廃仏毀釈の嵐が最後に残った名刹をも吹き飛ばそうとしていた明治3年11月、鹿児島の城下に奇妙な神社が創建された。その名も「皇軍神社」、訓じて「すめらみくさのかみのやしろ」という。
皇軍神社は、御軍神社という神社を母体にして創られたもので、翌月には軍務局の隣に遷座された。祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、楠木正成、そして島津歴代の名将7人、すなわち忠久、忠良、貴久、義久、義弘、斉興、斉彬、の計10座であった。
まず、この祭神が奇妙だった。武甕槌神と経津主神という神話に登場する神と、楠木正成と、それから島津歴代の名将が祭神として同列に並んでいるのは、いかにも不思議なとりあわせだ。
皇軍神社が、軍務局の隣に遷されたのも特殊だった。この神社は、その設立から普通の神社とは全く異なっていた。
そもそも、「皇軍」神社という名前も破格なものだ。鹿児島に厳密な意味での「皇軍」はなかったのだから。この奇妙な神社は一体何だったのか。
皇軍神社のご神体は楠木正成の木像であったが、これは幕末の志士有馬新七が伊集院の石谷に建立した「楠公社」に祀ったものを遷したものである。皇軍神社の奇妙な祭神群の中核を為すものは、楠木正成だった。
ここで少し、楠木正成崇拝(楠公崇拝)について説明する必要があるだろう。
楠木正成は後醍醐天皇の命を受けて鎌倉幕府を倒し、「建武の新政」(後醍醐天皇の統治)を実現させた。幕末の「尊皇の競争」の中で、天皇への忠誠を貫いた楠木正成への崇拝は全国的に急激な盛り上がりを見せる。特に水戸学においては、楠公崇拝だけでなく天皇に忠勤を尽くしたものも神として祀ることまで主張された。さらに後には楠木正成の鎌倉倒幕は、徳川幕府の倒幕へと暗になぞらえられた。楠木正成は倒幕を現実化した忠臣として、反幕勢力にとっての理想像となっていった。
薩摩藩でも、既に元治元年(1864年)、島津久光が楠木正成が果てた地である湊川(兵庫県)に神社を建立するよう願い出ている。久光は尊皇の志を表そうとしたのだろう。この提案は裁可されたものの幕末のゴタゴタのためうやむやとなったが、同種の提案は慶応3年に尾張藩主徳川慶勝からもあり、これに刺激された薩摩藩は、明治元年に岩下方平らが東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)へ改めて神社建設を建白。一方水戸藩もこの建設の一任を願い出た。朝廷からも千両の寄附があり、薩摩と尾張、水戸が競うような形で楠公崇拝の神社が計画され、これは明治5年に「湊川神社」として実現した。
ある意味では、皇軍神社はこの湊川神社の先蹤となるものであった。殉国者を神として崇め、忠君愛国を宗教的な教えにまで昇華させようとしたのだ。その上、宗教と軍事を結びつけた。
軍務局の隣(一説には練兵所の中であったともいう)にあったことから、やがて私学校が創建されると皇軍神社はその守護神とされた。さらに皇軍神社は、県内各地にも分祀されたらしい。垂水に分祀された皇軍神社が早くも明治4年に建立されているところを見ると、県庁は皇軍神社を各地で崇拝させ、宗教的軍事思想を広めようという明確な意向があったのだろう。
思えば島津久光が維新後に鹿児島でやった主立ったことと言えば、廃仏毀釈と、藩政を軍事組織へと組み替えることの二つなのだ。軍功があったわけでもない久光の父斉興が皇軍神社に祀られたことを考えると、この神社の設立にも久光の強い意向があったのではなかろうか。皇軍神社は久光が行った宗教と軍事の二つの改革を象徴する神社だったように思われる。
そして皇軍神社は、宗教と軍事の露骨な結託という意味で、昭和になってからの靖国神社の存在の先駆となるものでもあった。既に鹿児島には、後の「国家神道」の萌芽があったのである。
この奇妙な神社が創建されたのは、一体いかなる神道理論に基づくものであったか。
というのは、薩摩藩を席巻した平田派の国学では、「復古神道」すなわち古えの神道の姿を取り戻すことが大原理だった。「王政復古の大号令」でも、「神武創業の始めに基づき」とされている。このような新参の神社を創建することは、「復古」の名に悖るのではないか。
事実、明治4年に神社の序列を定める社格制度が出来た時も、『延喜式』の神名帳に掲載された神社が正統とされている。しっかりと古代に倣っているのである。「復古」を旗印にする限り、新しい神社の創建など問題にならないはずだった。しかし実際には、「復古」の名の下に、神道は新しく作りかえられていくのである。
「王政復古の大号令」において「神武創業の始めに基づき」と謳われた背景には、岩倉具視のブレーンとなった平田系国学者の玉松操の存在があった。岩倉が新国家の構想を考えていた頃、彼は失脚し京を追われて京都郊外の村で逃亡生活を送っていた。岩倉が新国家樹立のコンセプトとして「復古」を思い描いたとき、新制度を具体化していく上で古代社会の知識を持ったものが必要になり、そこにちょうど現れたのが玉松だった。
玉松ら国学者は、岩倉に「建武の新政では十分ではない、神武創業にまで復るのだ」と教唆したと言われる。楠木正成が実現した「建武の新政」は、実際には短い間で瓦解したという事情もあったためであろう、明治維新の理想は神話的古代に置かれ、歴史的事実が全く明らかでない神武創業の始めにまで復ることが必要とされた。
しかし、この荒唐無稽な「復古」は、逆説的に明治政府を開明的にする余地を残していた。いや、おそらく岩倉は気づいていたのだろう。歴史的に明確な「建武の新政」を理想にしては、彼が構想していた新国家の青写真を現実化できないことに。私は「神武創業の始めに基づき」という旗印は、岩倉によって周到に用意されたものであったと思う。歴史的には霧の中にある「神武創業」を理想にしたことで、「復古」の名の下に維新政府は事実上フリーハンドで制度を設計することができた。「復古」は、歴史的なある時点に戻るという文字通りの意味ではなく、今をただ勇ましい神話的古代になぞらえることでしかなかった。
だから、「復古神道」が意味するところは、実際には古代の神道に戻るというものではなかった。「神武創業」まで復ることが定められたとき、神道は国家にとって必要な宗教として作りかえられていく宿命だったのかもしれない。そもそもこれを構想した平田篤胤自身、『古事記』や『日本書紀』に基づきながら、それらのどこにも書いていない古代の有様や魂の行方を考えていたのだ。
「皇軍神社」が拠っていたのは、新しい時代の「神道」だった。それは、古くからの神道とは全く違う、忠君愛国を教え込むための新しい教えだった。そして、楠木正成を忠臣として崇拝するのみならず、島津歴代の名将をも神としたことは、国家に対し功績を上げた人間は神となるという思想も表していた。戦死した人間が神として祀られる、靖国神社の仕組みを先取りしていた。
国家に尽くして死ねば神になるという観念は、古くからの日本人の死生観にないものだ。あったのは、現世に強い怨念を残して死んだものは篤く祀らなければならないという、御霊信仰の方だった。古代の人々は怨霊を恐れた。菅原道真を祀った北野天満宮はその代表的な例だ。国家に功績のある人間を祀るようになるのは、せいぜい織田信長以降である。
しかしこの殉国者を神として祀る思想は幕末から急速に広まっていくのである。元治元年(1864年)に鹿児島に創建された島津斉彬を祀る「照國神社」もその一つだ。各地で、このような神社が創建された。「皇軍神社」は、その極端な例だった。
一方で、このようにして祀られた神社は、当然『延喜式』に基づくものではなかったから、社格制度の枠組みには入らなかった。そこで天皇に忠勤を励んだ臣下などを祭神として祀る神社のために「別格官幣社」という制度が新たに設けられ、その第1号としてあの湊川神社が列格された。追って、靖国神社が別格官幣社の中でもさらに特殊な神社として特立していく。
「復古」で始まったはずの明治維新は、いつしか「復古」の名の下にあらゆるものをつくりかえる力を持った。田中頼庸たちが廃仏毀釈運動の中で鹿児島を塗りつぶそうとしていた「神道」は、「復古」というよりも、全体主義国家の「国教」として新たに創出されたものだった。あたかも、神武天皇陵が幕末になって新たに築造されたようにだ。
廃仏毀釈、というと、仏教への弾圧のイメージが強い。しかし仏教への圧力と同じくらい、実は神道へも強力な介入と弾圧があった。
元々、市来四郎らが実施した前期廃仏毀釈においても、寺院だけでなく神社も統合整理の対象となっていた。民衆が自然発生的に信仰してきた神社は、新しい国家にとって不要だった。元来の神道は、仏教と共に引き裂かれていった。
まず行われたのは神仏分離だった。廃仏毀釈以前、鹿児島に存在していた4470の神社のうち、ご神体が仏像でなかったのは、ただ一社しかなかった。一社の例外を除き全ての神社のご神体は仏像であったのだ。神道と仏教は分かちがたく共生しあっていた。しかしこれが「神仏混淆」と批判され、廃仏毀釈運動では、これら仏体のご神体を強制的に取り除き、新たに神鏡などをつくって祀らせた。さらに、民衆が自然発生的に祀っていたものなどは、「由緒が明らかでない」として近くの神社に合祀させた。八幡宮や諏訪社などは一郡の中に何十箇所もあったため、一村に一つあるいは二つと定めて他を強制的に合併させるなどした。寺社のリストラは、人々の信仰とは無関係に、神社を整理統合していった。
後期廃仏毀釈になると、より積極的に信仰が改変されていく。「復古神道」の実現を名目として、『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に書かれていない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが実施されるのである。
例えば、鹿児島の宇宿に今も残る「天之御中主神社」は、元は「妙見神社」であった。しかし「妙見さま」は『古事記』等には出てこない土着の信仰だ。復古神道では、そのような神は存在してはならなかった。「妙見さま」は北極星の信仰であったため、天の中心ということで『古事記』に登場する天之御中主と同一視することになり、祭神を「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」にすげ替えることによってこの神社は存続した。こうして「天之御中主神社」が生まれた。それまでの信仰は否定され、新しい神が鎮座した。明治5年頃のことである。
島津氏の尊崇も篤かった妙見神社でさえこれだから、民衆の信仰が「淫祠邪教」とされて蹂躙されるのは時間の問題だった。本来の神社への信仰は破壊され、首だけがすげ替えられた新しい神社が勃興した。 ただ「山の神」として崇められていた祠は「大山祇神社」、「祇園天王」は「八坂神社」となるなど、社名と祭神が暴力的に画一化されていった。
こうしたことは全国的に起こっている。ただし神社の改称を徹底的に行ったのは一部の地域に限られるようだ。あまり熱心に行わなかった地域では、政府の指導に表向きには従ったが、網羅的な改変まではやらなかった。もちろん鹿児島は、最も激しく、徹底的に行った地域の一つである。
神社の改変は、当然ながら信仰の改変をも伴った。元来の神道には教義らしい教義がない。神道は倫理的な教えではなかったし、自己を陶冶していく教えでもなかった。そこにあったのは、潔斎の勧めと死穢を避ける儀式、豊穣を祈り収穫に感謝する儀礼といった、自然のサイクルにまつわる信仰であった。しかしそういったものは、新しい神道には形式的にしか引き継がれなかった。
新しい神道は、民衆の信仰を「祖先崇拝」と「皇祖崇拝」に一元化し、忠君愛国のために身を捨てるように勧めるものであった。後には、天皇・国家のために殉死することが最高の幸せであるとまでされたのである。新しい神道は、「国民」を天皇中心国家の一兵卒として教化するためのものであった。
鹿児島の廃仏毀釈においては、後に「惟神の道(かんながらのみち)」、そして「国家神道」と言われるようになるこうした新しい神道はまだはっきりとその姿を現しているわけではなかったが、『神習草』の配布などを考えると、間違いなくその先鞭をつけていた。
