「地域おこし協力隊」をご存じだろうか?
これは総務省の政策によるもので、ごく簡単には、過疎地などへ都会から若者に移住してもらい、農林水産業や伝統文化の活性化に取り組んでもらうものである。任期は1年から3年。役所が都会の若者を「隊員」に任命して、給与をもらいながら地域おこしに取り組むわけだ。この制度は、都会から実際に移住してもらうところが特徴で、だからこそホンキの若者が集まってきて各地で地域おこしの起爆剤として活躍している。
特に名を上げているのが、メディアでもたびたび取り上げられている岡山県美作市の地域おこし協力隊。棚田の再生やお米のブランド化、またセグウェイの活用など活発な(前衛的な?)活動で知られ、また個人的にも少し知っている人が関わっていることもあり以前から注目していた。
【参考】限界集落を”集楽”に!美作市地域おこし協力隊が ”全国最強”とよばれる秘策とは?
こういう活動が南さつまでも出来たらなあ! と思っていたところ、今般南さつま市も地域おこし協力隊員を1名募集するということで今後の展開が楽しみである。
勤務先(?)は南さつま市観光協会。観光協会は一昨年くらいまで市役所の中にあるバーチャルな組織のようだったが、最近だんだんと実体化してきて、この募集はその一環なのであろう。観光をきっかけにして、南さつまの地域おこしにドンドン取り組んでもらいたい。
地域おこし協力隊の制度は、実際の移住を伴うので応募は気軽にはできない。だが、移住を考えている人にはいいきっかけ(+当面の収入)になる。私も、正直言うとこの制度を使って南さつまに移住して来たかった。Uターン・Iターンを考えていて、地元企業や農業で働くのではなく仕事にもこだわりたい、というような人には最適な制度だと思う。隊員としての活動の間に、その後の仕事への道筋も必ずや開けるはずだ。
というわけで、南さつまを盛り上げたいという都会の若者にこの情報が届き、素晴らしい活動が展開されることを期待している。応募の期限は6月30日まで。移住するという決断をするには短い期間だが、人生の転機というのは突然訪れるものだ。南さつま市で待っています。
【情報】詳細はこちらへ→ 地域おこし協力隊・観光協会スタッフ1名募集します!!
2014年6月13日金曜日
2014年6月12日木曜日
南薩鉄道の廃線跡
鉄道ファンにも「撮り鉄」とか「乗り鉄」とかいろいろあるが、世の中には「廃鉄」とでもいうべき人達がいる。つまり、廃線跡を歩くことを無上の喜びとしている鉄道ファンのことだ。
もとより廃線路であるから、路線図を入手するのも大変だ。地図上で大まかな位置はわかっても、路線は撤去され、藪に埋もれ、跡形もなくなっている場合もある。だから地元の人に「ここに駅がありませんでしたか?」と訊きながら廃線跡らしきものを歩き、往時の姿を想像し、僅かな痕跡を見つけて喜ぶのである。
そういう人達のバイブル的存在(だと思います)が宮脇俊三さん編著の『鉄道廃線跡を歩く』というシリーズなのであるが、この3冊目の巻頭特集で南薩鉄道が大きく取り上げられている(絶版)。表紙も、吹上の(南薩鉄道の)永吉橋の橋脚の写真だ。これは南薩鉄道の廃線跡の中でも見所の一つで、立派な4つの橋脚が佇む様子は寂寥としていて、遺跡のような悲しさがある。
ちなみに、このシリーズは「廃鉄」たちのルポ(?)をまとめたものだが、南薩鉄道に関しては宮脇さん自身の紀行文である。鉄道紀行の素晴らしい書き手である宮脇俊三さんが、どうして南薩鉄道を取り上げたのか、そのあたりのことは何も書いていないが、この鉄道に何らかの魅力を感じていたのだろう。
今年は、南薩鉄道開業100年、廃止30年ということで、南さつま市では7月に企画展が開催される予定である。私は、年齢的にも南薩鉄道を知らず、また移住組であるから直接の思い出があるわけではない。しかし滅んだものは好きなたちであるから、廃線跡というのを興味深く思っていたところであるし、楽しみにしている。
ところで、南薩鉄道の廃線跡はサイクリングロードとして整備されている区間も多いので、廃線跡は決して過去の遺物というだけではない。南さつま市は旧加世田市から引き継いだ「自転車の街」も売りにしているわけだが、これは廃線跡をサイクリングロードにしてそれを目玉にしよう、という政策による部分が大きい。廃線跡を共有する日置市との連携もあまりないようであるし、この政策は未だ十分に達成されていないように思うが、廃線跡の活用について、この企画展をきっかけにしてもう一度考えてみるのもいいかもしれない。
もとより廃線路であるから、路線図を入手するのも大変だ。地図上で大まかな位置はわかっても、路線は撤去され、藪に埋もれ、跡形もなくなっている場合もある。だから地元の人に「ここに駅がありませんでしたか?」と訊きながら廃線跡らしきものを歩き、往時の姿を想像し、僅かな痕跡を見つけて喜ぶのである。
