2025年12月26日金曜日

鑑真は秋目に漂着したのか――秋目の謎(その5)

2020年から21年にかけて、「秋目の謎」という4本のシリーズ記事を書いた。

【参考】
豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

隠さなければならない繁栄——秋目の謎(その2) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/06/blog-post.html

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2021/01/blog-post_10.html

この記事、(その4)で「つづく」となっていて、実は完結していなかった。というのは、秋目最大の謎、鑑真について書く予定だったのだ。というわけで、重い腰を上げて4年越しで続きを書いてみたい。

さて、秋目といえば鑑真が来たところとして知られている。秋目には「鑑真記念館」が建てられ、展示自体はささやかであるが、毎年12月には唐招提寺から高僧(執事)を招いて「鑑真大和上の遺徳を偲ぶ集い」が開催されている。

また鑑真記念館の前には、唐招提寺にある鑑真和上坐像(国宝)を模刻した石像も安置されている(冒頭写真)。この像、現地には説明がなかったと思うが、浜西良太郎さんという香川県で石材業を営む人が寄贈したものである。鑑真が艱難辛苦を乗り越えて日本に来てくれたことに感銘を受けて寄贈されたと聞いている。

近年、市役所が中心になって開催されている冬のウォーキングイベントも「鑑真の道歩き」という。これなどは鑑真とは直接の関係はないながら、鑑真が上陸したことが地域のアイデンティティとして扱われている一例だ。

このように、秋目にとって鑑真が来航したことは大きな誇りである。では、鑑真は秋目を目指して来たのだろうか。それとも鑑真が秋目に来たのは漂着で、たまたまだったのだろうか。これはどちらであるかによって来航の意味が全然違う。しかし、これまでこのことについて詳細に考証した人はいないようである。

例外として、古代隼人の研究者中村明蔵さんは、『鑑真幻影—薩摩坊津・遣唐使船・肥前鹿瀬津』(南方新社)で、鑑真来航にまつわる通説を批判的に検証してその実相を解き明かしているが、その中で「鑑真の秋妻屋浦(=秋目)寄港は、その前後の状況からして当初から意図したものではなく、漂着であったとみられる(p.144)」とされている。

とはいえ、『鑑真幻影』の主な主張は、①坊津は遣唐使が発着する港であったというのは事実ではない、②鑑真が大宰府に行く前に肥前の鹿瀬津に寄港したことが近年史実として扱われ顕彰碑等が建立されているが史料の裏付けはない、という2点であり、秋目への鑑真来港が偶然であったかどうかはこれらの考証の副産物として簡単に書かれているに過ぎない。

他にも、岩波新書の東野治之『鑑真』では「[鑑真一行は]秋妻屋浦(いまの鹿児島県坊津町秋目浦)に漂着しました(p.69)」と断定している。他の鑑真研究本をつぶさに調べたわけではないが、鑑真が秋目に来港したのは漂着であるという理解が一般的だと思われ、地元の人もそう思っている人が多いと思う。なにしろ、秋目のような辺境の地をわざわざ目指してくるわけがないからだ。

しかし、鑑真来航を述べる史料を見てみると、そう簡単には言い切れない。

第1に、国家の正式な記録『続日本紀』では鑑真一行が漂着したとは書いていない。 第2に、鑑真来日を記録した『唐大和上東征伝』でも漂着とは明示されず、秋目に到着してからの旅がとてもスムーズである。

中村明蔵さんが肥前鹿瀬津への鑑真の寄港を「史料の裏付けはない」というのと同様、鑑真の秋目来航を漂着とすることも史料の裏付けはないのである。

というわけで具体的に見てみよう。まずは『続日本紀』の記述は次の通り(※1)。

<天平勝宝6年(754)1月16日条>(前略)入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂(こまろ)来帰す。唐僧鑑真・法進等八人、随ひて帰朝す。

鑑真がやってきた記事は、『続日本紀』ではたったこれだけのアッサリしたものである。「これでは漂着のことが省略されているだけではないか」と思うかもしれない。でもどうやらそうではないらしい。鑑真一行は遣唐使船4隻に分乗して日本に向かったのだが、鑑真が乗っていたのは第2船で、第3船と第4船は漂着したという記事が『続日本紀』に掲載されている。次の通りである。

<天平勝宝6年(754)1月17日条>大宰府奏すらく「入唐副使従四位上吉備朝臣真備が船、去年十二月七日を以て来たりて益久嶋(やくのしま=屋久島)に着きぬ」とまうす。是より後、益久嶋より進み発ちて漂蕩(ただよひ)て紀伊国牟漏埼(むろのさき)に着きぬ。(第3船)

<天平勝宝6年(754)4月18日条>大宰府言(もう)さく「入唐第四船判官正六位上布勢朝臣人主(ひとぬし)等、薩摩国石籬浦(いしがきうら)に来たりて泊(は)つ」ともうす。(第4船) 

この記事では、第3船が漂着したのは明らかである。第4船については「来泊」なので漂着とは書いていないが、目的地への到着ではなかったことは疑い得ない(なお引用は省略するが、遣唐使の正使である藤原清河が乗った第1船はベトナムに漂着し、結局帰国できなかった)。

このように鑑真一行が分乗した4つの船の書き方からは、鑑真の乗った第2船は漂着でなかったと判断できる。しかし疑り深い人は、他の来航の記述と比べてみないとわからないというかもしれない。そこで、『続日本紀』から、事故なく来航した記事と漂流・漂着した記事を探して比べてみた(一番下にある表1と表2を参照(※3))。

まず、文脈から判断して事故なく来航したと見られる記事は17件ある(表1)。うち7件は「来帰」と表現される。「来帰」は、現代の「帰国」と同じ意味らしく、「○○に来帰した」とは言わず単に「来帰す」という。鑑真の場合もこれにあたる。類似の表現として「帰朝」もある。具体的な場所に到着したことを表すのは「到る」「到泊」「着泊」「来着」などである。ただし、これらには必ずしも目的地に着いたのではない場合が含まれていると考えられる。

一方、漂流・漂着の場合だが、こちらの方が記事数が多く26件ある(表2)。問題なく来航した場合は特記されることがない一方で、漂流・漂着は事件なので記事になりがちだからだろう。最も多いのは「○○に漂着す」で10件、「〇〇に着く」が6件、他には「○○に到泊す」、「○○に来泊す」などだ。また、どこかへ着いたのではなく漂流するという表現が「漂蕩」・「船漂」・「漂流」・「風漂」である。

事故なく来航した場合と、漂着した場合で著しく違うのは、漂着の場合は必ず「○○に漂着した」と場所が明示されることである。これは考えてみれば当然だ。問題なく到着した場合は「帰国した」だけで済むが、漂着の場合は「どこそこに着いた」としなければ文意が通じない。

以上を踏まえると、鑑真らの分乗した3隻の記述ぶりは、第2船(鑑真乗船)=「来帰」、第3船=「漂蕩して○○に着く」、第4船=「○○に来泊す」だから、やはり第2船は正常な航路で秋目に到着したと判断してよさそうである。

次に、『唐大和上東征伝』(以下『東征伝』)での記述に移ろう。これは、鑑真の弟子で辛苦の航海をともにした思託(したく)が書いた『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』を元に、淡海三船(おうみの・みふね)が宝亀10年(779)に撰録したものである。これは鑑真没後まもなく作られているから信頼できる史料だ。また、淡海三船は『続日本紀』の該当箇所の執筆にも携わっているので、両書にはある程度共通の用字がなされていると期待できる。

『東征伝』では、鑑真一行が中国から出発した後を次のように述べられている(わかりやすいように日付毎に分かち書きした)。

11月15日 十五日壬子。四舟同じく発す。一の雉あり。第一舟の前を飛ぶ。仍りて矴(いかり)を下ろし留まる。
11月16日 十六日発す。
11月21日 廿一日戊午。第一・第二舟は同じく阿児奈波嶋(あこなは=沖縄)に到る。ここは多禰嶋(=種子島)の南西にあり。第三舟は昨夜すでに同処に泊す。
12月 6日 十二月六日、南風起きる。第一舟は石に著きて動かず。第二舟は多禰に向かい去る。
12月 7or13日 七日(にして)益救嶋(=屋久島)に至る。(※2)
12月18日 十八日、益救嶋を発す。
12月19日 十九日風雨大いに発(おこ)る。四方を知らず。午の時、浪の上に山頂を見る。
12月20日 廿日乙酉、午の時。第二舟は薩摩国阿多郡秋妻屋浦に着く。
12月26日 廿六日辛卯。延慶師、和上を引いて大宰府に入る。

まとめると、「11月15日に4隻は中国を出発し、第1・2・3船は沖縄に着いた。 第2船は種子島に向けて出発したが屋久島に到着。そして屋久島を出発してから風雨に遭ったが12月20日に薩摩国阿多郡秋妻屋(あきめや)浦に到着した」ということだ。なおこの「阿多郡秋妻屋浦」が現在の秋目であることは定説であり、他の候補地は見当たらない。 

この文章から漂流的な要素を探すと、まず「種子島に向けて出発したのに、着いたのは屋久島だった」という部分である。しかしこれは漂流したという感じはしない。遣唐使船は構造上正確な航路を進むことができないから、誤差の範囲だろう。問題はその後だ。屋久島を出発した後に「風雨大いに発(おこ)る」としている。これは暴風雨による漂流を意味しているのだろうか?

