2015年9月21日月曜日

一勝地の温泉宿から——棚田を巡る旅(その3)

研修の宿は、球磨川の支流のほとりにある、球磨村の一勝地温泉「かわせみ」。温泉宿自体が棚田の上にあるという、棚田の研修としては出来すぎた立地である。

ここ「一勝地」は、縁起のよい地名であることから、一勝地駅の切符が受験生のお守りになったり、駅近くにある「一勝地阿蘇神社」で勝負の験担ぎをするといったことが行われていて、一種のパワースポット的に扱われている。

しかし地元の人に聞いたところ、「一勝地」は元は「一升内」と書いたそうだ。これは鎌倉時代にこの地を治めた地頭の一升内下野守に由来するらしいが、「一枚の田んぼから一升の米しか穫れないような小さな田んぼが多い」ということが語源であると考えられている。これが縁起のよい「一勝地」に変わったのは明治の頃で、「一升内」では意味合いが悪すぎることから、敢えて縁起のよい字を選んで改めたのだそうだ。

その「一升内」の地名はダテではなく、確かにここらには狭い田んぼがすごく多い。そして温泉宿から歩いて15分くらいのところには、これも日本の棚田百選に選ばれている「鬼の口棚田」がある。

「鬼の口棚田」は研修先ではなかったので説明は聞けなかったが、後から調べたところによれば「日光の棚田」のような特別な取り組みはしておらず、地域の昔ながらの小規模耕作農家によって守られているそうである。

「特別な取り組み」はなくとも、この棚田はよく守られていて、ざっと見たところ荒れているところがない。どの田んぼもしっかりと耕作されていて、美しい。しかも、(インターネットに載っていた情報なので信憑性は低いが)ことさら棚田米とかで高級品として売られているわけでもないらしい。物産館には棚田米みたいなものは置いてあったが、少なくとも「鬼の口棚田米」を大々的に販売しているという様子ではなかった。

「日光の棚田」みたいに、活性化の取り組みによって再生した棚田ももちろん興味深いが、私はこういう地域の人々が自然体で維持してきた棚田の方にもっと関心がある。手間ばかりかかって実入りの少ない棚田を、どうして一勝地の人々は維持してきたのだろう。こんな狭い田んぼで不如意な米作りをするよりも、人吉に出て行って働いた方がよっぽど収入になるだろうに。

ただし、耕作放棄地は増えてきているそうだ。温泉宿の隣にあったゲートボール場は放棄された棚田を潰してできたものらしい。それでも、あたりにある主だった棚田にはちゃんと稲が靡いている。この地域の人にとって棚田の耕作を続ける意味はなんなのか、とても知りたくなった。

ところで、宿泊先の一勝地温泉「かわせみ」は、村営の旅館だがなかなか立派な宿である。泉質が優れているとかで遠方からの客も結構多いらしい。元は竹下内閣の地方創生事業(いわゆる一億円バラマキ)で出来た宿で、隣には「石の交流館」という石造りの立派な施設(あんまり稼働してなさそうな感じがしたが)もある。

一億円バラマキの地方創生事業は、政策効果が不明確だとか、無駄なハコモノの乱立の原因になったとか、評判がいまいちだけれども、これを奇貨として役立てた自治体には地域振興にしっかりと役立っており、今の小うるさい「地方創生」なんかよりいいんじゃないかという気がする。もちろん、バブルの頃の上げ潮の中のお金と、現在の汲々とした中でのお金は全然意味合いが違うから比較はできないが…。

そして温泉宿から不思議な工場(こうば)が見えたので何かと思って地元の人に聞いてみたら、熊本に唯一残った「椨粉(たぶこ)」の製粉工場であった。「椨粉」というのは、タブノキの樹皮などを細かく砕いて作る粉で、水を加えると粘性が大きく様々な形に成形が可能で焚いても無臭なことから、蚊取り線香などの下地材(線香粘結剤)として使われてきた。今では化学的に下地材を作れるため普通の蚊取り線香には使われておらず、高級なお香のみに使われているそうだ。

かつて熊本は、良質なタブノキがたくさん採れたことで椨粉の工場がたくさんあったらしい。山地に住んでいた人たちは、耕作地が少ないこともあり農閑期にはタブノキの枝葉を採って椨粉の製粉工場へ売りに行ったということだ。

現在では、そういうライフスタイルもなさそうだし、それ以上にタブノキ自体が輸入品になっているので椨粉の製粉工場はどんどん廃れて、熊本県にここしか製粉工場は残っていない。そしてここも、もうタブノキの枝葉を地域の人から買い入れるシステムは採っておらず、タブノキ自体は輸入品を使っているみたいである。

ちなみに多分全国で唯一だと思うが、鹿児島の大隅にある工場(実はここが経営しているところ)だけが国内のタブノキを買い入れて製粉しているということだ。私はタブノキをお香の下地材に使うということも知らなかったので、外から眺めるだけとはいえこういう工場の存在を知ったことはとても勉強になった。

こういう渓流の地というのは、今でこそ土地が狭くて耕作地が少なく、貧乏たらしく見えるが、水力がエネルギーとして重要だった頃には、意外と恵まれた土地だったとも言える。椨粉の製粉工場があったのも、渓流を利用して水車を回し、タブノキの枝葉を粉砕する大きな臼を稼働できたからである。

逆に、平地というのは広大な農地があっても動力が少なく、製粉のように大きな力を利用する産業には恵まれなかった。そこはあくまで単純な農産物生産の地であり、原材料の供給者の地位に甘んずるしかなかった。一方、球磨川は今でこそ自然がいっぱいの観光地というイメージがあるが、かつては上流で伐採した木を筏に組んで八代湾まで運ぶ林業の重要な道だったし、日本で最も早くダムが栄えて電力供給が発達したところの一つでもある。そして、豊富な森林資源と電力を使って製紙会社も栄えた立派な「産業の川」だったのである。

棚田だけでなく、急峻な山々とか渓谷とか、嶮しい自然環境というのがハンディキャップだと思うのは現代だからこそで、かつてはそれがエネルギーと資源に恵まれた「蜜の流れる土地」であった。いや、実際には、今でもそこはエネルギーと資源に恵まれているはずなのだ。とはいっても、それを活かしづらい産業システムになっているというのは事実で、椨粉を作ろうにも東南アジアからの輸入品があり、ダムはもはや撤去される時代だ。かつて球磨川が産業の川として栄えた頃とは、随分経済の仕組みが変わった。

しかし今の経済の仕組みが絶対不変のものであるわけではない。それどころか、経済の仕組みなんてものはもの凄くフラジャイルな(=壊れやすい)もので、それが健全に構築されたものであればある程どんどん変わって行く。棚田や急峻な山々が、再び「経済的に」脚光を浴びる時が来ないとも限らない。というより、既に来つつあるというような気もする。

不利な状況での遅れた農業だと思っていたものが、世の中の方が一回り逆回転して最先端の農業になってしまうことだってあるのではないか。 景観とか集落活性化だけでない、棚田の価値の転換を生きているうちに見れるかもしれない。

(つづく)

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