2025年12月26日金曜日

鑑真は秋目に漂着したのか――秋目の謎(その5)

2020年から21年にかけて、「秋目の謎」という4本のシリーズ記事を書いた。

【参考】
豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/04/blog-post.html

隠さなければならない繁栄——秋目の謎(その2) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/06/blog-post.html

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4) 
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2021/01/blog-post_10.html

この記事、(その4)で「つづく」となっていて、実は完結していなかった。というのは、秋目最大の謎、鑑真について書く予定だったのだ。というわけで、重い腰を上げて4年越しで続きを書いてみたい。

さて、秋目といえば鑑真が来たところとして知られている。秋目には「鑑真記念館」が建てられ、展示自体はささやかであるが、毎年12月には唐招提寺から高僧(執事)を招いて「鑑真大和上の遺徳を偲ぶ集い」が開催されている。

また鑑真記念館の前には、唐招提寺にある鑑真和上坐像(国宝)を模刻した石像も安置されている(冒頭写真)。この像、現地には説明がなかったと思うが、浜西良太郎さんという香川県で石材業を営む人が寄贈したものである。鑑真が艱難辛苦を乗り越えて日本に来てくれたことに感銘を受けて寄贈されたと聞いている。

近年、市役所が中心になって開催されている冬のウォーキングイベントも「鑑真の道歩き」という。これなどは鑑真とは直接の関係はないながら、鑑真が上陸したことが地域のアイデンティティとして扱われている一例だ。

このように、秋目にとって鑑真が来航したことは大きな誇りである。では、鑑真は秋目を目指して来たのだろうか。それとも鑑真が秋目に来たのは漂着で、たまたまだったのだろうか。これはどちらであるかによって来航の意味が全然違う。しかし、これまでこのことについて詳細に考証した人はいないようである。

例外として、古代隼人の研究者中村明蔵さんは、『鑑真幻影—薩摩坊津・遣唐使船・肥前鹿瀬津』(南方新社)で、鑑真来航にまつわる通説を批判的に検証してその実相を解き明かしているが、その中で「鑑真の秋妻屋浦(=秋目)寄港は、その前後の状況からして当初から意図したものではなく、漂着であったとみられる(p.144)」とされている。

とはいえ、『鑑真幻影』の主な主張は、①坊津は遣唐使が発着する港であったというのは事実ではない、②鑑真が大宰府に行く前に肥前の鹿瀬津に寄港したことが近年史実として扱われ顕彰碑等が建立されているが史料の裏付けはない、という2点であり、秋目への鑑真来港が偶然であったかどうかはこれらの考証の副産物として簡単に書かれているに過ぎない。

他にも、岩波新書の東野治之『鑑真』では「[鑑真一行は]秋妻屋浦(いまの鹿児島県坊津町秋目浦)に漂着しました(p.69)」と断定している。他の鑑真研究本をつぶさに調べたわけではないが、鑑真が秋目に来港したのは漂着であるという理解が一般的だと思われ、地元の人もそう思っている人が多いと思う。なにしろ、秋目のような辺境の地をわざわざ目指してくるわけがないからだ。

しかし、鑑真来航を述べる史料を見てみると、そう簡単には言い切れない。

第1に、国家の正式な記録『続日本紀』では鑑真一行が漂着したとは書いていない。 第2に、鑑真来日を記録した『唐大和上東征伝』でも漂着とは明示されず、秋目に到着してからの旅がとてもスムーズである。

中村明蔵さんが肥前鹿瀬津への鑑真の寄港を「史料の裏付けはない」というのと同様、鑑真の秋目来航を漂着とすることも史料の裏付けはないのである。

というわけで具体的に見てみよう。まずは『続日本紀』の記述は次の通り(※1)。

<天平勝宝6年(754)1月16日条>(前略)入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂(こまろ)来帰す。唐僧鑑真・法進等八人、随ひて帰朝す。

鑑真がやってきた記事は、『続日本紀』ではたったこれだけのアッサリしたものである。「これでは漂着のことが省略されているだけではないか」と思うかもしれない。でもどうやらそうではないらしい。鑑真一行は遣唐使船4隻に分乗して日本に向かったのだが、鑑真が乗っていたのは第2船で、第3船と第4船は漂着したという記事が『続日本紀』に掲載されている。次の通りである。

