2018年6月25日月曜日

国学者の敗北——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その13)

神代三陵が全て鹿児島に治定された背景には、確かに明治政府における薩摩閥の政治力があった。田中頼庸の神代三陵遙拝の建白が受け入れられたのも、大雑把に言えば当時薩摩閥が当時強力な政治力を有していたからだ。

とはいっても、 あらゆる行政分野において薩摩閥の政治家・官僚が好き放題にできたわけでもない。特に神祇行政——つまり今で言う宗務行政の分野では、明治の最初期には薩摩藩の影響力は必ずしも大きくなかった。

ところが、頼庸が教部大録として教部省に出仕した明治5年5月には、頼庸とともに盟友の山之内時習や山下政愛など鹿児島出身者が同時に入省。また、省内ナンバー3にあたる教部少輔には鹿児島藩参政や東京府大参事などを歴任していた黒田清綱が就任。さらに以前から政府の仕事に携わっていた後醍院真柱も教部大録として入省し、突如として教部省に薩摩閥が形成されてくる。頼庸の神道国教化政策の一翼を担った三島通庸も追って省内ナンバー4にあたる教部大丞として入省。こうして黒田−三島−頼庸という薩摩閥ラインが確立し、教部省内で大きな影響力を行使していくことになるのである。

どうしてこの明治5年に、突然教部省内に薩摩閥が形成されてきたのか。それを考えるためには、また遠回りになるが明治の神祇行政史を振り返ってみる必要がある。

明治政府の神祇行政の出発点は、慶応3年の「王政復古の大号令」において「諸事、神武創業の始めに基づき」とされたことだ。このことで、明治政府は遙かな古代に行われていたはずの神権政治を当代に再現するよう動くことになる。

具体的には、古代律令制により実施されていた「神祇官」の復興が第一の仕事となった。「神祇官」とは国家の祭祀を司るもので、古代律令制においては諸国の神社を総括し、形式的には太政官よりも上位とされていた。この神祇官の復興運動を中心的に担ったのは、平田派国学者たちであった。彼らは全国に広がる大量の門人とそのネットワークを背景に岩倉具視を通じて政策実現を図り、慶応4年4月には「神祇官」が復興する。

しかしこの頃の神祇官は、太政官の下の一部局である。平田派の望みはあくまで古代神権政治の再現、即ち「祭政一致国家」の実現であり、そのためには古代律令制と同様、太政官よりも上位に神祇官を置くことが必要であった。祭教は政治と同列以上でなくてはならなかったのである。こうして平田派は種々の運動を行い、明治2年7月には官制の改革によって神祇官が太政官から特立し、名実共に神祇官が再興された。この際、神祇官は祭祀と共に諸陵(陵墓)と宣教に関する仕事も担うことになった。言うまでもなく、諸陵が職掌に加えられたのは幕末からの山陵復興運動の高まりを受けてのことである。

ところが、この明治2年の神祇官特立までが平田派の絶頂であった。いや、既にこの時点で、平田派は凋落の傾向を示していた。神祇官の体制には、平田派からは篤胤の養子で一門の総帥であった平田銕胤(かねたね)の息子延胤が申し訳程度に入っただけで、実質的には平田派は中心から遠ざけられた。それに代わって神祇行政を牛耳ったのが、津和野派と呼ばれるグループだ。

津和野派は、津和野藩(島根県の一部)の国学の一派である。津和野藩では、藩主亀井茲監(これみ)自身が国学を信奉し、国学者福羽美静(びせい)と共に国学を土台として尊皇運動を行っていた。津和野藩では、薩摩藩ほどは強権的なものではなかったが幕末に廃仏毀釈を行い、神葬祭の実施など神道国教化政策を行っている。そして明治になると維新の功臣とのつながりを利用して急速に新政府へと近づいた。

津和野派の思想的リーダーだったのが大国隆正(おおくに・たかまさ)だ。平田篤胤の弟子だった大国隆正は篤胤の考え方を軸にしつつも、その神道書理解に不備があることや『古史成文』等における神代史の改竄などを挙げ平田神学を批判し独自の神学を打ち立てていた。これに従ったのが亀井や福羽、そして岩倉具視の師匠格となった玉松操だったのである。

津和野派が平田派と決定的に違ったのは政治力であった。平田派には政治力を及ぼせる窓口がほとんど岩倉具視しかなく、全国に門人は多かったものの特定の藩や利害集団を擁しておらず権力の基盤がなかった。一方、津和野藩は長州藩の隣藩であったため長州出身の要人に様々な繋がりがあり、津和野派は藩主亀井茲監自身が後見していたから、権力闘争においては平田派の一枚も二枚も上をいった。

さらに、それでなくても平田派への風向きは悪くなっていた。というのは、平田派の構想は「復古」の一言に尽きていた。だから明治2年に神祇官が特立し、一応古代律令制の体裁が復活したとき、その目的が達成されたのである。そして彼らはそれ以上の構想を持っていなかった。だが明治政府が「復古」だけで前進できるはずもなく、律令制が明治の時代に合うわけもなかった。

しかも平田派は、一応平田銕胤が総帥を務めていたものの、その門人はあくまで篤胤の門人で「没後門人」と呼ばれ、銕胤の門人ではなかった。つまり銕胤は平田派を率いてはいたが思想的リーダーではない。そうした存在としては篤胤の高弟である矢野玄道(はるみち)がいたが、彼はあまりに学問的すぎ、政治的には無力すぎた。そういう事情から彼らは平田篤胤の構想を時代に合わせて修正していく力を持たなかった。平田派は東京遷都への強い反対や、政府の要人が洋装に変わる中で烏帽子・直垂を着用するなど滑稽なほどの守旧的傾向を示し、政府首脳からは時代錯誤でやっかいな連中と目されるようになって、次第に閑職へと追いやられていく。

一方、津和野派の思想的リーダー、大国隆正は高齢ではあったが存命中であった。彼らは時代に即応して考え方を修正し、発展させることができた。福羽も「神社に生物ばかり供えるのは不都合だ、西洋料理くらい供えねばならぬ」などと述べる開明的官僚であった。こうした姿勢は、平田派との大きな違いを生んだ。あくまで古代律令制にこだわり、「復古」以上の構想を発展させることができなかった平田派が疎んじられていくのは自然のなりゆきだっただろう。

大国隆正らは、平田派の「復古」とは違って新時代の神道を構想した。その刺激になったのはキリスト教への対抗だ。そもそも、明治政府が非常に気を使ったのがキリスト教の防禦である。今から考えると不思議な感じがするが、明治の政策立案者たちは開国によってキリスト教が一気に日本に広まり、キリスト教こそが天皇中心国家を危うくするのではないかと強い危機感を抱いた。よって慶応4年の段階では明治政府はキリスト教を禁教にした。

しかし西欧諸国はキリスト教解禁を強硬に求め、その要求は次第に拒絶できないものになっていく。そこで政府はキリスト教対策の方針を、「弾圧」から「教化」へ変えていった。キリスト教が蔓延しないように、日本国民をしっかり教育しようというのである。明治2年の官制改革で神祇官が特立したとき、職掌に「宣教」が加えられたのはこのためだった。

大国隆正らは、この「宣教」のためには従来の神道では十分でないと考えた。大国はこれまでの神道はあまりにも漠然としていてとてもキリスト教に対抗できないとし、”御一新”を機に神道も一新して新たな教義を立て、これを国民教化の法にすることを企てた。確かに神道は伝統的に教義が希薄であった。そこで彼は天照大神を主祭神に据えた一神教的なものとして神道を組み替えようとしたのだった。

明治3年正月には「大教宣布の詔」が発布。これは日本を祭政一致国家と宣言して神道を国教と定め、「惟神(かんながら)の大道」を天下に布教しようとしたものである。津和野派は、かつて津和野藩で行った神道国教化政策を日本全体へと拡大することに成功したのである。

そして津和野派は、その政治力によって他の神祇勢力の追い落としを図った。例えば、伝統的な神道家であった白川家・吉田家は全国の神社を統べる存在であったが、津和野派はこの両家を不要とみなした。というのは、津和野派の考える祭政一致体制は、天皇親祭にして天皇親政、即ち祭と政を天皇自らが手中に収めるという一極集中的体制であったからだ。天皇自らが祭りを行う以上、神社を統べる中間管理職的なものとしての白川家・吉田家などいらないのだ。津和野派は政権内から両家の排除を計画して、ある程度成功した。

しかしながら、肝心の大教宣布の運動ははかばかしい成果を上げなかった。

その要因はいくつか挙げられる。津和野派と平田派の争いなど国学者同士が内部で対立していたこと、「惟神の大道」といいながらその教義が確立しておらず、教義を確定させるための体制もなく紛糾が続いたこと、全国に宣教を行うため神祇官の外局として「宣教使」を置いたが宣教するに足る人材を揃えることができず名前倒れに終わったことなどが主因であろう。「大教宣布」などと立派なことをいいながら、中身がなかった。

さらに重要なことして、そもそも信仰という内面的なものを国家が強権によって一朝一夕に変えようとすること自体に無理があった。しかもその教義は急ごしらえで作ったものであり、日本に限っても一千年以上の間俊英たちが育ててきた仏教の教義体系と比べ、いかにも貧弱であり幼稚蕪雑なものであった。中身のない教えによって、人々の信仰を強制的に変えさせるのは不可能だったのだ。

