2019年1月14日月曜日

大坪白夢と面高散生

改めて、明けましておめでとうございます。

昨年は、「なぜ鹿児島には神代山陵が全てあるのか」というマイナーなテーマの連載に余暇の全てを使ったため、ごく普通の話題を書くことが全く出来ず、読者の皆様(あんまりいないとは思いますが)には大変退屈な思いをさせました。改めてお詫び申し上げます。

というわけで、今年は肩の凝らない内容の記事も書いていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

さて、大浦の亀ヶ丘の頂上、パラグライダー発進所の近くに、「大坪白夢詩碑」がひっそりと建っている。

大坪白夢(おおつぼ・はくむ)というのは、大浦町出身の詩人・俳人・歌人で、「きりしま事件」によって弾圧されたことで知られている。本名は「実夫」。明治42年生まれ、昭和58年歿。鹿児島日報、東京読売新聞社の記者として活躍したそうだ。

大迫 亘『薩摩の兵児大将—ボッケモン先生青春放浪記』という本には、この大坪白夢のことがちょっとだけ出てくる。著者大迫によれば、大坪白夢は「大浦に住み、焼酎を人生の伴侶として詩を書き、女を語り、酔うてはあたりかまわぬ迷惑をまきちらしている」そうだ。「そういう人いるよなー」と眼前に浮かぶような苦笑の描写である。

なぜこの本に大坪白夢が登場するのかというと、著者大迫は加世田で育った悪ガキ中の悪ガキだが、川辺中(現・川辺高校)時代にどういうわけか文学や芸術に興味を持ち、中学4年の時に地域の文学愛好者を集めて『鴻巣(くるす)』という同人雑誌を創刊するのである(鴻巣とは加世田の地名)。その創刊メンバーとして集まった一人が大浦の大坪白夢だった。

雑誌には他に、西村清、網屋則義、川越通夫などが名を連ね、新屋敷幸繁も寄稿した。大迫によれば、これは当時南薩で唯一の文芸誌だったそうである。

その創刊メンバーの中に、大坪白夢と共に「きりしま事件」でしょっぴかれることになる面高散生(おもだか・さんせい)がいた。面高散生も『薩摩の兵児大将』にたびたび登場し、不自由な体を松葉杖で支え、無頼を地でいく大迫とは対照的な文学上(?)の相棒として描かれている。『鴻巣』の創刊号を大迫と面高で売りさばく場面があるので、きっと雑誌運営の中心人物だったのだと思う。

さて、この「きりしま事件」とは何かというと、大坪白夢が昭和14年に創刊した同人雑誌『きりしま』が、昭和18年に治安維持法違反・不敬とされ、関係者が一斉検挙された事件である。

検挙されたのは、大坪白夢、瀬戸口武則、面高散生など(全貌は不明)。大坪と瀬戸口は6ヶ月もの勾留の末、証拠不十分のため不起訴処分となったが、面高散生は懲役2年・執行猶予4年の有罪判決を受けた。

3人は当時、鹿児島日報(現・南日本新聞)に務めており、大坪白夢は政治部記者、瀬戸口武則は社会部記者、面高散生は営業局員(販売員)であった。同人雑誌への弾圧の形を取っているものの、実際には新聞への脅しの意味で行われた検挙だった可能性が高い。

というのも、この「きりしま事件」で問題視された俳句というのは、次のようなものであった。
溶岩に苔古(ふ)り椿赤く咲く  大坪白夢
どうしてこの句が治安維持法違反・不敬になるのかにわかには納得しがたいが、彼らを検挙した特高(鹿児島県特別高等警察)によれば「南国のツバキの見事な赤色を賛美した句は「共産主義の肯定だ」」というのである。赤色を賛美したらダメというのはもちろん口実だろう。そもそも日本の国旗も白地に赤である。ツバキは日章旗のメタファーですとでも言えば許してもらえそうなものだが、そうは問屋は卸さなかった。

さらに、面高散生の次の句も問題視された。
われ等馬肉大いに喰ひ笠沙雨  面高散生
これもいったいぜんたい、どこが問題なのかよくわからない。しかし特高によれば、馬といえば軍馬であり、軍馬を殺して食べ、戦争を嘲笑していることを思わせる、というのだ。こうしたこじつけによって面高は有罪判決を受けた。

特高にとって同人雑誌『きりしま』は、「社会主義的リアリズムに依拠するプロレタリア俳句、詩歌等を発表した」ことが問題だった。私自身、この雑誌『きりしま』を実見したことはないのだが、問題視された上記2つの俳句を見ても、おそらく特高の検挙はいいがかり以上ものもではなかったであろうことは明白である。特高は、本当は俳句を問題視したのではなくて、面高散生や大坪白夢をしょっぴくために俳句を利用したのであった。

なお「きりしま事件」は、全国的に起こった「新興俳句弾圧事件」の一環と見なされている。

これは昭和15年の「京大俳句事件」を皮切りに行われた俳句誌・俳人への一連の弾圧事件である。この頃、特高は自由主義的な新興の俳句運動に目をつけ、昭和15年〜18年にかけて各地の俳人集団を一斉検挙した。

それぞれの検挙について詳しいことは知らないが、「きりしま事件」が上述のようにいいがかりにすぎないものであったことを踏まえれば、おそらく「新興俳句弾圧事件」全体が特高のデッチ挙げによる言論弾圧であったのだろう。直接に反戦や反体制を掲げなくても、大政翼賛に与しないだけでどんな目にあうかを知らしめたのだ。

そんな「きりしま事件」のことを密かに注目していたら、先日の「石蔵ブックカフェ」で立ち読みした『鹿児島評論』という昔の雑誌(何年号か忘れてしまった)に、なんと面高散生が捕まったときの日誌が掲載されているのを見つけた。

表題は「永吉町十三番地 日誌」。「永吉町十三番地」とは、鹿児島刑務所の所在地だ(現・鹿児島アリーナの場所)。この稿には「きりしま事件」のことは全く書いていないが、その際の日誌であることは明らかである。

こういう予期せぬ出会いがあるから古本漁りは面白い(買わなかったけど)。亀ヶ丘の上にある「大坪白夢詩碑」と、この『鹿児島評論』の記事、それから『薩摩の兵児大将』が頭の中で繋がって、意外な発見を一人で喜んでしまった。


【参考文献】
薩摩の兵児大将—ボッケモン先生青春放浪記』1978年、大迫 亘
『かごしま文学案内』1989年、鹿児島女子大学国語国文学会編
 ↓このWEBサイトも参考にしました。
「俳句」まで殺された時代―『共謀罪』の拡大解釈に不安はないのか

0 件のコメント:

コメントを投稿