2026年1月8日木曜日

万之瀬川河口と大宰府——秋目の謎(その7)

(「「南島牌」とヤマト政権の南島政策」からのつづき)

図1 万之瀬川河口周辺の主な遺跡(筆者作成)

これまで文献によって鑑真が秋目に来た意味を考察してきた。

おさらいすると、まず『続日本紀』や『唐大和上東征伝』の記述に基づき、鑑真一行が秋目に来たのは漂着ではなく正常な航路によるものだったと結論づけた(その5)。

次に、鑑真一行が秋目に来着した直後に修理された「南島牌」について考察し、「南島牌」を735年に設置した「高橋連牛養(たかはしのむらじ・うしかい)」は古代阿多郡の豪族だったのではないかという仮説を提示した(その6)。

今回はこれに考古学的知見を加えて、鑑真が秋目に来た意味を歴史に位置づけてみたい。

「その6」でも述べたように、阿多郡は南九州における海上交通の要衝であった。

そのことが解明されるきっかけとなったのは、「持躰松(もったいまつ)遺跡」の発見である。ここは1993年に河川改修工事に伴って発見され、博多・大宰府以外では例を見ないほど多種多様な輸入陶磁器と、東海地方や近畿・瀬戸内地方のものと見られる国産陶器、カムィヤキ(徳之島の焼き物)等が出土した。このことから万之瀬川河口で中世に一大貿易が行われていたことが明らかになったのである。さらに、隣接する「渡畑遺跡」「芝原遺跡」が調査され、特に「芝原遺跡」では「持躰松遺跡」を超える17,000点もの厖大な輸入陶磁器・国内産陶器が発掘された(ただし、持躰松で一通り考察が行われていたので、それほど話題にならなかった)。 しかもコンテナ的な要素を持つ大型の甕・壺が大量に出土したのは、九州では博多以外で万之瀬川河口だけという。

また、中岳という近くの低山の山裾に「中岳山麓窯跡群」という窯跡があり、ここが2000年代に入ってから発掘調査された。ここは9世紀以降に100基を超える須恵器の窯があったというとんでもない場所である。なぜこれほどまでに大量の須恵器を製造する必要があったのかというと、地元で使っていたのではなく交易に使っていたからにほかならない。その証拠に、琉球諸島でも中岳山麓窯製の須恵器(焼き物の成分分析による)が出土している。

しかし、これらの遺跡の出土品のピークは中世であり、特に11世紀から13世紀の話である。では古代以前はどうだったのか。

これについては有名な「高橋貝塚」という遺跡がある。玉手神社という神社の裏手にある貝塚だ。この遺跡からはゴホウラ貝などの南海産(奄美諸島以南に棲息する)の貝殻とその加工品が見つかった。ゴホウラ貝というのは平たい貝で、この真ん中に穴を空けることで貝輪(腕輪など)になった。「高橋貝塚」の時代は弥生時代前期から中期である。

つまり、弥生時代の阿多の人は、ゴホウラ貝を奄美以南から仕入れていた。この貝交易を詳細に研究した木下尚子氏はこの交易を「南海貝交易」と名付け、その交易ルートを「貝の道」と表現している。その研究によれば、阿多の人々は沖縄から貝を仕入れて加工し西北九州(博多など)に輸出していたという。もともと、ゴホウラ貝の貝輪は弥生時代の北部九州で流行していたから、この需要を見込んでの交易だったのである。ところが、やがて沖縄で貝を加工することが行われるようになって中継交易としての阿多はスキップされるようになり、弥生時代中期には阿多での貝交易は廃絶した、というのが木下氏の見立てである。

また、こうした交易の傍証として、「中津野遺跡」で国内最古級の弥生時代前期の準構造船の舷側板が出土した。準構造船というのは、丸木舟に部材を付け加えて大きくした船のことである。阿多は、弥生時代前期に丸木舟以上の船を作り、さらには南島との交易を行っていた地域なのである。

この他にも、この地域には膨大な遺跡が見つかっていて、遺跡の発掘報告書をめくるだけで大変だ。これほど遺跡が集積している地域は鹿児島県内でも珍しく、河川改修や道路開通に伴う発掘調査は地域の風物詩である。周囲はほとんど田んぼで開発がされていないのにこの密度で遺跡が出てくるのは驚異的だ(遺跡は開発によって発見されるからだ)。しかも先史時代から近世にかけて遺跡が重層的になっていて、交易が主体となっているのがこの地域の著しい特徴である。

その中心は、いうまでもなく万之瀬川だ。万之瀬川河口には、先史時代から港が置かれたことがこれまでの発掘調査から明瞭である。物流の中核であったと見られる「芝原遺跡」は、現在の河口からは5kmほど遡った川が大きく蛇行したところにある。このあたりが万之瀬川の港だった。

ところで、どうして海ではなく川を遡ったところに港を作ったのかというと、これは船のメンテナンスと関係がある。

船はずっと海に浮かべているとフジツボなどが船底にびっしりついてしまい、水の抵抗が増してうまく進めなくなる。そこで定期的にフジツボなどを除去する必要があるが、大きな船だと陸揚げするのは大変だし、そもそもフジツボなどが着いた時点で船が傷む。ところが川に船を入港させれば、真水によって海棲動物が死ぬのでその除去の必要がない。これが、海棲動物の付着を防ぐ船底塗料がなかった近世以前において、港が川に設けられた一因である。もちろん、外海に面した場所では、海が荒れた時に施設や物品が損傷してしまうという単純な理由もある。

以上を踏まえれば、鑑真一行が「阿多郡秋妻屋(あきめや)浦」を目指した事情がより明らかになる。つまり、彼らの本当の目的地は万之瀬川河口の港だった可能性が高い。しかし河口の港は、潮が満ちていくタイミングでしか入港できないという弱点がある(もちろん入港に適した風向きも限られる)。そのため、入港の方向も条件も異なる秋目がその予備的な港だったのではなかろうか。鑑真一行は航行のタイミング・風向きなどの事情により、万之瀬川河口への入港を諦めたのだろう。これが、鑑真が秋目を目指した理由であると私は考える。

これで結論が出たようだが、実はまだ話は終わらない。

下の「表1 万之瀬川河口付近の主な遺跡」をじっと見ているとあることに気付かないだろうか。弥生中期までと9世紀以降は万之瀬川河口での交易は盛んなのに、古墳時代については交易が低調なのだ。中世において物流の中心であったと考えられる「芝原遺跡」において、古墳時代の遺構は大量に発見されているのにその時代の交易を示すものがほとんど見つかっていないのは象徴的だ。この表は周辺遺跡を網羅してはいないものの、主要な遺跡は掲載しているからその傾向は明らかだ。つまり、ちょうど鑑真が秋目に来た頃、万之瀬川河口での海上交易は低迷していた。この事情を考えてみないことには、「鑑真一行は海上交易が盛んだった万之瀬川河口の港を目指したのだ」という単純な結論に留まってしまう。古墳時代の万之瀬川河口はどんな場所だったのか。

表1 万之瀬川河口付近の主な遺跡
遺跡名 時代 主な時代 注目点 参考文献
栫ノ原遺跡 縄文時代草創期 縄文時代草創期 鹿児島県内では上野原遺跡に次ぐ最古の定住跡。
高橋貝塚 弥生 弥生時代前期 ゴホウラ貝の交易拠点があったことを窺わせ、沖縄諸島と西北九州とを中継したと考えられる。弥生時代中期以降は貝交易が途絶えた。 木下尚子「弥生貝交易の中継地―鹿児島県高橋貝塚のゴホウラ分析から」国立歴史民俗博物館研究報告第237集(2022)
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(229)「高橋貝塚2」>(2025)
下小路遺跡 弥生時代中期 弥生時代中期 九州南部には分布しない「甕棺墓」に埋葬されていた人物が、ゴホウラ貝装身具を身につけていた。
中津野遺跡 旧石器時代~近世 縄文〜弥生時代 縄文時代から中近世までの土器・農具・住居跡等が多数出土した。弥生時代前期から稲作が行われていた。日本最古級の弥生時代前期の舷側板が出土した。 『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』「中津野遺跡」「中津野遺跡 2」「中津野遺跡 3」(2022)
上水流遺跡 縄文時代中期~近世 縄文

大規模かつ長期間にわたる集落跡。縄文時代晩期の南島系土器が本土で初めて発見された。縄文時代に南島とのつながりがあったと見られる。
16~17世紀の海外の大量の陶磁器が出土。タイの無釉の短頸大壺(14~15 世紀)も出土した。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』「上水流遺跡 1」「上水流遺跡 2」「上水流遺跡 3」(2009)「上水流遺跡 4」(2010)
奥山古墳 古墳時代 古墳時代 4世紀の古墳。板石積石棺墓。天草地域からの石材・工法と考えられる。万之瀬川流域で唯一の古墳 橋本達也他『薩摩加世田 奥山古墳の研究』鹿児島大学総合研究博物館研究報告(2009)
白糸原遺跡 縄文時代~中世 古墳時代・中世 古墳時代の大量の高坏が出土。中世末から近世にかけての土坑が24基検出。中世の土壙墓には廃材と見られる夜光貝がまとまって出土。九州での出土例は枕崎「松尾野遺跡」と本例のみ。 『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(86) 「白糸原遺跡」(2004)
中岳山麓窯跡群 古代 平安時代 9世紀中ごろ以降の窯跡が集積している。100基を超える須恵器窯があったと考えられている。交易に用いる壺・甕の製造を担ったと考えられ、成分分析によれば琉球諸島にも中岳山麓窯製の須恵器が出土している。 鹿児島大学埋蔵文化財調査センター『中岳山麓窯跡群の研究』(2015)
小中原遺跡 縄文時代・奈良~平安時代・鎌倉時代 平安時代 平安時代(9世紀)の掘立柱遺構が多数。「阿多」の文字が刻まれた土師器が出土した。阿多郡衙の可能性がある。9世紀の火葬人骨も出土。 『鹿児島県埋蔵文化財調査報告書』(57) 「小中原遺跡」(1991)
持躰松遺跡 縄文時代後期~近世 中世 多種多様な輸入陶磁器と、東海地方や近畿・瀬戸内地方の国産陶器、カムィヤキ等が出土。大型の掘立柱建物跡があり特殊な施設の可能性。
12世紀中頃~13世紀前半の白磁・青磁がピーク(この時期、大宰府の機能が衰退していることと関連が予見される)。近世にはほぼ耕地化。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(120) 「持躰松遺跡」 (2007)
渡畑遺跡 縄文時代中期~近世 中世 縄文時代から中世にかけて生活跡が数多く残る。貿易拠点というより居住地が中心か。大量の成川式土器が出土。古墳時代に集落の最盛期を迎えた。ヘラ書き土器・墨書き土器が出土。
11世紀後半~12世紀がピーク。13世紀以降衰退。近世には景徳鎮製の椀が出土。これはヨーロッパからの注文品であった可能性が高いが、なぜ本遺跡にあるのか不明。中岳山麓窯産と思われる須恵器も出土している。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(151)「渡畑遺跡」『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(159)「渡畑遺跡2」(2010)
芝原遺跡 縄文時代中期~近世 中世 弥生時代には破鏡が出土。古墳時代には大量の土器。中・北部九州地域から搬入されたと考えられる土器があり、交易が予想される。古代には多量の土師器や須恵器が出土。
中世の輸入陶磁器や国内産陶器、合計17000点が出土しその量は周辺遺跡に比べ突出している。青磁・白磁等の輸入陶磁器も約7500点に上る。11世紀後半から12世紀がピーク。コンテナ的な要素を持つ大型甕・壺が大量に出土。中世全期を通じて、万之瀬川下流域の中心的役割を果たした場所であり物流の中心。中国瓦と畿内産瓦器が出土。中世後期からは国内産陶磁器がメインに。中岳山麓窯産と思われる須恵器も出土している。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』「芝原遺跡」(2010)、「芝原遺跡 2」(2011)「芝原遺跡 3」「芝原遺跡 4」(2013)
小園遺跡 縄文時代〜中世 中世 11世紀後半から13世紀の貿易陶磁、須恵器・常滑焼・畿内産和泉型瓦器椀・南島産のカムィヤキ・滑石製仏具等が出土。有力者の居館跡または宗教的拠点の可能性。

古墳時代では、古墳の築造がヤマト政権における秩序を表していたから、まずはこれを見てみるのが一番だ。南九州の墓制・古墳はどうなっていたかというと、これが面白い(図2(※1))。

図2 隼人の墓制と高塚古墳

なんとなんと、万之瀬川流域を含む薩摩半島中部は、見事なまでの空白地帯になっているのである。古代南九州の人は畿内型の古墳(図では「高塚古墳」と表現)をなかなか受け入れず、「地下式横穴墓」とか「地下式板石積石墓」というような独自の墓を作っていた。そんな中でも大隅半島ではやや早く古墳を受け入れ、たくさんの古墳が残っていることはよく知られる通りである。

しかし薩摩半島中部は「地下式横穴墓」のような古代南九州の墓制すらも不在で、大がかりな墓自体が作られなかったようなのだ。

万之瀬川流域には遺体を海に流すような特殊な墓制があったのかもしれないが、このことから古墳時代の万之瀬川流域について少なくとも2つの事が言える。第1に、この地域に大きな権力を持った指導者のいる社会はなかった。第2に、他地域との人の交流が大規模には行われていなかった。

もし、この地域で活発に人の交流が行われていれば、他の地域でこぞって古墳が作られているなか、墓で威信を示すことが行われていてもよさそうなものだ。それがないということは、社会が内向き・独自路線になっていたことが明らかである。なお、例外として万之瀬川河口近くに「奥山古墳」という古墳が一つだけある。これは天草の方から石材・工法が移入していると分析されている。土着の墓制ではなく、ヨソ者的な墓なのである。

また、社会が内向き・独自路線になっていたことの証左として「成川(なりかわ)式土器」も挙げられる。成川式土器とは、指宿の山川にある「成川遺跡」を標式遺跡とし、弥生時代終末期〜7・8世紀まで南九州全域で作られた土器である。これは長く弥生土器と思われていた地域色の強い独自の土器だが、こういう独自の土器がつくられた背景には、他地域との接触の少なさが一因とされる。先述の万之瀬川流域の遺跡でも古墳時代の層から成川式土器が大量に出土している。

古代南九州の人々、いわゆる隼人は、「まつろわぬ民」として表象されてきた。古墳の事情を見るかぎりそれは正しい。彼らは明らかに畿内的な秩序を受け入れていない。こういう敵対的な「異民族」とは、国家的な交易が安定的に行われたとは到底思えないのである。ともかく、考古学の知見からは、古墳時代の万之瀬川河口で交易が盛んだったとは言いづらい。

ここで改めて南島と南九州との関わりについて考えてみよう。

8世紀初頭という、南九州の人々がいまだ「まつろわぬ民」だった時期、南島人が朝貢するにあたって南島人は南九州を経由しただろうか。700年に起きた「覓国使剽劫事件」では覓国使が南九州で脅迫されているので、南島航路は南九州を経由していた。しかし、「隼人の大乱」の最中である720年に南島人232人が来朝して授位されているが、この時に彼らは南九州を経由しただろうか。そんなわけはないと私は思う。

そのことを考える上で重要なのが種子島・屋久島である。特に種子島はヤマト政権が一貫して重視していた地域である。ヤマト政権の南島政策は種・屋久からスタートした。史実かどうか不明瞭だが、『日本書紀』によれば早くも629年に田部連(たべのむらじ)某という人物が「掖玖(やく)」に遣わされている。そして679年には多禰嶋に使いが派遣され、681年に地図を提出させたという。この遣多禰嶋使は史実と思われ、ヤマト政権の南島政策が始まったことを示す。翌682年には多禰人・掖玖人・阿麻弥(アマミ)人に禄が与えられた。朝廷は早くから南島に大きな関心を寄せていたのである。ちなみに同年に「阿多と大隅の隼人が朝庭(みかど)に相撲する」という記事があるが、これが隼人の確実な初見記事である(※2)。ヤマト政権は隼人に先だって種子島との関係構築を図っているのである。

種子島の南部にある「広田遺跡」は当時の種子島の存在感を窺わせるものだ。ここは海岸に面した場所にある弥生時代後期から7世紀にかけての墓地遺跡で、157体の人骨、44,000点以上の貝製品が出土した。この遺跡では美しく加工されたゴホウラ貝の貝輪が大量に出土している。種子島にもゴホウラ貝は棲息していないから、これは交易によるものであることが明らかだ(※3)。弥生時代後期から7世紀という、ちょうど万之瀬川河口での交易が低迷していた時期に、種子島では南島交易が盛んに行われていたのである。ヤマト政権が南九州をすっとばして種子島に行くのも無理はない。

そして種子島からは、南九州を経由せずに瀬戸内・紀伊半島などにいく日本海流に乗って進む航路があったと思われる。 実際、鑑真一行のうち第3船は屋久島から出航したものの、漂流して紀伊半島の牟漏埼に着いているが、これは日本海流に乗れば紀伊半島まで直行できることを示している。安全性はともかく、この方が南島ー畿内の距離は近い。種子島こそが古墳時代の南島航路の中心だったので、種子島から瀬戸内・紀伊半島へ進む九州東回りルートがヤマト政権の公式航路となってもおかしくなかった。

だが、そうならなかった理由は明らかだろう。大宰府の存在である。

ヤマト政権が南島政策に本格的に乗り出した700年代は、大宰府が行政庁として発展していく時期にあたっていた。

そもそも大宰府は、白村江の戦いの敗戦後(663年)、朝鮮半島からの圧迫に備えるために軍事拠点として設けられた(それまでも「筑紫大宰」はあるが場所と役割が違う)。『続日本紀』の大宰府関係記事を確認してみると、7世紀末から8世紀頭には軍事関係記事ばかりである。ところが朝鮮半島との緊張状態が緩和されると、次第に西海道(九州)を所掌する行政官庁となっていった。

それを示す最初の記事は702年の「大宰府に所部の国の掾以下と郡司等の人事の選考を任せることを許した」というものである。ここで「所部の国」は明示されていないが、ともかく大宰府は「国」を所轄し、中級官人以下の人事が任されたのである。その後大宰府は天候不順による困窮をたびたび報告して「所部の国」の税の減免を訴えており、行政庁としての実体があったことが窺える。また706年には「所部の九国・三嶋が日照りや大風で作物に被害がでている」と報告しており、三嶋=壱岐・対馬・種子島なので、種子島まで所管していたことが明らかになる。