大教宣布運動の行き詰まりによって、神祇官への風当たりは厳しくなっていった。予算面を見ても明治3年後半(明治3年10月〜4年9月)には急激に減少し、全ての所官の中で神祇官の予算が最少になってしまう。その上神祇官にはなんら行政執行権も持っていなかった。神祇官は「復古」を旗印に「大教宣布」や山陵や神社の造営など経費がかかる事業をやる割には、なんら事業の成果がないように見えた。当初華々しく復興した神祇官だったが、こうして徐々に無用視されるようになってくる。

威勢はいいが中身のない「復古」に予算や人員を割くよりも、「近代化」に注力する方がずっと実になると政府が考えたのは当然だろう。

こうした趨勢の中で平田派の官員は人員削減を理由に徐々に免官になり、明治4年3月には矢野ら平田派国学者の中心メンバーが「ご不審の筋これあり」として突如拘禁され、神祇官から排除された。福羽の讒言によるとも言われるが真相は定かではない。ただ、津和野派が平田派との権力闘争に完全に勝利したことは事実だった。しかし平田派の国学者たちが排除されたことで皮肉にも神祇官はさらに弱体化し、明治4年8月には神祇官は格下げされて「神祇省」となった。

この神祇省において福羽は神祇大輔に就任。神祇行政の事実上のトップとして君臨した。神祇省に格下げされたことは大勢の国学者を落胆させたが、福羽はむしろこれをよい機会だと思っていたらしい。津和野派の祭政一致構想は、天皇親祭にして天皇親政であったから、祭祀を司る神祇官なるものも本質的には不要であったのだ。福羽は神祇大輔として自らの理想の実現に邁進しようとした。

しかし、この神祇省の命脈も長くは続かなかった。結局、福羽は大教宣布運動を立て直すことができなかったのである。大教宣布運動の限界が、そのまま神祇省の限界となった。

そして大教宣布運動は、民衆に対して教化の実績を上げられなかっただけでなく、仏教界からの強い反発を招いた。彼らは当然、露骨な神道国教化政策に対して反対したし、国民教化やキリスト教防禦には仏教こそが有効な運動を展開できると主張した。

こうした主張の背景には、キリスト教の防禦を担うことで仏教の地位を向上させようとする目論見もあった。なにしろ仏教界は神仏分離政策やそれに続いた廃仏運動などによって痛手を受けていた。あからさまな神道優遇の雰囲気に歯止めを掛けるためにも、仏教としては積極的に国家に協力してその存在価値を示すことが必要であった。よって仏教もキリスト教を「法敵」として排撃し、自ら進んで神仏儒三教一致による国民教化運動へ乗り出そうとするのである。

一方政府としても、仏教界の懐柔は重要だった。財政的に厳しい新政府に対し、東西の本願寺が多額の献金をしていたという事情があったからだ。特に長州閥が西本願寺(浄土真宗本願寺派)との関係が深かったことは、長州閥の人脈を頼りにしていた津和野派にとっては手痛いところだっただろう。

そういうことから、政府としてはいつまでも成果の出ない大教宣布運動を続けるより、神仏合同でキリスト教防禦を行うべきという意見が明治4年秋頃から支配的になり、当時左院副議長だった江藤新平が中心となって新体制案が検討され、明治5年3月、神祇省を廃止して教部省が置かれた。この措置は神祇省の官員にすら知らされず秘密裏に進められ、唐突に行われたものだという。いかに国学者たちが時代に置いて行かれつつあったかが分かろうというものだ。

こうして、明治政府の神道国教化政策は終わりを告げた。福羽は教部省でも実質トップの教部大輔に横滑りしたが、もはや命運は尽きていた。そして教部省は肝心の「祭祀」を所掌しなくなった。国学者たちが夢見た「祭政一致国家」の構想は政府自身によって否定され、政教分離に向けた一歩を踏み出したのであった。

これは、平田派と津和野派の国学の否定でもあった。「復古」にしろ「大教宣布」にしろ、威勢のよい割に実質を伴わなかった種々の運動が、試行錯誤の末に瓦解した。

その背景には、国学者同士の激しい内紛もあった。どのような分野の行政史であれそうした面はあるが、ことにこの時代の神祇行政には権力闘争の側面が強かった。というのは、それが「正統」と「異端」を巡る争いだったからだ。平田派と津和野派は、その奉じる教えが相容れないからこそ別のグループになっていた。足して2で割る、といったような政治的妥協を行うことが原理的に出来なかった。神祇行政において対立は根本的に「神学論争」であり、いつまでも解消できないものだった。本来協力し合うべき国学者たちは互いに足を引っ張り合い、果てしない神学論争の果てに共倒れした。

後に日本を強力に支配することになる「国家神道」は、確かに国学の鬼っ子である。しかしそれは国学者たちの構想の先にあったものではなかった。国学者たちは、明治5年、確かに敗北し、政治の第一線からは退いたのである。

そしてその敗北者たちのうずくまっていた教部省に乗り込んできたのが、田中頼庸を含む薩摩閥の一群だった。

(つづく)

【参考文献】
明治維新と国学者』1993年、阪本是丸
神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫
<出雲>という思想』2001年、原 武史
 「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男

2018年6月1日金曜日

高屋山上陵の変転——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その12)

中央に取り立てられていった田中頼庸の動向を追う前に、彼が中央へ旅立つ直前に行った、神代三陵に関する仕事について触れておく必要がある。

頼庸は、鹿児島の神道国教化政策がクライマックスにさしかかっていた頃、神代三陵の調査を行い、明治4年には『高屋山陵考』を著して、ホホデミのミコトの陵墓の位置について考証した。言うまでもなく、この考証を行ったことが天皇への神代三陵遙拝の建白に繋がり、引いては後の明治7年の神代三陵の裁可へと結実していく。頼庸が鹿児島で行った神道国教化政策の仕上げにあたる部分が、この調査・考証であったといえる。

この調査がどような意図に行われたのか理解するため、それまでの神代三陵の考証の経緯を概観してみよう。

既に述べたように、神代三陵について初めてまとまった考察を行ったのは、薩摩藩の国学者の嚆矢白尾国柱であった。彼は寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三陵が全て薩摩に存在することを主張した。この主張は本居宣長の注目するところとなり、宣長はその著書『古事記伝(十七之巻)』において国柱の見解を引用、当時影響力があった松下見林の『前王廟陵記』の見解も合わせて考証し、結論として「かかれば神代の三ノ御陵は、大隅と薩摩とに在リて、日向ノ国にはあらず」とした。

ところが宣長にしても、神代三陵の細かい位置については国柱の説には全面的には賛成していない。例えば国柱は可愛山陵を「薩摩国高城郡の水引郷五臺村、中山の巓」にあるとしたが、これに対し宣長は「なほ疑ヒなきにあらず」としている。さらに、高屋山上陵についても、国柱の説「大隅国肝属郡、内浦郷北方村国見岳」に対し、『日本書紀』の方角の記述と合わないことを挙げて「彼地(ソノトコロ)、霧島山より西ノ方にあたれりや、なほ尋ぬべし」とさらなる検討を催している。疑義を差し挟まなかったのは、「大隅国肝属郡、姤良郷上名村鵜戸の窟」にあるとされた吾平山上陵だけである。

ちなみに松下見林の『前王廟陵記』では、可愛(エ)と頴娃(エ)という地名の類似から可愛山陵は薩摩国頴娃郡にあったとし、鹿児島の地理に若干混乱があるものの、高屋山上陵については阿多郡(現・加世田)と肝属郡に共に「鷹屋郷」があることを紹介して位置を推測している。ともかくこの頃の神代三陵の位置については、盤根錯節としていて諸説が入り乱れていた。これが明治に向かって徐々に整理されていく。

継いで神代三陵の考証を行ったのが後醍院真柱である。真柱は文政10年(1827年)に20代で『神代山陵志』を著した。本書中、先に成った可愛山陵の考証を人づてに平田篤胤へ送ったところ、篤胤は真柱の説を大いに評価した。その説とは、可愛山陵は白尾国柱が主張する「薩摩国高城郡の水引郷五臺村、中山の巓」ではなく、同じ水引郷の新田神宮がある「八幡山」であるとするものである。議論の細かい点は省くが、「八幡山」と「中山の巓(中の陵ともいう)」は同じ「亀山」という山塊の別の峰であり、真柱は白尾国柱の説に概ね賛同しつつ、その修正を図ったといえる。

篤胤はその著書『古史伝(第三十一巻)』において真柱の説を詳しく紹介し、国柱の説と比較考量した上で「三陵考(※白尾国柱著)には謂ゆる中の陵を御陵となしたるを三陵志(※後醍院真柱著)にはそを否(しからず)として直にその八幡山を御陵と定めたる是れも決めて然るべし」と述べて賛意を表した。真柱は、後日篤胤の門人となるが、この『神代三陵志』が業績として高く評価されていたため、信頼や待遇が殊の外厚かったという。

