昨年、南さつま市が大浦町への企業誘致に成功した。
株式会社イシイの新しい孵卵場(鶏の卵を孵してヒナにする工場)が、笠沙高校跡地にできたのである。しかもこの孵卵場、全国有数の規模らしく、九州では一番大きい工場だそうである。
どうしてこのような立派な工場が、僻地も僻地である我が大浦町に建ったのか、正直よくわからない。薩摩川内市も誘致に積極的であったと聞く。どうみてもあちらの方が流通に都合がよさそうなのに、わざわざ交通の便が悪いこちらに建てたのはなんでだろう。
でも元々、大浦町にはイシイの孵卵場があるから、その縁があってこそのことであるのは間違いない。系列の養鶏場もたくさんあるわけで。
企業誘致といっても、結局は「縁」である。全国どこででもできる事業であっても、実際に全国津々浦々の条件を比較考量して立地を決めるなんてことはなくて、縁があるようなところを中心に候補地を絞っていくものだ。
では、今回の企業誘致の縁になった、大浦町に元々あったイシイの孵卵場というのは、どうして設立されたものなんだろうか?
イシイが大浦町に孵卵場を設立したのは、昭和54年のことである。工場用地は、大浦町の平原(ひらばる)の、デンプン工場跡地だったところらしい。
大浦町では、その前年に県の補助を受けて、ブロイラー用種鶏団地造成事業を行っている(「種鶏(しゅけい)」というのは、ヒナにする卵を産ませるための鶏のこと)。この事業に参加したのは町内の7人。
この事業は大浦町と隣町の笠沙町の共同でやっていて、大浦町が3万羽、笠沙町が3万羽の計6万羽の飼養が計画されていた。
もちろんこの事業はイシイの孵卵場が建設されることを見越したもので、平原の孵卵場が落成するまでの期間は、種卵(ヒナを孵す卵)は大分県にあったイシイの工場までわざわざ出荷されていた。どうやら大浦町の養鶏は、当初からイシイ(当時は石井養鶏農協)と共に始まったようである。
では、なぜこの時期に大浦町に孵卵場が建設されたのかというと、一つにはその頃特産品として確立しつつあったポンカンが遠因となっている。ポンカン畑は山を切り開いて造成したから肥料を人力で運ぶのに難儀していた。鶏糞堆肥なら軽いからポンカンの肥料に最適だ、ということで養鶏が検討されたんだそうだ。
そしてもっと直接的な理由は、鹿児島県経済連が昭和50年に「知覧食鶏処理場」を建設したことだ。この知覧の食肉処理場へ鶏を出荷する農家向けに、ヒナの需要が高まったという背景があったようである。元々南薩は養鶏の盛んな地域で、鹿児島県内でも姶良、川内と並ぶ三大養鶏地域と言われていたそうだが、それまではヒナは地域で自給していなかったのかもしれない。
しかし、このヒナ需要に応えるために、どうしてわざわざ徳島のイシイを誘致したのかというと、そこがよく分からない。イシイ側で鹿児島進出を狙っていたのか、それとも大浦町の方でイシイに声を掛けたのか。ちなみに当時も鹿児島県には孵卵場自体はたくさんあったので、県内の企業・組合でヒナ需要をまかなうことも不可能ではなかったのではないかと思う。
さらにちょっとした疑問を言うと、視野を広げて当時の養鶏業界の趨勢を見てみると、この時期は必ずしも養鶏の生産をどんどん拡大していこうという時期でもなかったということがある。昭和40年代には鹿児島県では大規模かつ系列的な養鶏業界が成立し、ブロイラー(食肉)では全国1位、鶏卵でも全国2位の生産量を誇るようになった。
しかし急激な大規模化の結果として生産過剰となり、特に鶏卵については昭和45年に鶏卵価格の大暴落が起こった。それまで「卵は物価の優等生」などと呼ばれ、キロあたり二百円弱(年間平均)で推移していたところ、この年の夏に120円台まで暴落してしまったのである。当時の採算ラインというのがキロあたり160円というから、出荷すればするほど赤字になるという異常事態。この異常な相場は冬には是正され、逆に最高価格280円をたたき出すが、こうした価格の乱高下の背景として生産過剰があることを重く見た農林省(当時)は、昭和47年に「養鶏においては大規模な増産はさせない」という趣旨の3局長通達(経済局長、農政局長、畜産局長)を出した。
つまり、大浦町がブロイラー用種鶏団地をつくろうとしていた時、既に農水省は養鶏産業は飽和状態になっていたと見ていて、生産調整を行っていたのである。にも関わらず、実際には経済連は知覧に食肉処理場を新設させたわけだし、大浦町も種鶏団地を作ったわけだ。50年代に入ると生産調整も落ち着き増産基調になっていたんだろうか。このあたりがよくわからないところである。
このように、いざ調べてみると、せいぜい40年くらい前のことでもよくわからないことが多い。これに関しては、本気で調べたら関係者はまだたくさん残っているので分かるだろうが、あと30年もすると、なぜイシイの旧孵卵場が大浦町に建てられたのか本当に謎になってしまうかもしれない。
些末なこととはいえ、別段隠す必要もない、身近な歴史すらこうである。政治的に微妙なことなんかは、すぐに事実が分からなくなってしまう。
歴史というのは、必死で残していかないと、忘れられ、書き換えられていくものだ。
「本当の歴史」などというものはどこにもないが、今の不穏な政治経済情勢を見ているとウソがまかり通る世の中になるんじゃないかと心配になってくる。
【参考文献】
『鹿児島県養鶏史』1985年、鹿児島県養鶏史刊行委員会
『広報おおうら 第98号、第105号、第112号』
2017年7月12日水曜日
2017年6月11日日曜日
「六地蔵」というおまんじゅう
南さつま市加世田の、旧加世田駅の目の前に清月堂という和洋菓子の店がある。ここは「川口プリン」というプリンが有名で、店内にも「プリン美味しかった!」というようなサイン色紙がたくさん飾られている。このプリン、もちろんオススメである。
が、この店にはもう一つの隠れたオススメ商品があるので紹介したい。
それは、「六地蔵」というお菓子。「こしあんに、黒ゴマ・クルミ・ピーナッツ・レーズンを入れて焼き上げた香ばしいおまんじゅう」(店頭の説明より)である。
こしあんを使っているから和菓子に分類されるのだろうが、こしあんも重くなく、割合にサクサクっとしていて、洋風の焼き菓子にも近いようなおまんじゅうである。緑茶だけでなくコーヒーにもよく合う。
清月堂ではこれがたったの95円で売られていて、手土産にはもってこいだ。
「六地蔵」というのは、もちろん加世田の史跡「六地蔵塔」にちなんでいる。
【参考】六地蔵塔の思想
おまんじゅうの表面にあしらわれた図像は、多分竹田神社の鳥居(左側)と、「六地蔵」という文字(右側)。こういう、ちゃんと地元の名勝旧跡にちなんでデザイン・命名されたお菓子というのを好ましいと思うのは私だけではないはずだ。
この「六地蔵」、お店の人に伺ってみたら、少なくとも50年以上前からあるという。清月堂にはずっと昔に作られたままデザインが変わっていない包み紙があるが(電話番号の局番が一桁しかない)、この包み紙には「加世田銘菓 六地蔵」の文字とともに、史跡の「六地蔵塔」の写真が大きくプリントされている。おまんじゅう「六地蔵」は、数十年前はこの店の看板商品だったようである。
今でも、売れない商品というわけではなくて、固定客による根強い人気がある商品なのだと思う。だが、これに注目している人は、ほとんどいないみたいである。確かに、一昔前の地味な商品ではある。でも味の方は、先述の通り結構モダンで、時代遅れのおまんじゅうではない。「かるかん」なんかより、よっぽど若い人が好みそうである。
私は、こういう「忘れられた価値」を再発見することは、とても大事なことなんじゃないかと思っている。新商品を生みだすということはいいことだと思うし、古いものにしがみつくばかりでは面白くない。でも、新しい何かを始められなくても、「忘れられていた価値」を再発見するだけで、世の中をちょっと面白くすることはできると思う。
鹿児島県特産品協会は、毎年「かごしまの新特産品コンクール」というのを開催していて、これは鹿児島の最先端の特産品が一堂に会するものである。これはこれでいいとして、私は、これにあわせて「かごしまの旧特産品コンクール」をやったらいいと思っている。誰も注目していないもので、その価値に売っている本人すら気づいていないような商品を、勝手に表彰するコンクールだ(売っている本人にすら価値に気づいていないので、当然販売者からは応募されない)。これは審査員(というか推薦人)の目が試されるコンクールだ。新しいものを評価するのは容易であるが、旧いものを評価する(というより見つけてくる)のは、実は大変に難しいのである。
こういうコンクールでもない限り、「忘れられた価値」が再発見されないままに消えてゆくものはたくさんあるんじゃないだろうか。そういうものが人知れず世界から消えていくこと。それはかなりの損失なんじゃないかと私は思う。少なくとも、「六地蔵」がなくなってしまったら加世田にとって損失だろう。
ところで蛇足だが、この「六地蔵」には一つの謎がある。山梨の富沢町にある同名の「清月堂」という和菓子屋に、やはり同名の「六地蔵」というおまんじゅうがあって、しかもその内容は、「クルミ、ゴマ、干しブドウを練り込んだ風味豊かな餡を、六地蔵と富士山を纏った生地で包みこんだお饅頭です」となっていて瓜二つなのである!