そういう人達のバイブル的存在(だと思います)が宮脇俊三さん編著の『鉄道廃線跡を歩く』というシリーズなのであるが、この3冊目の巻頭特集で南薩鉄道が大きく取り上げられている(絶版)。表紙も、吹上の(南薩鉄道の)永吉橋の橋脚の写真だ。これは南薩鉄道の廃線跡の中でも見所の一つで、立派な4つの橋脚が佇む様子は寂寥としていて、遺跡のような悲しさがある。
ちなみに、このシリーズは「廃鉄」たちのルポ(?)をまとめたものだが、南薩鉄道に関しては宮脇さん自身の紀行文である。鉄道紀行の素晴らしい書き手である宮脇俊三さんが、どうして南薩鉄道を取り上げたのか、そのあたりのことは何も書いていないが、この鉄道に何らかの魅力を感じていたのだろう。
今年は、南薩鉄道開業100年、廃止30年ということで、南さつま市では7月に企画展が開催される予定である。私は、年齢的にも南薩鉄道を知らず、また移住組であるから直接の思い出があるわけではない。しかし滅んだものは好きなたちであるから、廃線跡というのを興味深く思っていたところであるし、楽しみにしている。
ところで、南薩鉄道の廃線跡はサイクリングロードとして整備されている区間も多いので、廃線跡は決して過去の遺物というだけではない。南さつま市は旧加世田市から引き継いだ「自転車の街」も売りにしているわけだが、これは廃線跡をサイクリングロードにしてそれを目玉にしよう、という政策による部分が大きい。廃線跡を共有する日置市との連携もあまりないようであるし、この政策は未だ十分に達成されていないように思うが、廃線跡の活用について、この企画展をきっかけにしてもう一度考えてみるのもいいかもしれない。
2014年6月7日土曜日
笠沙恵比寿の指定管理者の募集にあたって
またしても、公有施設の指定管理の話である。
笠沙恵比寿は笠沙にある宿泊・博物館・レジャーの施設。2000年のオープンで、2006年をピークに利用者数が減少してきた。南さつま市等が作った第3セクター「株式会社 笠沙恵比寿」がこれまで運営してきたが、累積債務が8000万円に上って経営に行き詰まり、今般指定管理者を公募することなった。
これまでも「株式会社 笠沙恵比寿」が公募を経ずに指定管理者で運営してきたのだが、従前の指定管理料(委託費)は1480万円。それでも毎年1000万円を超える赤字を出していた。というのも、3セクではどうしても果敢な経営は難しい。何しろ社長は市長である。旅館業・観光業の経験があるわけでもない市長が経営する会社が、繁盛する方がおかしい。
そういうわけで、このたび3セクは解散させる方向で指定管理者の公募に踏み切ったわけである(公募に対して応募がなかった場合は3セクによる経営を継続する)。
その公募条件を見てみると、指定管理料の上限が1800万円/年となっている。現在は、市の補填分が3000万円弱なので、これを2/3に縮減するような格好であり、まあ妥当な条件ではないかと思う。ただ、例によってこの公募にも少し不満がある。
第1に、「…事業者を広く募集し、活用計画の提案を受けて最適の指定管理者を選定することを目的とする」(募集要項より引用)としながらも、どうも「広く」募集しているようには見えないことである。例えば、プレスリリースはどのようにしたのだろうか? 現地説明会を行うこととなっているが、広く募集するのであれば、事前説明会を都市部で開催すべきだし、旅館業の業界団体などにも周知を図るべきである(実は裏でやっていたらすいません)。
第2に、笠沙恵比寿のあり方については、市役所は2011年か12年に「笠沙恵比寿あり方検討委員会」を設置して検討しており、今回の指定管理者の公募はその報告書の提言に基づくものと思うが、この報告書が公表されていない。公明正大に話を進めることが大事だと思うので、報告書を公表して、これまでの経営の実態を明らかにし、過去を清算して次のステップに進むべきだと思う。
というような不満な点はあるが、今回の公募で素晴らしい経営者が現れ、笠沙恵比寿が地域の観光の目玉として再生してほしいと願っている。実は、この公募に先立ち、私は「笠沙恵比寿を星野リゾートが経営したら面白い」と思い、(面識はもちろんないが)星野リゾートの星野社長に「笠沙恵比寿の指定管理者が早晩公募されるので注目してほしい」という手紙を出していたのだが、なしのつぶてだったようだ。
