2015年3月22日日曜日

「加世田のかぼちゃ」とは

先の記事で、「加世田のかぼちゃ」のチラシをデザインしたということをお知らせしたのだが、そこでも触れたように「加世田のかぼちゃ」は一体どういうものなのか、ということはこれまで意外と説明されていなかった。

というわけで、参考までにその部分を紹介しておく。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

加世田のかぼちゃ

 Policy “普通のかぼちゃ”をこだわりの栽培で特別なかぼちゃへと変える

「加世田のかぼちゃ」は品種名ではありません。品種の中心は一般的なかぼちゃである「えびす」。その“普通のかぼちゃ”をこだわりの栽培によって美味しく育てたものが「加世田のかぼちゃ」なのです。

1 積算温度に基準を設け “熟成度”をチェック

「加世田のかぼちゃ」は、畑で十分に熟成させてから収穫します。生産者が交配後の日数等を記録し、積算温度1100度という基準に達したところでサンプルを収穫、選果場で試し切りします。皮際まで熟しているか、種は充実しているかといった厳しいチェックを受けてから本収穫。そうやって担保されたバラツキのない高品質さが「加世田のかぼちゃ」の誇りです。

2 収量を犠牲にして 養分を集中させる

一蔓につけるかぼちゃの数は葉の数で決まります。しかも基本的に蔓ごとに1つずつならせて順次肥大させ、一蔓あたりのかぼちゃの数は最大でも3個! もちろん収量は減りますが少数の実に養分を集中させることで、より大きく充実したかぼちゃを実らせています。

3 丁寧な「芽欠き」で蔓の本数まで管理

かぼちゃの蔓は放っておくと縦横無尽にはびこります。しかし不必要な芽を丁寧に取り除き、蔓の本数までも管理するのが「加世田のかぼちゃ」流。このため芽が伸びるシーズンには、芽を取り除く手間のかかる「芽欠き」作業を連日行っています。

4 花の段階で選別・受粉

立派なかぼちゃに向けた選抜は、花の段階から始まります。蔓に実をつける位置も調節し揃える上、大きく優良な雌花だけを選んで受粉させています。

5 美味しいのは当たり前 その上、美しく

かぼちゃの下に透明のシートをしたり、立体栽培したりすることにより、土に直接つけずに均等に着色するようにして、キズが少なく色むらのない美しいかぼちゃが出来るのです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ちなみに、一応「南薩の田舎暮らし」が請け負ったのは「デザイン」であるが、実質的にこの説明文も当方で作成したものである。「積算温度」やら「芽欠き」やら、一般の人たちにはちょっとわかりにくいんじゃないの〜と言われながら、やはりそういう言葉をちゃんと出した方が誠実で、意外と分かってもらえるのではないかという考えで上のような説明にまとめた。

また、こういう農産物紹介にはかなりの確率で現れる「農家の愛情を受けて育てられた〜」のような言葉は絶対に使いたくなかったし、同じく農産物紹介の頻出単語である「手間ひまがかかった〜」も具体性がなく独善的(たいていの農産物は手間ひまがかかるものだと思います)なので、そういう叙情的単語を使わずに、栽培の特徴を素直に伝えようとした結果でもある。

少し心残りな点があるとすれば、あくまで栽培方法だけにフォーカスしているところで、本来は「このような栽培方法のお陰で他のかぼちゃとどのような違いが生まれているのか」をより定量的に示せたらよかったと思う。この説明だと、「加世田のかぼちゃ」自体の解説というより、その栽培法の解説という性格が強い。

でも味とか食感の説明とかは、いくらやっても伝わるというものではないし、結局はこのような栽培法の力を信じていただくほかない。「なるほど、加世田のかぼちゃってそういうものだったのか!」と思ってもらえたらとても嬉しい。

2015年3月19日木曜日

「加世田のかぼちゃ」のチラシをデザインしました!

先日、南さつま市役所が「加世田のかぼちゃ」のチラシを作りたいということで、なんと「南薩の田舎暮らし」でデザインを受注した!