幕末以前の鹿児島の国学者を代表する二人である白尾国柱と後醍院真柱が共に神代三陵の考証を行い、またそれぞれ本居宣長と平田篤胤に認められたというのは決して偶然ではない。というのは、山陵の考証というものは、地方の国学者にとって中央の権威に認められるためのステップ的な役割を果たしていたからである。

明治に入ると、早くも明治元年(慶応4年)4月、神祇事務局は三雲藤一郎と三島通庸(みちつね)等に神代三陵の取り調べを命じ、二人は後醍院真柱を伴って巡察を行った。このことで真柱は、20代から執筆し準備してきた『神代山陵志』を改めて完成させ、明治2年10月には神祇官に提出している。

ところで先に述べたように、この段階では政府は神代三陵を治定しようとはしていなかったようである。しかし三雲と三島に調査を命じたのはどういう事情によるものだろうか。

実は、三雲藤一郎は鹿児島神宮の神職であり、三島通庸はいわゆる誠忠組の一員で西郷や大久保と近く、さらに鹿児島の廃仏毀釈運動を会計奉行として支え、島津忠義夫人の「神葬祭」を執り行った人物でもある。これは政府としての調査というよりも、薩摩閥内での調査と言った方がよさそうである。

このような経緯から、この段階で神代三陵の位置はほぼ次の通りに定説化した。
可愛山陵=新田神社のある八幡山——現・薩摩川内市
高屋山上陵=内之浦の北方村国見岳——現・肝付町
吾平山上陵=上名村鵜戸の窟——現・鹿屋市
可愛山陵については議論もあったが、高屋山上陵や吾平山上陵については白尾国柱と後醍院真柱の見解が一致し、江戸時代からの崇敬もあったため、誰もがこのまま治定されると思っていただろう。

そこに異論を唱えたのが田中頼庸だった。

頼庸は明治4年正月、官命を受けて山之内時習と共に神代三陵の実地調査を行った。この山之内時習は、神葬祭の推進など薩摩の神道国教化政策における頼庸のパートナーだった人物である。そして本稿冒頭に述べたように、頼庸は『高屋山陵考』を著して高屋山上陵の位置が「内之浦の国見岳」ではなく、「姶良郡溝辺村神割岡」であることを力説した。

その理由を簡単に述べれば、『古事記』によれば御陵は「高千穂の西」にあるとされているので方向が合うということと、神割岡の近くにはホホデミのミコトを祀る鷹屋(たかや)神社があり、鷹屋=高屋であると考えられるということの2点である。

しかし実は『高屋山陵考』が著される前に、神割岡では奇妙な調査が行われていた。後醍院真柱が『神代三陵志』を明治政府に提出した直後の明治3年正月、鹿児島藩庁は職員数名を派遣し、溝辺郷常備隊分隊長らと神割岡の発掘調査を行ったのである。そして、この時神割岡の頂上付近を発掘したところ古代の焼物等を発見したため、恐懼してそのまま発掘を中止したという。

この調査が奇妙なのは、まず「発掘調査」をしているにも関わらず、実際に遺物が出てくると「恐懼してそのまま発掘を中止」した点だ。これでは何のために発掘したのか分からない。普通の発掘であれば、遺物が出てきたらそこからが本番のはずである。そして2点目に、政府からの命を受けた真柱が僅か3ヶ月前に「高屋山上陵=内之浦の北方村国見岳」との説を神祇官へ報告しているのに、そことは違う場所を高屋山上陵と見据えて調査を行っている点だ。

これは私の推測だが、この調査は当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸が行わせた可能性が高い。廃仏毀釈運動の実働隊となった常備隊が関係したことや、1年後に彼が『高屋山陵考』を著すことを考えても、この時期に神割岡の調査を必要とする人間は頼庸以外ほとんど考えられない。そして彼は高屋山上陵=神割岡説を補強するため発掘調査を行わせたものの、思惑とは違うものが出土したために急遽取りやめたのではないかと思う。

頼庸がその新説にこだわったのは、もちろん自説を確信していたということもあったろうが、山陵の考証が中央の国学者に認められるためのステップだったことを考えると、頼庸としても神代三陵の考証で名を上げようと意気込んでいたということがあるのだろう。事実『高屋山陵考』は彼の最初の学術的業績になった。今で言えば、頼庸にとって初めてのファースト・オーサー(第一著者)論文が『高屋山陵考』だったわけである。

高屋山上陵の位置については、もう一つ重要なエピソードがある。それは、まさに明治5年6月23日に天皇が神代三陵を遙拝した際に向かっていたのは、先ほど挙げた定説化していた場所であって、高屋山上陵については頼庸説の神割岡ではなく、国見岳の方だったということだ。つまり明治5年の段階で、「高屋山上陵=国見岳」は内定していたと考えられる。

にもかかわらず、明治7年の神代三陵治定の裁可では、高屋山上陵は神割岡へと変更し確定されたのである。

遙拝、つまり遠くから拝んだだけにしても、天皇が公式に国見岳を高屋山上陵として扱い、国見岳へ対し金幣を共進しているという既成事実があったのに、明治7年の裁可では頼庸説の神割岡が採択された。

このことが示唆するのは、田中頼庸が政府内でも大きな影響力を持つようになったということだ。そもそも、微臣に過ぎない頼庸の建白が容れられ、天皇が神代三陵を遙拝したということを考えてみても、頼庸にはその肩書き以上の存在感があったように思われるのである。

頼庸は栄転していった明治政府で、どんな仕事を手がけ、なぜ大きな存在となっていったのだろうか。それを考えるためには、明治の神祇行政史を振り返ってみる必要がある。

(つづく)

【参考文献】
『後醍院真柱の略歴』1928年、後醍院 良望 編
『古事記伝 第3巻(十七之巻〜二十四之巻)』1930年、本居宣長
『古史伝(第三十一巻)』 1887年、平田篤胤
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
 「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男

2018年5月17日木曜日

皇軍神社と新しい神道——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その11)

廃仏毀釈の嵐が最後に残った名刹をも吹き飛ばそうとしていた明治3年11月、鹿児島の城下に奇妙な神社が創建された。その名も「皇軍神社」、訓じて「すめらみくさのかみのやしろ」という。

皇軍神社は、御軍神社という神社を母体にして創られたもので、翌月には軍務局の隣に遷座された。祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、楠木正成、そして島津歴代の名将7人、すなわち忠久、忠良、貴久、義久、義弘、斉興、斉彬、の計10座であった。

まず、この祭神が奇妙だった。武甕槌神と経津主神という神話に登場する神と、楠木正成と、それから島津歴代の名将が祭神として同列に並んでいるのは、いかにも不思議なとりあわせだ。

皇軍神社が、軍務局の隣に遷されたのも特殊だった。この神社は、その設立から普通の神社とは全く異なっていた。

そもそも、「皇軍」神社という名前も破格なものだ。鹿児島に厳密な意味での「皇軍」はなかったのだから。この奇妙な神社は一体何だったのか。

皇軍神社のご神体は楠木正成の木像であったが、これは幕末の志士有馬新七が伊集院の石谷に建立した「楠公社」に祀ったものを遷したものである。皇軍神社の奇妙な祭神群の中核を為すものは、楠木正成だった。

ここで少し、楠木正成崇拝(楠公崇拝)について説明する必要があるだろう。

楠木正成は後醍醐天皇の命を受けて鎌倉幕府を倒し、「建武の新政」(後醍醐天皇の統治)を実現させた。幕末の「尊皇の競争」の中で、天皇への忠誠を貫いた楠木正成への崇拝は全国的に急激な盛り上がりを見せる。特に水戸学においては、楠公崇拝だけでなく天皇に忠勤を尽くしたものも神として祀ることまで主張された。さらに後には楠木正成の鎌倉倒幕は、徳川幕府の倒幕へと暗になぞらえられた。楠木正成は倒幕を現実化した忠臣として、反幕勢力にとっての理想像となっていった。

薩摩藩でも、既に元治元年(1864年)、島津久光が楠木正成が果てた地である湊川(兵庫県)に神社を建立するよう願い出ている。久光は尊皇の志を表そうとしたのだろう。この提案は裁可されたものの幕末のゴタゴタのためうやむやとなったが、同種の提案は慶応3年に尾張藩主徳川慶勝からもあり、これに刺激された薩摩藩は、明治元年に岩下方平らが東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)へ改めて神社建設を建白。一方水戸藩もこの建設の一任を願い出た。朝廷からも千両の寄附があり、薩摩と尾張、水戸が競うような形で楠公崇拝の神社が計画され、これは明治5年に「湊川神社」として実現した。

ある意味では、皇軍神社はこの湊川神社の先蹤となるものであった。殉国者を神として崇め、忠君愛国を宗教的な教えにまで昇華させようとしたのだ。その上、宗教と軍事を結びつけた。

軍務局の隣(一説には練兵所の中であったともいう)にあったことから、やがて私学校が創建されると皇軍神社はその守護神とされた。さらに皇軍神社は、県内各地にも分祀されたらしい。垂水に分祀された皇軍神社が早くも明治4年に建立されているところを見ると、県庁は皇軍神社を各地で崇拝させ、宗教的軍事思想を広めようという明確な意向があったのだろう。

