2012年7月19日木曜日

「通貨を発行して、借りて、使え」は妥当なのか

田舎暮らしには関係がないが、大変お世話になっている先輩農家の方から「三橋貴明氏のブログに書いていることの妥当性はどうなの?」というご質問を受けたので、整理の意味で少し書いてみたい。

私は経済学は独学だから経済学的な妥当性を検証することはできないし、三橋氏自身が主流派経済学者とは違う見方を提供することを売りにしているわけだから、学問的な検証には意味があまりないと思う。そこで、一読者として納得感があるかどうかを主眼にしてみることにした。

まず、三橋貴明氏の主張をまとめてみる。ブログには雑多な記事があったが、その一々を検討することは不可能だから本質的と思われるところだけを抽出すると、
【主張1】デフレ下では金融政策だけでは景気回復の効果はない。
【主張2】デフレは需要不足が原因だから、金融政策とあわせて財政政策を行うべき。
【主張3】具体的には、建設国債を発行し日銀が引き受け、公共事業をすべき。
【主張4】日本国債のほとんどは国内債務なのでたくさん借金しても破綻の心配はない。
【主張5】財政再建に必要なのは経済成長であり、将来の経済成長のために今政府が投資すべき。
というところになるだろうか。氏はこうした主張をキャッチフレーズ的に「通貨を発行して、借りて、使え」とまとめている。

まず、【主張1】については、「流動性の罠」と呼ばれ経済学的にももはやコンセンサスと思われるし、「失われた20年」で日本人は経験的にこれを体感しており全く同意である。

次の【主張2】の「財政政策をすべき」というのは、デフレ(需要不足)が不況の原因であれば方策の一つとしてはありうる。デフレの解消には、おおざっぱに言って①構造改革による生産性の向上(※)、②財政政策、③インフレ期待形成という3つの方策があるが、①は政府が機敏に出来るものではないから現実性が低いし、③は「近い将来にインフレが起きそうだ」と国民の意識を変えることであるが、政府がちょっと何か言ったくらいで国民の意識を変えることは難しい。だから、消去法で②財政政策というのはわからなくない。

しかし「本当に日本の不況の原因は需要不足なのか? もっと深い原因があるのでは?」というのが既に90年代末から言われてきており、「需要不足説」はちょっと弱い。また、デフレ(需要不足)は不況の原因ではなく、不況になったからデフレになったということで因果関係が逆だと思う。日本の長期不況の原因は「高度経済成長期に形成された政治経済の構造が成長期を過ぎても温存され、成熟国家としてのシステムが未熟だからだ」というのがよく指摘されるところで、多分これが本質だ。

ちょっと話が飛ぶが【主張5】も仰るとおりで、経済成長なくして増税のみで財政再建するのは不可能であり、何らかの将来への投資をしなくてはならないのは当然だ。であればこそ、「高度経済成長期に形成された政治経済システム」の改革は急務なはずで、氏の論調ではそこがあまり触れられないのは不思議だ。

ところで、日本の経済構造が旧来型のように感じるのが、21世紀的な産業での立ち後れだ。自動車や家電といった20世紀的産業では(幸運が重なったこともあって)世界的に成功したのに、IT産業や半導体、金融といった21世紀的な産業では、日本の企業の世界での存在感はほとんどないのはその象徴と思える。要は、世界的な産業動態の変化に適応できなかったのである。得意分野だったはずの家電でも、液晶事業が韓国勢に惨敗するなど、昔日の面影はなくなってきている。そういう、個別企業の競争の集積が国全体の経済成長につながるわけで、不況なのは需要不足だけではなくて、要は世界企業との競争に負けてきたということも一因だ。

