2014年6月7日土曜日

笠沙恵比寿の指定管理者の募集にあたって

またしても、公有施設の指定管理の話である。

笠沙恵比寿は笠沙にある宿泊・博物館・レジャーの施設。2000年のオープンで、2006年をピークに利用者数が減少してきた。南さつま市等が作った第3セクター「株式会社 笠沙恵比寿」がこれまで運営してきたが、累積債務が8000万円に上って経営に行き詰まり、今般指定管理者を公募することなった。

これまでも「株式会社 笠沙恵比寿」が公募を経ずに指定管理者で運営してきたのだが、従前の指定管理料(委託費)は1480万円。それでも毎年1000万円を超える赤字を出していた。というのも、3セクではどうしても果敢な経営は難しい。何しろ社長は市長である。旅館業・観光業の経験があるわけでもない市長が経営する会社が、繁盛する方がおかしい。

そういうわけで、このたび3セクは解散させる方向で指定管理者の公募に踏み切ったわけである(公募に対して応募がなかった場合は3セクによる経営を継続する)。

その公募条件を見てみると、指定管理料の上限が1800万円/年となっている。現在は、市の補填分が3000万円弱なので、これを2/3に縮減するような格好であり、まあ妥当な条件ではないかと思う。ただ、例によってこの公募にも少し不満がある。

第1に、「…事業者を広く募集し、活用計画の提案を受けて最適の指定管理者を選定することを目的とする」(募集要項より引用)としながらも、どうも「広く」募集しているようには見えないことである。例えば、プレスリリースはどのようにしたのだろうか? 現地説明会を行うこととなっているが、広く募集するのであれば、事前説明会を都市部で開催すべきだし、旅館業の業界団体などにも周知を図るべきである(実は裏でやっていたらすいません)。

第2に、笠沙恵比寿のあり方については、市役所は2011年か12年に「笠沙恵比寿あり方検討委員会」を設置して検討しており、今回の指定管理者の公募はその報告書の提言に基づくものと思うが、この報告書が公表されていない。公明正大に話を進めることが大事だと思うので、報告書を公表して、これまでの経営の実態を明らかにし、過去を清算して次のステップに進むべきだと思う。

というような不満な点はあるが、今回の公募で素晴らしい経営者が現れ、笠沙恵比寿が地域の観光の目玉として再生してほしいと願っている。実は、この公募に先立ち、私は「笠沙恵比寿を星野リゾートが経営したら面白い」と思い、(面識はもちろんないが)星野リゾートの星野社長に「笠沙恵比寿の指定管理者が早晩公募されるので注目してほしい」という手紙を出していたのだが、なしのつぶてだったようだ。

笠沙恵比寿は、観光+漁業という独特なコンセプトの宿泊施設であり、施設全体が水戸岡鋭治氏のデザインでもあるし、決して市のお荷物ではなく、むしろ財産だと思う。それを活かすためには、ただ公募すればよいというわけではなく、いろいろな工夫がいる。市の方には、本当に最適な、素晴らしい事業者にこの情報が届くように、精一杯取り組んでいただきたい。ちなみに、募集要項の配布は6月23日まで、申請は7月4日までである。

【参考】
募集要項等はこちら→ 笠沙恵比寿の指定管理者を募集
これまでの経営状態などはこちら→「市報南さつま」2012年7月号

2014年6月2日月曜日

写真家の松元省平さんに会いに行った話

南さつま市の小湊に、松元省平さんという写真家が住んでいることを最近知った。

私は松元さんの『人間の村』という写真集を偶然目にして強い印象を受け、調べてみると住所が南さつまということでびっくりし、せっかく近所に住んでいるのだからということで厚顔にも訪問させていただいた。この写真は、松元さんのアトリエに飾られた作品の数々。

ちなみに『人間の村』という写真集は、長崎にある廃村をモノクロームで撮ったもので、廃屋になった団地とか、民家とか、かつてそこにあった生活の痕跡を切り取った写真が並んでいる。それは、少し不気味でもあるが、当地のような「限界集落」に住んでいると見慣れた光景でもある。特にその中の一枚が、昨年取り壊された近所の廃屋ととても似ていて、それで印象深かったのかもしれない。