思えば島津久光が維新後に鹿児島でやった主立ったことと言えば、廃仏毀釈と、藩政を軍事組織へと組み替えることの二つなのだ。軍功があったわけでもない久光の父斉興が皇軍神社に祀られたことを考えると、この神社の設立にも久光の強い意向があったのではなかろうか。皇軍神社は久光が行った宗教と軍事の二つの改革を象徴する神社だったように思われる。

そして皇軍神社は、宗教と軍事の露骨な結託という意味で、昭和になってからの靖国神社の存在の先駆となるものでもあった。既に鹿児島には、後の「国家神道」の萌芽があったのである。

この奇妙な神社が創建されたのは、一体いかなる神道理論に基づくものであったか。

というのは、薩摩藩を席巻した平田派の国学では、「復古神道」すなわち古えの神道の姿を取り戻すことが大原理だった。「王政復古の大号令」でも、「神武創業の始めに基づき」とされている。このような新参の神社を創建することは、「復古」の名に悖るのではないか。

事実、明治4年に神社の序列を定める社格制度が出来た時も、『延喜式』の神名帳に掲載された神社が正統とされている。しっかりと古代に倣っているのである。「復古」を旗印にする限り、新しい神社の創建など問題にならないはずだった。しかし実際には、「復古」の名の下に、神道は新しく作りかえられていくのである。

「王政復古の大号令」において「神武創業の始めに基づき」と謳われた背景には、岩倉具視のブレーンとなった平田系国学者の玉松操の存在があった。岩倉が新国家の構想を考えていた頃、彼は失脚し京を追われて京都郊外の村で逃亡生活を送っていた。岩倉が新国家樹立のコンセプトとして「復古」を思い描いたとき、新制度を具体化していく上で古代社会の知識を持ったものが必要になり、そこにちょうど現れたのが玉松だった。

玉松ら国学者は、岩倉に「建武の新政では十分ではない、神武創業にまで復るのだ」と教唆したと言われる。楠木正成が実現した「建武の新政」は、実際には短い間で瓦解したという事情もあったためであろう、明治維新の理想は神話的古代に置かれ、歴史的事実が全く明らかでない神武創業の始めにまで復ることが必要とされた。

しかし、この荒唐無稽な「復古」は、逆説的に明治政府を開明的にする余地を残していた。いや、おそらく岩倉は気づいていたのだろう。歴史的に明確な「建武の新政」を理想にしては、彼が構想していた新国家の青写真を現実化できないことに。私は「神武創業の始めに基づき」という旗印は、岩倉によって周到に用意されたものであったと思う。歴史的には霧の中にある「神武創業」を理想にしたことで、「復古」の名の下に維新政府は事実上フリーハンドで制度を設計することができた。「復古」は、歴史的なある時点に戻るという文字通りの意味ではなく、今をただ勇ましい神話的古代になぞらえることでしかなかった。

だから、「復古神道」が意味するところは、実際には古代の神道に戻るというものではなかった。「神武創業」まで復ることが定められたとき、神道は国家にとって必要な宗教として作りかえられていく宿命だったのかもしれない。そもそもこれを構想した平田篤胤自身、『古事記』や『日本書紀』に基づきながら、それらのどこにも書いていない古代の有様や魂の行方を考えていたのだ。

「皇軍神社」が拠っていたのは、新しい時代の「神道」だった。それは、古くからの神道とは全く違う、忠君愛国を教え込むための新しい教えだった。そして、楠木正成を忠臣として崇拝するのみならず、島津歴代の名将をも神としたことは、国家に対し功績を上げた人間は神となるという思想も表していた。戦死した人間が神として祀られる、靖国神社の仕組みを先取りしていた。

国家に尽くして死ねば神になるという観念は、古くからの日本人の死生観にないものだ。あったのは、現世に強い怨念を残して死んだものは篤く祀らなければならないという、御霊信仰の方だった。古代の人々は怨霊を恐れた。菅原道真を祀った北野天満宮はその代表的な例だ。国家に功績のある人間を祀るようになるのは、せいぜい織田信長以降である。

しかしこの殉国者を神として祀る思想は幕末から急速に広まっていくのである。元治元年(1864年)に鹿児島に創建された島津斉彬を祀る「照國神社」もその一つだ。各地で、このような神社が創建された。「皇軍神社」は、その極端な例だった。

一方で、このようにして祀られた神社は、当然『延喜式』に基づくものではなかったから、社格制度の枠組みには入らなかった。そこで天皇に忠勤を励んだ臣下などを祭神として祀る神社のために「別格官幣社」という制度が新たに設けられ、その第1号としてあの湊川神社が列格された。追って、靖国神社が別格官幣社の中でもさらに特殊な神社として特立していく。

「復古」で始まったはずの明治維新は、いつしか「復古」の名の下にあらゆるものをつくりかえる力を持った。田中頼庸たちが廃仏毀釈運動の中で鹿児島を塗りつぶそうとしていた「神道」は、「復古」というよりも、全体主義国家の「国教」として新たに創出されたものだった。あたかも、神武天皇陵が幕末になって新たに築造されたようにだ。

廃仏毀釈、というと、仏教への弾圧のイメージが強い。しかし仏教への圧力と同じくらい、実は神道へも強力な介入と弾圧があった。

元々、市来四郎らが実施した前期廃仏毀釈においても、寺院だけでなく神社も統合整理の対象となっていた。民衆が自然発生的に信仰してきた神社は、新しい国家にとって不要だった。元来の神道は、仏教と共に引き裂かれていった。

まず行われたのは神仏分離だった。廃仏毀釈以前、鹿児島に存在していた4470の神社のうち、ご神体が仏像でなかったのは、ただ一社しかなかった。一社の例外を除き全ての神社のご神体は仏像であったのだ。神道と仏教は分かちがたく共生しあっていた。しかしこれが「神仏混淆」と批判され、廃仏毀釈運動では、これら仏体のご神体を強制的に取り除き、新たに神鏡などをつくって祀らせた。さらに、民衆が自然発生的に祀っていたものなどは、「由緒が明らかでない」として近くの神社に合祀させた。八幡宮や諏訪社などは一郡の中に何十箇所もあったため、一村に一つあるいは二つと定めて他を強制的に合併させるなどした。寺社のリストラは、人々の信仰とは無関係に、神社を整理統合していった。

後期廃仏毀釈になると、より積極的に信仰が改変されていく。「復古神道」の実現を名目として、『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に書かれていない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが実施されるのである。

例えば、鹿児島の宇宿に今も残る「天之御中主神社」は、元は「妙見神社」であった。しかし「妙見さま」は『古事記』等には出てこない土着の信仰だ。復古神道では、そのような神は存在してはならなかった。「妙見さま」は北極星の信仰であったため、天の中心ということで『古事記』に登場する天之御中主と同一視することになり、祭神を「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」にすげ替えることによってこの神社は存続した。こうして「天之御中主神社」が生まれた。それまでの信仰は否定され、新しい神が鎮座した。明治5年頃のことである。

島津氏の尊崇も篤かった妙見神社でさえこれだから、民衆の信仰が「淫祠邪教」とされて蹂躙されるのは時間の問題だった。本来の神社への信仰は破壊され、首だけがすげ替えられた新しい神社が勃興した。 ただ「山の神」として崇められていた祠は「大山祇神社」、「祇園天王」は「八坂神社」となるなど、社名と祭神が暴力的に画一化されていった。

こうしたことは全国的に起こっている。ただし神社の改称を徹底的に行ったのは一部の地域に限られるようだ。あまり熱心に行わなかった地域では、政府の指導に表向きには従ったが、網羅的な改変まではやらなかった。もちろん鹿児島は、最も激しく、徹底的に行った地域の一つである。

神社の改変は、当然ながら信仰の改変をも伴った。元来の神道には教義らしい教義がない。神道は倫理的な教えではなかったし、自己を陶冶していく教えでもなかった。そこにあったのは、潔斎の勧めと死穢を避ける儀式、豊穣を祈り収穫に感謝する儀礼といった、自然のサイクルにまつわる信仰であった。しかしそういったものは、新しい神道には形式的にしか引き継がれなかった。

新しい神道は、民衆の信仰を「祖先崇拝」と「皇祖崇拝」に一元化し、忠君愛国のために身を捨てるように勧めるものであった。後には、天皇・国家のために殉死することが最高の幸せであるとまでされたのである。新しい神道は、「国民」を天皇中心国家の一兵卒として教化するためのものであった。

鹿児島の廃仏毀釈においては、後に「惟神の道(かんながらのみち)」、そして「国家神道」と言われるようになるこうした新しい神道はまだはっきりとその姿を現しているわけではなかったが、『神習草』の配布などを考えると、間違いなくその先鞭をつけていた。

このように、鹿児島の廃仏毀釈は寺院を徹底的に消し去ったのみならず、神社をも大規模に整理統合し、その信仰を強制的に改変してしまった。確かに仏教が蒙った被害も甚大であった。しかし仏教はそれを乗り越えて、再興することができた。しかし元来の神道が有していた信仰は、明確な教義に基づくものでなかったために、一度破壊されると元の姿が分からなくなった。民衆の自然発生的な信仰はどこにも記録されていなかったから、一度失われるともはや再興は不可能だった。

鹿児島の廃仏毀釈、そして政府の神仏分離政策は、表面的にはあからさまな神道優遇、仏教排斥の政策であったが、その内実を見てみると神道が蒙った被害は取り返しがつかないもので、その意味では仏教に対してよりも大きな打撃が加えられたのである。