<天平勝宝6年(754)1月17日条>大宰府奏すらく「入唐副使従四位上吉備朝臣真備が船、去年十二月七日を以て来たりて益久嶋(やくのしま=屋久島)に着きぬ」とまうす。是より後、益久嶋より進み発ちて漂蕩(ただよひ)て紀伊国牟漏埼(むろのさき)に着きぬ。(第3船)

<天平勝宝6年(754)4月18日条>大宰府言(もう)さく「入唐第四船判官正六位上布勢朝臣人主(ひとぬし)等、薩摩国石籬浦(いしがきうら)に来たりて泊(は)つ」ともうす。(第4船) 

この記事では、第3船が漂着したのは明らかである。第4船については「来泊」なので漂着とは書いていないが、目的地への到着ではなかったことは疑い得ない(なお引用は省略するが、遣唐使の正使である藤原清河が乗った第1船はベトナムに漂着し、結局帰国できなかった)。

このように鑑真一行が分乗した4つの船の書き方からは、鑑真の乗った第2船は漂着でなかったと判断できる。しかし疑り深い人は、他の来航の記述と比べてみないとわからないというかもしれない。そこで、『続日本紀』から、事故なく来航した記事と漂流・漂着した記事を探して比べてみた(一番下にある表1と表2を参照(※3))。

まず、文脈から判断して事故なく来航したと見られる記事は17件ある(表1)。うち7件は「来帰」と表現される。「来帰」は、現代の「帰国」と同じ意味らしく、「○○に来帰した」とは言わず単に「来帰す」という。鑑真の場合もこれにあたる。類似の表現として「帰朝」もある。具体的な場所に到着したことを表すのは「到る」「到泊」「着泊」「来着」などである。ただし、これらには必ずしも目的地に着いたのではない場合が含まれていると考えられる。

一方、漂流・漂着の場合だが、こちらの方が記事数が多く26件ある(表2)。問題なく来航した場合は特記されることがない一方で、漂流・漂着は事件なので記事になりがちだからだろう。最も多いのは「○○に漂着す」で10件、「〇〇に着く」が6件、他には「○○に到泊す」、「○○に来泊す」などだ。また、どこかへ着いたのではなく漂流するという表現が「漂蕩」・「船漂」・「漂流」・「風漂」である。

事故なく来航した場合と、漂着した場合で著しく違うのは、漂着の場合は必ず「○○に漂着した」と場所が明示されることである。これは考えてみれば当然だ。問題なく到着した場合は「帰国した」だけで済むが、漂着の場合は「どこそこに着いた」としなければ文意が通じない。

以上を踏まえると、鑑真らの分乗した3隻の記述ぶりは、第2船(鑑真乗船)=「来帰」、第3船=「漂蕩して○○に着く」、第4船=「○○に来泊す」だから、やはり第2船は正常な航路で秋目に到着したと判断してよさそうである。

次に、『唐大和上東征伝』(以下『東征伝』)での記述に移ろう。これは、鑑真の弟子で辛苦の航海をともにした思託(したく)が書いた『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』を元に、淡海三船(おうみの・みふね)が宝亀10年(779)に撰録したものである。これは鑑真没後まもなく作られているから信頼できる史料だ。また、淡海三船は『続日本紀』の該当箇所の執筆にも携わっているので、両書にはある程度共通の用字がなされていると期待できる。

『東征伝』では、鑑真一行が中国から出発した後を次のように述べられている(わかりやすいように日付毎に分かち書きした)。

11月15日 十五日壬子。四舟同じく発す。一の雉あり。第一舟の前を飛ぶ。仍りて矴(いかり)を下ろし留まる。
11月16日 十六日発す。
11月21日 廿一日戊午。第一・第二舟は同じく阿児奈波嶋(あこなは=沖縄)に到る。ここは多禰嶋(=種子島)の南西にあり。第三舟は昨夜すでに同処に泊す。
12月 6日 十二月六日、南風起きる。第一舟は石に著きて動かず。第二舟は多禰に向かい去る。
12月 7or13日 七日(にして)益救嶋(=屋久島)に至る。(※2)
12月18日 十八日、益救嶋を発す。
12月19日 十九日風雨大いに発(おこ)る。四方を知らず。午の時、浪の上に山頂を見る。
12月20日 廿日乙酉、午の時。第二舟は薩摩国阿多郡秋妻屋浦に着く。
12月26日 廿六日辛卯。延慶師、和上を引いて大宰府に入る。