だが、もっと大きい潜在的問題は、今後の日本の人口トレンドである。高齢化と人口減少で労働力が減ることで、確実に生産性が低下することが予測されており、政治経済のシステムは変わって行かざるを得ない。社会保障や年金の制度改革も必要だし、所得再分配の形も変えて行かなくてはならない。もちろん産業構造も変革を迫られる。しかも、労働力減少に適切に対応したとしても今後の劇的な経済成長は望めないため、その変革は実入りが少なく、苦々しいものとなるだろう。そうした将来が漠然と予期されるからこそ、不透明な将来に備えて消費が抑制される面もあり、仮に暗鬱としたものであれ、成熟国家としての姿が早く見えるようにすべきと思う。

とはいえ、それは本筋であっても政治的にも極めて難しい作業になるので、とりあえずできることを、と言う意味で財政政策(公共事業)というのはわからなくもない。だが、納得感があるかというと、正直ないと思う。

ということで話を戻して次は【主張3】だが、まず公共事業について考えてみる。氏は、「日本の国土は災害が多発するので防災の観点からの公共事業が必要なのに、公共事業費は年々減少を続けているのは危険。また高度経済成長期に作ったインフラがメンテナンスを必要としている。現在金利が低迷しているのだから資金調達が安価にできるわけで、今こそ公共事業を行うべき」という趣旨のことを言うが、これには説得力がない。

防災云々というのは、今後10年で200兆円もの公共事業を行うという自民党の「国土強靱化基本法案」に載っかっている部分もあるのだが、今千年に一度のような災害に備えるより、復興支援にお金を掛けた方が効率的かつ現実的ではなかろうか。またインフラのメンテナンスが今後必要になるというのは本当にその通りで、これはこれで大問題だと思うが、既存のインフラのメンテナンスは生産性向上に寄与しない(現状維持するだけ)なので、経済を好転させる力はない。また、安価にできるから今公共事業をすべきというのは安易な考えで、バブル期前後の公共事業で金がある時にばらまいて無駄で非効率的な施設やインフラといった負の遺産がたくさんできたことの反省がないように思われる。

なお、氏は震災以前には、東京や大阪など大都市のインフラを整備せよという主張をされており、私はそれは納得するところだが、震災以降それをあまり言っていないようで残念だ。国家全体の生産性はほとんど大都市の生産性とイコールになるので、経済成長させるために大都市のインフラを公共事業で整えるということであれば話がわかったのだが…。

さらに、その公共事業を建設国債を発行して日銀に引き受けさせて行うということの意味が私にはよくわからない。氏はブログで「わたくしが発行しろと言っている国債は「建設国債」であり、赤字国債ではありません。」ということを主張されておられたが、この二つはどう違うのか? 根拠法と償還期限が違うだけで実質同じものなのだが…(事実、国債は一種類しかなく、額面に「建設国債」とか書いているわけではない)。

また、日銀に引き受けさせるという話は、民間に余剰資金がないからというよりは、氏の持論であるインフレを引き起こさせるためということかと思われるが、これは方策としてはよくなさそうだ。日銀が国債買い入れをするのは日常茶飯事ではあるが、強制的に引き受けさせるとなると話は別で、市場には「日本は国債を市中消化できなくなっている」というサインを送ることになり、長期金利の上昇を招く。すると累積700兆円もの国債の利率が借り換えに従って順次上昇し、国債の利払いだけで大変なことになる。

氏は、「デフレ状況下でなぜインフレの心配をするのか」とよく書かれるのだが、今、日本がインフレになると国債の利払いが加速度的に増えることになって、それだけで財政破綻するおそれが高まるのだから、デフレ下にあってもインフレを警戒するのは当然のことである。また、将来の低成長が予測される状況では、インフレが起こる前兆としてデフレが起こりうることが理論的に示されてもいる。さらに氏は「インフレになれば国債の実質残高も減る」と主張するが、それはなってみないとわからないことで、実際は金利の上昇スピードの方が早いこともあるのだから予断を許さない。要は、インフレになるといいこともあるが、悪いこともあるということだ。