笠沙恵比寿は、観光+漁業という独特なコンセプトの宿泊施設であり、施設全体が水戸岡鋭治氏のデザインでもあるし、決して市のお荷物ではなく、むしろ財産だと思う。それを活かすためには、ただ公募すればよいというわけではなく、いろいろな工夫がいる。市の方には、本当に最適な、素晴らしい事業者にこの情報が届くように、精一杯取り組んでいただきたい。ちなみに、募集要項の配布は6月23日まで、申請は7月4日までである。
【参考】
募集要項等はこちら→ 笠沙恵比寿の指定管理者を募集
これまでの経営状態などはこちら→「市報南さつま」2012年7月号
笠沙恵比寿は笠沙にある宿泊・博物館・レジャーの施設。2000年のオープンで、2006年をピークに利用者数が減少してきた。南さつま市等が作った第3セクター「株式会社 笠沙恵比寿」がこれまで運営してきたが、累積債務が8000万円に上って経営に行き詰まり、今般指定管理者を公募することなった。
これまでも「株式会社 笠沙恵比寿」が公募を経ずに指定管理者で運営してきたのだが、従前の指定管理料(委託費)は1480万円。それでも毎年1000万円を超える赤字を出していた。というのも、3セクではどうしても果敢な経営は難しい。何しろ社長は市長である。旅館業・観光業の経験があるわけでもない市長が経営する会社が、繁盛する方がおかしい。
そういうわけで、このたび3セクは解散させる方向で指定管理者の公募に踏み切ったわけである(公募に対して応募がなかった場合は3セクによる経営を継続する)。
その公募条件を見てみると、指定管理料の上限が1800万円/年となっている。現在は、市の補填分が3000万円弱なので、これを2/3に縮減するような格好であり、まあ妥当な条件ではないかと思う。ただ、例によってこの公募にも少し不満がある。
第1に、「…事業者を広く募集し、活用計画の提案を受けて最適の指定管理者を選定することを目的とする」(募集要項より引用)としながらも、どうも「広く」募集しているようには見えないことである。例えば、プレスリリースはどのようにしたのだろうか? 現地説明会を行うこととなっているが、広く募集するのであれば、事前説明会を都市部で開催すべきだし、旅館業の業界団体などにも周知を図るべきである(実は裏でやっていたらすいません)。
第2に、笠沙恵比寿のあり方については、市役所は2011年か12年に「笠沙恵比寿あり方検討委員会」を設置して検討しており、今回の指定管理者の公募はその報告書の提言に基づくものと思うが、この報告書が公表されていない。公明正大に話を進めることが大事だと思うので、報告書を公表して、これまでの経営の実態を明らかにし、過去を清算して次のステップに進むべきだと思う。
というような不満な点はあるが、今回の公募で素晴らしい経営者が現れ、笠沙恵比寿が地域の観光の目玉として再生してほしいと願っている。実は、この公募に先立ち、私は「笠沙恵比寿を星野リゾートが経営したら面白い」と思い、(面識はもちろんないが)星野リゾートの星野社長に「笠沙恵比寿の指定管理者が早晩公募されるので注目してほしい」という手紙を出していたのだが、なしのつぶてだったようだ。
笠沙恵比寿は、観光+漁業という独特なコンセプトの宿泊施設であり、施設全体が水戸岡鋭治氏のデザインでもあるし、決して市のお荷物ではなく、むしろ財産だと思う。それを活かすためには、ただ公募すればよいというわけではなく、いろいろな工夫がいる。市の方には、本当に最適な、素晴らしい事業者にこの情報が届くように、精一杯取り組んでいただきたい。ちなみに、募集要項の配布は6月23日まで、申請は7月4日までである。
【参考】
募集要項等はこちら→ 笠沙恵比寿の指定管理者を募集
これまでの経営状態などはこちら→「市報南さつま」2012年7月号
2014年6月2日月曜日
写真家の松元省平さんに会いに行った話
南さつま市の小湊に、松元省平さんという写真家が住んでいることを最近知った。
私は松元さんの『人間の村』という写真集を偶然目にして強い印象を受け、調べてみると住所が南さつまということでびっくりし、せっかく近所に住んでいるのだからということで厚顔にも訪問させていただいた。この写真は、松元さんのアトリエに飾られた作品の数々。
ちなみに『人間の村』という写真集は、長崎にある廃村をモノクロームで撮ったもので、廃屋になった団地とか、民家とか、かつてそこにあった生活の痕跡を切り取った写真が並んでいる。それは、少し不気味でもあるが、当地のような「限界集落」に住んでいると見慣れた光景でもある。特にその中の一枚が、昨年取り壊された近所の廃屋ととても似ていて、それで印象深かったのかもしれない。
都会に住んでいると「廃村」の写真は非日常的な、いわば別世界を覗くような所があるが、ここに住んでいると「廃村」は身近な存在である。私は遺跡とか、遺構とか、既に滅んだものが元々好きだったが、都会に住んでいた時と比べてそうしたものへの見方が少し違ってきた気もする。