鹿児島の後期廃仏毀釈を主導した田中頼庸が、こうした神道の改変にどの程度携わっていたのかは、史料が残っておらずわからない。しかし状況証拠を付き合わせてみれば、このような強力な宗教改革運動を成し遂げられるのは頼庸以外いない。

明治4年の廃藩置県を迎えても、田中頼庸は所属を藩庁に変えてしばらく同種の仕事をしていたらしい。というのは、鹿児島県令として赴任してきた大山綱良が彼の叔父であったため、その縁から藩庁に勤めていたようである。

ところが同年、中央政府に教部省が設置されたことに伴い、田中は職を辞して同省に教部大録として出仕した。今で言えば中堅官僚、課長クラスである。鹿児島で宗教改革に邁進した田中頼庸が、今度は中央政府に取り立てられたのである。栄転と言わなければならない。

彼の建白に基づいて明治天皇が鹿児島で神代三陵を遙拝するのが、約1年後のことであった。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県史 第3巻』1941年、鹿児島県 編
『薩藩勤王思想発達史』1924年、坂田長愛(講演記録)
神道指令の超克』1972年、久保田 収
靖国神社』1984年、大江 志乃夫
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
『垂水市史 上巻』1974年、垂水市史編集委員会 編

2018年5月8日火曜日

日新公没後450年と、草の根の「日新公いろは歌フォトブック」

2018年は、日新公没後450年である。

日新公とは、島津日新斎忠良(じっしんさい・ただよし)。島津中興の祖と言われる、加世田ゆかりの戦国時代の名君である。

日新公の生きた時代は戦乱の世であった。鹿児島でも、敵と味方が入り交じり、各勢力がモザイクのように絡み合っていた時である。日新公は伊作島津家に生まれたが、幼い頃、父・伊作善久(よしひさ)が弑逆(しぎゃく:臣下に殺されること)され、また祖父・久逸(ひさはや)も戦で討ち死にして厳しい境遇に置かれた。

しかしやがて相州島津家の島津運久(よきひさ)が日新公の母・常磐を妻として迎え入れる。こうして若い日新公は伊作島津家と相州島津家という2つの島津分家の双方の当主となり、田布施(金峰町)の亀ヶ城を居城とした。

この頃は島津家同士が争い合っていた。いわば親類同士での殺し合いである。日新公の相州島津家、薩州島津家、そして島津本家の三つ巴の争いであった。当初は薩州島津家の島津実久(さねひさ)が優勢であったが次第に日新公が勝利を重ね、遂に天文7年(1538年)、薩摩半島南部の実久の拠点だった加世田を夜襲により攻略。時を同じくして日新公の子・貴久も鹿児島方面で実久勢を斥け、日新公・貴久親子は相争っていた島津家を統一した。

こうして日新公が島津家を統一したことにより、島津家は強力な勢力として成長していく。子の貴久は日新公の死後薩摩国を平定。また孫にあたる「戦国薩摩四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)」の時代には、薩摩・大隅・日向の南九州3カ国を統一し、薩摩藩の基礎となった。

日新公は、このように優れた武将であったが、彼が尊崇を受けたのはそればかりが理由ではなかった。例えば領地では産業の振興に努め、仁政を施したので領民が喜んだというし、さらに日新公は文化を保護し、学問を振興した。彼自身も幼い頃、真言宗の海蔵院というお寺に預けられて厳しい教育を受けており、さらに長じてからも桂庵玄樹の学統を継ぐ学僧から禅や儒学を学んだ。

そうした学問が基盤となっていたのだろう。日新公は家督争いの最中にも、激戦地となった各地で敵味方問わず戦没者を供養する仏事を挙行し、六地蔵塔を建てた。血を分けた親類同士が殺し合うのだから勝利しても後味は悪く、寂寞とした思いがあったのではないかと思う。だから戦が終われば敵味方を区別せず供養を行った。加世田に残る六地蔵塔はその一つである。

また、日新公は加世田の攻略後しばらくして、幼少期から学んだ儒学や仏教の哲理をいろは47文字で始まる和歌集にまとめた。これは「いにしへの道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」から始まる心を鍛える教えであり、後に薩摩藩士の子弟教育の根幹として用いられた。

すなわち日新公は、相争っていた島津家を統一するとともに薩摩国平定の道筋をつけたという軍事的・政治的な業績と、教育・文化を保護し「日新公いろは歌」という薩摩藩士の道徳の基礎となる教えを編んだという2面において、後の薩摩藩の基礎をつくった人物なのである。

そんな日新公が亡くなってから、2018年で450年になる。

日新公が晩年隠居したのが加世田で、また死後には現在の竹田神社のところにあった日新寺(当時は保泉寺という)に葬られていることから、日新公と加世田との縁は深く、今年はいくつかの記念事業が計画されているようである。特に7月21日~23日は「日新公ウィーク」とされ、仙巌園では7月21日に「三州親善かるた取り大会」があるそうだ。この「かるた」はもちろん「日新公いろは歌」を使う。

そういった行政が計画しているものとは別に、市民からの自然発生的な取り組みもある。その一つが、冒頭写真に掲げた「日新公いろは歌フォトブック」。

南さつま市各所の風景写真とともに「日新公いろは歌」が解説つきで掲載されている。「いろは歌」の解説チラシは行政なども作っているが、こうして風景とともに眺めるとまた違った雰囲気になると思う。

実は私自身も、以前「日新公いろは歌」に興味をもってまとめたことがある。

【参考記事】郷中教育の聖典、日新公いろは歌

しかし内容について考えるだけで、こういう風に端正にまとめて若い人にも受け入れられる形にするということは思いもよらなかった。 行政が作っている解説チラシはあまり読む気がおきないものだが、これなら興味がない人でも手に取りやすいと思う。

また、内容には「いろは歌」だけでなく、日新公やゆかりの史跡について簡単にまとめてあり、観光の記念・おみやげにちょうどよい。こういう資料があると、あとで思い出そうという時に役立つ。

ちなみにこのフォトブック、「砂の祭典」で1冊500円で販売していたので私はそこで買ってきた。今後は物産館などでの販売を計画しているということである。

このフォトブックを作っているのは、「ミナミナマップ」という地域情報発信プロジェクト。今風に言えば「WEBメディア」。WEBでの発信だけでなく、本体活動である南さつま市のマップづくりや、お土産づくりといった様々な活動を展開中である。

最近、自分の研究(鹿児島にはなぜ神代三陵が全てあるのか等)に時間を取られて、このブログの更新があまり出来ていないので、南さつま市の情報を欲している方はこちらのブログやFacebook等のSNSをフォローすることをオススメしますよ。

【ミナミナマップ】
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※この他紙のマップがありますがそれについては気が向いたら後日書きます。

2018年4月4日水曜日

神道国家薩摩——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その10)

島津忠義夫人照子(暐姫)の墓(川田達也氏撮影)
鹿児島の後期廃仏毀釈は、苛烈であった。

藩内にあった1066ヶ寺が全て廃され、2964人の僧侶は全員が還俗させられた。仏教的なるものは悉く毀(こぼ)たれ、鹿児島から一掃された。日本国中を見ても、これほど徹底的な仏教の破壊が行われたのは稀である。

この後期廃仏毀釈は、明治政府の「神仏分離令」(慶応4年3月)を発端として始まったが、当初は前期廃仏毀釈の延長線上の運動であったらしい。それが、藩内に一寺も残さない、怖ろしいまでに徹底的な運動となっていったきっかけは、田中頼庸の建言だったという。

後に鹿児島県令となった渡辺千秋が、田中頼庸の著書『鹿児島紀行』に寄せた序文でこう述べている。

「(頼庸は)平素敬神愛国の道を講じ、尊内卑外の説を持つ。深く仏教の蠧害(とがい)を嫉み、排斥余力を遺さず。此を以て自ら任じ、遂に慨然として廃仏の議を島津久光に進む。物論之を為すに洶洶(きょうきょう:どよめき騒ぐ)たり、蓋し仏教の浸淫積弊は払うべからず。而して久光は断じて其の議を納れ、廃仏令を封内に布く」(原文旧字・漢文)

これによると、頼庸は仏教を排斥する事業に携わったが、廃仏——すなわち仏教の全廃を島津久光に建言し、それが世論に動揺を与えたものの、久光は敢然それを受け入れ「廃仏令」を布いたという。

事実、明治元年、頼庸は「神社奉行」にも任命され、廃仏毀釈の主担当者となっていた。そしてこの建言は、市来四郎らのそれと比べれば分かるように、もはや財政上の理由などおくびにも出さず、はっきりと「仏教の蠧害」が問題であるとしている。仏教が国を蝕んでいる害毒であるというのである。頼庸の建言によって廃仏毀釈は「寺社のリストラ」を超え、宗教的な破壊行為へとエスカレートしていった。

これを受けて久光が布いた「廃仏令」とは、明治元年9月に桂久武の名で出されたもので、藩内の寺院を大規模に統合整理し、神社における仏教的要素を取り除いて神道一筋にするという命令である。これによって藩内の寺院は強制的に統廃合させられ、明治2年秋に藩内に残っていたのは、歴代藩主の菩提寺や祈願所といった島津氏ゆかりの名刹28ヶ寺のみになった。この時点で97%の寺院が廃寺処分になったことになる。