このように、鹿児島の廃仏毀釈は寺院を徹底的に消し去ったのみならず、神社をも大規模に整理統合し、その信仰を強制的に改変してしまった。確かに仏教が蒙った被害も甚大であった。しかし仏教はそれを乗り越えて、再興することができた。しかし元来の神道が有していた信仰は、明確な教義に基づくものでなかったために、一度破壊されると元の姿が分からなくなった。民衆の自然発生的な信仰はどこにも記録されていなかったから、一度失われるともはや再興は不可能だった。
鹿児島の廃仏毀釈、そして政府の神仏分離政策は、表面的にはあからさまな神道優遇、仏教排斥の政策であったが、その内実を見てみると神道が蒙った被害は取り返しがつかないもので、その意味では仏教に対してよりも大きな打撃が加えられたのである。
鹿児島の後期廃仏毀釈を主導した田中頼庸が、こうした神道の改変にどの程度携わっていたのかは、史料が残っておらずわからない。しかし状況証拠を付き合わせてみれば、このような強力な宗教改革運動を成し遂げられるのは頼庸以外いない。
明治4年の廃藩置県を迎えても、田中頼庸は所属を藩庁に変えてしばらく同種の仕事をしていたらしい。というのは、鹿児島県令として赴任してきた大山綱良が彼の叔父であったため、その縁から藩庁に勤めていたようである。
ところが同年、中央政府に教部省が設置されたことに伴い、田中は職を辞して同省に教部大録として出仕した。今で言えば中堅官僚、課長クラスである。鹿児島で宗教改革に邁進した田中頼庸が、今度は中央政府に取り立てられたのである。栄転と言わなければならない。
彼の建白に基づいて明治天皇が鹿児島で神代三陵を遙拝するのが、約1年後のことであった。
(つづく)
【参考文献】
『鹿児島県史 第3巻』1941年、鹿児島県 編
『薩藩勤王思想発達史』1924年、坂田長愛(講演記録)
『神道指令の超克』1972年、久保田 収
『靖国神社』1984年、大江 志乃夫
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
『垂水市史 上巻』1974年、垂水市史編集委員会 編
2018年5月17日木曜日
2018年5月8日火曜日
日新公没後450年と、草の根の「日新公いろは歌フォトブック」
2018年は、日新公没後450年である。
日新公とは、島津日新斎忠良(じっしんさい・ただよし)。島津中興の祖と言われる、加世田ゆかりの戦国時代の名君である。
日新公の生きた時代は戦乱の世であった。鹿児島でも、敵と味方が入り交じり、各勢力がモザイクのように絡み合っていた時である。日新公は伊作島津家に生まれたが、幼い頃、父・伊作善久(よしひさ)が弑逆(しぎゃく:臣下に殺されること)され、また祖父・久逸(ひさはや)も戦で討ち死にして厳しい境遇に置かれた。
しかしやがて相州島津家の島津運久(よきひさ)が日新公の母・常磐を妻として迎え入れる。こうして若い日新公は伊作島津家と相州島津家という2つの島津分家の双方の当主となり、田布施(金峰町)の亀ヶ城を居城とした。
この頃は島津家同士が争い合っていた。いわば親類同士での殺し合いである。日新公の相州島津家、薩州島津家、そして島津本家の三つ巴の争いであった。当初は薩州島津家の島津実久(さねひさ)が優勢であったが次第に日新公が勝利を重ね、遂に天文7年(1538年)、薩摩半島南部の実久の拠点だった加世田を夜襲により攻略。時を同じくして日新公の子・貴久も鹿児島方面で実久勢を斥け、日新公・貴久親子は相争っていた島津家を統一した。
こうして日新公が島津家を統一したことにより、島津家は強力な勢力として成長していく。子の貴久は日新公の死後薩摩国を平定。また孫にあたる「戦国薩摩四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)」の時代には、薩摩・大隅・日向の南九州3カ国を統一し、薩摩藩の基礎となった。
日新公は、このように優れた武将であったが、彼が尊崇を受けたのはそればかりが理由ではなかった。例えば領地では産業の振興に努め、仁政を施したので領民が喜んだというし、さらに日新公は文化を保護し、学問を振興した。彼自身も幼い頃、真言宗の海蔵院というお寺に預けられて厳しい教育を受けており、さらに長じてからも桂庵玄樹の学統を継ぐ学僧から禅や儒学を学んだ。
そうした学問が基盤となっていたのだろう。日新公は家督争いの最中にも、激戦地となった各地で敵味方問わず戦没者を供養する仏事を挙行し、六地蔵塔を建てた。血を分けた親類同士が殺し合うのだから勝利しても後味は悪く、寂寞とした思いがあったのではないかと思う。だから戦が終われば敵味方を区別せず供養を行った。加世田に残る六地蔵塔はその一つである。
また、日新公は加世田の攻略後しばらくして、幼少期から学んだ儒学や仏教の哲理をいろは47文字で始まる和歌集にまとめた。これは「いにしへの道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」から始まる心を鍛える教えであり、後に薩摩藩士の子弟教育の根幹として用いられた。
すなわち日新公は、相争っていた島津家を統一するとともに薩摩国平定の道筋をつけたという軍事的・政治的な業績と、教育・文化を保護し「日新公いろは歌」という薩摩藩士の道徳の基礎となる教えを編んだという2面において、後の薩摩藩の基礎をつくった人物なのである。
そんな日新公が亡くなってから、2018年で450年になる。
日新公が晩年隠居したのが加世田で、また死後には現在の竹田神社のところにあった日新寺(当時は保泉寺という)に葬られていることから、日新公と加世田との縁は深く、今年はいくつかの記念事業が計画されているようである。特に7月21日~23日は「日新公ウィーク」とされ、仙巌園では7月21日に「三州親善かるた取り大会」があるそうだ。この「かるた」はもちろん「日新公いろは歌」を使う。
そういった行政が計画しているものとは別に、市民からの自然発生的な取り組みもある。その一つが、冒頭写真に掲げた「日新公いろは歌フォトブック」。
南さつま市各所の風景写真とともに「日新公いろは歌」が解説つきで掲載されている。「いろは歌」の解説チラシは行政なども作っているが、こうして風景とともに眺めるとまた違った雰囲気になると思う。
実は私自身も、以前「日新公いろは歌」に興味をもってまとめたことがある。
【参考記事】郷中教育の聖典、日新公いろは歌
しかし内容について考えるだけで、こういう風に端正にまとめて若い人にも受け入れられる形にするということは思いもよらなかった。 行政が作っている解説チラシはあまり読む気がおきないものだが、これなら興味がない人でも手に取りやすいと思う。
また、内容には「いろは歌」だけでなく、日新公やゆかりの史跡について簡単にまとめてあり、観光の記念・おみやげにちょうどよい。こういう資料があると、あとで思い出そうという時に役立つ。
ちなみにこのフォトブック、「砂の祭典」で1冊500円で販売していたので私はそこで買ってきた。今後は物産館などでの販売を計画しているということである。
このフォトブックを作っているのは、「ミナミナマップ」という地域情報発信プロジェクト。今風に言えば「WEBメディア」。WEBでの発信だけでなく、本体活動である南さつま市のマップづくりや、お土産づくりといった様々な活動を展開中である。
最近、自分の研究(鹿児島にはなぜ神代三陵が全てあるのか等)に時間を取られて、このブログの更新があまり出来ていないので、南さつま市の情報を欲している方はこちらのブログやFacebook等のSNSをフォローすることをオススメしますよ。
【ミナミナマップ】
Blog:https://minaminamap.blogspot.jp/
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WEB サイト:https://sites.google.com/view/minaminamap/
※この他紙のマップがありますがそれについては気が向いたら後日書きます。
日新公とは、島津日新斎忠良(じっしんさい・ただよし)。島津中興の祖と言われる、加世田ゆかりの戦国時代の名君である。
日新公の生きた時代は戦乱の世であった。鹿児島でも、敵と味方が入り交じり、各勢力がモザイクのように絡み合っていた時である。日新公は伊作島津家に生まれたが、幼い頃、父・伊作善久(よしひさ)が弑逆(しぎゃく:臣下に殺されること)され、また祖父・久逸(ひさはや)も戦で討ち死にして厳しい境遇に置かれた。
しかしやがて相州島津家の島津運久(よきひさ)が日新公の母・常磐を妻として迎え入れる。こうして若い日新公は伊作島津家と相州島津家という2つの島津分家の双方の当主となり、田布施(金峰町)の亀ヶ城を居城とした。
この頃は島津家同士が争い合っていた。いわば親類同士での殺し合いである。日新公の相州島津家、薩州島津家、そして島津本家の三つ巴の争いであった。当初は薩州島津家の島津実久(さねひさ)が優勢であったが次第に日新公が勝利を重ね、遂に天文7年(1538年)、薩摩半島南部の実久の拠点だった加世田を夜襲により攻略。時を同じくして日新公の子・貴久も鹿児島方面で実久勢を斥け、日新公・貴久親子は相争っていた島津家を統一した。
こうして日新公が島津家を統一したことにより、島津家は強力な勢力として成長していく。子の貴久は日新公の死後薩摩国を平定。また孫にあたる「戦国薩摩四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)」の時代には、薩摩・大隅・日向の南九州3カ国を統一し、薩摩藩の基礎となった。
日新公は、このように優れた武将であったが、彼が尊崇を受けたのはそればかりが理由ではなかった。例えば領地では産業の振興に努め、仁政を施したので領民が喜んだというし、さらに日新公は文化を保護し、学問を振興した。彼自身も幼い頃、真言宗の海蔵院というお寺に預けられて厳しい教育を受けており、さらに長じてからも桂庵玄樹の学統を継ぐ学僧から禅や儒学を学んだ。
そうした学問が基盤となっていたのだろう。日新公は家督争いの最中にも、激戦地となった各地で敵味方問わず戦没者を供養する仏事を挙行し、六地蔵塔を建てた。血を分けた親類同士が殺し合うのだから勝利しても後味は悪く、寂寞とした思いがあったのではないかと思う。だから戦が終われば敵味方を区別せず供養を行った。加世田に残る六地蔵塔はその一つである。
また、日新公は加世田の攻略後しばらくして、幼少期から学んだ儒学や仏教の哲理をいろは47文字で始まる和歌集にまとめた。これは「いにしへの道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」から始まる心を鍛える教えであり、後に薩摩藩士の子弟教育の根幹として用いられた。
すなわち日新公は、相争っていた島津家を統一するとともに薩摩国平定の道筋をつけたという軍事的・政治的な業績と、教育・文化を保護し「日新公いろは歌」という薩摩藩士の道徳の基礎となる教えを編んだという2面において、後の薩摩藩の基礎をつくった人物なのである。
そんな日新公が亡くなってから、2018年で450年になる。
日新公が晩年隠居したのが加世田で、また死後には現在の竹田神社のところにあった日新寺(当時は保泉寺という)に葬られていることから、日新公と加世田との縁は深く、今年はいくつかの記念事業が計画されているようである。特に7月21日~23日は「日新公ウィーク」とされ、仙巌園では7月21日に「三州親善かるた取り大会」があるそうだ。この「かるた」はもちろん「日新公いろは歌」を使う。
そういった行政が計画しているものとは別に、市民からの自然発生的な取り組みもある。その一つが、冒頭写真に掲げた「日新公いろは歌フォトブック」。
南さつま市各所の風景写真とともに「日新公いろは歌」が解説つきで掲載されている。「いろは歌」の解説チラシは行政なども作っているが、こうして風景とともに眺めるとまた違った雰囲気になると思う。
実は私自身も、以前「日新公いろは歌」に興味をもってまとめたことがある。
【参考記事】郷中教育の聖典、日新公いろは歌