都会に住んでいると「廃村」の写真は非日常的な、いわば別世界を覗くような所があるが、ここに住んでいると「廃村」は身近な存在である。私は遺跡とか、遺構とか、既に滅んだものが元々好きだったが、都会に住んでいた時と比べてそうしたものへの見方が少し違ってきた気もする。

それはさておき、松元さんは、もともと鹿児島出身ではない。岡山の生まれだという。それがどうして小湊のような辺鄙なところに住んでいるのかというと、妻方の故地であるここが気に入ったからということだ。現役を退いて、自然が豊かな環境に暮らしたいということで2008年に移住してきた。岡山も十分田舎で、自然が豊かではないかと思うのだが、松元さんに言わせると、沿岸部の開発が大分進んでいて、自然の風景がさほど残っていないのだそうだ。

最近撮られた写真をいくつか見せていただいたが、美しい夜空や星雲、アンドロメダ銀河といった夜の写真だった。アトリエには立派な望遠鏡もあった。晴れた日には、ほとんど夜空を撮るという。私は、常々「このあたりは星空がきれいなのに、なぜか夜空を撮る人がほとんどいない」と思っていたところだったので、こうしてプロの写真家が丁寧に夜空を撮り溜めていることに、わけもなく心強く思った次第である。

ところで、松元さんの自宅に伺ったのは、松元さんが発行している『REPO』という写真誌を購入するためだった。驚異的なことだと思うのだが、松元さんはその写真誌を28年も趣味で製作しているのだ(現在は休刊中)。一体全体、それはどんな写真誌だろうかと思い、是非見てみたくなった。それで、(郵送で手に入れることも出来るのだが)松元さんのお宅を訪問したのである。


それは、手作りの小さな冊子だった。松元さん自身も鹿児島について写真と文章を連載していて、写真家の目から見た南薩がどんなものなのかもっと知りたくなった。移住後に創刊された最新の第4次『REPO』も全部で15冊あるそうだ。南さつま市の図書館が購入して、広く閲覧できるようにしたらいいのに、と思った。

2014年6月1日日曜日

「大浦 "ZIRA ZIRA" FES 2014」が開催されます

2014年7月20日(日)、「大浦 "ZIRA ZIRA" FES 2014」が開催される!

これは要するに地域の大バーベキューパーティで、「地域の将来を担う若手が一堂に会する機会を持って、様々な活動を活発化する契機にしましょう!」というものだ(あくまで私の理解です)。

サブタイトルに「やきにくでステーキな出会いを…」とついているが、別段街コン(婚活イベント)的な意味合いはなくて、ノリでつけたものらしい。でもこういうイベントだと、近くに住んでいても普段会わない人に会えるので、いい出会いもあるかもしれない。

とまあ、イベント自体の紹介はともかく、実は、この焼肉フェスのポスターをデザインしたのは私である。背景の写真は、友人の愛甲くんから提供してもらったもの。

依頼されたイメージは、焼肉をジュージュー焼いているような画像を配置するような感じだったが、大浦の満点の星空の下で焼肉を食べるのはさぞかし美味かろうと思い、独断で星空の写真を大きく使うことにした(でもWEBで見ると背景が星空であることが残念ながらわかりにくい…)。

大浦の若者を100人集めることが目標だそうなので、それに少しでも役に立つポスターになっていたらと思う。もちろん、大浦在住でない人も参加は歓迎ということだ。私としては、こういう機会に大浦の人同士だけでなく、他の地域の若者ともネットワークが広がっていったらいいのではないかと思っている。

【情報】大浦 "ZIRA ZIRA" FES 2014
日時:2014年7月20日(日)19:00〜
場所:大浦老人福祉センター前芝生広場
申込〆切:7月11日(金)
参加料金(やきにく代含む):男性2000円、女性1500円、小中学生500円
ステージ:ザ★タオルマンズ/太鼓座神楽/江頭組/有木青年隊/おさむんちゅ
主催:大浦 "ZIRA ZIRA" FES実行委員会
共催:おおうら元気づくり委員会
お問い合せ・申込先:おおうら元気づくり委員会事務局 62-2110 または 最寄りの実行委員まで(ポスター参照)

