びに来てくれたので、前々から行ってみたかった加世田 万世(ばんせい)の村田旅館で夜に会食した(もちろん、客人はそのまま泊まった)。

1800円のコースと3000円の懐石コースがあるというので、酒飲みではない私は懐石じゃなくてよかろうと1800円の方にすることにしたのだが、大変豪華な食事が出てきたので、みんなで「これ絶対1800円じゃないよね。旅館の人が間違えて3000円の方を出してるんじゃない?」と訝しみながら食べた。これがまた美味しくて、こういう旅館で出てくる「いかにも旅館的な手抜き(?)料理」じゃない、料亭のそれのようなしっかりしたコースだった。

いざ会計してみると旅館の人が間違っていたわけではなく、事実1800円の方でびっくり。飲み物代は別だが、このクオリティ・量で1800円というのは相当にお安い。それに、旅館の雰囲気もすごくよくて気持ちよく食べられた。

この村田旅館は創業約80年らしく、創業当時からの面影が随所に残っている。80年前というと昭和の初期で、まだ横書きは右から左へと書いていたころである。急な階段の手すりはしゃれた意匠が施されているし、洗面台は今となっては作ろうと思っても作れない洒脱なタイルで飾られている。その前には「森田酒店」みたいな地元の商店の広告が入った鏡が貼られていて、こういう広告入り鏡が大好きな私は嬉しくなってしまった。

中でも白眉なのは「アサヒビール」と「リボンシトロン」の広告が入った大きな鏡。この頃の鏡は銀鏡反応で作られているし(つまり銀が使われている)、平面の大きなガラスを作る技術が未熟だったこともあって高級品だった。この鏡のように大きな鏡があったということは、かなりハイクラスの宿だったように思われる。

村田旅館は今では廃線となった南薩鉄道万世駅の真正面に位置しており、往時は相当な賑わいを見せていただろう。南薩の凋落とともに、旅館も寂れてきたようであるが、その手入れは行き届いていて、古くても汚らしさは全くなく、清潔感がある。今流行りの「レトロ」という言葉を使ってしまっては安っぽい感じがするけども、ここはホンモノレトロな旅館である。

しかも、旅館の人は古いものを大切に使っているが、「レトロ」は全く売りにしていない。それどころか、「こんな素晴らしい旅館だから、宣伝したらもっとたくさんお客が来るんじゃないですか」と聞いてみたら「まだまだ自信がなくて宣伝できません」と言う。例えば、ここは本当に昔ながらの旅館なので、お風呂などもかなり古びていてしかも狭い。今の宿泊客には確かに不満な部分があろう。あと、タイル張りの床の、小学校のトイレのようなトイレも今の人には不評かもしれないと思った(小学校と違ってとても清潔感があったけど)。

そんなわけで、来月にちょっとした改装を予定しているらしい。改装箇所を詳らかには伺わなかったけれど、創業当時からの部分は残しつつも古びている箇所を直すというようなことはするらしいので(例えばお風呂は改装するようだ)、私が気に入った部分がなくなってしまわないかとヒヤヒヤしているところである。

朝食付で1泊5000円、夕食・朝食付で7000円でかなりお得に泊まれるし、ご飯は美味しいし、ホンモノレトロな雰囲気は在りし日の文豪でも泊まっていそうで、地元民であるにもかかわらず「定宿」にしたいとさえ思う。今度から遠方から人が来たら、迷うことなく村田旅館をオススメすることにしよう。

2014年7月27日日曜日

「ぬいぐるみで行く南薩 民泊ぷちツアー」参加者募集中です!

※モバイル環境では、上のチラシPDFが正しく表示されないかもしれません。

「南薩の田舎暮らし」の新企画、「ぬいぐるみで行く南薩 民泊ぷちツアー」の募集を開始した。

ある日、加工所でスコーンを作っていた家内が家に帰るなり、「すごくいいこと思いついちゃった!」と言うので何事かと思えば、このぬいぐるみ南薩ツアーの企画のことだった。家内は元々図書館司書として働いていたので、図書館業界のあれこれに関心がある。アメリカの図書館で始まり、近年日本でも広まってきた「ぬいぐるみの図書館おとまり会(Stuffed Animals Sleep Over)」を南薩版でやってみたらどうか、というアイデアが突然浮かんだらしい。

この「ぬいぐるみの図書館おとまり会」は、子どもたちから図書館がぬいぐるみを預かり、夜中にぬいぐるみたちが図書館を探検したり本を読んでいる写真を撮ってから返却するというもので、図書館や本への関心を呼び起こすため実施されている。

つまり、本来「図書館」には宿泊することができないが、ぬいぐるみならおとまりできるということで、「自分自身にはできないことがぬいぐるみにはできる」という面白さがある。少し意地悪な譬えでいうと、インターネット上のアバターにオシャレをさせるみたいなところも若干あるわけだが、「図書館おとまり会」の場合は実際にぬいぐるみが図書館に泊まる、というリアルな部分が違う。

翻って南薩のことを考えると、景色の素晴らしさとか、日本の端にある雰囲気とか、観光地としての価値は高いと自画自賛できても、アクセスの絶望的悪さがあり、指宿以外の地域に観光に来るのは正直敷居が高い。だったら、ぬいぐるみくらいなら来てくれるんじゃないか…?というわけで「ぬいぐるみ南薩ツアー」である。

自称行動派の自分からすると、自分が行くのじゃなくてぬいぐるみに行かせるなんて少し残念、と思うくらいの企画である。自分なら、近場でも実際の旅行の方がなんぼかいいと思う。だが、内向的な(?)家内に言わせれば、自分が行くんじゃなくてぬいぐるみに行ってもらうからなおさら面白い、のだそうだ。うーむ。

でも南薩ツアーなら、図書館と違ってやろうと思えば自分が観光に来られるわけだから、完全にぬいぐるみの世界だけで閉じはしない。それに実際の旅行となると、本当に来たい人しか来ないが、ぬいぐるみなら「実際に行くほどではないよな」という人も対象になる。このツアーをきっかけにして、「南薩」と誰かの縁を紡げたらいいなと思っている。

【お申し込みはこちらから】ぬいぐるみで行く 南薩 民泊ぷちツアー(申込期限8月23日(土))