しかし内容について考えるだけで、こういう風に端正にまとめて若い人にも受け入れられる形にするということは思いもよらなかった。 行政が作っている解説チラシはあまり読む気がおきないものだが、これなら興味がない人でも手に取りやすいと思う。
また、内容には「いろは歌」だけでなく、日新公やゆかりの史跡について簡単にまとめてあり、観光の記念・おみやげにちょうどよい。こういう資料があると、あとで思い出そうという時に役立つ。
ちなみにこのフォトブック、「砂の祭典」で1冊500円で販売していたので私はそこで買ってきた。今後は物産館などでの販売を計画しているということである。
このフォトブックを作っているのは、「ミナミナマップ」という地域情報発信プロジェクト。今風に言えば「WEBメディア」。WEBでの発信だけでなく、本体活動である南さつま市のマップづくりや、お土産づくりといった様々な活動を展開中である。
最近、自分の研究(鹿児島にはなぜ神代三陵が全てあるのか等)に時間を取られて、このブログの更新があまり出来ていないので、南さつま市の情報を欲している方はこちらのブログやFacebook等のSNSをフォローすることをオススメしますよ。
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※この他紙のマップがありますがそれについては気が向いたら後日書きます。
2018年4月4日水曜日
神道国家薩摩——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その10)
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島津忠義夫人照子(暐姫)の墓(川田達也氏撮影) |
藩内にあった1066ヶ寺が全て廃され、2964人の僧侶は全員が還俗させられた。仏教的なるものは悉く毀(こぼ)たれ、鹿児島から一掃された。日本国中を見ても、これほど徹底的な仏教の破壊が行われたのは稀である。
この後期廃仏毀釈は、明治政府の「神仏分離令」(慶応4年3月)を発端として始まったが、当初は前期廃仏毀釈の延長線上の運動であったらしい。それが、藩内に一寺も残さない、怖ろしいまでに徹底的な運動となっていったきっかけは、田中頼庸の建言だったという。
後に鹿児島県令となった渡辺千秋が、田中頼庸の著書『鹿児島紀行』に寄せた序文でこう述べている。
「(頼庸は)平素敬神愛国の道を講じ、尊内卑外の説を持つ。深く仏教の蠧害(とがい)を嫉み、排斥余力を遺さず。此を以て自ら任じ、遂に慨然として廃仏の議を島津久光に進む。物論之を為すに洶洶(きょうきょう:どよめき騒ぐ)たり、蓋し仏教の浸淫積弊は払うべからず。而して久光は断じて其の議を納れ、廃仏令を封内に布く」(原文旧字・漢文)
これによると、頼庸は仏教を排斥する事業に携わったが、廃仏——すなわち仏教の全廃を島津久光に建言し、それが世論に動揺を与えたものの、久光は敢然それを受け入れ「廃仏令」を布いたという。
事実、明治元年、頼庸は「神社奉行」にも任命され、廃仏毀釈の主担当者となっていた。そしてこの建言は、市来四郎らのそれと比べれば分かるように、もはや財政上の理由などおくびにも出さず、はっきりと「仏教の蠧害」が問題であるとしている。仏教が国を蝕んでいる害毒であるというのである。頼庸の建言によって廃仏毀釈は「寺社のリストラ」を超え、宗教的な破壊行為へとエスカレートしていった。
これを受けて久光が布いた「廃仏令」とは、明治元年9月に桂久武の名で出されたもので、藩内の寺院を大規模に統合整理し、神社における仏教的要素を取り除いて神道一筋にするという命令である。これによって藩内の寺院は強制的に統廃合させられ、明治2年秋に藩内に残っていたのは、歴代藩主の菩提寺や祈願所といった島津氏ゆかりの名刹28ヶ寺のみになった。この時点で97%の寺院が廃寺処分になったことになる。
しかし、これすらも廃仏毀釈運動の一面に過ぎなかった。というのは、仏教を破壊するだけが頼庸らの目的ではなかったからだ。彼らの真の目的は、神道を国教化することにあった。廃仏毀釈は、生活のあらゆる面から仏教的色彩を取り除き、そこに神道という新しい信仰を植え付けるための宗教的空白を生みだすために行われたのである。
「神道国教化」の一つの転機となったのが、若くして亡くなった藩主島津忠義夫人の照子の葬儀を「神葬祭」によって行ったことであった。明治2年3月のことである。この「神葬祭」は、島津一族が神道へ公式に転宗したことを意味した。もはや仏教は、島津一族にとっても異教となった。
それまで、歴代藩主はもちろん、庶民に至るまで葬式といえば悉く仏式であった。歴代藩主の墓所も、寺院に存在していた。それが、寺院を保護する最後の箍(たが)でもあった。しかし島津一族が神道に転宗したことにより、もはや寺院を保護する理由はどこにも存在しなくなった。
城内の護摩所や看経所(かんきんじょ)は4月か5月には廃止された。仏教的な祈祷の否定である。さらに6月には代々の藩主霊祭を神式で行うこととした。こうしてまずは藩主自らが仏教を棄て神道に帰依し、それは追って民間へも強制された。
葬祭は全て神式によるものとされ、盂蘭盆会は仏教的だからと禁止された。
こうした神道国教化政策の行き着くところ、最後まで残された名刹28ヶ寺をも破壊せずにはおかなかった。
こうして島津家の菩提寺であった「福昌寺」までもが廃寺となり、代わりに歴代藩主の霊を祀る「鶴嶺(つるがね)神社」が「南泉院」跡に創建された。他、島津忠良(日新斎)の墓所「日新寺」は「竹田神社」となり、島津貴久の「南林寺」は「松原神社」、 島津義弘の「妙円寺」は「徳重神社」とするなど、歴代の藩主までも遡って神道に改宗させた。
この帰結として、例えば島津斉彬はその死後、戒名(順聖院殿英徳良雄大居士)から「順聖院(じゅんしょういん)さま」と呼ばれていたが、この仏教による戒名も廃され、斉彬は「明彦神勲照国命」となった。このように、歴代藩主の戒名が撤廃されて墓標から削り取られ、神名が新たにつけられてそこに刻まれた。仏教に帰依してきた歴史、仏教によって菩提を弔ってきた歴史すらも否定して、つくりかえてしまったのであった。
そして明治3年の末までに、鹿児島から寺院はおろか仏教的なるもの全てが消し去られた。
しかし、仏教を一掃したからといって、人々が神道に帰依するかというとそんなことはない。神道という新たな信仰を建設しないことには、神道国教化は成し遂げられないのである。実は、その領民教化の役割を担ったのが、頼庸が在籍した「国学局」だったのである。頼庸は、一方では「神社奉行」として廃仏毀釈を断行し、一方では「国学局」の都講として神道の理論を現実化することに務めた。
国学局の第一の仕事は、神道解説書である『敬神説略』の刊行であった(明治3年2月(一般への販売は10月))。著者は、後醍院真柱の門人で国学局学頭助の関盛長。本書は「神国の人の限りは神の御恵の中に胎れて(中略)よしなき外国の妖々しき蕃神等が世話になるべき事ならぬ」「今や皇政御復古、神武天皇御創業の始に復せらるとの勅命により、神仏混淆の御社をはじめ何事も清浄なる皇国風の神髄なる道に復させたまひ(中略)往年より無用の寺院は廃棄合院の命令を下し給ひて、御祖神をも殊更に神と崇め祭らせ給へば…」と述べ、廃仏毀釈を正当化し、それに替えて「神国」としての敬神観念を植え付けようとするものであった。
さらに翌月には、『敬神説略』のダイジェスト版とも言うべき『神習草』(白男川済之丞、白男川民次郎著)を刊行。本書ではまず神話の大略を述べた後、「貴賤上下となく何れも神代の神孫亦御代御代の天皇の御枝葉の裔孫」であるからひたすらに敬神に務めよと述べ、さらに神道の具体的実践の方法として、毎朝神拝をすることを勧めるとともに、伊勢神宮と祖先を拝する祝詞を掲載している。そして、藩ではこれを全戸に一部ずつ配布して、朝夕拝読させようとした。
実際に、藩庁が『神習草』を全戸配布したかはよく分からない。また全戸と言っても、おそらく百姓などは文盲も多かったため除外されており、城下の限られた範囲であると思われる。しかし、この神道実践の勧めとも言うべき小著を広く配布したのは事実であろう。さらに藩庁では、毎月3日を「国書講義の日」と定めて国学の講義を定期的に行うこととし、五等官以上の聴講を命じた。この講義が国学局によって行われたことは言うまでもない。
こうして、(1)島津一族の神道への転宗、(2)全寺院の廃仏、(3)葬儀の神道式への転換、(4)神道書の刊行と一般への配布、(5)神道儀礼の強い勧奨、といったことが明治2年から矢継ぎ早に実行された。後期廃仏毀釈は、鹿児島から仏教を一掃するだけでなく、神道を国教化するという構想が推し進められ、それは「宗教改革」と呼んでよいものであった。この宗教改革によって「神道国家薩摩」が一応の完成を見たのが、明治3年の末のことである。
この政策は島津久光の強力なリーダーシップによって実現されたものであることは疑いない。そして神道の祭式を新たに定めたり、廃仏の理論を提供する上で大きく働いたのが田中頼庸だった。かつて社会から距離を置き、勉学だけに生きた頼庸は、いつのまにか社会そのものを根底から変える仕事に手を染めていた。
(つづく)
【参考文献】
『鹿児島紀行』1888年、田中頼庸
『神道指令の超克』1972年、久保田 収
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
『鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
『島津忠義公史料第7巻』1980年、鹿児島県維新史料編さん所編
『神習草』白男川済之丞、白男川民次郎
2018年3月25日日曜日
薩摩の国学と廃仏毀釈——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その9)
田中頼庸(よりつね)は、鹿児島で明治の改元(慶応4年、1868年10月)を迎えた。
そして翌明治2年、版籍奉還の後に藩校造士館「国学局」が設立され、頼庸はその都講として起用された。国学局は、学頭・学頭助・都講・授講以下の職員で構成されており、頼庸の待遇は今で言う教授クラスだったのではないかと思われる。貧窮の独学者にとって、大抜擢とも言える人事だった。
この国学局とは何だったのだろうか。そして頼庸はなぜ国学局の都講として抜擢されたのか。このあたりの事情についてはほとんど知られていない。そこで時間を遡って、鹿児島の国学を巡る事情について振り返ってみたい。
元来、薩摩は国学との関わりは薄い土地であった。
全国に数多くの門人をもった本居宣長の元へも、薩摩・大隅からはただの一人も入門していない(ただし薩摩藩領だった諸県郡高岡郷出身の者が3人だけ入門)。宣長の人気がなかったというよりも、国学は薩摩では禁止されていたらしい。平田篤胤と島津重豪には交流があったというが、篤胤に入門しようとした後醍院真柱(みはしら)が天保10年、眼病治療を口実に上京したことを考えても、薩摩では国学は異端とされおおっぴらには学べなかったようだ。
そんな中、薩摩に国学を導入したのは島津斉彬だった。斉彬は嘉永4年の襲封後、鹿児島に帰着するとすぐに八田知紀、関勇助、後醍院真柱らに社寺陵墓の取調べを申しつけた。嘉永朋党事件で弾圧された国学グループが、一躍藩主の直轄事業に起用されたのである。これは後の廃仏毀釈や神代三陵の画定に繋がる調査とみられる。
一般には、斉彬といえば蘭癖——西洋思想の信奉者だったと思われており、それは事実である。しかし斉彬は洋学と同じくらい、国学や勤皇思想を鼓吹した。斉彬は「天子より国家人民を預かり奉り候」といい、土地人民は元来は(幕府ではなく)朝廷より預かったものという認識を示した最初の薩摩藩主だった。
また斉彬は、藩校造士館で国学が講じられていないことを不満とし、後醍院真柱を造士館の訓導として起用し古学(古典、六国史、律令格式等)に力を入れさせた。さらにそれでは不十分と思ったのだろう、漢学を教える造士館と並んで国学館・洋学館を創設することを企図した。この計画は斉彬の突然の死によって実現はしなかったが、西洋の技術と日本の精神を両方重んずる斉彬の考え方をよく示していた。
