ここだけの話、今年の11月19日にマルヤガーデンズで講演することになった。演題は未定。今、何をしゃべろうか思案している。
私は東京工業大学の数学科、というバリバリの理系の学校を出ていて、その同窓会(蔵前工業会と言います)の鹿児島県支部では年1回講演イベントを実施している。これは「Tech Garden Salon」といって「アートやカルチャーを楽しむように、テクノロジーの世界を楽しみましょう」というコンセプトの、いわば「テクノロジーをテーマにした社交の場」なんである。そして、今年は私にその講師の役割が回ってきたというわけだ(この同窓会、メンバーがとても少ないのですぐに出番が回ってくる)。
このイベント、初回の一昨年は鹿児島大学の山口教授が「コンクリート」の話を、昨年は鹿児島大学名誉教授の井上先生が「まちづくりと景観」の話をした。教授、名誉教授ときて、学者でもなんでもない、百姓の私の出番なのである。うーん、困った。
同窓会のメンバーからは、「普段何をしているかを話すだけでも面白いと思いますよ」などと茶化され(?)てはいるが、そうなるとほとんどテクノロジーの話が出てこないのでイベントのコンセプトとずれることになる。私の農業は、ブログだけを読むと理論的にやっているように見えるかもしれないが、実際は「理論」は1%だけで残りの99%は「根性」だ。
でも自分の普段やっていることとほとんど関係のないテクノロジーの話なんかすることもできないし、結局話せることといえば、「田舎暮らし」のこと以外にはないような気がする。ただ、「田舎暮らし」について語るといっても、「田舎暮らしは楽しい」と言うつもりもないし(都会暮らしだって楽しいと思う)、特にこれといって主張したいこともない。というより、こちらに移住してきてから4年半も経つが、まだ田舎暮らしに対する確固たる視座というか、立場が定まっていないところがあって、語るに語れない部分がある。
そういう風にウジウジ考えていたのだが、一応仮のテーマを決めましょうということになったので、もう内容は考えずに「田舎」と「工学」を合わせて「田舎工学」について話します、と見得を切った次第である。少しでも「テクノロジー」の要素がないといけないと思うと、やっぱりエンジニアリング=工学の視点が必要なのだ。当然、こんな学問は私の知る限りないので、この架空の学問について話してみようと思う。
さて、「都市工学」というと、これは文字通り都市を作っていく工学で、各種のインフラ設計や都市内のゾーニングといったことを研究対象にする。一方マイナーだが「農村工学」という学問分野もあって、こっちは土地改良(農地の造成)とか水利の問題(農業用ダムの設計や運用)というようなことを扱う。要するに、どちらも「生産性の高い地域を作っていくためのインフラ設計」をテーマにしているわけだ。
そういう考え方でいうと、「田舎工学」の内容はどうなるだろう。「農村工学」と近い部分もあるが、ちょっと根本的に違う気もする。そもそも「田舎」というのが情緒的な概念で、都市とか農村みたいな言葉とは違う。鹿児島市内(南薩の人からすれば都会)は首都圏からみたら「田舎」かもしれないし、そもそも出身地という意味で「田舎」ということもあり、「田舎」を人口密度なんかで定義づけることはできない。
つまり「田舎」は常に「誰かにとっての田舎」なのであり、それを語る「人」を抜きにしては成立しない概念である。ということは、「田舎工学」が田舎を作っていく工学だとしても、まず考えなければならないのはインフラとかより「人」である。そして「田舎」という言葉自体が何か「生産性」と別のベクトルを向いているような気がして、都市工学や農村工学みたいに「発展のためのインフラづくり」そのものを語るのは違うように思う。
講演では、今のところ、私自身がどういう考えで南薩の田舎に移住してきたかということを皮切りにして、 「これからの時代、田舎の方がかえって面白い可能性があるんじゃないか」というような雰囲気を伝え、楽しい田舎暮らしを作っていくとはどういうことなのか、というやや分析的な話に持っていきたいと思っている(現時点で、そういう分析があるわけではありません)。
と、書いてはみたものの、正直いうとどういう話をしたらいいのかやっぱりわからない。私には田舎暮らしに関してこれといって信念とか主張がないのでどうも話の「軸」が定まらない感じである。自分が何を言いたいか、ということより、聴衆が何を聞きたいのか、ということから出発して講演の内容を考えた方が早いかもしれない。
というわけで、ブログの読者のみなさんにお願いである! こんな話が聞きたい、ということがあれば(田舎暮らしに直接関係なくても可)、ぜひご意見をコメント欄にでもお聞かせください。講演内容検討の参考とさせていただきます!
2016年5月31日火曜日
2016年5月29日日曜日
納屋をリノベーションします
実は、明日からうちの納屋のリノベーション工事が始まる。
このあたりの古い家には必ず納屋が附属しているもので、うちも本宅よりも立派な2階建ての納屋があった。でもいつかの台風で2階部分が壊れて改築し今は1階部分しか残っていない。
昔も今も、農業には倉庫が重要であることは言うまでもないが、特に昔は牛に犂(すき)を引かせていたから家に牛がいて、牛を飼うためには納屋が絶対必要だった。写真で分かるように、建物の下半分が石詰みによって作られているのはこのためで、木造だと牛の糞尿によってすぐに材が腐ってしまう。だからこのあたりの古い納屋の下半分(の、特に牛のためのスペース)は石詰みによって作られている。
さらに、牛の糞尿は肥料にしたので、牛のいた区画の下は傾斜がついていて屎尿排水の口があり、下には大きな肥だめの空間がある。ついでに納屋の外には人間用の便所もあって、人間と牛の屎尿はそれぞれ下の肥だめに集められるようになっていた。
化学肥料が使えなかった昭和の半ばまで、これは農業をやっていくための大事な仕組みだったが、牛がいなくなり、化学肥料になって人糞も集めなくなると、この肥だめシステムは無用の長物と化してしまった。それどころか、肥だめには雨水が溜まって(沁み出してきて?)湿気の温床となり、地下の空間は危険な落とし穴にもなった。野良猫がこの肥だめの中に落ちてしまい、それを救出するのに3時間くらいかかった、なんてこともある。
というわけで、この無用の肥だめをなくしてしまうことにした。これから、また肥だめをつかって肥料を作るような時代が来ないとも限らないが、私の考えでは、昔の屎尿肥料の作り方にも非効率なところがあり(※)、仮にそういう時代が来るとしても昔ながらの肥だめシステムを使う必要はないだろうと思う。
具体的な工事としては、肥だめを壊し、埋め、上からコンクリートで塗り固めてしまうというもの。でも工事というものは、マイナス(迷惑施設)だったものがゼロになる、というだけではなかなかやる気が出てこないものである。というわけで、せっかく工事をやるなら、納屋のリノベーションを行って、ここをステキな部屋にしてしまおうというわけである。
そもそもうち(本宅)は築百年の古民家で、間取り的に現代の生活スタイルに合っていないところがあり、子どもたちがもうちょっと大きくなったら一部屋足りなくなる見込みだ。この機会に一部屋作っておけば将来の子ども部屋問題も解決するし、それまでの間は事務所か書斎として使うこともできる。
同世代が次々に新築の家を建てる中、このきったない納屋を子ども部屋にしようというのは忸怩たるものがあるが、加世田のステキな工務店crafta(クラフタ)さんのセンスで、新築するよりステキな空間に生まれ変わる予定である! 私としては密かに南薩の「納屋リノベーション」の先駆事例になったらいいなと期待しているところだ(同じような納屋がこのあたりにはたくさんあるので)。
ところで、こちらに移住してきてから、かなりのお金が工務店さんの方にいっている。本宅のリフォームはさておき、その他にも食品加工所(そういえばこれまでブログに書いていなかったのに気づいたのでいずれ書きます)、農業用倉庫、そして今回の納屋リノベーション。生活や仕事の基盤を作っていくというのは、なによりもまずその「場」を作る事が重要だ。「場」=不動産よりもコンテンツにお金を掛けるべきという考えもあるが、私の場合はまず「場」をしつらえるのを優先するので、これはこれでよかったと思う。
でも農業ではなかなか生活が成り立って行かない中で、どうして納屋リノベーションの予算が出たのかというと、これは当然貯蓄を切り崩して捻出している。そしてこれで都会時代の貯蓄が全て無くなった感じになり、また今年後半から新規就農の補助金も終わるので、これでいよいよ裸一貫でやっていかないといけない。正直、ちょっと不安はあるが、農業でなんとかやっていけないことはない、という見通し(だけ)はある。
お金のない中で、そんなやってもやらなくても困らない工事なんかやめておけ、という人もいるだろうが、私としてはこれも「南薩の田舎暮らし」の重要な基盤の一つだと思っている。生活や仕事の基盤はそろそろ出来てきたので、これからはそれを活かして行く段階になってくる。…と書いていたらだんだんやる気が出てきた。