しかし『続日本紀』の場合では、漂流した場合は「漂蕩」・「船漂」・「風漂」などと書いていた。それらの単語がないということは、漂流していない可能性が高い。第2船は漂流したのではなく、「四方を知らず」つまり方向が分からなくなっただけと解せる。そして「浪の上に山頂が見えた(=水平線の向こうに山が見えた)」ので、正しい方向がわかり、秋妻屋浦に着くことができた、というのが素直な解釈であろう。

ここまでの記述ぶりからしても、秋目への寄港は漂着ではなかったと判断できるが、その後のスムーズさもそれを裏付ける。秋目からたったの6日で大宰府に到着しているのだ。山影が見えてから秋目に到着するまで丸一日もモタモタしていたのとは大違いである。

ただし、この航海は真冬に行われている。海上には強い北風が吹いていたに違いない。にもかかわらず北上するのだから、航海が難航するのは当然である。そして、そんな中で秋目ー大宰府間が6日間しかかかっていないのは、外洋ではなく沿岸航海だということを考えても異常にスムーズだ。秋目ー大宰府にはちゃんとしたルートが確立していたと考えるのが自然だ。

なお中村明蔵さんは、『鑑真幻影』で秋目ー大宰府の移動が陸路ではありえないことを論証し、秋目(またはその周辺)で機動性の高い船に乗り換えて大宰府に移動したのであろうと推察している。私もその見解に賛成である。

以上のように、『続日本紀』と『東征伝』の記述による限り、鑑真の秋目来航は漂流ではなかったと結論付けられる

ただし、秋目に至る航路が正式な遣唐使船の航路ではなかったこともまた明らかである。遣唐使は十数回派遣されているが、大宰府から朝鮮を通って大陸に渡るのが通常で、帰国の際にもそのルートが使われた。南西諸島を経由して帰国したのは鑑真らのみである。また、『東征伝』で「薩摩国阿多郡秋妻屋浦」という細かい地名が表示されているのも、秋目が正式ルートの港でなかったことを示唆する。実際、『東征伝』でも大宰府到着について「大宰府に入る」とだけあって、どこの港に到着したとは書いていない。正式ルートの場合はディテールを書く必要はないからだ。

このように、秋目は遣唐使船の通る正式ルートではなかったが、鑑真一行の秋目来航は漂流でもなかった。では、なぜ鑑真一行は秋目を目指したのだろうか。これが次なる謎である。

(つづく)

※1 『続日本紀』の引用は、岩波の「新日本古典文学大系」に基づく。引用にあたっては日付の干支は省略した。なお、『続日本紀』は伝統的に特殊な訓読を行う部分があるが、理解の便宜のために平明な訓読に改めた箇所がある。例えば「来帰す」ではなく、本来は「来帰(まうけ)り」と訓ずる。また通用の字体に改めた。鑒真→鑑真など。

※2 沖縄・屋久島間にたった1日しかかかっていないとすると不自然であることから、中村明蔵さんは「七日、益救嶋に至る」ではなく「七日にして益救嶋に至る」と解釈している。その場合、屋久島着が12月13日になる。

※3 以下の表1と表2は、『続日本紀』から、事故なく来航したと思われる記事、漂着・漂流の記事をそれぞれ抜き出したものである。ただし、これは筆写が目視によって抜き出して作成したものであるため、脱漏も多いと思われる。気になる方は本文に当たって確かめてほしい。なお、本記事を4年間も先延ばししたのは、この表の作成を億劫がっていたためだ。

表1 事故なく来航した『続日本紀』の記事
語句 文言 出典条
来帰 遣唐使従四位下多治比真人県守来帰 養老二年(七一八)十月庚辰【二十】
来帰 前年大使従五位上坂合部宿禰大分、亦随而来帰 養老二年(七一八)十二月甲戌【十五】
来帰 遣新羅使正五位下小野朝臣馬養等来帰 養老三年(七一九)二月己巳【十】
来帰 遣渤海使正六位上引田朝臣虫麻呂等来帰 天平二年(七三〇)八月辛亥【廿九】
到渤海界 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
来泊 新羅使船来泊長門国 天平十二年(七四〇)九月乙巳【廿一】
来帰 遣渤海郡使外従五位下大伴宿禰犬養等来帰 天平十二年(七四〇)十月戊午【甲寅朔五】
来帰 入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂来帰 天平勝宝六年(七五四)正月壬子【十六】
来着 来着益久嶋 天平勝宝六年(七五四)正月癸丑【十七】
帰朝 寄乗副使大伴宿禰古麻呂船帰朝 天平宝字七年巻(七六三)五月戊申【癸卯朔六】
遣唐使船到肥前国松浦郡合蚕田浦 宝亀七年(七七六)閏八月庚寅【乙酉朔六】
到肥前国松浦郡橘浦 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
到泊 知遣唐使判官滋野等乗船到泊 宝亀九年(七七八)十月庚子【廿八】
着泊 七月三日着泊揚州海陵県 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
来帰 率遣唐判官海上真人三狩等来帰 宝亀十年(七七九)七月丁丑【十】
到泊 遣唐使第三船到泊肥前国松浦郡橘浦 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
来著 入唐大使従四位上多治比真人広成等来著多禰嶋 天平六年(七三四)十一月丁丑【戊午朔二十】

表2 漂着・漂流の『続日本紀』の記事
語句 文言 出典条
漂着 漂着崑崙国 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
到著 到著出羽国 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
遂着等保知駕嶋色都嶋矣 天平十二年(七四〇)十一月戊子【五】
比着我岸 宝亀八年(七七七)五月庚申【十】
漂蕩 漂蕩海中 天平宝字七年(七六三)八月壬午【十二】
漂流 漂流十余日 天平宝字七年(七六三)十月乙亥【六】
風漂 忽被風漂 宝亀八年(七七七)二月壬寅【二十】
船漂 船漂溺死 宝亀八年(七七七)五月庚申【十】
漂蕩 漂蕩着紀伊国牟漏埼 天平勝宝六年(七五四)正月癸丑【十七】
来泊 来泊薩摩国石籬浦 天平勝宝六年(七五四)四月癸未【十八】
漂著 漂著賊洲 天平宝字元年(七五七)十二月壬子【九】
漂着 漂着対馬 天平宝字三年(七五九)十月辛亥【十八】
漂着 漂着日南 天平宝字七年巻(七六三)五月戊申【癸卯朔六】
平安到国 天平宝字七年(七六三)八月壬午【十二】
着隠岐国 天平宝字七年(七六三)十月乙亥【六】
漂著 漂著能登国 宝亀三年(七七二)九月戊戌【廿一】
漂着 漂着越前国江沼加賀二郡 宝亀九年(七七八)四月丙午【三十】
船著沙上 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
来泊 遣唐第四船来泊薩摩国甑嶋郡 宝亀九年(七七八)十一月壬子【十】
到泊 第二船到泊薩摩国出水郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
乗其艫而着甑嶋郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
乗其舳而着肥後国天草郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
漂着 以十三日亥時漂着肥後国天草郡西仲嶋 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
漂着 聖朝之使高麗朝臣殿嗣等失路漂着遠夷之境 宝亀十年(七七九)正月丙午【五】
漂著 著唐国南辺驩州 宝亀十年(七七九)二月乙亥【四】
漂着 并種種器物漂着海浜 宝亀十一年(七八〇)三月戊辰【三】

2025年2月15日土曜日

秋田県と鹿児島県の新体育館の計画を比較してみました

先日、こんな記事を書いた。

「年間365日賑わう」500億円の新体育館は必要なのか?|南薩日乗
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2025/02/365500.html

「新体育館500億円」は、観測気球(=意図的に報道機関にリークして世間の反応をうかがうこと)じゃないかと思っていたのだが、実際のことだったらしい。新聞報道によれば、県は新体育館の予算を488億円で県議会に示したとのことだ。当初予算が245億円だったので、ほぼ倍である。

ところで、じつは今秋田県でも県立体育館を新築する計画が動いている。これが鹿児島の状況とたいへん似ていて面白い。当初予算は254億円。PFI方式で建設する方式まで含め、ほぼ一緒だった。ところが資材高騰のあおりを受けて、こちらでも入札が不調(応札者がいないこと)になった。そこで予算を110億円増額して、364億円で再入札しているところである。

鹿児島では245億では足りないということで313億円に増額して入札が実施されたが、不調だった。それで488億円にするというわけである。当初予算と展開はまるで同じなのだが、金額は364億円と488億円と差がついた(当初予算は秋田県の方がやや大きかったくらいなのに!)。どうしてこんなに開きが出たのか?