こうなってくると、新時代の思潮として薩摩藩でも国学が人々の注目を集めるようになる。後に「誠忠組」を形成することになる若者たちにも、国学への意欲がわき上がったことだろう。事実「誠忠組」の中で、大久保利通の親友だった税所篤、組中で最も家格が高く頭の位置づけにあった岩下方平(みちひら)は平田篤胤の没後門人となっている。
また、「誠忠組」では篤胤の『古史伝』(37巻)を回し読みしていたが、これを聞いた島津久光は『古史伝』を所望。大久保らは『古史伝』を少しずつ久光に提出するとともに、天下の形勢や自分たちの意見の書状をそこに挟み込んで久光へ建言していたという。
久光が『古史伝』を大久保らに所望したことを考えると、久光は国学を体系的に学んだことはなかったようだ。しかし彼は幼い頃から闇斎学に親しんでいた。これは朱子学の一派で廃仏的な傾向を持つ儒学であり、創始者山崎闇斎は神道と儒教を融合させた垂加神道を提唱してもいる。この闇斎学は、薩摩に国学が興る前かなり広まっていた教えであり、薩摩の尊皇思想の源流の一つであった。もともと久光は学問的な性格で和漢の書籍に通じ、斉彬もその見聞の広さと記憶力には舌を巻いていたくらいである。歴史好きだった久光が古学を中心とする国学へ傾倒してゆくのは自然のなりゆきだったろう。
かくして、かつて異端として斥けられていた国学が藩主斉彬によって藩学へ採用され、久光がそれを加速させた。平田篤胤の門下には薩摩人が集い、特に文久2年からは激増している。本居宣長の門人には一人の薩摩人もいなかったのとは隔世の感がある。こうして薩摩の地には平田派の国学が盛行し、遂に廃仏毀釈へと突き進んでいった。国学者たちは、古来より続く神道こそが至純であり、仏教は外来の邪教であると考えたからであった。今や仏教こそが異端とされた。
鹿児島の廃仏毀釈は、大きく前後2期に分けられる。前期が明治維新前、後期が維新後である。
前期廃仏毀釈は、久光の側近だった市来四郎や黒田清綱、橋口兼三といった少壮のものたちが家老桂久武に建言することで始まった。彼らが言うには、この切迫した時勢にあって僧侶や寺院は無用なものであるから、僧侶は還俗させてもっと役に立つ仕事に就かせ、寺院の財産は没収するのがよいと。この建白はすぐに藩主島津忠義と久光に受け入れられ、慶応2年5月には寺院廃合取調掛の任命があった。任命されたのは、家老桂久武を初め、島津主殿(大目付兼寺社奉行)、橋口与一郎(記録奉行)、市来四郎(寺社方取次)他多数であり、既に60代だった後醍院真柱(学校助教授)もそのうちの一人として理論的支柱となった。
この前期廃仏毀釈は、桂久武を初め市来四郎など藩の財務担当者によってリードされたことに象徴され、また建白でもはっきりとそう述べている通り、思想的なものというよりは、財政上の施策という性格が強かった。市来四郎などが元々廃仏的な考えを持っていたのは事実としても、少なくとも名目上は財政的な問題への対処という形を取ったのである。というのは、この頃の薩摩藩はかなりの金欠に陥っていたのだ。
薩摩藩はかつて500両ともいう天文学的な借金を抱えていたが、調所広郷の改革によってこれが好転し、斉彬就任時には50万両を超える蓄財をなすに至っていた。斉彬は集成館事業などでこのうち7万5千両ほどを費消したと見られるものの、それでもまだ財政が逼迫しているとは言えなかった。
また、久光は文久2年に幕府へ「三事策」を突きつけた際、合わせて鋳銭の許可を得ている。これにより市来四郎が主任となり「琉球通宝」を鋳造し、またその裏で「天保通宝」を贋造した。文久2年から慶応元年まで合計290万両もの貨幣を造って3分の2もの巨利を得、藩財政を潤したという。
ところが幕末に向かうにつれて、藩財政は急速に悪化していった。薩英戦争や軍事増強、集成館事業の再建、留学生の派遣など、薩摩を急ごしらえの「近代国家」とするために度外れた経費が必要だったからだ。
生麦事件の賠償金(扶助料)2万5千ポンド(6万333両余)は幕府から借財してそのままになったが、戦争時にイギリス艦隊に焼かれた汽船3隻は合わせて30万両もした。薩摩藩は薩英戦争後にも13隻の汽船を購入しており、戦争前に購入していた4隻と合わせて計17隻もの蒸気船を購入している。これは幕府以外では諸藩において筆頭の購入数であり、この費用が巨額だったことは想像に難くない。
さらに斉彬死後に中断し、また薩英戦争で破壊された集成館事業も再建しなくてはならなかった。洋風の石造りによる機械工場が建設され、周辺には鋳物工場、木工工場等が次々に建てられた。蒸気機関や各種工作機械により大砲や弾丸の製造、艦船の修理などが行われた。さらにそうした機械類を使う技術者の育成や、洋式軍事技術の修練にも取り組み、慶応元年には総勢19名を海外渡航の幕禁を犯して海外留学させた。慶応3年には留学生の一人五代友厚が中心となり我が国最初の洋式紡績工場を鹿児島の磯に建設してもいる。
こうした意欲的な事業を支弁するための経費は厖大となり、遂に薩摩藩では慶応4年、オランダ貿易会社のボードインから洋銀76万ドルを借り入れた。薩英戦争時には幕府に用立ててもらうことも出来たが、慶応年間にはもはや幕府とは敵対的な関係になっており、とても幕府から借金することなど不可能なのだ。藩内から、どうにかお金をかき集めなくてはならないのである。財務担当だった桂久武や市来らが、無為徒食と見なした寺院に注目したのは必要に駆られてのことだったであろう。市来は廃仏毀釈が行われる以前に、鋳銭の材料を確保するため寺院の梵鐘を供出させることを構想していたほどだった。
こうして鹿児島の廃仏毀釈が始まった。
まず、藩内の寺院の調査が行われた。その結果、寺院数1066ヶ寺、寺院所領石高15118石、僧侶総数2964人、神社数4470社、堂宇総数4286宇であり、藩庫より寺社にあてがう玄米や寺社の山林等地所の免租といった負担を合算すれば10万余石、寺院を廃してその梵鐘仏具等を処分すれば銅10万余両を得ることとなる、というのである。
俗に「薩摩77万石」といっても実際には水田に適した土地は少なく、薩摩藩の正味生産高は35万石程度だったと見られているから、10万石以上の節約ができるとすれば財政を大幅に好転させることができる。
廃仏毀釈は、まずは大寺院の支坊末寺を廃することと、神社の別当寺院を廃することから始められたらしい。大寺院の支坊末寺というのは、例えば常駐の住職がなく石高もない寺院といったものも多く、そうしたところは廃寺への抵抗も少ないと見たのだろう。そして別当寺院というのは、神社を管理する寺院のことで、廃仏毀釈以前は神社といえばむしろこの別当寺院の方に神社の管理機能が備わっていることが多かった。神社は僧侶によって保たれていたのである。これを廃することは神社から仏教的要素を除去することを意味し、明治政府の神仏分離政策が行われる前に薩摩では神仏分離が実施されていることが注目される。
前期廃仏毀釈による廃寺は、慶応2年秋頃から始まり慶応3年をピークとしたようだ。しかしこの頃の廃仏運動は、さほど暴力的なものではなかったようである。名目上はあくまでも財政上の理由で寺院を取りつぶすという政策であり、反発を招いて労力や予算を使うとなれば本末顚倒と見なされかねなかったため、いわば遠慮がちに行われた。市来四郎が後年「職人等が怪我でもすると人気に響きますから、念入れて指揮致させました」と述べているように、「人気」を気にしながらやっていたようなのだ。
というのは、当然ながら寺院勢力を中心にして廃仏毀釈への反発がかなりあった。ある者は密かに仏像を持ち出して避難させ、ある者は復興を期して形式的にのみ廃寺を承知した。そしてこれらの反発によって、ついにこの事業は挫折する。
大乗院僧正、南泉院僧正、千眼寺僧を説諭して還俗させようとしている時、たまたま殿中の婦人がそこで祈祷に居合わせていたのだ。そしてこの婦人と侍臣、僧侶が謀って「讒誣内訴」したことで、「事激越に過ぎ、達名を矯むるの過失」により島津主殿(寺社奉行)他数名が更迭された。記録が曖昧だが、翌年休職しているところを見ると市来四郎もこのときに更迭されたようだ。
市来らの側から見れば彼らの訴えは「讒誣内訴」だったが、きっとこのことだけが彼らの更迭の理由ではなかっただろう。廃仏毀釈を進める上で各地で引き起こされたに違いない軋轢が更迭の真因だったように思われる。藩政権は「人気」を考えて、関係者を更迭せざるを得なかったのではないか。
こうして運動の中心人物が更迭されたこと、そして慶応4年の初めに戊辰戦争が勃発したことで藩内はそれどころではなくなり、この前期廃仏毀釈はひとまず休止された格好になった。この前期廃仏毀釈でもかなりの数の寺院が廃されたようであるが、そもそもこの時までは寺院の全廃ということまでは考えていなかった模様である。後年、後醍院真柱も「南林寺福昌寺の如き由緒あるは永存せしむべき方針」であったと述懐している。
この前期廃仏毀釈運動は、数多かった寺院・神社を集約させて整理し、その財産を没収することに主眼があった。いわば寺社のリストラであり、廃仏——すなわち仏教の一掃ということまでは考えていなかったと見られる。しかし維新後の後期廃仏毀釈では、これが狂信的なまでの廃仏運動になっていくのである。
(つづく)
【参考資料】
『島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
『島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
『神道指令の超克』1972年、久保田 収
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
『薩摩 民衆支配の構造』2000年、中村明蔵
『鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
『廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち[改訂版]』 2003年、佐伯恵達
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
「薩摩ニテ寺院ヲ廃シ神社ヲ合祭セシ事実」[史談会速記録第十三輯](市来四郎談話速記)(『島津忠義公史料第1巻』所収)
そして翌明治2年、版籍奉還の後に藩校造士館「国学局」が設立され、頼庸はその都講として起用された。国学局は、学頭・学頭助・都講・授講以下の職員で構成されており、頼庸の待遇は今で言う教授クラスだったのではないかと思われる。貧窮の独学者にとって、大抜擢とも言える人事だった。
この国学局とは何だったのだろうか。そして頼庸はなぜ国学局の都講として抜擢されたのか。このあたりの事情についてはほとんど知られていない。そこで時間を遡って、鹿児島の国学を巡る事情について振り返ってみたい。
元来、薩摩は国学との関わりは薄い土地であった。
全国に数多くの門人をもった本居宣長の元へも、薩摩・大隅からはただの一人も入門していない(ただし薩摩藩領だった諸県郡高岡郷出身の者が3人だけ入門)。宣長の人気がなかったというよりも、国学は薩摩では禁止されていたらしい。平田篤胤と島津重豪には交流があったというが、篤胤に入門しようとした後醍院真柱(みはしら)が天保10年、眼病治療を口実に上京したことを考えても、薩摩では国学は異端とされおおっぴらには学べなかったようだ。
そんな中、薩摩に国学を導入したのは島津斉彬だった。斉彬は嘉永4年の襲封後、鹿児島に帰着するとすぐに八田知紀、関勇助、後醍院真柱らに社寺陵墓の取調べを申しつけた。嘉永朋党事件で弾圧された国学グループが、一躍藩主の直轄事業に起用されたのである。これは後の廃仏毀釈や神代三陵の画定に繋がる調査とみられる。
一般には、斉彬といえば蘭癖——西洋思想の信奉者だったと思われており、それは事実である。しかし斉彬は洋学と同じくらい、国学や勤皇思想を鼓吹した。斉彬は「天子より国家人民を預かり奉り候」といい、土地人民は元来は(幕府ではなく)朝廷より預かったものという認識を示した最初の薩摩藩主だった。