【参考】山梨の清風堂の紹介ページ(南部町商工会)
ここまで似ていると、他人のそら似というわけではないと思う。師弟関係があったのか、それともかつては「六地蔵」がメジャーなお菓子だったのか。そのあたりの事情を、機会があればぜひ伺ってみたいものである。
が、この店にはもう一つの隠れたオススメ商品があるので紹介したい。
それは、「六地蔵」というお菓子。「こしあんに、黒ゴマ・クルミ・ピーナッツ・レーズンを入れて焼き上げた香ばしいおまんじゅう」(店頭の説明より)である。
こしあんを使っているから和菓子に分類されるのだろうが、こしあんも重くなく、割合にサクサクっとしていて、洋風の焼き菓子にも近いようなおまんじゅうである。緑茶だけでなくコーヒーにもよく合う。
清月堂ではこれがたったの95円で売られていて、手土産にはもってこいだ。
「六地蔵」というのは、もちろん加世田の史跡「六地蔵塔」にちなんでいる。
【参考】六地蔵塔の思想
おまんじゅうの表面にあしらわれた図像は、多分竹田神社の鳥居(左側)と、「六地蔵」という文字(右側)。こういう、ちゃんと地元の名勝旧跡にちなんでデザイン・命名されたお菓子というのを好ましいと思うのは私だけではないはずだ。
この「六地蔵」、お店の人に伺ってみたら、少なくとも50年以上前からあるという。清月堂にはずっと昔に作られたままデザインが変わっていない包み紙があるが(電話番号の局番が一桁しかない)、この包み紙には「加世田銘菓 六地蔵」の文字とともに、史跡の「六地蔵塔」の写真が大きくプリントされている。おまんじゅう「六地蔵」は、数十年前はこの店の看板商品だったようである。
今でも、売れない商品というわけではなくて、固定客による根強い人気がある商品なのだと思う。だが、これに注目している人は、ほとんどいないみたいである。確かに、一昔前の地味な商品ではある。でも味の方は、先述の通り結構モダンで、時代遅れのおまんじゅうではない。「かるかん」なんかより、よっぽど若い人が好みそうである。
私は、こういう「忘れられた価値」を再発見することは、とても大事なことなんじゃないかと思っている。新商品を生みだすということはいいことだと思うし、古いものにしがみつくばかりでは面白くない。でも、新しい何かを始められなくても、「忘れられていた価値」を再発見するだけで、世の中をちょっと面白くすることはできると思う。
鹿児島県特産品協会は、毎年「かごしまの新特産品コンクール」というのを開催していて、これは鹿児島の最先端の特産品が一堂に会するものである。これはこれでいいとして、私は、これにあわせて「かごしまの旧特産品コンクール」をやったらいいと思っている。誰も注目していないもので、その価値に売っている本人すら気づいていないような商品を、勝手に表彰するコンクールだ(売っている本人にすら価値に気づいていないので、当然販売者からは応募されない)。これは審査員(というか推薦人)の目が試されるコンクールだ。新しいものを評価するのは容易であるが、旧いものを評価する(というより見つけてくる)のは、実は大変に難しいのである。
こういうコンクールでもない限り、「忘れられた価値」が再発見されないままに消えてゆくものはたくさんあるんじゃないだろうか。そういうものが人知れず世界から消えていくこと。それはかなりの損失なんじゃないかと私は思う。少なくとも、「六地蔵」がなくなってしまったら加世田にとって損失だろう。
ところで蛇足だが、この「六地蔵」には一つの謎がある。山梨の富沢町にある同名の「清月堂」という和菓子屋に、やはり同名の「六地蔵」というおまんじゅうがあって、しかもその内容は、「クルミ、ゴマ、干しブドウを練り込んだ風味豊かな餡を、六地蔵と富士山を纏った生地で包みこんだお饅頭です」となっていて瓜二つなのである!
【参考】山梨の清風堂の紹介ページ(南部町商工会)
ここまで似ていると、他人のそら似というわけではないと思う。師弟関係があったのか、それともかつては「六地蔵」がメジャーなお菓子だったのか。そのあたりの事情を、機会があればぜひ伺ってみたいものである。
2017年5月25日木曜日
仏間を板張りにしたら大成功!
昨年の「納屋リノベーション」に続いて、今年も小さいながらリノベーション(というよりリフォーム)を行ったのでご報告。
ごく普通の畳張りだった仏間を、板張りにしたのである。
でもこれは「ごく普通のフローリング」ではないというのが、今回のポイント。
そのことは後で書くとして、元々ここを板張りにしようと思ったのは、この部屋に本棚を置こうと思ったから。畳の上に本棚を置くと畳も痛むし、本棚も不安定になるし、そもそもこの部屋の畳張りがなんだかボヨンボヨンしていて根太(床板を支える横木)に不安があった。
せっかくの畳のお部屋なのでもったいない気もしたが(実際、子どもは畳の部屋がいいと言っていた)、昨年の納屋リノベーションが想像の遙か上をいくステキさで仕上がったので、その時の工務店さん(craftaさん)にまたお願いした次第である。
最初は、ごく普通のフローリングにしてもらう予定でいた。でも確認のため畳を剥いで見てみると、薄汚れてはいるがなかなかしっかりした板張りになっている。これを廃棄してしまうのはもったいないと思い、工務店さんに「この板張りをそのまま活かして張り替えることってできませんかね…?」とお願いしてみた。
普通にフローリングにするのであれば6畳が10万円くらいで出来るそうだが、板を「生かし取り」(壊すのではなくまた使うことを前提に解体すること)するには手間がかかるし、いびつな板材を床にまた貼るのにも手間が掛かって、当然費用も増えるという。
正直、あまりお金に余裕はないが、同世代は新築の家を建てたり、マンションを購入しちゃったりしている時期である。子どもたちも「うちはボロだからいやだなあ!」「○○ちゃんのうちは新しくていいなあ!」とことあるごとに言ってくる。新築したりマンションを購入するよりは断然安いんだから、まいっか…、ということで手間の掛かる工事をお願いした。
実際床板を剥いでみると、松の板であることがわかった。床板としては高級な部類だと思う。
ちなみに根太はやっぱり貧弱で、極太の大引き(床下を支える大きな木材)が入ってるわりにはなぜか根太は折れそうなくらい細かった。どおりで床がボヨンボヨンしていたハズである。
そして、生かし取りした床材を水洗いしてもらうと予想通りなかなか見栄えもいい。釘穴がボカスカ空いているのはいいとしても、ゆがみも大きかった上、(予想してなかったが)板の厚みが相当バラバラだったので、正直なところ「これちゃんと貼れるんだろうか…!?」と心配になったし、工務店さんや大工さんも、この個性が強すぎる板材たちを目の前にして動揺しているように見受けられた。
だが実際に床が完成してみると、予想以上に素晴らしい出来になった!
