2022年2月19日土曜日

「思想」としての近代日本文学

高校の国語の授業が、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」に分かれる、という報道がされている。

正確にいえば、これまでは必修の「国語総合」に加え「国語表現」「現代文 A」「現代文 B」「古典 A」「古典 B」の5つの選択科目という構成だったのを、新学習指導要領では、必修科目として「現代の国語」「言語文化」を設け、選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の4つの選択科目という構成にしたものである。

報道のされ方はやや一面的な気もしないではないが、古典を含む文学が軽視されているというのは事実であろう。

これに関してちょっと思うことがある。

昨年の12月に「books & cafe そらまど」というブックカフェをオープンさせた。古本屋とカフェが一体になった店である。本棚には既に本がぎゅうぎゅうに詰まっている。この本は、いろいろな人が寄贈してくださったもので、驚くべきことにほとんど集めようとしないうちに、半ば自動的に集まったものである。

こうして集まった本の中に、「名著復刻全集」が2セットも入っていた。古本屋を使う人にはお馴染みのセットで、明治以来の名著を初版本そのままに復刻したシリーズである。このシリーズが復刻にかけた意気込みはすさまじく、紙や造本にいたるまで当時の技術を再現し、研究に使えるレベルの「初版本のレプリカ」とでもいえるものとなっている。

当然値段も張り、いろんなセットが断続的に販売されていたので数種類があるが、「近代文学館」と題されたものはセット販売のみで20万円くらいだったと記憶する。しかしこの高価なセットはかなり売れた。元値は1冊数千円のものだったのに、今では古書価格で1冊数百円になっていることでも、いかにたくさんのセットが行き渡ったか窺い知れる。

どうして初版本の復刻版などというものがそんなに売れたのだろうか。

これが売れていたのは主に高度経済成長期からバブル期であって、その頃の日本人は単にお金があったからだ、という見方もできる。また、これらは書店で販売されるのではなく、訪問販売によっていた。当時は百科事典とか図鑑の訪問販売が盛んにされていて、その熱心な販促活動が功を奏して売れた、ということもあるだろう。また、「教養主義」が生きていた時代、こういう名著は読んでいないと恥ずかしい、という意識が底流にあったことも否めない。

しかしそれにしても、今目の前にあるこの復刻本、そして多くの古書店に並んでいる名著復刻全集が、ほとんど開かれたこともない様子なのをどう考えたらいいのか。名著を読むだけなら数百円の岩波文庫で事足りるのだ。むしろそちらの方が、充実した注釈や解説、読みやすい活字といったものを考えると、復刻本を高いお金を出して買うよりずっと優れている。

同じく訪問販売されていた百科事典や図鑑だってあまり使われた様子はないが、それでもインターネット以前の社会ではそういうものはとても役立つ道具だった。わからないものがあった時に頼れる唯一のよすがだったと言ってもいい。でも名著復刻全集はそういった実用性はまるでないのである。気も蓋もない言い方をしてしまえば、それはただ所有欲を満たすためだけのものであったといえるかもしれない。要は見栄えのする「置物」だったのである。

しかし、それはそうだとしても、美術品とか高級な家具や調度品ではなくて、なぜ復刻本が「置物」になりえたのか。この全集を買った人は、何を求めて高いお金を出したのか。

私は、それは近代日本の「思想」を手元に置いておきたかったからではなかったのか、と考える。

文学を「思想」と言い切ってしまうのは乱暴だとは思う。それについては少し説明が必要であろう。

普通の人にとって、思想や哲学は身近なものではなかった。それが海外の思想家の著作を翻訳してつくった観念的なものばかりで、生活に立脚した、普通の言葉で語れるものでなかったからだ。いわば思想はハナから「外国語」であった。でも思想は、なくて済ませられるものではない。この社会をどう考えるか、人生はどう生きるべきか、正しさとは何か、といったことは、明確な理論で説明出来なかったとしても、やはり社会を成立させている重要な地盤なのである。

ところが近代日本では、そうした思想は、地盤であるどころか空中楼閣のように人々の心から遊離していた。その代替になったのが、近代文学であったように私には思えるのである。

もちろん、日本近代文学が思想の表現だったとは全然思わない。例えば谷崎潤一郎を読んで人の道を学ぶなんて不可能だし、芥川龍之介『羅生門』で正義のなんたるかを知るなんてできようはずもない。私は文学の内容ではなくて、むしろ「表現」の方を人々は「思想」と受け取っていたのではないかと思うのである。

美しく格調高い「表現」そのものが、日本人にとっての「規範」だったと私は思う。ある意味では、そこに「内容」は必要なかった。「内容」がないことは、日本人の「思想」が容易に換骨奪胎されうる危険性を内包しているが、それでも美しさや格調高さが共有されている限り、日本人の「思想」は原点に戻れるものだと私は思っている。

だから、やはり新学習指導要領での文学軽視の傾向はよくないものだと思うのである。

日本人は論理的な文章の読解や作文が不得手だというのはその通りだと思う。文科省がそこのテコ入れをしようと思ったのは理解できる。しかし元来日本語は論理的な表現に適さないもので、新しい科目を増やしたくらいで強化できるように思えない。むしろ古典や近代文学に触れる機会が減るデメリットの方が大きいのではないだろうか。

名著復刻全集を買った人たちは、美しさや格調高さが日本文学の核心であることを無意識的にでも感じていた人たちだったと思う。でなければ、美しい「初版本のレプリカ」を大枚をはたいて手元に置こうとは思わなかったはずだ。読みもしないのに。

日本近代から、美しさや格調高さを取り除いたらどんな「思想」が残るというのだろう。実用性や合理性の面ではからきしダメだったのに。ネットの海に大量に漂流している醜悪な言葉は、論理性の欠如の帰結だとでもいうのか。

今必要なのは、論理的文章を書ける訓練をするよりも、開かないで過ごしてきた復刻本を改めて開いてみることのような気がしてならない。



2 件のコメント:

  1. はじめまして。父が旧伊敷村、旧鹿児島市電上伊敷電停付近の出身から中高時代を鹿児島で過ごしました。ずっと以前にBookmarkへは入っていたのですが久しぶりにお読みして意を得たりでした。南薩へは一昨年?に開聞岳近くの駅までふらっと行ったきりですが次回は貴兄の図書館へお伺いしたいと思いました。

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    1. Ciaoさん、コメントありがとうございます。ご理解いただけてうれしいです。一つだけご注意いただきたいのですが、「貴兄の図書館」とありますが、実際には古本屋ですのであまり期待しないでくださいね。よろしくお願いします。

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