それはさておき、松元さんは、もともと鹿児島出身ではない。岡山の生まれだという。それがどうして小湊のような辺鄙なところに住んでいるのかというと、妻方の故地であるここが気に入ったからということだ。現役を退いて、自然が豊かな環境に暮らしたいということで2008年に移住してきた。岡山も十分田舎で、自然が豊かではないかと思うのだが、松元さんに言わせると、沿岸部の開発が大分進んでいて、自然の風景がさほど残っていないのだそうだ。
最近撮られた写真をいくつか見せていただいたが、美しい夜空や星雲、アンドロメダ銀河といった夜の写真だった。アトリエには立派な望遠鏡もあった。晴れた日には、ほとんど夜空を撮るという。私は、常々「このあたりは星空がきれいなのに、なぜか夜空を撮る人がほとんどいない」と思っていたところだったので、こうしてプロの写真家が丁寧に夜空を撮り溜めていることに、わけもなく心強く思った次第である。
ところで、松元さんの自宅に伺ったのは、松元さんが発行している『REPO』という写真誌を購入するためだった。驚異的なことだと思うのだが、松元さんはその写真誌を28年も趣味で製作しているのだ(現在は休刊中)。一体全体、それはどんな写真誌だろうかと思い、是非見てみたくなった。それで、(郵送で手に入れることも出来るのだが)松元さんのお宅を訪問したのである。
それは、手作りの小さな冊子だった。松元さん自身も鹿児島について写真と文章を連載していて、写真家の目から見た南薩がどんなものなのかもっと知りたくなった。移住後に創刊された最新の第4次『REPO』も全部で15冊あるそうだ。南さつま市の図書館が購入して、広く閲覧できるようにしたらいいのに、と思った。
私は松元さんの『人間の村』という写真集を偶然目にして強い印象を受け、調べてみると住所が南さつまということでびっくりし、せっかく近所に住んでいるのだからということで厚顔にも訪問させていただいた。この写真は、松元さんのアトリエに飾られた作品の数々。
ちなみに『人間の村』という写真集は、長崎にある廃村をモノクロームで撮ったもので、廃屋になった団地とか、民家とか、かつてそこにあった生活の痕跡を切り取った写真が並んでいる。それは、少し不気味でもあるが、当地のような「限界集落」に住んでいると見慣れた光景でもある。特にその中の一枚が、昨年取り壊された近所の廃屋ととても似ていて、それで印象深かったのかもしれない。
都会に住んでいると「廃村」の写真は非日常的な、いわば別世界を覗くような所があるが、ここに住んでいると「廃村」は身近な存在である。私は遺跡とか、遺構とか、既に滅んだものが元々好きだったが、都会に住んでいた時と比べてそうしたものへの見方が少し違ってきた気もする。
それはさておき、松元さんは、もともと鹿児島出身ではない。岡山の生まれだという。それがどうして小湊のような辺鄙なところに住んでいるのかというと、妻方の故地であるここが気に入ったからということだ。現役を退いて、自然が豊かな環境に暮らしたいということで2008年に移住してきた。岡山も十分田舎で、自然が豊かではないかと思うのだが、松元さんに言わせると、沿岸部の開発が大分進んでいて、自然の風景がさほど残っていないのだそうだ。
最近撮られた写真をいくつか見せていただいたが、美しい夜空や星雲、アンドロメダ銀河といった夜の写真だった。アトリエには立派な望遠鏡もあった。晴れた日には、ほとんど夜空を撮るという。私は、常々「このあたりは星空がきれいなのに、なぜか夜空を撮る人がほとんどいない」と思っていたところだったので、こうしてプロの写真家が丁寧に夜空を撮り溜めていることに、わけもなく心強く思った次第である。
ところで、松元さんの自宅に伺ったのは、松元さんが発行している『REPO』という写真誌を購入するためだった。驚異的なことだと思うのだが、松元さんはその写真誌を28年も趣味で製作しているのだ(現在は休刊中)。一体全体、それはどんな写真誌だろうかと思い、是非見てみたくなった。それで、(郵送で手に入れることも出来るのだが)松元さんのお宅を訪問したのである。
それは、手作りの小さな冊子だった。松元さん自身も鹿児島について写真と文章を連載していて、写真家の目から見た南薩がどんなものなのかもっと知りたくなった。移住後に創刊された最新の第4次『REPO』も全部で15冊あるそうだ。南さつま市の図書館が購入して、広く閲覧できるようにしたらいいのに、と思った。
2014年6月1日日曜日
「大浦 "ZIRA ZIRA" FES 2014」が開催されます
2014年7月20日(日)、「大浦 "ZIRA ZIRA" FES 2014」が開催される!