確かに、ゆがみが大きい板材だったので、隙間はかなりある。段差も最大で5mmくらいある。釘穴を埋めるためのパテ跡も、気になる人には気になるかもしれない。
でも百年経った松の板の風情はまた格別でもある! 非常に表情が豊かで、語りかけてくるような床になった。
またしても想像の遙か上をいく出来映えである。ただキレイとか居心地がいいとかではなくて、創造力を刺激するような部屋になったと思う。床が変わるだけでこんなにも空間が変わってしまうのかとビックリした。
こうして素晴らしい床ができたのは、もともとの板材がよかったのもあるが、工務店さんと大工さんの技術と心意気のお陰である。隙間や段差が目立たないようにかなり工夫してくれたし、1000以上あったであろう釘穴を一つひとつパテで埋めてくれたし、見積もりにはなかったはずだがオイルも塗ってくれた。かなり労力(と頭)を使う作業で、新品フローリングにするのに比べ何倍も大変だったと思う。改めて工務店さんに感謝である。
ところで今年、うちが建ってからちょうど100年経ったらしい。100周年に生まれ変わったこの仏間をこれからどう活用していくか、とっても楽しみである。
ごく普通の畳張りだった仏間を、板張りにしたのである。
でもこれは「ごく普通のフローリング」ではないというのが、今回のポイント。
そのことは後で書くとして、元々ここを板張りにしようと思ったのは、この部屋に本棚を置こうと思ったから。畳の上に本棚を置くと畳も痛むし、本棚も不安定になるし、そもそもこの部屋の畳張りがなんだかボヨンボヨンしていて根太(床板を支える横木)に不安があった。
リノベーション前の仏間 |
最初は、ごく普通のフローリングにしてもらう予定でいた。でも確認のため畳を剥いで見てみると、薄汚れてはいるがなかなかしっかりした板張りになっている。これを廃棄してしまうのはもったいないと思い、工務店さんに「この板張りをそのまま活かして張り替えることってできませんかね…?」とお願いしてみた。
普通にフローリングにするのであれば6畳が10万円くらいで出来るそうだが、板を「生かし取り」(壊すのではなくまた使うことを前提に解体すること)するには手間がかかるし、いびつな板材を床にまた貼るのにも手間が掛かって、当然費用も増えるという。
正直、あまりお金に余裕はないが、同世代は新築の家を建てたり、マンションを購入しちゃったりしている時期である。子どもたちも「うちはボロだからいやだなあ!」「○○ちゃんのうちは新しくていいなあ!」とことあるごとに言ってくる。新築したりマンションを購入するよりは断然安いんだから、まいっか…、ということで手間の掛かる工事をお願いした。
実際床板を剥いでみると、松の板であることがわかった。床板としては高級な部類だと思う。
ちなみに根太はやっぱり貧弱で、極太の大引き(床下を支える大きな木材)が入ってるわりにはなぜか根太は折れそうなくらい細かった。どおりで床がボヨンボヨンしていたハズである。
そして、生かし取りした床材を水洗いしてもらうと予想通りなかなか見栄えもいい。釘穴がボカスカ空いているのはいいとしても、ゆがみも大きかった上、(予想してなかったが)板の厚みが相当バラバラだったので、正直なところ「これちゃんと貼れるんだろうか…!?」と心配になったし、工務店さんや大工さんも、この個性が強すぎる板材たちを目の前にして動揺しているように見受けられた。
だが実際に床が完成してみると、予想以上に素晴らしい出来になった!
確かに、ゆがみが大きい板材だったので、隙間はかなりある。段差も最大で5mmくらいある。釘穴を埋めるためのパテ跡も、気になる人には気になるかもしれない。
でも百年経った松の板の風情はまた格別でもある! 非常に表情が豊かで、語りかけてくるような床になった。
またしても想像の遙か上をいく出来映えである。ただキレイとか居心地がいいとかではなくて、創造力を刺激するような部屋になったと思う。床が変わるだけでこんなにも空間が変わってしまうのかとビックリした。
こうして素晴らしい床ができたのは、もともとの板材がよかったのもあるが、工務店さんと大工さんの技術と心意気のお陰である。隙間や段差が目立たないようにかなり工夫してくれたし、1000以上あったであろう釘穴を一つひとつパテで埋めてくれたし、見積もりにはなかったはずだがオイルも塗ってくれた。かなり労力(と頭)を使う作業で、新品フローリングにするのに比べ何倍も大変だったと思う。改めて工務店さんに感謝である。
ところで今年、うちが建ってからちょうど100年経ったらしい。100周年に生まれ変わったこの仏間をこれからどう活用していくか、とっても楽しみである。
2017年5月10日水曜日
「カゴシマニアックス流の南さつま巡り」
鹿児島の皆さんは、「KagoshimaniaX(カゴシマニアックス)」をご存じだろうか?(画像はイメージキャラクター)
「鹿児島をアツくユルく紹介するWEBメディア」、まあ平たく言えば、気軽なノリの地元情報ブログである。
実は、このカゴシマニアックスが、密かに「砂の祭典」とコラボしていたのでここにお知らせしたい(後日、砂の祭典公式HPにも出てくると思います)。
せっかく「砂の祭典」に遠方から来てもらっても、祭典会場を見るだけでとんぼ返りしてしまっては地元民としては少し寂しい。せっかくだからついでにどこかに寄ってもらうとか、別にお金を使わなくてもいいからドライブだけでもして帰ってもらいたいと思う。そもそも、「砂の祭典」はそういう地域への波及効果を目的としてやっているイベントだ。
だから、「砂の祭典」の公式ホームページで南さつまのオススメスポットなんかを紹介していってもよかったのだが、それだとどうも面白味がない。「南さつま海道八景」なんか確かに素晴らしいけれども、そういう定番スポットをいつも通り宣伝するのではなくて、若い人に向けて違った案内ができないか?
そういうことから、鹿児島のナウなヤングに絶大な支持を誇るカゴシマニアックスとコラボして、「カゴシマニアックス流の南さつま巡り」をやってもらおうと思ったのである。
勘違いして欲しくないのは、コラボと言っても、「ここを紹介してくださいね」というような、いわゆる提灯記事は一本もないということだ。カゴシマニアックスの管理人・僕氏こと中園さんの案内は私が買って出たが、私がオススメするスポットをゴリ押ししたわけでもない。それどころか天気にも嫌われて、案内したいところに全然案内できなかった…。基本的には、その場のノリと先方の希望に沿ってユルく案内したわけである。
それでできた記事がこちら!
そして、 一応の趣旨は「地域への波及効果」なのにも関わらず、「砂の祭典」のついでには誰も行かなそうな「内山田七不思議」を巡ったのも、よかった。ヤラセっぽくなくていい。というより、ヤラセは一切なしである。ちなみに、この「七不思議」の取材は体力も時間も使って一番大変だったと思う…。
また、カゴシマニアックスのFacebookページでは、過去記事の中から南さつま関係のものを改めてピックアップしてくださった(「万世ストア」の鳥刺しは必見)。
「砂の祭典」のメインイベント期間はGW中だが、5月中は「セカンドステージ」として入場料が半額で入れる。花火や飲食ブースはないが、砂像の鑑賞という意味ではこっちの方がゆっくり見られるし、土日にはいろんな催しもある。ただ、一日ずっと「砂の祭典」の会場で遊ぶというわけにもいかないので(会場内に飲食があまりない)、ぜひカゴシマニアックスの記事を参考に、南さつま周遊の小旅行を楽しんでいただきたい。
※ちなみに、5月27-28日に行われる「HANAVILLA MARKET-ハナビラ マーケット-」には「南薩の田舎暮らし」も出店します。同日はビーチステージという音楽イベントもありますよ!