2014年5月27日火曜日

盗まれていた岩屋観音

南さつま市金峰町に、「岩屋観音」という史跡がある。以前から気になっていたので、先日行ってみた。

なお、金峰町には「岩屋観音」が2つあり、これは大坂(だいざか)にある「河内(こち)観音」と呼ばれている方の話である。

県道20号線沿いに「岩屋観音」の案内があり、道路脇に車を止めて5分ほど歩くと木々の回廊の苔むした道となり、登り切ると岩壁を鐫(え)られて作られた岩屋がある。そこに小さなお堂があり、中には観音像が安置させられている。

しかし、期待していたものと何か違う。河内観音と言えば、「廃仏毀釈の頃、岩屋のお堂が壊され観音像は川に捨てられた。これを山之内キクという女性が忍びなく思い、夜中に観音像を川に拾いに行き、密かに藁にくるんで自宅に持ち帰った。信教自由の後このことが明らかになり、キクがこれを保管していたことに周囲は感謝し、以後もとの岩屋に安置した」という伝説で知られる。だが、それらしき観音像はないのである。

廃仏毀釈の難を逃れたという観音像は、大坂、伊作(いざく)、錫山の3地区の住民が崇敬していた立派なもので、蓮弁まで含めて54センチの高さがあり、仏体は着色され、左手に如意宝珠を持ち、右手は掌を正面に向けていたというが、そういう尊像はここにはない。お堂の中に観音像はあるが、小ぶりで金色の観音像があるのみで、明らかに明治以前のものではない。 おかしいと思って調べてみると、なんと、元の岩屋観音は既に無くなっているらしい。

これについては『金峰町郷土誌(上巻)』に記述があるので引用しよう。
[キクが保管していた仏像を]明治二十三年御堂を新しく造って安置した。以後行事も復興した。毎年旧八月十八日の縁日には、伊作・錫山・大坂・田布施から七・八組の踊りを奉納した。(中略)ところが、大正十二・三年ごろ仏像は盗難に遭った。驚いた観音講の人達は百方手をつくして探し求めたが遂に発見できなかった。(中略)その後、観音河内出身の松山嘉一郎氏が東京に在るのを幸いに、同氏に依頼して浅草観音の地から磁器製の像を買い求め御堂に安置し現在に及んでいる。(強調引用者)
ということである。今ある観音像がまさか浅草から来たものだったとは…。

それにしても、仏像が盗まれるとは残念の一言に尽きる。廃仏毀釈という難事を逃れた仏像だったが、盗難という次の難事を逃れることはできなかったわけだ。鹿児島では廃仏希釈が苛烈に行われたために、全ての寺院が廃寺になり、多くの仏像は毀(こぼ)たれ、焼かれ、打ち捨てられた。もし河内観音像が残っていれば、貴重な文化財でもあっただろう。奇跡的に残った明治以前の鹿児島の仏教遺物の一つとして…。

盗まれた河内観音は、今はどこにいらっしゃるのだろう。個人コレクターの所有だろうか。それともどこかの博物館にあるのだろうか。でも、捨てられているということもないだろうから、どこかには保管されているのだろう。いつの日か発見され、観音像が大坂へ二度目の帰還をする日が来て欲しい。

【参考文献】
『金峰町郷土誌(上巻)』1987年、金峰町郷土誌編さん委員会

2014年5月23日金曜日

迷走する「百寿委員会」

以前も書いた「百寿委員会」の続報(愚痴第2弾)である。

前回、委員長の吉田氏が「トンデモ」な方で暗鬱になった、と書いたが、この委員会はそういう面以外でも迷走している。

これまでの委員会の内容は(1)各WGに分かれて、「南さつま市で暮らすためには何が大切か」をブレインストーミングし、(2)WG毎に「どんな南さつま市にしていきたいか」というビジョンをまとめた。というところである。この委員会の正式名称は「南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会」だが、ほとんど「まちづくり」のそのものまで検討範囲が広がっている。