そう思って秋田県の新体育館の整備計画をつぶさに読んでみたところ、鹿児島と比べることができてなかなか面白い。秋田県の計画がいいものなのかどうか、地元民ではないので判断はできないが、両県の計画を比較してみよう。

【秋田県】新県立体育館整備基本計画を策定しました
https://www.pref.akita.lg.jp/pages/archive/77435

【鹿児島県】スポーツ・コンベンションセンター基本構想の策定について
https://www.pref.kagoshima.jp/ac12/supo-tukonnbensyonsenta-kihonkousousakutei.html

まず、似ている点から列挙すると次の通りである。

  • 現体育館の老朽化のための建て替え計画であること。
  • 全国大会だけでなくプロスポーツを誘致する計画であり、そのために多くの観客席を設けること。(秋田:6000席、鹿児島:8000席 ← 予算増額を受け7000席に縮小との報道)
  • メインアリーナとサブアリーナの2面構成であること。
  • 整備にPFI方式を用いること(→ 鹿児島では予算の関係で断念との報道)

次に、施設として異なる主な点を挙げると次のとおりである。

  • 秋田県の新体育館には、武道館が併設されない。
  • 秋田県の新体育館には、現在は別に設置されているスポーツ科学センターを包含する。
  • 秋田県は現県体育館のある運動公園内での建て替えである。

このように、細かい点では違いがあるが、ほぼ同じなのは一目瞭然である。何しろ、「全国大会の実施」「プロスポーツの誘致」という目指しているものがほぼ一緒だからだ。ただ、メインアリーナの構成は秋田県の方が観客席総数こそ少ないとはいえ、よりプロスポーツに適したものになっている(バスケコートで2面+すり鉢状の観客席。鹿児島の場合は4面)。

ちなみに、鹿児島の県体育館は予算を抑えるために観客席を8000席以上から7000席に減らすという報道があったが、プロスポーツを誘致するための重要な基準は観客席の数やその様態(背もたれがあるかなど)である。これが全国大会の場合と最も違うところである。全国大会は盤面はいるが観客席はそれほどいらない(2000席が基準)。ところがプロスポーツは盤面は中心の1面だけでいいが、観客席が多くなくてはいけない。鹿児島県が当初8000席以上としていたのは、バスケットボールの国際大会の基準を満たすためのものであった。なお、プロバスケリーグ(Bリーグ)の現在の座席基準は5000席以上なのだが、これが将来的には8000席に引き上げられるそうだ。

つまり、全国大会とプロスポーツは似ているが施設に求められる基準が全く異なり、この両方を満たすために施設が大型化して予算が膨れ上がるのである。秋田県の計画では、メインアリーナをバスケ2面のみに留めて観客席数を確保するとともに、バスケの国際大会の誘致は断念することでアリーナの大きさを抑えている。この観点からは、鹿児島の体育館が7000席に減らすというのはちょっと中途半端だ。ちなみに秋田の延べ床面積は1.7万㎡、鹿児島は3万㎡となっている。武道館の部分があるとはいえ、鹿児島の計画は過大ではないだろうか。正直、秋田県の体育館と同じ規模でいいような気がする。

それから、秋田県の計画では、冒頭に人口予測県の財政状況が述べられている。ちなみに秋田県の人口は鹿児島県の約2/3である(財政状況は単純には比べられない)。県大会などは人口減少すると規模が小さくなるが全国大会は単純には小さくならないので(出場数が変わらない)、人口減少が予測されるからといって小さい体育館で済むというわけではないのだが、それでも冒頭に人口予測や財政状況が述べられることは誠実さを感じた。

また、二つの施設のコンセプトの違いにも目が引かれた。秋田県の方にはスローガンのようなものはないが、基本方針の冒頭に掲げられているのが「「秋田の元気を創造する拠点」として、子供たちに夢を与え、選手と観客が躍動し、賑わいづくりにも貢献する施設とします」という言葉。「子供」「選手」「観客」「賑わい」という、よくも悪くも全方位に気を遣った言葉である。面白味はないが、手堅い「行政」を感じる。

一方、鹿児島県の新体育館はスローガンが乱立(!?)しており、当初は「アスリートファースト」が強調されたが、ドルフィンポート跡に場所が選定されてからは「年間365日賑わう拠点」が喧伝されている。ちなみに計画上では「スポーツ振興の拠点としての機能に加え、コンサート・イベントなど多目的利用による交流拠点機能があることが望ましい」とされ、これに応じて名称が「スポーツ・コンベンション・センター」となった。事実上、「アスリートファースト」から、「多目的利用」に舵が切られた格好だ。どことなくフワフワしている。

ちなみに、コンサートにはやはり観客席数が重要になるが、イベント(コンベンション)にはフロアの広さが重要である。このように性質が異なるものが並列されているのはなぜなのだろう。ただし、秋田県の体育館でも似たようなことが書かれており、コンセプトの字面はともかく、考えていることはほぼ同じのようである。

そして最後に立地だが、秋田の体育館は先述の通り現県体育館のある運動公園(八橋運動公園)の内での建て替えである。ここは県庁や市役所、県図書館や児童センターに隣接しており、秋田駅から3.3km、周辺には官有の駐車場だけで1000台以上あり、秋田駅西口-県立体育館前 で平日に約100本のバスがあるという。ここは都市公園のため、整備に国の交付金も受け取れる(21億円)。まず文句ない立地だろう。

一方、ドルフィンポート跡地は、鹿児島中央駅からの距離は約2㎞であるが、本港区こそ近いものの公共施設としては孤立しているので、新たに公共交通を整備する必要が大きい。そして駐車場は、住吉町15番街区に500台を整備し、全体で1000~900台分の駐車場を確保する計画としている。それが実現できたとしても、あの立地にそれだけの駐車場ができて、ただでさえひどい交通渋滞がさらに悪化すると思うとうんざりする。

隣の芝は青い、という言葉があるので、秋田の計画の方がいいとも言い切れないが(大同小異ではあると思う)、こうして比較してみると、どうも鹿児島県の体育館は全体的に過大だという感が否めない。それは、メインアリーナがバスケコートで4面(81m×41m=3321㎡)+観客席7000席という、プロスポーツと全国大会という似て非なるものの両方を大規模に実施するための規模となっているためだ。ちなみに秋田のメインアリーナはバスケコート2面(59m×45m)で、八角形なので面積が約2500㎡。鹿児島はフロアだけでも1.3倍の面積がある。

塩田知事はこれまでの報道機関への取材で、競技面積といった規模や機能の変更は「基本的に困難」としているが、秋田の体育館と比べてみると、むしろ規模縮小の余地が大きい計画のような気がしてならない。どうして「基本的に困難」なのか、踏み込んだ説明が必要だ。

これまで積み上げてきた議論は尊重すべきだと思うが、予算という大前提が崩れた今、秋田県を見習って、人口予測と県の財政状況から再度その規模を見直した方がいい。少なくとも、プロスポーツと全国大会の二兎を追うのをやめれば予算は縮小する。

そもそも県民利用が基本の県体育館でなぜプロスポーツの開催が求められているかというと、部活の大会だけだと利用料収入が少ないからという(減免措置があるからだろう)。だが、プロスポーツに対応するためには予算が大きくなる。

全国大会に求められる施設規模は一緒だから、同じような規模の秋田県体育館が364億円、鹿児島県の体育館が488億円ということは、鹿児島のプラス124億円はプロスポーツ対応費と見なせる。しかも秋田の体育館もプロスポーツの誘致は行われるのだ。124億円がペイするだけのプロスポーツ利用の料金収入と経済効果があるのか、全く不明という他ない。本末転倒にならないとよいが。

私は決してプロスポーツなど誘致しなくてよいといっているわけではない。ただ、それに見合った収入や経済効果が見込めるのかを示す責任が県にはあるということだ。

県議会での突っ込んだ議論を期待したい。

【追記】
記事を書いた後で、香川県の新体育館も建設中であることを知った。こちらもメインアリーナとサブアリーナがあり、メインの客席数は5000席超。武道館併設で延べ床面積は約3万㎡。着工は2022年で2024年度中に完成予定なので、資材高騰の影響がまだ小さい時期とはいえ、工事費は202億円だそうだ。やはり鹿児島の新体育館の予算が大きいのは間違いない。

2025年2月7日金曜日

「年間365日賑わう」500億円の新体育館は必要なのか?