ところが、ヤマト政権の南島政策には不思議なほど大宰府の存在感がない。707年に「大宰府に使いをやり南島人に位階や下賜を与えた」という記事が一つあるだけで、これも使いの指示によって行われているので大宰府の主体性は窺えない。そしてその後の度重なる南島人の来朝や授位には大宰府が関与した記録がないのである(末尾の表2参照)。とすると、ヤマト政権の南島政策は直轄事業であり、大宰府が所轄していたのはあくまで種子島までだったと考えるのが自然である。その前提で南島人が畿内へ行く時の航路を考えると、わざわざ南九州ー大宰府を経由する必要はなく、やはり種子島から日本海流に乗って九州東回りルートを取る方が自然なのだ。

しかし「南島経営を南九州人に委託した」ことでヤマト政権の南島政策が終わりを告げたとすれば、南島の管轄は大宰府に移行したと考えられる。大宰府は南九州(薩摩・大隅)を所轄しているのだからそれが自然のなりゆきというものだろう。

ここでもう一度、735年に「南島牌」を設置したことを述べる「大宰大弐の従四位下小野朝臣老が、高橋連牛養を南島に派遣して、牌を立てさせた」という記事を見てみると、「南島牌」を「大宰府が」立てさせたということの意味が重大に思える。これは、それまで南島政策に関与していなかった大宰府が、主体的に南島経営に乗り出したことを示しているように思えてならない。そして大宰府が「南島牌」を設置する以上、南島から本土にゆく航路は九州東回りルートではありえない。南島からの船は大宰府にいく必要があるのだから、九州を西回りするルートでなくてはならないのである。そこで交易の拠点として息を吹き返すのが万之瀬川河口なのである。

そして、8世紀半ばにおいて九州西回りルートが確立していたことを示すのが、鑑真一行が秋目を目指して航行し、秋目に来着してからたった6日間で大宰府に到着している、という事実なのだ。鑑真の秋目来航は、「8世紀に南島からの航路が九州西回りルートへ変更された」ことを明証するパズルの1ピースなのである。

実際、九州東回りルートのおかげで繁栄していた種子島は9世紀には全く振るわなくなる。多褹国は824年に大隅国に編入されるが、この時の大宰大弐の上奏文(『本朝文粋』所収)が面白い。曰く、種子島は「損失ばかりで利益がない」とか「利益のない土地を守るために、有用な物資や人材を損なうことは、政治の根本に照らしても道理に合わない」などといい、「この島を(独立した行政単位から)停止し、辺境の弊害を省かれますように」と結ぶのである。かつて南島交易で栄えた種子島が、9世紀には「辺境の弊害(邊弊)」とまで言われているのである。

これに代わって殷賑を極めるのが万之瀬川河口であることはいうまでもない。9世紀に「中岳山麓古窯群」が興隆し、万之瀬川流域の遺跡では9世紀以降に交易が繁栄していることはそれを明証する。一方、南島の側で交易の拠点となったのが喜界島である。喜界島の「城久(ぐすく)遺跡群」は9〜15世紀の遺跡群で青磁などの輸入陶磁器を含む大量の陶磁器が出土しており、特に9〜10世紀には北部九州と繋がりが窺われる。9世紀以降の南島交易は明らかに大宰府の力を背景にしていた。

そう考えると、古代から中世に万之瀬川河口で交易が盛んに行われたのは、それが九州西回りルートにあたっていたからで、大宰府のおかげであるといっても過言ではない。そもそも交易は仕入れ先と売り先の両方が揃って初めて成立する。大宰府・博多という売り先があったからこそ万之瀬川河口の交易が興隆したのは明らかだ。その上大宰府は公的な後ろ盾でもある。「金峯山由来記」の「高橋殿」の伝説で、阿多郡の繁栄を築いたのが「勅使従三位兼太宰大弐蔵人頭高橋卿」という大宰府の高官だとしたのは現実を鋭く反映していたと思う。

この「高橋卿」について、知覧の歴史家・江平望さんは阿多忠景(あた・ただかげ)の「姿が投影されているようにみられる」としている(※4)。阿多忠景とは、薩摩平氏の棟梁で、大宰府と関係を持って交易に関与したと見られ、阿多郡司から「一国惣領」にまでのし上がった人物である。しかし彼は12世紀の人物だ。忠景の時代の阿多郡=万之瀬川河口はすでに大宰府との深い関係があったように思われる。私には、忠景が阿多郡と大宰府を繋いだのではなくて、もともとあった万之瀬川河口と大宰府の関係を忠景が利用したように思われるのである。

1138年、阿多忠景は金峰山中腹の観音寺に所領を寄進しているが、観音寺といえば大宰府が7世紀後半から造営した「観世音寺」が想起される。金峰山の観音寺は、近隣に「小薗遺跡」があることから交易のネットワークに関わる存在なのではと考えられているが、元来は大宰府による万之瀬川河口での貿易管理の出先機関だったのではないだろうか。この時代には末寺末社が荘園の現地管理に利用されていたのである。忠景はそこに所領を寄進することで大宰府との繋がりを強固にしたと考える方が筋が通る。

ちなみに『三国名勝図会』では、この観音寺(金峯山観音寺金蔵院)についてこう述べている。

推古天皇二年、日羅、金峯山権現を崇るや、當寺を阿多浦之名に建て、護持の精舎とし、自刻の十一面観音を安置す。(中略)保延四年、十一月、阿多郡司平忠景、阿多牟田上浦を寄附す。(後略)

保延4年は1138年であり、これは史実に正確だ(※5)。このように『三国名勝図会』の編者には阿多忠景について正確な知識があった。「金峯山由来記」に登場する「高橋卿」が阿多忠景であると考えられるならそう書いたはずだ。「高橋卿」は阿多忠景よりもずっと前の、万之瀬川河口交易を創始した人物なのである。

なお前回述べたように、中世では阿多郡は薩摩・大隅国において唯一の大宰府領であったが、これが大宰府に寄進された事情は詳らかでない。万之瀬川河口が9世紀という早い段階で交易で賑わうことを踏まえると、「荘園」という仕組みが確立する以前に、万之瀬川河口は大宰府の強い影響下にあったとするのが自然だ。事実、大宰府に属する軍事貴族が阿多忠景以前に盛んに南九州に進出している(※6)。

そう考えると、やはり阿多郡=万之瀬川河口の繁栄の始祖と呼べるのは、8世紀に大宰府の指示で「南島牌」を立てた「高橋連牛養」であるように思えてならないのである。

ところで、前回の記事を書いた後、「高橋連牛養が外から来た人物であるという可能性も捨てない方がいいのでは」というコメントが複数の人からあった。確かに「金峯山由来記」では「高橋連牛養」は大宰府から来た官人で、その居住地「高江崎」は彼の一族にちなんで「高橋」と呼ばれるようになったとしている。前回の記事では単純化して「高橋連牛養」を「南九州の豪族」だと書いたが、彼は「他所から来て南九州に土着した豪族」であったとした方が伝説に合致する。なにより「連(むらじ)」はヤマト政権に早い時期に帰順した畿内の豪族に与えられた姓(かばね)だから、薩摩国の豪族が称するのは不自然だ。

というわけで「高橋連牛養」の出身地について考えあぐねていたところ、X(Twitter)で「古墳時代史解題」さんから「越智氏の一族の可能性がある。この高橋は伊予国越智郡高橋郷の高橋ではないか」という趣旨のコメントをいただいた(今でも愛媛県今治市高橋として地名が残る)。越智氏といえば古代伊予国の豪族で、伊予国一宮であり式内社(しかも名神大社)であった大山祇神社と深い関係がある(『延喜式神名帳』の表記では「大山積神」)。これは瀬戸内海の大三島という島に建立されており、武具を中心とする多数の国宝を有していることで知られる。

大山祇神(おおやまつみのかみ)といえば、天孫降臨の神話で、天降りしてきたニニギノミコトが出会って結婚するコノハナサクヤ姫の父親が大山祇神である。そしてコノハナサクヤ姫のまたの名が「神吾田津姫(かむあたつひめ)」すなわち「阿多の姫神」なのである。というより『日本書紀』でも『古事記』でも、この姫神の名は「アタツヒメ」が基本で別名がコノハナサクヤ(木花咲耶)姫である。(※7)。 『日本書紀』は720年に完成しているが、これは「南島牌」が設置されるたった15年前だ。この神話は、大山祇神を媒介にして瀬戸内と阿多の人々に何らかのつながりがあったことを伝えている。

そして古墳時代の瀬戸内海は畿内と北部九州を結ぶ海上交通ルートであり、特に今治市が面する来島(くるしま)海峡は海上交通の要衝であった。中世では村上水軍など海賊が活躍している。今治市の高橋は、今治平野に注ぐ蒼社川(そうじゃがわ)の北側にある低標高地域で、阿多の高橋と自然条件がたいへんよく似ている。こういう自然環境におり海上交通との縁が深かった越智氏の一族なら、「南島牌」を立てることができたかもしれない。伊予国越智郡高橋郷にいた越智氏の分流に「高橋連」を名乗った家系があり、その一人「高橋連牛養」が大宰府の意向で南島を旅してから阿多に居着き、そこから阿多郡の高橋が名付けられたと考えると伝説と整合的だ。ちなみに今治市には野間神社(これも式内社・名神大社)もあり、笠沙町の野間岳にある野間神社と関係があるようにも思う。「持躰松遺跡」からは吉備系土器と見られる土師器が出土しており、北部九州を経由しない畿内・瀬戸内ルートがあったことが推測されている。中世以降も瀬戸内海と万之瀬川流域には関係があったのは間違いない。

いずれにせよ、万之瀬川河口における古代の交易が大宰府との関係で興隆したものであることは文献・考古学・伝説の全てが一致して物語っており、「高橋卿」にしろ「高橋連牛養」にしろ、そういう人物が古代に大宰府から遣わされたということは信じてもよい。

もう一度冒頭の「図1 万之瀬川河口付近の主な遺跡」の図を見てもらうと、中世以降の遺跡が万之瀬川の北側ばかりなのに気付くだろう。実は中世において、万之瀬川の北側は大宰府領だったが、万之瀬川の南側は島津領なのである(※8)。自然条件はほとんど違わないのに、万之瀬川の北側ばかりに交易の痕跡が色濃いのは、交易において大宰府がいかに大きな存在であったかを示唆している。島津氏の側から言えば、川の対岸では交易で莫大な富が動いているのが苦々しかったに違いない。そして正確な時期は不明ながら、阿多郡も島津庄に吸収され、島津氏も万之瀬川河口での貿易を手がけるようになるのである。

これまで、長々と考察を続けてきたが、それは『続日本紀』の二つの記事をどう読み解くかということににかかっていた。最後に原文で掲げよう。 

<天平勝宝六年正月>壬子、(中略)入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂来帰。唐僧鑑真・法進等八人、随而帰朝。 
<天平勝宝六年二月>丙戌、勅大宰府、去天平七年、故大弐従四位下小野朝臣老、遣高橋連牛養於南嶋樹牌。而其牌経年、今既朽壊。宜依旧修樹、毎牌、顕着嶋名并泊船処、有水処、及去就国行程、遥見嶋名、令漂著之船知所帰向。

たったこれだけの簡単な記述だが、二つの記事を有機的に連関させて読み解くことで古代の海上交通についていろいろと推測した。改めてまとめると、鑑真が秋目に来航したのは、単に高僧が来朝した第一歩であるばかりでなく、(1)南島航路が九州西回りルートとなったことと、(2)その航路が大宰府の管轄下にあったことを示し、(3)ひいては万之瀬川河口の交易の開始(中興)を暗示する徴証なのだ、ということが二つの記事から導けるのである。

ただし肝心の秋目が当時どんな場所であったかは、文献でも考古学でも全く不明というほかない。私の知る限り秋目は一度も埋蔵文化財の調査が行われていないようだ。秋目の発掘がなされれば、さらに面白い事実が解明されるのではないかと思う。どんどん過疎化し開発の見込みがない秋目では発掘調査が行われる可能性は低いが、将来ひょんなことから(崖崩れとかで)発掘が行われることを期待したい。

(終わり) 

※1 出典は熊田亮介「古代国家と蝦夷・隼人」(『岩波講座 日本通史 第4巻』1994) 

※2 『日本書紀』には、これ以前にも隼人の記載はいくつかあるが「蝦夷・隼人」とセットで書かれていることから後世の作為とされる。 

※3 広田遺跡では、ゴホウラ貝の腕輪などが使用されているので、交易といっても最終消費地の性格もある。 

※4 江平望「阿多忠景について」(『古代文化』第55巻第3号(2003)) 

※5 阿多忠景の寄進は、『二階堂文庫』保延四年十一月十五日「薩摩国阿多郡司平忠景解案』で跡づけられる(※4による)。『三国名勝図会』の編者はこの文書を利用したのかもしれない。 

※6 野口実『列島を翔ける平安武士—九州・京都・東国』(2017) 

※7 『日本書紀』本文では「鹿葦津姫(かしつひめ)<亦の名は神吾田津姫。亦の名は木花咲耶姫>」とある。第一の一書には登場せず。第二の一書では「神吾田津姫、亦の名は木花咲耶姫」。第三の一書では「神吾田津姫」。第四の一書には登場せず。第五の一書では「吾田鹿葦津姫」。『古事記』では「神阿多都比賣、亦の名は木花之佐久夜毘賣」。

※8 正確には、中世初期においては万之瀬川のすぐ南にある益山荘は弥勒寺(宇佐神宮の別当寺)の荘園であった。 

【参考文献】
文中および表中で挙げたものの他に、次の文献を参照した。

  • 『古代文化』55巻2-3号(特輯 11~15世紀における南九州の歴史的展開―万之瀬川下流域に見る交易・支配・宗教―)(2003)所収の次の論文
    • 永山修一「『11~15世紀における南九州の歴史的展開』に寄せて」
    • 柳原敏明「平安末~鎌倉期の万之瀬川下流域―研究の成果と課題―」
    • 大庭康時「博多遺跡群の発掘調査と持躰松遺跡」
    • 市村高男「11~15世紀の万之瀬川河口の性格と持躰松遺跡―津湊泊・海運の視点を中心とした考察―」
    • 宮下貴浩「山岳寺院と港湾都市の一類型―小薗遺跡と観音寺の調査を中心として―」
    • 中村和美・栗林文夫「持躰松遺跡(2次調査以降)・芝原遺跡・渡畑遺跡について」
    • 山本信夫「12世紀前後陶磁器から見た持躰松遺跡の評価―金峰町出土の焼き物から追及する南海地域の貿易・流通―」
    • 江平 望「阿多忠景について」(再掲)
  • 倉住靖彦『大宰府(教育社歴史新書<日本史25>)』 (1979)
  • 中村明蔵『隼人の古代史』(2001)
  • 鹿児島大学総合研究博物館編『成川式土器ってなんだ?—鹿大キャンパスの遺跡から出土する土器—』(2015)
  • 喜界町教育委員会『城久遺跡群—総括報告書—』(2015) 

【参考】表2 『続日本紀』の735年までの大宰府関係記事(人事除く)
和暦 西暦 事項
文武2年 698 大宰府に大野・基肄・鞠智の3城を修繕させた。
文武3年 699 大宰府に三野・稲積の2城を修繕させた。
大宝2年 702 歌斐国から献げられた梓弓500張が大宰府に納入された。
大宝2年 702 大宰府に所部の国の掾以下と郡司等の人事の選考を任せることを許した。
大宝3年 703 天候不順により京畿および大宰府管内諸国の調を半減し、庸を免除した。
大宝3年 703 大宰府の史生を10人増員した。
大宝3年 703 大宰府の「軍功(勲位)があって位階がないものも昇叙の対象とすべき」という申請を許可した。
慶雲元年 704 信濃国から献げられた弓1400張が大宰府に納入された。
慶雲元年 704 大宰府から「昨秋の台風で作物に被害が出た」と報告があった。
慶雲2年 705 大宰府に飛駅(ひやく)の鈴8口、伝符10枚を与えた。
慶雲3年 706 諸国の飢饉に際して7条の対策が定められた。うち第4条に「大宰府所部の国はすべて庸の収めを免除する」とした。
慶雲3年 706 大宰府から「所部の九国・三嶋が日照りや大風で作物に被害がでている」と報告があったことを受けて使いに見聞させ、調役を軽減した
慶雲7年 707 大宰府に使いをやり南島人に位階や下賜を与えた。
※735年以前において大宰府が南島政策に関与した唯一の記事。
和銅元年 708 大宰府帥・大弐(ほか略)らに傔杖(護衛)を与えた。
和銅2年 709 「筑紫の観世音寺は、天智天皇が発願されたが未だに完成しないので、大宰府はこれを考慮して人員を増員し速やかに完成させるべきである」との詔があった。
和銅2年 709 「大宰帥以下の官人につける事力(労働者)を半減する。ただし薩摩・多褹の国司と国師の僧は減じない」との命令があった。
和銅3年 710 大宰府から銅銭が献上された。
霊亀元年 715 (新羅使の)金元静が帰国するため、大宰府に綿5450斤と船一艘を与えるよう指示した
霊亀元年 715 大宰府の官人の家口(けく)(家族?)には課役を免除する制度とした。
霊亀2年 716 大宰府の佰姓に錫を売買する「鋳銭の悪党」がいるため、私蔵を禁じ見つかれば没収することを命じた。
霊亀2年 716 大宰府に弓5374張を納入した。
霊亀2年 716 大宰府が「帥以下につけられる事力(労働者)が半減され代わりに綿が給付されているが、労働力が足りず困窮しているので、綿の給付を辞めて労働者をつけてほしい」というのでこれを許した。
養老2年 718 三関と大宰・陸奥の国司の傔杖に白丁を取ることを禁じた。
養老2年 718 大宰所部の国の庸を諸国と同じくし、先に庸の減免を行ったのを旧に復した。
養老2年 718 大宰府から「遣唐使従四位下多治比真人が帰国した」と報告があった。
養老3年 719 大宰府に大型船2艘、独底船(小型の船か)10艘を納入した。
養老4年 720 大宰府が白鳩を奉った。
養老4年 720 大宰府が「隼人が反乱を起こした。大隅国守陽侯史麻呂が殺された」と報告があった。
養老5年 721 七道按察使および大宰府に寺を併合して減らすように命令が下った。
養老5年 721 新羅貢調使の大使一吉飡金乾安、副使の薩飡金弼らが筑紫に来朝したが、太上天皇の死去のため帰国させた。
養老6年 722 「大宰府管内の大隅・薩摩・多褹・壱伎・対馬らの司(役所)に欠員があれば、大宰府の官人を選んで権(かり)に任命してよい」とはじめて制定した。(隼人征討の直後)
養老7年 723 大宰府から「日向・大隅・薩摩の三国は隼人征討のために軍役が多く困窮しているので、3年間課役を免除してほしい」との申請がありこれを許した。
神亀3年 726 太政官は、新任の国司に給付する経費について規定し、大宰府およびその管内の国については特例を定めた。
天平元年 729 大宰府に調の綿11万斤を納めさせた。(大宰府貢綿の開始)
天平2年 730 大宰府から「大隅・薩摩では班田を実施していないが、班田をあえて行うと訴えが多く起こると思われるので、このまま実施せず自主的な耕作にまかせる」との報告があった。
天平3年 731 大宰府に壱伎・対馬の医師を補任させた。
天平4年 732 新羅使の奈麻金長孫らを大宰府に召喚した。
天平6年 734 大宰府から「新羅貢調使の級伐准飡らが来泊した」との報告があった。
天平7年 735 大宰府では疫病による死者が多数出ているため、神祇に奉幣し大宰府の大寺と管内諸国の諸寺で金剛般若経を読誦するとともに、救恤のため使節を発遣して、長門国からの諸国では斎戒し道饗祭を祀らせた。
天平7年 735 大宰府から「管内の諸国では疫瘡が流行しているので今年の調を停止してほしい」との申請がありこれを許した。