これは要するに地域の大バーベキューパーティで、「地域の将来を担う若手が一堂に会する機会を持って、様々な活動を活発化する契機にしましょう!」というものだ(あくまで私の理解です)。
サブタイトルに「やきにくでステーキな出会いを…」とついているが、別段街コン(婚活イベント)的な意味合いはなくて、ノリでつけたものらしい。でもこういうイベントだと、近くに住んでいても普段会わない人に会えるので、いい出会いもあるかもしれない。
とまあ、イベント自体の紹介はともかく、実は、この焼肉フェスのポスターをデザインしたのは私である。背景の写真は、友人の愛甲くんから提供してもらったもの。
依頼されたイメージは、焼肉をジュージュー焼いているような画像を配置するような感じだったが、大浦の満点の星空の下で焼肉を食べるのはさぞかし美味かろうと思い、独断で星空の写真を大きく使うことにした(でもWEBで見ると背景が星空であることが残念ながらわかりにくい…)。
大浦の若者を100人集めることが目標だそうなので、それに少しでも役に立つポスターになっていたらと思う。もちろん、大浦在住でない人も参加は歓迎ということだ。私としては、こういう機会に大浦の人同士だけでなく、他の地域の若者ともネットワークが広がっていったらいいのではないかと思っている。
これは要するに地域の大バーベキューパーティで、「地域の将来を担う若手が一堂に会する機会を持って、様々な活動を活発化する契機にしましょう!」というものだ(あくまで私の理解です)。
サブタイトルに「やきにくでステーキな出会いを…」とついているが、別段街コン(婚活イベント)的な意味合いはなくて、ノリでつけたものらしい。でもこういうイベントだと、近くに住んでいても普段会わない人に会えるので、いい出会いもあるかもしれない。
とまあ、イベント自体の紹介はともかく、実は、この焼肉フェスのポスターをデザインしたのは私である。背景の写真は、友人の愛甲くんから提供してもらったもの。
依頼されたイメージは、焼肉をジュージュー焼いているような画像を配置するような感じだったが、大浦の満点の星空の下で焼肉を食べるのはさぞかし美味かろうと思い、独断で星空の写真を大きく使うことにした(でもWEBで見ると背景が星空であることが残念ながらわかりにくい…)。
大浦の若者を100人集めることが目標だそうなので、それに少しでも役に立つポスターになっていたらと思う。もちろん、大浦在住でない人も参加は歓迎ということだ。私としては、こういう機会に大浦の人同士だけでなく、他の地域の若者ともネットワークが広がっていったらいいのではないかと思っている。
【情報】大浦 "ZIRA ZIRA" FES 2014
日時:2014年7月20日(日)19:00〜
場所:大浦老人福祉センター前芝生広場
申込〆切:7月11日(金)
参加料金(やきにく代含む):男性2000円、女性1500円、小中学生500円
ステージ:ザ★タオルマンズ/太鼓座神楽/江頭組/有木青年隊/おさむんちゅ
主催:大浦 "ZIRA ZIRA" FES実行委員会
共催:おおうら元気づくり委員会
お問い合せ・申込先:おおうら元気づくり委員会事務局 62-2110 または 最寄りの実行委員まで(ポスター参照)
2014年5月27日火曜日
盗まれていた岩屋観音
南さつま市金峰町に、「岩屋観音」という史跡がある。以前から気になっていたので、先日行ってみた。
なお、金峰町には「岩屋観音」が2つあり、これは大坂(だいざか)にある「河内(こち)観音」と呼ばれている方の話である。
県道20号線沿いに「岩屋観音」の案内があり、道路脇に車を止めて5分ほど歩くと木々の回廊の苔むした道となり、登り切ると岩壁を鐫(え)られて作られた岩屋がある。そこに小さなお堂があり、中には観音像が安置させられている。
しかし、期待していたものと何か違う。河内観音と言えば、「廃仏毀釈の頃、岩屋のお堂が壊され観音像は川に捨てられた。これを山之内キクという女性が忍びなく思い、夜中に観音像を川に拾いに行き、密かに藁にくるんで自宅に持ち帰った。信教自由の後このことが明らかになり、キクがこれを保管していたことに周囲は感謝し、以後もとの岩屋に安置した」という伝説で知られる。だが、それらしき観音像はないのである。
廃仏毀釈の難を逃れたという観音像は、大坂、伊作(いざく)、錫山の3地区の住民が崇敬していた立派なもので、蓮弁まで含めて54センチの高さがあり、仏体は着色され、左手に如意宝珠を持ち、右手は掌を正面に向けていたというが、そういう尊像はここにはない。お堂の中に観音像はあるが、小ぶりで金色の観音像があるのみで、明らかに明治以前のものではない。 おかしいと思って調べてみると、なんと、元の岩屋観音は既に無くなっているらしい。