というわけで「納屋リノベーション」がステキにできあがるか楽しみである。
※ というのは、糞尿を肥料に変えるには発酵させなくてはならず、それにはたくさんの空気(酸素)を必要とする。昔の肥だめは尿も一緒に集めていたためドロドロ状態になっていて、それを別の場所にわざわざワラなどと重ねて入れ発酵させていたようだ。今だったら、ブロアで空気をいれて発酵させるかもしれない。でももっと簡単かつ効率的なのは、糞は糞だけを集めて水気のない状態で発酵させることである。なぜ昔はこうしなかったのかよくわからない。
このあたりの古い家には必ず納屋が附属しているもので、うちも本宅よりも立派な2階建ての納屋があった。でもいつかの台風で2階部分が壊れて改築し今は1階部分しか残っていない。
昔も今も、農業には倉庫が重要であることは言うまでもないが、特に昔は牛に犂(すき)を引かせていたから家に牛がいて、牛を飼うためには納屋が絶対必要だった。写真で分かるように、建物の下半分が石詰みによって作られているのはこのためで、木造だと牛の糞尿によってすぐに材が腐ってしまう。だからこのあたりの古い納屋の下半分(の、特に牛のためのスペース)は石詰みによって作られている。
さらに、牛の糞尿は肥料にしたので、牛のいた区画の下は傾斜がついていて屎尿排水の口があり、下には大きな肥だめの空間がある。ついでに納屋の外には人間用の便所もあって、人間と牛の屎尿はそれぞれ下の肥だめに集められるようになっていた。
化学肥料が使えなかった昭和の半ばまで、これは農業をやっていくための大事な仕組みだったが、牛がいなくなり、化学肥料になって人糞も集めなくなると、この肥だめシステムは無用の長物と化してしまった。それどころか、肥だめには雨水が溜まって(沁み出してきて?)湿気の温床となり、地下の空間は危険な落とし穴にもなった。野良猫がこの肥だめの中に落ちてしまい、それを救出するのに3時間くらいかかった、なんてこともある。
というわけで、この無用の肥だめをなくしてしまうことにした。これから、また肥だめをつかって肥料を作るような時代が来ないとも限らないが、私の考えでは、昔の屎尿肥料の作り方にも非効率なところがあり(※)、仮にそういう時代が来るとしても昔ながらの肥だめシステムを使う必要はないだろうと思う。
具体的な工事としては、肥だめを壊し、埋め、上からコンクリートで塗り固めてしまうというもの。でも工事というものは、マイナス(迷惑施設)だったものがゼロになる、というだけではなかなかやる気が出てこないものである。というわけで、せっかく工事をやるなら、納屋のリノベーションを行って、ここをステキな部屋にしてしまおうというわけである。
そもそもうち(本宅)は築百年の古民家で、間取り的に現代の生活スタイルに合っていないところがあり、子どもたちがもうちょっと大きくなったら一部屋足りなくなる見込みだ。この機会に一部屋作っておけば将来の子ども部屋問題も解決するし、それまでの間は事務所か書斎として使うこともできる。
同世代が次々に新築の家を建てる中、このきったない納屋を子ども部屋にしようというのは忸怩たるものがあるが、加世田のステキな工務店crafta(クラフタ)さんのセンスで、新築するよりステキな空間に生まれ変わる予定である! 私としては密かに南薩の「納屋リノベーション」の先駆事例になったらいいなと期待しているところだ(同じような納屋がこのあたりにはたくさんあるので)。
ところで、こちらに移住してきてから、かなりのお金が工務店さんの方にいっている。本宅のリフォームはさておき、その他にも食品加工所(そういえばこれまでブログに書いていなかったのに気づいたのでいずれ書きます)、農業用倉庫、そして今回の納屋リノベーション。生活や仕事の基盤を作っていくというのは、なによりもまずその「場」を作る事が重要だ。「場」=不動産よりもコンテンツにお金を掛けるべきという考えもあるが、私の場合はまず「場」をしつらえるのを優先するので、これはこれでよかったと思う。
でも農業ではなかなか生活が成り立って行かない中で、どうして納屋リノベーションの予算が出たのかというと、これは当然貯蓄を切り崩して捻出している。そしてこれで都会時代の貯蓄が全て無くなった感じになり、また今年後半から新規就農の補助金も終わるので、これでいよいよ裸一貫でやっていかないといけない。正直、ちょっと不安はあるが、農業でなんとかやっていけないことはない、という見通し(だけ)はある。
お金のない中で、そんなやってもやらなくても困らない工事なんかやめておけ、という人もいるだろうが、私としてはこれも「南薩の田舎暮らし」の重要な基盤の一つだと思っている。生活や仕事の基盤はそろそろ出来てきたので、これからはそれを活かして行く段階になってくる。…と書いていたらだんだんやる気が出てきた。
というわけで「納屋リノベーション」がステキにできあがるか楽しみである。
※ というのは、糞尿を肥料に変えるには発酵させなくてはならず、それにはたくさんの空気(酸素)を必要とする。昔の肥だめは尿も一緒に集めていたためドロドロ状態になっていて、それを別の場所にわざわざワラなどと重ねて入れ発酵させていたようだ。今だったら、ブロアで空気をいれて発酵させるかもしれない。でももっと簡単かつ効率的なのは、糞は糞だけを集めて水気のない状態で発酵させることである。なぜ昔はこうしなかったのかよくわからない。
2016年5月26日木曜日
「南薩のナッツ園」構想
昨年に引き続き、今年も開墾をしている。
今切り拓いているところは、昨年開墾してアボカドを植えた隣の荒れ地(茶園跡)。畑をどんどん広げたい、という気持ちは今はそんなに強くないが、この荒れ地からイノシシとウサギがたくさんやってくるということと、しばらく経って植えたアボカドが大きくなるとパワーショベルをこの荒れ地に入れるのが難しくなるので、今のうちに切り拓いた方が後が楽そうだ、と思って土地を借り、作業に取りかかった。
しかしもう5月である。昨年も開墾作業をしたのは5月だが、今年も結局ここまで引き延ばしてしまった。本来、開墾というのは冬の仕事である。でも、私の場合冬は柑橘の仕事で忙しく、開墾のような仕事はどうしても今の時期になってしまう。もう梅雨入りする時期なので、今のシーズンでは開墾が終わらないかもしれないが、せめてキリがいいところまでは終わらせたいと思う。
ところで、実は切り拓いた後に何を植えるかが完全には決まっていない。農業委員会には、アボカドを増殖するということで申請を出していて、事実アボカドは20〜30本くらい植えたいと思っているが、未だ収穫できるかどうかもわからないアボカドばっかり植えるのもリスクがあるし(なかなかうまくいっていないのが実態)、どうせリスクがあるのなら別の面白い取組もしたい。
というわけで、今考えているのが「南薩のナッツ園」構想なのである。
私はアーモンド栽培にもトライしていて、これもあまりうまくいっていない。「あまり」どころではなく、アーモンド栽培はかなり難しく、収穫まで漕ぎ付けられるか不透明な状況。でもいろんな人が関心を持ってくれて、応援もしてくれているので、このままでは終われない! とも思っている。そこで、アーモンドだけでなく、この際他のいろいろなナッツ類を植えてみて、「ナッツ園」を作ったら面白いんじゃないかと思ったのだ。
苗木を準備したのは、「マカダミア」、「ペカン」、「カシグルミ」の3種類(5本ずつ)。(このほかに追ってアーモンドも増殖する。)
「マカダミア」はハワイのお土産で定番であることからもわかるように熱帯の植物であるが、意外に耐寒性もあって指宿には大木になっているのがある。また収穫以外はさほど手間もかからないと言われている。今回植えてみるのは「クーパー」という品種である。
「ペカン(ピーカン)」は日本ではあまり馴染みがないが、アメリカでは我が国における落花生のようにおつまみ的に食べられているナッツ(らしい)。アメリカに留学していた友人が栽培を勧めてくれた。それで調べてみたら、収穫までにかなり時間がかかる植物で、実がなるまでに10年以上かかるのだとか。10年以上無収入というのは経済的にかなり厳しいが、そういう厳しいものこそやる価値もある(他にやる人がいないから)。
私もこれまで食べたことがなかったので、先日「Merry lab.」というところのローストナッツを食べてみた。クルミに似ていて、クルミよりもっと脂質を増やしたような味だった。こういうのが出来たら売れるかも! と思って栽培してみることに決めた。
「カシグルミ(菓子胡桃)」は、いわゆる皆さんが食べているクルミである。日本だと長野とかちょっと寒いところで栽培されているので、南薩の暑い気候に合っているかはよくわからない。でもクルミが採れたらお菓子作りにも使えるし、苗木もそんなに特殊なものではないので、気軽な試行錯誤のつもりでやってみたいと思う。