2026年1月2日金曜日

「南島牌」とヤマト政権の南島政策——秋目の謎(その6)


(「鑑真は秋目に漂着したのか」からの続き)

鑑真一行が秋目を目指したのはなぜなのか。

この謎は文献のみでは解決できない。「秋妻屋(あきめや)浦」という地名が出てくる古代の文献は『唐大和上東征伝』しかないためだ。そこで、秋目から少し視野を広くして、当時の南九州をめぐる状況から推測してみよう。

そのキーとなるのは、鑑真が都についた直後に出された次の指令である(『続日本紀』からの引用。なお、本稿では用字の検討は必要ないので現代語訳のみ掲載する。また年号も適宜省略した)。

<天平勝宝6年(754)2月20日条>大宰府に次の勅命が下った。「天平7年(735)、故・[大宰]大弐の従四位下小野朝臣老(おゆ)が、高橋連牛養(たかはしのむらじ・うしかい)を南島(=薩南諸島)に派遣して、牌(木の標識)を立てさせた。 その標識は年月が経ち、今すでに朽ち壊れているが、従来通り修復すべきである。各標識には、島の名前と船の停泊場所、水のある場所、および本土への行程を記し、遥かに見える島の名前がわかるようにして、漂着した船が帰る方向を知ることができるようにせよ」

この条で述べられている南島に立てられた木の標識を「南島牌」といい、これを立てる規定は後の『延喜式』にも継承された。鑑真到着の直後に「南島牌」の補修が命じられたのは、鑑真一行が島々に赴いた時に「南島牌」が朽ち果てていて、行程がわからず苦労したためであろう。

しかし朽ちていたとはいえ、「南島牌」の存在は黒潮に乗って南島を辿る航路が規定されていたことを示す。そして当然「南島牌」は本土のどこかを目指していたに違いない。それが秋目であるかどうかまでは分からないが、「南島牌」が設置されている以上、この時点で公式の「本土ー南島航路」が確立していたのである。

では、「本土ー南島航路」はなぜ設定されたのか。それは、696年から契丹が中国の河北を侵略して大乱が起き、朝鮮半島の情勢が不安定化していたことが遠因のようだ。この国際情勢の中で、「大宰府ー朝鮮ー唐」という航路の代わりになるものとして「本土ー南島ー唐」の航路が模索されたのである。だが、それは単なる代替航路の設定のみに留まらなかった。

ヤマト政権(※1)の南島にまつわる政策を具体的に見てみよう。まず、契丹侵攻の2年後の698年、武装した文忌寸(ふみのいみき)博士ら8人が南島に国覓(くにまぎ)のために遣わされた(=覓国使(べっこくし))。「国覓」というのは、「国を求める」という意味だが、この時はまだ薩摩国も大隅国も設置されていない(薩摩大隅を含む日向国はあったとされるが未詳)。どうやらヤマト政権は、南島を服属させ「国」とするつもりだったらしい。当時の日本は自らを中華になぞらえていたので、異民族を従えていることが威信のためにも必要だった。

そして翌699年、南島からの献納物が伊勢神宮・諸社に奉納された。これは、政権の目的が単なる航路開拓や国の設置だけでなく、南島の宝物にもあったことを窺わせる。南島には貴重な貝など、本土では手に入らない文物が産出したのである。こういう動向の中、翌700年に覓国使剽劫(ひょうごう)事件と呼ばれる事件が勃発した。

これは、文忌寸博士に同行した覓国使の刑部(おさかべ)真木らが脅迫(剽劫)された事件である。襲ったのは、「薩末比売(さつまのひめ)、久売(くめ)、波豆(はず)[←以上3人女性名?]、衣評督(えのこほりのかみ)の衣君県(えきみあがた)、助督衣(すけえ)君弖自美(てじみ)、肝衝難波(きもつきのなにわ)が肥人(くまひと)を従えて実行した」と『続日本紀』文武天皇4年6月3日条にある。ここに記載されている人名が他に見えないものであるため詳細は不明だが、薩摩・頴娃(=衣評(えのこほり))・大隅の土豪たちが覓国使を襲って脅迫したのである。特に頴娃の土豪は「衣評督」というれっきとした役人なのに反抗している。

なぜ彼らは覓国使を襲ったのか。おそらく、ヤマト政権が直接南島と交易することで自らの交易ルートが邪魔されることを嫌ったのであろう(※2)。鹿児島の人々は南島と交易することで大きな利益を得ていたからだ。

また、この時期の南九州には反ヤマト政権的な動きがある。702年には薩摩と多褹(種子島)が天皇の命令に逆らったため征討軍が派遣されている。はっきりとしないが、この頃に日向国に鹿児島が包摂されたらしい(※3)。とすれば征討軍の力によって南九州はヤマト政権に服属したわけだ。709年には188人の隼人が入京してそのまま滞在した。これは数百人の隼人が京に6年交替で滞在する「大替隼人」という、近世の参勤交代制度ようなものになった(801年まで続いた)。

だが南九州には、ヤマト政権に従わない人が多かったらしい。『続日本紀』714年3月15日条はそれを如実に示している。曰く「隼人は道理に暗く愚かで憲法に従わない。よって豊前国から200戸を移住させて教導させた」。1戸が7〜8人とすれば、豊前国から1500人もの人が移住させられて隼人の習俗の矯正にあたったことになる。これは誇張されているとしてもただ事ではない。そもそも南九州の人々も以前はヤマト政権に靡く「異民族」として表象されていたのだが(風俗の歌舞の披露などが求められた)、この時期にさらなる異民族である南島人が現れてくるので、今度は隼人の同化政策というものが浮上してくるのだと思われる。

事実、南九州の反抗的な様相とは対照的に、ヤマト政権は南島に接近していく。714年には南島から52人が朝廷に連れてこられ、翌715年には陸奥・出羽蝦夷と南島奄美・夜久・度感・信覚・球美等が来朝し貢納して、彼ら77人に授位されている。また720年には南島人232人に授位され(これは後述の「隼人の反乱」の真っ最中!)、727年にも132人に授位されている。政権は、南島人の歓心を引くため位階を大盤振る舞いしたのである。このように大量授位されたのは南島人と蝦夷だけだ。南島人が位階などもらって喜んだとは思えないが、実際に遠路はるばる朝廷まで来たのだから何らかの実利もあったのだろう。

こういう情勢の中、720年から翌年にかけて南九州では「隼人の反乱」と呼ばれる大乱が起きた。大隅国守の陽侯史麻呂(やこふひとまろ)が殺されたのがその口火となった。ちなみに、この時に政権から派遣されて鹿児島に来るのが大伴旅人である。この戦乱で、殺害および捕囚された隼人は1400人に及んだ(『続日本紀』721年7月7日条)。この反乱が、南九州における反ヤマト政権の最後の運動であり、その後は安定したと思われる。そしてヤマト政権は、あれだけ執心していた南島からなぜか手を引いたらしく、『続日本紀』は727年の授位の記事を最後に南島については一切沈黙するのである。

そしてその8年後の735年に「南島牌」が立てられた。そのきっかけはおそらく、前年の734年に遣唐使の多治比広成(たじひのひろなり)一行が帰国に際して多褹島(種子島もしくは屋久島)に来着したことである。『続日本紀』には詳細が書いていないが、南島を辿って種子島に来着したのかもしれない。だが多治比広成一行も南島の航路がよくわからなかったために「南島牌」を立てることになったのだろう。ということは、この時点でヤマト政権にとって南島が勢力圏内ではなかったことは明らかである。

以上の状況を整理すると次のようになる(末尾の表も参照)。

  • 698年から、ヤマト政権は急に南島を重視し始めた。
  • 700年に鹿児島の土豪の一部はそれに反発し「覓国使剽劫事件」を起こした。
  • ヤマト政権では鹿児島の馴化を図ったが、鹿児島これに反発し720年に反乱が起きた。
  • 同時にヤマト政権は南島人の慰撫に努めたが、727年の授位を最後に南島政策は終わった。
  • 735年に「南島牌」が立てられた。

要するに、この時期の南島政策は、契丹の侵攻による朝鮮半島情勢の不安定化のみならず、南九州(薩摩国・大隅国)との関係悪化に対応したものだったと見なせる。727年の南島人への授位を最後に政権の南島政策が終わったのは、南九州との関係が安定したことで、南九州人を通じて南島との連絡が図れる体制になったためだろう。もしくは、ヤマト政権が南島から手を引くことと引き換えに南九州の人々が矛を収めたのかもしれない。いずれにせよヤマト政権は南島経営を南九州人に委託したのである。

このことを前提として、もう一度「南島牌」について記載した『続日本紀』の記事を見てみよう。 「大宰大弐の従四位下小野朝臣老が、高橋連牛養を南島に派遣して、牌を立てさせた」とあるが、ヤマト政権にとって南島が縁遠くなっていた状況の中で、「南島牌」を立てた「高橋連牛養(たかはしのむらじ・うしかい)」とはいったい何者なのかという疑問が湧いてこないだろうか。

「高橋連牛養」について、「新日本古典文学大系」の注では「他に見えず。高橋連の高橋は万葉にも「石上布留の高橋」(2997)と見える大和国添上郡の地名(現在の奈良県天理市櫟本町付近)による。(後略)」とし、高橋は奈良の地名であるとするがこれは疑わしい。

なにしろ、「高橋連牛養」が奈良の高橋(現天理市)の人だったとすると、「南島牌」の設置はきわめて困難な事業だ。南島の地理はヤマト政権にとって未知だったし、おそらく南島人とは言葉も通じなかった(でなければ「南島牌」など立ずとも現地人に聞けばすむ)。政権の南島政策はすでに放棄されており、南島人との連絡関係もなくなっていたかもしれない。そんな中、南島の島々にどうやって標識を立てるというのか。ちょっと無理な話である。

ここで「南島経営を南九州人に委託した」ことでヤマト政権の南島政策が終わったと考えると、「南島牌」は南九州の人間に立てさせるのが自然だ。『続日本紀』の記事は、南九州の豪族「高橋連牛養」に、大宰府が「南島牌」を立てさせた、と理解するのがよいと思う。南島と交易があった南九州人なら、この仕事はたやすいことだっただろう。

では南九州の豪族の名前として「高橋」はありえるのか。実は、鹿児島には高橋という地名がある。万之瀬川の北側が「高橋」なのだ(近世では高橋村。現南さつま市金峰町高橋)。古代から近世にかけて阿多郡が置かれていた場所の一部である。

そして、幕末に編纂された薩摩藩領の地誌『三国名勝図会』には、この「高橋」について気になる記載がある。第29巻の阿多郡の「金峯山由来記」の項である。

金峯山由来記:夫れ金峯山は百済国沙門日羅聖者来朝し、薩州川邊郡坊之津に着岸す。爾後亦此の地に来たり、錫を此峯に駐て年を更、ここに推古二年、勅宣を奉じ更に和州吉野金剛蔵王を当金嶽に勧請す。時に勅使従三位兼太宰大弐蔵人頭高橋卿也、茲に於いて両国二島を領知す。阿多郡高江崎に住城して数代を経、其の居處を高橋と呼ぶ。今の高橋此なり。今俗に歌う事有り。高橋殿の御代ならば、金子の枡で米を計ると也。其の国政の豊功知るべし。(後略)

前段は、百済から来た日羅(にちら)という沙門が金峯山で修行し大和国から蔵王権現を勧請したという伝説を述べている。後段は、その時の勅使の話になる。彼は従三位の大宰大弐で蔵人頭(天皇の首席秘書官のような立場)の「高橋卿」である。唐突な感じがするが、この人は「両国二島」を領知して、阿多郡の「高江﨑」という所に住み、数代後に「高橋」と改称したという。省略したこの後には、この「高橋殿」のいた阿多郡が大変豊かであったという伝説が述べられている(文中に明示されていないが「高橋卿」の子孫が代々の「高橋殿」なのだろう)。

前段の「日羅伝説」は、南薩にはよくある寺院開基の潤色である。例えば坊津の一乗院も日羅の開基とされる。推古2年の勧請も時代が古すぎ、これは全く事実とはみなせない。よって、後段の「高橋卿」の伝説も眉唾ものではあるが、気になる点がある。まずは、彼が大宰大弐という大宰府の次官(※4)であったとされることである。

そして「高橋卿」は「両国二島」を領知した。この「両国二島」は薩摩国・大隅国と種子島・屋久島を指すと思われる。 つまり「高橋卿」は古代薩摩国・大隅国の国守であった(種子島と屋久島は、当初は多褹国だったが後に大隅国に合併された)。ここで、「両国」だけでなく、わざわざ「二島」と付け加えている点が引っ掛かる。

以上を踏まえると、なんとなく、この「高橋卿」と「高橋連牛養」に共通の性格が認められるように思われる。第1に、二人とも大宰府に深い関係がある古代の人物だ。「高橋卿」は自分自身が大宰大弐で、「高橋連牛養」は大宰大弐から「南島牌」の設置を依頼された。 第2に、二人とも支配者階級に属し、南島との関係を有する。「高橋連牛養」が南九州の人間であったとすると、大宰大弐の小野朝臣老(おゆ)が、彼を知っていたのは、「高橋連牛養」が南九州において高位の人物であったと考えるほかない。そもそも「連(むらじ)」は有力な豪族に与えられる姓(かばね)である。「高橋連牛養」は大宰府と深い関係を持ち、南九州の南島交易を支配していた人物だった可能性が高い。 

もちろん、たった2つの類似だけで2人が同一人物であるというつもりはない。それに『三国名称図会』は近世の編纂ものであるから、古代の伝説に信用はおけず、大宰大弐であった「高橋卿」なる人物が実在したとは到底認められない。だが、「高橋」を名乗る豪族が古代の阿多郡におり、その一族が「高橋殿」と表象されたとするのも無理な空想ではないだろう。その「高橋殿」の先祖に「高橋連牛養」がいると考えると一応筋は通る。とすれば、「高橋連牛養」は古代阿多郡の豪族だったということになる(※5)。

ここまで考えると、鑑真一行が到着したのが「阿多郡」の秋妻屋浦なのは無意味なこととは思えない。実は、阿多郡こそが南九州における南島交通の要衝であったことは、考古学的にも明証される。そして中世には全体が島津氏の荘園になってしまう鹿児島(薩摩国・大隅国)において、阿多郡は唯一大宰府領だった場所なのである。

(つづく) 

※1 律令施行前を「ヤマト政権」、施行後を「大和朝廷」などといって区別するが、本稿ではちょうどこの境の時期を扱っているので「ヤマト政権」で統一する。

※2 竹森友子「南島と隼人ー文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景ー」(『奈良女子大学大学院人間文化研究科年報』第22巻(2007))

※3 「薩摩国が設置された」との明確な記載は『続日本紀』にない。702年8月に「遂に戸を校え、吏を置く」とあって戸籍調査が行われて役人が置かれたこと、同年10月に薩摩隼人征討にあたっての祈願の文面に「唱更国司等〈今薩摩国也〉」と〈〉内の後世の付記により「薩摩国」の領域に国司が置かれていることなどから判断される。「薩摩国司」の初出は709年6月条である。

※4 大宰府の長官は「大宰帥(だざいのそち)」だが、これは徐々に名誉職化したので、院政期以降は次官にあたる大宰大弐が事実上の長官となった。「金峯山由来記」では、「高橋卿」は従三位・大宰大弐・蔵人頭という異常に高い官位が設定されており、「高橋卿」の威勢を窺わせる。

※5 江平望「阿多忠景について」(『古代文化』第55巻第3号(2003)では、「高橋殿には、忠景の姿が投影されているようにみられる」としている。「忠景」とは、12世紀に阿多郡司だった阿多忠景のことで、彼は南九州に一大勢力を築き、大宰府とも関係が深かったとされる。高橋殿=阿多忠景説では時代が中世になってしまうため従わなかったが、私が「金峯山由来記」に着目したのはこの論文の受け売りである。

【参考】表 南九州と南島にまつわる『続日本紀』の記事
和暦 西暦 事項
文武2年 698 文忌寸博士ら8人を覓国のために南島へ派遣。
文武3年 699 南島からの献納物を伊勢神宮・諸社に奉納。
文武3年 699 11月 南島より文忌寸博士ら帰る。
文武4年 700 覓国使剽劫事件
大宝2年 702 8月 薩摩と多褹(種子島)が命に逆らったため兵を派遣。「遂に戸を校え、吏を置く」
大宝2年 702 9月 薩摩隼人を征討したものに叙勲した。
大宝2年 702 薩摩国の設置はこのあたりか。
慶雲4年 707 南島人に授位や下賜が行われた。
和銅2年 709 薩摩隼人郡司以下188人が入朝(716年まで滞在)。
和銅6年 713 大隅国の設置
和銅7年 714 豊前国から200戸移住させて隼人の教化にあたらせた。
和銅7年 714 太朝臣遠建治らが南島から52人連れて帰朝した。
霊亀元年 715 1月 陸奥・出羽蝦夷と南嶋奄美・夜久・度感・信覚・球美等が来朝し貢納した。
霊亀元年 715 1月 蝦夷と南島人77人に授位。
霊亀2年 716 薩摩・大隅の隼人が滞在8年になったので滞在6年に変更した。
養老元年 717 大隅・薩摩二国隼人等が風俗の歌舞を披露し授位賜禄された。
養老4−5年 720 隼人の反乱(1年半ほど)
養老4年 720 11月 南島人232人に授位。
神亀4年 727 11月 南島人132人に授位。
天平6年 734 遣唐使多治比真人広成らが多褹島に来着した。
天平7年 735 南島牌が立てられた。
天平勝宝6年 754 鑑真来朝
天平勝宝6年 754 南島牌を立て直す指示が下った。

2025年12月26日金曜日

鑑真は秋目に漂着したのか――秋目の謎(その5)