先日の南日本新聞で、鹿児島県が建設しようとしている新体育館(スポーツ・コンベンションセンター)の予算が大幅に増え、500億円が見込まれることが報道された。

まず言っておくと、これまで私は、新体育館についてそれほど批判的ではなかった。建設予定地のドルフィンポート(DP)跡地にも特に思い入れはないし、それ以上に場所の決定が民主的な手続きで慎重に行われたと思っているからだ。それについてはかつて記事に書いたことがある。

【参考】後戻りできなくなる決定が、今この瞬間にも行われているのかもしれない
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2023/10/blog-post.html

しかしこの500億円のニュースを聞いて、ちょっと立ち止まった方がいいと思うようになった。

なにしろ、500億円は当初の計画とあまりに差がありすぎる。313億円で入札が不調(入札者がいなかった)だったため予算を増やすということだったが、そもそも当初の計画では約205億円〜約245億円と見積もられていた。物価変動の影響といっても、2倍以上というのはさすがにおかしい。

民間企業だったら、立ち止まって考えてみる必要がある状況だと思われる。

県が、新体育館に必要な面積や設備を丁寧に積み上げてきたのは理解できる。実際、新体育館の場所や要件などを議論した「総合体育館基本構想検討委員会」の議論は、今見ても丁寧で緻密だ(令和2年10月~令和4年2月)。

【参考】総合体育館基本構想検討委員会|鹿児島県
https://www.pref.kagoshima.jp/ac12/sougoutaiikukannkihonnkousoukenntouiinnkai.html

だが、県の資料を見ていてちょっと引っかかるのが、場所がDP跡地に決まった後である。

もともと、DP跡地を含む⿅児島港本港区エリアには「グランドデザイン」という再開発のコンセプトがあった。そこで謳われていたのが「年間365日、賑わう観光拠点」であった。

そして新体育館の構想は、「本港区エリアまちづくりの検討の方向性とも合致している」とされた。この見解がどのように導かれたものだったのかがわからない。本港区に新体育館が作られたら、民間主導の再開発を目指すグランドデザインとは全く違う性格の場所になるのは明らかだが、なぜ方向性が合致していると言い切ったのか。結論ありきだったとしか思えない。「本港区エリアまちづくりのグランドデザインは白紙に戻します」という方がまだ理解できた。

DP跡に決定するまでのプロセスは極めて丁寧なのだが、決まった後は妙になし崩し的なのだ。

そして、元々の「年間365日、賑わう拠点」はいつの間にか新体育館のコンセプトになってしまった(ただし「スポーツ・コンベンションセンター基本構想」には明確には位置づけられていない!)。「総合体育館基本構想検討委員会」で議論してきた新体育館の構想はそのままに、それに「年間365日、賑わう拠点」とレッテルを張りなおしたのが現在のスポーツ・コンベンションセンターだ。あの丁寧な議論は一体なんだったのか。検討委員会では、「年間365日賑わう体育館」を作るためではなく、スポーツ大会を行うための体育館を実直に議論していたというのに(コンセプトは「アスリート・ファースト」だ)。

意外なのは、この構想を天文館の業界団体(鹿児島市商店街連盟、WeLove天文館協議会、鹿児島市商店街連盟、天文館商店街振興組合連合会)が歓迎していることだ。

DP跡が「観光拠点」ならば天文館との棲み分けができたと思う。しかし「年間365日、賑わう拠点」が仮にDP跡にできたとすると、天文館が寂れるのは必定だ。人出の絶対量が増えるわけではないし、人は簡単には回遊しないからだ。それは、天文館でも表通りから1本裏通りに入れば、10メートルと離れていないのに歩行者の量は10分の1以下になるのでわかると思う。DP跡と天文館で人が回遊するというのは、絵に描いた餅である。回遊どころか、表通りから10メートル離れたところに人を呼ぶことすら難しいのが現実だ。

そもそも、県の主導で「年間365日、賑わう拠点」が本当にできるのなら、最初から天文館を賑わわせた方がいい。そっちの方が喜ぶ人は多い。しかし私自身、客商売をしていて思うが、賑わう場所にするというのは本当に大変である。様々な創意工夫をして、しかもいろいろな偶然にも恵まれてようやくにぎわうのが普通である。それが県の公共事業で実現できるとは信じがたい。このような構想を天文館の業界団体が支持しているのはなぜなのか理解しかねるが、建設に伴う好況を期待しているのかもしれない。

それはともかく、元来は体育館とは全く無関係のコンセプトであった「年間365日、賑わう拠点」が新体育館に安易にスライドされたことで、計画全体が胡散臭いものになったような気がする。しかも、予算が当初見込みの2倍以上となったことは、さらに計画の妥当性を疑わせることとなった。

新体育館が不要だとは思わないが、多くの県民の生活に直結する施設でないのは誰しも同意するだろう。現在の県体育館では全国大会やプロスポーツの試合が開催できないことも、どれだけ不利益があるのかピンとこない(そもそも現体育館でも全国規模の大会はそれなりに開催されている)。子供の数が減り続けて運動部の部活動は下火になり、部活動は地域移行の方向で、大会規模は縮小が予想されている。そんな時に500億円もかけて立派な体育館を作る必要があるのか、はなはだ疑問だ。

むしろ新体育館は、予算を踏まえて必要最低限に縮小させた方がいいのではないか。新体育館の延べ床面積は、現体育館の約5倍にする計画だ。現体育館には狭隘であるという課題があり、これを拡大させるのはわかるものの、約5倍にしてプロスポーツや国際大会にまで対応させる意味はあるのか。

そして鹿児島県自身が「一等地」と位置付けるDP跡に、たいして経済活動が見込めない体育館を作る必要があるのか。むしろ郊外に建設し、そこまでの交通網を整備した方が安上がりになり、地域住民の足にもなるのではないか。もっと言うと、旧松元町体育館(あいハウジングアリーナ松元)や旧吉田町体育館(吉田文化体育センター)は現県体育館より大きいので、新設よりはこういう施設を改修して、市街地と結ぶ交通網を充実させた方がずっと暮らしに役立つと思う。

これまでの議論の積み重ねをひっくり返すようなことは、行政の運営においてはリスキーかもしれない。だが予算が2倍以上に膨れ上がるというのは、これまでの議論の前提が間違っていたということを意味する。こういう時に立ち止まれるかどうかが、知事の度量、あるいは議会の矜持を示すのではないか。

なし崩し的に予算を2倍にし、当初の議論にはなかった(それどころか現今の基本構想にも含まれていない)「年間365日、賑わう拠点」としての新体育館を天文館の振興のために建設することになれば、県政に汚点を残すことになるだろう。

ところで、急に話が変わるようだが、昨年夏の台風・大雨で、県道20号の大坂の峠が一車線崩落したままになっている。県道20号は、南さつまと鹿児島市内を結ぶ大動脈だ。そんな重要な道路が、半年も一車線崩落したままとはどういうことなのだろう。この状態で500億円の新体育館が必要だとは首肯しかねる。

何もないところを500億円かけて賑わわすより、現に人が生活しているところを大事にしてもらいたいものである。

2024年11月30日土曜日

「文芸誌」の時代

私が運営しているお店「books & cafe そらまど」では、このたび文芸誌『窻(まど)』を創刊した。

寄稿されたエッセイや短編小説による小冊子である。

【参考】文芸誌『窻』
https://sites.google.com/view/soramado/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E6%96%87%E8%8A%B8%E8%AA%8C%E7%AA%BB

