2015年9月29日火曜日

不屈の松尾集落——棚田を巡る旅(その4)

旅は最終目的地、熊本県あさぎり町須恵の松尾集落へ。

ここの集落には棚田はない。棚田の研修なのに最後に見るのは棚田ではなく、鳥獣害の防除についてだ。

この松尾集落もまたすごいところにある。市街地からの距離はさほどでもないが、つづら折りの坂道をぐぐっと登ったところにあり、急傾斜地ばかりで集落内に平地が少ない。傾斜の激しいところには栗、やや緩やかなところは茶や梨、そして耕作が困難なところにはワラビが栽培(勝手に生えているのを収穫しているだけかも?)されている。村を見下ろす山一つが集落の農地、という感じで意外にも農地は多く計17ヘクタールもあるという。

松尾集落の取組で注目されているのは、これらの農地を守る鳥獣害防止の電牧柵の設置である。

近年鳥獣害がどこでもひどくなってきて、柵の設置やその共同化などは多くの地域でやられている。松尾集落もシカ、イノシシ、サルの被害を防ぐために柵を設置していたが思うように被害が軽減しない。そこで集落でよく話し合って効果的な設置方法に変え、見事鳥獣害を激減させることに成功したのである。こうして書くと普通の話なのだが、松尾集落は検討から設置に至るまでの作業を非常に合理的かつ実直にやっていて、そこが他の地域と少し違うところだ。

具体的には、まず被害状況を詳細に調べた。どこからイノシシやシカが入りやすいか。どうして柵を設置しているのにそれが破られるか。それをマッピングして専門家にも意見を仰ぎ、どのような防除が効果的か調査した。そして守るべき農地の優先順位を決め、農地の団地化を行った。それまではなるだけ広い範囲を柵で囲うことを考えていたが、むしろ狭く囲った団地を何カ所もつくることにした。こうすることで、柵が破られた場合もどこが破られたか特定しやすくし、また団地ごとに責任者を定めることで管理の手を届きやすくしたのである。

柵は全額補助で手に入れた。つまり集落の負担はゼロ円。だが設置は自分たちでしなければならない。柵は現物支給で、年度末までに設置検査があるので短期間で設置する必要がある。そこで学生ボランティアなども動員して作業は一気に行い、2015年までの3年間で総延長6キロもの柵を設置した。このような取組で鳥獣害をほとんど防止することに成功したのである。

さて、この松尾集落のすごさは、集落民がたった4戸9人しかいない中でこうした取組をしているところである。そのうち半数はお年寄りで戦力外なので、実質5人(!)くらいでやっているわけだ。まず、たった4戸で集落機能が維持されていること自体がすごい。

そして、鳥獣害とは関係ないが、松尾集落では毎年「桜祭り」というイベントをしていて、これには3000人から5000人もの人出があるという。このお祭りは集落にある「遠山桜」という桜を大勢の人に見てもらうためにやっているもので、実行委員会形式を取っているので実施メンバーは集落民だけというわけではないものの、こんな小さな集落が5000人も集めるイベントをやるというのがビックリである。

松尾集落がこうした活動ができるのは、「中山間地直接支払制度」のお陰でもある。 「中山間地直接支払制度」というのは、大雑把に言うと、傾斜地など耕作に不利な農地をちゃんと維持していくなら面積に応じて補助金をあげます、という制度である。松尾集落はたった9人の集落でも農地は17ヘクタールもあるので、一年あたり200万円くらいの補助金が下りる。これを活動資金にして少人数でも前向きな取組ができるのである。

しかし本質的には、集落への愛情、というようなものが活動を支えている。

そもそも、松尾集落の鳥獣害対策の特色はその合理性と効率性にあるのだが、このような不利な農地で耕作を続けて行くこと自体は非合理であり非効率的である。今の時代、もう少し生産性の高い農地に移動していくことも不可能ではないし、集落に専業農家は2戸しかないので農地の維持に高いコストをかけなくてはならないわけでもなさそうだ。

どうしてここまでして、たった4戸でこの耕作に適さない農地を維持しているのか、自治会長さんに聞いてみた。

「この集落は、昭和29年に開拓入植でできた集落です」自治会長さんがそう話し始める。

発端は須恵村がやった農家の「次三男対策事業」。要するに相続する農地がない農家の次男三男を募って、近場の山を開墾させて新天地を作った。そうやって8戸の農家が入植したのが松尾集落の起源だという。今の人たちはその2世。開墾にも苦労したが、村の役所の人も随分苦労したらしい。それで2世は親たちから「俺たちの受けた恩を忘れないでくれ」とことある事に聞かされて育ったらしい。そして親たちが苦労して開拓したこの地を守っていくことがその期待に応えることだと、2世の人たちは考えているんだそうだ。

私はこの話を聞いて衝撃を受けた。こんな不利な農地を開墾させるなんて、普通なら「こんな山奥に追いやられた」と被害者意識を持ってもおかしくないくらいなのに、開拓入植1世は新天地を与えられたことを感謝し、2世はその気持ちを受け継いで、不合理・非効率な農地の維持に取り組んでいるのである。ほとんど「シーシュポスの岩」を押し上げるような取組に…。

それで、たった4戸の限界集落になっても「俺たちの代で松尾集落を終わらせるわけにはいかない」と意気込んでいる。高齢化で耕作が難しくなった農地があれば集落で共同耕作する農地としてなんとか耕作放棄地化しないようにしているし、それもできなくなればワラビ園にしている。鳥獣害防止は合理的なやり方をしているが、それ以外はほとんどド根性の世界だと思った。

この集落の様子は、日光の棚田とか、鬼の口の棚田とは随分違うように見える。棚田の維持は景観の面の価値が大きいことが多いが、松尾集落の農地はキレイな景観というわけではない。もちろん観光的な価値もほとんどない。先祖伝来の農地というわけでもなく、せいぜい親世代からの農地であって、歴史的・文化的価値もない。それでも、松尾集落の人たちはその農地を大事に思っている。

どうしてなんだろう?自分の親が苦労して切り拓いた農地だから、という説明は、何か納得できないところがある。親が苦労してつくり上げたものをすげなく捨ててしまう子どもはいくらでもいる。むしろそれが普通で、親とは違った面で発展して行こうとするところに世代交代の意味があると思う。親と同じ苦労をしたがる子どもというのはかなり変わっている。

私は、未だにその答えがよく摑めないでいる。しかし一つ言えることは、松尾集落が「開拓者精神」でつくられた強いアイデンティティを持っているということである。たった1世代の間にこの集落は、困難を切り拓いていく精神と、村を見下ろす圧倒的な立地とで、我こそ松尾集落なり、という個性を獲得したようだ。松尾集落の人たちが失いたくないのは、一つひとつの農地というより、そういう強固なアイデンティティなのではないか。もっと楽な仕事や生き方があるとしても、それをしないのが松尾集落の魂なのかもしれない。

(つづく)

0 件のコメント:

コメントを投稿