2015年4月17日金曜日

無投票当選に思う(その2)

(前回からのつづき)

私の提案は、県議会議員選挙については一つの選挙区をもっと大きくし、「南薩」くらいの規模にすべきだということである。

しかしそうなると、立候補者にとって選挙運動が過大な負担となってしまうおそれがある。そこで選挙制度の改善が必要になるわけだが、そもそも、現在の選挙運動に納得している人は誰もいないだろう。

選挙運動の基本は、21世紀の今でも「どぶ板選挙」である。街頭に立って「みなさんおはようございます。○○でございます。いってらっしゃいませ」というような挨拶を行う「辻立ち」、街宣車でひたすら候補者名を連呼する「連呼行為」、そして道行く人に握手と挨拶を求める活動などなど。街頭演説や個人演説会も多少は行われるが、有権者の関心事であるはずの政策議論はほとんどなされないまま投票日を迎えるというのが普通の選挙である。

要は、日本の選挙はひたすらに「露出度競争」になってしまっている。その政策の中身よりも、名前を何度でも刷り込むことが選挙に勝つ秘訣だとでも言わんばかりである。

どうしてこんな中身のない選挙戦が行われているのだろうか。

世の中では、「日本人にはまだ民主主義が根付いていないから」「日本人の民度の低さの現れ」というような主張がたくさん出回っていて、それも一理はある。日本人は確かに、多くの人びとの意見を糾合して政治的主張にしていくのが苦手である。 また、「どぶ板選挙」をやたら慫慂している人たち(主に高齢者)もいて、そういう地を這いずり回るような選挙運動こそが立候補者の衷心の証しであると受け取っている。中身がない「○○でございます。いってらっしゃいませ」のような言葉を繰り返すことは一種の苦行で、その苦行をやり遂げること自体に意味があると考えているのかもしれない。

しかし私は、そういう見方に与しない。日本人は確かに欧米風の民主主義は発展しなかったが、違った民主主義が育っていて、選挙の際の人びとの眼差しは冷静でバランスのとれたものなのではないかと思う。

ではなぜ選挙戦が「露出度競争」なのか。

私の考えでは、それは公職選挙法の規定と、現在の選挙のやり方のせいである。

まず、公職選挙法について。よく知られているように、街宣車から「○○でございます! よろしくお願いいたします!」とひたすら呼びかける「連呼行為」は、公職選挙法によって生まれたものである。本来、街宣車から呼びかけるにしても、少しは政策的な内容があってもよさそうなものなのにそうする人が誰もいないのは、法律上許されている車上での選挙運動が連呼だけだからである(公職選挙法第140条の2第1項)。

ちなみに、走行中の自動車で(連呼行為以外の)選挙運動をするのは違反である(同法第141条の3)。 さらに、走行中の車上以外から「連呼行為」をするとこれも違法なのである(同法第140条の2)! 同法により基本的に禁止されている「連呼行為」が、その法の抜け道である街宣車によって助長されているというのは皮肉が効いている。

公職選挙法をつぶさに見ていくと、こういう調子で現在の選挙の実態と、その規定する理想とが乖離していることに気づく。法の理想としては、連呼行為や個別訪問、ハガキ、ポスター、ビラの大量配布などによる「露出度競争」を抑制しようということがある(ハガキ、ポスター、ビラの配布上限数も決められている(同法第142条、第143条、第144条など))。しかし実際には、そういう理想とは裏腹に現在の選挙運動は「露出度競争」に堕しているのである。

どうして法の理想は実現されていないのか?

それは、現在の選挙のやり方に問題があるからだ。日本の選挙は、立候補者に過大な負担を求めるものだと思う。世界的に見て異常に高い供託金はもちろんだが、選挙運動そのものにも問題がたくさんある。

まず、現在の選挙が「露出度競争」だからということもあるが、非常にマンパワーを必要とする。要するに人手がかかる。また行政の支援が少ない(ポスター掲示は自治体によっては自治体がしてくれるが、それくらいではないか?)。またメディアも政治的に中立という建前があるからか選挙の内容そのものに深入りしない。選挙を側面支援する市民の取り組みも少ない。

そしてその結果として、選挙運動が候補者任せのものになってしまっている。そんなの当たり前じゃないか、と思うかもしれないが、そのために候補者は一から独力で選挙運動を組み立てる必要があり、その労力は非常に大きい。

例えば、選挙期間中のスケジュールが予め組まれていたら選挙運動はかなり楽になる(はず)。○日目と○日目には公開討論会、×日目と×日目には中央公民館での演説、△日目にはメディアの企画…というような共通メニューがあり、それ以外が自由行動の選挙運動である、という形になると候補者にとって楽で、有権者にとってもより候補者の主張を理解することができるようになるように思う。ただ、公開討論会のようなことを行政が主催すると問題も起こりうるので、理想的には第三者(市民団体等)が主催すべきかもしれない。

また、こういう「お膳立て」がなく独力で選挙運動を組み立てなければならず、マンパワーが必要であることの副産物として、選挙運動が後援会頼みになるということがある(候補者の演説のうまさなどがあまり関係なく、後援会の組織力がものをいうという意味)。世襲議員がなぜ多いのかということの理由の一つに、後援会に依存した選挙運動という背景があるのではないだろうか。

そういうわけで、私は選挙のやり方を次のように改めるべきだと思う。
  1. 公職選挙法の規定を見直し、時代と実態に合ったものに変える。「連呼行為」などこれまで原則的に禁止されていたのに抜け道的に常習されているものを本当に禁止する。
  2. 候補者が独力で選挙運動を一から組み立てていくのではなく、選挙運動に共通メニューを導入し、自然に政策論議が深まっていくような仕組みとする。
  3. 供託金も含め候補者の選挙にかかる負担を減らす。その代わり選挙期間を長くする(じっくりと政策論議する時間が必要である)。

これまでの選挙というものは「人生を賭ける」くらいでないと出られないものだった。そういう覚悟がある人が政治家になるならそれもよかったのかもしれない。しかし高すぎるハードルは新規参入者を減らし、世襲議員が増加するに至った。そして最近では、立候補者が足りず無投票当選が問題になっている。

今こそ、立候補へのハードルを下げるべき時が来ていると思う。しかも私は、それで政治家の質が下がるとは思わない。むしろ、これまで政治家という「賤業」を避けてきた優れた人たちが参入してくる可能性もあると考える。「どぶ板選挙」のような、人の尊厳が蔑ろにされるような仕事を、優れた頭脳と資質を持った人たちはしたくないものである。

「露出度競争」を辞め 、「どぶ板選挙」を終わらせて、立候補者に存分に政策論議を奮っていただく場になるよう、選挙を変えなくてはいけない。

「日本人には、まだまだ民主主義は早い。日本の選挙なんてこの程度さ」とシニカルになるなかれ。 「ピグマリオン効果」というものがある。要するに「優れた人として扱われれば、本当に優れた人になってしまう」というものである。先述の通り、私は日本人には欧米とは違うがそれなりに成熟した民主主義があると思っている。「大人の選挙制度」に変えれば、きっと内容が伴ってくると思う。

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