ということで次に【主張4】だが、これも全く納得感がない。破綻(デフォルト)しない理由として「円建て・国内債務」を挙げているが、これは氏が言うほどの強みではないと思う。円建てなので、金利が上昇しても日本銀行による金融政策で適切な範囲にコントロールできるというが、これまでの日銀のていたらくを見ているとそんなことは信用できないし、国内債務が多いというのは、少しの変化で国内の金融機関等が甚大な影響を受けるということであって、むしろ慎重になるべき要素だ。

例えば、国債がデフォルト(債務不履行)しなくても、格付けが数段階落ちるだけで大混乱になる。なぜなら、金融機関はある程度の格付け以上の債券等で資金運用することになっているところが多いので、より安全性の高い債券に乗り換える必要性が出てくることで、日本国債が暴落してしまう可能性もあるのだ。国債が暴落すると、日本の金融機関のバランスシートは大打撃を受け、自己資本比率が悪化して金の貸し出しができなくなってしまう。氏は破綻=デフォルトと定義されているようだが、国内債務が多い日本国債の場合はデフォルトまでいかなくても金融機関に混乱を引き起こす可能性があるわけで、破綻するしない以前の問題が大きいと思う。

さて、再び【主張5】だが、先述の通り経済成長が重要というのは仰る通りであるが、公共事業でそれが成し遂げられるかというと答えは否である。大都市はともかく、国土全体で見れば有用な土木事業は多くが既に実施済みで、今後新しい道路などを作っても将来の生産性を上げることはできないだろう。生産性を上げるための方法は経済学的にはまだ確立していないが、公正な競争が行われることが重要だから、基本的にはルール(規制・税制など)の整備、通貨・金融システムの安定、(競争の舞台となる)大都市のインフラ整備などが標準的な方策と思われる。日本が特に後れているのはルールの整備なのだから、そこに手を付ける方が有効ではないか。もちろんそれですぐに需要が生まれるわけではないが、長い目で見ると結局そちらの方がいいと思う。

まとめると、
【主張1】→常識的な見解
【主張2】→財政政策は手の一つだが、需要不足が本当に不況の原因なのか一考の余地あり。
【主張3】→公共事業で生産性は上がらないので、結局無駄では? また日銀に国債を引き受けさせてインフラを起こそうというのも一長一短ある。
【主張4】→破綻するしない以前の問題が大きすぎる。
【主張5】→その通りだが、公共事業では将来への投資にならない。
というところだろうか。

結論としては、見るべきものがないとは言えないが、床屋談義以上の価値があるとも思えない。いわゆるリフレ派とかニュー・ケインジアンとか、氏のような考え方の勢力は一定程度あるのでそれは異端ではないけれども、であればこそ、氏もよく言及するポール・クルーグマンなど本家本元の主張を聞いた方が有用だ。

とはいえ、彼は作家であるのだから、もしかしたら本当に本質の部分というのは本に書いていて、ブログには書いていないのかもしれない。そういう可能性もあるけれども、少なくとも私は彼の著書を買って読む気にはなれなかった。なお、私の経済学的知識は若干古い面があって、もしかしたらこの記事にとんでもない間違いがあるかもしれないので、自分でいうのもなんだがあまり真に受けないようにされたい。


※ 氏は需要不足の時に生産性を向上させたら(供給力を上げたら)もっと需要不足になってしまうからいかん、と主張しているが、長期的な生産性が上がったら将来の所得が増える期待が形成されるので消費が刺激される、という理屈。

2012年7月14日土曜日

「人・農地プラン」の抱える問題点

現在農林水産省が進めている「人・農地プラン」作成へ向けた笠沙・大浦地域での説明会・話し合いがあった。

が、事前の周知がよくなかったのか、参加者は私含めてたったの4名。プラン作成へ向けた話し合いは別途機会を設けて行われることになり、当日は制度の説明のみ。

人・農地プラン」というのは、端的に言えば「大規模農家を育成するために、農地の集積を行う」ための計画である。そのために、自給的農家や兼業農家などへは耕作しないよう促し、農地の利用を白紙委任することを求める(その代わり交付金が出る)。

日本の農業の問題点の一つが、兼業農家・自給的農家など生産性の低い農家の存在であることはよく指摘されることではあるが、どうもこの施策は釈然としない。世界的にも、農業の効率化は「機械化による大規模化」で成し遂げられるというのはいわば標準理論であるが、このような施策を今行う必然性はあるのだろうか?