↓ネットでも売っています。
https://books-soramado.stores.jp/items/67247cd7c3d7cd0af49372a4

今後、年に2回ずつ発行していく予定なので、ぜひ投稿していただけたらと思う。

ところで、文芸誌を作るというアイデアは、実はかなり前から抱いていた。それを最初に考えたのは、我が家(築100年以上の古民家である)の物置から、昔の文集を発掘した時だ。

そのほとんどは小学校の文集だが、他にもいろいろあった。例えば、冒頭の写真は昭和37年の『ふるさと』第15集という、「久保青年団」がつくっていた文集である。今から62年前のものだ。

これは、いわゆる「ガリ版文芸誌」である。昔は、こういうのをいろんなところで作っていた。だが青年団までが作っていたとは驚きである。しかも15集目! 1年に1冊作っていたようなので、単純計算では創刊が昭和22年ということになる。

その中に、私の伯母が書いた文章があった(青年団には女性も所属しているようだ)。こんな具合である。

職についてもうすぐ一年すぎようとしている自分自身を考えて見る あの学校を卒業した頃 職に就いてよしやるぞと思った頃のはりきった気持 あれはどこに行ってしまったのだろう だらけて若々しさがなくなり横着になって毎日をあきらめと惰性で過す日の多くなったこの頃 残念なものである。 

表現にはちょっと時代を感じるが、今の若い人がSNSで書いているようなことと、内容には大差がない。つまり普遍的だ。だから素晴らしい、というのではないが、こういう素直な文章は決して陳腐にはならない。「意外と、今読んでもおもしろいじゃん」というのが、この文集の第一印象である。

ところで、青年団の文集でタイトルが『ふるさと』なのが不思議だと思わないだろうか。ずっと地元にいる人が「ふるさと」という言葉を使うことはほぼないからだ。

実はこの文集、都会に出て行った人と地元に残っている人とのつながりを保つための機関紙だったようなのだ。つまり発行元の「久保青年団」には、都会に出て行った人も所属していて、この文集を通じて近況報告をしているのである。誰が在郷者で誰が在京者なのかはいちいち表示しておらず、文面からはわからない人もいるが、3分の1くらいは在京者が寄稿しているようである。

SNSやメールはおろか、電話もロクになかった頃(←電話加入権というのが高くて、なかなか電話を引くことができなかった)、個別の手紙のやりとりで近況報告するよりも、こういう文集を作ることはすごく意味があったと思う。

今の時代では、こんな文集はあまりにも手間がかかり迂遠でもある。が、SNSなんて見ているようで誰も見ていない。そしてSNSに発した声は、線香花火のようにすぐに消えてしまう。むしろこの『ふるさと』の方が、ずっと健全で、しかも後の世に残るものになっている。今の時代はなんでも軽薄短小になった…なんてことをいうと年寄りじみているが、こと言葉だけは、その重みがかつてないほど軽くなっていることは間違いない。

こちらは、『大浦の子特輯号 創立八十周年記念誌』。

これは、先ほどの『ふるさと』より4年前の1958年(昭和33年)に発行されたもの。この年が大浦小学校創立80周年であったことから、『大浦の子』の特別版として製作されたものである(前半は、80年の歴史を振り返っており文集ではない)。

『大浦の子』とは、毎年作られている大浦小学校の文集であるが(今でも作られている!)、この頃の児童数は1200人もいたので、全員の作文が載っているのではなく、かなり厳選されたラインナップである。実は、大浦小学校は当時ものすごく作文教育が盛んで、作文コンクールでの上位常連校だったらしい。

そもそも、大浦小学校ならずとも当時は作文教育が盛んだった。当時、「綴方教育」(または「綴方生活運動」「綴方教室」)というものが盛んに行われており、その影響は『大浦の子』にも色濃く感じられる。「綴方(つづりかた)教育」とは、「現実をありのままに書くことで生活を見つめなおす」というような、作文と生活改善運動が一体になったような作文指導運動である。

当時の作文指導要領などを読んでいると、(1)それまでの文芸では顧みられていなかった、庶民の生活をありのままに書くというスタイルが強調されており、(2)特に仕事や生活の具体的かつ詳細な記述を旨とし、(3)文飾や文学的な表現よりも、正確な表現が好まれ(「ほんとうのことを書く」とわざわざ書いていたりする)、(4)一般的な作文でなく、観察記録のようなものに取り組むことも勧められている、といった特徴がある。これこそまさに「綴方教育」の指導である。

この頃の学校の作文指導や地域の作文コンクールでは「綴方教育」的な評価が支配的なのだが、面白いのは、一方でこれに反発していたらしき国語の先生も一定程度いたことだ。彼らは「ありのまま」や「正確な表現」に物足りなさを感じていたようだ。そして、「綴方教育」が生活改善運動を志向していたことの帰結として、作文の最後は「私も頑張って偉い人になります」とか「次はもっと上手にできるように工夫します」とか「これからも勉強をがんばりたい」のような、前向きではあるが妙に優等生的な紋切り型になりがちだったことにも、不満を抱いていたらしき形跡がある(ちなみに、この影響は今の作文にも色濃い)。

そこで彼らは、敢えて最後までダメな人間を描いたり、教訓的なことをわざと避けていたようである。要するに、彼らは文学の保守派であり、作文に「文芸」を求めていたのだろう。そういう先生は、自ら俳句や詩をつくったり、創作童話を書いたりし、児童生徒にもそれを勧めていたようだ。

このように、「綴方教育」の流れに「文芸」派がささやかな抵抗をしていたのが、当時の作文指導の世界だったと思う。作文指導法にそういう派閥(?)があったというだけで、いかに当時は作文が盛んに書かれたかがわかると思う。

なにしろ、昭和30年代の農村というのは、本当にモノがない。当時は県費負担教職員の制度もなく(当時の教員は県職員ではなく市町村職員!)、講堂や体育館すらない時代である。教室だって足りない。当然、ロクな教材があるはずもない。結果として、作文くらいしか力を入れることができないし、子供の方としても、画材もなければ楽器もないので、自己表現をしたいと思ったら紙と鉛筆だけでできる作文しかないのだ。

つまり、こういうと身も蓋もないが、昭和30~40年代の作文・文集・文芸誌ブームというのは、それくらいしかできなかったから盛んになった、という面が非常に大きいのだろう。

翻って現代を見ると、自己表現の機会や方法が溢れており、インターネットのおかげで、その発表の場も、人と繋がれる場も掃いて捨てるほどある。いまさら文芸誌なんて流行らない。実際、かつては市役所や公共図書館が「市民文芸誌」を盛んに作っていたが、今ではどれだけ残っているだろう。民間で作られていた文芸誌も廃刊・休刊ばかりである。

だが、SNSに象徴されるように、なんでもすごいスピードで過ぎ去り、そこに虚しさを感じる世の中だからこそ、「文芸誌」という時代遅れのメディアが今かえって心地良いように思う。「文芸誌」で発表するとか、「文芸誌」でつながるなんて、一昔前の「生涯学習講座」みたいでなんともしみったれているようだが、文章を持ち寄って印刷し本の形にするという形態は普遍的なものに違いない。

ちなみに、先ほど引用した伯母の文章は、このように終わっている。

あゝとにかく最初の頃思った純な気持を失わないようにしよう「どんな苦労苦難でもどんと来い」

これはまさに「綴方教育」的な締め方である。でもだからといってこれがうわべだけの言葉であるとは限らない。その後の伯母の人生を思うと、この言葉には本当に決意が秘められているように見える。

でも、その内容がよいとか悪いとか、そういうことはもはやどうでもよい。それより大事なのは、確かにここに伯母の人生がごく一部でも切り取られ、それが今に残っていることなのだ。これが、どんどん失われていくインターネット上の情報との最大の違いである。

今から62年後、きっとこのブログは失われているだろう。20年後でもかなり怪しい。だが、『窻』はもしかしたらどこかで残っているかもしれない。残す意味があるのかって? 残っていなくては、意味があるのかどうかも判断できないではないか。ずっと残る可能性があるということそのものが、なんでもすごいスピードで「消費」されていく世の中への、ちょっとした異議申し立てなのだ。