【参考】セカンドステージ イベント情報(砂の祭典公式ホームページ)
「砂の祭典」とのコラボ記事に限らず、カゴシマニアックスの発信を見ていて思うのは、「街は自分なりに楽しんだらいい」ということだ。もちろん観光パンフ片手に巡るのでもいい。路地裏ばかりうろついてみるのもいい。史跡を訪ねる、グルメを楽しむ、ドライブする、なんでも楽しければいいのである。
「南さつまに来たらぜひここに行ったらいいよ!」という場所も地元民的にはある。例えば大浦の「亀ヶ丘」。「亀ヶ丘」に来てもらったら地元民的には嬉しい。でも来てくれた人が、南さつまの魅力を自分なりに発見してくれたらもっと嬉しい。カゴシマニアックスとのコラボは、そのための一つのケーススタディかもしれない。
「鹿児島をアツくユルく紹介するWEBメディア」、まあ平たく言えば、気軽なノリの地元情報ブログである。
実は、このカゴシマニアックスが、密かに「砂の祭典」とコラボしていたのでここにお知らせしたい(後日、砂の祭典公式HPにも出てくると思います)。
せっかく「砂の祭典」に遠方から来てもらっても、祭典会場を見るだけでとんぼ返りしてしまっては地元民としては少し寂しい。せっかくだからついでにどこかに寄ってもらうとか、別にお金を使わなくてもいいからドライブだけでもして帰ってもらいたいと思う。そもそも、「砂の祭典」はそういう地域への波及効果を目的としてやっているイベントだ。
だから、「砂の祭典」の公式ホームページで南さつまのオススメスポットなんかを紹介していってもよかったのだが、それだとどうも面白味がない。「南さつま海道八景」なんか確かに素晴らしいけれども、そういう定番スポットをいつも通り宣伝するのではなくて、若い人に向けて違った案内ができないか?
そういうことから、鹿児島のナウなヤングに絶大な支持を誇るカゴシマニアックスとコラボして、「カゴシマニアックス流の南さつま巡り」をやってもらおうと思ったのである。
勘違いして欲しくないのは、コラボと言っても、「ここを紹介してくださいね」というような、いわゆる提灯記事は一本もないということだ。カゴシマニアックスの管理人・僕氏こと中園さんの案内は私が買って出たが、私がオススメするスポットをゴリ押ししたわけでもない。それどころか天気にも嫌われて、案内したいところに全然案内できなかった…。基本的には、その場のノリと先方の希望に沿ってユルく案内したわけである。
それでできた記事がこちら!
南さつま市加世田の幻のパン「田中ベーカリー」を知っているかこの中で一番感心したのは最初の「田中ベーカリー」の記事。私の知ってる範囲では反響も一番大きかった。加世田育ちの人には、なんとも懐かしく、いろんな思い出を引き出すキーになるようなパンが「田中ベーカリー」だと思うが、別に私から何も言ってないのにそれを最初に書いたのにはビックリした。中園さん、ぼーっとしているように見えて(笑)そういう嗅覚が鋭い。実は、私も「田中ベーカリー」についてはブログで紹介しようと思っていたので先を越された「しまった!」感もある。
世界の大迫勇也が愛する味!南さつま市の「萬来ラーメン」
京うどんの名店、南さつま市「彌蔵」で伝説のマンガに出会ったハナシ。
南さつま市「くじらの眠る丘」で伝統の味「こめ飴」に出会った。
南さつま市に伝わる「内山田七不思議」に挑戦してきた結果・・・!
フリーダムな南さつま市の物産販売所「にいななまる」には家づくりに重要なアレが売ってた。
南さつま市加世田のオシャレカフェ「伊太利亜」でパニーニとカツカレーを食べたハナシ。
※加世田の和洋菓子屋「清月堂」の記事もあったはずだかなぜか見つけられず。
そして、 一応の趣旨は「地域への波及効果」なのにも関わらず、「砂の祭典」のついでには誰も行かなそうな「内山田七不思議」を巡ったのも、よかった。ヤラセっぽくなくていい。というより、ヤラセは一切なしである。ちなみに、この「七不思議」の取材は体力も時間も使って一番大変だったと思う…。
また、カゴシマニアックスのFacebookページでは、過去記事の中から南さつま関係のものを改めてピックアップしてくださった(「万世ストア」の鳥刺しは必見)。
南さつま市加世田「万世ストア」の鳥刺しは他とはちょと違う激ウマ。加世田までそれだけの目的で走っていいレベル。さらに、もちろん実際に会場にも行って、現場レポもしてくださった!
南さつま市の阿久根商店のうどんそば自販機でちょっとマニアックなうどんそばが食えるよ。
南さつま市加世田のPico、からあげが有名なんだけど・・・アレが棒状になってた。
砂像!おしゃれカフェ!花火!「吹上浜砂の祭典」はインスタグラマーのパラダイスだ!
「砂の祭典」のメインイベント期間はGW中だが、5月中は「セカンドステージ」として入場料が半額で入れる。花火や飲食ブースはないが、砂像の鑑賞という意味ではこっちの方がゆっくり見られるし、土日にはいろんな催しもある。ただ、一日ずっと「砂の祭典」の会場で遊ぶというわけにもいかないので(会場内に飲食があまりない)、ぜひカゴシマニアックスの記事を参考に、南さつま周遊の小旅行を楽しんでいただきたい。
※ちなみに、5月27-28日に行われる「HANAVILLA MARKET-ハナビラ マーケット-」には「南薩の田舎暮らし」も出店します。同日はビーチステージという音楽イベントもありますよ!
【参考】セカンドステージ イベント情報(砂の祭典公式ホームページ)
「砂の祭典」とのコラボ記事に限らず、カゴシマニアックスの発信を見ていて思うのは、「街は自分なりに楽しんだらいい」ということだ。もちろん観光パンフ片手に巡るのでもいい。路地裏ばかりうろついてみるのもいい。史跡を訪ねる、グルメを楽しむ、ドライブする、なんでも楽しければいいのである。
「南さつまに来たらぜひここに行ったらいいよ!」という場所も地元民的にはある。例えば大浦の「亀ヶ丘」。「亀ヶ丘」に来てもらったら地元民的には嬉しい。でも来てくれた人が、南さつまの魅力を自分なりに発見してくれたらもっと嬉しい。カゴシマニアックスとのコラボは、そのための一つのケーススタディかもしれない。
2017年5月4日木曜日
「砂の祭典」の根幹
「2017吹上浜 砂の祭典」が始まった。
会場に林立する素晴らしい砂像の数々。特に海外からの招待作家さんの砂像は精巧で芸術性も高く、祭典終了後に壊すのが惜しいほどだ。
「砂の祭典」はこの砂像が主役なのは間違いない。それだけでも十分楽しめる。
…そうではあるが、せっかくこのイベントに来るのなら、ちょっと足を伸ばして吹上浜の汀(みぎわ)まで行ってみてほしい。会場から県立吹上浜海浜公園に移動して、公園入り口から徒歩10分くらいで海岸まで行ける。
そこには見渡す限り砂浜が続いていて、海の彼方からは波濤の音が響いている。
「砂の祭典」は、元々、この「吹上浜」を活かそうというイベントだった。30年前、アメリカのサンディエゴで勃興しつつあったサンドアートの噂を聞いて、吹上浜の砂をアメリカに送って見てもらい、「きめが細かくサンドアートに適している」と太鼓判をもらったことからこのイベントが始まった。
