2026年1月2日金曜日

「南島牌」とヤマト政権の南島政策——秋目の謎(その6)


(「鑑真は秋目に漂着したのか」からの続き)

鑑真一行が秋目を目指したのはなぜなのか。

この謎は文献のみでは解決できない。「秋妻屋(あきめや)浦」という地名が出てくる古代の文献は『唐大和上東征伝』しかないためだ。そこで、秋目から少し視野を広くして、当時の南九州をめぐる状況から推測してみよう。

そのキーとなるのは、鑑真が都についた直後に出された次の指令である(『続日本紀』からの引用。なお、本稿では用字の検討は必要ないので現代語訳のみ掲載する。また年号も適宜省略した)。

<天平勝宝6年(754)2月20日条>大宰府に次の勅命が下った。「天平7年(735)、故・[大宰]大弐の従四位下小野朝臣老(おゆ)が、高橋連牛養(たかはしのむらじ・うしかい)を南島(=薩南諸島)に派遣して、牌(木の標識)を立てさせた。 その標識は年月が経ち、今すでに朽ち壊れているが、従来通り修復すべきである。各標識には、島の名前と船の停泊場所、水のある場所、および本土への行程を記し、遥かに見える島の名前がわかるようにして、漂着した船が帰る方向を知ることができるようにせよ」

この条で述べられている南島に立てられた木の標識を「南島牌」といい、これを立てる規定は後の『延喜式』にも継承された。鑑真到着の直後に「南島牌」の補修が命じられたのは、鑑真一行が島々に赴いた時に「南島牌」が朽ち果てていて、行程がわからず苦労したためであろう。

しかし朽ちていたとはいえ、「南島牌」の存在は黒潮に乗って南島を辿る航路が規定されていたことを示す。そして当然「南島牌」は本土のどこかを目指していたに違いない。それが秋目であるかどうかまでは分からないが、「南島牌」が設置されている以上、この時点で公式の「本土ー南島航路」が確立していたのである。

では、「本土ー南島航路」はなぜ設定されたのか。それは、696年から契丹が中国の河北を侵略して大乱が起き、朝鮮半島の情勢が不安定化していたことが遠因のようだ。この国際情勢の中で、「大宰府ー朝鮮ー唐」という航路の代わりになるものとして「本土ー南島ー唐」の航路が模索されたのである。だが、それは単なる代替航路の設定のみに留まらなかった。

ヤマト政権(※1)の南島にまつわる政策を具体的に見てみよう。まず、契丹侵攻の2年後の698年、武装した文忌寸(ふみのいみき)博士ら8人が南島に国覓(くにまぎ)のために遣わされた(=覓国使(べっこくし))。「国覓」というのは、「国を求める」という意味だが、この時はまだ薩摩国も大隅国も設置されていない(薩摩大隅を含む日向国はあったとされるが未詳)。どうやらヤマト政権は、南島を服属させ「国」とするつもりだったらしい。当時の日本は自らを中華になぞらえていたので、異民族を従えていることが威信のためにも必要だった。

そして翌699年、南島からの献納物が伊勢神宮・諸社に奉納された。これは、政権の目的が単なる航路開拓や国の設置だけでなく、南島の宝物にもあったことを窺わせる。南島には貴重な貝など、本土では手に入らない文物が産出したのである。こういう動向の中、翌700年に覓国使剽劫事件と呼ばれる事件が勃発した。

これは、文忌寸博士に同行した覓国使の刑部(おさかべ)真木らが脅迫(剽劫)された事件である。襲ったのは、「薩末比売(さつまのひめ)、久売(くめ)、波豆(はず)[←以上3人女性名?]、衣評督(えのこほりのかみ)の衣君県(えきみあがた)、助督衣(すけえ)君弖自美(てじみ)、肝衝難波(きもつきのなにわ)が肥人(くまひと)を従えて実行した」と『続日本紀』文武天皇4年6月3日条にある。ここに記載されている人名が他に見えないものであるため詳細は不明だが、薩摩・頴娃(=衣評(えのこほり))・大隅の土豪たちが覓国使を襲って脅迫したのである。特に頴娃の土豪は「衣評督」というれっきとした役人なのに反抗している。