また斉彬は、藩校造士館で国学が講じられていないことを不満とし、後醍院真柱を造士館の訓導として起用し古学(古典、六国史、律令格式等)に力を入れさせた。さらにそれでは不十分と思ったのだろう、漢学を教える造士館と並んで国学館・洋学館を創設することを企図した。この計画は斉彬の突然の死によって実現はしなかったが、西洋の技術と日本の精神を両方重んずる斉彬の考え方をよく示していた。
こうなってくると、新時代の思潮として薩摩藩でも国学が人々の注目を集めるようになる。後に「誠忠組」を形成することになる若者たちにも、国学への意欲がわき上がったことだろう。事実「誠忠組」の中で、大久保利通の親友だった税所篤、組中で最も家格が高く頭の位置づけにあった岩下方平(みちひら)は平田篤胤の没後門人となっている。
また、「誠忠組」では篤胤の『古史伝』(37巻)を回し読みしていたが、これを聞いた島津久光は『古史伝』を所望。大久保らは『古史伝』を少しずつ久光に提出するとともに、天下の形勢や自分たちの意見の書状をそこに挟み込んで久光へ建言していたという。
久光が『古史伝』を大久保らに所望したことを考えると、久光は国学を体系的に学んだことはなかったようだ。しかし彼は幼い頃から闇斎学に親しんでいた。これは朱子学の一派で廃仏的な傾向を持つ儒学であり、創始者山崎闇斎は神道と儒教を融合させた垂加神道を提唱してもいる。この闇斎学は、薩摩に国学が興る前かなり広まっていた教えであり、薩摩の尊皇思想の源流の一つであった。もともと久光は学問的な性格で和漢の書籍に通じ、斉彬もその見聞の広さと記憶力には舌を巻いていたくらいである。歴史好きだった久光が古学を中心とする国学へ傾倒してゆくのは自然のなりゆきだったろう。
かくして、かつて異端として斥けられていた国学が藩主斉彬によって藩学へ採用され、久光がそれを加速させた。平田篤胤の門下には薩摩人が集い、特に文久2年からは激増している。本居宣長の門人には一人の薩摩人もいなかったのとは隔世の感がある。こうして薩摩の地には平田派の国学が盛行し、遂に廃仏毀釈へと突き進んでいった。国学者たちは、古来より続く神道こそが至純であり、仏教は外来の邪教であると考えたからであった。今や仏教こそが異端とされた。
鹿児島の廃仏毀釈は、大きく前後2期に分けられる。前期が明治維新前、後期が維新後である。
前期廃仏毀釈は、久光の側近だった市来四郎や黒田清綱、橋口兼三といった少壮のものたちが家老桂久武に建言することで始まった。彼らが言うには、この切迫した時勢にあって僧侶や寺院は無用なものであるから、僧侶は還俗させてもっと役に立つ仕事に就かせ、寺院の財産は没収するのがよいと。この建白はすぐに藩主島津忠義と久光に受け入れられ、慶応2年5月には寺院廃合取調掛の任命があった。任命されたのは、家老桂久武を初め、島津主殿(大目付兼寺社奉行)、橋口与一郎(記録奉行)、市来四郎(寺社方取次)他多数であり、既に60代だった後醍院真柱(学校助教授)もそのうちの一人として理論的支柱となった。
この前期廃仏毀釈は、桂久武を初め市来四郎など藩の財務担当者によってリードされたことに象徴され、また建白でもはっきりとそう述べている通り、思想的なものというよりは、財政上の施策という性格が強かった。市来四郎などが元々廃仏的な考えを持っていたのは事実としても、少なくとも名目上は財政的な問題への対処という形を取ったのである。というのは、この頃の薩摩藩はかなりの金欠に陥っていたのだ。
薩摩藩はかつて500両ともいう天文学的な借金を抱えていたが、調所広郷の改革によってこれが好転し、斉彬就任時には50万両を超える蓄財をなすに至っていた。斉彬は集成館事業などでこのうち7万5千両ほどを費消したと見られるものの、それでもまだ財政が逼迫しているとは言えなかった。
また、久光は文久2年に幕府へ「三事策」を突きつけた際、合わせて鋳銭の許可を得ている。これにより市来四郎が主任となり「琉球通宝」を鋳造し、またその裏で「天保通宝」を贋造した。文久2年から慶応元年まで合計290万両もの貨幣を造って3分の2もの巨利を得、藩財政を潤したという。
ところが幕末に向かうにつれて、藩財政は急速に悪化していった。薩英戦争や軍事増強、集成館事業の再建、留学生の派遣など、薩摩を急ごしらえの「近代国家」とするために度外れた経費が必要だったからだ。
生麦事件の賠償金(扶助料)2万5千ポンド(6万333両余)は幕府から借財してそのままになったが、戦争時にイギリス艦隊に焼かれた汽船3隻は合わせて30万両もした。薩摩藩は薩英戦争後にも13隻の汽船を購入しており、戦争前に購入していた4隻と合わせて計17隻もの蒸気船を購入している。これは幕府以外では諸藩において筆頭の購入数であり、この費用が巨額だったことは想像に難くない。
さらに斉彬死後に中断し、また薩英戦争で破壊された集成館事業も再建しなくてはならなかった。洋風の石造りによる機械工場が建設され、周辺には鋳物工場、木工工場等が次々に建てられた。蒸気機関や各種工作機械により大砲や弾丸の製造、艦船の修理などが行われた。さらにそうした機械類を使う技術者の育成や、洋式軍事技術の修練にも取り組み、慶応元年には総勢19名を海外渡航の幕禁を犯して海外留学させた。慶応3年には留学生の一人五代友厚が中心となり我が国最初の洋式紡績工場を鹿児島の磯に建設してもいる。
こうした意欲的な事業を支弁するための経費は厖大となり、遂に薩摩藩では慶応4年、オランダ貿易会社のボードインから洋銀76万ドルを借り入れた。薩英戦争時には幕府に用立ててもらうことも出来たが、慶応年間にはもはや幕府とは敵対的な関係になっており、とても幕府から借金することなど不可能なのだ。藩内から、どうにかお金をかき集めなくてはならないのである。財務担当だった桂久武や市来らが、無為徒食と見なした寺院に注目したのは必要に駆られてのことだったであろう。市来は廃仏毀釈が行われる以前に、鋳銭の材料を確保するため寺院の梵鐘を供出させることを構想していたほどだった。
こうして鹿児島の廃仏毀釈が始まった。
まず、藩内の寺院の調査が行われた。その結果、寺院数1066ヶ寺、寺院所領石高15118石、僧侶総数2964人、神社数4470社、堂宇総数4286宇であり、藩庫より寺社にあてがう玄米や寺社の山林等地所の免租といった負担を合算すれば10万余石、寺院を廃してその梵鐘仏具等を処分すれば銅10万余両を得ることとなる、というのである。
俗に「薩摩77万石」といっても実際には水田に適した土地は少なく、薩摩藩の正味生産高は35万石程度だったと見られているから、10万石以上の節約ができるとすれば財政を大幅に好転させることができる。
廃仏毀釈は、まずは大寺院の支坊末寺を廃することと、神社の別当寺院を廃することから始められたらしい。大寺院の支坊末寺というのは、例えば常駐の住職がなく石高もない寺院といったものも多く、そうしたところは廃寺への抵抗も少ないと見たのだろう。そして別当寺院というのは、神社を管理する寺院のことで、廃仏毀釈以前は神社といえばむしろこの別当寺院の方に神社の管理機能が備わっていることが多かった。神社は僧侶によって保たれていたのである。これを廃することは神社から仏教的要素を除去することを意味し、明治政府の神仏分離政策が行われる前に薩摩では神仏分離が実施されていることが注目される。
前期廃仏毀釈による廃寺は、慶応2年秋頃から始まり慶応3年をピークとしたようだ。しかしこの頃の廃仏運動は、さほど暴力的なものではなかったようである。名目上はあくまでも財政上の理由で寺院を取りつぶすという政策であり、反発を招いて労力や予算を使うとなれば本末顚倒と見なされかねなかったため、いわば遠慮がちに行われた。市来四郎が後年「職人等が怪我でもすると人気に響きますから、念入れて指揮致させました」と述べているように、「人気」を気にしながらやっていたようなのだ。
というのは、当然ながら寺院勢力を中心にして廃仏毀釈への反発がかなりあった。ある者は密かに仏像を持ち出して避難させ、ある者は復興を期して形式的にのみ廃寺を承知した。そしてこれらの反発によって、ついにこの事業は挫折する。
大乗院僧正、南泉院僧正、千眼寺僧を説諭して還俗させようとしている時、たまたま殿中の婦人がそこで祈祷に居合わせていたのだ。そしてこの婦人と侍臣、僧侶が謀って「讒誣内訴」したことで、「事激越に過ぎ、達名を矯むるの過失」により島津主殿(寺社奉行)他数名が更迭された。記録が曖昧だが、翌年休職しているところを見ると市来四郎もこのときに更迭されたようだ。
市来らの側から見れば彼らの訴えは「讒誣内訴」だったが、きっとこのことだけが彼らの更迭の理由ではなかっただろう。廃仏毀釈を進める上で各地で引き起こされたに違いない軋轢が更迭の真因だったように思われる。藩政権は「人気」を考えて、関係者を更迭せざるを得なかったのではないか。
こうして運動の中心人物が更迭されたこと、そして慶応4年の初めに戊辰戦争が勃発したことで藩内はそれどころではなくなり、この前期廃仏毀釈はひとまず休止された格好になった。この前期廃仏毀釈でもかなりの数の寺院が廃されたようであるが、そもそもこの時までは寺院の全廃ということまでは考えていなかった模様である。後年、後醍院真柱も「南林寺福昌寺の如き由緒あるは永存せしむべき方針」であったと述懐している。
この前期廃仏毀釈運動は、数多かった寺院・神社を集約させて整理し、その財産を没収することに主眼があった。いわば寺社のリストラであり、廃仏——すなわち仏教の一掃ということまでは考えていなかったと見られる。しかし維新後の後期廃仏毀釈では、これが狂信的なまでの廃仏運動になっていくのである。
(つづく)
【参考資料】
『島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
『島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
『神道指令の超克』1972年、久保田 収
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
『薩摩 民衆支配の構造』2000年、中村明蔵
『鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
『廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち[改訂版]』 2003年、佐伯恵達
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
「薩摩ニテ寺院ヲ廃シ神社ヲ合祭セシ事実」[史談会速記録第十三輯](市来四郎談話速記)(『島津忠義公史料第1巻』所収)
2018年3月15日木曜日
田中頼庸と幕末の国学——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その8)
田中頼庸(よりつね)は、独立独歩の人であった。
彼には、師らしい師がいない。というのは、彼の家庭はあまりにも貧しく、入門の費用が払えなかったのだ。
それどころか、本一冊買うこともままならなかった。貧窮の中にいた頼庸を支えたのは学問への情熱であったが、その学問は独学すらも許されなかった。頼庸は手に入る僅かな本を舐めるように読んで、少しずつその内に学問を育てていった。
ところで彼の叔父(母の弟にあたる)に、後に鹿児島県令となる大山綱良がいた。大山は藩内随一の剣客として有名で、この叔父・甥は「田中の文、大山の武」として文武の双璧と並び称されたという。
また、当時鹿児島城下の青年で秀才をもって聞こえたのが、重野安繹(やすつぐ)、今藤新左衛門(宏)、そして田中頼庸の3人だったと伝えられる。頼庸は、ままならぬ独学のみで、やがて人の注目するところとなっていた。
彼は年の近い叔父大山綱良をよく慕い、大山も頼庸を可愛がった。大山は薩摩藩の若手革新派グループである「誠忠組」の中心メンバーの一人であったし、他にも「誠忠組」には頼庸の親友だった高崎五六(高崎正風の従兄弟に当たる)もいた。ところが、頼庸が「誠忠組」に関わった形跡はない。頼庸はこういう徒党には全く与しなかったようだ。彼は、決して友人がいなかったわけではないが、一人学問をすることを好んだ。
