2022年7月22日金曜日

安倍元首相の国葬に反対。というか国葬そのものに反対。

安倍元首相の国葬を執り行うという。

首相の在位期間は大変長かったが、疑惑や不正も多く、賛否は割れている。自民党は「多くの国民が望んでいる」「反対しているのはノイジーマイノリティ」などというが、世論調査などでは五分五分のようだ。

私も国葬には反対である。

でもそれは、安倍元首相を評価していないからではない。いや、実のところ、私は安倍政権の政策はほとんど何一つ評価していないが、仮に彼が偉大な功績を残した、万人に愛される首相だったとしても、私は国葬に反対である。

というのは、私は国葬そのものに反対なのだ。

そもそも、憲法第20条(第2項、第3項)にはこうある。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

国葬は、明らかに「宗教的活動」であり、「宗教上の行為・儀式」である。私は「国葬」の開催は憲法第20条第3項に違反しており、実質上、多くの行政関係者がそれに参加することが強制されることを考えれば第2項にも違反する。

「いや、国葬が宗教的活動とは言い切れない」という人もいるかもしれない。例えば、祝詞を読んだりお経を上げたりすれば明らかに宗教的活動であるが、祝詞もお経もなく、お別れの言葉を読むだけのイベントなら宗教的活動ではないのかもしれない。

だが、死者を葬る儀式において、死者の魂を実在のものとして扱わないということはあり得ないと私は思う。死者の魂など存在しない、というのであれば、葬式自体をやる意味がないからだ。仮に特定の宗教に基づくものでなかったとしても、例えば、弔辞において「安倍さん、あなたのおかげで…」と呼びかけるようなやり方は、死者の魂に話しているとしか考えられないのである。死者の魂を扱う以上、そこに宗教的なものがないというのは難しい。

それでも、「最近は”無宗教の葬式”もあるからなあ」いう人もいるだろう。とはいえ、「無宗教の葬式」は自由な葬式であるために一概にはいえないが、完全に宗教的でない葬式は例外だと思う。というのは、それらの多くは、ただ僧侶を呼ばないというだけで、特定の宗教の儀式に則ってはいないとしても、やはり故人の冥福(魂の安らぎ)を祈るもののように思われるからである。ごく一部には、全くの無神論の葬式もあるのかもしれない。だがその場合は、個人の冥福など祈る必要もないので、葬式ではなく告別式と呼ぶであろう。

話がやや逸れたが、葬式である以上、宗教と関係がないというのは詭弁だ、と私は思うのである。では祝詞もお経もなく、お別れの言葉を読むだけのイベントでは憲法違反にならないか。私は、それは憲法違反ではないと思うが、それを「葬儀」「国葬」と呼ぶことには断固反対したい。それは「告別式」であり葬儀ではない。

葬儀は、宗教の核心である。おそらく宗教は、人を葬ることから生まれたのであろう。国家が葬儀を行うこと自体が、国家が宗教を手中に入れることに繋がると私は危惧する。

でも「政教分離を掲げる多くの国で国葬は行われているじゃないか」と言われればその通りである。しかしそれらの国では「国葬令」などの法律があり、法に則って行われている。日本では国葬に関する規定はなく、今回も国会の審議を経ずに「閣議決定」でなされるようだ。これでは「故人の魂」を政治的に利用していると言われてもしょうがない。民主的な手続きによって定めた法律によって定まった「国葬」であればまだ容認できるが、国家が恣意的に宗教イベントを開催できるということが空恐ろしいのだ。

日本では明治以来、政権と宗教の歪(いびつ)な関係が続いてきた。国家が宗教までも管理し、国民の「良心」を国家が改変してきたのが日本の近代史である。そのことの一端は拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』でも描いたつもりだ。日本の場合、国家と宗教の関係には非常に注意していなければならないと思う。

しかも今回、安倍元首相を銃撃した犯人は、統一教会と自民党への関係を恨んで犯行に及んだというのだからなおさらである。

多くの国家元首が弔問に訪れるという事情があるなら、告別のイベントを国費によって行うというのであればいいだろう。宗教は抜きで。でも宗教は抜きなのにそれを「国葬」と呼ぶのなら、明治時代の政策担当者が「神道は宗教ではなく国家の祭祀である(だから国民に神道の祭祀を強制しても、政教分離や信教の自由には抵触しない)」と整理したことと同じ過ちを犯すことになる。

国会審議を経て(つまり民主的手続きによって)国葬とするか、閣議決定で告別式にするか、どちらかにしていただきたい。反対派の私にとって、それがギリギリの妥協点である。


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