というのも、農業の高齢化トレンドからいって、今後十数年で耕作を辞める農家がかなり多く存在するのは確実で、大枚をはたいて農地集積を図らずとも、政策目的である農業経営体の大規模化は自然に実現されそうな気がする。

しかも、「日本の農業は小規模農家が多く非効率的だ」ということが長く言われてきたがこれは本当なのだろうか。海外の一人あたり耕地面積は日本の10〜30倍程度あるのは事実だが、逆に言えば、日本の10〜30倍もの耕作を行わなければ経営が成立しないということでもあり、そういう観点からはこれは望ましい状況でもなんでもない。むしろ、海外に比べ1/30〜1/10の面積で農業が成り立つ日本という国は、極めて効率的な農業を行っているのではないか。

もちろん、農産物価格で海外に水をあけられているのは事実だ。しかし、主要先進国であれば農業はどこも補助金産業である。また、海外においても小規模家族経営の農業が見直されはじめており、企業経営的な大規模経営に比べ、持続可能で地域に根ざした農業ができるのみならず、経営的にも成功し始めているところもあると聞く。

というわけで、大規模経営が効率的というのも近年自明ではなくなってきており、それだけでも「人・農地プラン」には疑問符がつくところである。それに、日本農業が抱えている最大の問題は、流通機構の未熟さであると思われるので、本来はそこに手を付けるべきではないのだろうか。ほとんどの農産物はJAが流通を担い、あとは個人販売という二極化した状況は望ましくない。

最近のアグリビジネス界隈での話題が、「(生産者の顔が見える)直販所」「大手スーパーや飲食チェーンとの契約栽培」「インターネットでの直販」など、いずれも流通に関する取組であることは示唆的だ。逆に、大規模化で成功した農家のニュース、というのは聞いたことがない。直販や契約栽培といった出口がしっかりしているから大規模化に取り組めるのであって、大規模化自体は経営目的になりえないと思う。

その意味で、「人・農地プラン」の最大の問題は、大規模化する経営体に対するメリットが全く見えないことだ。どうも、「農業経営体は大規模化したくても土地が足りなくて出来ていないのだから、その機会がありさえすれば大規模化するはずだ!」という根拠のない仮説に立脚した施策のような気がしてならない。

とはいうものの、「それぞれの集落・地域において徹底的な話し合いを行い、集落・地域が抱える人と農地の問題を解決」していこうという「人・農地プラン」の基本的な考え方は悪くないと思う。農業は、地域の土地をどうやって利用していくかという側面もあるので、そういう話し合いを設ける価値は大きい。ただ、その結果、その地域がどういう農業をしていくかは地域ごとに様々なはずで、「経営の大規模化」を既定路線にするのは、ちょっと無理があるのではないかと感じる次第である。

2012年7月12日木曜日

南薩地域ニューファーマーの集い

先日、「平成24年度南薩地域ニューファーマーの集い」なるものに参加した。

これは、南薩地域振興局(県の出先機関)が主催(※)するもので、今年度に新規就農した者に対し相互の交流や各種制度などの情報提供を行うもの。対象者(つまり新規就農者)は南薩地域で30名。内訳は、枕崎市2名、南さつま市6名、南九州市22名で、かなり南九州市(頴娃、知覧、川辺)に偏っている。

なお作物の内訳で見ると、さつまいもが12名で一番多く(意外だ)、茶が11名、野菜6名、水稲4名と続く(以下略)。なお新規就農者が南九州市に偏っている理由は、お茶の生産農家の後継者数がこの地域に多いためである。何しろ、全国2位の生産量を誇る鹿児島茶だが、南薩地域はその最も大きな生産拠点であるのだから、これは当然といえば当然だ。もちろんお茶を巡る状況は厳しいものがあるとはいえ、新規就農者の雰囲気を見る限り、先行きが暗いというわけでもなさそうだ。

