2014年6月20日金曜日

「共生・協働のむらづくり」に取り組むなら

我が久保集落が、「共生・協働のむらづくり活性化事業」なるものに取り組むこととなった。これは鹿児島県の補助事業で、要は地域の活性化を図るものだ。

私も最初は事情をよくわかっておらず、「むらおこしに取り組めということなんだろう」と思っていたのだが、県のWEBサイトで事業目的など読んでみるとどうも少し違う。

そもそも「むらおこし」ではなくて「むらづくり」なのがポイントだ。「むら(集落・共同体)」は既に存在しているわけだが、それをさらに「むらづくり」するとはどういうことか?

実はこの事業は、ただのむらづくりではなくて、「共生・協働のむら」というものをつくろうとするものらしい(つまり、「共生・協働の/むらづくり」ではなくて「共生・協働のむら/づくり」と読むのが正解だ)。で、「共生・協働のむら」とは何か? というと、私なりの理解では、行政だけに頼らずに、そのむらに関わるいろいろな組織や個人が役割分担をして集落機能を維持していく共同体、のことである。

「いや、それこそ集落そのものであって、むしろ「共生・協働のむら」でない集落って一体?」という声が聞こえてきそうだが、私も正直、この「共生・協働のむら」の概念がよく分からない。だが、県の意図としては、「今後、全てを行政のみで提供していくのは限界になるので、官民協働で地域に必要なサービスを提供していく”新しい仕組み”が必要です」ということがあるらしく、”新しい仕組み”がなんであるかはひとまず措くとして、それは一般論としては理解できる。つまりは、低下した自治意識・機能をもう一度強化しましょう、ということのようだ。

そういう目的の事業であるから、「集落の抱える課題を行政まかせにするのではなくて集落民自身(やその協力者)によって解決しよう!」というのが具体的な実施内容になる。これまでの活動事例集を見てみると、活動はだいたい次のようにまとめられる。
  • 文化・伝統の継承
    • 伝統行事・文化の継承と活性化
    • 史跡や文化遺産の再認識やパンフレット・看板の作成
  • 農業の振興
    • 直売所の設置や売り上げの向上
    • 農産加工品の開発と販売、新たな特産品の栽培
    • 集落営農(営農組織の立ち上げ、拠点となる機械置き場や堆肥置き場づくり、耕作放棄地の解消)
  • 地域内・地域外交流
    • 地域の異世代交流(餅つき大会、伝統行事など)
    • 花を植える、文化財を清掃するなどの美化活動
    • 都市住民との交流(農家民宿、ほたる観察会、農業体験、田んぼのオーナー制)
こうした活動は、直接には「自治意識の向上」を目的としてはいないが、集落の人々が共に取り組むことによって、結果的に自治会活動が盛り上がったり、地域の連帯感が強まったりという効果があり、それで「共生・協働のむら」づくりに寄与するということのようだ。

これらは、参加してそれなりに楽しめるものが多いし、必要性の高いものだったりするので、よい取り組みだとは思う。だが、本事業の目的が自治意識とその体制を変えていこうとするものならば、それと合わせて、別の方向性もあってよいのではないか。

例えば、過疎地の農村では、「自治意識の低下」がないとはいはないが、少なくとも都市部よりは昔からの自治組織が残っていることが多い。自治公民館を中心として、青年団とか、婦人会、子供会、老人クラブというのも一種の自治組織と見なせるだろう。

こうした組織の活動は、ややもすれば惰性的になり、慣習的な運営となりがちである。特に、集落の人口減と高齢化によって従前の活動を続けていくことが困難になっているにも関わらず、なかなか体制を変えていくことができない場合が多いのではないかと思われる。

久保集落の場合は、こうした自治組織はかなり整理されてきているようだが、もう少し改善する余地があるかもしれない。「低下した自治意識・機能をもう一度強化しましょう」というお題目とは逆行するが、自治会活動への負担を減らすということだって考えられるのである。

とはいっても、今まであったものを急になくすというのは難しいことで、やはりスクラップ&ビルドで、新しいもので置き換えていく必要がある。例えば、何らかの収益事業を行ってその収益で穴埋めをする、といった工夫がいるので、それはそれで骨の折れることだ。そういう骨の折れることを、この「共生・協働のむらづくり活性化事業」でできたらいい。例えば「イワダレソウ」という草払いの労力が減る被覆植物を公民館の法面に植える案が出ているが、そういうやり方もよいと思う。

これから、「何に取り組むか検討していきましょう」という議論をやっていくが、せっかくの機会なので、むらおこし的なものだけでなくて、集落活動の見直しやその前段階として「見える化」のようなこともできたら面白いかもしれない。

2014年6月13日金曜日

南さつま市が「地域おこし協力隊」を募集!