例えばどんなビジョンかというと、あるWGでは
地域や人と人とのつながりを大切にし、すべての市民が生きがいを持って元気で笑顔で暮らせるまちにしよう。南さつま市の地域資源を活かし、観光・産業につなげよう。また、雇用や収入を増やすなど、人が集まる仕組みをつくろう。
とまとめている。

今後、各WGのビジョンを統合したビジョンを策定し、それに向けて一人ひとりがどのような取り組みをできるかを提言していくのだそうだ。必要なことは行政の力も借りるが、基本的には委員会の委員がこれからのまちづくりの主役になって、主体的に取り組んで行くことが期待されているらしい。

百寿委員会は、普通の役所の委員会とは随分かけ離れたやり方の委員会で、役所からの諮問に答えるのではなくて、「いい意見がたくさん出ましたから、それにみんなで取り組んで行きましょう!」と委員の発奮を期待するプロジェクトのようである。

ちなみに、仕掛け人の吉田委員長の講話は、トンデモな部分以外は一応マトモではある。私なりに彼女の主張をまとめると、「健康に生きるためには、活気のある場所で暮らさなくてはならないから、街の活性化に取り組みましょう。そのためには一人ひとりがいろいろ取り組んで行くことが大事です」ということで、それ自体はもっともな主張と思うが、問題は委員会の議題として「街の活性化」にまで大風呂敷を広げてしまうと、収拾が付かなくなることである。

というか、この委員会は市役所の保健課が主管しているが、「街の活性化」ということだと保健課の所掌を完全に外れている。おそらく、保健課のみなさんも今頃「こんなことなら最初から企画課にやってもらうんだった」と後悔しているのではないだろうか。

それに、吉田委員長は葉っぱビジネスで有名な上勝町やアーティストの移住で知られた鹿屋の柳谷(やねだん)集落といったところを街の活性化の成功例として挙げるが、こうした特異的な成功例を喧伝して市民の発奮を期待するのはいいとしても、実際には町おこし運動は失敗の連続なわけで、こういったケースの二匹目のドジョウを狙うのは、宝くじが当たるのを待つようなものだ。「やる気さえあれば出来る」というようなことを言っていたが、ビジネスの世界は過酷である。

また、「委員のみなさんが主役になって動いて下さい」とも呼びかけていたが、既に町おこしを頑張っている人はたくさんいるわけで、街の活性化に取り組むならそういう人を応援することから始める方が、吉田さんの話に刺激を受けた委員が何かを始めるのを待つよりもずっと生産的だと思う。例えば、笠沙恵比寿の活性化から取り組んでみてはどうなのか。街の活性化なら、既存施設の有効利用をまず考えなくてはならない。だが、委員会ではそういう話にはならない。あくまで「一人ひとりが主役」なのだ。

この委員会の議論は全てこういう調子で、これまでなされてきた草の根の取り組み、行政の施策や施設、街が持っている財産や前提条件といったものには触れずに、「なりたい自分になるため新しいことに取り組みましょう! 行政に頼ってはダメ!」とけしかける。その結果、非常に表面的で一般的なことだけがきれいにまとまり、地味だが重要な既存施策の改善といった中身のある内容が全く手つかずに終わっている。

もし、私が委員会を進行するならば、既存施策のレビューと市民の健康状態のレビューを行い、公衆衛生と子育て・福祉の面で南さつま市が抱える課題をあぶり出し、短期的・中期的な目標を定めてそれを達成する方策を検討していく、という堅実だがツマラナイやり方になるだろう。そうしてできるのは、やはりツマラナイ施策のパッケージだと思うので、そういういかにも役所的なやり方を賞揚するものではないが、一方で、派手さはないが堅実で重要な仕事というのは、そうしたツマラナイやり方で一歩一歩進んでいかなくては達成できないものだと思う。