始まりは、吹上浜の砂だった。
実際、吹上浜まで行って砂に触れてみると分かる。非常にきめが細かくて、パウダースノーのような美しい砂である。この前子どもたちを連れて行ったら、「アナと雪の女王」ごっこをし始めたくらいだ。この砂を、さらさらと手で弄んでいるだけで心が落ちつく。
手で砂をすくい、指の隙間から、砂時計のように砂がこぼれ落ちるのを感じてみる。全て落ちきって、手をはたくと、汚れも何もない。非常に清浄な、気持ちのよい砂である。
では、なぜここに素晴らしい砂があるのだろう。しかも日本三大砂丘の一つとされるほど、長大で、しかも幅が広い砂浜が広がっているのだろうか。
ポイントは2つあると思う。一つは、鹿児島のシラスの土壌である。脆い細粒の土壌が鹿児島を厚く覆っていて、これは浸食も受けやすいことから雨でどんどん川に流れていく。これが砂丘の原料供給を担っている。
もう一つは、吹上浜にそそぐ万之瀬川(やその他のいくつかの川)である。シラスを浸食してきた川は、大量のシラスの土砂を海に放出する。しかし吹上浜の海岸線は、海流的にそうなのか、地形的にそうなのかはわからないが、どんどん土砂を放出するというよりは、割合にこの土砂が溜まっていきやすいようである。だから、吹上浜のような長大な砂丘ができたのであろう。
つまり、「砂の祭典」の元を辿っていくと、鹿児島の人が昔から苦労し続けているシラス土壌に行き着く。この脆い土壌のお陰で、鹿児島は崖崩れなどの風水害が多いし、シラス台地は農業生産性が低く、長く貧乏な農業に甘んじるしかなかった。
「砂の祭典」の中で、そんな地質の話まで遡るのはちょっとハードルが高いのかもしれない。でも人間の文化を育む風土というものは、地質や気候、そこにある自然が作ってきたものだから、せっかくイベントをするのなら、そういう掘り下げもしていったらいいと思う。
そういう考えで、私は「砂の祭典」の広報部員として、今回「吹上浜と砂文化」という7本の記事を公式ホームページに書いた。
1.吹上浜の松林をつくった宮内一族
2.サンディーくんのモデル! 吹上浜のウミガメ
3.国の天然記念物、ハマボウの群落
4.世界で約3000羽しかいない野鳥クロツラヘラサギがやってくる
5.特産「砂丘らっきょう」
6.話題の野菜「長命草」が沿岸に自生
7.吹上浜には多くのクジラやイルカが来遊
こういう記事、書いている自分がいうのもなんだが、集客には全く役に立たないと思う。広報部員としては、もっと集客に繋がる派手な仕事をした方がよっぽど生産的かもしれない。
でも、ただ賑やかなイベントをしていますよ、というだけではなくて、その背景にどんな自然や歴史があるのか、そうした風土とどう人は付き合ってきたのか、ということがないと、はやりイベント事というのは空疎になる。だって、人を集めたいだけなら人気の芸能人を呼んでくる方がよっぽど効果がある。だがそれが中心になってしまうと、なぜ吹上浜でするのか? という根幹が揺らぐ。
こういう記事を読んで勉強したら、イベントが一層楽しくなる、とは言わない。実際あんまりイベント内容と関係ない。でもイベントの主催者側として、やっぱり「砂の祭典」のルーツは吹上浜で、「我々は吹上浜を大切に思っています」という姿勢が見えなかったら、根幹があやふやなな感じがするのである。
「砂の祭典、何のためにやってるの?」という人は多い。イベントとしては赤字だし、波及効果はあると思うもののはっきりとはわからない。関係者は、GWは働きづめになって(しかもボランティアも多い)、疲弊してしまう。
もちろん地域の活性化に一役買っていることは確かだ。熱意ある人も多い。決して無意味なイベントではない。でもやはり、地域活性化というボンヤリとした目的しか見えないところがある。
だから、私としては、「吹上浜の環境保全」を「砂の祭典」の目的(の一つ)に位置づけたらいいと思う。
例えば、広大な松林は、実はマツクイムシやシロアリの被害で枯れたり植樹したりを繰り返している。だから、「砂の祭典」の時に植樹活動なんかできないか。また、「砂の祭典」の時期はちょうど、ウミガメの産卵シーズンにもあたっている。現在は、ウミガメのモニタリングすら十分ではない。ウミガメが産卵しやすい砂浜を維持するための活動(ゴミ拾いとか)も取り入れられる。万之瀬川河口付近の干潟の環境ももっと改善して、野鳥観察会を祭典に組み合わせられないか。ここが九州でも有数の野鳥スポットになったら面白い。ホエールウォッチングだって組み合わせられるかもしれない。「砂の祭典」が、吹上浜の自然のモニタリングと展示機能を備えたら面白い。
こういうアイデアは、やっぱり地味で、集客力はないに決まっている。あるいは、費用対効果が悪すぎる。でもそういう芯のある活動は、どこに出しても恥ずかしくないもので、市民が誇れるものだ。「砂の祭典」のような街ぐるみでやっているイベントは、市民全員が誇れるイベントにならなければならない。
そのためには、「砂の祭典」が立脚しているものがなんなのか、我々は何に価値を感じ、何を次世代に伝えていきたいのか、そういうことを見直さなければならないと思う。
私の書いた7本の記事は、そこまでのスコープは持っていないが、そういう見直しに少しでも役立てば幸いである。
会場に林立する素晴らしい砂像の数々。特に海外からの招待作家さんの砂像は精巧で芸術性も高く、祭典終了後に壊すのが惜しいほどだ。
「砂の祭典」はこの砂像が主役なのは間違いない。それだけでも十分楽しめる。
…そうではあるが、せっかくこのイベントに来るのなら、ちょっと足を伸ばして吹上浜の汀(みぎわ)まで行ってみてほしい。会場から県立吹上浜海浜公園に移動して、公園入り口から徒歩10分くらいで海岸まで行ける。
そこには見渡す限り砂浜が続いていて、海の彼方からは波濤の音が響いている。
「砂の祭典」は、元々、この「吹上浜」を活かそうというイベントだった。30年前、アメリカのサンディエゴで勃興しつつあったサンドアートの噂を聞いて、吹上浜の砂をアメリカに送って見てもらい、「きめが細かくサンドアートに適している」と太鼓判をもらったことからこのイベントが始まった。
始まりは、吹上浜の砂だった。
実際、吹上浜まで行って砂に触れてみると分かる。非常にきめが細かくて、パウダースノーのような美しい砂である。この前子どもたちを連れて行ったら、「アナと雪の女王」ごっこをし始めたくらいだ。この砂を、さらさらと手で弄んでいるだけで心が落ちつく。
手で砂をすくい、指の隙間から、砂時計のように砂がこぼれ落ちるのを感じてみる。全て落ちきって、手をはたくと、汚れも何もない。非常に清浄な、気持ちのよい砂である。
では、なぜここに素晴らしい砂があるのだろう。しかも日本三大砂丘の一つとされるほど、長大で、しかも幅が広い砂浜が広がっているのだろうか。
ポイントは2つあると思う。一つは、鹿児島のシラスの土壌である。脆い細粒の土壌が鹿児島を厚く覆っていて、これは浸食も受けやすいことから雨でどんどん川に流れていく。これが砂丘の原料供給を担っている。