2024年11月19日火曜日

法規制がかえってゴミの違法な処理を助長する問題について

夏の台風で柑橘の苗木が50本ほど倒れ、その復旧のために小型の運搬車で作業をしていたら、ゴムクローラーがちぎれてしまった。

微妙に傾斜しているところだったのでゴムクローラーの交換には苦労したが、なんとか交換できたので一安心である。

というわけで、今、手元には2本の廃ゴムクローラーがある。これを処分したいのだが、じつはゴムクローラーはなかなか処分ができなくなっている。

「埋め立てごみじゃないの?」と思うだろうが(実際、一昔前までは埋め立てごみとして簡単に処分していた)、これは今単純な埋め立てごみではないらしい。

というのは、現代では最終処分場を長持ちさせるため、埋め立て処分をする前に細かく砕く処理が必要になり、ゴムクローラーはこの処理に手間がかかる。中心にコマという金属の部品があって、これがあるためにシュレッダーでは砕けない(らしい)からだ。つまり埋め立てごみにするためにも、わざわざコマを取り除くという処理が必要で、処分費用がけっこうかかるのだ。1㎏いくらで処分費用がかかり、ゴムクローラーはかなりの重量物であるため、運搬費用もかかる。

そんなわけで、私の手元にある廃ゴムクローラーは、適正に処分するには1万円弱ほどかかるようである。新品が4万円弱だから、これはかなり高額な処分費用だ。

それでもまあ、1万円払って業者にお願いしたらいいのだが、こういう有り難くない廃棄物(処分に手間がかかるだけでクズ鉄のように市場性がない)は、業者も積極的に取り扱っていないらしく、そもそも処分してくれる業者が少ない。

だから廃ゴムクローラーは、とりあえず倉庫の隅や空き地にでも放置しておく、ということになりがちだ。実際、自分もそうしてしまっている。

このように、ゴミ処理の場合は、「適正処分を推進する取り組みが、逆に処分を阻害する。場合によっては違法投棄を助長する」ということはよくある。

わかりやすいのが、家電リサイクル法のいわゆる「対象4品目」。すなわち、テレビ・冷蔵庫・洗濯機・エアコンだ。これらは法律に則った処分が義務づけられており、その処分費用も決まっている。これは大量に廃棄される家電を適正に処分し、リサイクルを推進するための法律なのだが、現実は、そうなっていない。

田舎道を走っていると、こんな風に冷蔵庫や洗濯機が山と積まれた場所を時々見ないだろうか。

これは何かというと、廃棄物回収業者が違法に回収した家電製品の山なのである。

廃棄物回収業者は、「処分に困っている冷蔵庫などございましたらご相談ください」と言って軽トラで回る。そういう業者に回収を依頼すると「冷蔵庫の処分費用は法律で決まっていて、5000円です」などといって、法律に則った処分費用を請求する。もちろんここまでは何の問題もない(※)。

ところが法律に則っていないのは、「家電リサイクル券」というものを出さないことである。これは、適正処分のためのトレーサビリティのための書類なのだが、処分する側としてはこの書類があろうがなかろうが、冷蔵庫が処分できさえすればいいので、ちょっとは気にしたとしても業者を追求することはない。

ところがこうした業者は、回収した冷蔵庫を適正に処分する気はさらさらなく、野外に積んでおくだけだ。それで5000円が丸儲けになるわけだ。そうしてできた家電の山が、日本の田舎には大量に存在していると考えられる。経済産業省のWEBサイトでもこのように注意が促されている。


このように、経産省では無許可の業者を非難しているが、しかし真の問題は、「無許可で家電を回収すればもうかる」という状態をつくっていることなのではないかと思う。

そのために、家電リサイクル法が出来る前よりも家電の不正な処分・違法投棄はずっと増えているのではないだろうか。適正な処分・リサイクルを推進するための法律のせいで、不正な処分・違法投棄が増えるというのは、政策の失敗と言われてもしょうがない。

後知恵で言えば、廃棄の時に個人から処分費用を徴収するのではなくて、メーカーから徴収するか、あるいは税金の補填で適正処分をするようにすれば、このような問題は起こらなかった。

もうひとつ、廃棄物といば、悪法として名高い(!?)「容器包装リサイクル法」もある。これは市区町村のゴミ収集において、「容器包装」については分別回収しなくてはならない、という法律だ。

「容器包装」、特にプラスチックゴミは非常に種類が多く、ポリプロピレン・ポリエチレンなどが混在し、またシールが貼ってあったり汚れていたりする。これではリサイクルが難しく、市区町村ではこれを分別回収してはいるものの、原材料としてリサイクルしている場合はほとんど存在しないと思われる。ではどうしているかというと、廃プラゴミとして輸出して処分しているのである。このせいで、日本は世界第3位の廃プラ輸出大国であり、世界で取引される廃プラの一割程度を日本が占めているという。

「容器包装リサイクル法」のおかげで日本が世界第3位の廃プラ輸出大国になるとは皮肉が効いているではないか。

「容器包装リサイクル法」は、一見、分別回収を義務づけるしごく当然の内容だが、問題は(1)「容器包装」というくくりが存在し、合理的な分別回収(材質毎の回収など)をむしろ阻害していること、(2)その結果、せっかく分別回収しているにもかかわらず廃プラが結果的にリサイクルされずに輸出されたり燃料として燃やされたりしていること、(3)回収やリサイクルが市区町村まかせであるため、メーカーに容器包装を減らすインセンティブがあまりないこと、である(正確にはメーカーにはリサイクルのための費用の一部を払う義務があるが、徹底できていない)。

もちろん、こうした問題は環境省も認識してはいるのだが、どうも合理的な法体系に改正するには至っていないようである。

世界にはゴミの処分が適正にできていない国や地域が多いことを考えれば、日本は割合にゴミを適正処分している方だと思うし、住民の不法投棄(ポイ捨て)もそれほど多くないと思う。

しかし組織的な不法投棄や、違法な処分はそれなりに目に付くレベルであるのが日本のゴミ処理でもある。しかもそれを、抜け道だらけの法規制がむしろ助長しているように感じる。例えばゴムクローラーの場合は、ただ埋め立てゴミにしていた時代の方がずっと適正に処分されていたような気がして仕方がない。

環境省や経済産業省は、決してバカではない。だから、業界団体や自治体から情報は集まってきており、ゴミの処分に様々な問題があることは認識はしていると思う。でも、実際に廃ゴムクローラーの処分に困っている人がどんな状況なのか、正確には理解していないと思う。彼らの認識があくまで統計上のものだからだ。

今は政府にも地方自治体にも人がいないから、なんでも統計だけを見て政策を決めてしまう。政策を検討する上でもちろん統計は大事だが、個別の事例を追求していくのもそれと同時に大事なことだ。廃棄物処理の政策を担っている人には、ゴミ処理の現場がどうなっているか、足を運んで見てもらえたらと思っている。

水戸黄門・暴れん坊将軍・遠山の金さんには、「民の暮らしを直接見る為政者」という共通点がある。これはフィクションだが、かつての日本の「現場主義」がこれらの物語の骨格を支えていたと思う。それは「現場を視てみろ、書類の上とは全然違うんだから」という態度だ。

今の時代、こういうフィクションが見当たらないのは「現場主義」が衰退したからでないといいのだが…。まさか経産省や環境省は「現場を見なくてもSNSを見ればだいたい分かります」と思っていないですよね?

※本来、無許可でテレビ・冷蔵庫・洗濯機・エアコンを処分することはできないので、引き受けた時点で法に違反しているのかもしれない。

2024年9月21日土曜日

カラーミーショップの度重なる値上げと二つの日本経済

 私は、農産物のほとんどを自前のネットショップ「南薩の田舎暮らし」で売っている。

そのネットショップは「カラーミーショップ」というサービスを使っているのだが、今般このサービスの利用料が大幅値上げされた。

なんでも値上げされる世の中だから、多少の値上げはしょうがない。というか、私自身、農産物をけっこう値上げしてきた。例えば、今年はお米5㎏を3,200円で売ったが、2015年には2,000円だった。約10年で1.5倍くらいにしているわけだ。

ところが、カラーミーの値上げはこんなもんではない。↓これは、2013年以降の、私のカラーミーへの支払い履歴である。

私は、カラーミーの安価なプランである「エコノミープラン」で契約してきた。2013年にはこの利用料が年間10,500円。この価格が、消費増税の影響はあったが最近まで維持されてきた。

ところが、これが2022年に突如3倍の30,800円に値上げされた。料金を3倍にするというのは、価格改定としてはちょっと異常だ。例えば、ダンボールなんかも値上げされているが、上げ幅はせいぜい10%で、しかも営業マンがわざわざ説明に回ってきたりする。いきなり3倍には面食らった(ただし、この時の値上げはサービスの付加も伴っている。常時SSL、メルマガ機能など)。