地域おこし協力隊」をご存じだろうか?

これは総務省の政策によるもので、ごく簡単には、過疎地などへ都会から若者に移住してもらい、農林水産業や伝統文化の活性化に取り組んでもらうものである。任期は1年から3年。役所が都会の若者を「隊員」に任命して、給与をもらいながら地域おこしに取り組むわけだ。この制度は、都会から実際に移住してもらうところが特徴で、だからこそホンキの若者が集まってきて各地で地域おこしの起爆剤として活躍している。

特に名を上げているのが、メディアでもたびたび取り上げられている岡山県美作市の地域おこし協力隊。棚田の再生やお米のブランド化、またセグウェイの活用など活発な(前衛的な?)活動で知られ、また個人的にも少し知っている人が関わっていることもあり以前から注目していた。

【参考】限界集落を”集楽”に!美作市地域おこし協力隊が ”全国最強”とよばれる秘策とは?

こういう活動が南さつまでも出来たらなあ! と思っていたところ、今般南さつま市も地域おこし協力隊員を1名募集するということで今後の展開が楽しみである。

勤務先(?)は南さつま市観光協会。観光協会は一昨年くらいまで市役所の中にあるバーチャルな組織のようだったが、最近だんだんと実体化してきて、この募集はその一環なのであろう。観光をきっかけにして、南さつまの地域おこしにドンドン取り組んでもらいたい。

地域おこし協力隊の制度は、実際の移住を伴うので応募は気軽にはできない。だが、移住を考えている人にはいいきっかけ(+当面の収入)になる。私も、正直言うとこの制度を使って南さつまに移住して来たかった。Uターン・Iターンを考えていて、地元企業や農業で働くのではなく仕事にもこだわりたい、というような人には最適な制度だと思う。隊員としての活動の間に、その後の仕事への道筋も必ずや開けるはずだ。

というわけで、南さつまを盛り上げたいという都会の若者にこの情報が届き、素晴らしい活動が展開されることを期待している。応募の期限は6月30日まで。移住するという決断をするには短い期間だが、人生の転機というのは突然訪れるものだ。南さつま市で待っています。

【情報】詳細はこちらへ→ 地域おこし協力隊・観光協会スタッフ1名募集します!!

2014年6月12日木曜日

南薩鉄道の廃線跡

鉄道ファンにも「撮り鉄」とか「乗り鉄」とかいろいろあるが、世の中には「廃鉄」とでもいうべき人達がいる。つまり、廃線跡を歩くことを無上の喜びとしている鉄道ファンのことだ。

もとより廃線路であるから、路線図を入手するのも大変だ。地図上で大まかな位置はわかっても、路線は撤去され、藪に埋もれ、跡形もなくなっている場合もある。だから地元の人に「ここに駅がありませんでしたか?」と訊きながら廃線跡らしきものを歩き、往時の姿を想像し、僅かな痕跡を見つけて喜ぶのである。

そういう人達のバイブル的存在(だと思います)が宮脇俊三さん編著の『鉄道廃線跡を歩く』というシリーズなのであるが、この3冊目の巻頭特集で南薩鉄道が大きく取り上げられている(絶版)。表紙も、吹上の(南薩鉄道の)永吉橋の橋脚の写真だ。これは南薩鉄道の廃線跡の中でも見所の一つで、立派な4つの橋脚が佇む様子は寂寥としていて、遺跡のような悲しさがある。

ちなみに、このシリーズは「廃鉄」たちのルポ(?)をまとめたものだが、南薩鉄道に関しては宮脇さん自身の紀行文である。鉄道紀行の素晴らしい書き手である宮脇俊三さんが、どうして南薩鉄道を取り上げたのか、そのあたりのことは何も書いていないが、この鉄道に何らかの魅力を感じていたのだろう。

