2015年10月6日火曜日

世界の多様性——棚田を巡る旅(その5)

エドワード・O・ウィルソンという学者がいる。「社会生物学」という学問を開拓した人の一人で、アリの世界的権威だ。その学者が、環境保護についてこんなことを言っている。我々は自然のことが本能的に好きであり、特に多様な生物が生きている状態が好きである。だから環境保護をすることは、人間の本性に適っているのだ、と。

これは要するに「人間は多様な自然が好きだから環境保護するのは適切だ」ということに近いわけで、最初に読んだときは(私は当時社会生物学を勉強していてウィルソンの本を熱心に読んでいたので)「社会生物学についてはもの凄い炯眼なのに、随分浅はかなことを言うものだ」とガッカリしたものだ。環境保護は、人間の自然に対する責任から説明すべきことであって、自然が好きとか嫌いとか、そういう好みの問題ではないはずだ。

しかしそれから暫く経ち、よくよく考えてみると、このウィルソンの考え方はそれほど的まずれではないような気がしてきた。それどころか、浅はかだったのは私の方だったのかもしれないと思うようになった。

ものごとの価値、というものは、絶対的な何か(例えば神)によって決まっているものではない(無神論的には)。全ての価値は、あくまで人間にとっての価値でしかない。もし仮に人間が絶滅してしまえば、ベートーヴェンの交響曲のスコアも、ツタンカーメンの黄金のマスクも、何の価値もない。いや、「価値」ということを考えることすらできない。

保護すべき「自然の価値」というのも同じである。我々が考えることが出来るのは、あくまで「人間にとっての自然の価値」でしかないわけだ。だとしたら、それは具体的にそれは何なのか。キレイな空気や水、素晴らしい景観、朝の鳥のさえずり、そういうものが与えてくれる、物質的・精神的な心地よさ、それが「人間にとっての自然の価値」なんだろうか。

でもそうだとすれば、我々が環境保護をしたいと思うのは、あくまでも自分たちの周辺だけのはずだ。自分たちに物質的・精神的な心地よさを与えてくれるのは、近場の自然だけだからである。でも実際には、自分から遙かに遠く離れた場所のことであっても「絶滅の危機にある生物」のことを知れば、ちゃんと保護してあげないと! と思うのが人間だ。

しかし、その「絶滅の危機にある生物」が実際に絶滅したからと言って自分が不利益を蒙ることは一つもない。身の回りの自然さえ心地よければ、自分の心地よさが減ずることはないからだ。でもやはり普通の人は、できればどんな種類の生物だって絶滅しない方がいいと思っている。ということは、「人間にとっての自然の価値」は、決して自分が直接的に感じる物質的・精神的な心地よさ、だけではないのだ。

ウィルソンは、人間は本能的に自然を好むと考え、「バイオフィリア仮説」という風変わりな仮説を提示した。「バイオフィリア仮説」とは、人間と生物システム(生物全体やその環境)との間には本能的な結びつきがあるのだ、とするもので、人間が生物多様性を好むのもこの性向に由来するのだという。乱暴に言うと、我々は、仮に自分が直接触れたり見たりできなくても、多様な生物が生きている世界にいる(と感じる)のが本能的に好きなのだという。

ということは、「人間にとっての自然の価値」は、直接的に受ける何かの便益というより、「我々人類は生命に溢れた星に生きているんだ」と実感できるところにある。確かに我々は、その理由はうまく説明できなくても、小惑星の衝突によって生物の大部分が絶滅した状態の地球よりも、多様な生物が繁栄し生命に溢れた地球の方が好きである。それが仮に、人間がいない世界だったとしても。人間は、自分が自然とどのような関わりをしていようとも、問答無用で「命溢れる星」が好きなのだと思う。

それだけではない。生物多様性が好きなのと同じで、我々は世界そのものの多様性も好きである(これをウィルソンが言っているか忘れたが)。

例えば、数千の言語が消滅の危機にあるというが、どうして弱小言語を保護しなければならないのだろうか。多くの言語は、言語学的な意味を除いては、世界にほとんど何の便益も提供しない。要するに、消滅しても誰も困る人がいない。なくなってしまったらもう二度と甦らせることはできないということで、博物学的な価値はあるかもしれないが、普通の人には関係のないことだ。それでも、言語が一つ消滅するという場面を知れば、多くの人は哀惜の念を抱くものだ。最後の話者が話す、もうその人以外は誰も理解できなくなってしまった言葉を愛おしく思う。