それに、田中家は頼庸が遠島を許されてからも、没した父四郎左衛門の処分は解かれておらず、食録もなく、なんら職務に就くことができなかった。学問に打ち込み続けた20代の頼庸は、風雲急を告げる幕末にあって、その異才を発揮する場を持たなかった。
そんな頼庸の人生がにわかに動き出したのが、文久年中のことであった。
おそらくは文久2年のこと、島津久光が一千の兵を率いて京都へ入ったまさにその時のことではないかと思われるが、頼庸は藩命で京都へ上ったのである。何の実績もなかった頼庸が家臣団の一人として抜擢されたのは、秀才との評判はもちろんのこと、大山綱良や高崎正風の推輓があったからに違いない。
京都へ上っても食録は依然としてなく無給状態は続いた。しかし頼庸は、その貧窮の中でもひたすら学問のみに打ち込んだ。
当時の京都は、空前の「政治の季節」を迎えている。各藩から集められた「志士」たちが政論に花を咲かせ、裏に表に策動を繰り返していた時期だ。親友の高崎正風も久光の手足となって政治の表舞台で活躍している。だが彼は、そうした動きとは距離を取っていたように思われる。頼庸には、学問しかなかった。
元々頼庸が打ち込んでいたのは、漢学だった。その漢詩が巧みなことは藩内でも評判だったという。儒学はもちろんのこと、医学にしろ本草学(博物学)にしろ、日本の学問のほとんどは中国からの学問を移植したものであったし、勉学と言えば漢学の素養を身につけることとほぼ同義だったから、頼庸は当時の学問の王道を歩んでいたといえる。ところが頼庸は、京都で「国学」と出会う。
その頃の国学といえば、尊皇攘夷運動の高まりの中で急速に門人を増やし、いわゆる「草莽の国学者」と呼ばれるアクティビスト的な勢力が勃興してきていた。「嘉永朋党事件」で新たな時代の変革理論として予感された国学が、実際に革命の理論へ育っていたのだ。
ここで、これまで特に注釈することもなく使ってきた「国学」とは一体何かということについて、横道に逸れる部分もあるが少し説明しておきたい。
国学の淵源は、古文辞学にある。『万葉集』とか『源氏物語』といった日本の古典文学を読解する学問である。例えば『万葉集』について研究したのが、国学者の嚆矢と言うべき契沖(けいちゅう)である。『万葉集』は「万葉仮名」と呼ばれる特殊な漢字で書かれているが、訓じ方(読み方)が分からない部分が相当あった。真言宗の僧侶だった契沖は、徳川光圀からの依頼を受け、その訓じ方や語義を徹底的に研究した。江戸時代半ばのことである。
その契沖の研究を受け継いだのが、荷田春満(かだの・あずままろ)であり、賀茂真淵(まもの・まぶち)であった。彼らは歌学や古文辞学を研究するうちに、次第に古代人の心に興味が向いていった。古典文学を理解するためには、煎じ詰めれば古代人の心を理解しなくてはならないからだ。こうして、古典文学の研究は、古文辞の研究を越え、古代の日本人の心情や宗教観を理解しようという方向性へと進んでいった。
こうして徐々に出来上がってきた国学を大成したのが本居宣長(もとおり・のりなが)である。契沖が『万葉集』を甦らせたとすれば、宣長はたった一人で『古事記』を蘇生させた。 彼の研究方法は、『古事記』を体得するまで虚心に読むことであった。分析的理解を超え、直観によって古代人の心に肉薄しようとした。そして『古事記』の一文一語について徹底的に考証した研究が『古事記伝』(寛政10年(1798年))である。『古事記伝』は現代の古事記研究の基礎となった。
宣長は古典文学研究に没入することで、やがてそれに同化していった。漢学の影響を受けていない(と宣長は信じた)、原日本の思想を体得していった。それは、道理を論わず「もののあはれ」を重視する「やまとごころ」であり、天皇や八百万の神に身を委ねる宗教観であった。古典文学研究から始まった国学は、歴史研究や古代社会の研究までその範疇を広げ、宗教学や神話学といった方向へ進んでいく。
そして、宣長の古典文学研究の精華ではなく、むしろ研究が薄弱であったその宗教観の方を受け継いで発展させたのが、平田篤胤(あつたね)である。篤胤は『古事記』や『日本書紀』等の古典文学に基づき、神話時代の物語を『古史成文』として再編集し(文化8年(1811年))、追ってさらにそれの注釈書である『古史伝』をまとめた(未完)。これはもはや古文辞学の研究ではなく、篤胤の創作的な面があり、「きっとそうであったに違いない古代人の信仰」や「神道の原初の姿」が明らかにされたことになった。こうして篤胤は、神道を原初のままに取り戻すこと、即ち「復古神道」を起こすことを構想、その神道的世界観を『霊能真柱(たまのみはしら)』に表現した(文化9年(1812年))。この本は霊魂の行方や死後の世界(幽冥界)について書かれており、もはや日本神秘学と呼ぶべきものだった。
また篤胤は、宣長が明らかにした古代社会の有様を理想化し、復古神道による原理主義的考えによって「あるべき日本の姿」を提言する政治倫理学へと国学を推し進めた。
この篤胤の構想は、生前はあまり評価されなかったが、やがて尊皇攘夷思想とない交ぜになって、幕末において巨大な影響力を持つようになる。
西欧諸国が進んだ文明の力を背景に開国を迫ってきたとき、日本人は世界における日本の自画像・アイデンティティを確立せねばならなかった。世界の中で、「日本」とは何なのか? 「日本人」とは何なのか? そういう切実な問いに気前よい回答を与えるのが、国学であったと言える。日本は無窮なる皇統がしろしめす国「皇国」であると、日本人とはその皇統を戴く万国に冠たる民族であると。こうした夜郎自大な自画像は攘夷思想と親和し、一方で日本の正統な君主は皇室であるという思想が、尊皇・討幕の理論へと発展していった。もちろん尊皇攘夷思想は、国学だけでなく水戸学や儒学をも源流に持つ。しかし国学が特殊だったのは、尊皇攘夷思想に強烈な宗教性を持ち込んだところだ。
こうして国学は、古典文学の研究という実証主義的で地味な課題から出発したが、古代社会の研究、歴史学、宗教学、神話学と次第に領域を広げ、幕末を動かす巨大なイデオロギーとなっていった。国学は、神話を核として様々な学問が学際的に融合した新しい学問体系・価値体系を創り出そうとしていた。生粋の「日本」の独自思想としてだ。
田中頼庸が京都にいた頃は、こうした国学の運動が最高潮に盛り上がっていた時期だった。頼庸が国学の虜になったのは、宿命だったのだろう。漢学では、旧来の知識人の秩序の枠外に飛び出すことは不可能だったが、勃興しつつある国学でなら、独立独歩の頼庸が一廉(ひとかど)の人物になり得た。
そして慶応3年(1867年)、田中頼庸は鹿児島へ帰ってきた。持ち物は、行李が5つ。中には、ただ一枚の着替えすらなく全てが書物だったという。蛍雪の努力によって、頼庸は独学によって京都で国学を修めていた。
貧困の独学者に過ぎなかった頼庸は、今や藩内でも一二を争う国学者となっていた。
(つづく)
【参考文献】
『田中頼庸先生』二宮岳南(写本、刊行年不明、鹿児島県立図書館所蔵本)
『本居宣長(上、下)』1992年、小林秀雄
彼には、師らしい師がいない。というのは、彼の家庭はあまりにも貧しく、入門の費用が払えなかったのだ。
それどころか、本一冊買うこともままならなかった。貧窮の中にいた頼庸を支えたのは学問への情熱であったが、その学問は独学すらも許されなかった。頼庸は手に入る僅かな本を舐めるように読んで、少しずつその内に学問を育てていった。
ところで彼の叔父(母の弟にあたる)に、後に鹿児島県令となる大山綱良がいた。大山は藩内随一の剣客として有名で、この叔父・甥は「田中の文、大山の武」として文武の双璧と並び称されたという。
また、当時鹿児島城下の青年で秀才をもって聞こえたのが、重野安繹(やすつぐ)、今藤新左衛門(宏)、そして田中頼庸の3人だったと伝えられる。頼庸は、ままならぬ独学のみで、やがて人の注目するところとなっていた。
彼は年の近い叔父大山綱良をよく慕い、大山も頼庸を可愛がった。大山は薩摩藩の若手革新派グループである「誠忠組」の中心メンバーの一人であったし、他にも「誠忠組」には頼庸の親友だった高崎五六(高崎正風の従兄弟に当たる)もいた。ところが、頼庸が「誠忠組」に関わった形跡はない。頼庸はこういう徒党には全く与しなかったようだ。彼は、決して友人がいなかったわけではないが、一人学問をすることを好んだ。
それに、田中家は頼庸が遠島を許されてからも、没した父四郎左衛門の処分は解かれておらず、食録もなく、なんら職務に就くことができなかった。学問に打ち込み続けた20代の頼庸は、風雲急を告げる幕末にあって、その異才を発揮する場を持たなかった。
そんな頼庸の人生がにわかに動き出したのが、文久年中のことであった。
おそらくは文久2年のこと、島津久光が一千の兵を率いて京都へ入ったまさにその時のことではないかと思われるが、頼庸は藩命で京都へ上ったのである。何の実績もなかった頼庸が家臣団の一人として抜擢されたのは、秀才との評判はもちろんのこと、大山綱良や高崎正風の推輓があったからに違いない。
京都へ上っても食録は依然としてなく無給状態は続いた。しかし頼庸は、その貧窮の中でもひたすら学問のみに打ち込んだ。
当時の京都は、空前の「政治の季節」を迎えている。各藩から集められた「志士」たちが政論に花を咲かせ、裏に表に策動を繰り返していた時期だ。親友の高崎正風も久光の手足となって政治の表舞台で活躍している。だが彼は、そうした動きとは距離を取っていたように思われる。頼庸には、学問しかなかった。
元々頼庸が打ち込んでいたのは、漢学だった。その漢詩が巧みなことは藩内でも評判だったという。儒学はもちろんのこと、医学にしろ本草学(博物学)にしろ、日本の学問のほとんどは中国からの学問を移植したものであったし、勉学と言えば漢学の素養を身につけることとほぼ同義だったから、頼庸は当時の学問の王道を歩んでいたといえる。ところが頼庸は、京都で「国学」と出会う。
その頃の国学といえば、尊皇攘夷運動の高まりの中で急速に門人を増やし、いわゆる「草莽の国学者」と呼ばれるアクティビスト的な勢力が勃興してきていた。「嘉永朋党事件」で新たな時代の変革理論として予感された国学が、実際に革命の理論へ育っていたのだ。
ここで、これまで特に注釈することもなく使ってきた「国学」とは一体何かということについて、横道に逸れる部分もあるが少し説明しておきたい。
国学の淵源は、古文辞学にある。『万葉集』とか『源氏物語』といった日本の古典文学を読解する学問である。例えば『万葉集』について研究したのが、国学者の嚆矢と言うべき契沖(けいちゅう)である。『万葉集』は「万葉仮名」と呼ばれる特殊な漢字で書かれているが、訓じ方(読み方)が分からない部分が相当あった。真言宗の僧侶だった契沖は、徳川光圀からの依頼を受け、その訓じ方や語義を徹底的に研究した。江戸時代半ばのことである。
その契沖の研究を受け継いだのが、荷田春満(かだの・あずままろ)であり、賀茂真淵(まもの・まぶち)であった。彼らは歌学や古文辞学を研究するうちに、次第に古代人の心に興味が向いていった。古典文学を理解するためには、煎じ詰めれば古代人の心を理解しなくてはならないからだ。こうして、古典文学の研究は、古文辞の研究を越え、古代の日本人の心情や宗教観を理解しようという方向性へと進んでいった。
こうして徐々に出来上がってきた国学を大成したのが本居宣長(もとおり・のりなが)である。契沖が『万葉集』を甦らせたとすれば、宣長はたった一人で『古事記』を蘇生させた。 彼の研究方法は、『古事記』を体得するまで虚心に読むことであった。分析的理解を超え、直観によって古代人の心に肉薄しようとした。そして『古事記』の一文一語について徹底的に考証した研究が『古事記伝』(寛政10年(1798年))である。『古事記伝』は現代の古事記研究の基礎となった。
宣長は古典文学研究に没入することで、やがてそれに同化していった。漢学の影響を受けていない(と宣長は信じた)、原日本の思想を体得していった。それは、道理を論わず「もののあはれ」を重視する「やまとごころ」であり、天皇や八百万の神に身を委ねる宗教観であった。古典文学研究から始まった国学は、歴史研究や古代社会の研究までその範疇を広げ、宗教学や神話学といった方向へ進んでいく。