もう一つは、吹上浜にそそぐ万之瀬川(やその他のいくつかの川)である。シラスを浸食してきた川は、大量のシラスの土砂を海に放出する。しかし吹上浜の海岸線は、海流的にそうなのか、地形的にそうなのかはわからないが、どんどん土砂を放出するというよりは、割合にこの土砂が溜まっていきやすいようである。だから、吹上浜のような長大な砂丘ができたのであろう。
つまり、「砂の祭典」の元を辿っていくと、鹿児島の人が昔から苦労し続けているシラス土壌に行き着く。この脆い土壌のお陰で、鹿児島は崖崩れなどの風水害が多いし、シラス台地は農業生産性が低く、長く貧乏な農業に甘んじるしかなかった。
「砂の祭典」の中で、そんな地質の話まで遡るのはちょっとハードルが高いのかもしれない。でも人間の文化を育む風土というものは、地質や気候、そこにある自然が作ってきたものだから、せっかくイベントをするのなら、そういう掘り下げもしていったらいいと思う。
そういう考えで、私は「砂の祭典」の広報部員として、今回「吹上浜と砂文化」という7本の記事を公式ホームページに書いた。
1.吹上浜の松林をつくった宮内一族
2.サンディーくんのモデル! 吹上浜のウミガメ
3.国の天然記念物、ハマボウの群落
4.世界で約3000羽しかいない野鳥クロツラヘラサギがやってくる
5.特産「砂丘らっきょう」
6.話題の野菜「長命草」が沿岸に自生
7.吹上浜には多くのクジラやイルカが来遊
こういう記事、書いている自分がいうのもなんだが、集客には全く役に立たないと思う。広報部員としては、もっと集客に繋がる派手な仕事をした方がよっぽど生産的かもしれない。
でも、ただ賑やかなイベントをしていますよ、というだけではなくて、その背景にどんな自然や歴史があるのか、そうした風土とどう人は付き合ってきたのか、ということがないと、はやりイベント事というのは空疎になる。だって、人を集めたいだけなら人気の芸能人を呼んでくる方がよっぽど効果がある。だがそれが中心になってしまうと、なぜ吹上浜でするのか? という根幹が揺らぐ。
こういう記事を読んで勉強したら、イベントが一層楽しくなる、とは言わない。実際あんまりイベント内容と関係ない。でもイベントの主催者側として、やっぱり「砂の祭典」のルーツは吹上浜で、「我々は吹上浜を大切に思っています」という姿勢が見えなかったら、根幹があやふやなな感じがするのである。
「砂の祭典、何のためにやってるの?」という人は多い。イベントとしては赤字だし、波及効果はあると思うもののはっきりとはわからない。関係者は、GWは働きづめになって(しかもボランティアも多い)、疲弊してしまう。
もちろん地域の活性化に一役買っていることは確かだ。熱意ある人も多い。決して無意味なイベントではない。でもやはり、地域活性化というボンヤリとした目的しか見えないところがある。
だから、私としては、「吹上浜の環境保全」を「砂の祭典」の目的(の一つ)に位置づけたらいいと思う。
例えば、広大な松林は、実はマツクイムシやシロアリの被害で枯れたり植樹したりを繰り返している。だから、「砂の祭典」の時に植樹活動なんかできないか。また、「砂の祭典」の時期はちょうど、ウミガメの産卵シーズンにもあたっている。現在は、ウミガメのモニタリングすら十分ではない。ウミガメが産卵しやすい砂浜を維持するための活動(ゴミ拾いとか)も取り入れられる。万之瀬川河口付近の干潟の環境ももっと改善して、野鳥観察会を祭典に組み合わせられないか。ここが九州でも有数の野鳥スポットになったら面白い。ホエールウォッチングだって組み合わせられるかもしれない。「砂の祭典」が、吹上浜の自然のモニタリングと展示機能を備えたら面白い。
こういうアイデアは、やっぱり地味で、集客力はないに決まっている。あるいは、費用対効果が悪すぎる。でもそういう芯のある活動は、どこに出しても恥ずかしくないもので、市民が誇れるものだ。「砂の祭典」のような街ぐるみでやっているイベントは、市民全員が誇れるイベントにならなければならない。
そのためには、「砂の祭典」が立脚しているものがなんなのか、我々は何に価値を感じ、何を次世代に伝えていきたいのか、そういうことを見直さなければならないと思う。
私の書いた7本の記事は、そこまでのスコープは持っていないが、そういう見直しに少しでも役立てば幸いである。
2017年4月30日日曜日
「砂の祭典」にかける想い——われわれはただ善良な住民であってはならない
たびたび書いてきたように、私は今年の「砂の祭典」の広報部員をしていて、その活動でこのたび「30回記念特別インタビュー」というものが公開されたのでお知らせしたい。
【公式】吹上浜砂の祭典|おかげさまで30回記念
※リンク先半ばくらいにあります。
この「砂の祭典」、一言でいうと「マンネリになっていないか?」というのが最大の課題で、10万人を動員するイベントに成長してはいるものの、「一度行けば十分」みたいな立ち位置にもなってきている。
それで、「例年通りで行きましょう」という雰囲気を壊すため、私は広報部会でもなんやかんやと文句を言ったり提案をしたりしてきた。最初は、「停滞した場で孤軍奮闘しても疲れるだけかも…」という危惧があったが、わざわざ部会に参画してくれた仲間や理解をしてくれたみなさん、受け止めてくれた事務局のおかげで思いの外楽しく充実した活動となり、すごくありがたかった。本当に感謝である。
で、その仲間たちの提案も含めて、今年の「砂の祭典」の広報ではいろいろ新しい取り組みがあるが、今回はその中の一つで私がメインに担当した「インタビュー」の話である。
以前「砂の祭典」についてのブログ記事でこういうことを書いた。
仲間からも同趣旨の提案があったので、「熱い想いインタビュー(企画名)」として「砂の祭典」に熱い想いで関わっている人たちを取り上げることになったのである。
それで、(1)本坊市長(実行委員長)、(2)中村築氏(実行副委員長で砂像製作の縁の下の力持ち的な人)、(3)常潤高校の先生(会場を彩る花の一部を育てている)、(4)六葉煙火(会場で毎夜行われる音楽花火イベントを担当)、(5)鮫島小代子氏(ボランティア・障害者関係)の5名のインタビューを行った。本当はあと3人くらいやりたかったが私の方の力不足もあってここまで…という感じだった。
vol.01 「砂をまちの魅力に」南さつま市長 本坊輝雄(吹上浜砂の祭典実行委員会 会長)
vol.02 「大地と海・松と砂」中村 築 砂の祭典実施推進本部 副本部長(日本砂像連盟所属)
vol.03 「無農薬での花の苗づくり」鹿児島県立加世田常潤高等学校 塩屋先生+福島先生
vol.04 「砂像があって花火が生きる」「六葉煙火」代表取締役社長 古閑潔さん、橘薗光宏さん
vol.05 「"砂"とともに歩んだ人生」(前編)(後編)南さつま市社会福祉協議会
ボランティア連絡会 会長 鮫島小夜子
あ、一応付け加えておくが、このセレクションは、あくまでもご縁に基づくものであって、この方々が「砂の祭典」関係者の中でも特に熱い人、なのかは検証してないのでその点は誤解なきように。砂像製作の人などには、もっともっと熱い人もいると思う。
で、インタビューについては、率直に言って、私自身がすごく面白かった!