自己紹介で一言ずつ抱負を述べる場面があったが、多くが「規模拡大を目指したい」「安心安全な農作物を作りたい」「経営の安定を図りたい」のどれかに言及しており、それだけで近年の農業を巡るトレンドを垣間見る思いがする。ちなみに私は「山を活かした農業ができれば」と発言し、今思えばやや茫漠としたコメントになってしまった気がする。

集いでは、県が設けている制度である指導農業士・女性農業経営士・農業なんでも相談員が紹介されるとともに、南薩地域における農業青年クラブも紹介された。特に、そのうち旧頴娃町のKEファーマーズからは、九州・沖縄地区青年農業者会議において鹿児島県代表として発表された茶の商品開発プロジェクトのプレゼンテーションも行われた。

全体を通して心に残ったのは、「農業は、絶対に一人ではできない。仲間と一緒に農業をしなくてはならない」というメッセージだ。新規就農者はほとんどの面でベテランに劣るなか、土地や設備などに関してはむしろ厳しい条件でやっていかなくてはならないので、助け合いは必須である。私自身としても、いろいろな方に支えられながらなんとか農家としてやっていこうとしているところなので、初心を忘れず、周りの人達に感謝しながら、また少しでも役に立てるように頑張りたいと思った。

※正確には、「南薩地区指導農業士会」「南薩地域農政推進協議会」「南薩地域振興局農林水産部」の共催。

2012年7月3日火曜日

古民家は、実は黴に弱い?

梅雨である。本当に鬱陶しい。

鬱陶しいだけでなく、家中が黴(カビ)だらけになってしまう。畳の茣蓙は新しくしたので多少黴が生えるのは覚悟していたが、掃除しても3、4日でまた生えてくるというのは想像以上だ。

それだけでなく、もう黴が生えそうなものにはすべて生えてくる…というくらいあらゆるものが黴だらけになる。写真は、掛けてあった洋服が黴た様子だが、ブルーチーズみたいに全体に黴が生えている。これ、洗濯したら復活するだろうか…。

ところで、現代の木造住宅は機密性が高い上、外気との温度差が大きいので結露しやすく黴が発生しやすいと言われるが、うちは築百年近い古民家である。多少リフォームしているとは言え、基本構造は変わっていないのに、こんなに黴が生えるのは釈然としない。これまで住んできた「機密性の高い住宅」でもこんなに黴が生えたことはないのだ。

そもそも、伝統的日本家屋が黴に強い、ということは本当なのだろうか。高温多湿な日本の夏によく適応して風通しをよくしているとは言え、それが黴に強いということにはならない。例えば、 伝統的な保管庫、つまり「土蔵」は締め切りが基本であり、風通しをよくするよりもむしろ土壁による湿度調節機能によって黴を防いでいたと考えられる。

これは考えてみれば当然で、梅雨時は外気も過湿状態にあるわけなので、いくら換気をしても湿度が下がるわけではない。気温が高くなった時の雨上がりなどは、外気の方がムワっとして湿度が高いくらいだし、機密性が低いから黴が生えないというわけではないだろう。

ただ、空気の滞留するところには黴が生えやすいのは事実だ。つまり、家の風通しをよくすれば、黴の生える箇所は確かに減る。だから伝統的日本家屋では黴の生えるところは比較的少なかったのだと思う。ただ、それは黴対策=湿度対策が出来ていたからではなく、単に環境が外気と似ていたからであり、「日本家屋の知恵」などと誇るべきものではない。

そして、桐箪笥のような、それ自体に湿度調節機能が存在するような家具が発達したのも、家自体は黴に弱かったからではないかという気がする。つまり、伝統的日本家屋は、普通言われているのとは違って大して黴に強くなかったのかもしれない。ということは、我が家の黴との戦いは、これからも毎年負け戦になるのだろうか…。