これについては『金峰町郷土誌(上巻)』に記述があるので引用しよう。
それにしても、仏像が盗まれるとは残念の一言に尽きる。廃仏毀釈という難事を逃れた仏像だったが、盗難という次の難事を逃れることはできなかったわけだ。鹿児島では廃仏希釈が苛烈に行われたために、全ての寺院が廃寺になり、多くの仏像は毀(こぼ)たれ、焼かれ、打ち捨てられた。もし河内観音像が残っていれば、貴重な文化財でもあっただろう。奇跡的に残った明治以前の鹿児島の仏教遺物の一つとして…。
盗まれた河内観音は、今はどこにいらっしゃるのだろう。個人コレクターの所有だろうか。それともどこかの博物館にあるのだろうか。でも、捨てられているということもないだろうから、どこかには保管されているのだろう。いつの日か発見され、観音像が大坂へ二度目の帰還をする日が来て欲しい。
【参考文献】
『金峰町郷土誌(上巻)』1987年、金峰町郷土誌編さん委員会
なお、金峰町には「岩屋観音」が2つあり、これは大坂(だいざか)にある「河内(こち)観音」と呼ばれている方の話である。
県道20号線沿いに「岩屋観音」の案内があり、道路脇に車を止めて5分ほど歩くと木々の回廊の苔むした道となり、登り切ると岩壁を鐫(え)られて作られた岩屋がある。そこに小さなお堂があり、中には観音像が安置させられている。
しかし、期待していたものと何か違う。河内観音と言えば、「廃仏毀釈の頃、岩屋のお堂が壊され観音像は川に捨てられた。これを山之内キクという女性が忍びなく思い、夜中に観音像を川に拾いに行き、密かに藁にくるんで自宅に持ち帰った。信教自由の後このことが明らかになり、キクがこれを保管していたことに周囲は感謝し、以後もとの岩屋に安置した」という伝説で知られる。だが、それらしき観音像はないのである。
廃仏毀釈の難を逃れたという観音像は、大坂、伊作(いざく)、錫山の3地区の住民が崇敬していた立派なもので、蓮弁まで含めて54センチの高さがあり、仏体は着色され、左手に如意宝珠を持ち、右手は掌を正面に向けていたというが、そういう尊像はここにはない。お堂の中に観音像はあるが、小ぶりで金色の観音像があるのみで、明らかに明治以前のものではない。 おかしいと思って調べてみると、なんと、元の岩屋観音は既に無くなっているらしい。
これについては『金峰町郷土誌(上巻)』に記述があるので引用しよう。
[キクが保管していた仏像を]明治二十三年御堂を新しく造って安置した。以後行事も復興した。毎年旧八月十八日の縁日には、伊作・錫山・大坂・田布施から七・八組の踊りを奉納した。(中略)ところが、大正十二・三年ごろ仏像は盗難に遭った。驚いた観音講の人達は百方手をつくして探し求めたが遂に発見できなかった。(中略)その後、観音河内出身の松山嘉一郎氏が東京に在るのを幸いに、同氏に依頼して浅草観音の地から磁器製の像を買い求め御堂に安置し現在に及んでいる。(強調引用者)ということである。今ある観音像がまさか浅草から来たものだったとは…。
それにしても、仏像が盗まれるとは残念の一言に尽きる。廃仏毀釈という難事を逃れた仏像だったが、盗難という次の難事を逃れることはできなかったわけだ。鹿児島では廃仏希釈が苛烈に行われたために、全ての寺院が廃寺になり、多くの仏像は毀(こぼ)たれ、焼かれ、打ち捨てられた。もし河内観音像が残っていれば、貴重な文化財でもあっただろう。奇跡的に残った明治以前の鹿児島の仏教遺物の一つとして…。
盗まれた河内観音は、今はどこにいらっしゃるのだろう。個人コレクターの所有だろうか。それともどこかの博物館にあるのだろうか。でも、捨てられているということもないだろうから、どこかには保管されているのだろう。いつの日か発見され、観音像が大坂へ二度目の帰還をする日が来て欲しい。
【参考文献】
『金峰町郷土誌(上巻)』1987年、金峰町郷土誌編さん委員会
2014年5月23日金曜日
迷走する「百寿委員会」
以前も書いた「百寿委員会」の続報(愚痴第2弾)である。
前回、委員長の吉田氏が「トンデモ」な方で暗鬱になった、と書いたが、この委員会はそういう面以外でも迷走している。
これまでの委員会の内容は(1)各WGに分かれて、「南さつま市で暮らすためには何が大切か」をブレインストーミングし、(2)WG毎に「どんな南さつま市にしていきたいか」というビジョンをまとめた。というところである。この委員会の正式名称は「南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会」だが、ほとんど「まちづくり」のそのものまで検討範囲が広がっている。