「加世田のかぼちゃ」は県のブランド指定を受けてから20年以上経つが、対外的に「こういうものですよ」と説明する資料が乏しく、全国的には(というより鹿児島県内でも)全然認知されていないので、そういうチラシでも作ってもらいたいと思っていたところである。

それをかぼちゃを栽培している自分が構成・デザインできるということで、受注自体とても嬉しかった。だが、こういう資料を農家自身がデザインするということはすごく珍しいことで、もしこれで「やっぱり農家クオリティだよね」と言われるようなことがあれば次に続かない。それに少額とは言え税金を使って作るものだから、納得できる水準のものを作ろうと、素人ながら「あーでもないこーでもない」と悩みながら連夜作業し、つい先日入稿したところである(正直、プロには及ばない出来ですが)。

 →加世田のかぼちゃPR小冊子
  ※データサイズの問題からだいぶ画像を粗くしています

ところで、この冊子を製作する過程でいろいろ取材し、ビックリしたことがある。それは、一応ブランド野菜であるにも関わらず、「加世田のかぼちゃ」が「加世田のかぼちゃ」として売られているところがどうやらないようなのだ!

何を言っているかというと、これはJAが集荷し、市場や相対取引で「加世田のかぼちゃ」として出荷されるわけだが、「加世田のかぼちゃ」という言葉にブランド力がないためか、実際の小売店では単に「鹿児島産」として売られているらしいのである!

市場出荷の場合、これを買っていった卸業者がどのように販売するか追跡はできないので、少数の例外はあると思うが、大まかにいって、「加世田のかぼちゃ」は市場では単に「鹿児島産かぼちゃ」として取引・販売されているのだ。

正直、このことが分かった時、生産者の一人として悲しく思った。「加世田のかぼちゃ」は知られていないマイナーなブランドなのではなく、ブランドですらなかったということなのだ。でも、そもそも「加世田のかぼちゃ」とは何かを対外的に説明してこなかったわけで、それもやむを得ないかもしれない。私もこうして資料にまとめるまで、「加世田のかぼちゃ」が他のかぼちゃとどう違って、何が特徴なのかということを、明確に認識していなかったような気がする。

そしてだからこそ、こういうチラシの意味がある。たぶんこのチラシを読めば、単に「鹿児島県産」だけだと伝わらない栽培のこだわりがわかり、他のかぼちゃと区別したくなるのではないかと思うからだ。今後、小売店などでこのチラシが共に置かれ、「加世田のかぼちゃ」が「加世田のかぼちゃ」として売られるようになることを切に願っている。

※チラシに書いた内容は、後日改めてブログにアップしたいと思います(上のリンク先と同じですが、なにせ読みにくいので)。

2015年3月12日木曜日

有機農業とフェアトレード

「絶対のこだわりがある!」というわけではないけれど、一応私は有機農業を実践している(つもり)。

以前「有機農業の是非を検証する」というやや小難しい記事でも書いたが、これは別に「安全・安心」とかのためではなく、環境の保全を念頭において取り組んでいることである。

「南薩の田舎暮らし」でも無農薬の柑橘を販売しており(認証を取らないと「有機」の文字は使えないので「無農薬」と表示しています)、味のことはさておいて、価格だけで見れば、無農薬の柑橘としてはほとんど日本最安で提供していると思う。

もちろんその価格設定は私の営業努力の足りなさと商才のなさを反映しているものであって、別に安売りしたくて安売りしているわけではない。が、一方で無農薬だからといってことさら高価格にもしたくないと思う。というのも、私は「農薬かかっててもそんなに気にしないし」という普通の人にも買ってもらいたいと思っているからである。

「多少高くてもやっぱり無農薬じゃなきゃね!」という人に買って頂くのはもちろん嬉しいが、そういう人は少数派であって、そういう人たちだけを見ていては自分の世界を狭めることになる。それに本来、農薬の使用・不使用などということは消費者は気にとめる必要がないはずだ。なぜなら、市場に流通するものはどれも安全なものであるべきだからだ。一応、売り文句として「南薩の田舎暮らし」でも今は「無農薬」を謳っているが、将来的にはそういうことを言わなくてもよいような感じにできたらいいと思う。

今の有機農産物は、とにかく「安全・安心」とか「美味しい」とか、要するに一種の高級品として販売されていることが多いので、それがなかなか広まっていかない要因の一つだろう(※)。欧州の諸国と比べ、日本では有機農業の割合がかなり低いが、「有機農産物=高級品」というイメージは日欧でどのような違いがあるのか(ないのか)知りたいところである。