2012年6月27日水曜日

南薩の隠れた特産品:生のらっきょうが美味しい

少し前のことだが、先輩農家かららっきょうをいただいた。

漬け物にせずそのまま食べても旨いということだったので、家内が豆腐の薬味として使ったのだが、これが大成功。

冷や奴の上に、スライスして湯通しした(お湯をかけるだけ)らっきょう、そして枕崎産のかつお味噌を載せるとというごく簡単な料理だが、漬け物にするより美味しい。新鮮ならっきょうはそのまま食べるのが一番だということを改めて感じた。これは、ご当地グルメとして流行ってもおかしくないくらいだと思う。

そもそも、鹿児島県は全国有数のらっきょうの産地で、最近は鳥取や宮崎に水をあけられているが、ごく最近までずっと生産量日本一だったのである。そしてその中心は南さつま市、日置市吹上町などの吹上浜沿岸の南薩地域だ。ところが、このことは鹿児島でもあまり認識されていない。

その原因としては、鹿児島県のらっきょう生産は小規模零細農家に支えられてきたことが大きい。統計を見てみると、鳥取、宮崎、鹿児島の生産量はほぼ一緒(4000トン弱)だが、鹿児島の場合は出荷量がなぜか1000トン以上少ない。これは統計に表れない消費が多いからで、鹿児島県のらっきょう生産は組織的に販売しない小規模零細農家に多くを負っていることを示唆している。事実、周りを見ても小面積栽培の農家が大変多い。

また、鳥取・宮崎と著しい対照を見せるのが加工用らっきょうの出荷量だ。宮崎は約75%が、鳥取でも約50%が加工用(漬け物用)として出荷されるのに比べ、鹿児島では漬け物用の出荷はほとんどないのである。これは、鹿児島県民が(全く自覚がない人が多いが)全国的にも無類のらっきょう好きで、らっきょうは自分で漬けるのがスタンダードなため、多くが生の状態で売られるからだ。

鹿児島には、砂丘として全国一の長さを誇る吹上浜を有すのみならず、保水性がなく痩せたシラス台地が広がっている。そこで他の作物が作りにくい痩せた土壌を活かす工夫として自然発生的にらっきょう栽培が広まったらしく、鳥取や宮崎のような組織的な生産・販売の体制がほとんど構築されなかった。そのため、本来鹿児島が元祖であったはずの「砂丘らっきょう」は鳥取(JA鳥取いなば)に商標登録されるなど、近年、鹿児島県のらっきょう販売は他県に遅れをとっている感が否めない。

もちろん、鳥取のらっきょう生産は大規模農家によって担われており、らっきょう畑が集積して広がっていることからブランド化しやすかった、ということはあると思う。しかし販路拡大のための積極的な広報の他にも「鳥取砂丘らっきょう花マラソン」や「らっきょうの花フェア」の開催といった関係者の地道な努力があってブランド化に成功したのであり、こういう面は見習う必要があるだろう。

一方、鹿児島県の現状を見ると、特にらっきょうを売り出そうという気配もなく、せっかくの特産品がほとんど認識すらされていないのは残念だ。それどころか、鳥取などの生産量拡大によってらっきょうの単価が下がるなど、生産者をめぐる状況は厳しくなってきている。らっきょうは、消費に限界がある漬け物利用が中心であるため、全国での生産量が増加すれば単価が下がるのは当然だ。であればこそ、鹿児島県は生食用のらっきょう販売が他県に比べ圧倒的に多いという特色を活かして、漬け物でない生食らっきょうのご当地グルメを作るなど、全国的にほぼ未開拓である生食らっきょうの売り込みに取り組むべきだと思う。

鹿児島県のらっきょう生産は小規模零細農家が多いために、農家まかせではなかなかそういうプロモーション活動は出来ないわけで、(他力本願ではあるが)県や市、そして地域のJAに是非頑張ってもらいたい。生のらっきょうがこんなに美味しいということは全く知られていないので、その努力次第では新たな名産になるだろう。