このほか、以前植えてみたがあんまり生育しなかった「ヘーゼルナッツ(西洋ハシバミ)」も植えるかもしれない。 以前定植したところは田んぼの跡地で土壌がよくなかったので、それで生育が不調だったのだと思う。今回は段々畑なので排水もよく、土質も勝れているようなので生育が期待できる。でも、ヘーゼルナッツというのは日本ではなかなか収穫までいかないらしくて(というのは、これも収穫までに長い時間がかかる植物)、まともに収穫している例を知らない。どうなるかわからないが、毒を食らわば皿まで、の気持ちでやってみたい。
この「南薩のナッツ園」構想には家内からも「まだ懲りてないの」というお褒めの言葉(?)をいただいたくらいである。経営が順調でないのに冒険的な作付をするのは一般的にはあまりいいことではないが、そういう無鉄砲をするのは楽しいことでもある。結果が出るのは(出るとして)10年後以降。気長にやっていきたい。
今切り拓いているところは、昨年開墾してアボカドを植えた隣の荒れ地(茶園跡)。畑をどんどん広げたい、という気持ちは今はそんなに強くないが、この荒れ地からイノシシとウサギがたくさんやってくるということと、しばらく経って植えたアボカドが大きくなるとパワーショベルをこの荒れ地に入れるのが難しくなるので、今のうちに切り拓いた方が後が楽そうだ、と思って土地を借り、作業に取りかかった。
しかしもう5月である。昨年も開墾作業をしたのは5月だが、今年も結局ここまで引き延ばしてしまった。本来、開墾というのは冬の仕事である。でも、私の場合冬は柑橘の仕事で忙しく、開墾のような仕事はどうしても今の時期になってしまう。もう梅雨入りする時期なので、今のシーズンでは開墾が終わらないかもしれないが、せめてキリがいいところまでは終わらせたいと思う。
ところで、実は切り拓いた後に何を植えるかが完全には決まっていない。農業委員会には、アボカドを増殖するということで申請を出していて、事実アボカドは20〜30本くらい植えたいと思っているが、未だ収穫できるかどうかもわからないアボカドばっかり植えるのもリスクがあるし(なかなかうまくいっていないのが実態)、どうせリスクがあるのなら別の面白い取組もしたい。
というわけで、今考えているのが「南薩のナッツ園」構想なのである。
私はアーモンド栽培にもトライしていて、これもあまりうまくいっていない。「あまり」どころではなく、アーモンド栽培はかなり難しく、収穫まで漕ぎ付けられるか不透明な状況。でもいろんな人が関心を持ってくれて、応援もしてくれているので、このままでは終われない! とも思っている。そこで、アーモンドだけでなく、この際他のいろいろなナッツ類を植えてみて、「ナッツ園」を作ったら面白いんじゃないかと思ったのだ。
苗木を準備したのは、「マカダミア」、「ペカン」、「カシグルミ」の3種類(5本ずつ)。(このほかに追ってアーモンドも増殖する。)
「マカダミア」はハワイのお土産で定番であることからもわかるように熱帯の植物であるが、意外に耐寒性もあって指宿には大木になっているのがある。また収穫以外はさほど手間もかからないと言われている。今回植えてみるのは「クーパー」という品種である。
「ペカン(ピーカン)」は日本ではあまり馴染みがないが、アメリカでは我が国における落花生のようにおつまみ的に食べられているナッツ(らしい)。アメリカに留学していた友人が栽培を勧めてくれた。それで調べてみたら、収穫までにかなり時間がかかる植物で、実がなるまでに10年以上かかるのだとか。10年以上無収入というのは経済的にかなり厳しいが、そういう厳しいものこそやる価値もある(他にやる人がいないから)。
私もこれまで食べたことがなかったので、先日「Merry lab.」というところのローストナッツを食べてみた。クルミに似ていて、クルミよりもっと脂質を増やしたような味だった。こういうのが出来たら売れるかも! と思って栽培してみることに決めた。
「カシグルミ(菓子胡桃)」は、いわゆる皆さんが食べているクルミである。日本だと長野とかちょっと寒いところで栽培されているので、南薩の暑い気候に合っているかはよくわからない。でもクルミが採れたらお菓子作りにも使えるし、苗木もそんなに特殊なものではないので、気軽な試行錯誤のつもりでやってみたいと思う。
このほか、以前植えてみたがあんまり生育しなかった「ヘーゼルナッツ(西洋ハシバミ)」も植えるかもしれない。 以前定植したところは田んぼの跡地で土壌がよくなかったので、それで生育が不調だったのだと思う。今回は段々畑なので排水もよく、土質も勝れているようなので生育が期待できる。でも、ヘーゼルナッツというのは日本ではなかなか収穫までいかないらしくて(というのは、これも収穫までに長い時間がかかる植物)、まともに収穫している例を知らない。どうなるかわからないが、毒を食らわば皿まで、の気持ちでやってみたい。
この「南薩のナッツ園」構想には家内からも「まだ懲りてないの」というお褒めの言葉(?)をいただいたくらいである。経営が順調でないのに冒険的な作付をするのは一般的にはあまりいいことではないが、そういう無鉄砲をするのは楽しいことでもある。結果が出るのは(出るとして)10年後以降。気長にやっていきたい。
2016年5月14日土曜日
ホヤ的な商売のススメ
先日、加世田に「ダイレックス」がオープンした。ディスカウントストアである。オープンセールは大賑わい。
私も歯医者のついでに寄ってみたら、原価割れ必至の激安価格ばかり(タマネギ1玉9円には、農家的に心の痛みを禁じ得なかった……)。こりゃあ、人が来るはずである。
都会に住む人は、こういう面白味のない量販店が田舎に進出することに寂しさを覚えるかもしれない。このディスカウントストアのせいで、味のある個人商店が潰れてしまわないかと。もっというと、地方都市の衰退に拍車をかけてしまわないかと。
しかし田舎に住むものの実感としては違う。やはり、こうした店の進出は、それなりに街を活気づかせると思う。確かに個人商店はこれに太刀打ちできないが、商店街は既にシャッター通り化しており、潰れるべき小さな商店ももはやあまり残っていない。こうした店と競争しなくてはならないのは、同じようなショッピングセンター(たとえばニシムタ)だ。
「ダイレックス」の隣には、つい先日「ケーズデンキ」ができたばかり。近くには「西松屋」や「すき屋」もできているし、最近の加世田は企業進出が相次いでいる。南さつま市全体では人口はずっと減り続けているが、加世田の中心部に限って言えば人口は増えているくらいで(どこを中心部と見なすかによってどうとでも言えそうだが)、旺盛な需要が維持されているように見える。
ところで、「不況」というのは、要するに需要が供給を下回ることで起きる。作ってもものが売れないというわけだ。なので、不況を解消するには、供給能力を切り下げる(そもそも作るのを辞める)か、需要を増やすかの2つしか方法がない。 供給能力を切り下げるというのは、社会全体でリストラをするということに他ならないから論外で(※)、不況を終わらせる唯一の方法は「需要を増やす」ことなのだ。しかし悲しいことに需要を増やす簡単な方法はない。
なぜなら究極的には、需要というのは誰かの「あれが欲しい」という欲望(とそれに伴う購買能力)に立脚しているからである。必要のないものをどうすれば欲しがってもらえるか、というのが産業革命以降のビジネスが直面してきた難問中の難問なのである。この需要不足、という難問に突き当たっているのが日本の不況だ。
だが、田舎で過ごしていると需要不足をあまり感じない。今流行りの「マイルドヤンキー」の話ではなく、むしろ供給不足の方を強く感じる。つまり、買いたくてもそれを売っている店が近場にないということだ。実際、田舎でのある種のビジネスは殿様商売のようなところがあり、「他に選択肢もないでしょ」みたいな横柄な(というのは言い過ぎにしても、愛想がない)態度を取られることがある。
じゃあ、田舎の企業は大儲けしているのか、というとそんなこともない。需要は不足していないのに大儲けしないのは、「大儲けするほどの需要」はないからだ。
しかし、大儲けするほどの需要がないために、商店自体が少なくなっていき、今となっては南さつまの人も買い物に鹿児島市まで出て行くという人も多いのではないだろうか。休日に谷山(鹿児島市)のイオンに行くと、南さつまの知り合いに会う確率が高い。
つまり、田舎にも需要は確実にあるが、それを満たす供給は少ないのである。ここに田舎でのビジネスチャンスがあると思う。少ない需要をアテにしたビジネスというのは、厳しいようでいて、競争があまりないというメリットもある。
例えば、田舎の食堂を考えてみて欲しい。激安ではないがそれなりにリーズナブルな価格、掃除の行き届いていない店内、大昔から張られっぱなしのポスター、のんびりとした給仕係、いつも同じ顔が座るカウンター、お客と世間話をする店主、といったようなものを。