まとめると、「11月15日に4隻は中国を出発し、第1・2・3船は沖縄に着いた。 第2船は種子島に向けて出発したが屋久島に到着。そして屋久島を出発してから風雨に遭ったが12月20日に薩摩国阿多郡秋妻屋(あきめや)浦に到着した」ということだ。なおこの「阿多郡秋妻屋浦」が現在の秋目であることは定説であり、他の候補地は見当たらない。 

この文章から漂流的な要素を探すと、まず「種子島に向けて出発したのに、着いたのは屋久島だった」という部分である。しかしこれは漂流したという感じはしない。遣唐使船は構造上正確な航路を進むことができないから、誤差の範囲だろう。問題はその後だ。屋久島を出発した後に「風雨大いに発(おこ)る」としている。これは暴風雨による漂流を意味しているのだろうか?

しかし『続日本紀』の場合では、漂流した場合は「漂蕩」・「船漂」・「風漂」などと書いていた。それらの単語がないということは、漂流していない可能性が高い。第2船は漂流したのではなく、「四方を知らず」つまり方向が分からなくなっただけと解せる。そして「浪の上に山頂が見えた(=水平線の向こうに山が見えた)」ので、正しい方向がわかり、秋妻屋浦に着くことができた、というのが素直な解釈であろう。

ここまでの記述ぶりからしても、秋目への寄港は漂着ではなかったと判断できるが、その後のスムーズさもそれを裏付ける。秋目からたったの6日で大宰府に到着しているのだ。山影が見えてから秋目に到着するまで丸一日もモタモタしていたのとは大違いである。

ただし、この航海は真冬に行われている。海上には強い北風が吹いていたに違いない。にもかかわらず北上するのだから、航海が難航するのは当然である。そして、そんな中で秋目ー大宰府間が6日間しかかかっていないのは、外洋ではなく沿岸航海だということを考えても異常にスムーズだ。秋目ー大宰府にはちゃんとしたルートが確立していたと考えるのが自然だ。

なお中村明蔵さんは、『鑑真幻影』で秋目ー大宰府の移動が陸路ではありえないことを論証し、秋目(またはその周辺)で機動性の高い船に乗り換えて大宰府に移動したのであろうと推察している。私もその見解に賛成である。

以上のように、『続日本紀』と『東征伝』の記述による限り、鑑真の秋目来航は漂流ではなかったと結論付けられる

ただし、秋目に至る航路が正式な遣唐使船の航路ではなかったこともまた明らかである。遣唐使は十数回派遣されているが、大宰府から朝鮮を通って大陸に渡るのが通常で、帰国の際にもそのルートが使われた。南西諸島を経由して帰国したのは鑑真らのみである。また、『東征伝』で「薩摩国阿多郡秋妻屋浦」という細かい地名が表示されているのも、秋目が正式ルートの港でなかったことを示唆する。実際、『東征伝』でも大宰府到着について「大宰府に入る」とだけあって、どこの港に到着したとは書いていない。正式ルートの場合はディテールを書く必要はないからだ。

このように、秋目は遣唐使船の通る正式ルートではなかったが、鑑真一行の秋目来航は漂流でもなかった。では、なぜ鑑真一行は秋目を目指したのだろうか。これが次なる謎である。

(つづく)

※1 『続日本紀』の引用は、岩波の「新日本古典文学大系」に基づく。引用にあたっては日付の干支は省略した。なお、『続日本紀』は伝統的に特殊な訓読を行う部分があるが、理解の便宜のために平明な訓読に改めた箇所がある。例えば「来帰す」ではなく、本来は「来帰(まうけ)り」と訓ずる。また通用の字体に改めた。鑒真→鑑真など。

※2 沖縄・屋久島間にたった1日しかかかっていないとすると不自然であることから、中村明蔵さんは「七日、益救嶋に至る」ではなく「七日にして益救嶋に至る」と解釈している。その場合、屋久島着が12月13日になる。

※3 以下の表1と表2は、『続日本紀』から、事故なく来航したと思われる記事、漂着・漂流の記事をそれぞれ抜き出したものである。ただし、これは筆写が目視によって抜き出して作成したものであるため、脱漏も多いと思われる。気になる方は本文に当たって確かめてほしい。なお、本記事を4年間も先延ばししたのは、この表の作成を億劫がっていたためだ。