ただ、価格に見合うだけの品質があれば、有機農産物を高級品として販売することにはなんの問題もない。だが以前の記事で述べたように、その価値にはまだ「イメージ」にすぎない部分もある。そこでふと思うのは、いわゆる「フェアトレード」と有機農業の類似である。

フェアトレードはよく知られている通り、発展途上国の農産物などを公正な価格・やり方で取引することで、要するに「搾取的でない当たり前の取引」である。こういう言葉があるのは「フェアトレード」でない取引が多いためで、代表的なのはカカオ豆だろう。

カカオの一大産地といえばコート・ジ・ボアールで、ここでは児童労働など劣悪な労働によって安価なカカオが生産されている。発展途上国の企業や組合にバーゲニングパワー(交渉を優位に進めていける能力)がないために、先進国の企業に安く買いたたかれ、そういう悲惨な状況に陥ったのである。

それを解消し、生産者に適正な賃金を払うため、最近では「フェアトレード」のチョコレートが販売されている。しかし搾取的な取引を行わず、生産者が十分にやっていける価格でカカオを買い取ろうと思えば、その結果チョコも髙くならざるをえない。だからフェアトレードのチョコは少し高い。では、消費者は何に対してそのプレミアム(価格の上乗せ分)を支払っているのであろうか?

フェアトレードだからといって、品質がよいわけではないし、「安全・安心」でもない。つまり消費者は、自らの便益のためにプレミアムを支払うわけではないのである。 消費者は、「公正さ」そのもののためにそれを支払っているとしか考えられない。

つまりこの場合消費者は、公正に生産され、取引されたものを使うべきだ、という社会的責任に対して価格の上乗せ分を支払っているのだと思う。すなわち、フェアトレードの商品というのは(いい意味で)消費者目線ではないのである。それは、便利な生活を享受する先進国の人間たるもの、えげつない取引で不当に安く作られたものは使うべきでない、という矜恃に訴えかけるものだ。

翻って有機農産物について考えてみる。有機農業(農産物)とフェアトレードは非常に似ている点がある。それはどちらも
  • そうでないものと比べやや高価になる。
  • 多くの消費者にとっては、そうでないものと比べ価値の違いが明確でない。
  • 利益を受けるのは、消費者というよりも生産者側もしくは環境である。
そういうことで、私は、まさに有機農産物はフェアトレードの一種として流通していって欲しいと思っている。有機農業も消費者目線でやるものではなく、あくまで持続可能な農業を目指すものだからで、環境に配慮して栽培されたものを使うことは、社会的責務であると思うからだ。フェアトレードは発展途上国の生産者に対して「公正」であろうとするが、有機農業は自然環境そのものに対して「公正」であろうとする

そういう形で流通すれば、例えば外食産業などで有機農産物を使う割合が少し増えるかもしれない(企業の社会的イメージを向上させるから)。今は、有機農産物が高価格なこともあって、ごく限られた市場しか持っていないが、CSR(企業の社会的責任)に訴えるような商品であれば、違った市場を開拓できるのではないだろうか?

とはいっても、私が有機農業のお手本にすべきだと考えるフェアトレード自体、流通全体で考えるとものすごく狭い世界である。一応市場規模は順調に拡大しているようだが、フェアトレード=当たり前の取引が「普通」になるには長い時間がかるだろう。

だが、「安全・安心なものを食べたい」「美味しいものを食べたい」という(有機農業でなくても応えられる)消費者のニーズに応えるよりも、 環境に対して「公正」であれという矜恃へと訴える方が、有機農業推進にとってはすがすがしいやり方だと、私には思えるのである。

※最大の要因は、日本の農産物の流通のしくみにあるのだと思う。

2015年2月18日水曜日

露地栽培のしらぬいはなぜかもの凄く痛みやすい

「しらぬい(デコポンの登録商標で知られている柑橘)」に不思議なことがある。施設栽培だと数ヶ月保管できるのに、露地栽培だと3週間くらいで傷んでしまう! どうしてなんだろうか?