2020年から21年にかけて、「秋目の謎」という4本のシリーズ記事を書いた。

【参考】
豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

隠さなければならない繁栄——秋目の謎(その2) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/06/blog-post.html

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2021/01/blog-post_10.html

この記事、(その4)で「つづく」となっていて、実は完結していなかった。というのは、秋目最大の謎、鑑真について書く予定だったのだ。というわけで、重い腰を上げて4年越しで続きを書いてみたい。

さて、秋目といえば鑑真が来たところとして知られている。秋目には「鑑真記念館」が建てられ、展示自体はささやかであるが、毎年12月には唐招提寺から高僧(執事)を招いて「鑑真大和上の遺徳を偲ぶ集い」が開催されている。

また鑑真記念館の前には、唐招提寺にある鑑真和上坐像(国宝)を模刻した石像も安置されている(冒頭写真)。この像、現地には説明がなかったと思うが、浜西良太郎さんという香川県で石材業を営む人が寄贈したものである。鑑真が艱難辛苦を乗り越えて日本に来てくれたことに感銘を受けて寄贈されたと聞いている。

近年、市役所が中心になって開催されている冬のウォーキングイベントも「鑑真の道歩き」という。これなどは鑑真とは直接の関係はないながら、鑑真が上陸したことが地域のアイデンティティとして扱われている一例だ。

このように、秋目にとって鑑真が来航したことは大きな誇りである。では、鑑真は秋目を目指して来たのだろうか。それとも鑑真が秋目に来たのは漂着で、たまたまだったのだろうか。これはどちらであるかによって来航の意味が全然違う。しかし、これまでこのことについて詳細に考証した人はいないようである。

例外として、古代隼人の研究者中村明蔵さんは、『鑑真幻影—薩摩坊津・遣唐使船・肥前鹿瀬津』(南方新社)で、鑑真来航にまつわる通説を批判的に検証してその実相を解き明かしているが、その中で「鑑真の秋妻屋浦(=秋目)寄港は、その前後の状況からして当初から意図したものではなく、漂着であったとみられる(p.144)」とされている。

とはいえ、『鑑真幻影』の主な主張は、①坊津は遣唐使が発着する港であったというのは事実ではない、②鑑真が大宰府に行く前に肥前の鹿瀬津に寄港したことが近年史実として扱われ顕彰碑等が建立されているが史料の裏付けはない、という2点であり、秋目への鑑真来港が偶然であったかどうかはこれらの考証の副産物として簡単に書かれているに過ぎない。

他にも、岩波新書の東野治之『鑑真』では「[鑑真一行は]秋妻屋浦(いまの鹿児島県坊津町秋目浦)に漂着しました(p.69)」と断定している。他の鑑真研究本をつぶさに調べたわけではないが、鑑真が秋目に来港したのは漂着であるという理解が一般的だと思われ、地元の人もそう思っている人が多いと思う。なにしろ、秋目のような辺境の地をわざわざ目指してくるわけがないからだ。

しかし、鑑真来航を述べる史料を見てみると、そう簡単には言い切れない。

第1に、国家の正式な記録『続日本紀』では鑑真一行が漂着したとは書いていない。 第2に、鑑真来日を記録した『唐大和上東征伝』でも漂着とは明示されず、秋目に到着してからの旅がとてもスムーズである。

中村明蔵さんが肥前鹿瀬津への鑑真の寄港を「史料の裏付けはない」というのと同様、鑑真の秋目来航を漂着とすることも史料の裏付けはないのである。

というわけで具体的に見てみよう。まずは『続日本紀』の記述は次の通り(※1)。

<天平勝宝6年(754)1月16日条>(前略)入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂(こまろ)来帰す。唐僧鑑真・法進等八人、随ひて帰朝す。

鑑真がやってきた記事は、『続日本紀』ではたったこれだけのアッサリしたものである。「これでは漂着のことが省略されているだけではないか」と思うかもしれない。でもどうやらそうではないらしい。鑑真一行は遣唐使船4隻に分乗して日本に向かったのだが、鑑真が乗っていたのは第2船で、第3船と第4船は漂着したという記事が『続日本紀』に掲載されている。次の通りである。

<天平勝宝6年(754)1月17日条>大宰府奏すらく「入唐副使従四位上吉備朝臣真備が船、去年十二月七日を以て来たりて益久嶋(やくのしま=屋久島)に着きぬ」とまうす。是より後、益久嶋より進み発ちて漂蕩(ただよひ)て紀伊国牟漏埼(むろのさき)に着きぬ。(第3船)

<天平勝宝6年(754)4月18日条>大宰府言(もう)さく「入唐第四船判官正六位上布勢朝臣人主(ひとぬし)等、薩摩国石籬浦(いしがきうら)に来たりて泊(は)つ」ともうす。(第4船) 

この記事では、第3船が漂着したのは明らかである。第4船については「来泊」なので漂着とは書いていないが、目的地への到着ではなかったことは疑い得ない(なお引用は省略するが、遣唐使の正使である藤原清河が乗った第1船はベトナムに漂着し、結局帰国できなかった)。

このように鑑真一行が分乗した4つの船の書き方からは、鑑真の乗った第2船は漂着でなかったと判断できる。しかし疑り深い人は、他の来航の記述と比べてみないとわからないというかもしれない。そこで、『続日本紀』から、事故なく来航した記事と漂流・漂着した記事を探して比べてみた(一番下にある表1と表2を参照(※3))。

まず、文脈から判断して事故なく来航したと見られる記事は17件ある(表1)。うち7件は「来帰」と表現される。「来帰」は、現代の「帰国」と同じ意味らしく、「○○に来帰した」とは言わず単に「来帰す」という。鑑真の場合もこれにあたる。類似の表現として「帰朝」もある。具体的な場所に到着したことを表すのは「到る」「到泊」「着泊」「来着」などである。ただし、これらには必ずしも目的地に着いたのではない場合が含まれていると考えられる。

一方、漂流・漂着の場合だが、こちらの方が記事数が多く26件ある(表2)。問題なく来航した場合は特記されることがない一方で、漂流・漂着は事件なので記事になりがちだからだろう。最も多いのは「○○に漂着す」で10件、「〇〇に着く」が6件、他には「○○に到泊す」、「○○に来泊す」などだ。また、どこかへ着いたのではなく漂流するという表現が「漂蕩」・「船漂」・「漂流」・「風漂」である。

事故なく来航した場合と、漂着した場合で著しく違うのは、漂着の場合は必ず「○○に漂着した」と場所が明示されることである。これは考えてみれば当然だ。問題なく到着した場合は「帰国した」だけで済むが、漂着の場合は「どこそこに着いた」としなければ文意が通じない。

以上を踏まえると、鑑真らの分乗した3隻の記述ぶりは、第2船(鑑真乗船)=「来帰」、第3船=「漂蕩して○○に着く」、第4船=「○○に来泊す」だから、やはり第2船は正常な航路で秋目に到着したと判断してよさそうである。

次に、『唐大和上東征伝』(以下『東征伝』)での記述に移ろう。これは、鑑真の弟子で辛苦の航海をともにした思託(したく)が書いた『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』を元に、淡海三船(おうみの・みふね)が宝亀10年(779)に撰録したものである。これは鑑真没後まもなく作られているから信頼できる史料だ。また、淡海三船は『続日本紀』の該当箇所の執筆にも携わっているので、両書にはある程度共通の用字がなされていると期待できる。

『東征伝』では、鑑真一行が中国から出発した後を次のように述べられている(わかりやすいように日付毎に分かち書きした)。

11月15日 十五日壬子。四舟同じく発す。一の雉あり。第一舟の前を飛ぶ。仍りて矴(いかり)を下ろし留まる。
11月16日 十六日発す。
11月21日 廿一日戊午。第一・第二舟は同じく阿児奈波嶋(あこなは=沖縄)に到る。ここは多禰嶋(=種子島)の南西にあり。第三舟は昨夜すでに同処に泊す。
12月 6日 十二月六日、南風起きる。第一舟は石に著きて動かず。第二舟は多禰に向かい去る。
12月 7or13日 七日(にして)益救嶋(=屋久島)に至る。(※2)
12月18日 十八日、益救嶋を発す。
12月19日 十九日風雨大いに発(おこ)る。四方を知らず。午の時、浪の上に山頂を見る。
12月20日 廿日乙酉、午の時。第二舟は薩摩国阿多郡秋妻屋浦に着く。
12月26日 廿六日辛卯。延慶師、和上を引いて大宰府に入る。

まとめると、「11月15日に4隻は中国を出発し、第1・2・3船は沖縄に着いた。 第2船は種子島に向けて出発したが屋久島に到着。そして屋久島を出発してから風雨に遭ったが12月20日に薩摩国阿多郡秋妻屋(あきめや)浦に到着した」ということだ。なおこの「阿多郡秋妻屋浦」が現在の秋目であることは定説であり、他の候補地は見当たらない。 

この文章から漂流的な要素を探すと、まず「種子島に向けて出発したのに、着いたのは屋久島だった」という部分である。しかしこれは漂流したという感じはしない。遣唐使船は構造上正確な航路を進むことができないから、誤差の範囲だろう。問題はその後だ。屋久島を出発した後に「風雨大いに発(おこ)る」としている。これは暴風雨による漂流を意味しているのだろうか?

しかし『続日本紀』の場合では、漂流した場合は「漂蕩」・「船漂」・「風漂」などと書いていた。それらの単語がないということは、漂流していない可能性が高い。第2船は漂流したのではなく、「四方を知らず」つまり方向が分からなくなっただけと解せる。そして「浪の上に山頂が見えた(=水平線の向こうに山が見えた)」ので、正しい方向がわかり、秋妻屋浦に着くことができた、というのが素直な解釈であろう。

ここまでの記述ぶりからしても、秋目への寄港は漂着ではなかったと判断できるが、その後のスムーズさもそれを裏付ける。秋目からたったの6日で大宰府に到着しているのだ。山影が見えてから秋目に到着するまで丸一日もモタモタしていたのとは大違いである。

ただし、この航海は真冬に行われている。海上には強い北風が吹いていたに違いない。にもかかわらず北上するのだから、航海が難航するのは当然である。そして、そんな中で秋目ー大宰府間が6日間しかかかっていないのは、外洋ではなく沿岸航海だということを考えても異常にスムーズだ。秋目ー大宰府にはちゃんとしたルートが確立していたと考えるのが自然だ。

なお中村明蔵さんは、『鑑真幻影』で秋目ー大宰府の移動が陸路ではありえないことを論証し、秋目(またはその周辺)で機動性の高い船に乗り換えて大宰府に移動したのであろうと推察している。私もその見解に賛成である。

以上のように、『続日本紀』と『東征伝』の記述による限り、鑑真の秋目来航は漂流ではなかったと結論付けられる

ただし、秋目に至る航路が正式な遣唐使船の航路ではなかったこともまた明らかである。遣唐使は十数回派遣されているが、大宰府から朝鮮を通って大陸に渡るのが通常で、帰国の際にもそのルートが使われた。南西諸島を経由して帰国したのは鑑真らのみである。また、『東征伝』で「薩摩国阿多郡秋妻屋浦」という細かい地名が表示されているのも、秋目が正式ルートの港でなかったことを示唆する。実際、『東征伝』でも大宰府到着について「大宰府に入る」とだけあって、どこの港に到着したとは書いていない。正式ルートの場合はディテールを書く必要はないからだ。

このように、秋目は遣唐使船の通る正式ルートではなかったが、鑑真一行の秋目来航は漂流でもなかった。では、なぜ鑑真一行は秋目を目指したのだろうか。これが次なる謎である。

(つづく)

※1 『続日本紀』の引用は、岩波の「新日本古典文学大系」に基づく。引用にあたっては日付の干支は省略した。なお、『続日本紀』は伝統的に特殊な訓読を行う部分があるが、理解の便宜のために平明な訓読に改めた箇所がある。例えば「来帰す」ではなく、本来は「来帰(まうけ)り」と訓ずる。また通用の字体に改めた。鑒真→鑑真など。

※2 沖縄・屋久島間にたった1日しかかかっていないとすると不自然であることから、中村明蔵さんは「七日、益救嶋に至る」ではなく「七日にして益救嶋に至る」と解釈している。その場合、屋久島着が12月13日になる。

※3 以下の表1と表2は、『続日本紀』から、事故なく来航したと思われる記事、漂着・漂流の記事をそれぞれ抜き出したものである。ただし、これは筆写が目視によって抜き出して作成したものであるため、脱漏も多いと思われる。気になる方は本文に当たって確かめてほしい。なお、本記事を4年間も先延ばししたのは、この表の作成を億劫がっていたためだ。

表1 事故なく来航した『続日本紀』の記事
語句 文言 出典条
来帰 遣唐使従四位下多治比真人県守来帰 養老二年(七一八)十月庚辰【二十】
来帰 前年大使従五位上坂合部宿禰大分、亦随而来帰 養老二年(七一八)十二月甲戌【十五】
来帰 遣新羅使正五位下小野朝臣馬養等来帰 養老三年(七一九)二月己巳【十】
来帰 遣渤海使正六位上引田朝臣虫麻呂等来帰 天平二年(七三〇)八月辛亥【廿九】
到渤海界 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
来泊 新羅使船来泊長門国 天平十二年(七四〇)九月乙巳【廿一】
来帰 遣渤海郡使外従五位下大伴宿禰犬養等来帰 天平十二年(七四〇)十月戊午【甲寅朔五】
来帰 入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂来帰 天平勝宝六年(七五四)正月壬子【十六】
来着 来着益久嶋 天平勝宝六年(七五四)正月癸丑【十七】
帰朝 寄乗副使大伴宿禰古麻呂船帰朝 天平宝字七年巻(七六三)五月戊申【癸卯朔六】
遣唐使船到肥前国松浦郡合蚕田浦 宝亀七年(七七六)閏八月庚寅【乙酉朔六】
到肥前国松浦郡橘浦 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
到泊 知遣唐使判官滋野等乗船到泊 宝亀九年(七七八)十月庚子【廿八】
着泊 七月三日着泊揚州海陵県 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
来帰 率遣唐判官海上真人三狩等来帰 宝亀十年(七七九)七月丁丑【十】
到泊 遣唐使第三船到泊肥前国松浦郡橘浦 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
来著 入唐大使従四位上多治比真人広成等来著多禰嶋 天平六年(七三四)十一月丁丑【戊午朔二十】

表2 漂着・漂流の『続日本紀』の記事
語句 文言 出典条
漂着 漂着崑崙国 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
到著 到著出羽国 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
遂着等保知駕嶋色都嶋矣 天平十二年(七四〇)十一月戊子【五】
比着我岸 宝亀八年(七七七)五月庚申【十】
漂蕩 漂蕩海中 天平宝字七年(七六三)八月壬午【十二】
漂流 漂流十余日 天平宝字七年(七六三)十月乙亥【六】
風漂 忽被風漂 宝亀八年(七七七)二月壬寅【二十】
船漂 船漂溺死 宝亀八年(七七七)五月庚申【十】
漂蕩 漂蕩着紀伊国牟漏埼 天平勝宝六年(七五四)正月癸丑【十七】
来泊 来泊薩摩国石籬浦 天平勝宝六年(七五四)四月癸未【十八】
漂著 漂著賊洲 天平宝字元年(七五七)十二月壬子【九】
漂着 漂着対馬 天平宝字三年(七五九)十月辛亥【十八】
漂着 漂着日南 天平宝字七年巻(七六三)五月戊申【癸卯朔六】
平安到国 天平宝字七年(七六三)八月壬午【十二】
着隠岐国 天平宝字七年(七六三)十月乙亥【六】
漂著 漂著能登国 宝亀三年(七七二)九月戊戌【廿一】
漂着 漂着越前国江沼加賀二郡 宝亀九年(七七八)四月丙午【三十】
船著沙上 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
来泊 遣唐第四船来泊薩摩国甑嶋郡 宝亀九年(七七八)十一月壬子【十】
到泊 第二船到泊薩摩国出水郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
乗其艫而着甑嶋郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
乗其舳而着肥後国天草郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
漂着 以十三日亥時漂着肥後国天草郡西仲嶋 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
漂着 聖朝之使高麗朝臣殿嗣等失路漂着遠夷之境 宝亀十年(七七九)正月丙午【五】
漂著 著唐国南辺驩州 宝亀十年(七七九)二月乙亥【四】
漂着 并種種器物漂着海浜 宝亀十一年(七八〇)三月戊辰【三】

2025年2月15日土曜日

秋田県と鹿児島県の新体育館の計画を比較してみました

先日、こんな記事を書いた。

「年間365日賑わう」500億円の新体育館は必要なのか?|南薩日乗
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2025/02/365500.html

「新体育館500億円」は、観測気球(=意図的に報道機関にリークして世間の反応をうかがうこと)じゃないかと思っていたのだが、実際のことだったらしい。新聞報道によれば、県は新体育館の予算を488億円で県議会に示したとのことだ。当初予算が245億円だったので、ほぼ倍である。

ところで、じつは今秋田県でも県立体育館を新築する計画が動いている。これが鹿児島の状況とたいへん似ていて面白い。当初予算は254億円。PFI方式で建設する方式まで含め、ほぼ一緒だった。ところが資材高騰のあおりを受けて、こちらでも入札が不調(応札者がいないこと)になった。そこで予算を110億円増額して、364億円で再入札しているところである。

鹿児島では245億では足りないということで313億円に増額して入札が実施されたが、不調だった。それで488億円にするというわけである。当初予算と展開はまるで同じなのだが、金額は364億円と488億円と差がついた(当初予算は秋田県の方がやや大きかったくらいなのに!)。どうしてこんなに開きが出たのか?