都会では、同じクラスの店の競争は大変激しい。ファストフードがそれにあたるだろう。きびきび動くレジ打ち、マニュアルに沿って勧められる追加の一品、秒単位で待ち時間を気にする人たち、ピカピカの店内、昼食時のどこか殺気だった雰囲気——。同じような商売なのに、どうしてここまで違うのだろうか? それは、都会では巨大な需要を奪い合うために激烈な競争があり、田舎にはそれがないからだ。
譬えるなら、都会でのビジネスはサメとして生きるようなものだ。投資(生きるためのエネルギー)も大きいが利益も大きい。これはこれでやりがいがある。田舎でのビジネスは、 同じ海で生きるのでも、イソギンチャクとかホヤ(海鞘)として生きるのに似ている。省エネモードで生きていて、目の前に餌が流れてきたときだけ反応する。利益も少ないが投資も少ないので生きている。
投資家として世界を見ると、利益は大きい方がいいに決まっているが、労働者として世界を見ると、利益率が低くても投資が少なくて済むのも魅力的である。というのは、簡単に言うとそんなに働かなくてもいいからだ。言い方を変えると、経営するなら都会のファストフード店の方が魅力的かもしれないが、働くなら田舎の食堂の方が楽かもしれないということだ。もちろん、これは単純化した話なので、実際にはこうはいかないかもしれない。でも多くの人が、薄々思っている。「田舎での仕事は楽だが面白味はない」というように。
確かに、田舎の食堂で一生を終えるのは面白味がないかもしれない。 都会にバラ色の生活があるのなら。しかし、現在の日本ではそこが怪しくなってきている。かつて自由な生き方として称揚された「フリーター」は、今や資本家に買いたたかれる安物の労働者になってしまった。同じ働くなら、田舎の食堂の方が面白い、という世界になりつつあるのではないか。
そして、企業を経営するにしても、都会の激しい競争の中で周りに伍していくより、田舎で少ない需要をアテにした「ホヤ的な商売」をする方が、実は面白いことができるような気がしている。確かに売り上げはさほど期待できない。でもなるだけ固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売にすれば、かえって自由な発想でビジネスを組み立てられるのではないか。
固定費を抑えた商売というと、例えば露天商のようなものだ。普通の人は、露天商などマトモな人がやる仕事ではないと思っているだろうが、最近盛んになってきたマルシェとかフリーマーケットは露天商の集合といえる。「南薩の田舎暮らし」がイベントに出店するのも一種の露天商である。
もちろん、専業で身を立てている露天商(縁日に出てくるテキ屋さんのような)の暮らし向きがいいとは思えない。しかし、ブラック企業でボロボロにされるような働き方をするくらいなら、不安定な零細商売でやっていくのも悪くはない。
田舎への移住というと、すぐに「仕事がない」という反応がある。それは事実で、確かに「求人」は少ない(ただし介護関係を除く)。でも仕事がないわけではないと思う。田舎には満たされていない需要が意外とある。 「ダイレックス」が加世田に進出してくるくらいである。私はこうしたお店も肯定するが、でも個人の才気による小さなお店がこの街で生まれたらなお面白い。田舎には大きなチャンスはないかもしれない。でも小さなチャンスがたくさん転がっている。南さつまへ進出してくる、商売の新しい才能を待っています。
※と書いたものの、実は「供給能力の切り下げ」は真面目に検討すべき方策だと私は思っている。
私も歯医者のついでに寄ってみたら、原価割れ必至の激安価格ばかり(タマネギ1玉9円には、農家的に心の痛みを禁じ得なかった……)。こりゃあ、人が来るはずである。
都会に住む人は、こういう面白味のない量販店が田舎に進出することに寂しさを覚えるかもしれない。このディスカウントストアのせいで、味のある個人商店が潰れてしまわないかと。もっというと、地方都市の衰退に拍車をかけてしまわないかと。
しかし田舎に住むものの実感としては違う。やはり、こうした店の進出は、それなりに街を活気づかせると思う。確かに個人商店はこれに太刀打ちできないが、商店街は既にシャッター通り化しており、潰れるべき小さな商店ももはやあまり残っていない。こうした店と競争しなくてはならないのは、同じようなショッピングセンター(たとえばニシムタ)だ。
「ダイレックス」の隣には、つい先日「ケーズデンキ」ができたばかり。近くには「西松屋」や「すき屋」もできているし、最近の加世田は企業進出が相次いでいる。南さつま市全体では人口はずっと減り続けているが、加世田の中心部に限って言えば人口は増えているくらいで(どこを中心部と見なすかによってどうとでも言えそうだが)、旺盛な需要が維持されているように見える。
ところで、「不況」というのは、要するに需要が供給を下回ることで起きる。作ってもものが売れないというわけだ。なので、不況を解消するには、供給能力を切り下げる(そもそも作るのを辞める)か、需要を増やすかの2つしか方法がない。 供給能力を切り下げるというのは、社会全体でリストラをするということに他ならないから論外で(※)、不況を終わらせる唯一の方法は「需要を増やす」ことなのだ。しかし悲しいことに需要を増やす簡単な方法はない。
なぜなら究極的には、需要というのは誰かの「あれが欲しい」という欲望(とそれに伴う購買能力)に立脚しているからである。必要のないものをどうすれば欲しがってもらえるか、というのが産業革命以降のビジネスが直面してきた難問中の難問なのである。この需要不足、という難問に突き当たっているのが日本の不況だ。
だが、田舎で過ごしていると需要不足をあまり感じない。今流行りの「マイルドヤンキー」の話ではなく、むしろ供給不足の方を強く感じる。つまり、買いたくてもそれを売っている店が近場にないということだ。実際、田舎でのある種のビジネスは殿様商売のようなところがあり、「他に選択肢もないでしょ」みたいな横柄な(というのは言い過ぎにしても、愛想がない)態度を取られることがある。
じゃあ、田舎の企業は大儲けしているのか、というとそんなこともない。需要は不足していないのに大儲けしないのは、「大儲けするほどの需要」はないからだ。
しかし、大儲けするほどの需要がないために、商店自体が少なくなっていき、今となっては南さつまの人も買い物に鹿児島市まで出て行くという人も多いのではないだろうか。休日に谷山(鹿児島市)のイオンに行くと、南さつまの知り合いに会う確率が高い。
つまり、田舎にも需要は確実にあるが、それを満たす供給は少ないのである。ここに田舎でのビジネスチャンスがあると思う。少ない需要をアテにしたビジネスというのは、厳しいようでいて、競争があまりないというメリットもある。
例えば、田舎の食堂を考えてみて欲しい。激安ではないがそれなりにリーズナブルな価格、掃除の行き届いていない店内、大昔から張られっぱなしのポスター、のんびりとした給仕係、いつも同じ顔が座るカウンター、お客と世間話をする店主、といったようなものを。
都会では、同じクラスの店の競争は大変激しい。ファストフードがそれにあたるだろう。きびきび動くレジ打ち、マニュアルに沿って勧められる追加の一品、秒単位で待ち時間を気にする人たち、ピカピカの店内、昼食時のどこか殺気だった雰囲気——。同じような商売なのに、どうしてここまで違うのだろうか? それは、都会では巨大な需要を奪い合うために激烈な競争があり、田舎にはそれがないからだ。
譬えるなら、都会でのビジネスはサメとして生きるようなものだ。投資(生きるためのエネルギー)も大きいが利益も大きい。これはこれでやりがいがある。田舎でのビジネスは、 同じ海で生きるのでも、イソギンチャクとかホヤ(海鞘)として生きるのに似ている。省エネモードで生きていて、目の前に餌が流れてきたときだけ反応する。利益も少ないが投資も少ないので生きている。
投資家として世界を見ると、利益は大きい方がいいに決まっているが、労働者として世界を見ると、利益率が低くても投資が少なくて済むのも魅力的である。というのは、簡単に言うとそんなに働かなくてもいいからだ。言い方を変えると、経営するなら都会のファストフード店の方が魅力的かもしれないが、働くなら田舎の食堂の方が楽かもしれないということだ。もちろん、これは単純化した話なので、実際にはこうはいかないかもしれない。でも多くの人が、薄々思っている。「田舎での仕事は楽だが面白味はない」というように。
確かに、田舎の食堂で一生を終えるのは面白味がないかもしれない。 都会にバラ色の生活があるのなら。しかし、現在の日本ではそこが怪しくなってきている。かつて自由な生き方として称揚された「フリーター」は、今や資本家に買いたたかれる安物の労働者になってしまった。同じ働くなら、田舎の食堂の方が面白い、という世界になりつつあるのではないか。