ちょっと調べてみても、その本質的な原因が分からない。一方、対策というのはそれなりに研究されていて、小さなキズにも弱いからキズ付けないように収穫しましょうとか、そういう細かいことも含めていろんなアドバイスがある。でも肝心の原因が茫洋としていて、露地栽培と施設栽培で決定的に違うことがなんなのかがよくわからない。果実表面の微生物の様相に問題があるんだろうが…。

それに、痛み方も少し変わっている。普通のミカン類は、表面のキズや何かから青カビが侵入してやがて腐っていくことが多いが、しらぬいの場合、青カビももちろんつくが皮の部分からボヨンボヨンになって弱っていく痛み方の方が多いような気がする。あと、樹上で腐ってしまう割合も多いと思う。これも原因がよくわからない。

ちなみに、皮の部分がボヨンボヨンになっても、果肉の方はまだ無事で意外にイケることも多い。でもそうなるともう数日でダメになってしまう。だから売り物にはならない。

しらぬいは皮がゴツくて頑丈な印象があるのに、実際はもの凄く痛みやすいのである。それが施設栽培になると、逆にかなり長持ちするようになるのが一層不思議なのである。こういう果物、ほかにあるんだろうか?

そして、もの凄く痛みやすいということは、なかなか売りにくいということでもある。在庫を抱えているとどんどん不良品が増えていくわけで、時限爆弾的な商品だ。だから、一度にドカッと売りたくなる。でもそうすると、新しいお客さんとの出会いは少ない。「南薩の田舎暮らし」でも、予約を取って販売した上、例によってA-Zかわなべにも卸したので、もはや在庫は10セットくらいしかない状況である。

販売期間はあと1週間もないかもしれない。この短い期間に、新しいお客さんと出会えたらいいなと思っている。

↓ご購入はこちらから
「無農薬・無化学肥料のしらぬい」

2015年2月12日木曜日

「加世田かぼちゃ」の30年

今、ちょっとワケあって「加世田のかぼちゃ」の歴史を調べている。歴史といってもたかだが30年とちょっとのことだ。

それで、2012年が「かごしまブランド」に指定されてから20年ということで記念大会が開催されており、その冊子を貸してもらって見てみた。その冊子にはこれまでの歩みということで試作が始まった1976年からの主な出来事がまとめられており、大変参考になった。

その歴史を簡単に述べると、「栽培が始まった頃は天候にも恵まれ豊作が続き順調に生産量が拡大したが、次第に天候不良や疫病の発生に見舞われるようになり、近年では不作が常態化するようになった」とまとめられる。

ちょっと趣味的になるが、その様子を下のような表に整理してみた。「主な出来事」の欄を眺めているだけでもなんとなく風向きが悪くなってきている様子が感じられるが、よりわかりやすいのは「生産性」の欄である。

「生産性」は、便宜的に出荷量を作付面積で割ったものである。これは正確な単位面積当たりの収穫量とは異なる。なぜなら、作付面積も出荷量も、本来は春作と秋作それぞれの計算が必要だからである。しかし便宜的な合算でも、その年の雰囲気を摑むことはできるだろう。

そして「生産性」の欄には、これまた便宜的に、〜15:赤色、15〜20:黄色、20〜:水色、と色をつけてみた。年を経るにつれて赤色が多くなっていることが一目瞭然である。というか最近は赤色しかない。