なぜ彼らは覓国使を襲ったのか。おそらく、ヤマト政権が直接南島と交易することで自らの交易ルートが邪魔されることを嫌ったのであろう(※2)。鹿児島の人々は南島と交易することで大きな利益を得ていたからだ。

また、この時期の南九州には反ヤマト政権的な動きがある。702年には薩摩と多褹(種子島)が天皇の命令に逆らったため征討軍が派遣されている。はっきりとしないが、この頃に日向国に鹿児島が包摂されたらしい(※3)。とすれば征討軍の力によって南九州はヤマト政権に服属したわけだ。709年には188人の隼人が入京してそのまま滞在した。これは数百人の隼人が京に6年交替で滞在する「大替隼人」という、近世の参勤交代制度ようなものになった(801年まで続いた)。

だが南九州には、ヤマト政権に従わない人が多かったらしい。『続日本紀』714年3月15日条はそれを如実に示している。曰く「隼人は道理に暗く愚かで憲法に従わない。よって豊前国から200戸を移住させて教導させた」。1戸が7〜8人とすれば、豊前国から1500人もの人が移住させられて隼人の習俗の矯正にあたったことになる。これは誇張されているとしてもただ事ではない。そもそも南九州の人々も以前はヤマト政権に靡く「異民族」として表象されていたのだが(風俗の歌舞の披露などが求められた)、この時期にさらなる異民族である南島人が現れてくるので、今度は隼人の同化政策というものが浮上してくるのだと思われる。

事実、南九州の反抗的な様相とは対照的に、ヤマト政権は南島に接近していく。714年には南島から52人が朝廷に連れてこられ、翌715年には陸奥・出羽蝦夷と南島奄美・夜久・度感・信覚・球美等が来朝し貢納して、彼ら77人に授位されている。また720年には南島人232人に授位され(これは後述の「隼人の反乱」の真っ最中!)、727年にも132人に授位されている。政権は、南島人の歓心を引くため位階を大盤振る舞いしたのである。このように大量授位されたのは南島人と蝦夷だけだ。南島人が位階などもらって喜んだとは思えないが、実際に遠路はるばる朝廷まで来たのだから何らかの実利もあったのだろう。

こういう情勢の中、720年から翌年にかけて南九州では「隼人の反乱」と呼ばれる大乱が起きた。大隅国守の陽侯史麻呂(やこふひとまろ)が殺されてその口火となった。ちなみに、この時に政権から派遣されて鹿児島に来るのが大伴旅人である。この戦乱で、殺害および捕囚された隼人は1400人に及んだ(『続日本紀』721年7月7日条)。この反乱が、南九州における反ヤマト政権の最後の運動であり、その後は安定したと思われる。そしてヤマト政権は、あれだけ執心していた南島からなぜか手を引いたらしく、『続日本紀』は727年の授位の記事を最後に南島については一切沈黙するのである。

そしてその8年後の735年に「南島牌」が立てられた。そのきっかけはおそらく、前年の734年に遣唐使の多治比広成(たじひのひろなり)一行が帰国に際して多褹島(種子島もしくは屋久島)に来着したことである。『続日本紀』には詳細が書いていないが、南島を辿って種子島に来着したのかもしれない。だが多治比広成一行も南島の航路がよくわからなかったために「南島牌」を立てることになったのだろう。ということは、この時点でヤマト政権にとって南島が勢力圏内ではなかったことは明らかである。

以上の状況を整理すると次のようになる。

  • 698年から、ヤマト政権は急に南島を重視し始めた。
  • 700年に鹿児島の土豪の一部はそれに反発し「覓国使剽劫事件」を起こした。
  • ヤマト政権では鹿児島の馴化を図ったが、鹿児島これに反発し720年に反乱が起きた。
  • 同時にヤマト政権は南島人の慰撫に努めたが、727年の授位を最後に南島政策は終わった。
  • 735年に「南島牌」が立てられた。