そして、企業を経営するにしても、都会の激しい競争の中で周りに伍していくより、田舎で少ない需要をアテにした「ホヤ的な商売」をする方が、実は面白いことができるような気がしている。確かに売り上げはさほど期待できない。でもなるだけ固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売にすれば、かえって自由な発想でビジネスを組み立てられるのではないか。
固定費を抑えた商売というと、例えば露天商のようなものだ。普通の人は、露天商などマトモな人がやる仕事ではないと思っているだろうが、最近盛んになってきたマルシェとかフリーマーケットは露天商の集合といえる。「南薩の田舎暮らし」がイベントに出店するのも一種の露天商である。
もちろん、専業で身を立てている露天商(縁日に出てくるテキ屋さんのような)の暮らし向きがいいとは思えない。しかし、ブラック企業でボロボロにされるような働き方をするくらいなら、不安定な零細商売でやっていくのも悪くはない。
田舎への移住というと、すぐに「仕事がない」という反応がある。それは事実で、確かに「求人」は少ない(ただし介護関係を除く)。でも仕事がないわけではないと思う。田舎には満たされていない需要が意外とある。 「ダイレックス」が加世田に進出してくるくらいである。私はこうしたお店も肯定するが、でも個人の才気による小さなお店がこの街で生まれたらなお面白い。田舎には大きなチャンスはないかもしれない。でも小さなチャンスがたくさん転がっている。南さつまへ進出してくる、商売の新しい才能を待っています。
※と書いたものの、実は「供給能力の切り下げ」は真面目に検討すべき方策だと私は思っている。
2016年5月9日月曜日
子どもが小学生になると親も大変
少数ながらこのブログをチェックしてくれている人がいるのは知っている。……というわけで、最近あまり更新できていなくてすいません。
というのも、タダでさえ4月というのは田植えやら春作の植え付けやらで忙しいのに、上の娘がこの4月で大浦小学校にめでたく入学して、どうもまだ生活リズムが摑めず、ブログを書く時間が取れずにいた。
まだ子どもが小学校に上がっていない人は、子どもが小学生になっても親にはそこまで関係ないだろ、と思うかもしれない。実際、さほど影響を受けないという親もいるので、みんながみんなそうだ、というわけではない。
でもうちの場合は、(自分がだらしないこともあり)小学校に対応するのに親が苦労している。
まず何に苦労するかというと、子どもを早起きさせないといけない。うちは、大浦小学校から2キロくらい離れたところにあって、子どもの足だと45分はかかる。8時までに始業準備を終えることとされているので、7時には子どもを家から出さないといけない。
そのためには、6時には娘を起こさないといけない。朝の準備をもうちょっと能動的にこなせるようになったら出発30分前に起きるくらいでもいいだろうが、今はまだ「制服に着替えなさい」とかいちいち言ってる段階なので、1時間くらいかけてノンビリ準備させる方がこっちの気が楽である。
で、6時に起こすためには夜は8時半に寝かしたい。この頃の子どもは10時間くらい睡眠を必要とするらしいので、理想的には8時就寝がいいが、それだと早すぎて親の方が対応しきれないので8時半にしている。でも8時半でも十分早い。5時過ぎに学童クラブから帰ってきて就寝するまで3時間くらいしかない計算だ。この間に、ご飯を食べてお風呂に入って次の日の準備をして、本を読んで、となると本当にスケジュールが過密である。実際、このスケジュール通りにいってる日は4日に1回くらいかもしれない。
でも早寝させたら、夜に自分の時間を長く取れるので良い面もある……はずだが、下の子の生活リズムはまだそういう風になっていないので、下の子は10時近くまで起きていることがよくある。そして当然ながら朝寝坊である。結局、何が大変かというと、小学校の上の子と、保育園の下の子という二つの違うリズムで動いている相手を世話しないといけないことなんだろう。両方小学校に上がったら、随分楽になる気がする。
ところで、大浦小学校の新一年生は10人。幸いにしてまだ複式学級ではなく、今後数年はその規模が維持される見通し。大浦小学校は、かつて「南薩一のマンモス校」と呼ばれたらしく、児童数が1500人を超えていたこともあったそうだ。広々とした校庭がかつての賑わいの名残である。今では、この校庭は子どもたちには広すぎるくらいだ。
ちなみに、幸いにして、近くに小学生4年生と3年生の先輩がいるので、朝はその子たちと一緒に登校させてもらっている。
入学して2週間くらいは学校近くまで一緒に歩いて慣れさせた。次の2週間は、その先輩のお家まで送っていった。こうして、朝いちいち送っていくのがまた大変だった。でも今日は、先輩のお家へも独りで歩かせてみた。それで、今日めでたく、家を独りで出て行くということができるようになったのである! よかったよかった(小学生に人気のない道を45分も歩かせていいのか、安全面とか大丈夫なのか。という観点からすると全然よくはないのだが、そこは悩ましいところ)。
というわけで、親の方もだんだん小学校の生活リズムに慣れてきて、ようやく新年度の仕事に身を入れていけそうです。
というのも、タダでさえ4月というのは田植えやら春作の植え付けやらで忙しいのに、上の娘がこの4月で大浦小学校にめでたく入学して、どうもまだ生活リズムが摑めず、ブログを書く時間が取れずにいた。
まだ子どもが小学校に上がっていない人は、子どもが小学生になっても親にはそこまで関係ないだろ、と思うかもしれない。実際、さほど影響を受けないという親もいるので、みんながみんなそうだ、というわけではない。
でもうちの場合は、(自分がだらしないこともあり)小学校に対応するのに親が苦労している。
まず何に苦労するかというと、子どもを早起きさせないといけない。うちは、大浦小学校から2キロくらい離れたところにあって、子どもの足だと45分はかかる。8時までに始業準備を終えることとされているので、7時には子どもを家から出さないといけない。
そのためには、6時には娘を起こさないといけない。朝の準備をもうちょっと能動的にこなせるようになったら出発30分前に起きるくらいでもいいだろうが、今はまだ「制服に着替えなさい」とかいちいち言ってる段階なので、1時間くらいかけてノンビリ準備させる方がこっちの気が楽である。
で、6時に起こすためには夜は8時半に寝かしたい。この頃の子どもは10時間くらい睡眠を必要とするらしいので、理想的には8時就寝がいいが、それだと早すぎて親の方が対応しきれないので8時半にしている。でも8時半でも十分早い。5時過ぎに学童クラブから帰ってきて就寝するまで3時間くらいしかない計算だ。この間に、ご飯を食べてお風呂に入って次の日の準備をして、本を読んで、となると本当にスケジュールが過密である。実際、このスケジュール通りにいってる日は4日に1回くらいかもしれない。
でも早寝させたら、夜に自分の時間を長く取れるので良い面もある……はずだが、下の子の生活リズムはまだそういう風になっていないので、下の子は10時近くまで起きていることがよくある。そして当然ながら朝寝坊である。結局、何が大変かというと、小学校の上の子と、保育園の下の子という二つの違うリズムで動いている相手を世話しないといけないことなんだろう。両方小学校に上がったら、随分楽になる気がする。
ところで、大浦小学校の新一年生は10人。幸いにしてまだ複式学級ではなく、今後数年はその規模が維持される見通し。大浦小学校は、かつて「南薩一のマンモス校」と呼ばれたらしく、児童数が1500人を超えていたこともあったそうだ。広々とした校庭がかつての賑わいの名残である。今では、この校庭は子どもたちには広すぎるくらいだ。
ちなみに、幸いにして、近くに小学生4年生と3年生の先輩がいるので、朝はその子たちと一緒に登校させてもらっている。
入学して2週間くらいは学校近くまで一緒に歩いて慣れさせた。次の2週間は、その先輩のお家まで送っていった。こうして、朝いちいち送っていくのがまた大変だった。でも今日は、先輩のお家へも独りで歩かせてみた。それで、今日めでたく、家を独りで出て行くということができるようになったのである! よかったよかった(小学生に人気のない道を45分も歩かせていいのか、安全面とか大丈夫なのか。という観点からすると全然よくはないのだが、そこは悩ましいところ)。
というわけで、親の方もだんだん小学校の生活リズムに慣れてきて、ようやく新年度の仕事に身を入れていけそうです。
2016年4月23日土曜日
ホンモノレトロな村田旅館がステキにリニューアル
以前ブログ記事で紹介した村田旅館。改装されたと聞いていたが、どうなっているのかずっと気になっていた。
【参考】ホンモノレトロな村田旅館が素晴らしい
改装で素晴らしい部分がなくなってしまって、機能的でオシャレだがどこにでもある施設になってしまわないかと心配していたのである。というわけで、先日、用事で村田旅館を訪れた折り、少しだけ改装箇所を確認してきた。
一番心配していたのは、冒頭写真の洗面所のタイルである。ここが残っていて本当によかった!