やはり、なんでも熱意をもってやっている人の話というのは面白い。それに「砂の祭典」は今年で30回目である。30年もすれば子どもは大人になり、青年は壮年になる。「砂の祭典」はそれぞれの人生に深く関わっていて、このイベントはただ年に一度のお祭りだというだけじゃなく、もはやこの地域の人の人生を左右するほどの存在感があるんだということを再認識させられた。
特に面白かったのはトリに持ってきた鮫島さんのインタビュー。涙なしには語れないほどの話で、予定より1時間半くらい超過して行われたインタビューだった。というわけでvol.05だけでもぜひ読んで欲しい。
そして、このインタビューは、私自身が「砂の祭典」を見直すきっかけにもなった。最初は、確かにマンネリなイベントという印象が強かった。だが、細かく見てみれば、毎年抱負を持って取り組んでいる人がいるし、惰性で続けているだけのイベントではない。運営体制の中に「例年通りで行きましょう」という事なかれ主義が瀰漫しているのは事実としても、関係者の数は膨大だから想いの向かうところもいろいろあって、簡単に変えられるわけではないというのもわかった。そして「砂の祭典」は、外から見えるよりも、面白い場になっていると思った。
でも、だからといって、「砂の祭典はこのままの調子でずっと続けばいいよね」と思っているわけではない。インタビューの中でも、「もっとこうしたらいいのに」という声はたくさんあった。とりわけ「熱い想い」で取り組んでいる人に話を聞いたからこそ、変えていかなければならないという気持ちを新たにしたところである。
鹿児島を代表する民俗学者、下野敏見氏が著書の中で述べている。少し長いが引用する。
「砂の祭典」には、正直、批判的な人も多くいる。毎年、あれだけの予算と労力をかけて意味があるのかとか、そもそも何のためにやっているのか、とか。いや、私自身が、どっちかというとその批判派である。
でも、そういう批判を「批判するだけなら簡単だ」などという言葉で片付けずに、運営側はしっかりと受け止め、地域文化を育む場として成長させていかなければならないと思う。そして批判する側は、ただ言うだけでなく、「よりよい祭りや行事を創造する」力を発揮していかなければならないと思う。「善良な住民」として思考停止するのは論外だが、斜に構えていてもいけない。
今回、私が「どっちかというと批判派」なのに「砂の祭典」の運営に関わったのは、そういう思いである。
…ところで蛇足だが、私の提出した原稿では「「砂の祭典」にかける想い」という企画名だったのに、いざ記事が公開されたら「30回記念特別インタビュー」という事務的なタイトルになっていたので若干残念である。他にも編集方針に言いたいことはあるが、基本的には私の原稿を尊重して掲載してくれた。全部読むと3万字はあると思うので読むのは大変だが、多くの人にぜひ読んでもらいたい。
【公式】吹上浜砂の祭典|おかげさまで30回記念
※リンク先半ばくらいにあります。
この「砂の祭典」、一言でいうと「マンネリになっていないか?」というのが最大の課題で、10万人を動員するイベントに成長してはいるものの、「一度行けば十分」みたいな立ち位置にもなってきている。
それで、「例年通りで行きましょう」という雰囲気を壊すため、私は広報部会でもなんやかんやと文句を言ったり提案をしたりしてきた。最初は、「停滞した場で孤軍奮闘しても疲れるだけかも…」という危惧があったが、わざわざ部会に参画してくれた仲間や理解をしてくれたみなさん、受け止めてくれた事務局のおかげで思いの外楽しく充実した活動となり、すごくありがたかった。本当に感謝である。
で、その仲間たちの提案も含めて、今年の「砂の祭典」の広報ではいろいろ新しい取り組みがあるが、今回はその中の一つで私がメインに担当した「インタビュー」の話である。
以前「砂の祭典」についてのブログ記事でこういうことを書いた。
まずはこのイベントに関わっている人の生き生きとした姿を、どんどん発信していくことから始めたらよい。海外からの招待作家がどんな気持ちで南さつまに来たのか。実行委員会の人たちが何に悩み、何を目指しているのか。ボランティアの人たちの働きぶり。そして実質的な主催者である、南さつま市役所の職員の皆さんの熱い想い! そういうものをSNSとかリーフレットとか、様々な形で伝えていくべきだ。砂像の素晴らしさを訴えるのもよいが、そこに「人」が見えなかったら感動も半減だと思うし、作り手の顔が見えてこそイベントは面白いと私は思うのである。
仲間からも同趣旨の提案があったので、「熱い想いインタビュー(企画名)」として「砂の祭典」に熱い想いで関わっている人たちを取り上げることになったのである。
それで、(1)本坊市長(実行委員長)、(2)中村築氏(実行副委員長で砂像製作の縁の下の力持ち的な人)、(3)常潤高校の先生(会場を彩る花の一部を育てている)、(4)六葉煙火(会場で毎夜行われる音楽花火イベントを担当)、(5)鮫島小代子氏(ボランティア・障害者関係)の5名のインタビューを行った。本当はあと3人くらいやりたかったが私の方の力不足もあってここまで…という感じだった。
vol.01 「砂をまちの魅力に」南さつま市長 本坊輝雄(吹上浜砂の祭典実行委員会 会長)
vol.02 「大地と海・松と砂」中村 築 砂の祭典実施推進本部 副本部長(日本砂像連盟所属)
vol.03 「無農薬での花の苗づくり」鹿児島県立加世田常潤高等学校 塩屋先生+福島先生
vol.04 「砂像があって花火が生きる」「六葉煙火」代表取締役社長 古閑潔さん、橘薗光宏さん
vol.05 「"砂"とともに歩んだ人生」(前編)(後編)南さつま市社会福祉協議会
ボランティア連絡会 会長 鮫島小夜子
あ、一応付け加えておくが、このセレクションは、あくまでもご縁に基づくものであって、この方々が「砂の祭典」関係者の中でも特に熱い人、なのかは検証してないのでその点は誤解なきように。砂像製作の人などには、もっともっと熱い人もいると思う。
で、インタビューについては、率直に言って、私自身がすごく面白かった!
やはり、なんでも熱意をもってやっている人の話というのは面白い。それに「砂の祭典」は今年で30回目である。30年もすれば子どもは大人になり、青年は壮年になる。「砂の祭典」はそれぞれの人生に深く関わっていて、このイベントはただ年に一度のお祭りだというだけじゃなく、もはやこの地域の人の人生を左右するほどの存在感があるんだということを再認識させられた。
特に面白かったのはトリに持ってきた鮫島さんのインタビュー。涙なしには語れないほどの話で、予定より1時間半くらい超過して行われたインタビューだった。というわけでvol.05だけでもぜひ読んで欲しい。
そして、このインタビューは、私自身が「砂の祭典」を見直すきっかけにもなった。最初は、確かにマンネリなイベントという印象が強かった。だが、細かく見てみれば、毎年抱負を持って取り組んでいる人がいるし、惰性で続けているだけのイベントではない。運営体制の中に「例年通りで行きましょう」という事なかれ主義が瀰漫しているのは事実としても、関係者の数は膨大だから想いの向かうところもいろいろあって、簡単に変えられるわけではないというのもわかった。そして「砂の祭典」は、外から見えるよりも、面白い場になっていると思った。
でも、だからといって、「砂の祭典はこのままの調子でずっと続けばいいよね」と思っているわけではない。インタビューの中でも、「もっとこうしたらいいのに」という声はたくさんあった。とりわけ「熱い想い」で取り組んでいる人に話を聞いたからこそ、変えていかなければならないという気持ちを新たにしたところである。
鹿児島を代表する民俗学者、下野敏見氏が著書の中で述べている。少し長いが引用する。
「しかしこの個性豊かな地方文化が現今はご承知のようにばっさりと切られ、あるいは無視されて消滅し去ろうとしている。(中略)かつてのいわゆる善良な民ならいざ知らず、われわれは文化の法則性を知っている上に一つのフェスティバルや一つのイベントに象徴される新文化らしきものを吟味し、批判し、時にはよそと比較して分析し、よりよい祭りや行事を創造することができるのである。それだけの力を地域住民が持っている時代になったのである。したがって、われわれはただ善良な住民であってはならない。その受動性のチャンネルを能動性のものに変えて地域文化の問題に取り組むべきであろう。(強調引用者)」(『東シナ海文化圏の民俗』)
「砂の祭典」には、正直、批判的な人も多くいる。毎年、あれだけの予算と労力をかけて意味があるのかとか、そもそも何のためにやっているのか、とか。いや、私自身が、どっちかというとその批判派である。
でも、そういう批判を「批判するだけなら簡単だ」などという言葉で片付けずに、運営側はしっかりと受け止め、地域文化を育む場として成長させていかなければならないと思う。そして批判する側は、ただ言うだけでなく、「よりよい祭りや行事を創造する」力を発揮していかなければならないと思う。「善良な住民」として思考停止するのは論外だが、斜に構えていてもいけない。
今回、私が「どっちかというと批判派」なのに「砂の祭典」の運営に関わったのは、そういう思いである。