今年は、南薩鉄道開業100年、廃止30年ということで、南さつま市では7月に企画展が開催される予定である。私は、年齢的にも南薩鉄道を知らず、また移住組であるから直接の思い出があるわけではない。しかし滅んだものは好きなたちであるから、廃線跡というのを興味深く思っていたところであるし、楽しみにしている。

ところで、南薩鉄道の廃線跡はサイクリングロードとして整備されている区間も多いので、廃線跡は決して過去の遺物というだけではない。南さつま市は旧加世田市から引き継いだ「自転車の街」も売りにしているわけだが、これは廃線跡をサイクリングロードにしてそれを目玉にしよう、という政策による部分が大きい。廃線跡を共有する日置市との連携もあまりないようであるし、この政策は未だ十分に達成されていないように思うが、廃線跡の活用について、この企画展をきっかけにしてもう一度考えてみるのもいいかもしれない。

2014年6月7日土曜日

笠沙恵比寿の指定管理者の募集にあたって

またしても、公有施設の指定管理の話である。

笠沙恵比寿は笠沙にある宿泊・博物館・レジャーの施設。2000年のオープンで、2006年をピークに利用者数が減少してきた。南さつま市等が作った第3セクター「株式会社 笠沙恵比寿」がこれまで運営してきたが、累積債務が8000万円に上って経営に行き詰まり、今般指定管理者を公募することなった。

これまでも「株式会社 笠沙恵比寿」が公募を経ずに指定管理者で運営してきたのだが、従前の指定管理料(委託費)は1480万円。それでも毎年1000万円を超える赤字を出していた。というのも、3セクではどうしても果敢な経営は難しい。何しろ社長は市長である。旅館業・観光業の経験があるわけでもない市長が経営する会社が、繁盛する方がおかしい。

そういうわけで、このたび3セクは解散させる方向で指定管理者の公募に踏み切ったわけである(公募に対して応募がなかった場合は3セクによる経営を継続する)。

その公募条件を見てみると、指定管理料の上限が1800万円/年となっている。現在は、市の補填分が3000万円弱なので、これを2/3に縮減するような格好であり、まあ妥当な条件ではないかと思う。ただ、例によってこの公募にも少し不満がある。

第1に、「…事業者を広く募集し、活用計画の提案を受けて最適の指定管理者を選定することを目的とする」(募集要項より引用)としながらも、どうも「広く」募集しているようには見えないことである。例えば、プレスリリースはどのようにしたのだろうか? 現地説明会を行うこととなっているが、広く募集するのであれば、事前説明会を都市部で開催すべきだし、旅館業の業界団体などにも周知を図るべきである(実は裏でやっていたらすいません)。

第2に、笠沙恵比寿のあり方については、市役所は2011年か12年に「笠沙恵比寿あり方検討委員会」を設置して検討しており、今回の指定管理者の公募はその報告書の提言に基づくものと思うが、この報告書が公表されていない。公明正大に話を進めることが大事だと思うので、報告書を公表して、これまでの経営の実態を明らかにし、過去を清算して次のステップに進むべきだと思う。

というような不満な点はあるが、今回の公募で素晴らしい経営者が現れ、笠沙恵比寿が地域の観光の目玉として再生してほしいと願っている。実は、この公募に先立ち、私は「笠沙恵比寿を星野リゾートが経営したら面白い」と思い、(面識はもちろんないが)星野リゾートの星野社長に「笠沙恵比寿の指定管理者が早晩公募されるので注目してほしい」という手紙を出していたのだが、なしのつぶてだったようだ。

笠沙恵比寿は、観光+漁業という独特なコンセプトの宿泊施設であり、施設全体が水戸岡鋭治氏のデザインでもあるし、決して市のお荷物ではなく、むしろ財産だと思う。それを活かすためには、ただ公募すればよいというわけではなく、いろいろな工夫がいる。市の方には、本当に最適な、素晴らしい事業者にこの情報が届くように、精一杯取り組んでいただきたい。ちなみに、募集要項の配布は6月23日まで、申請は7月4日までである。

