2012年5月8日火曜日

墓石の変転から伝統と革新を考える

私事ながら、5月8日は祖父の命日ということで、墓(石)について思うところを書いてみたい。

写真は祖父の墓だが、これはよくある「○○家の墓」ではなくて、個人の墓となっている。このあたりの集落の共同墓地では、家毎の納骨が普通であるを考えると、これは少しだけ異例である。祖父は町長在任中に急死したので、このように個人の墓が作られたのであろう。

しかし、「○○家の墓」(祖先墓)というのが伝統的な墓のあり方と思ってはいけない。明治維新までは、あくまで墓(墓石)は個人に向けたものだった。しかも、名前を刻むのではなく、戒名または法名を刻み、俗名は側面に控えめに刻まれているものだった。つまり昔の墓石には、「○○院○○居士」などと刻まれていたのである。

祖先墓という形式が広まったのは、明治政府により、祭祀財産が家督相続の特権とされたことの影響である。これは、単純化して言えば、墓は家制度の中でしか相続できなくなったということだ。

元々、武士や公家には家督という概念があったが、農民や商人では家を継ぐという意識は希薄だったし、先祖を祀るということもあまり行われていなかったようだ。明治政府が祭祀権を家督に含めたのは、邪推すれば、国家神道の完成のため、平民にまで祖先祭祀を徹底させようという目的だったように思われる。

しかし、明治31(1898)年に家制度が制定されてからすぐに、祖先墓が出来たわけではない。明治から大正にかけては、それまで伝統的だった墓石・墓碑の形式に捕らわれない、自由な発想に基づく墓が大量に作られた。事実、日本最初の公営墓地である青山霊園の大正時代の墓を見れば、「○○家の墓」などという墓石は少数派で、個性豊かな個人の墓石がたくさんあることに気づくだろう。

こうした墓は個人の霊を弔うものという伝統的な通念は、終戦まで続いたように思われる。特に戦死した故人へは、特別に墓を作って弔ったことは想像に難くない。「○○家の墓」の形式が多数派になっていくのは、実はようやく戦後になってからである。

すでに明治時代初期から墓のあり方は変わり続けていたが、それは限られた上流層(例えば軍人や上級官吏)や都市部でだけの話だった。その変化が全国の一般庶民にまで及び、決定的になったのが戦後だった。その変化を概説すれば、次のようになるだろう。

第1に、寺や自治体が運営する墓地が普及した。それまでは庶民は村の共同墓地に葬られるのが一般的だったが、人口動態が流動的になった結果、 地縁共同体(ムラ)とは別個の墓地管理の必要が生じたのである。

第2に、その結果として墓石ごとの管理責任を明確にせざるをえなくなった。村の共同墓地は集落全体で管理されるため、墓石の一々について管理を明確にする必要はなかったが、寺や自治体の管理する墓地では管理料を納める必要があるため、墓を遺族の誰が管理する(費用を払う)のかが重要になった。

第3に、さらにその結果として、墓は長子相続するものという(公家や武家でのかつての)慣習が明確化される格好で「○○家の墓」という形態の墓(祖先墓)が普及したのである。そして人口増による墓地不足も、この潮流を加速させた。皮肉なのは、既に家制度は昭和22(1947)年の民法大改正で消滅していたということだ。祭祀財産の家督相続は、その法規が失効してから具現化されてしまったのである。

第4に、祖先墓という形式になったことの当然の帰結として、墓石が大型化した。個人の墓の場合は、土地と予算の問題から大きな墓を作ることは難しいが、家毎ならばある程度の土地を確保することは容易だ。また、「家の墓」となったことで「見栄」の要素も大きくなったことも否定できない。

第5に、高度経済成長に伴う墓石の大型化と大衆化の結果、墓石の意匠は簡略化され、シンプルな形状(直方体3つを重ねる)の墓が中心となった。個人の小さな墓の場合は、墓石を置く石にも彫刻が施され、また形状にも細かな配慮があったが、大型化した墓では、ほとんど大きさと材質のみに「見栄」は集中し、意匠は簡素なものばかりになった。

こうして、今ではすっかり一般的となった「○○家の墓」という大きな墓が生まれたのである。しかし、明らかなように、その墓の形式はとても伝統的とは言えないものだ。近年、個人墓と呼ばれる一人だけのお墓を作ったり、墓石に名前を刻むのではなく「愛」とか「いたわり」といった自由な言葉を刻んだりといったことが流行っており、一部にはそういった墓を伝統的でないとして反発するむきもあるが、墓石の変転の歴史を鑑みても、何が伝統的で何が革新なのか、ということは非常に曖昧である。

墓の建立や相続は、あまり短い期間で起こるものではないために、その変化はゆっくりとしている。明治政府が祭祀財産を家督相続の特権としても、直ちに祖先墓が広まらなかったのもそのためだ。しかし、ひとたび墓を作るとなれば、それはほとんど人生で一度きりのことであるために、世間の風潮・流行に流されやすく、一代で大きな変化をもたらす。

人は、自分の知る昔のやり方が「伝統的なもの」だと安直に考えてしまうが、人間の営みは移ろいやすいものである。むしろ、基本に立ち返って革新を求めた方がかえって真の伝統に合致している場合も多い。そして、伝統を守るといっても、例えば現代に「○○院○○居士」と刻んだ小さな個人墓を作ることの意味はあまりないだろう。重要なのは、伝統の根源にある普遍的な営為である。時代も人も移ろっていく。私も、形式的な伝統にとらわれずに、新しい挑戦をしながら、本当の伝統を次世代に遺せたらと思う。

【参考】
お墓の歴史」(金光泰観墓相研究所)
お墓の歴史を縄文時代から概説している。

2 件のコメント:

  1. こんにちは。えびの人です。

    先日墓地に行く機会があり、その際に感じた違和感がまさに古い時代の墓石に個人名が刻んであったということでした。

    ブログを拝見して、以前の墓とは個人の霊を弔うものだったのだと知り、大変有益でした。
    おそらくは階級の高かった者、戦功のあった者などの名を後世に伝えるということも墓地(墓石)の重要な役割だったのではないでしょうか。

    素通りしていたテーマから、人の営みに思いを巡らすことができました。ありがとうございました。

    返信削除
    返信
    1. いつもありがとうございます。参考になってよかったです。

      共同墓地に葬られていた時は、おそらく墓石のない墓もたくさんあったろうと思います。おっしゃるように、特に功績のあった故人を顕彰するという意味合いも、墓石には込められていると思いますし、だからこそ、明治大正の墓石は自己主張が激しいものが多いのでしょうね。

      削除