…ところで蛇足だが、私の提出した原稿では「「砂の祭典」にかける想い」という企画名だったのに、いざ記事が公開されたら「30回記念特別インタビュー」という事務的なタイトルになっていたので若干残念である。他にも編集方針に言いたいことはあるが、基本的には私の原稿を尊重して掲載してくれた。全部読むと3万字はあると思うので読むのは大変だが、多くの人にぜひ読んでもらいたい。
2017年4月16日日曜日
たった一人の「エビネ展」
今年も大浦町で、「エビネ展」が開かれた。
みなさんはエビネを知っているだろうか? 若い人は知らないかもしれない。山野に自生するランの一種で、変異がとても大きいことから色や花弁の形に様々なバリエーションがあり、30年〜40年前くらいに日本中で大ブームになったことがある。
色や形の具合から、あたかも焼き物に銘がつけられるように株ごとに絢爛たる銘がつけられて、銘品は非常な高値で取引された。
ここ大浦町でも、エビネと言えば元来は趣味人が好きに育てる野草だったらしいが、ブームが始まった頃、ある人が育てていたエビネが1鉢10万円で売れるということがあり、それに目をつけた人たちが次々にエビネ栽培に乗り出した。そして変わった株を見つけたいと山野に自生するエビネを手当たり次第掘り出してしまったため、山にあるエビネは全部取り尽くしてしまったほどだという。こういうことが大浦町だけでなく、全国的に行われたそうだ。
ブームの当時は、普通のおばちゃんが10万円もするエビネの株を買うものだったらしい。この地域の最高価格の取引では、1株300万円もするものを買った人がいるという話である。その頃は平凡な株でも数十万は当たり前だったというから、とにかく多くの人が争って買い求めたのである。
どうしてそんなエビネバブルが起こったのかというと、人の持っていない珍しい花を咲かせたい、そして自慢したいという趣味人の気持ちがそれを支えていたのは当然として、それを加速させたのが、エビネは球根(※)で株を増やせるという特性だった。
だから、例えば1株を買うのに10万円かかったとしても、それを2株に増やして売れば20万円になる。10株に増やせば100万円にもなるのである。とすれば、仮に少し値下がりしたとしても十分元が取れるわけだ。そんなことから、一種の投機としてエビネが機能し、異常なる高値になったのであった。
しかしこの特性は、値下がりを宿命付けられてもいた。というのは、どんなに珍しい株であっても、それを一度売ってしまったらそこからドンドン増やされて貴重でなくなってしまうということだからだ。10万円の株が10倍に増やされたら、その株は1万円になるのが世の中の道理である。こういうことからブームのまっただ中でも価格の乱高下はあったらしい。そして、ある時値下がりして、それから値上がりすることはなかった。
ちなみにインターネットで調べてみると、ウイルスの蔓延によってダメになる株がたくさんあって栽培を諦めた人が多かった、という事情もあるらしいが、地元で話を聞く限りはそれは主要な要因ではないようだ。
また、山野のエビネが乱獲されたのは珍しいエビネを探し回ったためだが、人工交配と発芽の技術が確立して交配もののエビネが出回るようになると、自然にあるものよりずっと美しい花が咲かせられるようになり、自生品種の価値が下がった。そうなるとプロの園芸業者が一手に供給を押さえてしまうので、山で見つけてきたエビネが何十万円で売れるという一攫千金の夢がなくなってしまって、エビネが普通の人々の射幸心をあおるというこもなくなった。こうしてエビネに投機的側面がなくなって、エビネブームは終わりを告げた。
今でも昔のように趣味人はいるから、一株何十万円というエビネもあるそうだ。だが、昔と違って平凡な株なら二束三文で買えるし、一部の人しか育てていない。大浦町でも、エビネを育てているのは数人になった。
この「エビネ展」を主催しているMさんもその一人である。というより、この「エビネ展」はかつてのエビネブームの置き土産として、Mさんがたった一人で続けているものである。販売するためではなく、育てているたくさんのエビネを見てもらうために。
私はこういう、たった一人になっても続けていくという心意気が好きである。こういう活動は悪く言えば自己満足で、そこから何も産まれないのかもしれないが、世間に迎合して流行りのことをするよりずっといい。
いや、一人になっても自分のやりたいようにさせてくれ、という気持ちこそが、健全な社会や文化を支えているのかもしれない。少なくともエビネを栽培する人が一人もいなくなってしまったら、かつて生みだされた絢爛たるエビネ銘品の数々は雲散霧消してしまう。それは日本の園芸文化にとって大きな損失である。そういう意味では、こういう頑固な活動は、何も産まないどころではなく、社会的にすごく意味があることのような気がする。
大げさに言えば、人類文化を支えているのはこういう人たちかもしれない。
※正確には球根ではなく、偽鱗茎(バルブ)というもの。
みなさんはエビネを知っているだろうか? 若い人は知らないかもしれない。山野に自生するランの一種で、変異がとても大きいことから色や花弁の形に様々なバリエーションがあり、30年〜40年前くらいに日本中で大ブームになったことがある。
色や形の具合から、あたかも焼き物に銘がつけられるように株ごとに絢爛たる銘がつけられて、銘品は非常な高値で取引された。
ここ大浦町でも、エビネと言えば元来は趣味人が好きに育てる野草だったらしいが、ブームが始まった頃、ある人が育てていたエビネが1鉢10万円で売れるということがあり、それに目をつけた人たちが次々にエビネ栽培に乗り出した。そして変わった株を見つけたいと山野に自生するエビネを手当たり次第掘り出してしまったため、山にあるエビネは全部取り尽くしてしまったほどだという。こういうことが大浦町だけでなく、全国的に行われたそうだ。
ブームの当時は、普通のおばちゃんが10万円もするエビネの株を買うものだったらしい。この地域の最高価格の取引では、1株300万円もするものを買った人がいるという話である。その頃は平凡な株でも数十万は当たり前だったというから、とにかく多くの人が争って買い求めたのである。
どうしてそんなエビネバブルが起こったのかというと、人の持っていない珍しい花を咲かせたい、そして自慢したいという趣味人の気持ちがそれを支えていたのは当然として、それを加速させたのが、エビネは球根(※)で株を増やせるという特性だった。
だから、例えば1株を買うのに10万円かかったとしても、それを2株に増やして売れば20万円になる。10株に増やせば100万円にもなるのである。とすれば、仮に少し値下がりしたとしても十分元が取れるわけだ。そんなことから、一種の投機としてエビネが機能し、異常なる高値になったのであった。
しかしこの特性は、値下がりを宿命付けられてもいた。というのは、どんなに珍しい株であっても、それを一度売ってしまったらそこからドンドン増やされて貴重でなくなってしまうということだからだ。10万円の株が10倍に増やされたら、その株は1万円になるのが世の中の道理である。こういうことからブームのまっただ中でも価格の乱高下はあったらしい。そして、ある時値下がりして、それから値上がりすることはなかった。
ちなみにインターネットで調べてみると、ウイルスの蔓延によってダメになる株がたくさんあって栽培を諦めた人が多かった、という事情もあるらしいが、地元で話を聞く限りはそれは主要な要因ではないようだ。
また、山野のエビネが乱獲されたのは珍しいエビネを探し回ったためだが、人工交配と発芽の技術が確立して交配もののエビネが出回るようになると、自然にあるものよりずっと美しい花が咲かせられるようになり、自生品種の価値が下がった。そうなるとプロの園芸業者が一手に供給を押さえてしまうので、山で見つけてきたエビネが何十万円で売れるという一攫千金の夢がなくなってしまって、エビネが普通の人々の射幸心をあおるというこもなくなった。こうしてエビネに投機的側面がなくなって、エビネブームは終わりを告げた。
今でも昔のように趣味人はいるから、一株何十万円というエビネもあるそうだ。だが、昔と違って平凡な株なら二束三文で買えるし、一部の人しか育てていない。大浦町でも、エビネを育てているのは数人になった。
この「エビネ展」を主催しているMさんもその一人である。というより、この「エビネ展」はかつてのエビネブームの置き土産として、Mさんがたった一人で続けているものである。販売するためではなく、育てているたくさんのエビネを見てもらうために。
私はこういう、たった一人になっても続けていくという心意気が好きである。こういう活動は悪く言えば自己満足で、そこから何も産まれないのかもしれないが、世間に迎合して流行りのことをするよりずっといい。
いや、一人になっても自分のやりたいようにさせてくれ、という気持ちこそが、健全な社会や文化を支えているのかもしれない。少なくともエビネを栽培する人が一人もいなくなってしまったら、かつて生みだされた絢爛たるエビネ銘品の数々は雲散霧消してしまう。それは日本の園芸文化にとって大きな損失である。そういう意味では、こういう頑固な活動は、何も産まないどころではなく、社会的にすごく意味があることのような気がする。
大げさに言えば、人類文化を支えているのはこういう人たちかもしれない。
※正確には球根ではなく、偽鱗茎(バルブ)というもの。
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