【参考文献】
鹿児島県のらっきょう生産概況」1987年、藤井嘉儀
※ 鳥取大学の研究者が、圧倒的全国一位だった頃の鹿児島のらっきょう生産を分析したもので、”鹿児島県は小規模零細農家ばかりだから、鳥取県のらっきょう生産は勝てる!”のようなことが書いてあり、とても驚いた。虎視眈々と鹿児島の地位を狙っていたわけである…。

地域特産野菜生産状況調査」2008年、農林水産省

2012年6月23日土曜日

鹿児島県知事選に思う

鹿児島県知事選である。立候補は現職・伊藤祐一郎氏と新人・向原祥隆氏の二人だけ。

そのため今回の選挙は盛り上がりに欠け、県民の多くが無関心だと思うが、自分の考えを整理するためにも思うことを少し書いてみたい。

まず現職の伊藤祐一郎氏であるが、これまでの実績を一言で表せば「良くも悪くも旧来型の安定した施政」ということになるだろう。「本物。鹿児島県」のキャンペーンなど対外的な活動もあるが、県政に際だった特色はなく、あえて言えば中心は公共事業。

産業の少ない本県としてはしょうがない面があるが、人工島マリンポート鹿児島の建設や錦江湾横断トンネル(検討中)など、費用対効果の定かでない大規模施設の建設も目立つ。川内の最終処分場建設は植村組との不透明な関係が指摘されるなど、土建業界と二人三脚でやってきたようなところもあるが、区画整理や道路の拡幅・延伸といった地味だが重要なインフラ整備も続けている。なお、九州新幹線の全面開通は県の努力も大きいと思うが伊藤県政の成果ではない(以前から計画・施工されていたことだし、県の事業ではない)。

次に、対抗馬となる向原祥隆氏は、出版社南方新社の社長であり反原発グループの代表。南方新社は郷土の出版社として重要だし、氏は有機農業にも取り組まれておりその価値観には個人的に共鳴する部分もあるが、やはり問題は争点を脱原発に絞っていることだろう。今年6月の講演でも「なぜ立候補するかというと、川内原発を絶対再稼働させてはならない、その一点です」と述べており、県政全体を担う県知事の候補者としてはこの抱負は物足りない。

マニフェストにはいいこともたくさん書かれているが、記載に粗密が目立ち、脱原発が鮮明であるためにその他の付け足し感・思いつき感が否めない。謳われていることが実現できたら、たしかに素晴らしいとは思うが、「いろいろ頑張ります」以上のものを感じられないのが率直な感想だ。もちろん新人は施策立案の面で不利なので、掲げる目標は漠然としたものにならざるをえないのだが、どうも情緒的な記載が目立つのは気になる。

ちなみに、中心施策である脱原発も、目標はともかくとして手法が早急・強引な印象を受ける。氏の述べるやり方も手法の一つとは思うが、エネルギーの安定・安価・安全な供給が可能なのか疑問であり、安全のみにフォーカスしすぎるあまり、安定・安価が犠牲になるのではないかと心配だ。脱原発のためにはライフスタイルや産業構造を変える必要があり、長い時間をかけて理想に近づいていく地道な努力が必要と思う。

ただ、マニフェストだけでなく各種の資料を積極的に公表したり、Facebookを活用していたりと今っぽいセンスは県政に新しい風をもたらしそうではある。伊藤氏のWEBページは対照的に旧態依然としていて、マニフェストは新聞の他は積極的に公表しておらず、僻地が多い鹿児島県での選挙活動としては残念だ。

なお、伊藤氏のマニフェストは、要約すると「これまで通り引き続きやります」というものだが、 実は伊藤氏と向原氏は方向性をかなり共有している。ただし、方向性は同じでも、伊藤氏のそれは妥協的・官僚的だが現実的、向原氏は体系的ではないが理想主義的、ということは言えるだろう。