そして、宣長の古典文学研究の精華ではなく、むしろ研究が薄弱であったその宗教観の方を受け継いで発展させたのが、平田篤胤(あつたね)である。篤胤は『古事記』や『日本書紀』等の古典文学に基づき、神話時代の物語を『古史成文』として再編集し(文化8年(1811年))、追ってさらにそれの注釈書である『古史伝』をまとめた(未完)。これはもはや古文辞学の研究ではなく、篤胤の創作的な面があり、「きっとそうであったに違いない古代人の信仰」や「神道の原初の姿」が明らかにされたことになった。こうして篤胤は、神道を原初のままに取り戻すこと、即ち「復古神道」を起こすことを構想、その神道的世界観を『霊能真柱(たまのみはしら)』に表現した(文化9年(1812年))。この本は霊魂の行方や死後の世界(幽冥界)について書かれており、もはや日本神秘学と呼ぶべきものだった。
また篤胤は、宣長が明らかにした古代社会の有様を理想化し、復古神道による原理主義的考えによって「あるべき日本の姿」を提言する政治倫理学へと国学を推し進めた。
この篤胤の構想は、生前はあまり評価されなかったが、やがて尊皇攘夷思想とない交ぜになって、幕末において巨大な影響力を持つようになる。
西欧諸国が進んだ文明の力を背景に開国を迫ってきたとき、日本人は世界における日本の自画像・アイデンティティを確立せねばならなかった。世界の中で、「日本」とは何なのか? 「日本人」とは何なのか? そういう切実な問いに気前よい回答を与えるのが、国学であったと言える。日本は無窮なる皇統がしろしめす国「皇国」であると、日本人とはその皇統を戴く万国に冠たる民族であると。こうした夜郎自大な自画像は攘夷思想と親和し、一方で日本の正統な君主は皇室であるという思想が、尊皇・討幕の理論へと発展していった。もちろん尊皇攘夷思想は、国学だけでなく水戸学や儒学をも源流に持つ。しかし国学が特殊だったのは、尊皇攘夷思想に強烈な宗教性を持ち込んだところだ。
こうして国学は、古典文学の研究という実証主義的で地味な課題から出発したが、古代社会の研究、歴史学、宗教学、神話学と次第に領域を広げ、幕末を動かす巨大なイデオロギーとなっていった。国学は、神話を核として様々な学問が学際的に融合した新しい学問体系・価値体系を創り出そうとしていた。生粋の「日本」の独自思想としてだ。
田中頼庸が京都にいた頃は、こうした国学の運動が最高潮に盛り上がっていた時期だった。頼庸が国学の虜になったのは、宿命だったのだろう。漢学では、旧来の知識人の秩序の枠外に飛び出すことは不可能だったが、勃興しつつある国学でなら、独立独歩の頼庸が一廉(ひとかど)の人物になり得た。
そして慶応3年(1867年)、田中頼庸は鹿児島へ帰ってきた。持ち物は、行李が5つ。中には、ただ一枚の着替えすらなく全てが書物だったという。蛍雪の努力によって、頼庸は独学によって京都で国学を修めていた。
貧困の独学者に過ぎなかった頼庸は、今や藩内でも一二を争う国学者となっていた。
(つづく)
【参考文献】
『田中頼庸先生』二宮岳南(写本、刊行年不明、鹿児島県立図書館所蔵本)
『本居宣長(上、下)』1992年、小林秀雄
2018年3月1日木曜日
嘉永朋党事件と国学の弾圧——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その7)
明治天皇に神代三陵を遙拝するよう建白した人物、田中頼庸(よりつね)とは何者だったのだろうか? 彼は、一般の維新史ではほとんど知られていないから、その人生を少し詳しく辿ってみることにしよう。
田中頼庸は、天保7年(1836年)鹿児島に生まれた。父は田中四郎左衛門、母は樺山氏の出でもと子と言った。頼庸の初名は藤八、雲岫また梅の屋と号した。
彼は生来学問を好んだらしい。その頃の鹿児島は尚武の気風が強く、学問は無用なものとして好まれなかったため、親や親戚は学問を辞めて武芸に励むよう頼庸に迫ったが、彼は志を変えなかった。
そんな頼庸の人生が一変したのが、数え年14歳の時、嘉永2年であった。父が死に、食禄(藩からの給与)が取り上げられるという処分があったのだ。このため田中家は全く路頭に迷ってしまった。
頼庸の父四郎左衛門がどんな罪を犯したのか詳らかでない。しかし当時の薩摩藩の情勢を鑑みると、その背景に「嘉永朋党事件」——いわゆる「お由羅騒動」として知られる事件が思い起こされる。
嘉永朋党事件とは、島津家の世継ぎ争いによって藩内が大量に粛清された事件である。
その頃、島津家の世子(世継ぎ)斉彬は40歳を過ぎても父斉興から位を譲られないという異常な立場にあった。この頃の世継ぎというのは、普通は成人すればすぐに襲封を受けるものである。
斉彬は藩内外にその英明が聞こえていたものの、曾祖父重豪(しげひで)ゆずりの蘭癖もまた有名で、その積極的な開明政策によって藩財政が圧迫されることを懸念した斉興や重臣たちが彼の藩主就任を先延ばししていたと言われる。
そういう反斉彬派を象徴していたのが、斉興の側室、お由羅である。斉彬の一刻も早い藩主就任を臨むグループは、お由羅こそが斉彬を退けている首魁であると考えていた。この頃正室は既に没しており、斉興はその後正室を迎えていなかったためお由羅が正室のような立場にあった。斉彬派は、お由羅が自らの子久光(斉彬の異母弟)を藩主として擁立しようとしていると見たのだった。
実際にはこの争いは斉興と斉彬の親子の対立であったようだが、藩主である斉興を公然とは批判できないという事情があったことから、お由羅がその標的となった側面もあるらしい。しかし斉彬がお由羅をひどく憎んだことも事実である。
というのは、斉彬の子は多くが幼くして死んでいた。斉彬の人生は天才的な慧眼と活発な行動力に裏付けられほとんど影らしい影がないが、彼は子どもだけには恵まれなかった。嘉永元年までに二男二女の4人が1歳から4歳で早世し、嘉永2年には四男篤之助が2歳で死んだ。斉彬派はこれらの夭死がお由羅派の呪詛によるものと考えた。斉彬は腹心(山口不及)宛への手紙でお由羅について「この人さえおり申さず候えば万事よろしくと存じ申し候」との真情を吐露している。
こうして斉彬派はお由羅を実力で排除しようとまで考え、また一刻も早い斉彬の襲封を望んで策動していたとされる。こうした状況で、嘉永2年12月3日、斉彬派の首謀者とされた近藤隆左衛門、山田清安(きよやす)、高崎五郎右衛門の3人が「密会して徒党を組み、政治について誹謗した」との罪状で突然切腹を命じられ、斉彬派への弾圧・粛正の火ぶたが切って落とされた。
12月6日には他3人に遠島の処分、翌嘉永3年3月4日には赤山靱負ら4人に切腹の処分、4月28日には家老の島津壱岐にまで切腹の処分が下り、他数名が切腹。この他免職・謹慎の処分を受けたものは数多く、処分者は約50名にものぼった。特に首謀者3名への処分は苛烈を極め、例えば近藤隆左衛門の場合、切腹だけでは飽き足らなかったのか、嘉永3年3月には追罰として士籍を除かれ、死骸を掘り返して鋸引きにした上で改めて梟刑(はりつけ)に処された。さらにその子欽吉は父の罪を償うため遠島処分も受けている。
そして注目すべきことに、この弾圧を受けた人の中には、国学を奉じた人が幾人も含まれていた。その頃の薩摩藩には、国学を学んだものは数少なかったのにだ。例えば、首謀者の一人とされた山田清安は本居宣長の門人である伴信友に学んでおり、薩摩藩きっての勤皇家として知られていた。
その山田清安の門下だった八田知紀(とものり)も免職・謹慎の処分。またその八田知紀に学んでいた関勇助も同様の処分を受けた。さらに、首謀者の一人高崎五郎右衛門の子、後の高崎正風(まさかぜ)も八田に学んでいたが、父の罪を償うため、嘉永3年、15歳になってから奄美大島へと島流しに遭った。
さらには、平田篤胤門下の後醍院真柱(みはしら)と葛城彦一も弾圧の対象となった(葛城は脱藩して逃亡したので実際には処分を受けていない)。薩摩藩で平田篤胤存命中にその門下になったのは僅かしかいないのにも関わらず、嘉永朋党事件ではそのうちの2人が弾圧されたのである。
とはいえ、この頃の薩摩藩で、国学が一つの勢力となっていたわけではないし、藩の当局としても国学グループを弾圧しようという考えがあったのではないだろう。ただ、斉彬による藩政の刷新を待望する若手藩士たちには、国学が変革を予感させる新しい思想として捉えられていたのだろうと考えられる。実際に、国学とその応用とも言うべき尊皇思想は変革の理論を提供しつつあった。
そんな中、この事件によって国学グループが弾圧された形になったことは、むしろ薩摩藩において国学が一つの力として糾合されていく契機となったように思われる。それまで国学と言えば学問好きが個別的に学んでいた思想だったが、 この事件を契機として、国学が権力者に対抗しうる新思想として認識されていったのではないだろうか。
要するに、弾圧がかえって薩摩の国学を固めるというスプリングボードの役割を果たした。この事件での弾圧が、斉彬の代になって活躍する次世代の志士を大いに奮起させたようにだ。例えば西郷隆盛は赤山靱負の切腹を聞いて悲憤慷慨し、大久保利通は父次右衛門が処分を受け自らも謹慎となったため再起を誓った。久光が実権を握るようになった時に藩政の舞台に躍り出たいわゆる「誠忠組」は、西郷や大久保を中心として、この嘉永朋党事件によって弾圧を受けたものの衣鉢を継ぐものたちであった。弾圧から立ち上がった者たちは、新しい時代を作ろうとするより鞏固な信念を持つようになっていた。
話がやや横道に逸れたが、田中頼庸の父が死に、食録が召し上げられてしまったのがこの嘉永朋党事件の起こった嘉永2年のことだったのである。さらに翌年、頼庸が15歳になると父の罪を償うためとして彼は奄美大島に流された。父四郎左衛門は、これまでの研究では嘉永朋党事件の処分者と見なされていないが、処分の時期と内容を考えるとこの事件との関連が濃厚だと推測される。
そして、時を同じくして奄美大島へと流されたのが先述した高崎正風である。頼庸と正風は同い年で、しかも父の罪を償うための遠島処分という境遇も全く同じであった。大島での二人の交流は詳らかでないが、二人が生涯の親友となったのは必然だっただろう。
当然のことながら、田中頼庸は大島で厳しい生活を強いられた。島の子どもたちを集めて習字や読書を教えることでなんとか糊口をしのいだという。親や親戚から止められた学問が、彼を助けた。
後年許されて鹿児島に帰っても、食録が戻ることはなく、無給状態だったため生活は極めて厳しかった。彼は昼間は人の田畑を耕し、夜は陶器画を書いて金を稼いだ。士族というより、ほとんど小作人の生活に甘んじたのであった。しかしそんな中でも、頼庸は寸暇を惜しんで読書に耽った。ひとり古の聖賢に学ぶことで現実の憂さを忘れた。学問だけが彼を支えたといっていい。
貧窮の中で孤独に学び続けた頼庸は、こうして大人になっていった。
【参考文献】
『島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
『島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
田中頼庸は、天保7年(1836年)鹿児島に生まれた。父は田中四郎左衛門、母は樺山氏の出でもと子と言った。頼庸の初名は藤八、雲岫また梅の屋と号した。
彼は生来学問を好んだらしい。その頃の鹿児島は尚武の気風が強く、学問は無用なものとして好まれなかったため、親や親戚は学問を辞めて武芸に励むよう頼庸に迫ったが、彼は志を変えなかった。
そんな頼庸の人生が一変したのが、数え年14歳の時、嘉永2年であった。父が死に、食禄(藩からの給与)が取り上げられるという処分があったのだ。このため田中家は全く路頭に迷ってしまった。
頼庸の父四郎左衛門がどんな罪を犯したのか詳らかでない。しかし当時の薩摩藩の情勢を鑑みると、その背景に「嘉永朋党事件」——いわゆる「お由羅騒動」として知られる事件が思い起こされる。
嘉永朋党事件とは、島津家の世継ぎ争いによって藩内が大量に粛清された事件である。
その頃、島津家の世子(世継ぎ)斉彬は40歳を過ぎても父斉興から位を譲られないという異常な立場にあった。この頃の世継ぎというのは、普通は成人すればすぐに襲封を受けるものである。