しかし、これすらも廃仏毀釈運動の一面に過ぎなかった。というのは、仏教を破壊するだけが頼庸らの目的ではなかったからだ。彼らの真の目的は、神道を国教化することにあった。廃仏毀釈は、生活のあらゆる面から仏教的色彩を取り除き、そこに神道という新しい信仰を植え付けるための宗教的空白を生みだすために行われたのである。

「神道国教化」の一つの転機となったのが、若くして亡くなった藩主島津忠義夫人の照子の葬儀を「神葬祭」によって行ったことであった。明治2年3月のことである。この「神葬祭」は、島津一族が神道へ公式に転宗したことを意味した。もはや仏教は、島津一族にとっても異教となった。

それまで、歴代藩主はもちろん、庶民に至るまで葬式といえば悉く仏式であった。歴代藩主の墓所も、寺院に存在していた。それが、寺院を保護する最後の箍(たが)でもあった。しかし島津一族が神道に転宗したことにより、もはや寺院を保護する理由はどこにも存在しなくなった。

城内の護摩所や看経所(かんきんじょ)は4月か5月には廃止された。仏教的な祈祷の否定である。さらに6月には代々の藩主霊祭を神式で行うこととした。こうしてまずは藩主自らが仏教を棄て神道に帰依し、それは追って民間へも強制された。

葬祭は全て神式によるものとされ、盂蘭盆会は仏教的だからと禁止された。

こうした神道国教化政策の行き着くところ、最後まで残された名刹28ヶ寺をも破壊せずにはおかなかった。

こうして島津家の菩提寺であった「福昌寺」までもが廃寺となり、代わりに歴代藩主の霊を祀る「鶴嶺(つるがね)神社」が「南泉院」跡に創建された。他、島津忠良(日新斎)の墓所「日新寺」は「竹田神社」となり、島津貴久の「南林寺」は「松原神社」、 島津義弘の「妙円寺」は「徳重神社」とするなど、歴代の藩主までも遡って神道に改宗させた。

この帰結として、例えば島津斉彬はその死後、戒名(順聖院殿英徳良雄大居士)から「順聖院(じゅんしょういん)さま」と呼ばれていたが、この仏教による戒名も廃され、斉彬は「明彦神勲照国命」となった。このように、歴代藩主の戒名が撤廃されて墓標から削り取られ、神名が新たにつけられてそこに刻まれた。仏教に帰依してきた歴史、仏教によって菩提を弔ってきた歴史すらも否定して、つくりかえてしまったのであった。

そして明治3年の末までに、鹿児島から寺院はおろか仏教的なるもの全てが消し去られた。

しかし、仏教を一掃したからといって、人々が神道に帰依するかというとそんなことはない。神道という新たな信仰を建設しないことには、神道国教化は成し遂げられないのである。実は、その領民教化の役割を担ったのが、頼庸が在籍した「国学局」だったのである。頼庸は、一方では「神社奉行」として廃仏毀釈を断行し、一方では「国学局」の都講として神道の理論を現実化することに務めた。

国学局の第一の仕事は、神道解説書である『敬神説略』の刊行であった(明治3年2月(一般への販売は10月))。著者は、後醍院真柱の門人で国学局学頭助の関盛長。本書は「神国の人の限りは神の御恵の中に胎れて(中略)よしなき外国の妖々しき蕃神等が世話になるべき事ならぬ」「今や皇政御復古、神武天皇御創業の始に復せらるとの勅命により、神仏混淆の御社をはじめ何事も清浄なる皇国風の神髄なる道に復させたまひ(中略)往年より無用の寺院は廃棄合院の命令を下し給ひて、御祖神をも殊更に神と崇め祭らせ給へば…」と述べ、廃仏毀釈を正当化し、それに替えて「神国」としての敬神観念を植え付けようとするものであった。

さらに翌月には、『敬神説略』のダイジェスト版とも言うべき『神習草』(白男川済之丞、白男川民次郎著)を刊行。本書ではまず神話の大略を述べた後、「貴賤上下となく何れも神代の神孫亦御代御代の天皇の御枝葉の裔孫」であるからひたすらに敬神に務めよと述べ、さらに神道の具体的実践の方法として、毎朝神拝をすることを勧めるとともに、伊勢神宮と祖先を拝する祝詞を掲載している。そして、藩ではこれを全戸に一部ずつ配布して、朝夕拝読させようとした。

実際に、藩庁が『神習草』を全戸配布したかはよく分からない。また全戸と言っても、おそらく百姓などは文盲も多かったため除外されており、城下の限られた範囲であると思われる。しかし、この神道実践の勧めとも言うべき小著を広く配布したのは事実であろう。さらに藩庁では、毎月3日を「国書講義の日」と定めて国学の講義を定期的に行うこととし、五等官以上の聴講を命じた。この講義が国学局によって行われたことは言うまでもない。

こうして、(1)島津一族の神道への転宗、(2)全寺院の廃仏、(3)葬儀の神道式への転換、(4)神道書の刊行と一般への配布、(5)神道儀礼の強い勧奨、といったことが明治2年から矢継ぎ早に実行された。後期廃仏毀釈は、鹿児島から仏教を一掃するだけでなく、神道を国教化するという構想が推し進められ、それは「宗教改革」と呼んでよいものであった。この宗教改革によって「神道国家薩摩」が一応の完成を見たのが、明治3年の末のことである。

この政策は島津久光の強力なリーダーシップによって実現されたものであることは疑いない。そして神道の祭式を新たに定めたり、廃仏の理論を提供する上で大きく働いたのが田中頼庸だった。かつて社会から距離を置き、勉学だけに生きた頼庸は、いつのまにか社会そのものを根底から変える仕事に手を染めていた。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島紀行』1888年、田中頼庸
神道指令の超克』1972年、久保田 収
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
『島津忠義公史料第7巻』1980年、鹿児島県維新史料編さん所編
『神習草』白男川済之丞、白男川民次郎

2018年3月25日日曜日

薩摩の国学と廃仏毀釈——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その9)

田中頼庸(よりつね)は、鹿児島で明治の改元(慶応4年、1868年10月)を迎えた。

そして翌明治2年、版籍奉還の後に藩校造士館「国学局」が設立され、頼庸はその都講として起用された。国学局は、学頭・学頭助・都講・授講以下の職員で構成されており、頼庸の待遇は今で言う教授クラスだったのではないかと思われる。貧窮の独学者にとって、大抜擢とも言える人事だった。

この国学局とは何だったのだろうか。そして頼庸はなぜ国学局の都講として抜擢されたのか。このあたりの事情についてはほとんど知られていない。そこで時間を遡って、鹿児島の国学を巡る事情について振り返ってみたい。

元来、薩摩は国学との関わりは薄い土地であった。

全国に数多くの門人をもった本居宣長の元へも、薩摩・大隅からはただの一人も入門していない(ただし薩摩藩領だった諸県郡高岡郷出身の者が3人だけ入門)。宣長の人気がなかったというよりも、国学は薩摩では禁止されていたらしい。平田篤胤と島津重豪には交流があったというが、篤胤に入門しようとした後醍院真柱(みはしら)が天保10年、眼病治療を口実に上京したことを考えても、薩摩では国学は異端とされおおっぴらには学べなかったようだ。

そんな中、薩摩に国学を導入したのは島津斉彬だった。斉彬は嘉永4年の襲封後、鹿児島に帰着するとすぐに八田知紀、関勇助、後醍院真柱らに社寺陵墓の取調べを申しつけた。嘉永朋党事件で弾圧された国学グループが、一躍藩主の直轄事業に起用されたのである。これは後の廃仏毀釈や神代三陵の画定に繋がる調査とみられる。

一般には、斉彬といえば蘭癖——西洋思想の信奉者だったと思われており、それは事実である。しかし斉彬は洋学と同じくらい、国学や勤皇思想を鼓吹した。斉彬は「天子より国家人民を預かり奉り候」といい、土地人民は元来は(幕府ではなく)朝廷より預かったものという認識を示した最初の薩摩藩主だった。

また斉彬は、藩校造士館で国学が講じられていないことを不満とし、後醍院真柱を造士館の訓導として起用し古学(古典、六国史、律令格式等)に力を入れさせた。さらにそれでは不十分と思ったのだろう、漢学を教える造士館と並んで国学館・洋学館を創設することを企図した。この計画は斉彬の突然の死によって実現はしなかったが、西洋の技術と日本の精神を両方重んずる斉彬の考え方をよく示していた。

こうなってくると、新時代の思潮として薩摩藩でも国学が人々の注目を集めるようになる。後に「誠忠組」を形成することになる若者たちにも、国学への意欲がわき上がったことだろう。事実「誠忠組」の中で、大久保利通の親友だった税所篤、組中で最も家格が高く頭の位置づけにあった岩下方平(みちひら)は平田篤胤の没後門人となっている。

また、「誠忠組」では篤胤の『古史伝』(37巻)を回し読みしていたが、これを聞いた島津久光は『古史伝』を所望。大久保らは『古史伝』を少しずつ久光に提出するとともに、天下の形勢や自分たちの意見の書状をそこに挟み込んで久光へ建言していたという。