そう思って秋田県の新体育館の整備計画をつぶさに読んでみたところ、鹿児島と比べることができてなかなか面白い。秋田県の計画がいいものなのかどうか、地元民ではないので判断はできないが、両県の計画を比較してみよう。

【秋田県】新県立体育館整備基本計画を策定しました
https://www.pref.akita.lg.jp/pages/archive/77435

【鹿児島県】スポーツ・コンベンションセンター基本構想の策定について
https://www.pref.kagoshima.jp/ac12/supo-tukonnbensyonsenta-kihonkousousakutei.html

まず、似ている点から列挙すると次の通りである。

  • 現体育館の老朽化のための建て替え計画であること。
  • 全国大会だけでなくプロスポーツを誘致する計画であり、そのために多くの観客席を設けること。(秋田:6000席、鹿児島:8000席 ← 予算増額を受け7000席に縮小との報道)
  • メインアリーナとサブアリーナの2面構成であること。
  • 整備にPFI方式を用いること(→ 鹿児島では予算の関係で断念との報道)

次に、施設として異なる主な点を挙げると次のとおりである。

  • 秋田県の新体育館には、武道館が併設されない。
  • 秋田県の新体育館には、現在は別に設置されているスポーツ科学センターを包含する。
  • 秋田県は現県体育館のある運動公園内での建て替えである。

このように、細かい点では違いがあるが、ほぼ同じなのは一目瞭然である。何しろ、「全国大会の実施」「プロスポーツの誘致」という目指しているものがほぼ一緒だからだ。ただ、メインアリーナの構成は秋田県の方が観客席総数こそ少ないとはいえ、よりプロスポーツに適したものになっている(バスケコートで2面+すり鉢状の観客席。鹿児島の場合は4面)。

ちなみに、鹿児島の県体育館は予算を抑えるために観客席を8000席以上から7000席に減らすという報道があったが、プロスポーツを誘致するための重要な基準は観客席の数やその様態(背もたれがあるかなど)である。これが全国大会の場合と最も違うところである。全国大会は盤面はいるが観客席はそれほどいらない(2000席が基準)。ところがプロスポーツは盤面は中心の1面だけでいいが、観客席が多くなくてはいけない。鹿児島県が当初8000席以上としていたのは、バスケットボールの国際大会の基準を満たすためのものであった。なお、プロバスケリーグ(Bリーグ)の現在の座席基準は5000席以上なのだが、これが将来的には8000席に引き上げられるそうだ。

つまり、全国大会とプロスポーツは似ているが施設に求められる基準が全く異なり、この両方を満たすために施設が大型化して予算が膨れ上がるのである。秋田県の計画では、メインアリーナをバスケ2面のみに留めて観客席数を確保するとともに、バスケの国際大会の誘致は断念することでアリーナの大きさを抑えている。この観点からは、鹿児島の体育館が7000席に減らすというのはちょっと中途半端だ。ちなみに秋田の延べ床面積は1.7万㎡、鹿児島は3万㎡となっている。武道館の部分があるとはいえ、鹿児島の計画は過大ではないだろうか。正直、秋田県の体育館と同じ規模でいいような気がする。

それから、秋田県の計画では、冒頭に人口予測県の財政状況が述べられている。ちなみに秋田県の人口は鹿児島県の約2/3である(財政状況は単純には比べられない)。県大会などは人口減少すると規模が小さくなるが全国大会は単純には小さくならないので(出場数が変わらない)、人口減少が予測されるからといって小さい体育館で済むというわけではないのだが、それでも冒頭に人口予測や財政状況が述べられることは誠実さを感じた。

また、二つの施設のコンセプトの違いにも目が引かれた。秋田県の方にはスローガンのようなものはないが、基本方針の冒頭に掲げられているのが「「秋田の元気を創造する拠点」として、子供たちに夢を与え、選手と観客が躍動し、賑わいづくりにも貢献する施設とします」という言葉。「子供」「選手」「観客」「賑わい」という、よくも悪くも全方位に気を遣った言葉である。面白味はないが、手堅い「行政」を感じる。

一方、鹿児島県の新体育館はスローガンが乱立(!?)しており、当初は「アスリートファースト」が強調されたが、ドルフィンポート跡に場所が選定されてからは「年間365日賑わう拠点」が喧伝されている。ちなみに計画上では「スポーツ振興の拠点としての機能に加え、コンサート・イベントなど多目的利用による交流拠点機能があることが望ましい」とされ、これに応じて名称が「スポーツ・コンベンション・センター」となった。事実上、「アスリートファースト」から、「多目的利用」に舵が切られた格好だ。どことなくフワフワしている。

ちなみに、コンサートにはやはり観客席数が重要になるが、イベント(コンベンション)にはフロアの広さが重要である。このように性質が異なるものが並列されているのはなぜなのだろう。ただし、秋田県の体育館でも似たようなことが書かれており、コンセプトの字面はともかく、考えていることはほぼ同じのようである。

そして最後に立地だが、秋田の体育館は先述の通り現県体育館のある運動公園(八橋運動公園)の内での建て替えである。ここは県庁や市役所、県図書館や児童センターに隣接しており、秋田駅から3.3km、周辺には官有の駐車場だけで1000台以上あり、秋田駅西口-県立体育館前 で平日に約100本のバスがあるという。ここは都市公園のため、整備に国の交付金も受け取れる(21億円)。まず文句ない立地だろう。

一方、ドルフィンポート跡地は、鹿児島中央駅からの距離は約2㎞であるが、本港区こそ近いものの公共施設としては孤立しているので、新たに公共交通を整備する必要が大きい。そして駐車場は、住吉町15番街区に500台を整備し、全体で1000~900台分の駐車場を確保する計画としている。それが実現できたとしても、あの立地にそれだけの駐車場ができて、ただでさえひどい交通渋滞がさらに悪化すると思うとうんざりする。

隣の芝は青い、という言葉があるので、秋田の計画の方がいいとも言い切れないが(大同小異ではあると思う)、こうして比較してみると、どうも鹿児島県の体育館は全体的に過大だという感が否めない。それは、メインアリーナがバスケコートで4面(81m×41m=3321㎡)+観客席7000席という、プロスポーツと全国大会という似て非なるものの両方を大規模に実施するための規模となっているためだ。ちなみに秋田のメインアリーナはバスケコート2面(59m×45m)で、八角形なので面積が約2500㎡。鹿児島はフロアだけでも1.3倍の面積がある。

塩田知事はこれまでの報道機関への取材で、競技面積といった規模や機能の変更は「基本的に困難」としているが、秋田の体育館と比べてみると、むしろ規模縮小の余地が大きい計画のような気がしてならない。どうして「基本的に困難」なのか、踏み込んだ説明が必要だ。

これまで積み上げてきた議論は尊重すべきだと思うが、予算という大前提が崩れた今、秋田県を見習って、人口予測と県の財政状況から再度その規模を見直した方がいい。少なくとも、プロスポーツと全国大会の二兎を追うのをやめれば予算は縮小する。

そもそも県民利用が基本の県体育館でなぜプロスポーツの開催が求められているかというと、部活の大会だけだと利用料収入が少ないからという(減免措置があるからだろう)。だが、プロスポーツに対応するためには予算が大きくなる。

全国大会に求められる施設規模は一緒だから、同じような規模の秋田県体育館が364億円、鹿児島県の体育館が488億円ということは、鹿児島のプラス124億円はプロスポーツ対応費と見なせる。しかも秋田の体育館もプロスポーツの誘致は行われるのだ。124億円がペイするだけのプロスポーツ利用の料金収入と経済効果があるのか、全く不明という他ない。本末転倒にならないとよいが。

私は決してプロスポーツなど誘致しなくてよいといっているわけではない。ただ、それに見合った収入や経済効果が見込めるのかを示す責任が県にはあるということだ。

県議会での突っ込んだ議論を期待したい。

【追記】
記事を書いた後で、香川県の新体育館も建設中であることを知った。こちらもメインアリーナとサブアリーナがあり、メインの客席数は5000席超。武道館併設で延べ床面積は約3万㎡。着工は2022年で2024年度中に完成予定なので、資材高騰の影響がまだ小さい時期とはいえ、工事費は202億円だそうだ。やはり鹿児島の新体育館の予算が大きいのは間違いない。

2025年2月7日金曜日

「年間365日賑わう」500億円の新体育館は必要なのか?

先日の南日本新聞で、鹿児島県が建設しようとしている新体育館(スポーツ・コンベンションセンター)の予算が大幅に増え、500億円が見込まれることが報道された。

まず言っておくと、これまで私は、新体育館についてそれほど批判的ではなかった。建設予定地のドルフィンポート(DP)跡地にも特に思い入れはないし、それ以上に場所の決定が民主的な手続きで慎重に行われたと思っているからだ。それについてはかつて記事に書いたことがある。

【参考】後戻りできなくなる決定が、今この瞬間にも行われているのかもしれない
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2023/10/blog-post.html

しかしこの500億円のニュースを聞いて、ちょっと立ち止まった方がいいと思うようになった。

なにしろ、500億円は当初の計画とあまりに差がありすぎる。313億円で入札が不調(入札者がいなかった)だったため予算を増やすということだったが、そもそも当初の計画では約205億円〜約245億円と見積もられていた。物価変動の影響といっても、2倍以上というのはさすがにおかしい。

民間企業だったら、立ち止まって考えてみる必要がある状況だと思われる。

県が、新体育館に必要な面積や設備を丁寧に積み上げてきたのは理解できる。実際、新体育館の場所や要件などを議論した「総合体育館基本構想検討委員会」の議論は、今見ても丁寧で緻密だ(令和2年10月~令和4年2月)。

【参考】総合体育館基本構想検討委員会|鹿児島県
https://www.pref.kagoshima.jp/ac12/sougoutaiikukannkihonnkousoukenntouiinnkai.html

だが、県の資料を見ていてちょっと引っかかるのが、場所がDP跡地に決まった後である。

もともと、DP跡地を含む⿅児島港本港区エリアには「グランドデザイン」という再開発のコンセプトがあった。そこで謳われていたのが「年間365日、賑わう観光拠点」であった。

そして新体育館の構想は、「本港区エリアまちづくりの検討の方向性とも合致している」とされた。この見解がどのように導かれたものだったのかがわからない。本港区に新体育館が作られたら、民間主導の再開発を目指すグランドデザインとは全く違う性格の場所になるのは明らかだが、なぜ方向性が合致していると言い切ったのか。結論ありきだったとしか思えない。「本港区エリアまちづくりのグランドデザインは白紙に戻します」という方がまだ理解できた。

DP跡に決定するまでのプロセスは極めて丁寧なのだが、決まった後は妙になし崩し的なのだ。

そして、元々の「年間365日、賑わう拠点」はいつの間にか新体育館のコンセプトになってしまった(ただし「スポーツ・コンベンションセンター基本構想」には明確には位置づけられていない!)。「総合体育館基本構想検討委員会」で議論してきた新体育館の構想はそのままに、それに「年間365日、賑わう拠点」とレッテルを張りなおしたのが現在のスポーツ・コンベンションセンターだ。あの丁寧な議論は一体なんだったのか。検討委員会では、「年間365日賑わう体育館」を作るためではなく、スポーツ大会を行うための体育館を実直に議論していたというのに(コンセプトは「アスリート・ファースト」だ)。

意外なのは、この構想を天文館の業界団体(鹿児島市商店街連盟、WeLove天文館協議会、鹿児島市商店街連盟、天文館商店街振興組合連合会)が歓迎していることだ。

DP跡が「観光拠点」ならば天文館との棲み分けができたと思う。しかし「年間365日、賑わう拠点」が仮にDP跡にできたとすると、天文館が寂れるのは必定だ。人出の絶対量が増えるわけではないし、人は簡単には回遊しないからだ。それは、天文館でも表通りから1本裏通りに入れば、10メートルと離れていないのに歩行者の量は10分の1以下になるのでわかると思う。DP跡と天文館で人が回遊するというのは、絵に描いた餅である。回遊どころか、表通りから10メートル離れたところに人を呼ぶことすら難しいのが現実だ。

そもそも、県の主導で「年間365日、賑わう拠点」が本当にできるのなら、最初から天文館を賑わわせた方がいい。そっちの方が喜ぶ人は多い。しかし私自身、客商売をしていて思うが、賑わう場所にするというのは本当に大変である。様々な創意工夫をして、しかもいろいろな偶然にも恵まれてようやくにぎわうのが普通である。それが県の公共事業で実現できるとは信じがたい。このような構想を天文館の業界団体が支持しているのはなぜなのか理解しかねるが、建設に伴う好況を期待しているのかもしれない。

それはともかく、元来は体育館とは全く無関係のコンセプトであった「年間365日、賑わう拠点」が新体育館に安易にスライドされたことで、計画全体が胡散臭いものになったような気がする。しかも、予算が当初見込みの2倍以上となったことは、さらに計画の妥当性を疑わせることとなった。

新体育館が不要だとは思わないが、多くの県民の生活に直結する施設でないのは誰しも同意するだろう。現在の県体育館では全国大会やプロスポーツの試合が開催できないことも、どれだけ不利益があるのかピンとこない(そもそも現体育館でも全国規模の大会はそれなりに開催されている)。子供の数が減り続けて運動部の部活動は下火になり、部活動は地域移行の方向で、大会規模は縮小が予想されている。そんな時に500億円もかけて立派な体育館を作る必要があるのか、はなはだ疑問だ。

むしろ新体育館は、予算を踏まえて必要最低限に縮小させた方がいいのではないか。新体育館の延べ床面積は、現体育館の約5倍にする計画だ。現体育館には狭隘であるという課題があり、これを拡大させるのはわかるものの、約5倍にしてプロスポーツや国際大会にまで対応させる意味はあるのか。

そして鹿児島県自身が「一等地」と位置付けるDP跡に、たいして経済活動が見込めない体育館を作る必要があるのか。むしろ郊外に建設し、そこまでの交通網を整備した方が安上がりになり、地域住民の足にもなるのではないか。もっと言うと、旧松元町体育館(あいハウジングアリーナ松元)や旧吉田町体育館(吉田文化体育センター)は現県体育館より大きいので、新設よりはこういう施設を改修して、市街地と結ぶ交通網を充実させた方がずっと暮らしに役立つと思う。

これまでの議論の積み重ねをひっくり返すようなことは、行政の運営においてはリスキーかもしれない。だが予算が2倍以上に膨れ上がるというのは、これまでの議論の前提が間違っていたということを意味する。こういう時に立ち止まれるかどうかが、知事の度量、あるいは議会の矜持を示すのではないか。

なし崩し的に予算を2倍にし、当初の議論にはなかった(それどころか現今の基本構想にも含まれていない)「年間365日、賑わう拠点」としての新体育館を天文館の振興のために建設することになれば、県政に汚点を残すことになるだろう。

ところで、急に話が変わるようだが、昨年夏の台風・大雨で、県道20号の大坂の峠が一車線崩落したままになっている。県道20号は、南さつまと鹿児島市内を結ぶ大動脈だ。そんな重要な道路が、半年も一車線崩落したままとはどういうことなのだろう。この状態で500億円の新体育館が必要だとは首肯しかねる。

何もないところを500億円かけて賑わわすより、現に人が生活しているところを大事にしてもらいたいものである。

2024年11月30日土曜日

「文芸誌」の時代

私が運営しているお店「books & cafe そらまど」では、このたび文芸誌『窻(まど)』を創刊した。

寄稿されたエッセイや短編小説による小冊子である。

【参考】文芸誌『窻』
https://sites.google.com/view/soramado/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E6%96%87%E8%8A%B8%E8%AA%8C%E7%AA%BB

↓ネットでも売っています。
https://books-soramado.stores.jp/items/67247cd7c3d7cd0af49372a4

今後、年に2回ずつ発行していく予定なので、ぜひ投稿していただけたらと思う。

ところで、文芸誌を作るというアイデアは、実はかなり前から抱いていた。それを最初に考えたのは、我が家(築100年以上の古民家である)の物置から、昔の文集を発掘した時だ。

そのほとんどは小学校の文集だが、他にもいろいろあった。例えば、冒頭の写真は昭和37年の『ふるさと』第15集という、「久保青年団」がつくっていた文集である。今から62年前のものだ。

これは、いわゆる「ガリ版文芸誌」である。昔は、こういうのをいろんなところで作っていた。だが青年団までが作っていたとは驚きである。しかも15集目! 1年に1冊作っていたようなので、単純計算では創刊が昭和22年ということになる。

その中に、私の伯母が書いた文章があった(青年団には女性も所属しているようだ)。こんな具合である。

職についてもうすぐ一年すぎようとしている自分自身を考えて見る あの学校を卒業した頃 職に就いてよしやるぞと思った頃のはりきった気持 あれはどこに行ってしまったのだろう だらけて若々しさがなくなり横着になって毎日をあきらめと惰性で過す日の多くなったこの頃 残念なものである。 

表現にはちょっと時代を感じるが、今の若い人がSNSで書いているようなことと、内容には大差がない。つまり普遍的だ。だから素晴らしい、というのではないが、こういう素直な文章は決して陳腐にはならない。「意外と、今読んでもおもしろいじゃん」というのが、この文集の第一印象である。

ところで、青年団の文集でタイトルが『ふるさと』なのが不思議だと思わないだろうか。ずっと地元にいる人が「ふるさと」という言葉を使うことはほぼないからだ。

実はこの文集、都会に出て行った人と地元に残っている人とのつながりを保つための機関紙だったようなのだ。つまり発行元の「久保青年団」には、都会に出て行った人も所属していて、この文集を通じて近況報告をしているのである。誰が在郷者で誰が在京者なのかはいちいち表示しておらず、文面からはわからない人もいるが、3分の1くらいは在京者が寄稿しているようである。

SNSやメールはおろか、電話もロクになかった頃(←電話加入権というのが高くて、なかなか電話を引くことができなかった)、個別の手紙のやりとりで近況報告するよりも、こういう文集を作ることはすごく意味があったと思う。

今の時代では、こんな文集はあまりにも手間がかかり迂遠でもある。が、SNSなんて見ているようで誰も見ていない。そしてSNSに発した声は、線香花火のようにすぐに消えてしまう。むしろこの『ふるさと』の方が、ずっと健全で、しかも後の世に残るものになっている。今の時代はなんでも軽薄短小になった…なんてことをいうと年寄りじみているが、こと言葉だけは、その重みがかつてないほど軽くなっていることは間違いない。

こちらは、『大浦の子特輯号 創立八十周年記念誌』。

これは、先ほどの『ふるさと』より4年前の1958年(昭和33年)に発行されたもの。この年が大浦小学校創立80周年であったことから、『大浦の子』の特別版として製作されたものである(前半は、80年の歴史を振り返っており文集ではない)。

『大浦の子』とは、毎年作られている大浦小学校の文集であるが(今でも作られている!)、この頃の児童数は1200人もいたので、全員の作文が載っているのではなく、かなり厳選されたラインナップである。実は、大浦小学校は当時ものすごく作文教育が盛んで、作文コンクールでの上位常連校だったらしい。

そもそも、大浦小学校ならずとも当時は作文教育が盛んだった。当時、「綴方教育」(または「綴方生活運動」「綴方教室」)というものが盛んに行われており、その影響は『大浦の子』にも色濃く感じられる。「綴方(つづりかた)教育」とは、「現実をありのままに書くことで生活を見つめなおす」というような、作文と生活改善運動が一体になったような作文指導運動である。

当時の作文指導要領などを読んでいると、(1)それまでの文芸では顧みられていなかった、庶民の生活をありのままに書くというスタイルが強調されており、(2)特に仕事や生活の具体的かつ詳細な記述を旨とし、(3)文飾や文学的な表現よりも、正確な表現が好まれ(「ほんとうのことを書く」とわざわざ書いていたりする)、(4)一般的な作文でなく、観察記録のようなものに取り組むことも勧められている、といった特徴がある。これこそまさに「綴方教育」の指導である。

