2016年4月21日木曜日

花と情緒

大浦の玄関口「くじらの眠る丘」では、芝桜が満開である(でももう盛りは過ぎた感じ)。

この芝桜がどうしてここに植えられたのかは知らない。地域の要望があったわけでもないようだ。植えられた時は、(工事に随分とお金がかかったようなので)芝桜を植える予算があるんなら、別のことに使った方がいいような…と思っていたが、こうして花が満開になってみると、なかなか悪くない風景である(でも、以前の芝生もそれはそれでよかったと思う)。


せっかくこうしてキレイな芝桜の風景が出現したので、これを活かして何かしてもいいかもしれない。

隣にある大浦ふるさとくじら館(物産館)で物販イベントをしたらどうかと思ったが、この時期にはちょうどめぼしい農産物がなく、また春先ということで農家も春作の準備で忙しい。その上、3月半ばには「たんかん祭り」が開催されているのでイベント後ということもあり、「くじら館」全体の物販イベントを企画するのは難しいかもしれない。

でも満開の花があると、自然とそこに人は集まってくるものだ。最近は、ひねた(?)地域おこしなんかより、花を植える方がよっぽど効果があるという話もある。

例えば、お隣の川辺に大久保集落という所があって、毎年晩秋に一面のヒマワリを咲かせている。ここは川辺の山の中にあり、見るべきものはヒマワリ以外何もないのだが、季節になるとけっこう大勢のお客さんが訪れる。ただヒマワリを見るだけのために。かくいう私も昨年子ども2人を連れて行った。

もうその頃はヒマワリも終わりの頃だったが、多くの車が路駐してあり(駐車場らしきものがない)、たくさんの人たちがヒマワリの中で写真を撮っていた。だが、そこで何かを売っているとかそういうことはなくて、基本的にはただヒマワリを見て帰るだけのところである(盛りの頃は何かしているのかもしれません)。

要するにこれは、ヒマワリで客寄せして何かしようということではなく、ここへ来てもらってヒマワリを見てもらうだけでいい、というような活動らしい。なぜ大久保集落がこのような奉仕活動をしているのかは知らない。種代や圃場準備のための燃料代もバカにならないと思うが、基本的には持ち出しで活動しているようだ。でも結果的に、これは「地域おこし」になっていると思う。

ヒマワリを植えるという、たったそれだけのことで、「地域おこし」になるのである。お金にはならなくても、来なかったはずの人がそこへ訪れ、出会う、というだけでも素晴らしいことであるし、ステキな風景を作るために地域の人が協力するということ自体が、既に「地域おこし」だろう。

いや、それどころか、特産品づくり、観光振興、地域のブランド化、箱物整備、ゆるキャラといったありがちな「地域おこし」よりも、こちらの方がずっとよいのではないかとすら思う。大久保のヒマワリは経済効果という点ではほぼゼロだと思うので、経済至上主義的地域おこし(結局はお金儲けにならないと意味ない、という立場)からは評価されないと思うが、地域に住む人が元気になるだけでも十分に意味がある。

……ところで、以前書いたように今年は「風景」についていろいろ考えている。もちろん「花のある風景」についても。

例えば、どうして花畑を見ると人は元気になるのか? というようなことだ。

打ちひしがれている人を少しでも元気づけるというのは、本当に難しいことで、千言万語をつくして励ましても、気が滅入っている人を笑顔にさせるのは普通できない。むしろ、千言万語をつくすほど、元気づけることから遠ざかるような気さえする。

今、熊本・大分の被災地には精神的に辛い人がたくさんいると思う。近親の方を亡くしたり、地震の恐怖に怯えたり。悲しみと恐怖、不安と絶望。被災して何もかも奪われるということは、途方もない精神的負担を強いられる。

それで、最近は被災者の精神的ケアということがいわれるようになって、例えば東日本大震災の時は「傾聴ボランティア」というものが実践された。これは、「被災者の気持ちをとにかく聞いてあげる」というような活動で、辛いことでも人に話すとちょっとは楽になるということから行われたものだ。

しかし本当に辛い時にはなかなか人に心を開けないもので、カウンセリング(心理療法)などにおいても、具体的なアドバイスより、クライアント(患者)に心を開いてもらう「聞く」技術の方が難しい。バーバル・コミュニケーション(言葉によるコミュニケーション)は理屈的なものを解決していくには適しているが、情緒的な問題を扱うにはあまりに生硬すぎて遠回りな問題解決しかできない面がある。

では、花はどうか? 滅入っている人が、一面の花畑を見たら?

広島の世羅高原というところは花と果樹で有名で、菜の花と菊桃のすごい観光農園があるそうだ(私は行ったことない)。そこでは「挫折した人生をもう一度やり直してみる」と泣く人がいたり、仕事を辞めようと思っていた人が思い直したり、ただキレイというだけでなく人の心まで変わるようなところらしい(少し誇張はあるでしょうが)。

風景には人の心を変える力が確かにあるのだ。

「挫折した人生をもう一度やり直してみる」という人は、どうして花畑を見ただけで気持ちが切り替わったのか。これはよく考えてみないといけない問題である。心理療法の理論では、気が滅入った状態にある人がそれから回復するためには、おおよそ(1)問題の自覚、(2)混乱した状態を解きほぐし、個別の問題に分割、(3)それぞれの問題への対処・気持ちの整理、というような道筋を辿る必要がある。カウンセラーは、クライアントの話を聞きながら問題の本質に迫り、その根本原因が解決するように導いていく。しかし、風景による心の癒しは、そういうものとは全く違う。

問題を解決させるとか、そういうことは全くないのに、なぜか心が癒され、気持ちが整理されるのが風景である。もちろん、万人に通用するわけではない。同じ風景でも、ある人にとってはなつかしい故郷の風景で、ある人にとっては縁もゆかりもないただの地方都市の風景であったりするわけで、同じように花畑を見ても何も感じない人もいる。

しかし、東日本大震災の時に「奇跡の一本松」がどれほどの人に希望を与えたのか、ということを思い起こしてみよう。一本の松には、実利的な価値はほとんどない。一本松の保全なんかにお金をかけるなら、もっと他の実用的なものにお金を使ったらどうかと思った人もいるだろう。だが、ある種の植物は象徴的な価値を持ち、人の情緒を代弁することがある。特に松は、擬人化されたり気持ちが託されたりしやすい植物だ(たぶん、一本残ったのが杉や檜だったらああはならなかっただろう)。

一方、花は情緒を伝える性格を持つ植物で、花が贈り物になるのはそのせいだ。だが、「一面の花畑」には一つ一つの花とはまた違った性格があるようで、私にもそれははっきりとはわからないが、「普段の生活をしばし忘れ、あるがままの自分を回復させる」とでもいいたいような機能があるように思う。だから、「人生をもう一度やり直してみる」という気持ちの変化が起こるのではないだろうか。

今から考えると、東日本大震災の時の復興支援ソングが「花は咲く」だったのは象徴的である。「心の復興」というのは、「家が建つ」でも「街が活気づく」でも十分ではない。もちろんそういったものは絶対必要で、それがないと復興とはいえない。だが、その上で「花が咲く」までいかなくては人間の復興にならないのかもしれない。

これから、熊本・大分の人たちは長い復興の道のりを歩かなくてはならない。今は緊急的に必要なものすらない状態で、花についてどうこう言うタイミングではないと思う。

でも、被災した人たちに早く「花が咲く」よう祈っています。

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