久光が『古史伝』を大久保らに所望したことを考えると、久光は国学を体系的に学んだことはなかったようだ。しかし彼は幼い頃から闇斎学に親しんでいた。これは朱子学の一派で廃仏的な傾向を持つ儒学であり、創始者山崎闇斎は神道と儒教を融合させた垂加神道を提唱してもいる。この闇斎学は、薩摩に国学が興る前かなり広まっていた教えであり、薩摩の尊皇思想の源流の一つであった。もともと久光は学問的な性格で和漢の書籍に通じ、斉彬もその見聞の広さと記憶力には舌を巻いていたくらいである。歴史好きだった久光が古学を中心とする国学へ傾倒してゆくのは自然のなりゆきだったろう。

かくして、かつて異端として斥けられていた国学が藩主斉彬によって藩学へ採用され、久光がそれを加速させた。平田篤胤の門下には薩摩人が集い、特に文久2年からは激増している。本居宣長の門人には一人の薩摩人もいなかったのとは隔世の感がある。こうして薩摩の地には平田派の国学が盛行し、遂に廃仏毀釈へと突き進んでいった。国学者たちは、古来より続く神道こそが至純であり、仏教は外来の邪教であると考えたからであった。今や仏教こそが異端とされた。

鹿児島の廃仏毀釈は、大きく前後2期に分けられる。前期が明治維新前、後期が維新後である。

前期廃仏毀釈は、久光の側近だった市来四郎や黒田清綱、橋口兼三といった少壮のものたちが家老桂久武に建言することで始まった。彼らが言うには、この切迫した時勢にあって僧侶や寺院は無用なものであるから、僧侶は還俗させてもっと役に立つ仕事に就かせ、寺院の財産は没収するのがよいと。この建白はすぐに藩主島津忠義と久光に受け入れられ、慶応2年5月には寺院廃合取調掛の任命があった。任命されたのは、家老桂久武を初め、島津主殿(大目付兼寺社奉行)、橋口与一郎(記録奉行)、市来四郎(寺社方取次)他多数であり、既に60代だった後醍院真柱(学校助教授)もそのうちの一人として理論的支柱となった。

この前期廃仏毀釈は、桂久武を初め市来四郎など藩の財務担当者によってリードされたことに象徴され、また建白でもはっきりとそう述べている通り、思想的なものというよりは、財政上の施策という性格が強かった。市来四郎などが元々廃仏的な考えを持っていたのは事実としても、少なくとも名目上は財政的な問題への対処という形を取ったのである。というのは、この頃の薩摩藩はかなりの金欠に陥っていたのだ。

薩摩藩はかつて500両ともいう天文学的な借金を抱えていたが、調所広郷の改革によってこれが好転し、斉彬就任時には50万両を超える蓄財をなすに至っていた。斉彬は集成館事業などでこのうち7万5千両ほどを費消したと見られるものの、それでもまだ財政が逼迫しているとは言えなかった。

また、久光は文久2年に幕府へ「三事策」を突きつけた際、合わせて鋳銭の許可を得ている。これにより市来四郎が主任となり「琉球通宝」を鋳造し、またその裏で「天保通宝」を贋造した。文久2年から慶応元年まで合計290万両もの貨幣を造って3分の2もの巨利を得、藩財政を潤したという。

ところが幕末に向かうにつれて、藩財政は急速に悪化していった。薩英戦争や軍事増強、集成館事業の再建、留学生の派遣など、薩摩を急ごしらえの「近代国家」とするために度外れた経費が必要だったからだ。

生麦事件の賠償金(扶助料)2万5千ポンド(6万333両余)は幕府から借財してそのままになったが、戦争時にイギリス艦隊に焼かれた汽船3隻は合わせて30万両もした。薩摩藩は薩英戦争後にも13隻の汽船を購入しており、戦争前に購入していた4隻と合わせて計17隻もの蒸気船を購入している。これは幕府以外では諸藩において筆頭の購入数であり、この費用が巨額だったことは想像に難くない。

さらに斉彬死後に中断し、また薩英戦争で破壊された集成館事業も再建しなくてはならなかった。洋風の石造りによる機械工場が建設され、周辺には鋳物工場、木工工場等が次々に建てられた。蒸気機関や各種工作機械により大砲や弾丸の製造、艦船の修理などが行われた。さらにそうした機械類を使う技術者の育成や、洋式軍事技術の修練にも取り組み、慶応元年には総勢19名を海外渡航の幕禁を犯して海外留学させた。慶応3年には留学生の一人五代友厚が中心となり我が国最初の洋式紡績工場を鹿児島の磯に建設してもいる。

こうした意欲的な事業を支弁するための経費は厖大となり、遂に薩摩藩では慶応4年、オランダ貿易会社のボードインから洋銀76万ドルを借り入れた。薩英戦争時には幕府に用立ててもらうことも出来たが、慶応年間にはもはや幕府とは敵対的な関係になっており、とても幕府から借金することなど不可能なのだ。藩内から、どうにかお金をかき集めなくてはならないのである。財務担当だった桂久武や市来らが、無為徒食と見なした寺院に注目したのは必要に駆られてのことだったであろう。市来は廃仏毀釈が行われる以前に、鋳銭の材料を確保するため寺院の梵鐘を供出させることを構想していたほどだった。

こうして鹿児島の廃仏毀釈が始まった。

まず、藩内の寺院の調査が行われた。その結果、寺院数1066ヶ寺、寺院所領石高15118石、僧侶総数2964人、神社数4470社、堂宇総数4286宇であり、藩庫より寺社にあてがう玄米や寺社の山林等地所の免租といった負担を合算すれば10万余石、寺院を廃してその梵鐘仏具等を処分すれば銅10万余両を得ることとなる、というのである。

俗に「薩摩77万石」といっても実際には水田に適した土地は少なく、薩摩藩の正味生産高は35万石程度だったと見られているから、10万石以上の節約ができるとすれば財政を大幅に好転させることができる。

廃仏毀釈は、まずは大寺院の支坊末寺を廃することと、神社の別当寺院を廃することから始められたらしい。大寺院の支坊末寺というのは、例えば常駐の住職がなく石高もない寺院といったものも多く、そうしたところは廃寺への抵抗も少ないと見たのだろう。そして別当寺院というのは、神社を管理する寺院のことで、廃仏毀釈以前は神社といえばむしろこの別当寺院の方に神社の管理機能が備わっていることが多かった。神社は僧侶によって保たれていたのである。これを廃することは神社から仏教的要素を除去することを意味し、明治政府の神仏分離政策が行われる前に薩摩では神仏分離が実施されていることが注目される。

前期廃仏毀釈による廃寺は、慶応2年秋頃から始まり慶応3年をピークとしたようだ。しかしこの頃の廃仏運動は、さほど暴力的なものではなかったようである。名目上はあくまでも財政上の理由で寺院を取りつぶすという政策であり、反発を招いて労力や予算を使うとなれば本末顚倒と見なされかねなかったため、いわば遠慮がちに行われた。市来四郎が後年「職人等が怪我でもすると人気に響きますから、念入れて指揮致させました」と述べているように、「人気」を気にしながらやっていたようなのだ。

というのは、当然ながら寺院勢力を中心にして廃仏毀釈への反発がかなりあった。ある者は密かに仏像を持ち出して避難させ、ある者は復興を期して形式的にのみ廃寺を承知した。そしてこれらの反発によって、ついにこの事業は挫折する。

大乗院僧正、南泉院僧正、千眼寺僧を説諭して還俗させようとしている時、たまたま殿中の婦人がそこで祈祷に居合わせていたのだ。そしてこの婦人と侍臣、僧侶が謀って「讒誣内訴」したことで、「事激越に過ぎ、達名を矯むるの過失」により島津主殿(寺社奉行)他数名が更迭された。記録が曖昧だが、翌年休職しているところを見ると市来四郎もこのときに更迭されたようだ。

市来らの側から見れば彼らの訴えは「讒誣内訴」だったが、きっとこのことだけが彼らの更迭の理由ではなかっただろう。廃仏毀釈を進める上で各地で引き起こされたに違いない軋轢が更迭の真因だったように思われる。藩政権は「人気」を考えて、関係者を更迭せざるを得なかったのではないか。

こうして運動の中心人物が更迭されたこと、そして慶応4年の初めに戊辰戦争が勃発したことで藩内はそれどころではなくなり、この前期廃仏毀釈はひとまず休止された格好になった。この前期廃仏毀釈でもかなりの数の寺院が廃されたようであるが、そもそもこの時までは寺院の全廃ということまでは考えていなかった模様である。後年、後醍院真柱も「南林寺福昌寺の如き由緒あるは永存せしむべき方針」であったと述懐している。

この前期廃仏毀釈運動は、数多かった寺院・神社を集約させて整理し、その財産を没収することに主眼があった。いわば寺社のリストラであり、廃仏——すなわち仏教の一掃ということまでは考えていなかったと見られる。しかし維新後の後期廃仏毀釈では、これが狂信的なまでの廃仏運動になっていくのである。

(つづく)