要するに、この時期の南島政策は、契丹の侵攻による朝鮮半島情勢の不安定化のみならず、南九州(薩摩国・大隅国)との関係悪化に対応したものだったと見なせる。727年の南島人への授位を最後に政権の南島政策が終わったのは、南九州との関係が安定したことで、南九州人を通じて南島との連絡が図れる体制になったためだろう。もしくは、ヤマト政権が南島から手を引くことと引き換えに南九州の人々が矛を収めたのかもしれない。いずれにせよヤマト政権は南島経営を南九州人に委託したのである。

このことを前提として、もう一度「南島牌」について記載した『続日本紀』の記事を見てみよう。 「大宰大弐の従四位下小野朝臣老が、高橋連牛養を南島に派遣して、牌を立てさせた」とあるが、ヤマト政権にとって南島が縁遠くなっていた状況の中で、「南島牌」を立てた「高橋連牛養(たかはしのむらじ・うしかい)」とはいったい何者なのかという疑問が湧いてこないだろうか。

「高橋連牛養」について、「新日本古典文学大系」の注では「他に見えず。高橋連の高橋は万葉にも「石上布留の高橋」(2997)と見える大和国添上郡の地名(現在の奈良県天理市櫟本町付近)による。(後略)」とし、高橋は奈良の地名であるとするがこれは疑わしい。

なにしろ、「高橋連牛養」が奈良の高橋(現天理市)の人だったとすると、「南島牌」の設置はきわめて困難な事業だ。南島の地理はヤマト政権にとって未知だったし、おそらく南島人とは言葉も通じなかった(でなければ「南島牌」など立ずとも現地人に聞けばすむ)。政権の南島政策はすでに放棄されており、南島人との連絡関係もなくなっていたかもしれない。そんな中、南島の島々にどうやって標識を立てるというのか。ちょっと無理な話である。

ここで「南島経営を南九州人に委託した」ことでヤマト政権の南島政策が終わったと考えると、「南島牌」は南九州の人間に立てさせるのが自然だ。『続日本紀』の記事は、南九州の豪族「高橋連牛養」に、大宰府が「南島牌」を立てさせた、と理解するのがよいと思う。南島と交易があった南九州人なら、この仕事はたやすいことだっただろう。

では南九州の豪族の名前として「高橋」はありえるのか。実は、鹿児島には高橋という地名がある。万之瀬川の北側が「高橋」なのだ(近世では高橋村。現南さつま市金峰町高橋)。古代から近世にかけて阿多郡が置かれていた場所の一部である。

そして、幕末に編纂された薩摩藩領の地誌『三国名勝図会』には、この「高橋」について気になる記載がある。第29巻の阿多郡の「金峯山由来記」の項である。

金峯山由来記:夫れ金峯山は百済国沙門日羅聖者来朝し、薩州川邊郡坊之津に着岸す。爾後亦此の地に来たり、錫を此峯に駐て年を更、ここに推古二年、勅宣を奉じ更に和州吉野金剛蔵王を当金嶽に勧請す。時に勅使従三位兼太宰大弐蔵人頭高橋卿也、茲に於いて両国二島を領知す。阿多郡高江崎に住城して数代を経、其の居處を高橋と呼ぶ。今の高橋此なり。今俗に歌う事有り。高橋殿の御代ならば、金子の枡で米を計ると也。其の国政の豊功知るべし。(後略)

前段は、百済から来た日羅(にちら)という沙門が金峯山で修行し大和国から蔵王権現を勧請したという伝説を述べている。後段は、その時の勅使の話になる。彼は従三位の大宰大弐で蔵人頭(天皇の首席秘書官のような立場)の「高橋卿」である。唐突な感じがするが、この人は「両国二島」を領知して、阿多郡の「高江﨑」という所に住み、数代後に「高橋」と改称したという。省略したこの後には、この「高橋殿」のいた阿多郡が大変豊かであったという伝説が述べられている(文中に明示されていないが「高橋卿」の子孫が代々の「高橋殿」なのだろう)。