この頃の学校の作文指導や地域の作文コンクールでは「綴方教育」的な評価が支配的なのだが、面白いのは、一方でこれに反発していたらしき国語の先生も一定程度いたことだ。彼らは「ありのまま」や「正確な表現」に物足りなさを感じていたようだ。そして、「綴方教育」が生活改善運動を志向していたことの帰結として、作文の最後は「私も頑張って偉い人になります」とか「次はもっと上手にできるように工夫します」とか「これからも勉強をがんばりたい」のような、前向きではあるが妙に優等生的な紋切り型になりがちだったことにも、不満を抱いていたらしき形跡がある(ちなみに、この影響は今の作文にも色濃い)。

そこで彼らは、敢えて最後までダメな人間を描いたり、教訓的なことをわざと避けていたようである。要するに、彼らは文学の保守派であり、作文に「文芸」を求めていたのだろう。そういう先生は、自ら俳句や詩をつくったり、創作童話を書いたりし、児童生徒にもそれを勧めていたようだ。

このように、「綴方教育」の流れに「文芸」派がささやかな抵抗をしていたのが、当時の作文指導の世界だったと思う。作文指導法にそういう派閥(?)があったというだけで、いかに当時は作文が盛んに書かれたかがわかると思う。

なにしろ、昭和30年代の農村というのは、本当にモノがない。当時は県費負担教職員の制度もなく(当時の教員は県職員ではなく市町村職員!)、講堂や体育館すらない時代である。教室だって足りない。当然、ロクな教材があるはずもない。結果として、作文くらいしか力を入れることができないし、子供の方としても、画材もなければ楽器もないので、自己表現をしたいと思ったら紙と鉛筆だけでできる作文しかないのだ。

つまり、こういうと身も蓋もないが、昭和30~40年代の作文・文集・文芸誌ブームというのは、それくらいしかできなかったから盛んになった、という面が非常に大きいのだろう。

翻って現代を見ると、自己表現の機会や方法が溢れており、インターネットのおかげで、その発表の場も、人と繋がれる場も掃いて捨てるほどある。いまさら文芸誌なんて流行らない。実際、かつては市役所や公共図書館が「市民文芸誌」を盛んに作っていたが、今ではどれだけ残っているだろう。民間で作られていた文芸誌も廃刊・休刊ばかりである。

だが、SNSに象徴されるように、なんでもすごいスピードで過ぎ去り、そこに虚しさを感じる世の中だからこそ、「文芸誌」という時代遅れのメディアが今かえって心地良いように思う。「文芸誌」で発表するとか、「文芸誌」でつながるなんて、一昔前の「生涯学習講座」みたいでなんともしみったれているようだが、文章を持ち寄って印刷し本の形にするという形態は普遍的なものに違いない。

ちなみに、先ほど引用した伯母の文章は、このように終わっている。

あゝとにかく最初の頃思った純な気持を失わないようにしよう「どんな苦労苦難でもどんと来い」

これはまさに「綴方教育」的な締め方である。でもだからといってこれがうわべだけの言葉であるとは限らない。その後の伯母の人生を思うと、この言葉には本当に決意が秘められているように見える。

でも、その内容がよいとか悪いとか、そういうことはもはやどうでもよい。それより大事なのは、確かにここに伯母の人生がごく一部でも切り取られ、それが今に残っていることなのだ。これが、どんどん失われていくインターネット上の情報との最大の違いである。

今から62年後、きっとこのブログは失われているだろう。20年後でもかなり怪しい。だが、『窻』はもしかしたらどこかで残っているかもしれない。残す意味があるのかって? 残っていなくては、意味があるのかどうかも判断できないではないか。ずっと残る可能性があるということそのものが、なんでもすごいスピードで「消費」されていく世の中への、ちょっとした異議申し立てなのだ。

2024年11月19日火曜日

法規制がかえってゴミの違法な処理を助長する問題について

夏の台風で柑橘の苗木が50本ほど倒れ、その復旧のために小型の運搬車で作業をしていたら、ゴムクローラーがちぎれてしまった。

微妙に傾斜しているところだったのでゴムクローラーの交換には苦労したが、なんとか交換できたので一安心である。

というわけで、今、手元には2本の廃ゴムクローラーがある。これを処分したいのだが、じつはゴムクローラーはなかなか処分ができなくなっている。

「埋め立てごみじゃないの?」と思うだろうが(実際、一昔前までは埋め立てごみとして簡単に処分していた)、これは今単純な埋め立てごみではないらしい。

というのは、現代では最終処分場を長持ちさせるため、埋め立て処分をする前に細かく砕く処理が必要になり、ゴムクローラーはこの処理に手間がかかる。中心にコマという金属の部品があって、これがあるためにシュレッダーでは砕けない(らしい)からだ。つまり埋め立てごみにするためにも、わざわざコマを取り除くという処理が必要で、処分費用がけっこうかかるのだ。1㎏いくらで処分費用がかかり、ゴムクローラーはかなりの重量物であるため、運搬費用もかかる。

そんなわけで、私の手元にある廃ゴムクローラーは、適正に処分するには1万円弱ほどかかるようである。新品が4万円弱だから、これはかなり高額な処分費用だ。

それでもまあ、1万円払って業者にお願いしたらいいのだが、こういう有り難くない廃棄物(処分に手間がかかるだけでクズ鉄のように市場性がない)は、業者も積極的に取り扱っていないらしく、そもそも処分してくれる業者が少ない。

だから廃ゴムクローラーは、とりあえず倉庫の隅や空き地にでも放置しておく、ということになりがちだ。実際、自分もそうしてしまっている。

このように、ゴミ処理の場合は、「適正処分を推進する取り組みが、逆に処分を阻害する。場合によっては違法投棄を助長する」ということはよくある。

わかりやすいのが、家電リサイクル法のいわゆる「対象4品目」。すなわち、テレビ・冷蔵庫・洗濯機・エアコンだ。これらは法律に則った処分が義務づけられており、その処分費用も決まっている。これは大量に廃棄される家電を適正に処分し、リサイクルを推進するための法律なのだが、現実は、そうなっていない。

田舎道を走っていると、こんな風に冷蔵庫や洗濯機が山と積まれた場所を時々見ないだろうか。

これは何かというと、廃棄物回収業者が違法に回収した家電製品の山なのである。

廃棄物回収業者は、「処分に困っている冷蔵庫などございましたらご相談ください」と言って軽トラで回る。そういう業者に回収を依頼すると「冷蔵庫の処分費用は法律で決まっていて、5000円です」などといって、法律に則った処分費用を請求する。もちろんここまでは何の問題もない(※)。

ところが法律に則っていないのは、「家電リサイクル券」というものを出さないことである。これは、適正処分のためのトレーサビリティのための書類なのだが、処分する側としてはこの書類があろうがなかろうが、冷蔵庫が処分できさえすればいいので、ちょっとは気にしたとしても業者を追求することはない。

ところがこうした業者は、回収した冷蔵庫を適正に処分する気はさらさらなく、野外に積んでおくだけだ。それで5000円が丸儲けになるわけだ。そうしてできた家電の山が、日本の田舎には大量に存在していると考えられる。経済産業省のWEBサイトでもこのように注意が促されている。


このように、経産省では無許可の業者を非難しているが、しかし真の問題は、「無許可で家電を回収すればもうかる」という状態をつくっていることなのではないかと思う。

そのために、家電リサイクル法が出来る前よりも家電の不正な処分・違法投棄はずっと増えているのではないだろうか。適正な処分・リサイクルを推進するための法律のせいで、不正な処分・違法投棄が増えるというのは、政策の失敗と言われてもしょうがない。

後知恵で言えば、廃棄の時に個人から処分費用を徴収するのではなくて、メーカーから徴収するか、あるいは税金の補填で適正処分をするようにすれば、このような問題は起こらなかった。

もうひとつ、廃棄物といば、悪法として名高い(!?)「容器包装リサイクル法」もある。これは市区町村のゴミ収集において、「容器包装」については分別回収しなくてはならない、という法律だ。

「容器包装」、特にプラスチックゴミは非常に種類が多く、ポリプロピレン・ポリエチレンなどが混在し、またシールが貼ってあったり汚れていたりする。これではリサイクルが難しく、市区町村ではこれを分別回収してはいるものの、原材料としてリサイクルしている場合はほとんど存在しないと思われる。ではどうしているかというと、廃プラゴミとして輸出して処分しているのである。このせいで、日本は世界第3位の廃プラ輸出大国であり、世界で取引される廃プラの一割程度を日本が占めているという。

「容器包装リサイクル法」のおかげで日本が世界第3位の廃プラ輸出大国になるとは皮肉が効いているではないか。

「容器包装リサイクル法」は、一見、分別回収を義務づけるしごく当然の内容だが、問題は(1)「容器包装」というくくりが存在し、合理的な分別回収(材質毎の回収など)をむしろ阻害していること、(2)その結果、せっかく分別回収しているにもかかわらず廃プラが結果的にリサイクルされずに輸出されたり燃料として燃やされたりしていること、(3)回収やリサイクルが市区町村まかせであるため、メーカーに容器包装を減らすインセンティブがあまりないこと、である(正確にはメーカーにはリサイクルのための費用の一部を払う義務があるが、徹底できていない)。

もちろん、こうした問題は環境省も認識してはいるのだが、どうも合理的な法体系に改正するには至っていないようである。

世界にはゴミの処分が適正にできていない国や地域が多いことを考えれば、日本は割合にゴミを適正処分している方だと思うし、住民の不法投棄(ポイ捨て)もそれほど多くないと思う。

しかし組織的な不法投棄や、違法な処分はそれなりに目に付くレベルであるのが日本のゴミ処理でもある。しかもそれを、抜け道だらけの法規制がむしろ助長しているように感じる。例えばゴムクローラーの場合は、ただ埋め立てゴミにしていた時代の方がずっと適正に処分されていたような気がして仕方がない。

環境省や経済産業省は、決してバカではない。だから、業界団体や自治体から情報は集まってきており、ゴミの処分に様々な問題があることは認識はしていると思う。でも、実際に廃ゴムクローラーの処分に困っている人がどんな状況なのか、正確には理解していないと思う。彼らの認識があくまで統計上のものだからだ。

今は政府にも地方自治体にも人がいないから、なんでも統計だけを見て政策を決めてしまう。政策を検討する上でもちろん統計は大事だが、個別の事例を追求していくのもそれと同時に大事なことだ。廃棄物処理の政策を担っている人には、ゴミ処理の現場がどうなっているか、足を運んで見てもらえたらと思っている。

水戸黄門・暴れん坊将軍・遠山の金さんには、「民の暮らしを直接見る為政者」という共通点がある。これはフィクションだが、かつての日本の「現場主義」がこれらの物語の骨格を支えていたと思う。それは「現場を視てみろ、書類の上とは全然違うんだから」という態度だ。

今の時代、こういうフィクションが見当たらないのは「現場主義」が衰退したからでないといいのだが…。まさか経産省や環境省は「現場を見なくてもSNSを見ればだいたい分かります」と思っていないですよね?

※本来、無許可でテレビ・冷蔵庫・洗濯機・エアコンを処分することはできないので、引き受けた時点で法に違反しているのかもしれない。

2024年9月21日土曜日

カラーミーショップの度重なる値上げと二つの日本経済

 私は、農産物のほとんどを自前のネットショップ「南薩の田舎暮らし」で売っている。

そのネットショップは「カラーミーショップ」というサービスを使っているのだが、今般このサービスの利用料が大幅値上げされた。

なんでも値上げされる世の中だから、多少の値上げはしょうがない。というか、私自身、農産物をけっこう値上げしてきた。例えば、今年はお米5㎏を3,200円で売ったが、2015年には2,000円だった。約10年で1.5倍くらいにしているわけだ。

ところが、カラーミーの値上げはこんなもんではない。↓これは、2013年以降の、私のカラーミーへの支払い履歴である。

私は、カラーミーの安価なプランである「エコノミープラン」で契約してきた。2013年にはこの利用料が年間10,500円。この価格が、消費増税の影響はあったが最近まで維持されてきた。

ところが、これが2022年に突如3倍の30,800円に値上げされた。料金を3倍にするというのは、価格改定としてはちょっと異常だ。例えば、ダンボールなんかも値上げされているが、上げ幅はせいぜい10%で、しかも営業マンがわざわざ説明に回ってきたりする。いきなり3倍には面食らった(ただし、この時の値上げはサービスの付加も伴っている。常時SSL、メルマガ機能など)。

ところが!! 今年はさらにこれが2倍になり、元値の約6倍の59,400円になったのである。使っている機能はほぼ変わらないにもかかわらずだ。

これは、「エコノミープラン」の提供が終了になり、これまでの中位プランだった「スタンダードプラン」に自動的に移行されたことによる。一片の通知で料金が3倍になったのも異常だが、そのたった2年後にプランの自動移行でさらに2倍に値上げするというのは、ちょっと普通の精神ではできないことだと思う。

「エコノミープラン」の提供を終了したのはなぜかというと、カラーミーの説明では、

昨今の円安に伴う諸経費高騰・インフラコストの上昇などにより、サービス提供のためのコスト増大が著しく、従来の価格を維持することが困難な状況が続いております。(2024年8月1日【重要】エコノミープラン・スモールプランの提供終了に関するご案内より)

となっている。 だが、これは本当か。カラーミーを運営しているGMOペパボの決算資料を見てみよう。2024年12月第1四半期の決算説明資料においては、カラーミーの最近の業績はこのようになっている(四半期ごとのグラフ)。

GMOペパボ2024年12月期 第1四半期 決算説明資料より

【参考】GMOペパボ2024年12月期 第1四半期 決算説明資料
https://pdf.pepabo.com/presentation/20240508p.pdf

これを見れば、先ほどの「サービス提供のためのコスト増大が著しく」という説明は疑わしい。費用はほとんど一定だし、カラーミーの営業利益率はずっと30~40%あるからだ。

普通、営業利益率は10%もあれば優秀だ。ちなみに、ハンドメイド系のフリマサービスである「minne(ミンネ)」も同社が運営しているが、この2024年第1四半期の営業利益率は8%。期間によっては0%の時もある。こっちが普通である。

インターネット関連事業では、営業利益率が20%くらいあることも珍しくはない。にしても、30~40%は高い。利益がちゃんと出ており、利益率が下がってもいない以上、「サービス提供のためのコスト増大が著しく」との説明は首肯しがたい。少なくとも「従来の価格を維持することが困難な状況」にはないと断言できる。

なお、この資料の右側上では顧客単価が2022年から24年までに2倍弱になっているが、これは先刻説明した3倍値上げのためであり、右側下の有料プラン契約件数が減少しているのは、値上げのために契約を解除した人が3割くらいいたということなのかもしれない。

ともかく、カラーミーはかなり高水準の利益がでている事業なのに、なぜ急に値上げされたのか。

実は2023年の第2四半期、GMOペパボは8.6億円の巨額損失を出している。この損失が何によってもたらされたかというと、同社の金融支援事業の失敗である。この事業は、主にフリーランスの人を対象とし、支払いを代行するものであったが(正確には請求書を買いとる形式)、これで大量の貸し倒れが発生し10億円以上の営業損失が出たのである。

GMOペパボ 2023年12月期 第2四半期 決算説明資料より

【参考】GMOペパボ 2023年12月期 第2四半期 決算説明資料
https://pdf.pepabo.com/presentation/20230809p.pdf

つまり、2024年に「エコノミープラン」の提供を終了し、強制的に「レギュラープラン」へ移行させたのは、この損失を取り戻すことが理由の一つだっただろう。

だがもっと本質的なのは、2023年時点でGMOペパボが東証プライムの上場基準を満たしていなかったことだったかもしれない。満たしていなかったのは「流通株式時価総額」で、要するにこれをクリアするためには株式の価格が上がる必要がある。よって、単純化すれば、投資家に優良株と思われる必要があり、そのためにより多くの配当を出せるようにすることが必要であった。

【参考】上場維持基準の適合に向けた計画書提出のお知らせ|GMOペパボ
https://pdf.pepabo.com/document/20230220d2.pdf

つまりこの(実質的な)値上げは、「サービス提供のためのコスト増大が著しく云々」ではなく、投資家へ増配するためだった可能性が高い。

値上げそのものが嫌なのは当然として、この値上げに「サービス提供のためのコスト増大が著しく、従来の価格を維持することが困難な状況が続いております」という、およそ真実とは言いがたい説明をしたことはもっと嫌な感じがする。

そもそも、値上げ直前の2024年第1四半期の決算説明資料の冒頭は、「ストックの好調と貸倒関連費用の減少により 大幅増益」という見出しになっている。

これのどこに「従来の価格を維持することが困難な状況」があるというのか。そもそも、「従来の価格」というが、それはたった2年前に3倍に値上げした価格だ。「従来の価格」とはふざけている。「2年前に3倍に値上げさせていただいたところですが…」と前置きするのが普通だろう。顧客心理を逆なでするとはこのことだ。これを書いた人間は、顧客のことを何も考えていない。

「そんなにGMOペパボが気に食わないなら、別のネットショップサービスを使えばいいんじゃないの?」と、ここまで読んだ人は思うだろう。その通りだ。実際、先述の通り、「エコノミープラン」の料金が3倍に値上げされて以降、カラーミーを解約する人はそれなりにいる。今はBASE(ベイス)とかSTORES(ストアーズ)といった基本料金無料で使えるサービスもある。

だが、(多くの利用者にとって)簡単にはカラーミーを解約できない理由がある。

第1に、カラーミーはかなりカスタマイズ性が高く、他のネットショップサービスでは手の届かない部分が造りこめる。私の場合は、商品の重量に応じて配送料金を設定できるという機能がそれにあたる。これはBASEとかでは対応不可である。

第2に、カラーミーはカスタマイズして運用するのが基本になっており(でなければ、BASEなどのサービスを使えば済むからだ)、カスタマイズにかなりのお金をかけていることが多い(場合によってはカスタマイズの費用の方が、サービス本体の利用料よりはるかに高い)。私の場合は自分でHTML/CSSを書いているからお金はかかっていないが、サイト構築の労力はかかっている。カラーミーを解約すると、それまでかけた労力が無駄になる(または再びコストをかけなくてはならない)。

よって、それなりの売り上げがあるネットショップは、サービスの利用料金が2倍3倍となっても、簡単には他のサービスに乗り換えられない。なお、GMOペパボの親会社(GMOインターネットグループ)の決算資料では、こういう、「一度サービスを導入したら、なかなか他のサービスに乗り換えづらく、継続課金が期待できる」という商材からの収益を「岩盤ストック収益」という用語で呼んでいる。