 【参考資料】
島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
神道指令の超克』1972年、久保田 収
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
薩摩 民衆支配の構造』2000年、中村明蔵
鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち[改訂版]』 2003年、佐伯恵達
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
「薩摩ニテ寺院ヲ廃シ神社ヲ合祭セシ事実」[史談会速記録第十三輯](市来四郎談話速記)(『島津忠義公史料第1巻』所収)

2018年3月15日木曜日

田中頼庸と幕末の国学——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その8)

田中頼庸(よりつね)は、独立独歩の人であった。

彼には、師らしい師がいない。というのは、彼の家庭はあまりにも貧しく、入門の費用が払えなかったのだ。

それどころか、本一冊買うこともままならなかった。貧窮の中にいた頼庸を支えたのは学問への情熱であったが、その学問は独学すらも許されなかった。頼庸は手に入る僅かな本を舐めるように読んで、少しずつその内に学問を育てていった。

ところで彼の叔父(母の弟にあたる)に、後に鹿児島県令となる大山綱良がいた。大山は藩内随一の剣客として有名で、この叔父・甥は「田中の文、大山の武」として文武の双璧と並び称されたという。

また、当時鹿児島城下の青年で秀才をもって聞こえたのが、重野安繹(やすつぐ)、今藤新左衛門(宏)、そして田中頼庸の3人だったと伝えられる。頼庸は、ままならぬ独学のみで、やがて人の注目するところとなっていた。

彼は年の近い叔父大山綱良をよく慕い、大山も頼庸を可愛がった。大山は薩摩藩の若手革新派グループである「誠忠組」の中心メンバーの一人であったし、他にも「誠忠組」には頼庸の親友だった高崎五六(高崎正風の従兄弟に当たる)もいた。ところが、頼庸が「誠忠組」に関わった形跡はない。頼庸はこういう徒党には全く与しなかったようだ。彼は、決して友人がいなかったわけではないが、一人学問をすることを好んだ。

それに、田中家は頼庸が遠島を許されてからも、没した父四郎左衛門の処分は解かれておらず、食録もなく、なんら職務に就くことができなかった。学問に打ち込み続けた20代の頼庸は、風雲急を告げる幕末にあって、その異才を発揮する場を持たなかった。

そんな頼庸の人生がにわかに動き出したのが、文久年中のことであった。

おそらくは文久2年のこと、島津久光が一千の兵を率いて京都へ入ったまさにその時のことではないかと思われるが、頼庸は藩命で京都へ上ったのである。何の実績もなかった頼庸が家臣団の一人として抜擢されたのは、秀才との評判はもちろんのこと、大山綱良や高崎正風の推輓があったからに違いない。

京都へ上っても食録は依然としてなく無給状態は続いた。しかし頼庸は、その貧窮の中でもひたすら学問のみに打ち込んだ。

当時の京都は、空前の「政治の季節」を迎えている。各藩から集められた「志士」たちが政論に花を咲かせ、裏に表に策動を繰り返していた時期だ。親友の高崎正風も久光の手足となって政治の表舞台で活躍している。だが彼は、そうした動きとは距離を取っていたように思われる。頼庸には、学問しかなかった。

元々頼庸が打ち込んでいたのは、漢学だった。その漢詩が巧みなことは藩内でも評判だったという。儒学はもちろんのこと、医学にしろ本草学(博物学)にしろ、日本の学問のほとんどは中国からの学問を移植したものであったし、勉学と言えば漢学の素養を身につけることとほぼ同義だったから、頼庸は当時の学問の王道を歩んでいたといえる。ところが頼庸は、京都で「国学」と出会う。

その頃の国学といえば、尊皇攘夷運動の高まりの中で急速に門人を増やし、いわゆる「草莽の国学者」と呼ばれるアクティビスト的な勢力が勃興してきていた。「嘉永朋党事件」で新たな時代の変革理論として予感された国学が、実際に革命の理論へ育っていたのだ。

ここで、これまで特に注釈することもなく使ってきた「国学」とは一体何かということについて、横道に逸れる部分もあるが少し説明しておきたい。

国学の淵源は、古文辞学にある。『万葉集』とか『源氏物語』といった日本の古典文学を読解する学問である。例えば『万葉集』について研究したのが、国学者の嚆矢と言うべき契沖(けいちゅう)である。『万葉集』は「万葉仮名」と呼ばれる特殊な漢字で書かれているが、訓じ方(読み方)が分からない部分が相当あった。真言宗の僧侶だった契沖は、徳川光圀からの依頼を受け、その訓じ方や語義を徹底的に研究した。江戸時代半ばのことである。

その契沖の研究を受け継いだのが、荷田春満(かだの・あずままろ)であり、賀茂真淵(まもの・まぶち)であった。彼らは歌学や古文辞学を研究するうちに、次第に古代人の心に興味が向いていった。古典文学を理解するためには、煎じ詰めれば古代人の心を理解しなくてはならないからだ。こうして、古典文学の研究は、古文辞の研究を越え、古代の日本人の心情や宗教観を理解しようという方向性へと進んでいった。

こうして徐々に出来上がってきた国学を大成したのが本居宣長(もとおり・のりなが)である。契沖が『万葉集』を甦らせたとすれば、宣長はたった一人で『古事記』を蘇生させた。 彼の研究方法は、『古事記』を体得するまで虚心に読むことであった。分析的理解を超え、直観によって古代人の心に肉薄しようとした。そして『古事記』の一文一語について徹底的に考証した研究が『古事記伝』(寛政10年(1798年))である。『古事記伝』は現代の古事記研究の基礎となった。

宣長は古典文学研究に没入することで、やがてそれに同化していった。漢学の影響を受けていない(と宣長は信じた)、原日本の思想を体得していった。それは、道理を論わず「もののあはれ」を重視する「やまとごころ」であり、天皇や八百万の神に身を委ねる宗教観であった。古典文学研究から始まった国学は、歴史研究や古代社会の研究までその範疇を広げ、宗教学や神話学といった方向へ進んでいく。

そして、宣長の古典文学研究の精華ではなく、むしろ研究が薄弱であったその宗教観の方を受け継いで発展させたのが、平田篤胤(あつたね)である。篤胤は『古事記』や『日本書紀』等の古典文学に基づき、神話時代の物語を『古史成文』として再編集し(文化8年(1811年))、追ってさらにそれの注釈書である『古史伝』をまとめた(未完)。これはもはや古文辞学の研究ではなく、篤胤の創作的な面があり、「きっとそうであったに違いない古代人の信仰」や「神道の原初の姿」が明らかにされたことになった。こうして篤胤は、神道を原初のままに取り戻すこと、即ち「復古神道」を起こすことを構想、その神道的世界観を『霊能真柱(たまのみはしら)』に表現した(文化9年(1812年))。この本は霊魂の行方や死後の世界(幽冥界)について書かれており、もはや日本神秘学と呼ぶべきものだった。
 
また篤胤は、宣長が明らかにした古代社会の有様を理想化し、復古神道による原理主義的考えによって「あるべき日本の姿」を提言する政治倫理学へと国学を推し進めた。

この篤胤の構想は、生前はあまり評価されなかったが、やがて尊皇攘夷思想とない交ぜになって、幕末において巨大な影響力を持つようになる。

西欧諸国が進んだ文明の力を背景に開国を迫ってきたとき、日本人は世界における日本の自画像・アイデンティティを確立せねばならなかった。世界の中で、「日本」とは何なのか? 「日本人」とは何なのか? そういう切実な問いに気前よい回答を与えるのが、国学であったと言える。日本は無窮なる皇統がしろしめす国「皇国」であると、日本人とはその皇統を戴く万国に冠たる民族であると。こうした夜郎自大な自画像は攘夷思想と親和し、一方で日本の正統な君主は皇室であるという思想が、尊皇・討幕の理論へと発展していった。もちろん尊皇攘夷思想は、国学だけでなく水戸学や儒学をも源流に持つ。しかし国学が特殊だったのは、尊皇攘夷思想に強烈な宗教性を持ち込んだところだ。

こうして国学は、古典文学の研究という実証主義的で地味な課題から出発したが、古代社会の研究、歴史学、宗教学、神話学と次第に領域を広げ、幕末を動かす巨大なイデオロギーとなっていった。国学は、神話を核として様々な学問が学際的に融合した新しい学問体系・価値体系を創り出そうとしていた。生粋の「日本」の独自思想としてだ。

田中頼庸が京都にいた頃は、こうした国学の運動が最高潮に盛り上がっていた時期だった。頼庸が国学の虜になったのは、宿命だったのだろう。漢学では、旧来の知識人の秩序の枠外に飛び出すことは不可能だったが、勃興しつつある国学でなら、独立独歩の頼庸が一廉(ひとかど)の人物になり得た。

そして慶応3年(1867年)、田中頼庸は鹿児島へ帰ってきた。持ち物は、行李が5つ。中には、ただ一枚の着替えすらなく全てが書物だったという。蛍雪の努力によって、頼庸は独学によって京都で国学を修めていた。

貧困の独学者に過ぎなかった頼庸は、今や藩内でも一二を争う国学者となっていた。

(つづく)

【参考文献】
『田中頼庸先生』二宮岳南(写本、刊行年不明、鹿児島県立図書館所蔵本)
『本居宣長(上、下)』1992年、小林秀雄