例えばどんなビジョンかというと、あるWGでは
今後、各WGのビジョンを統合したビジョンを策定し、それに向けて一人ひとりがどのような取り組みをできるかを提言していくのだそうだ。必要なことは行政の力も借りるが、基本的には委員会の委員がこれからのまちづくりの主役になって、主体的に取り組んで行くことが期待されているらしい。
百寿委員会は、普通の役所の委員会とは随分かけ離れたやり方の委員会で、役所からの諮問に答えるのではなくて、「いい意見がたくさん出ましたから、それにみんなで取り組んで行きましょう!」と委員の発奮を期待するプロジェクトのようである。
ちなみに、仕掛け人の吉田委員長の講話は、トンデモな部分以外は一応マトモではある。私なりに彼女の主張をまとめると、「健康に生きるためには、活気のある場所で暮らさなくてはならないから、街の活性化に取り組みましょう。そのためには一人ひとりがいろいろ取り組んで行くことが大事です」ということで、それ自体はもっともな主張と思うが、問題は委員会の議題として「街の活性化」にまで大風呂敷を広げてしまうと、収拾が付かなくなることである。
というか、この委員会は市役所の保健課が主管しているが、「街の活性化」ということだと保健課の所掌を完全に外れている。おそらく、保健課のみなさんも今頃「こんなことなら最初から企画課にやってもらうんだった」と後悔しているのではないだろうか。
それに、吉田委員長は葉っぱビジネスで有名な上勝町やアーティストの移住で知られた鹿屋の柳谷(やねだん)集落といったところを街の活性化の成功例として挙げるが、こうした特異的な成功例を喧伝して市民の発奮を期待するのはいいとしても、実際には町おこし運動は失敗の連続なわけで、こういったケースの二匹目のドジョウを狙うのは、宝くじが当たるのを待つようなものだ。「やる気さえあれば出来る」というようなことを言っていたが、ビジネスの世界は過酷である。
また、「委員のみなさんが主役になって動いて下さい」とも呼びかけていたが、既に町おこしを頑張っている人はたくさんいるわけで、街の活性化に取り組むならそういう人を応援することから始める方が、吉田さんの話に刺激を受けた委員が何かを始めるのを待つよりもずっと生産的だと思う。例えば、笠沙恵比寿の活性化から取り組んでみてはどうなのか。街の活性化なら、既存施設の有効利用をまず考えなくてはならない。だが、委員会ではそういう話にはならない。あくまで「一人ひとりが主役」なのだ。
この委員会の議論は全てこういう調子で、これまでなされてきた草の根の取り組み、行政の施策や施設、街が持っている財産や前提条件といったものには触れずに、「なりたい自分になるため新しいことに取り組みましょう! 行政に頼ってはダメ!」とけしかける。その結果、非常に表面的で一般的なことだけがきれいにまとまり、地味だが重要な既存施策の改善といった中身のある内容が全く手つかずに終わっている。
もし、私が委員会を進行するならば、既存施策のレビューと市民の健康状態のレビューを行い、公衆衛生と子育て・福祉の面で南さつま市が抱える課題をあぶり出し、短期的・中期的な目標を定めてそれを達成する方策を検討していく、という堅実だがツマラナイやり方になるだろう。そうしてできるのは、やはりツマラナイ施策のパッケージだと思うので、そういういかにも役所的なやり方を賞揚するものではないが、一方で、派手さはないが堅実で重要な仕事というのは、そうしたツマラナイやり方で一歩一歩進んでいかなくては達成できないものだと思う。
吉田さんは一種の山師のような方で、確かに当たれば大きな成果をもたらす才能はあると思う。だが山師であるために、そのやり方で常に成果が得られるとは限らない。特に今回のように、やりたいことが主管課の所掌と外れている場合、いくらその内容が優れていても成功の見込みは小さいと言わざるを得ない。広げすぎた大風呂敷をどうやって畳むのか、未だ先は見えないが、前向きな議論をしていきたいとは思っている。
前回、委員長の吉田氏が「トンデモ」な方で暗鬱になった、と書いたが、この委員会はそういう面以外でも迷走している。
これまでの委員会の内容は(1)各WGに分かれて、「南さつま市で暮らすためには何が大切か」をブレインストーミングし、(2)WG毎に「どんな南さつま市にしていきたいか」というビジョンをまとめた。というところである。この委員会の正式名称は「南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会」だが、ほとんど「まちづくり」のそのものまで検討範囲が広がっている。