ところが!! 今年はさらにこれが2倍になり、元値の約6倍の59,400円になったのである。使っている機能はほぼ変わらないにもかかわらずだ。

これは、「エコノミープラン」の提供が終了になり、これまでの中位プランだった「スタンダードプラン」に自動的に移行されたことによる。一片の通知で料金が3倍になったのも異常だが、そのたった2年後にプランの自動移行でさらに2倍に値上げするというのは、ちょっと普通の精神ではできないことだと思う。

「エコノミープラン」の提供を終了したのはなぜかというと、カラーミーの説明では、

昨今の円安に伴う諸経費高騰・インフラコストの上昇などにより、サービス提供のためのコスト増大が著しく、従来の価格を維持することが困難な状況が続いております。(2024年8月1日【重要】エコノミープラン・スモールプランの提供終了に関するご案内より)

となっている。 だが、これは本当か。カラーミーを運営しているGMOペパボの決算資料を見てみよう。2024年12月第1四半期の決算説明資料においては、カラーミーの最近の業績はこのようになっている(四半期ごとのグラフ)。

GMOペパボ2024年12月期 第1四半期 決算説明資料より

【参考】GMOペパボ2024年12月期 第1四半期 決算説明資料
https://pdf.pepabo.com/presentation/20240508p.pdf

これを見れば、先ほどの「サービス提供のためのコスト増大が著しく」という説明は疑わしい。費用はほとんど一定だし、カラーミーの営業利益率はずっと30~40%あるからだ。

普通、営業利益率は10%もあれば優秀だ。ちなみに、ハンドメイド系のフリマサービスである「minne(ミンネ)」も同社が運営しているが、この2024年第1四半期の営業利益率は8%。期間によっては0%の時もある。こっちが普通である。

インターネット関連事業では、営業利益率が20%くらいあることも珍しくはない。にしても、30~40%は高い。利益がちゃんと出ており、利益率が下がってもいない以上、「サービス提供のためのコスト増大が著しく」との説明は首肯しがたい。少なくとも「従来の価格を維持することが困難な状況」にはないと断言できる。

なお、この資料の右側上では顧客単価が2022年から24年までに2倍弱になっているが、これは先刻説明した3倍値上げのためであり、右側下の有料プラン契約件数が減少しているのは、値上げのために契約を解除した人が3割くらいいたということなのかもしれない。

ともかく、カラーミーはかなり高水準の利益がでている事業なのに、なぜ急に値上げされたのか。

実は2023年の第2四半期、GMOペパボは8.6億円の巨額損失を出している。この損失が何によってもたらされたかというと、同社の金融支援事業の失敗である。この事業は、主にフリーランスの人を対象とし、支払いを代行するものであったが(正確には請求書を買いとる形式)、これで大量の貸し倒れが発生し10億円以上の営業損失が出たのである。

GMOペパボ 2023年12月期 第2四半期 決算説明資料より

【参考】GMOペパボ 2023年12月期 第2四半期 決算説明資料
https://pdf.pepabo.com/presentation/20230809p.pdf

つまり、2024年に「エコノミープラン」の提供を終了し、強制的に「レギュラープラン」へ移行させたのは、この損失を取り戻すことが理由の一つだっただろう。

だがもっと本質的なのは、2023年時点でGMOペパボが東証プライムの上場基準を満たしていなかったことだったかもしれない。満たしていなかったのは「流通株式時価総額」で、要するにこれをクリアするためには株式の価格が上がる必要がある。よって、単純化すれば、投資家に優良株と思われる必要があり、そのためにより多くの配当を出せるようにすることが必要であった。

【参考】上場維持基準の適合に向けた計画書提出のお知らせ|GMOペパボ
https://pdf.pepabo.com/document/20230220d2.pdf

つまりこの(実質的な)値上げは、「サービス提供のためのコスト増大が著しく云々」ではなく、投資家へ増配するためだった可能性が高い。

値上げそのものが嫌なのは当然として、この値上げに「サービス提供のためのコスト増大が著しく、従来の価格を維持することが困難な状況が続いております」という、およそ真実とは言いがたい説明をしたことはもっと嫌な感じがする。

そもそも、値上げ直前の2024年第1四半期の決算説明資料の冒頭は、「ストックの好調と貸倒関連費用の減少により 大幅増益」という見出しになっている。

これのどこに「従来の価格を維持することが困難な状況」があるというのか。そもそも、「従来の価格」というが、それはたった2年前に3倍に値上げした価格だ。「従来の価格」とはふざけている。「2年前に3倍に値上げさせていただいたところですが…」と前置きするのが普通だろう。顧客心理を逆なでするとはこのことだ。これを書いた人間は、顧客のことを何も考えていない。

「そんなにGMOペパボが気に食わないなら、別のネットショップサービスを使えばいいんじゃないの?」と、ここまで読んだ人は思うだろう。その通りだ。実際、先述の通り、「エコノミープラン」の料金が3倍に値上げされて以降、カラーミーを解約する人はそれなりにいる。今はBASE(ベイス)とかSTORES(ストアーズ)といった基本料金無料で使えるサービスもある。

だが、(多くの利用者にとって)簡単にはカラーミーを解約できない理由がある。

第1に、カラーミーはかなりカスタマイズ性が高く、他のネットショップサービスでは手の届かない部分が造りこめる。私の場合は、商品の重量に応じて配送料金を設定できるという機能がそれにあたる。これはBASEとかでは対応不可である。

第2に、カラーミーはカスタマイズして運用するのが基本になっており(でなければ、BASEなどのサービスを使えば済むからだ)、カスタマイズにかなりのお金をかけていることが多い(場合によってはカスタマイズの費用の方が、サービス本体の利用料よりはるかに高い)。私の場合は自分でHTML/CSSを書いているからお金はかかっていないが、サイト構築の労力はかかっている。カラーミーを解約すると、それまでかけた労力が無駄になる(または再びコストをかけなくてはならない)。

よって、それなりの売り上げがあるネットショップは、サービスの利用料金が2倍3倍となっても、簡単には他のサービスに乗り換えられない。なお、GMOペパボの親会社(GMOインターネットグループ)の決算資料では、こういう、「一度サービスを導入したら、なかなか他のサービスに乗り換えづらく、継続課金が期待できる」という商材からの収益を「岩盤ストック収益」という用語で呼んでいる。

「岩盤」だと思っているから、料金をいきなり2倍、3倍にするというちょっと正気でない真似ができるわけである。投資家に対しては「岩盤ストック収益」が売りに出来ても、顧客としては「岩盤」と見なされているのは気持ちのよいものではない。

私の感じる気持ち悪さは、投資家に向けては「岩盤ストック収益」「大幅増益」とよい顔を見せながら、顧客には「従来の価格を維持することが困難」という真逆の顔を見せるという、ダブルスタンダードにある。GMOペパボはまるでヤヌス神(前と後に顔があるローマ神話の神)のように、二つの顔を使い分けているのだ。 

これはちょうど、日本の庶民が30年も続く不況で、上がらない給料やどんどん高くなる税金に呻吟しながら、同時に日経平均株価はバブル期以上の過去最高値を更新し、数億円する高級マンションがどんどん売れるという、正反対の状況が同時に起きていることを想起させる。

一言でいえば、これは社会の二極化のせいだろう。だが私は最近、これは二極化を超えて、二つの日本経済があるためではないかと思うようになった。二極化が進み、庶民の世界と投資家の世界の二つの日本経済が、別個に存在するようになってきたのである。

2013年から、日銀は「異次元の金融緩和」と言って資金を市場に大量に供給してきた。この結果、市場(投資家)には行き場を失った多くのお金が滞留した。つまり日経平均株価やマンションの価格が高騰しているのは、景気がいいというより、資金の供給過多でお金の価値が下がったからという要因の方が大きい。経済政策のイデオローグたちは、「トリクルダウン仮説」といって、社会の上流(大企業や投資家など)にお金を供給すれば、それが下流に流れていってみんなが潤うはずだと喧伝したが、そういうことは全く起こらず、投資的な資金だけが巨大に膨れ上がったのである。

それは、庶民の世界と投資家の世界という、二つの日本経済がもはや交わっていなかったためだ。同じ「円」というお金を使ってはいるが、この二つの日本経済はほとんど断絶している。それは、同じユーロを使いながら、EUの国々がそれなりに別の経済圏を作っているのと似たようなものかもしれない。