「加世田のかぼちゃ」のあゆみ

主な出来事 作付面積(ha) 出荷量(t) 生産性
1976年 春かぼちゃ試作      
1977年 春かぼちゃ本格的栽培開始
秋かぼちゃ試作
3 75 25.0
1978年 秋かぼちゃ本格的栽培開始 9 153 17.0
1979年 台風による被害 14 184 13.1
1980年   30 487 16.2
1981年   50 1160 23.2
1982年 晩霜による大被害 84 1820 21.7
1983年 台風による被害、疫病大発生 88.8 1195 13.5
1984年   100.8 2220 22.0
1985年   92.5 2110 22.8
1986年   95.1 2300 24.2
1987年   103 2212 21.5
1988年   124.5 2498 20.1
1989年 安定生産 111.5 2277 20.4
1990年 台風による被害 107 1988 18.6
1991年 かごしまブランド産地指定
秋かぼちゃ台風被害により収穫皆無
116 1747 15.1
1992年 朝日農業賞受賞 93 2298 24.7
1993年 晩霜による被害
記録的長雨による2番果着果不良
MBC賞受賞
107.7 1915 17.8
1994年 春先の低温、日照不足で生育遅れ
輸入かぼちゃとの競合で価格低迷
105.3 2106 20.0
1995年   92.1 1564 17.0
1996年 かぼちゃサミットを開催 95.1 1818 19.1
1997年 天候不良による減収 104.2 1669 16.0
1998年 春かぼちゃ、天候不良による減収 102.2 1505 14.7
1999年 天候不良、台風による減収 79.1 1222 15.4
2000年 春かぼちゃ疫病が大発生 73.3 1092 14.9
2001年 単価安
産地指定10周年記念大会開催
70.8 1194 16.9
2002年 天候不良や疫病による減収 67.6 1097 16.2
2003年 天候不良や疫病による減収 75.2 1295 17.2
2004年 台風被害による大幅な減収 76.7 918 12.0
2005年 台風被害による大幅な減収 70.5 1068 15.1
2006年 春かぼちゃ天候不良による品質低下
秋かぼちゃ豊作
68.7 946 13.8
2007年 天候不良による減収 71.2 1025 14.4
2008年 天候不良による減収 70.6 795 11.3
2009年 天候不良による減収 72.5 964 13.3
2010年 天候不良や疫病による減収 74.7 801 10.7
2011年 天候不良による減収 72.9 724 9.9

このように見てみると「加世田のかぼちゃ」が次第に衰微しつつある様が見て取れ、生産者として薄ら寒い気持ちになるのだが、本当に危機感を抱くべきなのは不作が続いていることよりもむしろ、近年の「産地としての動きのなさ」かもしれない。

というのは、順調な栽培が続いた”青色の時代”を経て「かごしまブランド」の産地指定を受け、その後”黄色の時代”にも「朝日農業賞」「MBC賞」を受賞したり「かぼちゃサミット」を開催したりといった動きがあった。もしかしたら積極的に行ったものではないのかもしれないが、結果的にブランドの認知を挙げ、産地が一丸となる方向ができたのではないかと思う。

しかし、それに続く”赤色の時代“には、そういった動きが全くない。おそらく、天候不良に苦しんで思うように結果が出ないため萎縮し、積極的な手を打つことができなかったのだろう。 天候不良というのは如何ともしがたいので、生産量の低迷などはしょうがない。だがだからこそ、産地として埋没しないようにする努力をしなければジリ貧になっていくのではないだろうか。

私は「加世田かぼちゃ」の歴史を振り返るにあたり、「なんだかんだ言っても20年以上の積み重ねがあるわけだから、それなりにいろんな取り組みがあったのでは?」と思っていた。が、これまでの所、取り組みは栽培技術の面に限られているように見える。

栽培技術の進歩は重要だが、ブランドだってただ自称しているだけではその真価は発揮されない。実直に生産するだけでなくて、産地として前向きに動く姿勢を見せ、新たな市場を開拓していくきっかけづくりをしていく努力が必要だと思う。微力ながら、私も一生産者としてそれに取り組んでいきたい。

2015年2月6日金曜日

サワーポメロの不思議

この時期、近所の物産館では「サワーポメロ」がものすごく安売りされている。3個くらい入って150円とか、そういう激安値である。これはブンタンの仲間だから大きいのが3個入っていれば2キロ近くあるが、それが150円だから全然利益は出ない商売だ。

しかしサワーポメロ、といってもピンと来ない人が多いに違いない。サワーポメロは通称で、品種名は大橘(おおたちばな)という。熊本では「パール柑」と呼ばれている。といっても、やはりピンと来ない人が多いであろう。サワーポメロは、鹿児島・熊本のご当地柑橘ともいうべきものだ。

これが激安で売られているのはいろいろ理由があるが、基本的には市場性があまりないからだと思う。つまり、あまり市場では取り扱われていない。市場で流通しないから売りにくい。売りにくいから安くなる。ではどうして取り扱われていないのか、というと、多分生産量が少ないからだ。

ところが面白いことに、このあたりで柑橘類を生産している人の畑には、隅っこの方に必ずといってよいほどこのサワーポメロが1、2本植えられている。自家用で育てているのである。自家用だから元より出荷のことは考えていない。だがたった2本でも収穫は結構な量になるから、余った分を物産館に出しているのである。余ったものの処分だから150円くらいの激安に設定されているのだと思う。

しかしここに一つ不思議がある。ミカン農家自身が自家用に植えるくらいだから美味しい柑橘のはずなのに、なぜ生産量が少なく市場性があまりないのだろうか?