例えばどんなビジョンかというと、あるWGでは
地域や人と人とのつながりを大切にし、すべての市民が生きがいを持って元気で笑顔で暮らせるまちにしよう。南さつま市の地域資源を活かし、観光・産業につなげよう。また、雇用や収入を増やすなど、人が集まる仕組みをつくろう。とまとめている。
今後、各WGのビジョンを統合したビジョンを策定し、それに向けて一人ひとりがどのような取り組みをできるかを提言していくのだそうだ。必要なことは行政の力も借りるが、基本的には委員会の委員がこれからのまちづくりの主役になって、主体的に取り組んで行くことが期待されているらしい。
百寿委員会は、普通の役所の委員会とは随分かけ離れたやり方の委員会で、役所からの諮問に答えるのではなくて、「いい意見がたくさん出ましたから、それにみんなで取り組んで行きましょう!」と委員の発奮を期待するプロジェクトのようである。
ちなみに、仕掛け人の吉田委員長の講話は、トンデモな部分以外は一応マトモではある。私なりに彼女の主張をまとめると、「健康に生きるためには、活気のある場所で暮らさなくてはならないから、街の活性化に取り組みましょう。そのためには一人ひとりがいろいろ取り組んで行くことが大事です」ということで、それ自体はもっともな主張と思うが、問題は委員会の議題として「街の活性化」にまで大風呂敷を広げてしまうと、収拾が付かなくなることである。
というか、この委員会は市役所の保健課が主管しているが、「街の活性化」ということだと保健課の所掌を完全に外れている。おそらく、保健課のみなさんも今頃「こんなことなら最初から企画課にやってもらうんだった」と後悔しているのではないだろうか。
それに、吉田委員長は葉っぱビジネスで有名な上勝町やアーティストの移住で知られた鹿屋の柳谷(やねだん)集落といったところを街の活性化の成功例として挙げるが、こうした特異的な成功例を喧伝して市民の発奮を期待するのはいいとしても、実際には町おこし運動は失敗の連続なわけで、こういったケースの二匹目のドジョウを狙うのは、宝くじが当たるのを待つようなものだ。「やる気さえあれば出来る」というようなことを言っていたが、ビジネスの世界は過酷である。
また、「委員のみなさんが主役になって動いて下さい」とも呼びかけていたが、既に町おこしを頑張っている人はたくさんいるわけで、街の活性化に取り組むならそういう人を応援することから始める方が、吉田さんの話に刺激を受けた委員が何かを始めるのを待つよりもずっと生産的だと思う。例えば、笠沙恵比寿の活性化から取り組んでみてはどうなのか。街の活性化なら、既存施設の有効利用をまず考えなくてはならない。だが、委員会ではそういう話にはならない。あくまで「一人ひとりが主役」なのだ。
この委員会の議論は全てこういう調子で、これまでなされてきた草の根の取り組み、行政の施策や施設、街が持っている財産や前提条件といったものには触れずに、「なりたい自分になるため新しいことに取り組みましょう! 行政に頼ってはダメ!」とけしかける。その結果、非常に表面的で一般的なことだけがきれいにまとまり、地味だが重要な既存施策の改善といった中身のある内容が全く手つかずに終わっている。
もし、私が委員会を進行するならば、既存施策のレビューと市民の健康状態のレビューを行い、公衆衛生と子育て・福祉の面で南さつま市が抱える課題をあぶり出し、短期的・中期的な目標を定めてそれを達成する方策を検討していく、という堅実だがツマラナイやり方になるだろう。そうしてできるのは、やはりツマラナイ施策のパッケージだと思うので、そういういかにも役所的なやり方を賞揚するものではないが、一方で、派手さはないが堅実で重要な仕事というのは、そうしたツマラナイやり方で一歩一歩進んでいかなくては達成できないものだと思う。
吉田さんは一種の山師のような方で、確かに当たれば大きな成果をもたらす才能はあると思う。だが山師であるために、そのやり方で常に成果が得られるとは限らない。特に今回のように、やりたいことが主管課の所掌と外れている場合、いくらその内容が優れていても成功の見込みは小さいと言わざるを得ない。広げすぎた大風呂敷をどうやって畳むのか、未だ先は見えないが、前向きな議論をしていきたいとは思っている。
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