昔の手洗い場のタイルはこういうデザインが多かったが、今では全く絶えてしまった様式である。我が家も改装前、お風呂の手洗い場(お風呂の中に手洗い場があったのです)はこれ式のタイルだった。丸っこい小石みたいなのが敷き詰められた感じのこのタイル(と呼んでいいのか)、本当に好きだ。5分くらい眺めていても飽きない。
それから、メインの洗面所の流し台のタイルも残っていてなにより。
ここの流し台のデザインはとても瀟洒で、あか抜けている。昔はこういうデザインの流し台が流行ったんだろうか。寡聞にして知らない。質感もとてもよく、キレイに掃除するのが生きがいにでもなりそうな、そういう流し台である。
ちなみに、細かいことだがここの電灯のスイッチが昭和なやつなのもよかった。本当は、電灯がもっと薄暗かったらなお雰囲気が出ると思う(当日、ちゃんとしたカメラを持っていなかったので写真がイマイチですいません)。
私が水回りばかり気にしているのは、立派な梁とか階段の手すりのような構造・意匠はどこでも残りやすいのだが、水回りは真っ先に改装される部分であるためなかなかホンモノのレトロが残らないためである。水回りを昔ながらに残していくためには、丁寧なメンテナンスが求められる。つまり村田旅館の洗面所のタイルがちゃんと残っているのは、維持管理の丁寧さの現れだと思う。
といっても、女性にとっては「やっぱウォシュレットがあった方が…」とか「薄暗い洗面所だと化粧がしにくい」といった事情はあるだろう。
そういう声を考慮してか、村田旅館でもトイレはそれなりに改装されており(でもやっぱりタイルはそのままだった。立派)、特に手洗いの流しが変わっていたようだ(男性用だけしか見ていないので女性用はどのようになっているかわかりません)。
そして安心したのは、その前の鏡! 昔からある広告入りの鏡がちゃんとそこにあるではないか。「御菓子の小田屋」(地元の老舗和菓子店)の広告が入った鏡である。前も書いたが私はこういう広告入り鏡が好きで、改装後も見たところ広告入り鏡がほぼそのままになっていたのには安堵した(ただし、場所が変わっていたものがありました)。
ちなみに、なぜ昔の鏡には広告が入っていたのかというと、昔は鏡がかなりの高級品であったために、おいそれと鏡を購入するということができず、スポンサーを募って鏡を買っていたのの名残のようである(推測)。この「御菓子の小田屋」の鏡が設置された頃は既に鏡は高級品というほどでもなかったと思うが、鏡に広告を入れる文化がまだ残っていたのだろう。この頃(おそらく昭和50年代?)までは、店舗の新築・改装などの時に御祝いの品として鏡を送るという文化もあったように思われる。
なお、お風呂がどうなっているのかが気になるところだが、宿泊で行ったわけではないのでさすがに見に行くのが憚られ確認していない。ただし、かなり工事をしてキレイになったらしいということは聞いた。
改装は、全体として壁紙の張り替えや建具の入れ替えなど内装関係が中心で、構造的な部分にはほとんど手をつけていないようだ。入り口すぐにある2階への急な階段(この階段がまたすごくいい感じ)などもそのままになっており、これもよかったところである。
逆に言うと、各所の段差などもそのままであるため、バリアフリー対応の面では遅れていると言わざるを得ないが、バリアフリーだがつまらない旅館より、バリアフリーでなくても味のある旅館に泊まりたいという人はたくさんいるのだから、今後も無理にこの建築物の構造を変える必要はないと思う(※)。
客室の中はほとんど見ていないが、今回の改装は、改めるべきを改め、守るべきは守ったような気がしている。欲を言えばあまりキレイにならないようにしたらもっとよかったと思うが、ちょっと使い古された感がある方がよいというのは私の偏った好みで、普通はキレイな方が好まれるわけだから、お客さんの目線に立った改装だと思う。
ところで、今回は宴会利用で村田旅館を訪れたのだが、宴会料理も処理が丁寧で全て美味しくいただいた。宴会料理は大量に作るのでどうしても手抜きになりがちだが、ここはレトロ関係なく料理が本当に美味しい。たくさん余ったので包んでもらい、家でも美味しくいただいた。
というわけで、ホンモノレトロな村田旅館は健在である!
※バリアフリー法によって、旅館はバリアフリーに努めないといけないとされているが、あくまで努力義務である。
【参考】ホンモノレトロな村田旅館が素晴らしい
改装で素晴らしい部分がなくなってしまって、機能的でオシャレだがどこにでもある施設になってしまわないかと心配していたのである。というわけで、先日、用事で村田旅館を訪れた折り、少しだけ改装箇所を確認してきた。
一番心配していたのは、冒頭写真の洗面所のタイルである。ここが残っていて本当によかった!