実際、「柑橘類の中でサワーポメロが一番好き!」とか「柑橘類はサワーポメロ以外は食べない」という人もいるくらいなのだ。ちょっと好き嫌いは分かれる果物で(というのは皮が剝きにくいのが一番嫌われる点)、みんなに好かれるというものではないが、はまる人にははまる味だ。

どんな味かというと、ブンタンのぷちぷち感はそのままにすごくジューシーにして甘酸っぱくした感じである(サワー(酸っぱい)が冠されているがそれほど酸味は強くない)。それから香りがすごく爽やかなのも特徴である。剝きにくい皮のことを考えなければ、もっと市場で取引されてもおかしくない。

しかも、生産量の少なさは栽培が難しいのが理由ではない。というか、柑橘類の中では栽培はどちらかというと容易な方ではないかと思う。ではなぜ生産量が少なく市場性があまりないのか?

私の推測だが、それはこのあたりの人びとが「サワーポメロは自家用の果物」「サワーポメロは高く売れるはずがない」と思い込んでいるせいではないかと思う。つまりサワーポメロに将来性を感じていない。柑橘のように「一度植えたら簡単に植え替えはできない」というような作物の場合、定植の際は最も有望そうな品種を選ぶのが当然である。その結果、生産量が少なくなって市場にあまり流通しないため、さらに有望に見えなくなる。そういう負のフィードバックの結果、サワーポメロは自家用に1、2本植える程度のご当地柑橘に甘んじているのではないだろうか。

だとすれば、サワーポメロの価値は過小評価されているということになる。もしかしたら、これを真面目に売ろうとすればそれなりに結果がでるのではないか?といっても、私自身はサワーポメロはやはり2本しか栽培していないし、これから増やしていこうという気もないが…(あ、やはり将来性を自分も感じていなかったのかもしれません(笑))。

2015年2月4日水曜日

近所の中学校で講演させてもらいました

先日、近所の大笠(だいりゅう)中学校で講演をしてきた。名目としては「立志記念講演」ということで、中学2年生を対象としたもの。

立志式というのは、どうも全国的な風習ではないようだが、要は立志の時(15歳)を迎えたことを祝い、大人になる自覚を深める行事である。最近は「式」のようなことはしないことも多いのだということで、「式」の代わりに講演が行われ、それに呼ばれていったというわけである。

どうして私などに講演を依頼してきたのかはよく分からないが(町内で頑張っている人に話を聞こう、というような趣旨らしい)、「こういう話をしてほしい!」というような明確な要望もなかったので、普段の授業では聞くことがないであろう刺激的な話をしようということにした。

その内容と言えば、「これからの時代を生き抜くための教養講座」と題して、「君たちが大人になる頃は日本にとって大変厳しい時代になっていて、ぼやぼやしているとどうしようもない人生が待っている。しかも田舎モノには大変なハンデがあるのだから、危機感を抱くべきだ。これからの時代を生き抜くため、英語、インターネット、デジタルツールを使いこなそう!」というような感じである。

このメッセージがどれくらい中学生に実感をもって伝わったのか、正直心許ない。なにしろ、与えられた70分という時間の中で、約100ページ(!)ものスライドを使用し、まくし立てるように発表した。今流行りのスティーブ・ジョブズ流のエレガントなプレゼンテーションとは真逆の講演だったと思う。

だが、聴講してくれた中学生(30人くらい?)の一人でも、何か感じとり、これからの人生を歩む参考にしてくれたら望外の喜びである。そして、中学生にとっては内容がぎゅっと詰まった講演だったと思うが、最後まで真面目に聴講してくれたみなさんに感謝である。自分にとってもいい経験になりました。