【参考】
募集要項等はこちら→ 笠沙恵比寿の指定管理者を募集
これまでの経営状態などはこちら→「市報南さつま」2012年7月号

2014年6月2日月曜日

写真家の松元省平さんに会いに行った話

南さつま市の小湊に、松元省平さんという写真家が住んでいることを最近知った。

私は松元さんの『人間の村』という写真集を偶然目にして強い印象を受け、調べてみると住所が南さつまということでびっくりし、せっかく近所に住んでいるのだからということで厚顔にも訪問させていただいた。この写真は、松元さんのアトリエに飾られた作品の数々。

ちなみに『人間の村』という写真集は、長崎にある廃村をモノクロームで撮ったもので、廃屋になった団地とか、民家とか、かつてそこにあった生活の痕跡を切り取った写真が並んでいる。それは、少し不気味でもあるが、当地のような「限界集落」に住んでいると見慣れた光景でもある。特にその中の一枚が、昨年取り壊された近所の廃屋ととても似ていて、それで印象深かったのかもしれない。

都会に住んでいると「廃村」の写真は非日常的な、いわば別世界を覗くような所があるが、ここに住んでいると「廃村」は身近な存在である。私は遺跡とか、遺構とか、既に滅んだものが元々好きだったが、都会に住んでいた時と比べてそうしたものへの見方が少し違ってきた気もする。

それはさておき、松元さんは、もともと鹿児島出身ではない。岡山の生まれだという。それがどうして小湊のような辺鄙なところに住んでいるのかというと、妻方の故地であるここが気に入ったからということだ。現役を退いて、自然が豊かな環境に暮らしたいということで2008年に移住してきた。岡山も十分田舎で、自然が豊かではないかと思うのだが、松元さんに言わせると、沿岸部の開発が大分進んでいて、自然の風景がさほど残っていないのだそうだ。

最近撮られた写真をいくつか見せていただいたが、美しい夜空や星雲、アンドロメダ銀河といった夜の写真だった。アトリエには立派な望遠鏡もあった。晴れた日には、ほとんど夜空を撮るという。私は、常々「このあたりは星空がきれいなのに、なぜか夜空を撮る人がほとんどいない」と思っていたところだったので、こうしてプロの写真家が丁寧に夜空を撮り溜めていることに、わけもなく心強く思った次第である。

ところで、松元さんの自宅に伺ったのは、松元さんが発行している『REPO』という写真誌を購入するためだった。驚異的なことだと思うのだが、松元さんはその写真誌を28年も趣味で製作しているのだ(現在は休刊中)。一体全体、それはどんな写真誌だろうかと思い、是非見てみたくなった。それで、(郵送で手に入れることも出来るのだが)松元さんのお宅を訪問したのである。


それは、手作りの小さな冊子だった。松元さん自身も鹿児島について写真と文章を連載していて、写真家の目から見た南薩がどんなものなのかもっと知りたくなった。移住後に創刊された最新の第4次『REPO』も全部で15冊あるそうだ。南さつま市の図書館が購入して、広く閲覧できるようにしたらいいのに、と思った。

2014年6月1日日曜日

「大浦 "ZIRA ZIRA" FES 2014」が開催されます

2014年7月20日(日)、「大浦 "ZIRA ZIRA" FES 2014」が開催される!

これは要するに地域の大バーベキューパーティで、「地域の将来を担う若手が一堂に会する機会を持って、様々な活動を活発化する契機にしましょう!」というものだ(あくまで私の理解です)。

サブタイトルに「やきにくでステーキな出会いを…」とついているが、別段街コン(婚活イベント)的な意味合いはなくて、ノリでつけたものらしい。でもこういうイベントだと、近くに住んでいても普段会わない人に会えるので、いい出会いもあるかもしれない。

とまあ、イベント自体の紹介はともかく、実は、この焼肉フェスのポスターをデザインしたのは私である。背景の写真は、友人の愛甲くんから提供してもらったもの。

依頼されたイメージは、焼肉をジュージュー焼いているような画像を配置するような感じだったが、大浦の満点の星空の下で焼肉を食べるのはさぞかし美味かろうと思い、独断で星空の写真を大きく使うことにした(でもWEBで見ると背景が星空であることが残念ながらわかりにくい…)。