昔の手洗い場のタイルはこういうデザインが多かったが、今では全く絶えてしまった様式である。我が家も改装前、お風呂の手洗い場(お風呂の中に手洗い場があったのです)はこれ式のタイルだった。丸っこい小石みたいなのが敷き詰められた感じのこのタイル(と呼んでいいのか)、本当に好きだ。5分くらい眺めていても飽きない。
それから、メインの洗面所の流し台のタイルも残っていてなにより。
ここの流し台のデザインはとても瀟洒で、あか抜けている。昔はこういうデザインの流し台が流行ったんだろうか。寡聞にして知らない。質感もとてもよく、キレイに掃除するのが生きがいにでもなりそうな、そういう流し台である。
ちなみに、細かいことだがここの電灯のスイッチが昭和なやつなのもよかった。本当は、電灯がもっと薄暗かったらなお雰囲気が出ると思う(当日、ちゃんとしたカメラを持っていなかったので写真がイマイチですいません)。
私が水回りばかり気にしているのは、立派な梁とか階段の手すりのような構造・意匠はどこでも残りやすいのだが、水回りは真っ先に改装される部分であるためなかなかホンモノのレトロが残らないためである。水回りを昔ながらに残していくためには、丁寧なメンテナンスが求められる。つまり村田旅館の洗面所のタイルがちゃんと残っているのは、維持管理の丁寧さの現れだと思う。
といっても、女性にとっては「やっぱウォシュレットがあった方が…」とか「薄暗い洗面所だと化粧がしにくい」といった事情はあるだろう。
そういう声を考慮してか、村田旅館でもトイレはそれなりに改装されており(でもやっぱりタイルはそのままだった。立派)、特に手洗いの流しが変わっていたようだ(男性用だけしか見ていないので女性用はどのようになっているかわかりません)。
そして安心したのは、その前の鏡! 昔からある広告入りの鏡がちゃんとそこにあるではないか。「御菓子の小田屋」(地元の老舗和菓子店)の広告が入った鏡である。前も書いたが私はこういう広告入り鏡が好きで、改装後も見たところ広告入り鏡がほぼそのままになっていたのには安堵した(ただし、場所が変わっていたものがありました)。
ちなみに、なぜ昔の鏡には広告が入っていたのかというと、昔は鏡がかなりの高級品であったために、おいそれと鏡を購入するということができず、スポンサーを募って鏡を買っていたのの名残のようである(推測)。この「御菓子の小田屋」の鏡が設置された頃は既に鏡は高級品というほどでもなかったと思うが、鏡に広告を入れる文化がまだ残っていたのだろう。この頃(おそらく昭和50年代?)までは、店舗の新築・改装などの時に御祝いの品として鏡を送るという文化もあったように思われる。
なお、お風呂がどうなっているのかが気になるところだが、宿泊で行ったわけではないのでさすがに見に行くのが憚られ確認していない。ただし、かなり工事をしてキレイになったらしいということは聞いた。
改装は、全体として壁紙の張り替えや建具の入れ替えなど内装関係が中心で、構造的な部分にはほとんど手をつけていないようだ。入り口すぐにある2階への急な階段(この階段がまたすごくいい感じ)などもそのままになっており、これもよかったところである。
逆に言うと、各所の段差などもそのままであるため、バリアフリー対応の面では遅れていると言わざるを得ないが、バリアフリーだがつまらない旅館より、バリアフリーでなくても味のある旅館に泊まりたいという人はたくさんいるのだから、今後も無理にこの建築物の構造を変える必要はないと思う(※)。
客室の中はほとんど見ていないが、今回の改装は、改めるべきを改め、守るべきは守ったような気がしている。欲を言えばあまりキレイにならないようにしたらもっとよかったと思うが、ちょっと使い古された感がある方がよいというのは私の偏った好みで、普通はキレイな方が好まれるわけだから、お客さんの目線に立った改装だと思う。
ところで、今回は宴会利用で村田旅館を訪れたのだが、宴会料理も処理が丁寧で全て美味しくいただいた。宴会料理は大量に作るのでどうしても手抜きになりがちだが、ここはレトロ関係なく料理が本当に美味しい。たくさん余ったので包んでもらい、家でも美味しくいただいた。
というわけで、ホンモノレトロな村田旅館は健在である!
※バリアフリー法によって、旅館はバリアフリーに努めないといけないとされているが、あくまで努力義務である。
2016年4月21日木曜日
花と情緒
大浦の玄関口「くじらの眠る丘」では、芝桜が満開である(でももう盛りは過ぎた感じ)。
この芝桜がどうしてここに植えられたのかは知らない。地域の要望があったわけでもないようだ。植えられた時は、(工事に随分とお金がかかったようなので)芝桜を植える予算があるんなら、別のことに使った方がいいような…と思っていたが、こうして花が満開になってみると、なかなか悪くない風景である(でも、以前の芝生もそれはそれでよかったと思う)。
せっかくこうしてキレイな芝桜の風景が出現したので、これを活かして何かしてもいいかもしれない。
隣にある大浦ふるさとくじら館(物産館)で物販イベントをしたらどうかと思ったが、この時期にはちょうどめぼしい農産物がなく、また春先ということで農家も春作の準備で忙しい。その上、3月半ばには「たんかん祭り」が開催されているのでイベント後ということもあり、「くじら館」全体の物販イベントを企画するのは難しいかもしれない。
でも満開の花があると、自然とそこに人は集まってくるものだ。最近は、ひねた(?)地域おこしなんかより、花を植える方がよっぽど効果があるという話もある。
例えば、お隣の川辺に大久保集落という所があって、毎年晩秋に一面のヒマワリを咲かせている。ここは川辺の山の中にあり、見るべきものはヒマワリ以外何もないのだが、季節になるとけっこう大勢のお客さんが訪れる。ただヒマワリを見るだけのために。かくいう私も昨年子ども2人を連れて行った。
もうその頃はヒマワリも終わりの頃だったが、多くの車が路駐してあり(駐車場らしきものがない)、たくさんの人たちがヒマワリの中で写真を撮っていた。だが、そこで何かを売っているとかそういうことはなくて、基本的にはただヒマワリを見て帰るだけのところである(盛りの頃は何かしているのかもしれません)。
要するにこれは、ヒマワリで客寄せして何かしようということではなく、ここへ来てもらってヒマワリを見てもらうだけでいい、というような活動らしい。なぜ大久保集落がこのような奉仕活動をしているのかは知らない。種代や圃場準備のための燃料代もバカにならないと思うが、基本的には持ち出しで活動しているようだ。でも結果的に、これは「地域おこし」になっていると思う。
ヒマワリを植えるという、たったそれだけのことで、「地域おこし」になるのである。お金にはならなくても、来なかったはずの人がそこへ訪れ、出会う、というだけでも素晴らしいことであるし、ステキな風景を作るために地域の人が協力するということ自体が、既に「地域おこし」だろう。
いや、それどころか、特産品づくり、観光振興、地域のブランド化、箱物整備、ゆるキャラといったありがちな「地域おこし」よりも、こちらの方がずっとよいのではないかとすら思う。大久保のヒマワリは経済効果という点ではほぼゼロだと思うので、経済至上主義的地域おこし(結局はお金儲けにならないと意味ない、という立場)からは評価されないと思うが、地域に住む人が元気になるだけでも十分に意味がある。
……ところで、以前書いたように今年は「風景」についていろいろ考えている。もちろん「花のある風景」についても。
例えば、どうして花畑を見ると人は元気になるのか? というようなことだ。
打ちひしがれている人を少しでも元気づけるというのは、本当に難しいことで、千言万語をつくして励ましても、気が滅入っている人を笑顔にさせるのは普通できない。むしろ、千言万語をつくすほど、元気づけることから遠ざかるような気さえする。
今、熊本・大分の被災地には精神的に辛い人がたくさんいると思う。近親の方を亡くしたり、地震の恐怖に怯えたり。悲しみと恐怖、不安と絶望。被災して何もかも奪われるということは、途方もない精神的負担を強いられる。
それで、最近は被災者の精神的ケアということがいわれるようになって、例えば東日本大震災の時は「傾聴ボランティア」というものが実践された。これは、「被災者の気持ちをとにかく聞いてあげる」というような活動で、辛いことでも人に話すとちょっとは楽になるということから行われたものだ。
しかし本当に辛い時にはなかなか人に心を開けないもので、カウンセリング(心理療法)などにおいても、具体的なアドバイスより、クライアント(患者)に心を開いてもらう「聞く」技術の方が難しい。バーバル・コミュニケーション(言葉によるコミュニケーション)は理屈的なものを解決していくには適しているが、情緒的な問題を扱うにはあまりに生硬すぎて遠回りな問題解決しかできない面がある。
では、花はどうか? 滅入っている人が、一面の花畑を見たら?