「岩盤」だと思っているから、料金をいきなり2倍、3倍にするというちょっと正気でない真似ができるわけである。投資家に対しては「岩盤ストック収益」が売りに出来ても、顧客としては「岩盤」と見なされているのは気持ちのよいものではない。

私の感じる気持ち悪さは、投資家に向けては「岩盤ストック収益」「大幅増益」とよい顔を見せながら、顧客には「従来の価格を維持することが困難」という真逆の顔を見せるという、ダブルスタンダードにある。GMOペパボはまるでヤヌス神(前と後に顔があるローマ神話の神)のように、二つの顔を使い分けているのだ。 

これはちょうど、日本の庶民が30年も続く不況で、上がらない給料やどんどん高くなる税金に呻吟しながら、同時に日経平均株価はバブル期以上の過去最高値を更新し、数億円する高級マンションがどんどん売れるという、正反対の状況が同時に起きていることを想起させる。

一言でいえば、これは社会の二極化のせいだろう。だが私は最近、これは二極化を超えて、二つの日本経済があるためではないかと思うようになった。二極化が進み、庶民の世界と投資家の世界の二つの日本経済が、別個に存在するようになってきたのである。

2013年から、日銀は「異次元の金融緩和」と言って資金を市場に大量に供給してきた。この結果、市場(投資家)には行き場を失った多くのお金が滞留した。つまり日経平均株価やマンションの価格が高騰しているのは、景気がいいというより、資金の供給過多でお金の価値が下がったからという要因の方が大きい。経済政策のイデオローグたちは、「トリクルダウン仮説」といって、社会の上流(大企業や投資家など)にお金を供給すれば、それが下流に流れていってみんなが潤うはずだと喧伝したが、そういうことは全く起こらず、投資的な資金だけが巨大に膨れ上がったのである。

それは、庶民の世界と投資家の世界という、二つの日本経済がもはや交わっていなかったためだ。同じ「円」というお金を使ってはいるが、この二つの日本経済はほとんど断絶している。それは、同じユーロを使いながら、EUの国々がそれなりに別の経済圏を作っているのと似たようなものかもしれない。

GMOペパボが顧客と投資家に対して二つの顔を使い分けているのは、まさにこのことを象徴しているように見える。二つの世界があるから、二つの顔が必要になるのである。

企業は、いわば二つの日本経済の間に立っている。彼らとても、顧客に対して無理な値上げはしたくないと思っている(と私は信じている)が、投資家に向けては潤沢に利潤があることを確約しなくてはならない、という板挟みの立場に置かれているのだ。さっきはずいぶんGMOペパボの批判を書いたが、彼らが二つの顔を使い分けているのはその強欲が理由ではないのである。

もちろん、板挟みの状況は彼らにとっても望ましくないので、やがては自社株買い・株式持ち合い・持ち株会社化(ホールディングス化)といった手法によって、経営の安定性を高めることになるだろう。 GMOペパボの場合は、GMOインターネットグループが持ち株会社化し、その子会社になる予定のようだ。

だがそうなったとしても、結局、資本の論理から逃れることはできない。程度の差こそあれ、ヤヌス神のように二つの顔を使い分け続けることになるだろう。であるにしても、どちらの顔が正面なのかだけは、忘れないようにしていただきたい。顧客に向き合って仕事をするのか、投資家に向いて仕事をするのか、どちらが本来の在り方なのかは、考えるまでもなくわかることだ。

2024年7月22日月曜日

忘れられた民具のゆくえ

最近、奈良県立民俗文化博物館が休館するというニュースがTwitterで話題になった。

「維新は文化を大事にしない」という批判のコメントが多かったが、同博物館には、精査なく民具等を受け入れており、しかも整理が十分にできていなかったという反省もあるようだ。

実は、似たような問題が南さつま市にも存在する。これはあんまり知られていない話だ。

加世田の白亀(徳久整形外科をちょっと入ったところ)に、かつて県立果樹試験場南薩支場があった。柑橘類の試験栽培を行っていた場所である。平成4年にこれが廃止されて、土地建物は旧加世田市に移管された。今もこの建物は残っているのだが(冒頭写真)、じつは、この建物の中に大量の民具が保管されているのである。

どうしてこんなところに民具があるのかというと、こんな事情がある。加世田市では、景気が良かった頃に博物館をつくる計画があった。万世にある「天文潟砂丘」という場所に建設する予定だったと聞く。

当時は行政の予算が有り余っていたので、いわゆる「箱物(はこもの)行政」と言われるように、いろんな施設が建設された。その中の一つに博物館があったのだ。加世田市ではその準備のため、学芸員を採用して、民具の収集を行った。

なにしろこの頃、鹿児島では下野敏見さんや小野重朗さんといった民俗学者が活躍していて、民俗学が大きな盛り上がりを見せていた時期だったのである。全国的にも鹿児島の民俗学が一目置かれた時期だったのではないかと思う。

ところがその後、行政の懐事情は徐々に悪くなり、博物館の構想も凍結された。

そして、収集した大量の民具だけが残された。加世田には今も図書館の3階に「郷土資料館」があるが、ここに民具を展示するスペースはなく、収蔵庫のようなものもおそらくほとんどない。そんなわけで、空いていた県立果樹試験場南薩支場跡を「文化財センター」という名称にして、とりあえず行き場のない民具をここに保管することにした、ということのようだ。

しかし、その「とりあえず」 がもう20年以上も経過している。中の民具はどのような状態なのだろうか。防虫の処理などしているのだろうか。そもそも、何が保管されているか把握している人はいるのだろうか。加世田市が周辺自治体と合併して南さつま市になってからは、どのような扱いになっているのだろう。

こんなことは、南さつま市役所でも、ほとんど気にする人はいない。「民具? よくわからん」が市長はもちろん、行政職員の正直な気持ちではないだろうか。これらの民具は、すっかり忘れられたのである。鹿児島の民俗学も、すっかり下火になってしまった。

さて、今、なぜ私がこの民具についてここで書いているのかというと、南さつま市では今、箱物整備のタイミングになっているからだ。

きっかけは、加世田にある南薩地域振興局の南九州市への移転が決定されたことだ。本当は、その跡地に県が何らかの施設を作ってくれればいいのだが、県はそんなお金はないとしているので、南さつま市はその跡地を県から無償で譲ってもらうことにした。そして南さつま市の本坊市長はここに「南さつま交流プラザ(仮称)」を建設することを表明、令和6年度はその調査にかかる予算が計上された。

さらに、別の話ではあるが、加世田の「市民会館」(行政の教育部局と大ホールと市民センターがある建物)が老朽化しているため、大ホールが解体されることが決定されており(隣に「いししへホール」があるため)、教育部局の棟は建て替えする計画である。

また、図書館や郷土資料館が入っている建物も老朽化しているため、おそらく「南さつま交流プラザ(仮称)」にその機能が移管されるのではないかと思う。そして市民センターの機能のいくらかもこちらが担うことになるのだと思う。

となると、気になるのは郷土資料館の扱いである。

合併後、加世田市および旧4町の展示施設は、なんだか中途半端な扱いが続いてきた。合併前には、加世田市が「郷土資料館」、金峰町が「歴史交流館 金峰」、大浦町が「郷土資料室」、笠沙町が「郷土資料室」と「笠沙恵比寿の博物館」、坊津町が「輝津館(きしんかん)」という6つの施設があった。合併後も、施設自体が廃止された「笠沙恵比寿の博物館」を除いて、これらは一応存続してきた。ただ、大浦と笠沙の「郷土資料室」は、ほとんど有名無実化しているのが現状だ。

何が中途半端かというと、それぞれが惰性的かつ個別的に存続してきたことである。これでは、合併のメリットを活かしているとはいいがたい。

そんなわけで、この箱物整備のタイミングで、南さつま市の展示施設の在り方について改めて考えてみるべきだと思う。あわせて、塩漬けになっているあの民具についても、この機会に見直し、管理や調査研究、展示をしていってはどうか、というのが私の提案なのである。

展示施設について理想的なのは、全てを統合し一つの博物館を設立することであるが、「歴史交流館 金峰」と「輝津館」はそれぞれが南さつま市の規模からすると立派すぎる施設なので、廃止はもったいないし難しい。だが別個に存在するとしても、お互いに有機的な連携を図っていくべきだ。

せめて、大浦と笠沙の「郷土資料室」は、すでに有名無実化しているので加世田に統合したらよい。そして塩漬けになっている民具も含め、加世田に「南さつま市郷土資料館」を設立、そして「歴史交流館 金峰」と「輝津館」はその分館に位置づける、というのが一番自然な案である。場所は、現在の図書館がある建物を全部(1~3階)使うこととすればよい。1階の行政部署は市民会館の建て替え部分に、2階の図書館は「南さつま交流プラザ」に移転させればよいと思う。

この案の問題は、この建物自体が老朽化しつつあることだが、耐震工事などはしていたと思うのでまだしばらくは使えるのではないだろうか。

中には「まだあの建物が使えるなら、民具なんかを置くのではなくて、もっと役に立つ使い方をしたらいいんじゃない?」という人もいそうである。そもそも「そんなことにお金を使うより、生活困窮者や子育て世代への支援、高齢者福祉とか移住促進に使う方が有意義では?」という考えだってアリだ。

もちろん、南さつま市の財政がカツカツなら、私だって「残念だけど民具は後回しにしよう」と思うところだ。だが実際、「南さつま交流プラザ(仮称)」を建設したり、市民会館の一部を建て替えたりする余裕はあるわけだ。それに南さつま市では幸いなことにふるさと納税の成績がよい。人口減少が始まっている南さつま市にとって、今は、市民生活に直結しない展示施設をつくれる最後のチャンスというタイミングであると私は思う。今やらなかったら、忘れられた民具は、廃屋で朽ち果てる可能性が高い。

収集した民具はモノをいわない。たとえ放っておいても、奈良県立民俗文化博物館の場合とは違って誰も文句は言わなそうだ。そんなことになぜお金や労力をかけないといけないのか。声を挙げている人、困っている人はたくさんいるというのに。

だが、それを言ったら、困っていてもモノを言えない人は意外と多い。そういう人を放っておいても、たいていは何も問題は起こらない。そんな風にして、声なき弱者を切り捨て続けてきたのが、今の日本ではないか。

儲かるものや、役立つものや、権威ある人の後援を受けているものを大事にするのはバカでもできるが、儲からないもの、すぐに役立たないもの、誰の後ろ盾もないもの、そういうものを大事にするには、「見識」がいる。

実際、収集された民具が有効活用されないとしても、どれほどの文化的損失があるのか、私にはわからない(だいたい、その民具を見たこともない)。だが少なくとも、現在保管している民具の扱いを検討するくらいの「見識」がある町に、住みたいものである。

2024年6月25日火曜日

鹿児島銀行が全代理店を廃止した話

今年の1月11日、私の住む大浦町の「鹿児島銀行 大浦代理店」が廃止された。

というか、鹿児島県内にある鹿児島銀行の全代理店(18店)が2024年2月までに廃止されたという。

冒頭の写真は、もう今は取り壊されて跡形も無くなっている大浦代理店の在りし日の姿である。

鹿児島銀行が全代理店を廃止したのは、第1には代理店の来店客数の減少による合理化であり、第2にはネットで手続きが完結する体制が充実してきたからであり、第3には代理店の意味が小さくなってきたことである。

第3の点に関し、鹿児島銀行の松山澄寛頭取(当時)は取材に応えて、「金利が高いときは預金を集めて貸せば確実に利ざやがあったが今はマイナス金利。代理店の歴史的な役割は終わった」と述べている。要するに「代理店なんて儲からない」という身も蓋もない話だ。

【参考】鹿児島銀行代理店を移転統合へ|朝日新聞(2023年9月1日)
https://www.asahi.com/articles/ASR8072X3R80TLTB003.html

田舎の代理店なんて昔から赤字だろう、というのは誤解らしく、田舎の人は貯金が好きなため(というより、田舎ではあまりお金を使う場所がないため)、この小さな代理店の見た目とは裏腹に、かなりのお金が集まったのだという。田舎では定期預金の比重が高く、都会とは桁が違うお金が集まったと銀行マンから聞いたことがある。

では、今はどうなのかというと、確かに利用者は少なくなり、定期預金を集める意味は全くない。2024年になってゼロ金利政策は終わりを告げたが、それでもお金は金融市場に滞留している状況で、「歴史的役割は終わった」と言われてもしょうがない。

一方、全代理店の閉鎖で削減されるコストは年間約5300万円だそうだ。5300万円というと大きいようでも、鹿児島銀行の親会社「九州フィナンシャルグループ」の2024年3月期決算短信を見てみると、営業利益が384億円ある。鹿児島銀行だけでも営業利益は120億円くらいのようだ。これに比べると、5300万円なんかは誤差の範囲といって差し支えない。削減の意味はあまりないコストではなかろうか。

そもそも鹿児島銀行の第9次中期経営計画(2024−26)では「接点・対話・課題解決 No.1」をコンセプトに掲げ、「お客様との接点を強化」とか「持続可能な地域社会の実現に貢献」といった言葉が並んでいる。

【参考】鹿児島銀行 第9次中期経営計画
https://www.kagin.co.jp/library/300_ir/pdf/keiei_plan/09_cyuki_keieiplan.pdf

この計画は全代理店廃止後のものだとはいえ、田舎の人間にとっては「たいしたコストじゃなかった代理店を廃止しておいて、接点・対話とか持続可能な地域社会云々なんてバカにしてるのか」と思ってしまう。

「そうはいっても、鹿児島銀行は営利企業なのだから、コストカットはやむを得ない。実際、田舎の代理店なんて一円の得にもならないんだし」と思う人もいるだろう。

それはそうだ。しかし意外なことに、営利企業の活動は、田舎への富の再配分に大きな役割を果たしてきた。例えば、Aコープ(鹿児島県経済連の子会社のスーパー)の商品の値段は、大浦町でも鹿児島市でも変わらない。たぶん県内一律ではないだろうか。JAのガソリンスタンドの値段は、それよりは一律ではないが、それでも価格差は大きくない。こうした企業では、店舗ごとの利益率が異なっても、できるだけ同一料金にする努力が払われている。

また、指宿枕崎線(の指宿−枕崎区間)は廃線が取り沙汰されているが、ここは年間3億円以上の赤字路線となっている。これをお金の流れから見ると、JR九州が都市部で稼いだお金を南薩につぎ込んでくれているとも言える。

ある程度大きな企業は、それ自体が公共的な意味を持っており、そのサービスが広い範囲で提供されることで、結果的に田舎への富の分配を担ってくれているのである。例えば、大浦町のJAのガソリンスタンドは、基本的にずっと赤字だという話だが、だからといって閉鎖の危機にあるかというとそうではない。JA南さつまにとっては、その店舗は赤字であっても、その赤字額が経営的に耐えられるものであれば、管内にあまねくサービスを提供することに意味があるからである。 

田舎では、過疎によってまたさらに過疎化が進む、という過疎化のスパイラルが起こっている。これは自然に起こっている面はあるが、その動きを助長しているのは他でもない行政だ。市町村合併によって、地域に役所(支所)が無くなり、学校が統合され、公共施設が閉鎖される。本来は、行政の施設は営利的なものではないのだから、そこに住民がいるかぎり維持されてもおかしくないのだが、平成不況以降、役場の方がコスト意識に厳しくなってしまった。

公共サービスは儲からなくて当たり前なのに、公共サービスに収益性を求めるのが最近の流れだ。指宿枕崎線を運行しているはJR九州は、ちゃんと利益が出ている企業なのですぐには廃線にはならないと思うが、これが肥薩おれんじ鉄道のように行政による運営になると、「経営状態が悪い」といってすぐに廃線の危機になってしまう。税金の無駄と見なされるからだ。民間の方が逆にお金に鷹揚な態度を示しているのは面白い。

それは、民間企業は度量が広いが、行政はせせこましい……というのではなく、民間企業は、全体として利益が出てさえいれば、細かいところで損失が出ていても気にしなくて済むからだ。それだからこそ、光通信は日本のかなりの面積をカバーし、携帯電話のアンテナは田舎にも立ち、Amazonの送料無料サービスはかなりの僻地でも対応している。それによって、田舎に住む人たちが、都会とさほど変わらない文明的生活を送れるのである。

もちろん島嶼部など、もうちょっと条件の厳しい人たちは、そうともいえないかもしれない。それでも、大企業の提供するサービスが田舎に住む者にとって心強い味方なのは変わらない。田舎の生活というと、今にも潰れそうな個人商店が支えている……というイメージがあるが、実際には、田舎こそ大企業の商業活動のおかげを蒙っている、というのが田舎に住む私の実感である。

そう考えてみると、鹿児島銀行が目先の5300万円を浮かすために、鹿児島県の僻地に存在していた代理店を廃止したことは、単なるコスト削減以上の意味があるように思われる。鹿児島銀行は鹿児島全体を対象とした大企業であることを諦めて、鹿児島市を中心とした都市部のみを対象とする存在になるのだろう。そもそも、ネットで取引ができるから代理店はいらない、というのなら地銀の存在意義自体がなく、メガバンクを頼った方がいい。

鹿児島県民にとっての鹿児島銀行の一番の存在意義は、「あちこちに鹿銀ATMがあること」。これに尽きるのではないか。コスト削減というのであれば、代理店廃止はやむを得ないとしても、せめてATMだけは残してほしかった。商売をしていると、現金売上を入金することができないのでとても困るのである。

全代理店廃止後、鹿児島銀行の頭取に就任した郡山明久さんは「地銀であることに徹底的にこだわりたい」とインタビューに答えていた。その真意はわからないが、それが「鹿児島」を大事にしたいということなのであれば、地方の大企業らしく、田舎にもあまねくサービスを展開してもらいたい。目先の利益のみに捕らわれない地銀になることを期待している。

2024年6月20日木曜日

農地を利用されやすくする法改正で、逆に耕作放棄地を助長する「机上の空論」

ほとんど報道されないが、今、農業をする上での困った事態が起こっている。

簡単にいうと、ある種の農地が借りられなくなるのである。

これは今のところ誰も声を挙げていない大変な問題だと思うので解説したい。

さて、農家は自分の土地で作物を育てていると思っている人もいるかもしれない。「農家になるには農地を買わないと」と思っている新規就農者希望者も少なくない。だがそれは誤解で、多くの農家は農地を借りて農業をしている。少なくとも私の住む大浦町では農地を借りて農業をしている人の方が多数派だ。

それは、現代の農業は、もはや「先祖伝来の土地を守っていく」というようなものではないからだ。農業も、他の事業と同じだと思ったらよい。飲食店がテナントを借りるのが普通なのと理由は一緒なのだ。だから、農地の貸し借りがスムーズにできることは、現代の農業においてはきわめて重要である。