ところで、両氏のマニフェストを眺めていて思うのは、どちらも産業振興政策がほとんど謳われていないことだ。産業の項目は両氏とも農林水産業にほぼ限定されており、向原氏の場合は実質農業しかない。農林水産業には補助金等が多く県政の影響力が大きい、という理由もあるとはいえ、従事者が少ない第一次産業のことしか考えていないとしたら問題だ。九州新幹線も全面開通したことであるし、鹿児島らしい産業振興政策を検討してもらいたいところである。

さて、偉そうに論評してきたが、実は向原氏は高校の先輩、伊藤氏も霞ヶ関の先輩にあたり、また両氏の支援者には普段お世話になっている方もいるわけで、実はあまり批判めいたことは書きたくない。それに、大勢の人に背中を押されなければ選挙などには出られないことを思えば、どちらも立派な人物なのだと思う。どちらが県知事になっても、鹿児島の発展に尽くして頂きたいと思う。

【蛇足】
すごくどうでもいいことなのだが、両氏ともにWEBサイトでマニフェストのことを"manifest"と書いている。しかしこれはスペルミスで、これだと「積荷リスト」とか「乗客名簿」のことになってしまい、正しくは"manifesto"だ(最後にoが付く)。向原氏は出版社社長なのだから、誤字には敏感であってほしいなとちょっと思った。

2012年6月20日水曜日

県が絶賛奨励中:シキミの栽培

シキミ
鹿児島県が実施する「枝物生産者養成講座」を受講した(正確には受講途中)。

ここでいう枝物とは、仏前・神前に供えるシキミ(樒)、サカキ(榊)、ヒサカキ(柃)を指す。 あまり知られていないが、鹿児島県はシキミは全国2位、サカキ・ヒサカキは生産量が全国1位であり(平成22年)、林産の重要な特産物になっている。

この中でも特に県が推しているのがシキミである。枝物の生産は県内でも大隅地方に偏っていて、大隅地域が9割ほどを占めており、薩摩地方では発展の余地があるのだが、特にシキミの生産は有望視されている。

その理由は第1に反収が高いこと。反収(10aあたり収入)は20〜40万円で、しかも年間を通して販売が可能であることから、2町(2ha)あれば専業で十分やっていけるという。これは需要が高く供給が少ないためであるが、今生産者は市場から「どんどん持ってきてくれ」と言われている状況ということだ。

第2に、生産コストが低く手間がかからないこと。多少の剪定は要すが、主な作業は防虫・防かび等のための薬剤散布と収穫のみであり、重労働や危険な作業は一切なく、高齢者や女性でも十分栽培が可能だ。当然大型の機械も必要なく、初期投資も少なくて済む。もちろんこれは反収が高い理由ともなっている。

第3に、耕作放棄地等の遊休農地を活用できること。サカキも反収が高く省力的な植物ではあるが、スギ・ヒノキの林床を活用した栽培が一般的であるため場所を選ぶ。一方、シキミの場合は日当たりを好むため畑地が活用出来、山奥に行く必要がないので便利だ。

というわけでシキミは将来有望な作物なのだが、もちろん生産者が少ないのはそれなりに理由がある。大きいのは市場が遠いことで、シキミは主に創価学会と日蓮正宗で使われ、消費地は関西に偏っている。さらに鹿児島県のシキミ生産は和歌山県から伝えられたもので歴史が浅く、販路が確立していない面がある。

私はシキミ生産を中心的にやっていこうという気は今のところないが、もし生産者組合が南薩でも設立されて販売が容易になれば少量作ってみたい気がする。というのも少量なら病害虫の発生も抑えられるかもしれないので、非常に省力的に生産できる可能性があるからだ。

ところで、ふと思うのだが、枝物というのは年間を通じて収穫が可能なのがメリットといっても、逆に言えば果実の収穫のような充実感・解放感に欠ける部分があるのではないだろうか。経済的に有利といっても、どうも工場生産のような単純作業の連続のような気がしてしまう。

こういうものは、どちらかというと法人での生産に向いていると思うので、農業生産法人を設立してシキミ栽培をやれば成功するような気がした。