表1 事故なく来航した『続日本紀』の記事
語句 文言 出典条
来帰 遣唐使従四位下多治比真人県守来帰 養老二年(七一八)十月庚辰【二十】
来帰 前年大使従五位上坂合部宿禰大分、亦随而来帰 養老二年(七一八)十二月甲戌【十五】
来帰 遣新羅使正五位下小野朝臣馬養等来帰 養老三年(七一九)二月己巳【十】
来帰 遣渤海使正六位上引田朝臣虫麻呂等来帰 天平二年(七三〇)八月辛亥【廿九】
到渤海界 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
来泊 新羅使船来泊長門国 天平十二年(七四〇)九月乙巳【廿一】
来帰 遣渤海郡使外従五位下大伴宿禰犬養等来帰 天平十二年(七四〇)十月戊午【甲寅朔五】
来帰 入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂来帰 天平勝宝六年(七五四)正月壬子【十六】
来着 来着益久嶋 天平勝宝六年(七五四)正月癸丑【十七】
帰朝 寄乗副使大伴宿禰古麻呂船帰朝 天平宝字七年巻(七六三)五月戊申【癸卯朔六】
遣唐使船到肥前国松浦郡合蚕田浦 宝亀七年(七七六)閏八月庚寅【乙酉朔六】
到肥前国松浦郡橘浦 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
到泊 知遣唐使判官滋野等乗船到泊 宝亀九年(七七八)十月庚子【廿八】
着泊 七月三日着泊揚州海陵県 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
来帰 率遣唐判官海上真人三狩等来帰 宝亀十年(七七九)七月丁丑【十】
到泊 遣唐使第三船到泊肥前国松浦郡橘浦 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
来著 入唐大使従四位上多治比真人広成等来著多禰嶋 天平六年(七三四)十一月丁丑【戊午朔二十】

表2 漂着・漂流の『続日本紀』の記事
語句 文言 出典条
漂着 漂着崑崙国 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
到著 到著出羽国 天平十一年(七三九)十一月辛卯【己丑朔三】
遂着等保知駕嶋色都嶋矣 天平十二年(七四〇)十一月戊子【五】
比着我岸 宝亀八年(七七七)五月庚申【十】
漂蕩 漂蕩海中 天平宝字七年(七六三)八月壬午【十二】
漂流 漂流十余日 天平宝字七年(七六三)十月乙亥【六】
風漂 忽被風漂 宝亀八年(七七七)二月壬寅【二十】
船漂 船漂溺死 宝亀八年(七七七)五月庚申【十】
漂蕩 漂蕩着紀伊国牟漏埼 天平勝宝六年(七五四)正月癸丑【十七】
来泊 来泊薩摩国石籬浦 天平勝宝六年(七五四)四月癸未【十八】
漂著 漂著賊洲 天平宝字元年(七五七)十二月壬子【九】
漂着 漂着対馬 天平宝字三年(七五九)十月辛亥【十八】
漂着 漂着日南 天平宝字七年巻(七六三)五月戊申【癸卯朔六】
平安到国 天平宝字七年(七六三)八月壬午【十二】
着隠岐国 天平宝字七年(七六三)十月乙亥【六】
漂著 漂著能登国 宝亀三年(七七二)九月戊戌【廿一】
漂着 漂着越前国江沼加賀二郡 宝亀九年(七七八)四月丙午【三十】
船著沙上 宝亀九年(七七八)十月乙未【廿三】
来泊 遣唐第四船来泊薩摩国甑嶋郡 宝亀九年(七七八)十一月壬子【十】
到泊 第二船到泊薩摩国出水郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
乗其艫而着甑嶋郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
乗其舳而着肥後国天草郡 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
漂着 以十三日亥時漂着肥後国天草郡西仲嶋 宝亀九年(七七八)十一月乙卯【十三】
漂着 聖朝之使高麗朝臣殿嗣等失路漂着遠夷之境 宝亀十年(七七九)正月丙午【五】
漂著 著唐国南辺驩州 宝亀十年(七七九)二月乙亥【四】
漂着 并種種器物漂着海浜 宝亀十一年(七八〇)三月戊辰【三】