全国的にも、土地の貸し借りを通じて大規模農家へと農地を集積していくことが求められ、農水省は強力にそれを推進している。

その具体的な手段となっているのが、「地域計画」と呼ばれるものだ。

これは、その地域での農業の将来像と、農地一筆ごとの10年後の耕作者を示した地図(「目標地図」という)のセットで構成されるものである。その目的を一言でいえば、農地が利用されやすくなるようにすることだ(農用地の効率的かつ総合的な利用)と農水省は言っており、具体的にはバラバラにある農地を集積し、農業の効率を上げることである。

目標地図について。下のPDF資料より

この「地域計画」は、まさに「机上の空論」で、少なくとも大浦町の実態からして策定の意味は薄いと思う。というのは、効率的に利用できる集団化した農地は引く手あまたで、農業の大規模化に伴って自然と集約化していくが、狭い・不整形・孤立している・傾斜がきついなどの人気のない農地は、計画を作ったとしても耕作放棄地化していかざるをえないからである。「地域計画」のための農家同士の話し合いは決して無駄ではないと思うが、計画自体は作ろうが作られまいが、大浦町の農業の10年後の姿はほぼ変わらないと断言できる。

さて、2023年(令和5年)の「農業経営基盤強化促進法」という法律の改正で、この「地域計画」の策定が必要となったが、この法律では、「農用地の効率的かつ総合的な利用」のために、もう一つ重要な規定がある。それが「農地中間管理機構」に関する定めである。

【参考】農水省の資料(PDF)
農業経営基盤強化促進法等の一部を改正する法律について

「農地中間管理機構」は、一般的に「農地バンク」と呼ばれている。農水省の説明では、「農地バンクは、分散している農地をまとめて引き受けて、一団の形で受け手に再配分する機能を有する」ものだそうだ。これを聞くと、例えば田舎に活用していない農地を所有している人は「農地バンクに土地を引き受けてもらおう」と思うかもしれない。だが実は、「農地をまとめて引き受ける」という機能は実際にはなく、「農地バンク」の名称は有名無実である。

ではどういう仕組みかというと、こんな感じである。

「農地を借りたいAさんが、空いている農地を探して、その所有者Bさんに連絡し条件を伝え快諾してもらった。それを農業委員会に伝えると、農業委員会から農地バンクに連絡が行き、農地バンクを介してAさんはBさんの土地を借りる契約を行う。契約については農業委員会で審査・認定する」…とまあこんな風だ。

つまり「農地バンク」は、農地を借りたい人・借りたい人の斡旋をするのではなくて、あくまで話がまとまった後で契約を仲介する機能なのだ。

なお、農地バンクの仕組みができたのは比較的最近のことだが、それ以前から農地の貸し借りには農業委員会が仲介することになっていた。なお、わざわざ農業委員会が介在することは一見ややこしいが、例えば宅地の貸し借りにはもっとずっとややこしい手続きや不動産仲介業者が必要なことを考えると、比較的手間の少ない仕組みである。

ともかく「農地バンク」は、現場の人間にとっては必要ない仲介業者だという感じがする。「農地バンク」を通さないといけないおかげで、必要な書類も増え、手続きにかかる時間も倍くらいになった。国の統計だと、「農地バンク」の扱う農地がうなぎ登りになっていて、あたかも「農地バンク」の仕組みがうまくいっているように見えるが、これは既存の土地の貸し借りを「農地バンク」を通したものにわざわざ借り換えているからで、それ自体が一つの手間である。

このように、国は「農地バンク」が農地集積のツールだといわんばかりのことを言っているが、実際には単なる中間業者であって、それ自体に農地集積の機能があるわけではない。そもそも、「農地バンク」に農地集積の機能がないからこそ、「地域計画」を定めて、農地一筆ごとの10年後の耕作者まで決めようとしているわけである。

つまり、 「農業経営基盤強化促進法」の2つの柱である「地域計画」と「農地バンク」は、そのどちらもが地域の農業にとって有効なものではない、というのが農家である私の実感だ。私は農業委員の下働き的な役目である「農地利用最適化推進委員」という役をやっているが、農業委員や農地利用最適化推進委員の多くも、「また国がややこしい計画を作れと言ってきたなー。そんな形式ばっかりのことをやってる場合じゃないのに」と思っている。

しかしこれは、まだ冒頭に言った「大変な問題」ではない。実は、本当の問題はこれからである。

「農業経営基盤強化促進法」では、目立たないがもう一つ大きな改正点がある。それは、農地の貸し借りには必ず「農地バンク」を介さなければならなくなった、ということだ。

これは、「農地バンク」を通じて土地を集積していこうという政策の一環だろう。一見、それ自体には、面倒なだけで大きな問題はないように思える……が、実はそうではないのだ。

それは、「農地バンク」は都道府県単位で設置されており、県レベルの業務であることと関係がある。県は、市町村に比べて格段に融通が効かない。特に「農地バンク」は土地の名義にうるさいのだ。

田舎には、相続の登記がなされておらず、土地の名義が先代・先々代のままになっている土地が膨大に存在している。田舎では、相続登記に必要になるお金(司法書士への依頼料)に比べ、土地の評価額がものすごく低いため、「価値のない土地のために、司法書士にお金を払いたくない」ということで相続登記されていない土地が多いのである。

また、大浦町の場合は、「別にわざわざ登記なんてしなくてもいいよね」という風潮があったような気がする(例えば土地交換が登記なしで行われていたりする)。 

というわけで、大浦町には、土地の名義人がすでに死亡している農地がたくさんある。これまで、そうした農地を貸し借りするには、現にその土地を管理している人の同意を得さえすればよかった。それは大抵、その土地の固定資産税を払っている人と等しく、それほど難しい話ではなかったし、実際、管理人の同意がありさえすれば問題は起こらなかったのである。

ところが、「農地バンク」を介してそのような土地の貸し借りをする場合には、土地の相続権を持つ人の過半数の同意が必要だという。これはかなり難しい。まず現に土地を管理している人の協力を得て、相続人全員を探す必要があるからだ(実際に同意を得るのは過半数でいいが、全員を確定させないと、その過半数が何人になるのかがわからないため)。その上で、過半数に農地の貸し借りについて同意を得る必要がある。

ちなみに、農地の借地料は、このあたりでは10aあたり1万円以下が相場である。とすると、たったそれだけのために、このような面倒な仕事はしたくないのが人情だ。というわけで、行政からは、「相続登記がされていない土地は、事実上借りられなくなる」と説明されている。現在は、経過措置のためにまだ「農地バンク」を介さない農地の貸し借りが可能なのだが、この経過措置が令和7年(2025)3月で終了する。

つまり、2025年4月から、相続登記されていない農地が借りられなくなる。これが大問題なのである。

相続登記されていない土地が、ごく少数のことであれば、これはたいした問題ではない。しかし法務省によれば、日本の所有者不明土地(相続登記がなされていないことで、所有者がわからない土地)をあわせると九州全体の土地面積より広いという。このほとんどは山林であるとは思うが、農地についてもかなり多いことは想像に難くない。

このため、法務省は今年の5月から相続登記を義務化した。これで新たな所有者不明土地の発生は防げるのではないかと思われる。だが、これまでに発生した所有者不明土地に対しては、一応、登記を求めることにはなっているが、一朝一夕では解消しないのは明らかである。

では、現に今、相続登記されていない農地を借りて耕作している場合、2025年4月以降はどうしたらいいのか? 新たな契約が結べないだけで、今の貸借契約が否定されるわけではないので、しばらくは何も問題ない。ところがその契約期間(最長10年)が終えたら、その土地を借りることはできなくなる。正確に言えば、農業委員会を通した契約ができなくなる。ではどうするかというと、貸し手と借り手の相対契約によって借りるしかない。これを「闇小作」という。

かつて、農業委員会は「闇小作」を撲滅するように働いてきた。これはいろんな面でトラブルの元だったからだ。ところが、2025年4月以降は、現実的に「闇小作」でしか借りられない農地が存在するようになってしまう。農業委員会事務局も「大きな声ではいえないが、相続登記されていない農地については、もう「闇小作」でやってもらうしかないと思います」と匙を投げている。

皮肉なのは、この原因となった「農業経営基盤強化促進法」の「改正」が「農地が利用されやすくなるように」という目的で行われていることだ。それなのに、農地が利用されやすくなるどころか、逆に「闇小作」を推進することになるとは政策立案者もビックリではないだろうか。

では、「闇小作」で何が問題か。先ほど「トラブルの元」と書いたものの、実はそれよりもずっと重要なことがある。それは、農家の公的な経営面積は、あくまでも農業委員会を通して借りた農地の面積だということだ。「闇小作」では、いくらたくさん作っていても、経営面積として認められない。あくまで「闇」なのだ。

そして、この公的な経営面積に応じて、各種の補助金や優遇措置が受けられるのである。例えば、農家は免税軽油の購入が可能だが、これも経営面積に応じた割り当てを受ける。最近は肥料価格が高騰しているため、肥料への補助金があるが、これも経営面積に応じた上限がある。経営面積が補助金等の基盤となっているため、「闇小作」は農家としてはできるだけやりたくないのである。

こうなると、2025年4月以降、相続登記されていない農地は、できるだけ耕作しない方が得だ、ということになる。 

「農業経営基盤強化促進法」の「改正」の背景として、農水省は「農業者の減少や耕作放棄地の拡大がさらに加速化し、地域の農地が適切に利用されなくなる懸念」をあげている。にも関わらず、この「改正」によって、現に耕作している農地の放棄を助長していることを、農水省の担当者は理解しているのだろうか?

確言するが、彼らは絶対に理解していないと思う。それは、農水省が現場を見ずに机上の空論だけで農政をやっているからだ。これは、私だけでなく多くの農家が肌で感じていることだ。

相続登記されていない土地の貸し借りについては、せめて「相続登記の義務化」によって、大方の農地の相続がキチンとなされるまでは従前の通りとしてもらいたい。そうでなければ、法制間の整合性がとれないではないか。

どうせ「机上の空論」であるならば、せめて「机上の空論」としては辻褄を合わせていただきたいものだ。

2024年4月4日木曜日

奄美に行ってきました(その2)

前回からのつづき)

今回の旅の目的地(の一つ)は、奄美の西南部の端にある瀬戸内町古仁屋だ。

古仁屋の港には、瀬戸内町のコミュニティFM「せとうちラジオ放送(せとラジ)」の放送局がある。その事務局長、「さとぴー」こと長井聡子さんの案内で、奄美をご案内いただくというのが今回の番組だ。

【参考】せとうちラジオ放送
https://setoradi768.themedia.jp/

番組についてはテレビで見ていただくとして(放送は5月とのことですが、日程は不明です)、瀬戸内町について説明したい。

さて、奄美大島の経済の中心は、島の北西の方にある奄美市だ。人口は3万人ほど。一方、瀬戸内町は、島の南東に位置し、奄美市からは車で1時間ちょっと。しかもぐねぐね山道をゆくので1時間よりかなり遠く感じる(私があんまり車移動が好きではないのもある)。瀬戸内町の人口は8千人くらいである。

私の実家がある旧吉田町の人口が9千人くらいだから、ほぼ一緒だ。そして、漁港を中心としてぎゅっと町がまとまっている感じは、枕崎市によく似ている。

さとぴーさんの案内で、この町を少しだけ歩いた。

強く感じたのは、8千人の町にしては、小商いの店がとても多いことだ。古仁屋には、食料品店や雑貨屋(オシャレな雑貨屋ではなく、トイレットペーパーとか洗剤とかを売っている雑貨屋のこと)、パン屋、酒屋、種苗店といった小さな店が散在している。飲食店や飲み屋が多いのは観光地だから当たり前とも思うが、明らかに地元利用が中心の店が多い気がする。喫茶店も何店もあった。人口8千人の町にライブハウスまであったのにはビックリした。町営の火葬場まであるそうである。もちろん小学校から高校まで揃っている。

そもそも、人口がたった8千人の町にラジオ放送局まであるってすごくないか。

要するに、古仁屋はなんだか豊かなのだ。

それは奄振(あましん)のおかげだろう、という人もいるかもしれない(奄振=奄美群島振興開発関係予算)。だが地元の小さな餅屋「大城もち屋」に、若い後継者が帰ってきた、というような豊かさは、奄振だけでは説明がつかない。

【参考】大城もち屋 ←ここでお土産に「りゆび餅」を買った。
https://r.goope.jp/amami-ooshiro/

なぜ古仁屋は豊かなのか。その大きな理由は、逆説的であるが、奄美市から車で1時間ちょっとという「不便さ」にあると思われた。

というのは、県本土では車で1時間ならたいしたことはないが、ぐねぐね山道を1時間以上だとなかなか気軽に行き来するものではない。結果的に、瀬戸内町の人はたいがいの用事を古仁屋で済ますことになる。さとぴーさん曰く「なんでも古仁屋で揃う。奄美まで行く必要はない」のである。話を聞いてみたところ、ないものは産婦人科とタクシーくらいだという。

これを経済の面からいえば、瀬戸内町では地域内でお金が循環している、ということだ。

私の家から、宇宿のイオンまで車で約1時間半であるが、休日にイオンに行くと地元の知り合いにバッタリ会うことは多い。わざわざ1時間半かけて、田舎からイオンにお金を落としに行っているわけだ(笑)

これが古仁屋の場合は、イオンに行かずに地元でお金を使っている。だから小商いが多いのだろう。そしてこれは、若者が小さな店を始めるのにもいい環境だと思った。人口8千人の町に大きな需要は見込めないが、地元の人が来てくれるというのが、小さな店にとっては(特にはじめたばかりは)一番大事なことなのだ。古仁屋には、大きなチャンスはないかもしれないが、小さなチャンスはたくさん転がっている。

よく「これからは、不便な地域が残る」と言われるのは、こういうことだろう。

例えば、宮崎県の椎葉村。椎葉村の場合も、延岡市まで車で2時間。独立した経済圏を構築せざるを得なかった場所である。こういうところが、かえって存続しているのだ。

もちろん、古仁屋も椎葉村も、ただ不便だから残っている、というわけではないだろう。両方、地元の人の努力があったからこそなのはいうまでもない。でも、古仁屋が奄美市まで車で30分の位置にあったとしたら、きっと今のように小商いの店がたくさんある町にはなっていなかったのではないかと思う。

私の実家の旧吉田町は、人口規模は似たようなものだが、小商いの店はそれほど多くないことがそれを例証している。旧吉田町の人は、いつでも吉野に買い物に行けるからだ。薩摩吉田インターが近くにあるため、鹿児島市内や姶良イオンにもすぐ行ける。こういう場所では地域内でお金が循環することはない。

町にとって不便さは、一般的にはマイナスだ。だが古仁屋の場合は、それがプラスの面ももたらしている。植林をしていなかったのがかえって奄美にとってよかったように、田舎では近代化のセオリー(常識)と逆の方がよい結果をもたらすことは多い。

そもそも、田舎は「近代化」から取り残されたから田舎なのだ。もちろん、田舎の人間だってスマホを使い、キャッシュレス決済をし、ハイブリッド自動車に乗る。「近代化」は田舎にだって必要だ。

だが、そこでは都市とはちょっと違った「近代化」が必要だ、ということなんだろう。

人口8千人の町にラジオ局を作ることは、効率から考えたら無駄だ。だが、そういうことが町の豊かさを作る。そういう無駄を許容する「近代化」、合理性一辺倒とは違う「近代化」が、田舎には求められている。

2024年4月2日火曜日

奄美に行ってきました(その1)

先日、テレビの企画で奄美大島に行かせてもらった。

NHKかごしまの「ローカルフレンズ」というコーナーのロケで、これまでに「ローカルフレンズ」として出演した人が奄美大島を観光する、という内容の企画である。私は2月に「ローカルフレンズ」に出演させてもらったので、その末席を汚したというわけである。

その企画のことはさておき、私は人生で初めて奄美に行ったので、その印象などを書き留めておきたい。

奄美空港に到着して、目的地の瀬戸内町までは車でおよそ2時間。その途中はずっと山か海しか見えないのだが、すぐに気づいたのは山に杉が全くないことだった。

では、奄美の森は手つかずの自然が残っているのかというと、実はそうではない。2021年、奄美大島や徳之島、沖縄本島など(の一部)が世界自然遺産に登録されたが、奄美大島の場合、登録地のほとんどが二次林(人の手が入った森林)なのである。

かつての奄美大島では林業は主要な産業の一つだった。奄美大島の林業を語る上では岩崎産業の存在が大きく、岩崎産業は奄美大島に1万2000ヘクタールもの大森林を所有していた。島の全体面積が約7万2000ヘクタールなので、実に島の20%もの大地主だったことになる。岩崎産業が奄美大島でどのような林業を行っていたのかは私は詳しくは知らないが、島の森林を見たところ、整然と植林されたような区画は皆無だったので、おそらく造林(植林)はほとんど行っていなかったものとみられる。

本土では盛んに杉が植林されていた時期(戦後)に、どうして奄美大島では全く植林されなかったのか。政策的な理由があったのかもしれないし、自然の回復力が高かったため、あえて植林しなくてもよいという考えだったのかもしれない。

なにしろ植林にはかなり手間がかかる。植林して数年間は下草払いをする必要があり、草払機が普及する前は造林鎌で行う重労働だった(草払機があっても重労働である)。ハブのいる奄美の森では危険も伴っただろう。要するに、植林はコスト的に見合わなかった、ということが理由ではないだろうか。

それは手抜きともいえなくもないが、植林がされなかったことで、結果的に、奄美の山ではスダジイを中心とする自然の植生が回復し、多くの野生動物が保全されることとなった。真面目に造林していなかったのがかえってよかったのだ。

ちなみに、世界自然遺産の登録にあたって最大の障壁になったのが、登録予定地の大部分が岩崎産業の社有地であったことだ。結論を言えば、岩崎産業は4000ヘクタールもの土地を国に売却することでこの問題は決着した。奄美の人たちの岩崎産業に対する思いは複雑なものがありそうである。

ところで、現在の奄美大島の林業はどうなっているのかというと、車中から森林の様子をずっと見ていたが、全く林業が行われている形跡がなかった。かつて島を支えた林業は壊滅した模様である。

というか、林業だけでなく、建設業と漁業以外には、島には産業らしい産業がほとんど見受けられない。サトウキビ以外の農業は見ることができず、水田は皆無といってよかった。畜産もわずかのようなので、仮に農業をやるとしても堆肥の調達に苦労しそうである。私は柑橘農家なので、奄美大島といえばタンカンというイメージがあったが、産業的に行われているタンカン園は一カ所も目に入らなかった。

要するに、島には仕事があんまりなさそうなのだ。

やはり島は貧しいのか。目的地の瀬戸内町古仁屋で、その続きを考えることにしよう。

(つづく)