地元の公立中学だが、うちはやや僻地に住んでいるので結構遠い。ちゃんと計ってはいないが、家から4kmくらいありそうである。
当然、自転車通学になる。というわけで、中学校から自転車通学の申請書を出してくれとの指示があった。
その申請書を見て、私は「はぁ? おかしいんじゃないの??」と思ってしまった。
「いや、自転車通学の申請なんかどこでもやってるでしょ」「普通でしょ」と思う人が多いに違いない。それはそうだと思う。でもよくよく考えてみると、これはとてもおかしいことなのだ。どこがどうおかしいのかちょっと説明させて欲しい。
まず大前提として、道路交通法を守る限りは、日本では誰でも公道を自転車で通ることができる。
中学生も小学生も、自転車に乗るのは自由である。事実、うちの娘は自転車で友だちの家に遊びに行っている。それに誰の許可を必要とすることはない。もちろん親は、子どもが自転車(や遠出)に慣れないうちは、遠くに行かせないとか、交通量の多いところには行かせないとかするかもしれないが、それはあくまでも安全上の配慮からすることで、基本的に「子どもが自転車に乗る権利」を尊重する。
お店も同じである。「うちの店には自転車で来ないでください」なんてことは、どんな店でも言えない。人には自転車で移動する自由があるからだ。一方で、「うちには駐輪場がないです。店の前に自転車を路駐しないでください」は全然アリだ。これは実質的に自転車で来店することを制限してはいるが、「自転車を利用する自由」を制限しているわけではないからだ。
もう少し分かりやすく言うと、「うちには駐輪場がないです」の方は、あくまでもお店の管理責任が及ぶ範囲のことだけしか制限していない。店には自転車が駐められないと言っているだけで、別の場所の駐輪場を利用するなら店に自転車で来たっていいことになる。一方で、「うちの店には自転車で来ないでください」の方は、本来店側には全く制限する権利のない、店に来るまでの方法を制限しているからNGなのである。この2つが、似て非なるものであることをまず理解して欲しい。
では中学校の自転車通学の申請はどうか?
これは、どう考えても「うちの店には自転車で来ないでください」式のやり方である。自転車通学に許可が必要だなんて馬鹿げている。何しろ、中学校以外のところはどこへでも自転車で行くことができるのに、中学校に自転車で行くには許可が必要だなんてことがあるわけがないのだ。
「いや、でも家が近い人に自転車を使わせるのはちょっと…」という人もいるかもしれない。実際、うちの中学の場合も自転車通学の許可要件は「通学距離が1.5km以上あること」である。だが、実のところ距離で要件を定めるのは不合理だ。しかもそのことには、中学校自身も薄々感づいているようだ。
というのは、先日あった入学説明会でも中学校から「距離は自己申告ですので、1.5kmに100m足りないから申請できないとかそんなことはないので〜」と言っていたからだ。許可要件が合理的でないから、こういう「柔軟な対応」が出てくるのだ。
通学距離が1.5kmの人は自転車通学がOKで、1.4kmの人はダメなのは理屈に合わない(それが規則だから、という理由以外では)。では1.3kmはどうか? 500mなら? どこにラインを引くべきなのか? 結局、元来誰でも自由に自転車で学校に来ていいはずなのに、そこに無理矢理1.5kmという自転車通学の許可要件を定めているだけであり、どこにも合理的なラインはないのである。だからこそ中学校は距離要件に関しては「柔軟な対応」をするわけだ。しかし「柔軟な対応」が必要なくらいなら、最初からそういう要件は設けない方がずっと合理的なのである。
「でも家が近い人もみんな自転車で通学していいわけ?」と思う人もいるだろう。私は全然構わないと思う。各人が、一番疲れない、楽に登校できる方法で登校したらよいと思う。人によってはそれが「不公平」だというかもしれないが、そもそも家から学校への距離が違う以上、どんな交通手段を用いたとしても不公平である。学校に近い人の自転車通学を禁じたとしても、遠い人の通学が楽になるわけではない。
だが、現実的に駐輪場の数が限られていて、生徒全員が自転車通学すると駐輪できない! という場合は、通学距離が短い人から駐輪場の利用を制限されるのはもちろん合理的である。先ほどの譬えでいえば、 「うちには駐輪場がないです」式の制限なら理解できる。生徒の自転車を使う自由を制限しているのではなく、あくまで駐輪場という学校施設の管理上の都合を言っているに過ぎないからだ。
だから私の主張をまとめるとこうだ。
「「自転車通学の許可申請」は、中学校には本来は規制する権限がない「生徒が公道を自転車で移動する自由」を制限しているのでよくない。あくまでも学校施設の都合からの「駐輪場の利用許可申請」にすべきである。」
「いや、ほぼおんなじことじゃん!」と感じる人もいるに違いない。どっちにしろ実質的には自転車通学を規制するのだから。だがその細かい違いには、日本の学校にありがちな問題が現れている。それは「中学校には本来規制する権限がない」ことでも制限できて当然という、中学校の認識である。いや、中学校の方では「中学校には本来規制する権限がない」なんてことすら見えていないに違いない。ただ、「中学校は生徒の自由を制限できて当然だ」と思っているのである。民主制の社会では、本来、人が当然に持っている自由を制限するということは簡単なことではないにも関わらずだ。
行政が人々の自由を制限したり、義務を課したりする際には、通常「法律」の制定が必要になる。どういう要件の時に制限できるかといったことを定めるのは「政令」(閣議決定)で、要件の細かい内容を定めるのは「省令」(大臣が定める)である。でも普通は、国会を経ない「政令」とか「省令」だけでは、自由の制限そのものをすることはできない。それくらい、自由を制限することは重いことだ。
そして人々の方は、理由なく自由の制限をされることには反発しなくてはならない。なぜなら、今我々が享受している自由は、先人が戦って手に入れたもので、その戦いは静かにでも続けない限りは、再びなくなってしまうものだからである。
だが中学校というところは、そうした権力と自由の関係を全く理解していないようだ。例えば、中学校には非合理的な校則が多い。うちの中学では下着の色まで決まっている。もちろん馬鹿げた校則である。しかしそもそも、どうして中学校は校則というものを定める権限があるのだろうか。
実は校則は、法令の上では全く位置づけられていない。中学校には、校則を定める法的な権限はないのである。ただ、学校長が学校運営を行う上での決まりを定められるだけだ。しかしながら、その点があまり学校や教育委員会には認識されていないようだ。そうでなければ「中学校は生徒の自由を制限できて当然だ」なんて思うはずはないのである。
「いや、そんなこと思っていませんよ」というのであれば、今すぐ「自転車通学の許可申請」を「駐輪場の利用許可申請」に変更して下さい、といいたい。「いやあそれにはこういう事情があって…」と言い訳するのは目に見えている。生徒の自由よりも、「諸般の事情」が優先されるのが、残念ながら今の公立中学校であろう。
ちなみにうちの娘が進学する中学校は、生徒数が50人くらいの過疎の中学校である。当然駐輪場の数も十分だ。教室も校庭も体育館も、本当にひろびろ使える人数である。そして生徒の方も、規則でその自由を制限しなくても、自分たちでよりよい学校生活を作っていくことができる子たちばかりだ。
中学校では、不条理に自由を制限されることを覚えるよりも、人が本来持っているはずの自由を守っていく力をつけて欲しい。入学前から、自転車通学の許可申請書を前にしてそんなことを思っている。
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