広島の世羅高原というところは花と果樹で有名で、菜の花と菊桃のすごい観光農園があるそうだ(私は行ったことない)。そこでは「挫折した人生をもう一度やり直してみる」と泣く人がいたり、仕事を辞めようと思っていた人が思い直したり、ただキレイというだけでなく人の心まで変わるようなところらしい(少し誇張はあるでしょうが)。
風景には人の心を変える力が確かにあるのだ。
「挫折した人生をもう一度やり直してみる」という人は、どうして花畑を見ただけで気持ちが切り替わったのか。これはよく考えてみないといけない問題である。心理療法の理論では、気が滅入った状態にある人がそれから回復するためには、おおよそ(1)問題の自覚、(2)混乱した状態を解きほぐし、個別の問題に分割、(3)それぞれの問題への対処・気持ちの整理、というような道筋を辿る必要がある。カウンセラーは、クライアントの話を聞きながら問題の本質に迫り、その根本原因が解決するように導いていく。しかし、風景による心の癒しは、そういうものとは全く違う。
問題を解決させるとか、そういうことは全くないのに、なぜか心が癒され、気持ちが整理されるのが風景である。もちろん、万人に通用するわけではない。同じ風景でも、ある人にとってはなつかしい故郷の風景で、ある人にとっては縁もゆかりもないただの地方都市の風景であったりするわけで、同じように花畑を見ても何も感じない人もいる。
しかし、東日本大震災の時に「奇跡の一本松」がどれほどの人に希望を与えたのか、ということを思い起こしてみよう。一本の松には、実利的な価値はほとんどない。一本松の保全なんかにお金をかけるなら、もっと他の実用的なものにお金を使ったらどうかと思った人もいるだろう。だが、ある種の植物は象徴的な価値を持ち、人の情緒を代弁することがある。特に松は、擬人化されたり気持ちが託されたりしやすい植物だ(たぶん、一本残ったのが杉や檜だったらああはならなかっただろう)。
一方、花は情緒を伝える性格を持つ植物で、花が贈り物になるのはそのせいだ。だが、「一面の花畑」には一つ一つの花とはまた違った性格があるようで、私にもそれははっきりとはわからないが、「普段の生活をしばし忘れ、あるがままの自分を回復させる」とでもいいたいような機能があるように思う。だから、「人生をもう一度やり直してみる」という気持ちの変化が起こるのではないだろうか。
今から考えると、東日本大震災の時の復興支援ソングが「花は咲く」だったのは象徴的である。「心の復興」というのは、「家が建つ」でも「街が活気づく」でも十分ではない。もちろんそういったものは絶対必要で、それがないと復興とはいえない。だが、その上で「花が咲く」までいかなくては人間の復興にならないのかもしれない。
これから、熊本・大分の人たちは長い復興の道のりを歩かなくてはならない。今は緊急的に必要なものすらない状態で、花についてどうこう言うタイミングではないと思う。
でも、被災した人たちに早く「花が咲く」よう祈っています。
この芝桜がどうしてここに植えられたのかは知らない。地域の要望があったわけでもないようだ。植えられた時は、(工事に随分とお金がかかったようなので)芝桜を植える予算があるんなら、別のことに使った方がいいような…と思っていたが、こうして花が満開になってみると、なかなか悪くない風景である(でも、以前の芝生もそれはそれでよかったと思う)。
せっかくこうしてキレイな芝桜の風景が出現したので、これを活かして何かしてもいいかもしれない。
隣にある大浦ふるさとくじら館(物産館)で物販イベントをしたらどうかと思ったが、この時期にはちょうどめぼしい農産物がなく、また春先ということで農家も春作の準備で忙しい。その上、3月半ばには「たんかん祭り」が開催されているのでイベント後ということもあり、「くじら館」全体の物販イベントを企画するのは難しいかもしれない。
でも満開の花があると、自然とそこに人は集まってくるものだ。最近は、ひねた(?)地域おこしなんかより、花を植える方がよっぽど効果があるという話もある。
例えば、お隣の川辺に大久保集落という所があって、毎年晩秋に一面のヒマワリを咲かせている。ここは川辺の山の中にあり、見るべきものはヒマワリ以外何もないのだが、季節になるとけっこう大勢のお客さんが訪れる。ただヒマワリを見るだけのために。かくいう私も昨年子ども2人を連れて行った。
もうその頃はヒマワリも終わりの頃だったが、多くの車が路駐してあり(駐車場らしきものがない)、たくさんの人たちがヒマワリの中で写真を撮っていた。だが、そこで何かを売っているとかそういうことはなくて、基本的にはただヒマワリを見て帰るだけのところである(盛りの頃は何かしているのかもしれません)。
要するにこれは、ヒマワリで客寄せして何かしようということではなく、ここへ来てもらってヒマワリを見てもらうだけでいい、というような活動らしい。なぜ大久保集落がこのような奉仕活動をしているのかは知らない。種代や圃場準備のための燃料代もバカにならないと思うが、基本的には持ち出しで活動しているようだ。でも結果的に、これは「地域おこし」になっていると思う。
ヒマワリを植えるという、たったそれだけのことで、「地域おこし」になるのである。お金にはならなくても、来なかったはずの人がそこへ訪れ、出会う、というだけでも素晴らしいことであるし、ステキな風景を作るために地域の人が協力するということ自体が、既に「地域おこし」だろう。
いや、それどころか、特産品づくり、観光振興、地域のブランド化、箱物整備、ゆるキャラといったありがちな「地域おこし」よりも、こちらの方がずっとよいのではないかとすら思う。大久保のヒマワリは経済効果という点ではほぼゼロだと思うので、経済至上主義的地域おこし(結局はお金儲けにならないと意味ない、という立場)からは評価されないと思うが、地域に住む人が元気になるだけでも十分に意味がある。
……ところで、以前書いたように今年は「風景」についていろいろ考えている。もちろん「花のある風景」についても。
例えば、どうして花畑を見ると人は元気になるのか? というようなことだ。
打ちひしがれている人を少しでも元気づけるというのは、本当に難しいことで、千言万語をつくして励ましても、気が滅入っている人を笑顔にさせるのは普通できない。むしろ、千言万語をつくすほど、元気づけることから遠ざかるような気さえする。
今、熊本・大分の被災地には精神的に辛い人がたくさんいると思う。近親の方を亡くしたり、地震の恐怖に怯えたり。悲しみと恐怖、不安と絶望。被災して何もかも奪われるということは、途方もない精神的負担を強いられる。
それで、最近は被災者の精神的ケアということがいわれるようになって、例えば東日本大震災の時は「傾聴ボランティア」というものが実践された。これは、「被災者の気持ちをとにかく聞いてあげる」というような活動で、辛いことでも人に話すとちょっとは楽になるということから行われたものだ。
しかし本当に辛い時にはなかなか人に心を開けないもので、カウンセリング(心理療法)などにおいても、具体的なアドバイスより、クライアント(患者)に心を開いてもらう「聞く」技術の方が難しい。バーバル・コミュニケーション(言葉によるコミュニケーション)は理屈的なものを解決していくには適しているが、情緒的な問題を扱うにはあまりに生硬すぎて遠回りな問題解決しかできない面がある。
では、花はどうか? 滅入っている人が、一面の花畑を見たら?
広島の世羅高原というところは花と果樹で有名で、菜の花と菊桃のすごい観光農園があるそうだ(私は行ったことない)。そこでは「挫折した人生をもう一度やり直してみる」と泣く人がいたり、仕事を辞めようと思っていた人が思い直したり、ただキレイというだけでなく人の心まで変わるようなところらしい(少し誇張はあるでしょうが)。
風景には人の心を変える力が確かにあるのだ。
「挫折した人生をもう一度やり直してみる」という人は、どうして花畑を見ただけで気持ちが切り替わったのか。これはよく考えてみないといけない問題である。心理療法の理論では、気が滅入った状態にある人がそれから回復するためには、おおよそ(1)問題の自覚、(2)混乱した状態を解きほぐし、個別の問題に分割、(3)それぞれの問題への対処・気持ちの整理、というような道筋を辿る必要がある。カウンセラーは、クライアントの話を聞きながら問題の本質に迫り、その根本原因が解決するように導いていく。しかし、風景による心の癒しは、そういうものとは全く違う。
問題を解決させるとか、そういうことは全くないのに、なぜか心が癒され、気持ちが整理されるのが風景である。もちろん、万人に通用するわけではない。同じ風景でも、ある人にとってはなつかしい故郷の風景で、ある人にとっては縁もゆかりもないただの地方都市の風景であったりするわけで、同じように花畑を見ても何も感じない人もいる。
しかし、東日本大震災の時に「奇跡の一本松」がどれほどの人に希望を与えたのか、ということを思い起こしてみよう。一本の松には、実利的な価値はほとんどない。一本松の保全なんかにお金をかけるなら、もっと他の実用的なものにお金を使ったらどうかと思った人もいるだろう。だが、ある種の植物は象徴的な価値を持ち、人の情緒を代弁することがある。特に松は、擬人化されたり気持ちが託されたりしやすい植物だ(たぶん、一本残ったのが杉や檜だったらああはならなかっただろう)。
一方、花は情緒を伝える性格を持つ植物で、花が贈り物になるのはそのせいだ。だが、「一面の花畑」には一つ一つの花とはまた違った性格があるようで、私にもそれははっきりとはわからないが、「普段の生活をしばし忘れ、あるがままの自分を回復させる」とでもいいたいような機能があるように思う。だから、「人生をもう一度やり直してみる」という気持ちの変化が起こるのではないだろうか。
今から考えると、東日本大震災の時の復興支援ソングが「花は咲く」だったのは象徴的である。「心の復興」というのは、「家が建つ」でも「街が活気づく」でも十分ではない。もちろんそういったものは絶対必要で、それがないと復興とはいえない。だが、その上で「花が咲く」までいかなくては人間の復興にならないのかもしれない。
これから、熊本・大分の人たちは長い復興の道のりを歩かなくてはならない。今は緊急的に必要なものすらない状態で、花についてどうこう言うタイミングではないと思う。
でも、被災した人たちに早く「花が咲く」よう祈っています。
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