前段の「日羅伝説」は、南薩にはよくある寺院開基の潤色である。例えば坊津の一乗院も日羅の開基とされる。推古2年の勧請も時代が古すぎ、これは全く事実とはみなせない。よって、後段の「高橋卿」の伝説も眉唾ものではあるが、気になる点がある。まずは、彼が大宰大弐という大宰府の次官(※4)であったとされることである。

そして「高橋卿」は「両国二島」を領知した。この「両国二島」は薩摩国・大隅国と種子島・屋久島を指すと思われる。 つまり「高橋卿」は古代薩摩国・大隅国の国守であった(種子島と屋久島は、当初は多褹国だったが後に大隅国に合併された)。ここで、「両国」だけでなく、わざわざ「二島」と付け加えている点が引っ掛かる。

以上を踏まえると、なんとなく、この「高橋卿」と「高橋連牛養」に共通の性格が認められるように思われる。第1に、二人とも大宰府に深い関係がある古代の人物だ。「高橋卿」は自分自身が大宰大弐で、「高橋連牛養」は大宰大弐から「南島牌」の設置を依頼された。 第2に、二人とも支配者階級に属し、南島との関係を有する。「高橋連牛養」が南九州の人間であったとすると、大宰大弐の小野朝臣老(おゆ)が、彼を知っていたのは、「高橋連牛養」が南九州において高位の人物であったと考えるほかない。そもそも「連(むらじ)」は有力な豪族に与えられる姓(かばね)である。「高橋連牛養」は大宰府と深い関係を持ち、南九州の南島交易を支配していた人物だった可能性が高い。 

もちろん、たった2つの類似だけで2人が同一人物であるというつもりはない。それに『三国名称図会』は近世の編纂ものであるから、古代の伝説に信用はおけず、大宰大弐であった「高橋卿」なる人物が実在したとは到底認められない。だが、「高橋」を名乗る豪族が古代の阿多郡におり、その一族が「高橋殿」と表象されたとするのも無理な空想ではないだろう。その「高橋殿」の先祖に「高橋連牛養」がいると考えると一応筋は通る。とすれば、「高橋連牛養」は古代阿多郡の豪族だったということになる。

ここまで考えると、鑑真一行が到着したのが「阿多郡」の秋妻屋浦なのは無意味なこととは思えない。実は、阿多郡こそが南九州における南島交通の要衝であったことは、考古学的にも明証される。そして中世には全体が島津氏の荘園になってしまう鹿児島(薩摩国・大隅国)において、阿多郡は唯一大宰府領だった場所なのである。

(つづく) 

※1 律令施行前を「ヤマト政権」、施行後を「大和朝廷」などといって区別するが、本稿ではちょうどこの境の時期を扱っているので「ヤマト政権」で統一する。

※2 竹森友子「南島と隼人ー文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景ー」

※3 「薩摩国が設置された」との明確な記載は『続日本紀』にない。702年8月に「遂に戸を校え、吏を置く」とあって戸籍調査が行われて役人が置かれたこと、同年10月に薩摩隼人征討にあたっての祈願の文面に「唱更国司等〈今薩摩国也〉」と〈〉内の後世の付記により「薩摩国」の領域に国司が置かれていることなどから判断される。「薩摩国司」の初出は709年6月条である。

※4 大宰府の長官は「大宰帥(だざいのそち)」だが、これは徐々に名誉職化したので、院政期以降は次官にあたる大宰大弐が事実上の長官となった。「金峯山由来記」では、「高橋卿」は従三位・大宰大弐・蔵人頭という異常に高い官位が設定されており、「高橋卿」の威勢を窺わせる。