GMOペパボが顧客と投資家に対して二つの顔を使い分けているのは、まさにこのことを象徴しているように見える。二つの世界があるから、二つの顔が必要になるのである。

企業は、いわば二つの日本経済の間に立っている。彼らとても、顧客に対して無理な値上げはしたくないと思っている(と私は信じている)が、投資家に向けては潤沢に利潤があることを確約しなくてはならない、という板挟みの立場に置かれているのだ。さっきはずいぶんGMOペパボの批判を書いたが、彼らが二つの顔を使い分けているのはその強欲が理由ではないのである。

もちろん、板挟みの状況は彼らにとっても望ましくないので、やがては自社株買い・株式持ち合い・持ち株会社化(ホールディングス化)といった手法によって、経営の安定性を高めることになるだろう。 GMOペパボの場合は、GMOインターネットグループが持ち株会社化し、その子会社になる予定のようだ。

だがそうなったとしても、結局、資本の論理から逃れることはできない。程度の差こそあれ、ヤヌス神のように二つの顔を使い分け続けることになるだろう。であるにしても、どちらの顔が正面なのかだけは、忘れないようにしていただきたい。顧客に向き合って仕事をするのか、投資家に向いて仕事をするのか、どちらが本来の在り方なのかは、考えるまでもなくわかることだ。

2024年7月22日月曜日

忘れられた民具のゆくえ

最近、奈良県立民俗文化博物館が休館するというニュースがTwitterで話題になった。

「維新は文化を大事にしない」という批判のコメントが多かったが、同博物館には、精査なく民具等を受け入れており、しかも整理が十分にできていなかったという反省もあるようだ。

実は、似たような問題が南さつま市にも存在する。これはあんまり知られていない話だ。

加世田の白亀(徳久整形外科をちょっと入ったところ)に、かつて県立果樹試験場南薩支場があった。柑橘類の試験栽培を行っていた場所である。平成4年にこれが廃止されて、土地建物は旧加世田市に移管された。今もこの建物は残っているのだが(冒頭写真)、じつは、この建物の中に大量の民具が保管されているのである。

どうしてこんなところに民具があるのかというと、こんな事情がある。加世田市では、景気が良かった頃に博物館をつくる計画があった。万世にある「天文潟砂丘」という場所に建設する予定だったと聞く。

当時は行政の予算が有り余っていたので、いわゆる「箱物(はこもの)行政」と言われるように、いろんな施設が建設された。その中の一つに博物館があったのだ。加世田市ではその準備のため、学芸員を採用して、民具の収集を行った。

なにしろこの頃、鹿児島では下野敏見さんや小野重朗さんといった民俗学者が活躍していて、民俗学が大きな盛り上がりを見せていた時期だったのである。全国的にも鹿児島の民俗学が一目置かれた時期だったのではないかと思う。

ところがその後、行政の懐事情は徐々に悪くなり、博物館の構想も凍結された。

そして、収集した大量の民具だけが残された。加世田には今も図書館の3階に「郷土資料館」があるが、ここに民具を展示するスペースはなく、収蔵庫のようなものもおそらくほとんどない。そんなわけで、空いていた県立果樹試験場南薩支場跡を「文化財センター」という名称にして、とりあえず行き場のない民具をここに保管することにした、ということのようだ。

しかし、その「とりあえず」 がもう20年以上も経過している。中の民具はどのような状態なのだろうか。防虫の処理などしているのだろうか。そもそも、何が保管されているか把握している人はいるのだろうか。加世田市が周辺自治体と合併して南さつま市になってからは、どのような扱いになっているのだろう。

こんなことは、南さつま市役所でも、ほとんど気にする人はいない。「民具? よくわからん」が市長はもちろん、行政職員の正直な気持ちではないだろうか。これらの民具は、すっかり忘れられたのである。鹿児島の民俗学も、すっかり下火になってしまった。

さて、今、なぜ私がこの民具についてここで書いているのかというと、南さつま市では今、箱物整備のタイミングになっているからだ。

きっかけは、加世田にある南薩地域振興局の南九州市への移転が決定されたことだ。本当は、その跡地に県が何らかの施設を作ってくれればいいのだが、県はそんなお金はないとしているので、南さつま市はその跡地を県から無償で譲ってもらうことにした。そして南さつま市の本坊市長はここに「南さつま交流プラザ(仮称)」を建設することを表明、令和6年度はその調査にかかる予算が計上された。

さらに、別の話ではあるが、加世田の「市民会館」(行政の教育部局と大ホールと市民センターがある建物)が老朽化しているため、大ホールが解体されることが決定されており(隣に「いししへホール」があるため)、教育部局の棟は建て替えする計画である。

また、図書館や郷土資料館が入っている建物も老朽化しているため、おそらく「南さつま交流プラザ(仮称)」にその機能が移管されるのではないかと思う。そして市民センターの機能のいくらかもこちらが担うことになるのだと思う。

となると、気になるのは郷土資料館の扱いである。

合併後、加世田市および旧4町の展示施設は、なんだか中途半端な扱いが続いてきた。合併前には、加世田市が「郷土資料館」、金峰町が「歴史交流館 金峰」、大浦町が「郷土資料室」、笠沙町が「郷土資料室」と「笠沙恵比寿の博物館」、坊津町が「輝津館(きしんかん)」という6つの施設があった。合併後も、施設自体が廃止された「笠沙恵比寿の博物館」を除いて、これらは一応存続してきた。ただ、大浦と笠沙の「郷土資料室」は、ほとんど有名無実化しているのが現状だ。

何が中途半端かというと、それぞれが惰性的かつ個別的に存続してきたことである。これでは、合併のメリットを活かしているとはいいがたい。

そんなわけで、この箱物整備のタイミングで、南さつま市の展示施設の在り方について改めて考えてみるべきだと思う。あわせて、塩漬けになっているあの民具についても、この機会に見直し、管理や調査研究、展示をしていってはどうか、というのが私の提案なのである。

展示施設について理想的なのは、全てを統合し一つの博物館を設立することであるが、「歴史交流館 金峰」と「輝津館」はそれぞれが南さつま市の規模からすると立派すぎる施設なので、廃止はもったいないし難しい。だが別個に存在するとしても、お互いに有機的な連携を図っていくべきだ。

せめて、大浦と笠沙の「郷土資料室」は、すでに有名無実化しているので加世田に統合したらよい。そして塩漬けになっている民具も含め、加世田に「南さつま市郷土資料館」を設立、そして「歴史交流館 金峰」と「輝津館」はその分館に位置づける、というのが一番自然な案である。場所は、現在の図書館がある建物を全部(1~3階)使うこととすればよい。1階の行政部署は市民会館の建て替え部分に、2階の図書館は「南さつま交流プラザ」に移転させればよいと思う。

この案の問題は、この建物自体が老朽化しつつあることだが、耐震工事などはしていたと思うのでまだしばらくは使えるのではないだろうか。

中には「まだあの建物が使えるなら、民具なんかを置くのではなくて、もっと役に立つ使い方をしたらいいんじゃない?」という人もいそうである。そもそも「そんなことにお金を使うより、生活困窮者や子育て世代への支援、高齢者福祉とか移住促進に使う方が有意義では?」という考えだってアリだ。

もちろん、南さつま市の財政がカツカツなら、私だって「残念だけど民具は後回しにしよう」と思うところだ。だが実際、「南さつま交流プラザ(仮称)」を建設したり、市民会館の一部を建て替えたりする余裕はあるわけだ。それに南さつま市では幸いなことにふるさと納税の成績がよい。人口減少が始まっている南さつま市にとって、今は、市民生活に直結しない展示施設をつくれる最後のチャンスというタイミングであると私は思う。今やらなかったら、忘れられた民具は、廃屋で朽ち果てる可能性が高い。

収集した民具はモノをいわない。たとえ放っておいても、奈良県立民俗文化博物館の場合とは違って誰も文句は言わなそうだ。そんなことになぜお金や労力をかけないといけないのか。声を挙げている人、困っている人はたくさんいるというのに。

だが、それを言ったら、困っていてもモノを言えない人は意外と多い。そういう人を放っておいても、たいていは何も問題は起こらない。そんな風にして、声なき弱者を切り捨て続けてきたのが、今の日本ではないか。

儲かるものや、役立つものや、権威ある人の後援を受けているものを大事にするのはバカでもできるが、儲からないもの、すぐに役立たないもの、誰の後ろ盾もないもの、そういうものを大事にするには、「見識」がいる。

実際、収集された民具が有効活用されないとしても、どれほどの文化的損失があるのか、私にはわからない(だいたい、その民具を見たこともない)。だが少なくとも、現在保管している民具の扱いを検討するくらいの「見識」がある町に、住みたいものである。