大浦の若者を100人集めることが目標だそうなので、それに少しでも役に立つポスターになっていたらと思う。もちろん、大浦在住でない人も参加は歓迎ということだ。私としては、こういう機会に大浦の人同士だけでなく、他の地域の若者ともネットワークが広がっていったらいいのではないかと思っている。

【情報】大浦 "ZIRA ZIRA" FES 2014
日時:2014年7月20日(日)19:00〜
場所:大浦老人福祉センター前芝生広場
申込〆切:7月11日(金)
参加料金(やきにく代含む):男性2000円、女性1500円、小中学生500円
ステージ:ザ★タオルマンズ/太鼓座神楽/江頭組/有木青年隊/おさむんちゅ
主催:大浦 "ZIRA ZIRA" FES実行委員会
共催:おおうら元気づくり委員会
お問い合せ・申込先:おおうら元気づくり委員会事務局 62-2110 または 最寄りの実行委員まで(ポスター参照)

2014年5月27日火曜日

盗まれていた岩屋観音

南さつま市金峰町に、「岩屋観音」という史跡がある。以前から気になっていたので、先日行ってみた。

なお、金峰町には「岩屋観音」が2つあり、これは大坂(だいざか)にある「河内(こち)観音」と呼ばれている方の話である。

県道20号線沿いに「岩屋観音」の案内があり、道路脇に車を止めて5分ほど歩くと木々の回廊の苔むした道となり、登り切ると岩壁を鐫(え)られて作られた岩屋がある。そこに小さなお堂があり、中には観音像が安置させられている。

しかし、期待していたものと何か違う。河内観音と言えば、「廃仏毀釈の頃、岩屋のお堂が壊され観音像は川に捨てられた。これを山之内キクという女性が忍びなく思い、夜中に観音像を川に拾いに行き、密かに藁にくるんで自宅に持ち帰った。信教自由の後このことが明らかになり、キクがこれを保管していたことに周囲は感謝し、以後もとの岩屋に安置した」という伝説で知られる。だが、それらしき観音像はないのである。

廃仏毀釈の難を逃れたという観音像は、大坂、伊作(いざく)、錫山の3地区の住民が崇敬していた立派なもので、蓮弁まで含めて54センチの高さがあり、仏体は着色され、左手に如意宝珠を持ち、右手は掌を正面に向けていたというが、そういう尊像はここにはない。お堂の中に観音像はあるが、小ぶりで金色の観音像があるのみで、明らかに明治以前のものではない。 おかしいと思って調べてみると、なんと、元の岩屋観音は既に無くなっているらしい。

これについては『金峰町郷土誌(上巻)』に記述があるので引用しよう。
[キクが保管していた仏像を]明治二十三年御堂を新しく造って安置した。以後行事も復興した。毎年旧八月十八日の縁日には、伊作・錫山・大坂・田布施から七・八組の踊りを奉納した。(中略)ところが、大正十二・三年ごろ仏像は盗難に遭った。驚いた観音講の人達は百方手をつくして探し求めたが遂に発見できなかった。(中略)その後、観音河内出身の松山嘉一郎氏が東京に在るのを幸いに、同氏に依頼して浅草観音の地から磁器製の像を買い求め御堂に安置し現在に及んでいる。(強調引用者)
ということである。今ある観音像がまさか浅草から来たものだったとは…。

それにしても、仏像が盗まれるとは残念の一言に尽きる。廃仏毀釈という難事を逃れた仏像だったが、盗難という次の難事を逃れることはできなかったわけだ。鹿児島では廃仏希釈が苛烈に行われたために、全ての寺院が廃寺になり、多くの仏像は毀(こぼ)たれ、焼かれ、打ち捨てられた。もし河内観音像が残っていれば、貴重な文化財でもあっただろう。奇跡的に残った明治以前の鹿児島の仏教遺物の一つとして…。

盗まれた河内観音は、今はどこにいらっしゃるのだろう。個人コレクターの所有だろうか。それともどこかの博物館にあるのだろうか。でも、捨てられているということもないだろうから、どこかには保管されているのだろう。いつの日か発見され、観音像が大坂へ二度目の帰還をする日が来て欲しい。

【参考文献】
『金峰町郷土誌(上巻)』1987年、金峰町郷土誌編さん委員会