消えゆく伝統工芸だって同じことだ。伝統の技が消えつつあると知れば、どうにかして存続させられないものか、と思う。もはやその技は、誰にも必要とされていないものなのに(だから消滅しかかっている)。物事が、経済的にまたは文化的に、役目を終えて消えていくのは自然なことだ。でもそれを無理に延命させようとするのが人間だ。なぜか。

我々は、きっと世界の多様性そのものを愛しているのだ、本能的に。

自分とは無関係でも、奇妙な言語を話す人たちが存在していて欲しいし、自分は絶対に買わなくても、伝統工芸品がいつまでもどこかで作られていて欲しい。これは一面ではエゴである。伝統工芸品がいつまでも作られていて欲しいなら、本来ならそれを買うべきだ。買って作り手を応援することこそ、消費社会の中での正しい選択だ。だが多くの人は、別にその伝統工芸品が欲しいから、その技が消えるのを惜しむのではない。そうではなくて、自分が絶対買わないような製品でも、とにかくどこかにはそれが売られている、という豊かな世界が好きなのである。

我々は、どんな遠くまで出かけていっても、まだその先に知らない世界がある、というようなワンダーランドが好みらしい。理屈ではなく本能的に。それは実際に遠くに出かけるからではない。遠くに出かけて知らないものを知るのが好きなのではなくて、「仮に」出かけたら面白いものが見られるはずの世界で生きている、という感覚でいたいのだ。

……随分議論が遠回りしてきたが、棚田の価値、というものをぐるぐる考えていたら、結局ここに行き着いた。

棚田の価値は、作っている人自身にとってはいろいろある。集落の象徴的な景観を維持することとか、集落活性化の中心にするとか。でも外の人にとっての価値は何なのかというのが疑問だった。景観とか活性化とかが価値の中身なら、それはあくまで内輪の価値に過ぎない。棚田は、その地域の人たちがやりたいなら勝手にやればいい、というようなものだということになる。だが棚田の保全には多くの人が興味を持っており、確かに何らかの価値を感じている。

「棚田は日本の原風景だから保全すべき」という人もいる。でも棚田が日本の原風景なのかもちょっと疑問だし(意外と新しいものが多い)、原風景だったら保全すべきだ、というのも論理に飛躍がある。ボットン便所(木の桶がただおいているだけの便所)だって日本の農村の原風景だったと思うが、誰も実際に使うべきと主張している人はいない。

棚田を保全することの価値はきっと、棚田そのものがどうこうということではない。それは、消滅しつつある言語とか、消えゆく伝統工芸の技へ哀惜の念を抱くのと同じことなんじゃないだろうか。つまり、我々は棚田のような「役目を終えたもの」でも、存続している多様性のある世界に住みたいのである。効率や合理性を追求した通り一辺倒の「農業」だけじゃなくて、非効率で非合理的な、棚田の耕作のような「マツリゴト」も行われている世界に住みたいのである。棚田そのものに価値を感じているというより、棚田のようなものでも捨て去りはしない「世界」を愛しているのではないか。

もちろん、多様性があればなんでもいいというものではない。世界には紛争が溢れ、児童労働や人身売買が横行している。そういうものがいくら多様であっても、人間はそれに価値は感じない。百の不幸があるよりは、一つの幸福があった方がよい。多様性よりは人類の福祉が優先される。それがたぶん、ボットン便所を保全すべきという声が上がらない理由だと思う。でも逆に言えば、そういうデメリットがない限り、明確なメリット(価値や便益)を何も提供しなくても、我々はいろんなものが世界に存在していて欲しいと願う「生まれながらの多様性愛好者」である。

きっとそれは、環境の変化に備えた生き残り戦略なんだろう。環境が変化したとき、これまでゴミだったものが生き残りの鍵になるかもしれない。現代の社会では、棚田の耕作は趣味的なもので、あってもなくても産業的にはどうでもいいが、ひょっとすると何らかの環境変化によって、棚田耕作の技術が日本の農業を救うことならないとも限らない。世界は多様であった方が、誰かが生き残る確率は高くなる。みんなが同じ方向を向いていれば、みんなが破滅してしまうかもしれない。世界の多様性は、ただの好みの問題ではなくて、人類が生き残るための切実な要請である

私が考える棚田の価値はそういうことだ。棚田の耕作そのものに価値があるのかどうかわからない。だが、棚田のような割に合わない営みが確かに行われているこの世界には、価値がある。

効率や合理性だけでない、豊かな世界をつくるピースの一つ、それが私にとっての棚田の価値である。

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