吉田さんは一種の山師のような方で、確かに当たれば大きな成果をもたらす才能はあると思う。だが山師であるために、そのやり方で常に成果が得られるとは限らない。特に今回のように、やりたいことが主管課の所掌と外れている場合、いくらその内容が優れていても成功の見込みは小さいと言わざるを得ない。広げすぎた大風呂敷をどうやって畳むのか、未だ先は見えないが、前向きな議論をしていきたいとは思っている。

2014年5月15日木曜日

「大浦ふるさとくじら館」の指定管理者の公募にあたって期待すること

我が大浦町には、「大浦ふるさとくじら館」という物産館がある。

合併して南さつま市になる前の大浦町時代に町が建てて、設立当初から地域の農協が運営してきた。

もともとの名前は「大浦ふるさと館」だったが、敷地の隣に「くじらの眠る丘」という施設が出来たことで2014年4月(くらい)に「大浦ふるさとくじら館」に改名。お隣のくじらの建物のインパクトがすごいので、敢えて改名しなくても地元での呼称が「くじら館」になりつつあったが、実際はくじら(の骨?)を観光資源にしていきたい現市長の意向によるものらしい。

この改名でも何か場当たり的なものを感じるとおり、これまでこの施設は場当たり的なやり方に翻弄されてきたようだ。このあたり一帯は大浦町時代に観光の拠点として整備され、裏の小山やさらにその裏の磯まで遊歩道的なものやトイレ、展望台が作られているし、すぐ裏には市民農園もある。

ちなみに、裏の方は海を臨む眺望が素晴らしいことから某地元企業がホテルを建てる計画もあったそうだし、近くには民間企業がやっていた「ペガサス大浦」という遊興施設の廃墟もある(幾度となく名前と経営者が変わったそうだ…)。

素晴らしい眺望を持ちながら、この一帯が結局観光の拠点としてパッとしていない理由はなんだろうか。民間企業のやっていた施設のことは脇に措くとして、地方自治体がやった取り組みに関しては、せっかくの施設を活かしていく方策については後手に回っていたようなところがある。裏の方の遊歩道なんかは、かなり行きにくいし、その存在自体が知られていない。そこは草がボウボウになっているし、積極的にお知らせしたくないからなのかもしれない。

そしてこの一帯の大きな問題は、この物産館がある敷地の一部が県の所有であることで、具体的には駐車場とトイレが県の持ち物らしい。このせいで、不便な駐車場の改善がいつまでもなされないとか、トイレが物産館と独立していて物産館への動線が悪いとか、施設的な欠陥に手をつけられないでいる。

最近になって、「ふるさとくじら館」の運営にてこ入れしたい行政は、出荷者(農家等)の組織化をしようと動いているが、そもそもこの施設の最大の問題は「店長」のような立場の人がいなくて確固たる「経営」がないことである(!)。各地の物産館の成功例を見ても、その鍵は「行動力と企画力とセンスをもった強力なリーダーの存在」であることは明らかであるから、まず取り組まなければならないのは経営の強化で、出荷者の組織化はその次のステップになると思う。

この「ふるさとくじら館」は、これまでは地域の農協が特に公募等を経ずに指定管理者として指定され運営してきた。公募されていなかったのは、どうも町時代からの経緯によるものらしい。しかし、来期(2015年4月以降)の運営に関しては、公募を行う方向で準備されているという。農協の経営でいいこともあるのだろうが、いかんせん農協の事業規模からすると物産館の運営は小さな仕事になるので、惰性的になる面がある。指定管理者の公募は、経営を強化するいい機会だ。

近年、物産館というのは観光や地域興しの拠点として注目されている。実際、知らない土地に行けば物産館に行きたくなるものだ。コンビニやスーパーに並んでいるものはだいたい同じだから、何か地元っぽいものが買えるところといえば物産館だろう。であるから、物産館というのは、ただ新鮮な野菜が安く買えるところというだけでなくて、域外から来た人へとその土地ならではの価値を提供するべきである、と思う(新鮮野菜が安く買える(だけ)の物産館をけなしているのではありません)。