斉彬は藩内外にその英明が聞こえていたものの、曾祖父重豪(しげひで)ゆずりの蘭癖もまた有名で、その積極的な開明政策によって藩財政が圧迫されることを懸念した斉興や重臣たちが彼の藩主就任を先延ばししていたと言われる。
そういう反斉彬派を象徴していたのが、斉興の側室、お由羅である。斉彬の一刻も早い藩主就任を臨むグループは、お由羅こそが斉彬を退けている首魁であると考えていた。この頃正室は既に没しており、斉興はその後正室を迎えていなかったためお由羅が正室のような立場にあった。斉彬派は、お由羅が自らの子久光(斉彬の異母弟)を藩主として擁立しようとしていると見たのだった。
実際にはこの争いは斉興と斉彬の親子の対立であったようだが、藩主である斉興を公然とは批判できないという事情があったことから、お由羅がその標的となった側面もあるらしい。しかし斉彬がお由羅をひどく憎んだことも事実である。
というのは、斉彬の子は多くが幼くして死んでいた。斉彬の人生は天才的な慧眼と活発な行動力に裏付けられほとんど影らしい影がないが、彼は子どもだけには恵まれなかった。嘉永元年までに二男二女の4人が1歳から4歳で早世し、嘉永2年には四男篤之助が2歳で死んだ。斉彬派はこれらの夭死がお由羅派の呪詛によるものと考えた。斉彬は腹心(山口不及)宛への手紙でお由羅について「この人さえおり申さず候えば万事よろしくと存じ申し候」との真情を吐露している。
こうして斉彬派はお由羅を実力で排除しようとまで考え、また一刻も早い斉彬の襲封を望んで策動していたとされる。こうした状況で、嘉永2年12月3日、斉彬派の首謀者とされた近藤隆左衛門、山田清安(きよやす)、高崎五郎右衛門の3人が「密会して徒党を組み、政治について誹謗した」との罪状で突然切腹を命じられ、斉彬派への弾圧・粛正の火ぶたが切って落とされた。
12月6日には他3人に遠島の処分、翌嘉永3年3月4日には赤山靱負ら4人に切腹の処分、4月28日には家老の島津壱岐にまで切腹の処分が下り、他数名が切腹。この他免職・謹慎の処分を受けたものは数多く、処分者は約50名にものぼった。特に首謀者3名への処分は苛烈を極め、例えば近藤隆左衛門の場合、切腹だけでは飽き足らなかったのか、嘉永3年3月には追罰として士籍を除かれ、死骸を掘り返して鋸引きにした上で改めて梟刑(はりつけ)に処された。さらにその子欽吉は父の罪を償うため遠島処分も受けている。
そして注目すべきことに、この弾圧を受けた人の中には、国学を奉じた人が幾人も含まれていた。その頃の薩摩藩には、国学を学んだものは数少なかったのにだ。例えば、首謀者の一人とされた山田清安は本居宣長の門人である伴信友に学んでおり、薩摩藩きっての勤皇家として知られていた。
その山田清安の門下だった八田知紀(とものり)も免職・謹慎の処分。またその八田知紀に学んでいた関勇助も同様の処分を受けた。さらに、首謀者の一人高崎五郎右衛門の子、後の高崎正風(まさかぜ)も八田に学んでいたが、父の罪を償うため、嘉永3年、15歳になってから奄美大島へと島流しに遭った。
さらには、平田篤胤門下の後醍院真柱(みはしら)と葛城彦一も弾圧の対象となった(葛城は脱藩して逃亡したので実際には処分を受けていない)。薩摩藩で平田篤胤存命中にその門下になったのは僅かしかいないのにも関わらず、嘉永朋党事件ではそのうちの2人が弾圧されたのである。
とはいえ、この頃の薩摩藩で、国学が一つの勢力となっていたわけではないし、藩の当局としても国学グループを弾圧しようという考えがあったのではないだろう。ただ、斉彬による藩政の刷新を待望する若手藩士たちには、国学が変革を予感させる新しい思想として捉えられていたのだろうと考えられる。実際に、国学とその応用とも言うべき尊皇思想は変革の理論を提供しつつあった。
そんな中、この事件によって国学グループが弾圧された形になったことは、むしろ薩摩藩において国学が一つの力として糾合されていく契機となったように思われる。それまで国学と言えば学問好きが個別的に学んでいた思想だったが、 この事件を契機として、国学が権力者に対抗しうる新思想として認識されていったのではないだろうか。
要するに、弾圧がかえって薩摩の国学を固めるというスプリングボードの役割を果たした。この事件での弾圧が、斉彬の代になって活躍する次世代の志士を大いに奮起させたようにだ。例えば西郷隆盛は赤山靱負の切腹を聞いて悲憤慷慨し、大久保利通は父次右衛門が処分を受け自らも謹慎となったため再起を誓った。久光が実権を握るようになった時に藩政の舞台に躍り出たいわゆる「誠忠組」は、西郷や大久保を中心として、この嘉永朋党事件によって弾圧を受けたものの衣鉢を継ぐものたちであった。弾圧から立ち上がった者たちは、新しい時代を作ろうとするより鞏固な信念を持つようになっていた。
話がやや横道に逸れたが、田中頼庸の父が死に、食録が召し上げられてしまったのがこの嘉永朋党事件の起こった嘉永2年のことだったのである。さらに翌年、頼庸が15歳になると父の罪を償うためとして彼は奄美大島に流された。父四郎左衛門は、これまでの研究では嘉永朋党事件の処分者と見なされていないが、処分の時期と内容を考えるとこの事件との関連が濃厚だと推測される。
そして、時を同じくして奄美大島へと流されたのが先述した高崎正風である。頼庸と正風は同い年で、しかも父の罪を償うための遠島処分という境遇も全く同じであった。大島での二人の交流は詳らかでないが、二人が生涯の親友となったのは必然だっただろう。
当然のことながら、田中頼庸は大島で厳しい生活を強いられた。島の子どもたちを集めて習字や読書を教えることでなんとか糊口をしのいだという。親や親戚から止められた学問が、彼を助けた。
後年許されて鹿児島に帰っても、食録が戻ることはなく、無給状態だったため生活は極めて厳しかった。彼は昼間は人の田畑を耕し、夜は陶器画を書いて金を稼いだ。士族というより、ほとんど小作人の生活に甘んじたのであった。しかしそんな中でも、頼庸は寸暇を惜しんで読書に耽った。ひとり古の聖賢に学ぶことで現実の憂さを忘れた。学問だけが彼を支えたといっていい。
貧窮の中で孤独に学び続けた頼庸は、こうして大人になっていった。
【参考文献】
『島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
『島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
2017年12月16日土曜日
「恐竜 v.s. 西郷どん」
来年も、「砂の祭典」に関わることになった。
今年私は「砂の祭典」の実子推進本部員および広報部員として、このイベントに関わらせてもらった。
でもそれは、30回記念を迎えたこの1回限りのつもりだった。そもそも、「砂の祭典」のメイン期間であるゴールデン・ウィークは、栽培しているかぼちゃの開花時期のため受粉作業で忙しい。だからあまりお手伝いもできず、後ろめたい気持ちもあった。
でも、所属している観光協会の方から、「ぜひ!」という声があって、今度はイベント企画について中心的な役割を担う「企画・マーケティング会議」と広報部で活動させてもらうことになった。
で、この「企画・マーケティング会議」でいろいろ議論したことのうち、砂像テーマについてはちょっと誇れる結果になったのでお知らせしたい。
それが次回の「砂の祭典」の砂像テーマで、
「ジュラシック・ファンタジー 〜進化の足音どん・どん・どん〜」
である。
これがどうして誇れるのかというと、言うまでもなく来年は明治維新150年+「西郷どん」放映で、鹿児島県内各地は明治維新関連のイベントで目白押しである。そんなわけで、最初は(私自身も含め)「砂像テーマは明治維新かなあ」という流れがあった。
しかし、会議で議論していくうち、「そもそも子どもたちに明治維新って言っても楽しんでもらえない」「鹿児島市の子どもたちは明治維新ばっかりだから、たまには明治維新から離れたいはずだ」「このイベントのメインターゲットである子どもたちのことを考えたら、明治維新じゃなく、もっと子どもらしい楽しいテーマがいい!」ということになり、テーマが「恐竜」になったのである。
実は、この議論の中で私が提案したテーマは「恐竜 v.s. 西郷どん」だったのだが、それはあまりにもアヴァンギャルド過ぎたのか却下された(でも、意外なほど多くの支持を集めたんですよ!)。 なお、「進化の足音どん・どん・どん」の「どん」というのは、「西郷どん」の名残である(!)
「恐竜 v.s. 西郷どん」というパワー溢れるテーマが却下されたのは残念だが(笑)、県内が明治維新150年で一色になる中、子どもたちのことを考えた選択ができたのは誇れることだと思う。これで、次回の「砂の祭典」に向けて、いいスタートが切れたような気がする。
そんな「砂の祭典」だが、今年も運営メンバーの募集が開始された。
具体的には、(1)総務部会、(2)広報部会、(3)イベント部会、(4)砂像部会、(5)施設部会、(6)物産部会、の6つの部会への参加者の募集である。
私は、昨年に引き続き「広報部会」。「西郷どん」の勢いに負けない「砂の祭典」にするため、手伝って下さるみなさまをお待ちしております!(〆切2017年12月28日)
↓応募はこちらから(「砂の祭典」公式WEBサイト)
2018吹上浜砂の祭典を一緒に盛り上げよう!
今年私は「砂の祭典」の実子推進本部員および広報部員として、このイベントに関わらせてもらった。
でもそれは、30回記念を迎えたこの1回限りのつもりだった。そもそも、「砂の祭典」のメイン期間であるゴールデン・ウィークは、栽培しているかぼちゃの開花時期のため受粉作業で忙しい。だからあまりお手伝いもできず、後ろめたい気持ちもあった。
でも、所属している観光協会の方から、「ぜひ!」という声があって、今度はイベント企画について中心的な役割を担う「企画・マーケティング会議」と広報部で活動させてもらうことになった。
で、この「企画・マーケティング会議」でいろいろ議論したことのうち、砂像テーマについてはちょっと誇れる結果になったのでお知らせしたい。
それが次回の「砂の祭典」の砂像テーマで、
「ジュラシック・ファンタジー 〜進化の足音どん・どん・どん〜」
である。
これがどうして誇れるのかというと、言うまでもなく来年は明治維新150年+「西郷どん」放映で、鹿児島県内各地は明治維新関連のイベントで目白押しである。そんなわけで、最初は(私自身も含め)「砂像テーマは明治維新かなあ」という流れがあった。
しかし、会議で議論していくうち、「そもそも子どもたちに明治維新って言っても楽しんでもらえない」「鹿児島市の子どもたちは明治維新ばっかりだから、たまには明治維新から離れたいはずだ」「このイベントのメインターゲットである子どもたちのことを考えたら、明治維新じゃなく、もっと子どもらしい楽しいテーマがいい!」ということになり、テーマが「恐竜」になったのである。
実は、この議論の中で私が提案したテーマは「恐竜 v.s. 西郷どん」だったのだが、それはあまりにもアヴァンギャルド過ぎたのか却下された(でも、意外なほど多くの支持を集めたんですよ!)。 なお、「進化の足音どん・どん・どん」の「どん」というのは、「西郷どん」の名残である(!)
「恐竜 v.s. 西郷どん」というパワー溢れるテーマが却下されたのは残念だが(笑)、県内が明治維新150年で一色になる中、子どもたちのことを考えた選択ができたのは誇れることだと思う。これで、次回の「砂の祭典」に向けて、いいスタートが切れたような気がする。
そんな「砂の祭典」だが、今年も運営メンバーの募集が開始された。
具体的には、(1)総務部会、(2)広報部会、(3)イベント部会、(4)砂像部会、(5)施設部会、(6)物産部会、の6つの部会への参加者の募集である。
私は、昨年に引き続き「広報部会」。「西郷どん」の勢いに負けない「砂の祭典」にするため、手伝って下さるみなさまをお待ちしております!(〆切2017年12月28日)
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