個人的な希望を述べれば、このあたりには観光案内所的なものがないが、南さつま海道八景の入り口であるこの物産館に観光案内所的な機能を持たすとかして、海道(国道226号線)のドライブをより堪能できる案内(風景だけでなく食事ができる場所の案内をするとか)をしたり、せめて笠沙恵比寿のチラシとか、周辺施設の紹介をすべきだと思う。

それはともかく、地元ならではの価値をどうにかこうにか提供して、この地域やこの物産館のファンになってもらわなくてはならない。そのためには、運営面を強化し、需要に応え日々改善していく努力と、大きな目標に向かって組織を動かしていく体制が必要だ。これは、単に我々出荷者(農家)の所得向上とかいうみみっちい目的のためではなくて、こんな辺鄙なところまで来てくれた人へのせめてものもてなしでもある。

こうしたことは日本全国の多くの物産館の課題であるから、農林水産省がそういう取り組みに補助金を用意している。例えば、『「農」のある暮らしづくり交付金』というのがあって、この交付金を使うと物産館の整備を補助率1/2以内で行える。しかしそうした補助事業の活用なども、「行動力と企画力とセンスをもった強力なリーダーの存在」が不可欠であるから、やはり必要なのは、一言でいうと能力のある経営者である。

この「ふるさとくじら館」の指定管理者の公募に期待するのは、そういう経営者が応募してくれることである。先日笠沙美術館の指定管理者公募の残念な記事を書いたが、この物産館の公募においては、運営者にとって有利な条件を整え、前向きな経営者が挑戦してくれることを期待したい。公募を行う際は、広くお知らせし「南さつま市の業者じゃないとだめ」みたいなケチを言わずに、本当に地元のためになる業者を選定してもらいたい。

2014年5月12日月曜日

アーモンドはじめました

以前、アーモンドの栽培をやってみたい、という記事を書いたのだが、晴れてアーモンド農家になることができた。

その記事に書いたとおり、アーモンドの(プロ用の)苗を取り扱っている業者というのが日本にないらしく、どうやって苗を入手しようかと思案していたが、世の中というのは不思議な縁があるもので、ブログを見てくれている人がある方を紹介してくれ、そこからスペインの主要品種である「マルコナ」のアーモンド苗を入手することができたのである! インターネット万歳!

それで定植したのは約45本。だが定植後、運悪くすぐに寒波が来てしまった。慌ててベタ掛けシートで被覆したものの、ちょうど出始めた芽が霜でゴッソリやられてしまい、数本は早くも枯れてしまった。生き残った他の苗も、随分傷んでしまって元気がなかったが、暖かくなってようやく活力を取り戻してきたようである。

受粉樹用に、特に強壮なスモモ(ハリウッドという品種)を植えているのだが、このスモモとアーモンドの樹勢の違いはたいしたもので、スモモは早くも1mほど枝を伸ばしている一方、アーモンドたちはどうにかこうにか生きている、という感じである。元々弱々しい上に、すぐに虫がついて葉っぱが食べられてしまう。もしかしたら土が悪いのが原因かもしれないが、なんだか先が思いやられる出だしである。

日本で経済栽培の実績がない品種なだけに、今後も手探りの管理が続いていくことになる。運良く実を結ぶまで漕ぎ付けたとしても、収穫の仕方もよくわからない。本場ではぽろぽろ実が落果する時期にツリーシェイカー(木に取り付けて大きな振動を起こし、実を落とす機械)でやっているらしいが、梅雨のある日本の場合、熟すまで樹上に成らしておくと腐ってしまうという話も聞く。収穫時期はいつになるだろうか。

さらに、そもそも今のところ需要がゼロの「国産アーモンド」を誰にどうやって買ってもらうかというのも大問題だ。多くの人にとって、アーモンドはおつまみやお菓子の材料に過ぎず、敢えて国産を選びたいという人は少ないだろうし、その上品質だって本場のものより劣るのは必定であるから、難しい商材なのは間違いない。だがそういう難しいことにトライするのが楽しいというところでもあるので、これから試行錯誤しながらアーモンド栽培に取り組んでいきたい。